人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集4(13,14,15)

2024年07月13日 17時20分16秒 | 学習

文鮮明先生御言葉選集 4 - 13. 中心を探し求める私たち (1958年5月4日)
1958年5月4日(日)、前本部教会。

聖書拝読:ペテロの手紙第一 1:18-25


<祈祷>

 お父様、私たちが命を持っていると言うならば、その命の原動力が私一人に限定されないように許してください。また、御言葉の力を持っていると言うならば、その御言葉が私たち一個人に留まらないようにお許しください。

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 さらに、その御言葉と命の力が民族を超え、世界を席巻し、天地を動かす力となることを許してくださいますように、お父様、切に願い求めます。

 これまで私たちは安らぎの中でイエス様を迎えようとし、安らぎの中でイエス様を探そうとしましたが、十字架で血を流す姿として現れるイエス様を見ないわけにはいかないことを私たちは知っています。


 今やお父様を求めて出発した私たち、お父様はただ私たちが考えるように栄光のお父様だけではなく、十字架の難所も超えておられるお父様であることを私たちは知りませんでした。今日、栄光の主を待ち望む者は多いが、苦難の主に従って行く真意を持つ者はおりません、お父様、この哀れな人間たちをお許しください。

 もし今日、私たちが栄光の主に出会ったならば、十字架にかかった主を思い、その苦しみを受けた主の体を私たちが担うことができるよう導いてください。

 そうしてゴルゴタの道で民族の前に拒絶され追われた十字架を背負って進んでいたイエス様の守護を受けることができるよう許してください、お父様、切に願い求めます。

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 復活の主に出会って喜ぶことを願っていたが、その復活の主とは関係のない立場に立っていた愚かな使徒たちのような姿にならないよう導いてください。復活の主を迎え、お父様を慰めることができる息子娘とならせてください。またそのような使命を全うしても余りある息子娘とならせてください、お父様、切に願い求めます。


 お父様、今日ここに集まった取るに足らない者たちに、お父様が共にいてください。いま、犠牲の峠を越えなければならない私たちですが、お父様が私たちを見つけるために先に言葉に尽くせない苦労をして来られたことを知る時、私たちはこの道を進まざるを得ないと感じます。


 歴史的なすべての負債を償わなければならない全体的な使命が今日の私たちにあることをお父様が知っているので、私たちに不足があると言うならば、それを取り除き、課された使命を全うできるように許してください。


 この民族のために、あるいは世界のために、あるいは天地のために、まずこの民族をお父様の前に立たせることができるよう許してください、そしてその後でも余りある息子娘とならせてください、お父様、切に願い求めます。


 6千年の歴史過程で残された罪の叫び声を聞いている私たち、今後はアダムとエバの立場を経て新たな善の祖先として進まなければならない立場に立っていることを知っているので、現実のすべてを踏み越え新しい世界を創造する天の勇者として立ててください、愛の父よ、切に願い求めます。


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 これまで私たちを慰めてくれたお父様を見つけました。慰めを求めて見つけましたが、今や慰めてくれるそのお父様に代わる主をむしろお迎えできる私たちとならせてください。また、この使命を全うするために努力した私たちのすべての力と能力が私たちの心にその希望が実現するまで残るように、お父様、導いてください、切に願い求めます。

 今日ここに集まった兄弟たち、皆、お父様の懐に抱かれ父の悲痛な心情を体感できるように許してください。そしてすべてを体感した人の心情を持ちそのお父様を慰めることができる息子娘とならせてください、切にお願い申し上げます。すべての御言葉を愛する主の名によってお祈りいたします。アーメン。


<御言葉>
 今日、皆さんと一緒に考えたい御言葉のタイトルは「そのどこかを探し求める私たち」です。


 今日、皆さんは個人を基盤として社会や世界とつながりを持って生活しています。しかし、自己を振り返ってみると、心があり、体があることがわかります。さらに、心があり体があると同時に、私たちが生きている地面があることもわかります。


 では、これだけで私たちが行くべき道と私たちが探すべき環境が整っているかというと、そうではありません。心はより高い理念を目指して探し求めています。そのような分野が他にもあるのです。そして、体を中心に見ると、心と対立しながらも体もまた何らかの理念を目指して動いていることを皆さんはよく体験していることでしょう。また、自己を超えて見てみると、この地球もまた何か大きな理念を目指して動いていることを皆さんは既によく知っています。

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 では、これですべてが終わりかというと、そうではありません。天があり、地があり、人がいるとすれば、天と地と人は三つのように見えても、一つの理念の範囲内で一つの目標に向かって動いています。この宇宙万象を創造した神様が確かに存在するならば、それらはすべて神様のものです。しかし現在、神様は私とは無関係な位置にあり、自己もまた一体的な理念に対して関連性のある位置にありません。さらには、この地もまた神様の全体的な理念を成し遂げる地にはなっていません。この事実は、今日の社会の現状や世界の動向を見るとよくわかります。

 これらすべては元々一つの目的に向かって一つの統一された行動と方向を取って動かなければならない創造主の理念でした。しかし、そのような目的が成し遂げられなかったために、これが今日の人間が解決すべき問題となっていることを多くの人は考えていません。そのため、今日私たちが日々を生きる中で、自分自身を探す中で、心と体はそれぞれ何かを探し求めていることを感じるでしょう。


 また、今日自分の命を中心に世界を見つめると、この世界もまた何かを探して苦しんでいることを皆さんは自分の生活圏内でよく体験している事実です。では、目に見えるこの地上の人間だけで、すべてが解決できるかというと、そうではありません。人間を創造した神様が存在し、万物を創造した主がいる以上、その主は人間に対しても、あるいは被造物に対しても、何らかの大きな理念を持って動いていることを皆さんは既に知っています。


 では、今日皆さん自身を見るとき、皆さんの前にはどのような条件が残されているでしょうか。神様が探し求めるべき理念の世界、すなわち皆さんの心と体を中心とした理念の世界です。その世界に向かって進まなければならないことを皆さんは認めざるを得ないでしょう。


 今日の自己を振り返ると、私は天を前にし、地を前にしています。しかし、今日皆さんは天の理念によってこの地を対する全体的な摂理に照らして、自分の心が堂々と天に対することができ、統一的な一つの理念に対することができるかどうかを反省しなければなりません。そのような自分だと皆さんは自信を持って答えられないでしょう。


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 神様が存在するならば、神様が望む全体的な理念の統一世界がなければならず、また神様がこれまで摂理してこられたとすれば、この地上に統一的な理念を成し遂げる時がなければならないでしょう。これは必然的な事実です。


 そうだとすれば、天の理念と地の理念が一つになるその目標に対して、皆さん自身はどのような位置にいるのか、皆さん自身はどのような環境に置かれているのか、皆さんが今日対面している命はどこに位置しているのかというのが重要な問題でしょう。しかし、人間の心は自分でも知らないうちに天を頼ろうとし、体は自分でも知らないうちに地を頼ろうとします。そのため、私は一つのように見えても二つの道で苦しんでおり、これは人間の堕落によるものです。


 したがって、今皆さんは心を通して天の望む理念と一つにならなければならず、体を通しては世界が目指す一つの統一の理念と一つになれる資格を持たなければなりません。そこで歴史の過程でそのような事実を紹介してくれる何らかの理念が現れているのです。従って、今の世界の状況を見ると、何かしら統一的な形態に向かって動いており、そのような傾向に従って私の心もまた何かしら世界的な志を抱いて一人の個人として、一人の兄弟として、一人の家族として共に暮らそうとする大きな理念が私の心を通して常に感じられていることを私たちはよく体験しています。


 では、これは現代の私たちが成し遂げられない妄想からくる何らかの観念的な認識に過ぎないのでしょうか? そうではありません。今日の心の傾向は、必ずしも私一人の力では生じ得ないものです。しかし、その何かがわからないうちに、天倫の大きな摂理の意図が私の心と縁を結ぶために動いているのです。それが現代のこの地上の人々の前に及んでいるため、人々は誰しも天倫に引かれて進まざるを得ないのです。


 しかし、人間の良心には個人差があり、その感じる感情も異なります。また、体が望む世界があり、心が望む世界が別にあります。ではこれをどのようにして天の前に近づけることができるのでしょうか?また、何を中心に主従の関係を結ぶべきでしょうか?これが現代の人間として解決すべき重大な問題です。個々の人間がこの問題を解決しない限り、世界にどのような理念が成し遂げられても、どれほどこの地上に天倫の意図が成し遂げられても、その人とは何の関係もありません。


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 この隔たりの戦いは、体が心を中心に、つまり体が心に従う立場で順応しなければ解決できません。また、心と体が一つになることもできません。しかし、一つになったその状態が心だけを中心にするのではなく、心と体が一つになった後には体も中心とすることができるようでなければなりません。このような価値ある心と体を自分の生活圏内に築かなければなりません。もしそうでなければ、今日この地上に摂理の意図と理念が成し遂げられても、皆さんはその摂理の意図と理念とは何の関係もありません。


 今、私たちの前には審判の時が迫っています。この審判の時代を越えるために私たちはどうすべきでしょうか?この理念的な権内において神がいて、この地上に最高の理念があるならば、その神とこの地上の最高の理念と統一された一つの形を私の体と心が体験しなければなりません。そして、私自身が天と地に対して恥ずかしくないように立てる一つの中心を持たなければなりません。もしそうでなければ、皆さんは審判の日を逃れることができません。


 神は今日まで多くの人類の良心を動かしてこられました。しかし、神が目指す方向と良心が目指す方向には明確な違いがありました。神が100の力で動いても、良心がその100の相対的な立場に立つかというとそうではありませんでした。これは人間が生きている時代や習慣、歴史観、あるいは文化的なすべての条件によって、人間の良心が左右され、影響を受けていたことを示しています。


 そのため、程度によって多くの差があります。したがって、私たちが持つ良心も天倫が目指すその理念的な世界と必ずしも一致するわけではありません。良心が目指すその理念的な世界が天倫と同じ方向を取っているように見えても、ここには明確な違いがあります。したがって、皆さんが道の道を求めるときには、自分の良心までも打ち砕いて神の意図の前に屈服させる戦いをしなければならない立場に置かれていることを知るべきです。


 では、神も理念に向かって動いており、今日私たち人間の良心もその理念を求めて進もうとしているのに、この二つが一致して進めない理由があるということです。神が来なさいと言われる通りに私の良心が行きたいと思いながらも行けないのは、人間が越えなければならない恐れの一つの峠が残っているからだということを皆さんは知るべきです。したがって、皆さんがこの恐れの峠を突破し越えることができなければ、皆さんは永遠の理念の天国と縁を結ぶことはできないでしょう。


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 したがって、神と私の心の関係が神の意図の中に立つためには、私の心と体がそのような関係を結ばなければならず、さらに私の心と体が意図の中に立たなければならず、私の心と体を中心にこれからの意図の理念とそのような関係を結ばなければなりません。


 そうして天と皆さんの良心が一つになり、良心と体が一つになり、体と環境が一つになってすべてを一つに統合し、さらにその中心を代表して立たなければなりません。そして天の世界においても、良心の世界においても、体の立場においても、どの面に立っても皆さんが自信を持って立つことができるようにしなければなりません。そうできる皆さんを探さなければならない運命が残っているのです。


 したがって、今日の人間はどこかはわからないが行かなければならない運命に置かれており、何かはわからないがそれを探さなければならない運命に置かれているのです。だから人間の心は天倫に向かって進もうとし、体は自分を中心にして地に向かって進もうとしています。したがって、天は長い歴史過程を経て、多くの人間を犠牲にして地を目指すこの体の志向性を変えて天倫を志向させ、全世界の人類の体を一つの統一世界に導いています。さらに、良心もさまざまな方向に進もうとするのを押し戻して一つの方向、一つの理念世界に向かわせたのです。しかし、これを今日の地上の人々は知りません。


 そこで心を中心にして神の意図とその方向を正しく立てるための戦いが繰り広げられます。それは見えない世界で良心を中心とした一つの理念を探すためのサタンと神との戦いであり、見える実体世界ではカイン派とアベル派の争いです。このような内外の戦いを経て歴史は進んできました。


 では、神が知・情・意を持つ人格的な方であり、またすべての感覚を持つ方であることは間違いありません。神は必ず統一された何らかの創造理念を持っていることでしょう。そしてその理念は天のためであり、今日の地上のすべての人類と万物のためでもあるのです。


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 これは必然的な事実となることができないならば、神の創造理念は私たちとは無関係だということです。神はこの全体的な理念に対して、神ご自身が喜ぶことができると同時に、すべての被造物も喜ばざるを得ないように創られたのです。


 しかし、堕落した人間となったために、今日の人類にはそのような理念の世界がまだ確立されておらず、体が志向するその根本的な理念の世界もまだ確立されていません。だからこそ神は、今日の人類を内的には良心に近い道へ、外的には別の主義を見つけて立て、世界的な終末時代へと追い込んでいます。つまり、今日の皆さんは自分の心が志向する何か、すなわち心を通じて追い出されているそれが、どこかに向かっていると考えるとき、私を通じてこの世界の人類がある理念的な世界に進まざるを得ないようになっているのです。


 では、今日そのような立場にある皆さん自身は、非常に小さな存在であるように見えますが、決して小さな存在ではありません。新しい宇宙史を創造するのに欠かせない貴重な存在であるということです。まずは私の心がそうであり、私の体がそうであり、私が住んでいる周囲の環境がそうであるということです。


 だからこそ神は、人間の内的な良心を通じて神の意図を実現するために、今まで孤独な道を切り開いてこられました。つまり、人間の良心のある一つの基点を通じて摂理の意図を成し遂げようとしてきたのです。しかし、人間はその良心の基点を失ってしまいました。


 しかし、神には良心の基点を失った人間のために道を定め、その基点を取り戻すための意図があったため、今まで多くの先知先烈を通じて自身が苦痛を感じながらも、人間をその良心の基点に結びつけようと努力してこられました。その努力は見えない無限の世界で行われているため、人間の本性の心情は無意識のうちにそれに向かって動いています。


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 終わりの日が近づくにつれて、心の基準を完全に確立していない人は、どんなに良い条件を多く備えていても心が安らかではありません。方向を変えなければならない立場に置かれている今日の現実世界であることを皆さんは知るべきです。だからこそ神は、自分を中心としたすべての権限と志向する理念を断ち切るように言われました。


 では、なぜ神はこのような矛盾した条件を人間に提示されたのでしょうか?その原因は、まず一つの基準を見つけて確立しなければならないのが人間の心だったため、心と体が一度に位置を確立することができなかったからです。だからこそ神は、これまでそのような方向を取ってきたことを皆さんは知るべきです。そして、これを通じて歴史を経て心を頼りにした理念の世界が現れなければならないのですが、その心を頼りにした理念は、全世界全人類が動かなければならない理念です。したがって、その理念の中心が確立されるまでには捨てるという歴史過程を経ることになりますが、これがある過程を経ると捨ててきたその歴史を再び取り戻す歴史として変わっていくのです。


 だからこそ、キリスト教は初めに苦難の道を歩み始めました。すべてから嘲笑され追い詰められるところから始まりましたが、あるものをすべて捨てて出ていくうちに民族を形成し、それが今日の国家を形成し、さらには世界的な形態を持つ時が来ました。つまり、今日神はある一つの中心を通じてその意図を立てることができる時が来たということです。したがって、今日私たちは世界に散らばった物質を再び取り戻す基準を確立しなければならないでしょう。だからこそ、今日すべての国家は世界的な理念を通じた同盟国の時代を経て、連合国の形態を経た後、これが3つのブロックを経て一つの統一的な理念の世界に入らなければならないということです。


 しかし、神は終わりの日において自分の心は頼るが、世のすべての外的条件は捨てるように言われました。なぜ捨てるように言われたのかというと、それを完全に私たちのもの、私たちの所有にするためでした。いつまでも捨てるのではありません。過去に私たちの先祖が捨てたものを、終わりの日にあるこの地の人間たちが復帰しなければならないからです。先祖たちが捨てたこの地とこの地の万物までも見つけて立てなければならない摂理の意図がまだ残っているため、神は今まで苦労してこられたことを皆さんは知るべきです。


 だからこそ、今この時は一つの主義を中心に民主主義国家の形態を構成しており、さらにこの主義が世界的な潮流として現れる時が来ています。したがって、この主義を中心に世界的規模の物質文明と制度が結びつき、一つの統一的な形態を持ち始めています。このように外的なすべての条件が統一的な形態を持ち始めているのと同じように、この世界を探し求めなければならない私たち自身もこの摂理の流れに合わせて心と体の統一を自分自身の中で成し遂げていく必要があるのです。


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 そのような時が必ず来るため、皆さんの心と体の中で戦いが起こるのです。心は天に向かって進みたいと思っているのに、体は世の中に向かって逸脱した方向に進んでいるのです。心は理念を楽しみながら進もうとしているのに、体はそれから逃れようとしています。


 この戦いにおいて、皆さんは永遠を基準にして勝利していかなければなりません。そうなって初めて失われた神が皆さんの神となり、失われた皆さんの心と体を勝利の一身として、または神が望む心と体として見つけることができるのです。それだけでなく、皆さん自身の立場から一つの創造の世界を建設できることを理解しなければなりません。


 では、天が望む理念と、私たちの良心と体が望む理念と、霊界が望む理念がそれぞれの方向を取らず、一つの目標と一つの方向、一つの結果に向かって進む時がいつ来るのか?これが私たちが探し求める最終目標なのです。


 今日、この目標に向かうために私たち自身を再び考えてみると、私はどこから来て、どこから出発し、どこに向かい、どこまで行かなければならないのか?これが私たちが必ず解決しなければならない問題です。


 神の理念はどこから出発し、どこに向かい、どこまで行くのか?また、今日の私の心もどこからどこまで行くのか?私の体も同様で、この地も同様です。では、このように原因と結果がわからない立場で、その歴史的な問題を何をもって原因であり結果とするのか?原因と結果は一つなのです。私の体と心が帰結する一つの基準を確立するその一日を持たなければ、私の体と心を通じて世界に通じる時が来なければなりません。天は人間を通じてこの世界とすべての天地運勢が和動し、回転するその一日が来ることを望んでいます。

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 では、今日そのような意図に皆さん自身を立ててみると、皆さんの心と体は神の意図と世界の理念の前に批判されざるを得ない立場にあります。しかし、天はその理念から結果に連なるすべての歴史的条件を解決しなければならない責任があり、人間はその意図を成し遂げなければならない責任があるので、宗教を立ててきたのです。


 したがって今日の皆さんは、自分が生活するすべての形態が真理から外れることがない状態でなければ、世界の理念と自分の理念が一つになれないことを理解しなければなりません。では、天が私が存在する前から存在し、地も私が存在する前から存在していたことをどうやって知ることができるのか?また、私が存在する前の歴史的なすべての事実をどうやって知るのか?今日の人間はこれを知らないことにしてしまっています。


 では、これを知らない立場でどうやって私たちは完全に天と地を代替し、神の本質的な理念の前に立つことができるのか? 立つことはできません。今日の私の位置を明らかにするためには、宇宙的な原因と歴史的な原因を知らなければならないのです。これは必然的な事実です。これを考えるとき、それを探して自我回復運動を提唱する世界的な運動の時が来なければならないのです。つまり、何らかの主義や理念を中心に始まるのではなく、自分の位置を提案し、自我回復運動を引き起こすことができる一つの主義が現れなければなりません。しかし、その原因を知らない立場に立つと、その原因の結果が成し遂げられても、皆さんはそれを扱うことができないでしょう。


 では、今日そのような生涯を歩まなければならない私たちは何をすべきでしょうか?私たちは自分を回復する運動に参加できる自分であるか?今日の私の命は偶然の存在として、突発的な存在として生まれたのではありません。私の一個体は宇宙的な必然性、あるいは世界的な必然性、未来的な必然性を紹介するために生まれたことを理解しなければなりません。


 一つの国の民もその国の歴史を代替できる伝統の前に立たなければならず、その時代の前に一つの法的条件に従わなければなりません。今や世界的な未来の全体理念の前に新しい何かを残さなければなりません。これが私たちが生きている現実です。そうであるならば、今日宇宙的な世界理念を探していくことも同じです。したがって、私たちは自分を回復するための非常に小さなことから取り組む必要があります。


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 それだけでなく、今日私たちの前には、先に述べた世界的な問題が置かれているので、まず自分の問題を解決することが重要です。また、自分を解決すると同時に、今や結果的な世界が目の前にあるので、それと自分自身が関係を結ばなければなりません。したがって、どのようにしても解決できる一つの基点、つまり天と地と人間の心と通じる理念を見つけて確立しなければなりません。そして、それが一つの目的を指し示す刺激的な衝撃として残るとき、人間は過去の歴史的な悲しみと時代的な悲しみを忘れ、環境的な恐怖を乗り越えて、手を上げて天と地とすべての万象の前で誇ることができる人になるということを理解しなければなりません。


 宇宙を創造した神の理念の根本を解決するために努力している人々を導こうとした世界が、道の世界でした。しかし、これまで多くの道人がその原因を追及しましたが、まだ解明された中心をこの地上の人間の前に示すことができずに歴史は流れてきました。


 このように、これまでその根本問題を解決できずに流れてきた歴史、人類の先祖たちが持っていたその歴史が、今日皆さんが受け継いだ歴史です。したがって、今日この問題を解決しないと、これまでの人間の怨念の歴史が後代まで悲しみの歴史として残ることになります。それだけでなく、今後神がこの問題を解決することもできないのです。


 では、今日の私という存在は何なのでしょうか?私一個人は、世界理念と神が望む理念の世界を阻む存在なのです。だからこそ、私たちは未来に向かう歩みを進める前に、過去に戻り、過去のどのような条件が天倫の前に衝突を引き起こし、天の理念と矛盾したどのような歴史過程を経てきたのかを考えなければなりません。


 過去の歴史過程の悲しい条件を前にして、天の前に償いの条件を立てるために苦しみながら戦っている信者は、この地上に何人いるでしょうか? 自分の過去を忘れて未来の理念を求める人は多くいます。積み重なったすべての悪の根源を探し、それを解決するために今まで真の道を求めてさまよう人が多いのです。しかし、真理の頂点に立ち、それ以上の原因的条件を追求する歴史的な人物はまだ出てきていません。


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 未来の世界を紹介する理念が変わらない限り、未来の世界に対する人々の考えも変わることはありません。今流れている世界の終末に対する恐怖を逃れることはできず、混乱した世界の潮流を避けることはできないことを皆さんは知っておかなければなりません。


 未来の新しい理念にのみ耽る人々は、完全な理想主義者にはなれません。なぜなら、この世界の終末の一段階を越えなければ理想世界は成し遂げられないからです。審判の日とは、すべてが停止する日です。しかし、これまで人間は自分が持ってきた主義や思想や理念をもってすべてを通過させてきました。


 では、その通過の条件を解決するための最良の方法は何でしょうか?人間と神と天倫がこの地上の被造物とその原因的な衝突を解消する条件がなければ、倒れるしかありません。どんな主義、どんな思想もすべて消え去り、未来を語る潮流も一時的に消え去ってしまうのです。だから、それらがすべて消え去らないようにするためには、原因と結果を統一できる条件を見つけて確立しなければなりません。そうして、私一個体からその根本原因と結果を統一できなければなりません。そのときに初めて、私自身が6000年の歴史を代表する証拠としての実体的な供え物となるのです。


 では、今日私たちはどうすべきでしょうか?今日の現実世界を一掃できるように、つまりすべてを否定できるようにならなければなりません。言い換えれば、これまで欲しかったすべての欲望までもすべて一掃できる自分、すべてを統合して行動できる自分自身になっているかどうかが問題です。したがって、私たちの起源は未来にあるのではありません。未来には審判の門を通過しなければなりません。私たちが自分自身を復帰させることができるのは、神と人間、被造物に絡むすべての曲折の原因を解決することにあります。


 だからこそ、皆さんは心の声を聞くことができる耳を持つ人間にならなければなりません。皆さんが祈るときに「神様、この地上に慈悲の意を成し遂げてください。神様、世界の人々が平和を享受できるようにしてください」と祈っても、皆さんに平和な心がなければ、どんなに祈ってもその祈りは成就しません。


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 さらに、皆さんは聖書を深く掘り下げ、アダムとエバの堕落の原因を解明するだけでなく、万物を創造した神の内的な心情まで解明できる境地に達しなければなりません。2千年前のイエス様、6千年前の神の心情と同伴できる立体的な関係を持つことができるとき、皆さん自身は今日の現実にいながら、2千年前のイエスの心情と6千年前の神の心情を体感できるのです。


 歴史は6千年を経てきましたが、今日の皆さんはそのような心情を持たなければなりません。そのとき、神とアダムとエバの曲折の心情を探り、その心情を知った後に神を「父」と呼べるその権内に入ることができるでしょう。そのとき、その6千年の歴史は今日の私の歴史になるのです。そのような境地は、自分が引き込まれたのか6千年の歴史が引き下ろされたのか分からないほどの一体感のある場所です。この境地から今日の現実的な問題を解決する手がかりを見つけることができるのです。これがまさに霊的な体験を通じて知ることができる世界なのです。


 霊的な世界を体験するということは、4次元の世界を通るということです。また、そのような時に、何千年も前に来て去った先知先烈たちとも今日の私と縁を結び、対話もでき、相談もできるということです。つまり、今日の実際の生活の時間範囲内で私が経験でき、また肌で感じることができるのです。


 今日の世界の人々は仏教や儒教、あるいはキリスト教などの各宗教を信じています。しかし、信じている各宗教に満足してはなりません。宗教を信じさせた動機の主人公、またはその動機の主人公として現れた真理の言葉だけを信じてはならないのです。その言葉を踏み台にしてその内的な心情を知るべきです。つまり、現象の中に隠されている内的な心情が何であるかを解剖しなければならないのです。聖書の言葉をただ絶対的な救いの基準として立ててはいけません。今日これが問題です。それだけでは神の根本的な問題が解決されないのです。したがって、神はこれを突き破って進むことができる勇士を探しているのです。


 したがって、今日私たちはどんな保守的な思想に支配されるべきでもなく、どんな道主に支配されるべきでもありません。それを突き破り、どのような道主を立てた神と直接的に対話をしなければなりません。そうして自身の矛盾した問題を解決し、神の内的な心情の基準を確立しなければなりません。そのような基準を確立して進むことができる群れはないかと、神は今も探しているのです。もしそのような群れがあるならば、神は彼らを無視することはないでしょう。


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 世界のすべてをすべてさらけ出し再評価する時が来ました。どんな神学書、仏教経典、どんな経典もすべて列挙し再分析し、そこに実際の体験を通じて解決できる一つの基準、つまりイエス様の内的な心情や神の内的な心情が何であるかを見つけなければなりません。摂理がこうなった曲折の原因を解明できる信仰の勇者が出てくることを神は望んでいたことを皆さんは知っておかなければなりません。


 そしてこれが解決されて初めて、この原理を中心にして全体的な原理の解決点を見つけることができるのであり、終わりの日にこれが再び第二の原理として立てられ、第二の理念として認められるのです。これを実証するために、今皆さんはどうしても行かねばならない死線を越えなければなりません。この道を進むためには、世の中のどんなに親しい友人もどんなに親しい親もすべて後ろに置いて進まなければなりません。したがって、皆さんは誰とも一緒に進むことができない孤独な場所に立ち、無限の恐怖が迫る場所に向かって絶えず走らなければならない過程にいることを知っておかなければなりません。


 皆さんが無限に走るこの歴史の過程において、一つの中心を掴むことができなければ、ある時期にこの宇宙の見えない世界に追放されてしまうでしょう。そのような時期が必ず来るのです。それを指して宗教で使われる用語を借りて言うならば「地獄に行く」と言うのです。では、2千年前に来られたイエス様が、あれほど自信に満ちて勇ましかったイエス様がなぜ未来と現実を誇ることができなかったのでしょうか? 完全な原理的な解決点、歴史的な解決点を見つけられなかったため、現実と未来を誇ることができませんでした。


 しかし、今や私たちキリスト教徒は、悲痛な心情を持って現実を誇ることができるイエス様を現さなければなりません。そして未来を誇ることができるイエス様を現さなければなりません。しかし、未来を誇ることができるイエス様を迎える時が来るべきですが、なぜ来ないのでしょうか?歴史的な曲折の条件がイエス様をそのようにしたのです。イエス様が戦った目標は、歴史の過程を清算するための戦いであり、この現実だけを解決するための戦いではありませんでした。そして現在のキリスト教の戦いは、未来だけのための戦いではなく、歴史的な条件を解決するための戦いの中に留まっています。これが今日の現実のキリスト教の立場です。


 イエス様は30余年の生涯の苦労の道を通して、先知先烈たちが壊したすべての歴史的な条件を別の道として開拓しなければならない方向を取りました。しかし、その別の道を取ろうとしたときに誤解が生じました。その別の道をこの地上に作り出すことができなかったため、霊界で再びその別の道を探し、現実的な形の世界に繋げようとしているのです。


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 したがって、イエス様は霊界に行かれ、現実と未来の理念を探し、今日の地のための曲折の内容を再び第二次の道を通じて摂理してきた歴史が2千年続いてきました。イエス様はこの地上では拒絶されましたが、霊界では歓迎されました。しかし、イエス様がそのように霊界で歓迎される、つまりただ歴史的なイエス様として歓迎されるだけのイエス様ではなりません。


 では、時代的で未来的なイエス様はいつこの地上に来るのでしょうか?その方が今日私たちが探している再臨主であることを皆さんは知らなければなりません。未来のイエス様を探すためには必ず歴史的な過程をまず探さなければなりません。また、歴史的な原因を通してイエス様が霊界で歓迎された第二の環境時代を通じて現実的な過程まで体感しなければなりません。そうして今日イエス様が望んだ希望の一日を迎えて、その時に誇りたい現実と誇りたい未来の心情を代わりにすることができる自分にならなければならず、そうするためには今日自分の位置を見つけることができる自分にならなければなりません。








文鮮明先生御言葉選集 4 - 14. 野外礼拝で (1958年5月11日)
1958年5月11日(日)昼、三清公園。
マタイの福音書17:1-18


 イエス様はこの地上に来られ、人々には分からない天の心情を抱きしめ、イスラエル民族と霊界の霊人たちを代表して悲しみに満ちていました。当時、メシアを迎える準備をした人は多かったものの、来られたメシアを受け入れる人はいませんでした。

 また、その時のユダヤ教団とユダヤ民族が望んでいた希望は大きかったものの、その希望を成就するために来られたイエス様とは遠く離れており、神とも遠く離れていたため、イエス様はこれを解消するために非常に悲しい生活を送らざるを得ませんでした。それだけでなく、自分の心を開いて相談できる同志や弟子たちを一人も見つけることができませんでした。

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 そのため、誰にも知られずにゲッセマネの園やオリーブ山や変貌山のようなひと気のない場所を探し回られたのです。これを考えると、私たちは悲しまずにはいられません。また、イエス様がそのような山に登り、イスラエルの国とイスラエル民族を見つめて感じた悲しみと心配を共感する人にならなければなりません。

 イエス様が弟子たちと共に変貌山に登られたのは栄光を見るためではなく、十字架を前にして最後の話し合いをするためでした。そこで近々十字架にかかることについてモーセとエリヤと相談されたのです。この時、愛する弟子たちは、選ばれたイスラエル民族がイエスの心情を理解していないのを見て、神が限りなく悲しい場にいらっしゃることを知るべきでした。

 皆さんは、煌びやかな栄光に浸るよりも、切ないイエス様の心情を感じ取ることができる人にならなければなりません。今日、私たちが享受しているこの環境も、天がこの環境を作るために数千年の間、苦労してきたからです。この事実を忘れてはいけません。

 今日、この時代的な環境の中で喜び、満足する人は、天と遠く離れた人です。皆さんは、与えられた良い環境を楽しむよりも、その喜ばしい環境が現れるまでには神の心配と苦労の心情が計り知れないほど大きかったことをまず知らなければなりません。使徒として真に注目すべきことは、変貌山で起こった事実そのものではなく、宇宙的な決定の岐路に立たざるを得なかったイエス様の切ない心情です。私たちは外的な環境で喜んでいた弟子たちのようにならず、イエス様の心情と神の心情を慰めることができる真の息子娘にならなければなりません。

 私たちは民族的な範囲で天の先鋒としてサタンと戦わなければならない天の精鋭です。したがって、イエス様がゲッセマネの園で持っていたその決意と覚悟を私たちも持たなければなりません。

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 イエス様の内的心情を三人の弟子は知らなかったが、エリヤとモーセは知っていました。イエス様が十字架にかかることを決意された時、天から「これは私の息子。」(ルカ9:35)という声が聞こえ、天がイエス様に十字架の道を示した時、イエス様は恐れ多い心情で頭を下げられました。

 変貌山で三人の弟子がイエスの心情と天の内的心情を感じていたならば、ゴルゴダの道を一人で行かせることはなかったでしょう。私たちは変貌山のペテロやヨハネ、ヤコブのような後継者になってはいけません。私たちはイエス様の心情と事情と生活を継承する後継者にならなければなりません。今日、私たちは変貌山でイエス様が持っていた決意を再び持つべき時が来ました。

 私たちは生活の中で喜びや困難に直面する時に自分を表しやすいですが、イエス様は喜びや悲しみを自分中心に表しませんでした。イエス様は困難がある時、その困難を天に転じることなく、自分で責任を持って生きられ、歴代の先祖たちもまた同様でした。また、イエスは天の前で恥じ入る心を感じ、自分は神の息子でありながら自分自身が死の道を行くことよりも天をより心配されました。このようなイエス様とは正反対に、自分中心に栄光を求める人は困難に直面する時、天と分離されることを知っておかなければなりません。

 変貌山でのイエスは喜んでいませんでした。この変貌山での出来事と場面は、神や人間の誰もが知ることのない厳粛な場面でした。今日、皆さんはこの事実を自分を中心にして考えてはいけません。

 変貌山での三人の弟子たちは、輝くイエスの姿を見て「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。私たちは仮小屋を三つ建てましょう。一つは主のために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」(ルカ9:33)と言って、そこで永遠に留まろうとしました。このように三人の弟子たちは目に見える環境を楽しもうとしましたが、イエスの心情はそうではありませんでした。

    38

 その時に現れた変貌山の環境は良い環境でしたが、その環境に対するイエスの心情は歴史的な内なる悲しみと未来の悲しみに満ちた心情でした。しかし、三人の弟子たちはイエスがこのような悲しみの心情に浸っていたことに気づきませんでした。

 皆さんは過去の歴史的な悲しみに浸る背後関係を越え、最終的にはイエスを橋渡しとして神をつかみ、決着をつける位置まで進まなければなりません。また、悲しむこの民族の背後には、民族を代表して隠れた祭壇を築き、誠を尽くしている者たちがいることを知るべきです。

 教団を代表して涙を流す人は、祭司のような職分を持っているのです。ヤコブが21年間、誰にも知られず祈ったのも、神の摂理がアブラハムから三代にわたってつながっていることを知っていたからでした。彼はそのために民族のための蕩減の道を黙々と歩みました。モーセもまた、民族のためにファラオの宮殿での40年の生活とミディアンの荒野での40年間の祈りの生活を送りました。

 今日、民族のために悲しみの祈りを捧げる教団と涙を流す人がいるならば、彼らにはすでに祭司の職分が与えられているのです。しかし、天が皆さんに切迫した心情で天の前に決着をつける祈りをしたことがあるかと問う時、皆さんはどのような答えをすることができるでしょうか。今からでもそのような決意を持ち、終わりの時代を責任持って果たす力強い人材となるべきです。

 皆さんがいる場所がそのような環境でないとしても、その環境の中で実践しなければなりません。地域地域を責任持った変貌山のイエスのような聖徒たちが多く出てくる時、キリストの恨みが晴らされるでしょう。今日、私たちは昔の三人の弟子たちよりも多くのことを知り、イエスの心情と神の悲しい心情を晴らして差し上げることができる真の子供となるべきです。

    39

 その時代と今は時代的には遠く離れていますが、イエスの心情と直接的なつながりを持ち、慰めて差し上げることのできる後継者となることで、悲しみのイエスの心情を晴らして差し上げることができます。そのような人がいれば、変貌山の栄光をその人に引き継がれるでしょう。

 サタンに対する天の精鋭として立ち、民族と教団と種族を代表するペテロとヤコブとヨハネのような人々で構成された民族国家となる時、神の一つの意志が実現されるのです。

 今日、私たちのこの集まりは偶然の集まりではありません。イエス様と預言者たちが歴史の過程で努力してきた功労の祭壇の上に現れた私たちであることを知り、心を持つならば、イエス様以上の心と三人の弟子たち以上の心を持つべきです。そのような人々を天は求めています。

 私たちは追い詰められ追われることがあっても、自分個人の救いよりも民族と世界を目指す戦士となるべきです。今日、私たちが集まったこの場所を三人の弟子たちと霊界の霊人たちが見ているかもしれません。神を中心として歴史的で宇宙的な決意を持つ人がいるならば、その人に天と地の意志が引き継がれ、その人を通してその意志が実現されるでしょう。イエス様は天の前に変わることのない中心基準を立てたので、天もイエスを見捨てることができませんでした。

 今日、私たちは計り知れないほど貴重な存在です。そのため、私たち一人一人が誤ると、後世に永遠に恨みの痕跡が残ることになります。だからこそ、歴史と未来の永遠の時間にわたって変わらない中心基準を持つ資格者でなければなりません。イエス様が抱いた志を受け継ぎ、歴史、時代、そして未来の証人となるべきです。

    40

 また、イエス様が勝利の縁を結び出たことを、どの時代、どの環境でも証明する皆さんでなければなりません。

 皆さんの手と体と足は、民族と世界を代表して動いたことがありますか? 荒野をさまようイスラエル民族のような世界のキリスト教徒を見つめながら、私たちは2千年前のイエス様の心情を再び感じなければなりません。そして、天が内外の両面を見ているため、より悲しんでいることを理解すべきです。悲しみや逆境が問題ではなく、現実と未来を結びつけることのできる人間でなければなりません。生死の決断を下さなければならない時に逃げてしまうような弟子になってはいけません。もし皆さんに変貌山での勧告があるなら、それを命の導火線として無限の世界の意志を生活の中で実現しなければなりません。今日、私たちは命を責任を負う歴史的な先駆者でなければならないのです。

 変貌山でのイエス様の心情がここに現れたなら、革命の炎が起こっていたでしょう。つまり、天の心情を生活の中で確立したかどうかが問題なのです。今、私たちは具体的な内容を持って祈るべきです。天の無限の心情、悲しみ、無限の苦しみ、そしてその希望を感じる時、皆さんは歴史、時代、未来の計画と縁を結ぶことができるでしょう。

 イエス様が十字架を勇敢に越えることができたのは、神の悲しみと痛みの心を理解していたからであり、それゆえに民族と全人類、さらにはサタンのためにも祝福を祈ることができたのです。数千年もの間、無数の人々が神の心情を求めてさまよいましたが、それを理解したのはイエス様一人だけでした。神は歴史、時代、未来の理念を放棄することができないのです。それゆえに、私たちは今日、歴史的なすべての罪を蕩減しなければなりません。

 今日、私たちがこのような神の隠された内的心情を知るならば、一ヶ月、あるいは一年中泣き続けても涙は止まらないでしょう。私たちはそのように天の心情を体感しなければなりません。

    41

 私たちが民族の前で決戦をしなければならない時が来ました。実際にそうする人は民族を代表して祝福を受けるでしょう。皆さんはこのように使命が大きいことを理解すべきです。

 皆さんが無限の世界と縁を結ぶ時、イエス様と神様は皆さんに働いてくださるでしょう。この被造物も私たちの手を経なければならないのです。ですから、万物を創造し喜ばれた神がアダムとエバに与えた祝福を皆さんが実現しなければなりません。このような心を持ち、変貌山で苦悩されたイエスの友、ゴルゴタで苦難を受けられたイエスの友となるべきです。








文鮮明先生御言葉選集 4 - 15. 変貌山のイエスと三人の弟子たち (1958年5月11日)
変貌山のイエスと三人の弟子たち
1958年5月11日(日)三清公園


マタイの福音書17:1-18


 イエス様はこの地上に来られ、人々には分からない天の心情を抱きしめ、イスラエル民族と霊界の霊人たちを代表して悲しみに満ちていました。当時、メシアを迎える準備をした人は多かったものの、来られたメシアを受け入れる人はいませんでした。

 また、その時のユダヤ教団とユダヤ民族が望んでいた希望は大きかったものの、その希望を成就するために来られたイエス様とは遠く離れており、神とも遠く離れていたため、イエス様はこれを解消するために非常に悲しい生活を送らざるを得ませんでした。それだけでなく、自分の心を開いて相談できる同志や弟子たちを一人も見つけることができませんでした。

    42


 そのため、誰にも知られずにゲッセマネの園やオリーブ山や変貌山のようなひと気のない場所を探し回られたのです。これを考えると、私たちは悲しまずにはいられません。また、イエス様がそのような山に登り、イスラエルの国とイスラエル民族を見つめて感じた悲しみと心配を共感する人にならなければなりません。


 イエス様が弟子たちと共に変貌山に登られたのは、栄光を見るためではなく、十字架を前にして最後の話し合いをするためでした。そこで近々十字架にかかることについてモーセとエリヤと相談されたのです。この時、愛する弟子たちは、選ばれたイスラエル民族がイエスの心情を理解していないことを見て、神が限りなく悲しい場にいらっしゃることを知るべきでした。


 皆さんは、煌びやかな栄光に浸るよりも、切ないイエス様の心情を感じ取ることができる人にならなければなりません。今日、私たちが享受しているこの環境も、天がこの環境を作るために数千年の間、苦労してきたからです。この事実を忘れてはいけません。


 今日、この時代的な環境の中で喜び、満足する人は、天と遠く離れた人です。皆さんは、与えられた良い環境を楽しむよりも、その喜ばしい環境が現れるまでには神の心配と苦労の心情が計り知れないほど大きかったことをまず知らなければなりません。使徒として真に注目すべきことは、変貌山で起こった事実そのものではなく、宇宙的な決定の岐路に立たざるを得なかったイエス様の切ない心情です。私たちは外的な環境で喜んでいた弟子たちのようにならず、イエス様の心情と神の心情を慰めることができる真の息子娘にならなければなりません。

 私たちは民族的な範囲で天の先鋒としてサタンと戦わなければならない天の精鋭です。したがって、イエス様がゲッセマネの園で持っていたその決意と覚悟を私たちも持たなければなりません。

    43

 イエス様の内的心情を三人の弟子は知らなかったが、エリヤとモーセは知っていました。イエス様が十字架にかかることを決意された時、天から「これは私の息子。」(ルカ9:35)という声が聞こえ、天がイエス様に十字架の道を示した時、イエス様は恐れ多い心情で頭を下げられました。

 変貌山で三人の弟子がイエスの心情と天の内的心情を感じていたならば、ゴルゴタの道を一人で行かせることはなかったでしょう。私たちは変貌山のペテロやヨハネ、ヤコブのような後継者になってはいけません。私たちはイエス様の心情と事情と生活を継承する後継者にならなければなりません。今日、私たちは変貌山でイエス様が持っていた決意を再び持つべき時が来ました。

 私たちは生活の中で喜びや困難に直面する時に自分を表しやすいですが、イエス様は喜びや悲しみを自分中心に表しませんでした。イエス様は困難がある時、その困難を天に転じることなく、自分で責任を持って生きられ、歴代の先祖たちもまた同様でした。また、イエス様は天の前で恥じ入る心を感じ、自分は神の息子でありながら自分自身が死の道を行くことよりも天をより心配されました。このようなイエス様とは正反対に、自分中心に栄光を求める人は困難に直面する時、天と分離されることを知っておかなければなりません。

 イエス様は変貌山で喜んでいませんでした。この変貌山での出来事と場面は、神または人間の誰もが知らない厳粛な場面でした。今日、皆さんはこの事実を自分を中心にして考えてはいけません。

 変貌山の三人の弟子たちは、輝くイエス様の姿を見て、「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。私たちは仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」(ルカ9:33)と言って、そこに永遠に留まろうとしました。このように三人の弟子たちは、見える環境を楽しもうとしましたが、イエス様の心情はそうではありませんでした。

    44

 その時の変貌山の環境は良い環境でしたが、その環境に対するイエス様の心情は、歴史的な内なる悲しみと未来の悲しみに満ちた心情でした。しかし、三人の弟子たちはイエス様がこのような悲しみの心情に浸っていたことに気づきませんでした。

 皆さんは、過去の歴史的な悲しみに浸る背後関係を越えて、最終的にはイエス様を橋渡しとして神をつかみ、決着をつける位置まで進まなければなりません。また、悲しむこの民族の背後には、民族を代表して隠れた祭壇を築き、誠を尽くしている者たちがいることを知るべきです。

 教団を代表して涙を流す人は、祭司のような職分を持っているのです。ヤコブが21年間、誰にも知られず祈ったのも、神の摂理がアブラハムから三代にわたってつながっていることを知っていたからでした。彼はそのために民族のための蕩減の道を黙々と歩みました。モーセもまた、民族のためにファラオの宮殿での40年の生活とミディアンの荒野での40年間の祈りの生活を送りました。

 今日、民族のために悲しみの祈りを捧げる教団と涙を流す人がいるならば、彼らにはすでに祭司の職分が与えられているのです。しかし、天が皆さんに切迫した心情で天の前に決着をつける祈りをしたことがあるかと問う時、皆さんはどのような答えをすることができるでしょうか。今からでもそのような決意を持ち、終わりの時代を責任を持って果たす力強い人材となるべきです。

 皆さんがいる場所がそのような環境でないとしても、その環境の中で実践しなければなりません。地域地域を責任持った変貌山のイエス様のような聖徒たちが多く出てくる時、キリストの恨みが晴らされるでしょう。今日、私たちは昔の三人の弟子たちよりも多くのことを知り、イエス様の心情と神の悲しい心情を晴らして差し上げることができる真の子供となるべきです。

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 その時代と今は時代的には遠く離れていますが、イエス様の心情と直接的なつながりを持ち、慰めて差し上げることができる皆さんが、悲しみのイエス様の心情を晴らして差し上げることができます。そのような人がいれば、変貌山の栄光をその人に引き継がれるでしょう。

 サタンに対する天の精鋭として立ち、民族と教団と種族を代表するペテロとヤコブとヨハネのような人々で構成された民族国家となる時、神の一つの意志が実現されるのです。

 今日、私たちのこの集まりは偶然の集まりではありません。イエス様と預言者たちが歴史の過程で努力してきた功労の祭壇の上に現れた私たちであることを知り、心を持つならば、イエス様以上の心と三人の弟子たち以上の心を持つべきです。そのような人々を天は求めています。

 私たちは追い詰められ追われることがあっても、自分個人の救いよりも民族と世界を目指す戦士となるべきです。今日、私たちが集まったこの場所を三人の弟子たちと霊界の霊人たちが見ているかもしれません。神を中心として歴史的で宇宙的な決意を持つ人がいるならば、その人に天と地の意志が引き継がれ、その人を通してその意志が実現されるでしょう。イエス様は天の前に変わることのない中心基準を立てたので、天もイエス様を見捨てることができませんでした。


 今日、私たち一人一人は計り知れないほど貴重な存在です。そのため、私たち一人が誤ると、後世に永遠に恨みの痕跡が残ることになります。だからこそ、歴史と未来の永遠の時間にわたって変わらない中心基準を持つ資格者でなければなりません。イエス様が抱いた志を受け継ぎ、歴史、時代、そして未来の証人となるべきです。また、イエス様が勝利の縁を結んで出てきたことを、どの時代、どの環境でも証明する皆さんでなければなりません。

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 皆さんの手と体と足は、民族と世界を代表して動いたことがありますか?荒野をさまようイスラエル民族のような世界のキリスト教徒を見つめながら、私たちは2千年前のイエス様の心情を再び感じなければなりません。そして、天は内外の両面を見ているため、より悲しんでいることを理解すべきです。悲しみや逆境が問題ではなく、現実と未来を結びつけることのできる人間でなければなりません。生死の決断を下さなければならない時に逃げてしまうような弟子になってはいけません。もし皆さんに変貌山での勧告があるなら、それを命の導火線として無限の世界の意志を生活の中で実現しなければなりません。今日、私たちは命を責任を負う歴史的な先駆者でなければならないのです。

 変貌山でのイエス様の心情がここに現れたなら、革命の炎が起こっていたでしょう。つまり、天の心情を生活の中で確立したかどうかが問題なのです。今、私たちは具体的な内容を持って祈るべきです。天の無限の心情、悲しみ、無限の苦しみ、そしてその希望を感じる時、皆さんは歴史、時代、未来の計画と縁を結ぶことができるでしょう。

 イエス様が十字架を勇敢に越えることができたのは、神の悲しみと痛みの心を理解していたからであり、それゆえに民族と全人類、さらにはサタンのためにも祝福を祈ることができたのです。数千年もの間、無数の人々が神の心情を求めてさまよいましたが、それを理解したのはイエス様一人だけでした。神は歴史、時代、未来の理念を放棄することができないのです。それゆえに、私たちは今日、歴史的なすべての罪を蕩減しなければなりません。

 今日、私たちがこのような神の隠された内的心情を知るならば、一ヶ月、あるいは一年中泣き続けても涙は止まらないでしょう。私たちはそのように天の心情を体感しなければなりません。

 私たちが民族の前で決戦をしなければならない時が来ました。実際にそうする人は民族を代表して祝福を受けるでしょう。皆さんはこのように使命が大きいことを理解すべきです。

 皆さんが無限の世界と縁を結ぶ時、イエス様と神は皆さんに働いてくださるでしょう。この被造物も私たちの手を経なければなりません。ですから、万物を創造し喜ばれた神がアダムとエバに与えた祝福を皆さんが実現しなければなりません。このような心を持ち、変貌山で苦悩されたイエス様の友、ゴルゴタで苦難を受けられたイエス様の友となるべきです。


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御言葉選集4(11,12)

2024年07月13日 17時15分50秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 4 - 11. 神様が望む真の息子になろう (1958年4月20日)
神様が望む真の息子になろう
1958年4月20日(日)、前本部教会


聖書拝読:ローマ書 5:12-21


     1


 今日、この時間に『神様が望む真の息子になろう』という題で、皆さんに少しお話ししたいと思います。


 皆さんが真を求めようとする時には、真を求める心が必要であることを感じなければならず、天と地が喜ぶことのできる真理を求めたいならば、皆さんの体が自ら真の体になるための真の相対基準を備えなければならないことを理解しなければなりません。


 このようなことを考えると、真なる神様、真なる真理、真なる人間はそれぞれ存在方式が異なりますが、内的基準においては同じ方向に動いているのです。つまり、神様と真理は同じ方向に永遠に存在するということです。


 今日、私たちが生きているこの地を見て、誰もがこの世界が真の世界ではないことを嘆いています。また、自分自身を振り返り、真の自分ではないことを嘆き、信仰の道を歩みながらも真の神様を求めても見つけられないことを嘆いています。これが信仰者の苦痛であることを皆さんはよく知っているでしょう。


 では、神様はどのようなお方であり、真の真理はどのようなものであり、真の人間になるためにはどうすればよいのか、それを示す思想、皆さんが求める思想はいつ現れるのでしょうか?それを確実に知ることができないまま、迷宮に陥っている皆さんは何を求めるべきでしょうか?皆さんはまず、自分を中心に何を主張する前に、それが自分の真の個体を代替できるかどうかを見極めるべきです。そして、自分自身が真の立場に立っているかどうかを確認しなければなりません。さらに、天地万物を創造された神様の前で真の姿で立てるかどうかを見極めなければならないのです。


     2


 このようなことを考えると、今日、私たちは真の世界に住みたいと願っても真の世界に入ることができず、真の人間になりたいと願っても真の人間になれず、真の神様を求めたいと願っても真の神様を見つけることができないという状態にあります。これが今日の人間の悲しみであり、何よりも大きな人間の悲哀であることを皆さんは感じなければなりません。もしこのような重要な事実を感じることができないならば、皆さんは真の人間、真の真理、真の神様と結びつくことができません。


 今日、この世が堕落した世界であることは誰もがよく知っています。俗な世界であり、罪悪の世界であることをよく知っています。だからこそ、人間はこの罪悪の世界を切り裂き、永遠に楽しめる善の世界、永遠に和合できる一つの真の人間、永遠に信じることができる一つの主人公を求めて今日まで苦しんでいます。この世の終わりが近づくほど、新しい世界を探しに行かなければならない時が近づいていることを忘れてはなりません。


 では、このような立場にある自分自身を考えると、一方では悪が支配しようとし、他方では善が支配しようとしていることを感じます。しかし、私たちはまだ悪の支配権から抜け出せていないと感じる一方で、善が私たちを導こうとしていることを、良心が清くなるほど鋭敏に感じるようになります。


 そのため、悪の支配下にある自分を蹴り出し、善の理念で自分を支配しようとする世界を求める時には、誰もがこの苦難の過程を通過しなければならないのです。聖書の本文を見ても、堕落したアダムによって今日の全人類は罪の血統を受け継いだ堕落の子孫となりました。2000年前もそうであり、4000年前もそうであり、6000年前もそうであったのです。創世記以降、アダムとエバが堕落した以降、今日、この地上に生きているすべての人間はサタンが主権を持っている環境下に生きています。自分自身だけでなく、家庭も同様であり、社会も国家も世界もすべてその状態にあることを理解しなければなりません。


 では、今日、このような悪の主導的な権限がどこまで及んでいるかと言うと、創造の神がいらっしゃるなら、その創造の神の膝元まで、また天の御座があるなら、その天の御座までサタンは自分の権限を表そうとしていることを皆さんは悟らなければなりません。


     3


 罪悪の事件が起こったその日から今日に至るまで、神も悪に対する苦痛を感じていると同時に、人間も悪に対する苦痛を感じています。もし我々人間に対する神の真の摂理の意図があるならば、その摂理の意図は何を目指して進んでいるのでしょうか?神が悪を裁くことのできる一日、人間自身も悪を裁くことのできる一日に向かって進んでいることを皆さんは悟らなければなりません。


 では、今日、数十億の人類がこのように罪悪の主権下で苦しむことになった原因はどこにあるのでしょうか?それは、神の愛の権限から神の永遠の理念を受け継ぎ、全ての子孫にこれを遺産として残さなければならなかったアダムが失敗したことにあります。そのため、元々の神の意図とは反対の世界となり、今日まで人類は死の歴史を紡ぎ出してきたことを皆さんは忘れてはなりません。


 死の歴史がこの地上に始まったその日から、この地は平和の地ではなく、苦痛の地となり、死がこの地上に腐敗し始めたその日から、人々が置かれる場所はどこも平和ではなく、争いの歴史を歩んできたのです。個人においては個人的な争いがあり、家庭においては家庭的な争いがあり、そしてこの争いが民族的な争い、さらには世界的な争いへと広がり、世界のどこにも争いのない場所がない歴史を紡いできたことを皆さんは知るべきです。


 このような争いの歴史の過程で、最初に追いやられ、裂かれ、犠牲となったのは誰だったのでしょうか?地上に生きる人々の中で、悪を追う者たちではなく、真を求める者たちだったのです。


 これを皆さんは原理を通じてよく知っています。では、私たちが生きているこの地の歴史を考える時、この地に満ちている悪に対する憤りと敵意が皆さんの体に感じられる時があるでしょうか?しかし、この地を踏む時、この地が悪の血で染まった地ではなく、善の血で染まった地だと考える時がありますか?そのような時はあまりないのです。


     4


 天を中心に戦う歴史の過程で捧げられるべき犠牲者は、本来悪に属する人々であるべきですが、最初に犠牲となったのは、善を求める苦しい集団だったことを歴史を通じて皆さんはよく知っているでしょう。


 一人のアダムの罪により人間はどうなったのでしょうか?人間は1600年後のノアの時代に下された天の洪水審判を免れることができず、神は洪水審判を行いましたが、ノアの家族が完全に罪の根を絶つことができなかったため、神の悲しみは完全に断ち切られることができなかったのです。


 そのため、神は洪水審判の後にアブラハムを召し、またヤコブを召しました。これらの人々もまた、この地上で不幸な犠牲者の道を歩ませたのです。さらに、モーセもまた犠牲の生涯を歩み、イエスもまたこの地上で犠牲の生涯を歩んだのです。


 そのため、善の世界を憧れ、善の世界を実現しようとした人々、つまり個人であれば個人、家庭であれば家庭、または社会であれば社会、国家であれば国家が、まず犠牲の道を歩んだのです。今、アベルとカインを中心としたアダム家庭の争いが今日、世界的な規模で現れる時が来ました。それゆえ、これから起こる世界的な善と悪の争いにおいて、善のための犠牲者となる人々は誰かと言うと、真を求める人々なのです。


 今日、このような世界に身を置きながら、世の中のことをすべて忘れ、人間たちのために誰よりも涙の祭壇を多く築き、天の心情を見習って生きようとした人々が歴史の過程でこのように虐待され、戦ってきたことを、今日心の深くで考える時がないならば、皆さんは摂理の意図を持ち続けてきた神の善なる意図と結びつくことはできません。


     5


 これまで悪は外的に現れる権限を持って世界を支配してきました。しかし、人に心があるように、世界の歴史にも心があります。歴史の方向が悪に向かって進んでいるように見えるかもしれませんが、そうではありません。人間が自分の心を中心に体を抑制し、新たな覚悟と決意を持って進む方向を選ぶように、歴史も歴史そのものが志向するのではなく、ある時期、ある世紀に歴史の背後にいる神が関与し、支配してきた過程を経ていることを知るべきです。


 では、これを一つの時代を中心に考えると、ある時代に神の意図が現れ、天の意図と地の意図が出会う時には、天と地を代表する一人の主人公が現れました。そして、どの歴史の過程においても、神の摂理の意図と結びつけることができる時が来ると、その主人公によって時代的な革命が起こり、それが世界的な革命段階を経て宇宙的な革命段階へと歴史が発展していくのです。


 今日、堕落したこの人類の歴史を振り返ると、悪が地を支配してきたことがわかります。創世記の言葉のように、天地万物を六日間で創造しましたが、未だにその創造された万物は安息の日を見つけていません。したがって、その安息の日は今もなおすべての人々の前に願望として残されています。神の安息の日として残されるべき安息の日、この安息の日を人間が持つことができなかったため、今までこの被造世界、すなわち全実体世界は安息の日を見つけるための戦いの歴史の過程を経てきたのです。


 そのため、六日間の創造の理念を破壊した人間が、6000年の歴史の中で苦しみに耐え、天の実体的な善の歴史を憧れるこの歴史が神の摂理の歴史なのです。この六の数はサタンに奪われましたが、ある部分は神が関与できる条件が残っているため、たとえある時代が腐敗し、すべてが腐っていったとしても、時代を経ながらそれをある時に打ち破り、新たな摂理の歴史を提起する革命を起こしてきたのです。では、このような摂理の意図を受けて善を志向してきた人々はどうなったのでしょうか?彼らは必ず犠牲となってきたことを皆さんは知るべきです。


 神はアダムとエバを創造した後、「天地万物の主人公となり、神に代わって万物を支配せよ」と祝福されました。今日の人間世界にはそのような天的な祝福の理念が付与されていますが、この理念を実体として成し遂げた人はまだ一人もいません。それで今までの歴史の過程は、この宇宙を支配できる支配的で主体的な理念を求めてきたのです。このような歴史を、天は古代から中世を経て現代に至るまで、時代ごとに摂理してきたのです。


     6


 天が人間にこのような摂理の意図を責任として担わせる時には、中心人物を立てます。その人がその時代全体を支配し、天の理念の中に結びつけるためにある人を立ててきたのです。言い換えれば、神はこの地を対象として、時代と世紀、または歴史の過程を通じて何を求めているのでしょうか?時代を代表する人、全世界を代表する一人の人、世紀を代表する一人の人を神は求めてきたのです。さらに、天と地に代わって主張できる一人の天の人を探しているのです。


 今日、全人類が終わりの日に直面しているとすれば、その終わりの日とはどのような時でしょうか?歴史的な神の摂理から見ると、時代性を代弁し、世界と宇宙の摂理を代弁し、未来の世界と天宙的な摂理を目指して人間の理念が動き出す時なのです。


 では、今日、悪の支配の影に置かれている私たちに対して天が要求することがあるとすれば、それは何でしょうか?それは皆さん一人一人に尋ねることです。終わりの日に直面する皆さん一人一人が、歴史の過程やある時代の代表者の立場を取ることができるか、または世界的な何かの使命を代行して天の前に現れることができるか、さらには今日、この世界を代表する真の一人の人として現れることができるか、さらに霊界と肉界を合わせた天と地の前で贖罪者としての資格を持つことができるかということです。そのような人がいるなら、神はその人を探し出すでしょう。


 今日、私たちがこの時代を終わりの日だと言っています。キリスト教の理念を通じて見ると、審判の日、すなわち終末が私たちの目の前に迫っています。では、その終末とは何でしょうか?それは、世界的な終末期において、そのすべての使命を背負い、天に向かって叫び進んでいく一人の人が、個人から世界の人類、さらには天と地までを一つにするその日が審判の日であることを皆さんは知るべきです。


 今日、私たちが生きている罪悪の世界で、すべての人々が楽しむことのできる理念を切り開いていく時、神は働きます。では、神に創造された私たちがどのようにして神の心に残ることができるのでしょうか?私の心と体が一つとなり、神の前に自分を主張でき、アダムに与えられた祝福を完成した人、すなわち第二のアダムとして神の前に調和することができる人として現れなければなりません。もし、そのような皆さんになれないならば、皆さんは神と心情的な関係を結ぶことはできません。


     7


 神様はこの終わりの日に世界を代表し、神の法を持ち、堕落の侵略を受けず、罪悪の歴史と無関係な真の一人の人を探しています。最終的にこの世界が求めているものは何でしょうか?人間が期待するものは何でしょうか?それは神の真の子供になることです。つまり、私たちが天の愛を持つ真の人間になることが私たちの願いですが、真の人間になるためにはどうすれば良いのかという問題を私たちは考えなければならないのです。


 では、人間がこの地に生まれる時の目的、生きる目的、成し遂げるべき目的は何だったのでしょうか。しかし、人間は何をすべきであり、何のために生きるべきなのかを知らずにいるので、もし神がいるなら、その神は憤慨しているでしょう。神はどの時代、どの瞬間も休むことなく、天と地を代表できる一人の人を探し、待ち望んでいます。しかし、それを知らない人間たちは、自分たちの罪の大きさを感じることもなく、それさえも忘れています。


 それでもなお、厚かましく天に向き合っている人間たちを見て、一度に裁きたいと思う神に代わり、一つの種となるその一人が現れなかったため、神の摂理の歴史はこのように遅延してきたことを皆さんは知るべきです。


 神は歴史の過程で多くの人を犠牲にしてきましたが、それを条件として真の一人の人を探し出そうとしてきたのです。それにもかかわらず、人間は厚かましく天に向き合っているのです。神は自ら創造した人間を愛することができませんでした。そこで復帰の摂理を進める中で、神は自らの計画を必ず成し遂げようとされました。神は、一つの善から繁殖すべきものが悪から繁殖したため、それを逆に戻す歴史を進め、一つの善の起点を作り、一つの結実点に結びつける摂理を進めてきたのです。


 では、神の悲しみは何でしょうか?全ての天地万物を創造したその創造の理念を代わり、その理念を所有するだけでなく、その理念の主導的な権限を持って神の前に立つことのできる真の人間がいないことが悲しみなのです。霊的な祈りをする人は、終わりの日に神が失われた善の主人公を立てることを望んでいるという声を聞くでしょう。


     8


 これまでの歴史の過程には完全な善はありませんでした。道徳的な生活や信仰生活において善を自称して行動した人はいましたが、完全な善とは関係がありませんでした。ただ今日までの歴史の過程では、悪が悪と戦っているように見えましたが、そこには見えない内的な戦いもありました。今日の道徳的な生活や信仰生活は、永遠の勝利を保証する善を紹介する生活ではなく、悪に対して善を犠牲にした、つまり償いの生活です。


 イエス様は地上で30余年の苦難の道を通して、その内的な理念を確立しましたが、生活の側面においては完全な善を成し遂げることはできませんでした。サタンの世界にあって、悪と対立し、償いの犠牲として善を紹介したのです。それにもかかわらず、今日まで真の人間が現れていないため、イエス様は悪と対立して戦うために今も楽園で祈っておられます。ですから、皆さんは自分が何をしたかを誇らないでください。皆さんが行った善は、悪を償うための条件にはなりますが、永遠の善の世界の基盤にはなり得ないのです。世界でどんな権限や地位を持っていても、それを誇ることはできません。


 イエス様も天の皇太子であり、万宇宙の主人公であり、万王の王として来られましたが、自分を誇りませんでした。悪との戦いが終わるまでは、自分を誇ることはできませんでした。イエス様が自分を誇らずに耐えたのは、ある日、天の法度を完全に確立するためであったことを皆さんは理解すべきです。


 イエス様は悪が支配する世界に置かれていましたが、善を中心とした理念の世界が将来現れることを知っていました。だからこそ、イエス様は善の世界がこの悪の世界の深い場所にある捨てられた群れの中にあることを知り、「貧しい者に福音が伝えられる」(マタイ11:5)と語られました。貧しい者は良心的な立場にあるため、天が悲しんでいることを誰よりも感じやすいのです。したがって、キリスト教が血の祭壇を経て、捨てられた歴史の過程を歩んできたのは、終わりの日のためであったことを皆さんは知るべきです。


 神やイエスが人間や教団に命令したことはないため、自分の主義や主張を誇る人、または教団を支えて自分のもののように誇る人は必ず打ち破られます。今まで十字架を通じて築かれたキリスト教を神やイエスが完全に支配したことはありません。だからこそ、神は多くの苦難の道を切り開きながら、全ての人間を完全に支配できるその一日を待ち望んで努力してきました。


     9


 そのため、その過程で自分を主張する人は必ず打ち破られます。天倫とは順序の原理原則を指します。神が天地万物を創造したなら、まず神が天地万物を支配し、その後に人間が支配するのです。その順序を無視して人間が先に支配することはできないのです。


 では、打ち破られる運命にあるならば、戦いの過程を経て目的地を見つけた後に私たちはどうすべきでしょうか?第2の善の理念を創造しなければなりません。このようなことが今日再び必要とされています。今日の人間はこれを理解する必要があります。しかし、それを知らずに、それを暗黙のうちに期待しながら信仰しているのです。その意図が成就する日がまさに信仰的な復活の日であり、あるいは世界的な再臨の日であるのです。


 今日まで神が失われたものを探し求めてきたのは、人間を支配する能力がないからではありません。今日までサタンの訴えを受けながら戦ってきたのも、神が力を持たないからではありません。原理原則を確立するためでした。神はサタンを前に立て、サタンが成し遂げたことを整理する歴史を進めてきました。サタンが最初に支配したものを整理することは、サタンが訴えることができないということです。したがって、最も賢明な人はサタンさえも立てて使い走りにできる人です。今日、そのような人がいれば、その人は最終的な勝利者となるでしょう。


 イエス様は世界を支配する指導者として来られましたが、一番下の立場に立ち、全ての人を前に立たせようとされました。一見すると落伍者のようでしたが、実際には無限の知恵を持つ方でした。サタンが最初に行ったことを修正してきたのです。サタンを前に立て、最前線で戦わせ、神は後方で戦いを整理してきたのです。これが神の作戦です。サタンは先頭の一面しか持てず、両面を持つことはできません。


 したがって、死なずに復活したイエスの前に拒否されたマグダラのマリアのような信者ではなく、復活したイエスを迎え、道を案内できる人がその時代に一人でもいたなら、今日私たちは未知の聖書だけを頼りにしていなかったでしょう。未知の信仰世界で苦しむこともなかったでしょう。


     10


 皆さんが今まで苦労してきたのは、自分自身が救われるための苦労であり、人類の全ての罪を完全に償い、神が喜べるような苦労ではありませんでした。そのような苦労をした人は、これまでサタン世界の歴史的人物の中に一人もいませんでした。


 では、歴史的な全ての債務を償い、神の恨みを晴らし、慰めることができる人とはどのような人でしょうか?それは、自分の罪の因縁を父の前に心配の対象として残さず、自分の全ての行動が天の意志のために尽くしたといえる新しい歴史の先駆者たちです。そのような人々が多い民族は、神の全権的な理念を占有し、世界を支配することができるでしょう。


 イエス様も人類を救うために十字架の道を歩みましたが、その救いの意志を成し遂げても神を慰め、喜ばせることはできませんでした。終わりの日の私たちは、そのような生活をこの体を使って成し遂げなければならないのです。


 では、イエス様が終わりの日の聖徒たちに対して待ち望んでいるものは何でしょうか?それは、天の内的基準まで見つけ出し、6000年間私たちを慰めてくださった神をむしろ慰める人、2000年間人類のために尽くされたイエスに代わって尽くすことができる人々になることを望んでいます。そのような人になって初めて、天の全ての債務を償った資格者として天の前に堂々と立つことができるのです。イエス様はこの地に来て、言いたいことをすべて言えずに去りました。イエス様は「まだあなたたちに言いたいことがたくさんあるが、今はそれを受け入れることができない」(ヨハネ16:12)と言われました。


 ですから神は、この歴史的な転換期において、その大きな全体的な債務を償い、歓喜と栄光の中で世界の人々を祝福し、この民族を祝福し、この教団を祝福し、一人一人を祝福し、さらに霊界にいる多くの霊人を祝福することができる真の人々が現れることを望んでいます。


 したがって、皆さんはその大きな因縁を今日の自分が持っていることを認識し、天と地の前に一つの犠牲として立つことができる人になるべきです。そうして初めて、歴史的な全ての債務を償ったという条件を備えた人になれることを心に留めておくべきです。
















文鮮明先生御言葉選集 4 - 12. 6千年の間に残された負債を誰が担当するのか (1958年4月27日)
1958年4月27日(日)、前本部教会


聖書拝読:マタイによる福音書 18:15-35




 皆さんは、自分が歴史的な借金を背負っていることを感じる時が必要だと思います。私たちはこの地に生まれる時にまず親の血と肉を受け、その後に地の恩恵を受けて生きています。さらに、心を中心に見れば、永遠の天が私と関わりを持ち、私の命を守ってくれていることがわかります。しかし、表面的には多くの人が幸せな場所に立っているように見えますが、実際には幸せを感じていないのはなぜでしょうか?その原因はその人自身にあるのではなく、相対的な何かと関わっているからです。しかし、人々はこれに気づいていません。


 では、人間の不幸の原因は何でしょうか?人間はこれまでこの不幸の原因を解明し、完全に喜び、幸せになる時を迎える前に「幸福」という名詞を使ってきました。しかし、「幸福」という名詞を使うことはできても、実際に幸福な生活をしたことがないのは、歴史的な過程を通じてよく経験してきたことです。


 では、なぜ人間は幸福と満足を得られなかったのでしょうか?それは、私たちが言葉にできない借金を背負っているからです。これが核心的な問題です。私たちに負わされた借金を清算しない限り、個人、教団、国家、世界に幸福は訪れないということを皆さんは理解しなければなりません。


 皆さんが生まれる前から想像もできない悲しみの歴史、闘争の歴史が展開されてきたことを皆さんはよく知っているでしょう。また、自分の人生を中心に見たとき、その心と体を中心に無限の闘争の交差点を通り過ぎながら生きていることもよく知っています。さらに、自分の前後、左右、上下を考えるとき、天と地の前に言い表せない借金を背負っているのに、それに気づいていません。私たちの祖先が天と地の前に残した重荷を償わず、罪悪の血統を受け継いで生きている悲しみの存在であることを考えずに生きている人が多いのです。


     11


 天は私たちを理想的な世界に導くために努力していますが、私たちは何をどうすべきでしょうか?私たちは手を挙げて天と全ての万象の前に借金を負っていることを認めなければなりません。また、全ての万象の前に負った借金を返す手立てがないことを認めなければなりません。自分自身を分析してみると、私の体と心、そして私の家族も私のものでないことがわかります。


 では、三千世界の前に不変の姿でこれらが私のものであると誇れるその日はいつ来るのでしょうか?これは全人類が共通の理念の下で解決すべき歴史的な問題です。私たちは借金を負っており、3つの親の借金を負っています。つまり、血と肉の親と、私たちの体を構成してくれた地と、天から受けた命の因縁に対する借金を負っているのです。したがって、人は3つの親の因縁を離れて生きることはできません。私たちの生涯を分析すると、私たちは物質的な面で地の前に借金を負っており、血と肉の親の前に、そして天の前に言い表せない多くの借金を負っているのです。


 では、今日、皆さんは自分自身を中心にして、果たして天の前に、地の前に、そして親の前に借金を負っていることを痛感したことがありますか?これを考えるとき、皆さんは地に対して頭を下げなければならない自分であることを認識する時が必要です。また、親が負わせた借金を考えると、その前にも頭を下げるべきです。そのような心情を中心に永遠の理念を探すための天の努力の借金が私の心と接しているのです。


 したがって、天は皆さんに、天の努力に対して頭を下げ、感謝の心を持ったことがあるかと尋ねるでしょう。また、私たちを育ててくれた親たちも尋ねるでしょう。皆さんがそのような立場に立つとき、「私と私の子孫に及んだ借金をすべて返しました」と自信を持って言える自分になっているでしょうか。


 今日、私たちは自分でも知らないうちにこのような環境的な借金を背負っていることを知らなければなりません。それだけでなく、神はそのような人々を目覚めさせるため、または人間が背負った歴史的なすべての借金を清算するために努力していることを知らなければなりません。


     12


 今日、皆さんが背負っているその借金は清算しなければならない借金であることを、皆さんは知ってもいないし、理解もしていません。しかし、人間を創造した神は、人間が背負ったその借金を清算し、ひとつの方向へ進むことができるようにするために、人間は考えもせず夢にも見ないが、そのような心配を持って長い歴史の過程を摂理してきました。もしこのような神の摂理を理解するなら、皆さんはどのような心を持って感謝すべきかを見直すべきです。


 私が考えていない時間にも、天は私たちのために心配してくださっていました。私が自分自身を愛し、自分の快楽のために奮闘している時にも、天はそうではありませんでした。エデンの園でアダムとエバが堕落して以来、神は6000年の長い年月の中で、人間に血統的に背負わせた罪悪の歴史と社会的に伸びてきた罪悪の歴史、そして天上において結ばれた罪悪の歴史を断ち切るために、今まで休まず努力してこられたことを皆さんは知るべきです。歴史の過程で多くの先祖が天を裏切り、反抗したため、本来ならば神は人間を罰して裁かなければならない立場にありました。しかし、神はむしろ人間に拒絶される悲しみを経験してこられました。そしてその人間を一度も手放すことなく、その人間のために尽力してこられました。


 では、天はなぜ人間に対して、私たちの先祖に対して努力してこられたのでしょうか?人間が背負ったその荷物と借金を人間自身で償還し復帰させることができなければ、6000年の間努力してこられた神の尽力は無駄になってしまい、人間が探し求めてきた道の理念もすべて無駄になってしまうからです。手を出さなかったなら別ですが、一度手を出した以上、神は6000年の間人間がこの地上で負ってきた歴史的な借金を償還し清算できる人を探し出さなければなりません。


 今日、私たち人間に歴史的な借金を償還し清算できるようにするために、神は今日も明日も努力されるでしょう。そして今まで数千年の歴史を耐えながら選ばれた民族を立て、ある橋を架けて歴史的な罪と借金を清算しようとしてこられました。ですから、神はそのような民族を探し求めています。さらに、ある教会を探し求めると同時に、ある個人を探し求めているのです。このような神の存在を皆さんは心で感じるべきです。


 では、喜びと栄光に満ちて万宇宙を支配すべき神の立場がこのような困難な立場に変わったのは誰のせいでしょうか?言うまでもなく、今日の人類のせいだと考えれば、皆さんはその神を抱きしめて慰めなければなりません。しかし、個人のレベルの慰めでは天の心を慰めることはできません。歴史的な悲しみの心情を理解し、全人類的なレベルで共感できる心と体を持たなければ、神の中に染み付いている歴史的な悲しみと現実的な悲しみを清算することはできません。


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 天には、このような使命を持った一人を教会や民族を代表して立てる歴史的な基準があります。そのため、そのような個人を見つけ出し立てるために尽力してこられました。そして、4000年の尽力を経て立てられたのが、まさにイエス・キリストでした。


 ですから、イエス・キリストは一個人でありましたが、その背後には歴史的な縁があり、その当時の時代的な縁があり、未来的な縁がありました。しかし、その事実を知っている人は誰もいませんでした。


 イエスは自分の幸福や自分の快楽のために生きたのではありません。また、自分一個人の栄光のための希望も持っていませんでした。そのようなことから離れ、4000年間人類が背負ってきた歴史的な全体の借金をどう清算するかという心配をしていたのです。


 イエス様は天の悲しみを引き起こしているサタンと、そのサタンが人間に対して持つ訴えの条件を妨げて、人間を天の前に勝利的な姿で立たせようとしました。自らのすべての生涯をかけて歴史的なすべての借金を清算するために立ち上がったのです。


 ですから、彼の言葉はその当時の言葉でありながら、4000年の歴史を経てきたすべての人々、すなわち霊界にいる数千万の霊人たちまでも聞かなければならない言葉でした。さらに、イエス様の言葉はその時だけでなく、その後の永遠の時間をかけて、千秋万代の後の子孫たちまでも聞かなければならない言葉でした。イエス様はそのような信念を持って語っておられました。


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 しかし、そのような言葉を語っているイエスの前で、彼の心情を通して友になろうとする人は一人もいませんでした。ですから、イエスは進むべき道を見つけるべきイスラエル民族が進むべき道を見つけられず、天の懐に抱かれるべき選ばれた民が天の懐を拒絶したため、言い表せない悲しみの心情にぶつかったのです。


 イエス様が涙を流されたのは、4000年間苦労してきた神の心情を代弁する悲しみの涙でした。イエス様は4000年の歴史を経て来られた多くの預言者たちが待ち望んでいた希望の実体だったので、彼が涙を流せば霊界にいる多くの預言者たちも涙を流さざるを得ない、そういった立場に立っていたのです。これを考えると、地上に来て公生活の道を歩まれたイエスの前で、私たちの先祖たちが責任を果たせなかったことがわかります。そして今日、その子孫である私たちにその責任を果たす歴史的な使命が残されていることを理解しなければなりません。


 イエスの宇宙観は4000年の歴史を貫くだけでなく、その当時の世界観や未来にまで繋がっていました。しかし、イエスを従っていたその当時の人々は、自分を中心とした生活観を持ち、自分を中心とした世界観を持って生きていました。この事実を比較すると、イエス様とその当時の人々との間には生活や生涯、考え方において著しい違いがあったことを理解するべきです。


 このような立場にあったため、イエス様は全人類の罪と借金を償還するために努力されましたが、そのすべての罪悪の借金を償還すべき人々と密接な関係を結ぶことはできませんでした。それにより、イエス様はイスラエル民族に対して4000年間努力してきた神のその苦痛の心情を感じざるを得ない悲惨な立場に立たされました。


 では、このような苦痛が私たちとイエス様の間で解決されたのでしょうか?まだ解決されずに残されたままです。真にイエスの心情であり、私たちの心情であることが結実する時間を探しているのが、今日まで努力してこられた神の願いであり、イエス様の願いであり、今日の私たちの願いなのです。ですから、今日皆さんは自分の細胞一つ一つにまで歴史的な悲しみが染み込んでいることを感じるべきです。また、皆さんは時代性を無視できない存在であるため、皆さん自身には時代的な悲しみが潜在しており、さらに未来に対する責任も皆さん自身にあることを感じるべきです。


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 イエス様が地上に来られ涙を流されたのも、人間が背負った借金を償還するためでした。ですから、イエス様は涙の道、裏切りの道を死を覚悟して切り開いていかねばならなかったのです。そして、死んで復活された後も地上の人間のために働かねばなりませんでした。イエス様は自分がこの地上に生まれた以上、人間の歴史的な悲しみの心情までも解放しようとされたのです。


 では、イエス様は地上に何を残そうとされたのでしょうか?サタンに蹂躙されていた善良な人々の涙の跡を自分自身に体験し、この怨念の心情を胸に刻み、さらに天と地とサタンの前でそのすべての歴史的な悲しみを清算する責任を負う覚悟を持った神の子供たちを残そうとされたのです。そのような神の真の子供たちが現れなければ、神は永遠に不憫な立場に置かれることを知っておられました。さらに、彼を従っていた弟子や、今日まで2000年間殉教の道、血のゴルゴタの道を歩む人々もまた不憫な立場に置かれることを知っておられました。


 では、未来を責任を持つ人は誰でしょうか?今日の皆さん一人ひとりです。神は責任を負うことができないのです。もし神が責任を負えるのであれば、6000年という長い年月は必要なかったのです。その責任と使命は神がすべて担うのではありません。今日の私たちがしなければならないのです。


 だからこそ、イエス様は人間を代表して地上に来られ、霊と肉を中心にして4000年の歴史の借金をすべて清算しなければなりませんでした。そして、イエス以降すべての人類はサタンの前で訴えられるような借金を持つことがあってはならなかったのですが、イエス様がその使命を果たし切れずに亡くなったため、多くの人類は再びそのすべての借金を引き継ぐことになりました。これを振り返ると、イエス様は今も神の前で頭を上げることができず、贖罪の祭壇を築いて祈っておられるという事実を皆さんは知るべきです。


 このような立場では、どれだけ自分のために富と栄光を求めようとしても幸福を感じることはできません。どれだけ満足しようとしても満足することはできません。しかし、天にいる多くの聖徒たちと地上のすべての人々は、共に喜ぶことのできるその一日を待ち望んでいることを皆さんは知るべきです。


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 したがって、私の手は疲れることのない手であることを知るべきであり、私の手の後ろには歴史的に血を流した過程があることを知るべきです。また、私の体は生き生きとした体に見えますが、この体は裂かれ、傷だらけであることを知るべきです。そして、私にどんな喜びがあってもただ喜ぶのではなく、その喜びは歴史的な犠牲の代価として生まれたものであるという事実を皆さんは知るべきです。また、天が流した涙がこの地を満たし、天が流した血の犠牲がこの地の谷を満たすほどの犠牲の過程が私によって存在したという事実を実感するべきです。


 イエス様の一生に染みついている悲しみを解き放つことができなければ、歴史的な神の心に深く刻まれた悲しみを将来誰が責任を負うのでしょうか?道の探求をすればするほど、人間は天に対して恐れ多い気持ちを抱かざるを得ません。私たちはそれぞれが負った借金を返さなければならない立場にあるため、与えることにおいては個人のために、さらに天のために与えることができるようになるべきです。この道が皆さんに残されています。


 したがって、皆さんはさらに遠くに向かって進みたいという心の方向性を感じるでしょう。しかし、そのような心を抑えて自分自身のために動こうとする人、家族を中心にして進もうとする人は受け入れられません。自分の民族を中心にする主義を持つ人も同じです。国家も同様です。だから、今日私たちが進むべき方向は、天の理念を中心にした個人として、家族、国家、世界へと進むことです。したがって、皆さんは今や個人を超えて、種族や民族、国家、世界のために生きるべきです。さらに6000年の歴史に結びつくもののために生きるべきです。天はこのような個人、家族、民族、国家を探しているのです。


 なぜなら、神は天地万物を創造された方として、天と地全体を統治すべき存在であり、特定の地域を支配する存在ではないからです。したがって、皆さんが神に対して「父」と呼べる神の子供たちになるためには、神が指向する世界について少しでも考えなければなりません。そのときに神と縁を結ぶことができるのです。


 これまで多くの主義や思想は変遷してきました。しかし、それが地上で一つの理念形態を経た後には、宇宙の根源である神と一体化できる天主主義的な形態を成すべきです。これが必然的な歴史的統一の地点として残るべきです。


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 イエス様はゲッセマネの園で「私の望むようにではなく、あなたの御心のままになさってください」(マタイ26:39)と祈られました。しかし、ここで言う「父の御心」とは、過去、現在、未来の理念だけでなく、創造以前の理念も含まれています。


 イエス様は個人のために与えようとしたときに、ある個人がそれを妨げれば、その個人を断ち切りました。家族のために与えようとしたときに、ある家族がそれを妨げれば、その家族を断ち切りました。社会のために与えようとしたときに、社会がそれを妨げれば、その社会を断ち切りました。国家のために与えようとしたときに、国家がそれを妨げれば、その国家を断ち切りました。したがって、天と地のために与えようとする時代が来たときに、それを妨げるものがあれば、それを断ち切るのです。


 今日、私たちがそのような天の全体の意志を償還し、天の理念世界を望んで進むと言うならば、天が私たちを6000年間育て、愛を与えてきたように、私たちもそのような心の持ち主になるべきです。天はまさにそのような人になることを望んでいることを私たちは考えなければなりません。


 世界の原則は「与え、受ける」理です。したがって、世界のために与える民族は世界を支配するでしょう。皆さんが人生の終わりを迎える時、つまり運命の時に、皆さんはどのような言葉を残すでしょうか?イエス様は異端の頭とされて十字架にかけられ、死に際しても「成し遂げられました」(ヨハネ19:30)と言われました。つまり、イエス様は世界のためにどれほど心配されたかというと、死を覚悟し、サタンと戦いながら世界の人類を心配されたのです。したがって、皆さん自身もこの地上で命を終える日に「父よ、成し遂げました」と祈れる者になるべきです。


 では、イエス様は地上でどのような人を探されるのでしょうか?自分の使命を引き継いで「父よ!イエスよ!」と呼び、「成し遂げました」と言える一人の主人公を探されているのです。したがって、私たちは心を開いて今日のこの民族のために心配するのではなく、明日のこの民族のために心配して進み出る人々になるべきです。今日のこの世界のために心配するのではなく、明日のこの世界のために心配できる人々になるべきです。私たちは一歩先を行くべきです。


     18


 なぜなら、私たちはまず天の意志を知ったからです。地の人々が知らない一つの世界的な理念を探すべきです。したがって、そのような心を持ち、現実を乗り越えて進み出る一つの姿が必要です。そして、現実的な天の悲しみを償還し、歴史的に矛盾したすべてを踏み越えていくことで、歴史的に絡まったすべてに対する償還的な条件を立て、清算することができるのです。


 だからこそ、皆さんが神秘的な境地に入ってみると、終わりの日の聖徒に対して、天にいるイエスが羨ましく思い、無数の聖徒や神までもが羨ましく思っていることがわかるでしょう。それだけでなく、この地も、歴史の過程でのすべての人間も、時代と場所を超えてそのような人を探しているのです。


 したがって、皆さんは今が世界に対する摂理の時であるのか、個人に対する摂理の時であるのか、民族に対する摂理の時であるのかを見極めなければなりません。また、自分自身のために生きるべき時なのか、それとも他の何かのために生きるべき時なのかを見極めなければなりません。そうして、皆さんが世界を超えて未来の天主的な天国理念を目指して生きることができるその時において、神を呼べば、神は全世界の祝福を皆さんに与えるでしょう。しかし今日の人間は、新しい世界を創建すべき飛躍的なこの峠を残しておきながら、歴史と今までの習慣的な環境に支配されています。


 では、それを超える勇気を持つ人は誰でしょうか?私たちが歩む道には、十字架の道も良いし、苦難の道も良いし、どんな道でも乗り越えなければなりません。イエス・キリストが残された道、最終のゴルゴタの道を死なずに乗り越えなければならないのです。復活したイエスを捕まえようとしたが拒まれたマグダラのマリアのような人になってはいけません。当時、イエスを捕まえ導ける一人の人、または彼の弟子が地上にいたなら、今日私たちはよくわからないこの聖書を信じてはいなかったでしょう。未知の信仰世界で苦しむこともなかったでしょう。


 皆さんがこれまでに努力してきたのは、自分自身が救われるためであって、神のためではありませんでした。自分の罪を完全に償還して神が喜べる人は、歴史的な人物の中に一人もいませんでした。では、神の歴史的なすべての借金を償還して神を慰めることができる人とはどのような人でしょうか?それは、自分の罪を抱えて父を心配させることなく、自ら天の善の意志に属して努力する人でしょう。そして、天の善の意志のために尽力するそのような新しい時代の先駆者がある民族の中に多く現れるほど、その民族は天の全権的な理念を占有し、世界を導くことができる民族になるでしょう。


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 イエス様も救いの意志を成し遂げるために十字架の道を歩みましたが、救いの意志を完全に成し遂げて神を慰め、喜ばせることはできませんでした。ですから、終わりの日にいる今日の私たちが、この肉体を持っている間にそのようなことを成し遂げなければなりません。


 イエス様は終わりの日の聖徒たちがそのような心の基準を見つけて立てることを望んでいます。そして、今日まで努力してきたイエス様に代わって努力できる人になることを望んでいます。そのような人々になって初めて、歴史的に借りたすべてのものを償還した資格者として天の前に立つことができるのです。イエス様はこの地に来て、言いたいことをすべて言わずに去りました。イエス様が「まだあなたたちに言いたいことがたくさんあるが、今はあなたたちがそれを受け入れることができない」(ヨハネ16:12)と言われたことを知るべきです。


 歴史的な転換期において、この大きな借金を償還し、神と共に歓喜と喜びに満ちて手を取り合い、個人を祝福し、教団や民族、世界の人類を祝福し、さらに霊界にいる多くの霊人を祝福できる人々が現れることを天は望んでいます。これを確実に理解しなければなりません。


 したがって、皆さんはこのように大きな天の因縁を、今日の小さな自分自身が持っていることを認識し、天と地の前に残された借金を清算する一つの犠牲として立つことができる自分自身を持つ人になるべきです。そうして初めて、歴史的なすべての借金を償還した条件を備えた人になれるのです。


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