人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集4(16)

2024年07月14日 17時39分01秒 | 学習


文鮮明先生御言葉選集 4 - 16. 耐え忍ぶ者になろう (1958年5月18日)
耐え忍ぶ者になろう
1958年5月18日(日)、前本部教会


マタイの福音書24:1-14


<祈り>


 今、この時は2千年前のイスラエル民族が混乱していたその時と同じ時であり、メシアが来なければならない時です。私たちはそのような時に直面しており、真実が何であるか、偽りが何であるかを見分けるのが難しい時代にいます。今までの歴史の過程では、多くの苦労した教師がいましたし、また多くの指導者をお迎えしていましたが、今日私たちは心の中心を失っています。


 今日の人々が混乱した生活環境にあることを、お父様、あなたはご存知であると思います。お父様、私たちの生活を整理し、心を整理し、私たちの理念を整理して、天性の前に依存して生きることができる幸せな時間を与えてください。その一日を探す人は多いのですが、「見つけた」と言う人はまだいません。


 その一日を証する人は多いのですが、本当にお父様を喜ばせる人は極めて少ないのです。今日のように混乱した世の中に生きる私たち、私たちの心と体が進むべき理念を私たちの生活で体現し、心から感謝できるようにしてください。そして、お父様の望まれる息子娘と称賛され、復帰の使命を果たした息子娘として祝福を受けることができるようにしてくださいと、切に願い求めます。


 お父様、私たちの心を知ってください。私たちの心は誰よりも私たちの行くべき道をよく知っています。私たちの心は本来の真の道を歩むことを望んでいます。お父様、私たちの心の願いを叶えてくれる真理と宗教を許してくださり、救いの摂理の意志を成し遂げるよう導いてください。


 愛するお父様、哀れなこの民族を憐れんでください。道を失い迷うあなたの息子娘たちを憐れんでください。勝利の日に向かって前進する私たちを憐れんでください。お父様の意志を私たちが成し遂げられるよう共にいてください。


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 今や逆境に遭うとしても、お父様の意志を成し遂げなければならない時が私たちの前に来ました。その逆境を乗り越え、お父様の栄光を望む心と体を持つことができるようにしてください。たとえ一人でも逆境を乗り越えてお父様の心情を心配しながら、誰にも知られない隠れた祭壇を築き、お父様の心を似るために、お父様の心情を体感するためにすべてを捧げることのできるあなたの息子娘が多く現れるよう導いてください。お父様、切に願い求めます。


 ここにはどんな教団も、どんな集まりも、どんな教派も問題ではないことを知っています。お父様が知ってくださる内なる心情、お父様の心を体感できる切なる心情を持って進むことが真理の核心であり、真理のすべてであることを私たちが知ることができるように許してください。お父様、切に願い求めます。


 数多くの教派に分かれて全教界が混乱しています。お父様、憐れんでください。ここで孤立しているお父様の息子娘がいますか? 彼らをお父様が励ましてくださると信じます。私たちは彼らの心情を体感し、お父様の意志を証することができるように許してください。そして、孤独な者たちが集まり、お父様の真の息子娘として立つことのできる喜びの日が早くこの地に訪れるように許してください。切に願い求めます。


 お父様、今集まったあなたの愛する息子娘を憐れんでください。ここに集まるようにされたのもあなたでした。お父様、彼らを責任持ってください。変わらない私たちの心を収め、真心を尽くして本来のお父様の心情を通して感じられる衝動を、今、この時間、各自が心と体で感じられるように許してください。そして、自分の行くべき道を見つけることができるように、お父様の直接的な導きを許してください。愛するお父様、切に願い求めます。


 2千年前に来られたイエス様の姿を私たちが感じ、そのイエス様の悲しみを心から同情する息子娘になることを許してください。そして、子供のような心を持ち、お父様の心に悲しみがあればその悲しみを私たちの心で感じ、喜びがあればその喜びを私たちの心で感じて、お父様の真の息子娘の姿になることができるように許してください。お父様、切に願い求めます。


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 今、私たちが持っているすべての主義や主張、そして慣習的な条件をすべてお父様の前に差し出し、子供のような心情でお父様の愛を求めるこの時間となることを許してください。切に願い求めます。


 話す人の心も、受け取る人の心も、一つであるようにしてください。サタンは常に話す人と受け取る人の心の隔たりを狙っていることを私たちは知っています。願わくば、私たちが子羊の姿を持ち、お父様の言葉によって再創造されることができるこの時間となるようにしてください。初めから終わりまで、ただお父様だけが主管してください。切に願い求めます。すべての言葉を主の名前によって申し上げました。アーメン。






<御言葉>


 今日、皆さんにお伝えする言葉のタイトルは「耐え忍ぶ者になろう」です。


 今日朗読した聖書の言葉には、終末の兆候についての言葉がありました。終末には、信仰を中心に生きていくことが難しいことがここに記されています。したがって、この困難な混乱期を克服して勝利者になるためには、最後まで耐え忍ぶ者にならなければならないことを、皆さん自身が理解し、まず心で感じて恩恵を受けるこの時間となることを願います。


 私たちは誰もが神を考える時、栄光の主として存在していると考えがちです。また、神は多くの力を持っており、万人の行動を把握していると簡単に考えるかもしれません。しかし、6千年という長い歳月を経て、神はまだ栄光の一日を見つけていません。私たち人間を統治する権能の行使も、まだ経験したことがありません。これを考える時、神には誰も知ることができない深い心配と深い苦難、そして深い痛みがあることを私たちは考えなければなりません。


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 天地万物は私たちが簡単に考えるように、神の栄光のために創造され、権能の行使のために創造されました。しかし、神の栄光を示し、権能の相対者となるべき人間がその位置に立たなかったため、神は栄光を得られず、権能の行使もできないまま、今までその希望の一日を成し遂げるために摂理を進めてきたことを皆さんはよく知っています。


 アダムを創造し、喜んでいた神が堕落したアダムを見る時、皆さんが想像することのできない悲しみが神の心に訪れました。神がアダムを中心に創造の理念を立てた意図が大きければ大きいほど、アダムの過ちによる悲しみはさらに大きかったのです。そして、誰にも言うことができず、誰にも伝えることができない神の内的な悲しみを知る者はいません。


 この悲しみに加えて、苦しみと逆境を経験しなければならなかった神、言い表せない苦しみと逆境を経験しなければならなかった神がいました。このように悲しい立場にあっても、人間に対して救いの摂理を行わなければならなかった神は、人間が想像できない二重の苦しみの心情を感じなければならなかったのです。


 堕落したアダムをエデンの園から追い出した神ですが、その追い出した人間を放っておくことができず、再び愛の手を差し伸べたのは、神が愛の心情を持っているからだということを、私たちは今日考えるべきです。しかし、天倫の創造理念を破壊したアダムとエバの家庭を中心に、再び第二の希望を持ってきた神の心情はどのようなものであったでしょうか。神のこの心情を皆さんが知る必要があります。捨てられた子供を再び未練を持って対処しなければならない神の事情を知る者がいるなら、その人は神の切ない心情を知ることができるでしょう。そして、その人は神がどのような立場にあるかを知ることができるでしょう。


 神はアダムとエバを通して復帰の摂理を始めなければなりませんでした。そしてカインとアベルを選び、ノアを選び、他の多くの家庭を選び建てて、復帰の摂理を進めてきました。このような摂理の歴史を導いてきた神の心情は、言い表せないほど切ない心情でした。しかし、そのような心情を抑えながら、今日まで耐え忍び続けてきたのです。


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 それでは、神が今まで耐え忍び続けてきたその切ない心情を感じ、神にしがみついて涙を流す人が今日のこの地上に何人いるでしょうか?もしこの地上にそのような神の心情を知り涙する人がいるならば、その人は神が天地万物を創造された時の喜びと共に、人間の堕落によって全天地万物を覆った神の悲しみを知ることができるでしょう。


 この地上において、今まで耐え忍び続けてきた神の心情を代わりに担う人、また神の悲しみと共に泣いてくれる人がいるならば、神も創造主としての面目を忘れ、創造主の栄光や権威などすべてを忘れて、その人と共にただ涙を流されることでしょう。このような事情に満ちた神の心情を皆さんは理解しなければなりません。


 神はそのような切ない心情を抱えながら、裏切ったアダムやノア、アブラハムを立てて再び摂理を行わなければなりませんでした。また、苦難と逆境の中で呻きながらも、イスラエル民族を見捨てることなく、モーセを立てて祝福のカナンの地へ導いた神の心情を皆さんは理解しなければなりません。


 神は数多くの預言者や先祖を選び、彼らに悲しみの道を歩ませながら摂理の歴史を展開してきました。そして4千年の歴史が経過した時、すなわち今から2千年前に、新たな歴史を展開し、4千年の悲しみと憤りを晴らすために、この地上にイエス・キリストを送りました。しかし、そのイエス様を十字架につけてしまったイスラエル民族を見捨てることなく、摂理を続けなければならなかった神の悲しみを知る者がどこにいたでしょうか。そのような教会や民族がどこにあったでしょうか。神はそのような個人、教会、民族が現れることを望んでいます。


 天の道が良いと知って進んだとしても、神の心情を掘り下げれば掘り下げるほど、それは涙の峠です。神の心が栄光の中にあると思っていたのに、実際には悲しみの要素を持つ神であることを知るでしょう。皆さんはこのような神を理解しなければなりません。

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 今日、私たちは神の悲しみに代わって悲しむ天の息子娘となるべきです。皆さんは、周囲からの圧力や排斥を受けるどのような困難があっても、神の悲しい心情を慰めることができなければなりません。今こそ私たちは自分の切なさを忘れ、神が今まで耐え忍んできた意志を見習い、神の悲しみと苦しみを代わりに背負って進むべきです。

 神は私たちのために、教会のために、そして裏切ったイスラエルのために耐え忍び、また裏切った世界のために耐え忍んできました。このような神の心情を今日、終わりの時代に残された信徒たちは涙をもって見習い、このような神の心を慰めるべきです。このような真の息子娘にならなければなりません。

 天が4千年間耐え忍び続けてきたのは、イエス・キリストを送り出す時にイスラエル民族が信じてくれることを望んだからです。しかし、その民族がイエスを十字架にかけた時、地に対する神の希望は水泡に帰しました。イスラエル民族は神が望んだ意志を成し遂げるべき立場、すなわち天倫の一時期を約束するべき立場にありましたが、イスラエル民族は神の最愛の独り子を殺してしまいました。

 それでは、今私たちが「父」と呼ぶその父は、6千年間悲しみと苦しみの道を耐え忍んできた父であることを皆さんは知っておくべきです。私の父は6千年間耐え忍んできたのです。また、このように6千年間耐え忍んできた父は、単なる名目上の父ではありません。


 神は6千年間耐え忍んできましたが、神が支配できる地はまだ復帰されていません。したがって、皆さんは今、地全体を蕩減復帰しなければなりません。皆さんは新しい歴史を創造し、新しい理念を探し求めなければなりません。したがって、このような立場にある皆さんは何よりもまず耐え忍ぶ者にならなければなりません。


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 そして、皆さんは真の宗教を探し求めなければなりません。真の天の息子娘を探し求めなければなりません。耐え忍ぶ信仰者を探して支えなければなりません。耐え忍ぶ教団を探して求めなければなりません。耐え忍ぶ民族、国家を探し求める使命が今日の天を目指して進む信仰者にあることを皆さんは知っておくべきです。


 今日まで、すべての宗教は耐え忍ぶ者が創立してきました。これからも耐え忍ぶ宗教が世界を導くことでしょう。人類の歴史を振り返ってみても、やはり耐え忍ぶ者が勝利してきたのです。天においても地においてもそうでした。それゆえに、現在もこの地は、神を心配し節操を立ててくれる人物を迎えるために嘆息していることを皆さんは知っておくべきです。


 宗教について見ると、今日のキリスト教が世界的な宗教になったのも、キリスト教がより耐え忍んだからです。イエス様は、4千年間耐え忍んできた神の心情を感じ、また万民が歴史的に耐え忍んできたことを考えた時、ゴルゴダの山で自分の体が十字架にかけられても耐えなければならなかったのです。それで両手両足に釘が打たれながらも、イエス様は彼らのために「父よ、彼らをお赦しください。」と祈ることができたのです。


 このように神が耐え忍んできたその心情を万民とサタンの前に示したため、耐え忍ばざるを得ないサタンはその心情の前に屈服せざるを得なかったのです。これがイエス・キリストが私たちに示してくれた模範的な耐え忍ぶ道でした。またこの地上の人間はもちろん、あらゆる物も今まで6千年間耐え忍んできました。


 そして、人間が堕落したことで霊界にもその影響が及び、天使世界にもその影響が及びました。ですから皆さんには、万物はもちろん霊界にまで染み渡っている嘆きと、6千年間耐え忍んできた神の事情を責任をもって担わなければならない使命が残されています。


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 したがって、今皆さんはそのような外的な心配と宇宙的な責任を代わりに心に抱き、耐え忍ぶ覚悟と決意を持たなければなりません。もしそのような覚悟と決意がなければ、今日の皆さんは天の道に同行できないでしょう。


 ですから、今日の皆さんはまず天の祝福と天の栄光を望む前に、天の血を流すような心情、悲しい心情を晴らしてあげなければなりません。神の耐え忍ぶ心は全宇宙を包み込むほど大きいのに、今日私たちは罪深い環境の中で罪深い自分を持って生きています。このような立場では宇宙を抱えて耐え忍んできた神をお迎えすることはできません。つまり、6千年の歴史を摂理してこられた神を迎え入れることはできないのです。


 したがって、今皆さんは今日まで歴史を支配してきた神の心情と意志を理解し、神を迎え入れることができるようにならなければなりません。6千年間摂理してきた中で耐え忍んできたその心情を持たなければならないのです。つまり、今日の終末に置かれた皆さんには、神を心に迎え入れ、その方を万民に証しする使命があるのです。


 それでは、今、6千年間耐え忍んできた神の心情を持ち、神を迎え入れて慰めることのできる真の息子娘は誰なのでしょうか。神はそのような息子娘が現れるのを待っておられます。天を裏切り、天使長サタンの誘惑に陥って堕落した人間を見捨てることなく、再び救うために6千年間耐え忍んできた神がいらっしゃいます。今日、皆さんはその神の心を理解しなければなりません。


 さらに今日、皆さんはこの民族を救おうとする心がありますか? 今日ここに集まった人々、真に天の懐かしさを感じる心がありますか? 皆さんは民族の苦しみを代わりに背負う姿でなければなりません。どのような苦しみと逆境の中でも耐え忍ぶ覚悟と決意を持たなければなりません。耐え忍ぶ者にならなければ、民族を責任をもって担うことはできないと理解してください。

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 また、皆さんが世界を救おうとする心があるなら、まず世界の悲しみと世界の困難を自分の身に背負い、耐え忍ぶ覚悟と決意を持たなければなりません。しかし、もしそのような覚悟と決意がなければ、世界のどの部分にも天の理念を残すことはできないでしょう。

 神はサタン世界と地獄世界さえも包み込み、そこでも耐え忍ぶ心があるため、地獄にいるサタンたちさえもその前には頭を垂れます。ですから、皆さんが最後の勝利者、最後の父の息子娘になりたいと願うなら、皆さんは神の耐え忍ぶ心を自分の耐え忍ぶ心で、神の耐え忍ぶ姿勢を自分の耐え忍ぶ姿勢で心と体で感じることのできる人にならなければなりません。今日のキリスト教も耐え忍ぶ道理を教えたからこそ、世界的な宗教となり世界を支配しているのです。

 今日のユダヤ民族は地上に生きています。しかし、その民族は神の意志を裏切った民族でありながら、なぜ神は彼らを見捨てることができないのでしょうか。もちろん、ユダヤ民族は道を誤りましたが、神の選んだ選民として神をために変わらない心を持ち続けているからです。天に反対する立場にありながら、いつか神を見つけ出す時には、どの民族よりも神の耐え忍ぶ仕事、耐え忍ぶ仕事を担うことのできる民族であるため、摂理の道を裏切りましたが、見捨てることができないのです。

 歴史の過程でどんな逆境に直面しようとも、天のために摂理の歴史を守り続ける民族があるならば、その民族は世界を支配するでしょう。たとえ一時的に神の意志に背き、サタンの手先として働いたとしても、もし彼らの決意と覚悟が天のための心に基づいているならば、最終的にサタンは屈服せざるを得なくなります。

 サタンは耐え忍ぶことができず、耐えることもできません。もしサタンが耐え忍ぶことができたなら、神を裏切り6千年の歴史を逆らってくることはなかったでしょう。

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 神を中心とする民族がどんな逆境に直面しても、自分たちの民族が天の選民であると主張し続けるなら、その民族は世界から消えることはありません。今日のユダヤ民族が世界の経済権を握り、その他の多くの分野で主導権を握っているのも、それには理由があるのです。

 歴史の過程もまた同じです。過去のどの時代でも、逆境に直面して混乱と混沌の中にあった時、耐え忍ぶ心を永遠の理念に結びつけて進んできた人々が新しい歴史を展開してきたことを私たちはよく知っています。民族も、歴史も、宗教もそうでした。

 それでは、終末にはこれらがどのようになるでしょうか?終末には、民族の中から中心民族が、宗教の中から中心宗教が、歴史の中から中心歴史が現れるということを皆さんは知っておくべきです。

 神は「私はアルファでありオメガであり、最初であり最後であり、始めであり終わりである。」(黙示録22:13)とおっしゃいました。しかし、終末には、宗教の中でもより耐え忍ぶ宗教、キリスト教の中でもより耐え忍ぶ教派が勝利するでしょう。また、民族の中でもより耐え忍ぶ民族が勝利するでしょう。天はこのようにしてより耐え忍ぶ者たちを探し出し、新しい時代を切り開いてきたのです。このような原則があることを皆さんは知っておくべきです。

 神は4千年間イスラエル民族を選び、精一杯の努力と誠実をもって導き、摂理の意志を成し遂げるためにこの地にイエス様を送りました。しかし、そのイエス様はキリスト教徒たちが歴史を経て信じ、敬ってきたような素晴らしい立場、尊敬される立場には立てませんでした。裏切り者であり、異端者であり、民族の反逆者という烙印を押されて亡くなったのです。

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 それでは、神はなぜ新しい摂理の理念を立てる際に、耐え忍ばなければならない環境にイエスを置かざるを得なかったのでしょうか。それは、人類の歴史が堕落から始まったからです。イエス様は堕落の歴史を終わらせなければならなかったのです。聖書や歴史的記録に残っているイエスと、その当時のイエスには大きな違いがあります。当時のユダヤ教団が今日のキリスト教信徒が信じるほどにイエスを信じていたならば、イエスは十字架にかかることはなかったでしょう。

 殺してから探し求め、後悔する民族が堕落した民族です。当時、天倫の一時期を待ちながら耐え忍んでいるイエス様に反対したイスラエル民族は地獄に落ちました。ユダヤ教徒たちは自分たちが真理を代表していると自負していましたが、歴史の過程を経てみると、非真理のように見えたイエスが真理を代表しており、むしろユダヤ教が非真理の立場にあったのです。このように、天の動きは歴史の過程で矛盾しているように見えることがあります。当時のユダヤ教徒たちは、イエスを中心に理念的な事実は知っていましたが、実証的な事実とはかけ離れていました。

 しかし今日、一国家の運命においてどんな悲運が訪れたとしても、それに対して悲しまずに天倫の摂理を知り、その中で団結し耐え忍ぶ民族となるならば、その民族は滅びることなく生き続けるでしょう。神が4千年間イスラエル民族を通して築いたユダヤ教は、天の内的使命を果たすための犠牲になるべきでしたが、ユダヤ教団は腐敗し、形式主義的な観念に陥っていました。しかし、当時これを嘆き悲しむ者は多かったものの、イエスに従う者はいなかったのです。

 神は私たちに終末が来ると予告されました。全ての人々が大審判の日を免れないと予告されました。それでは、このような神の摂理の歴史を分析してみると、何を根拠にしてそのような歴史的摂理の過程を経なければならなかったのでしょうか。神が耐え忍び続ける立場にあるため、サタンと対立する立場に置かれ、サタン世界が天の側に転換される時には、必ず耐え忍ぶ過程を経て新しい歴史が創造されるのです。ですから、忠臣の子は滅びることはなく、貞婦や孝子、孝女の息子娘も滅びることはないのです。

 したがって、この民族は歴史に名を残さなければなりません。しかし、この民族は4千年という長い歴史を持ちながらも、固有の民族性がありません。それでは、この民族に対する摂理を考えるとき、この民族はどうすべきでしょうか?この民族にも一時期があるということは何を意味するのでしょうか?この民族は同じ民族に対しても、世界に対しても苦難を受ける立場にありますが、これはむしろこの民族にとって幸せの基盤になるかもしれません。このような立場にこの民族は置かれているのです。

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 したがって、皆さんは心を広く持たなければなりません。大韓民国のために他国の人々がこの地に来て犠牲を払いました。そしてこの国は今も他国の援助を受けています。したがって、皆さんはその人々の頭上に手をかざして祝福する心を持たなければなりません。また、この民族に対する神の内的なすべての事情が人々に伝わらないからといって落胆せず、未来に向けて、どのような方向を通じても祝福する心を持たなければなりません。

 もし皆さんがそのような心を持てば、新しい理念を中心にこの民族を通して新しい摂理の歴史が展開されるでしょう。民族もそうですが、キリスト教社会もまた同様です。したがって、この民族は世界の前に、あるいは宇宙の前に押し寄せられる民族でなければなりません。実際に、この民族は24億の人類の前に押し寄せられることになるでしょう。

 イエス様が十字架につけられるとき、右側の強盗は天を信じようとしましたが、左側の強盗は天を信じない立場を取りました。このように、今日の世界は二つの世界に分かれています。つまり、右側の強盗のような立場で形成された右翼の世界と、左側の強盗のような立場で形成された左翼の世界に分かれています。左翼の世界は、神を知らない世界となっています。

 では、そのような世界で証しなければならないのは何でしょうか? それは真の愛です。したがって、これまでイエス様の名を頼りに証してきたように、今後は天を探し求める宗教的な形態を持つ国家が現れて真の愛を証しなければなりません。これまでイエスの理念は現れませんでしたが、これからはイエスの理念が現れなければなりません。したがって、終末には必ず何か新しいものが現れなければなりません。

 それでは、終末に全人類が求めるものは何でしょうか?それは、イエス様が主張した真理ではなく、主張できなかった真理の背後の心情を超える何かです。ですから、終末には必ずそれが現れなければなりません。そしてその時がまさに世界的な理念時代です。そのような時が必ず来るでしょう。聖書に固執し、それだけを守る人々、あるいは自分たちの固有の思想だけを主張する民族は適応できません。

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 したがって、今日の皆さんは「お父様、私たちを世界の民族の前に押し寄せられる者としてください。お父様を頼りに死ぬ者となり、お父様を捨てる者とならないようにしてください。」と祈る人々となるべきです。

 私たち教会の家族は、押し寄せられる者となったからといって他人を非難しないようにしましょう。他人の欠点を取り上げて中傷し、自分の利益を追求しようとした民族は滅びました。ですから、今日の皆さんは自分の心と体に真理がないからといって嘆いてはいけません。自分に知識がなく、持ち物がないからといって嘆かず、権力や勢力がないからといって嘆かず、「父よ、私のすべてを奪われてもイエスの道を守ることができる天の精兵としてください。私たちを最後の勝利の手段としてください。」と祈ることができるようにすべきです。

 イエス様は両親も失いました。親戚も失いました。自分の教派も、自分が指導すべき民族もすべて失いました。しかし、彼はそのすべてを失ったにもかかわらず嘆きませんでした。より大きな天の心情を抱きしめ、神の忍耐を見習って死の場でも耐え忍びました。これまで殉教者たちの魂はあの世に行きましたが、自分だけが救われるために死んだ人は良い場所に行けませんでした。しかし、自分のような罪人は何万回死んでも当然だと思う人は天国の高い場所にいるということです。

 したがって、今や世界が祝福を受けるとき、世界だけのために働いた人は世界を超えて宇宙世界では落ちてしまいます。したがって、今日私たちには新たな心を持ち、新たな出発を展開し、この小さな三千里の国土を中心に世界を揺るがす責任があるのです。これは決して空論でも妄想でもありません。

 イエス様がサタンに対する憤り、民族に対する憤りを抱くこともできたが、神が愛する民族であることを知っていたので憤りを抱かなかったのです。皆さんもそのような事情に直面するとき、すなわち憤りの心が起こるとき、それを超えてむしろ祈る者となるべきです。そうして倒れた先祖たちが立ち上げようとした教団を再び立ち上げ、この民族を動かし、さらに世界的なキリスト教を革新しなければなりません。このような使命が私たちにあるのです。

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 それでは、今日の特に若い男女の皆さん、あなた方はどこで死ぬつもりであり、どの分野で天の前に条件を立てて死ぬつもりですか。また、あなた方はこれまで誰のために生きてきましたか?その理念において、その良心において、その生活において誰を頼りに生きてきましたか?もしこれまで自分だけのために生きてきたのなら、自己反省し、自分を戒めなければなりません。

 永遠の理念を中心に動くことができる者たちは、その理念的な主体が消えない限り滅びることはありません。ヤコブも神の意志ひとつを握りしめて、21年間ラバンの冷遇と軽蔑を受けました。父の意志ひとつを胸に抱き、父の祝福の意志を忘れずに21年を一日ごとに生活しました。アブラハムも同様でした。モーセも選ばれた民を心配しながら、ファラオの宮殿で40年、ミディアンの荒野で40年を耐え忍びました。そして、イエス様も同様であったことを皆さんは知るべきです。

 それでは、終末に置かれた今日の私たちが、サタンの世界に抱かれていた人類、神の悲しみの条件を持つ哀れな人類を救うために戦いを展開するならばどうなるでしょうか?この戦いで人類を救うために犠牲になる人がいるならば、その人の墓は神が建ててくださり、その人の死後の足跡は神が明らかにしてくださるでしょう。行き詰まった道に立っている皆さんは、「自分の命を守ろうとする者はそれを失い、失う者はそれを得るであろう」(ルカ17:33)という聖書の言葉を覚えておくべきです。サタンの条件を掲げてイエスを裏切った者たちはすべて滅びました。

 私たちの民族も日本の統治下にあった時、自分の不利な立場を逃れるために神社参拝をし、教団を売り渡した人々は皆滅びました。涙のない教団、民族、そして世界はすべて滅びるのです。ですから、皆さんはこの民族に対して、神の摂理の前に他のどの民族よりも早く移されるための神の隠れた摂理の意志があることを知るべきです。

 したがって、皆さんがイエスの事情を理解し、神の立場を代わりに担うことができれば、神の理念の時代が来た時、この地上で第二のキリストの福音を受け継ぐ天が許した生命の息子娘となることができるのです。これを心に刻んでおかなければなりません。

 また、皆さんには民族に対する責任があり、多くの教団に対する責任があるのです。ところで、皆さんは食事をしたり、服を着たり、眠ったりする時に、この民族のために、あるいは天地に対して無限の心配をしたことがありますか?もしこの世界に対して、天地に対して心配する息子娘がいるならば、その人は新しい時代の主人公となることを皆さんは確信すべきです。

 摂理的な歴史の過程を思い起こすと、涙を抑えることはできません。しかし、そこに留まらず、それを鏡として今日耐えなければならない環境、耐え忍ばなければならない環境において敗北者とならず、天が喜ぶことのできる天の息子娘として立つことのできる者となるべきです。



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