文鮮明先生御言葉選集 4 - 20. 愛する息子と娘になって印を受ける者になろう (1958年9月14日)
1958年9月14日(日)、元本部教会。
聖書拝読:ヨハネによる福音書 10:31-36
<祈 り>
お父様! お父様を迎えて謙虚に崇拝したいという心のない者は、永遠の彼の国でお父様と縁を結ぶことができないことを知りました。
今、私たちが心の扉を開けて訪ねるとき、その心の中心にお父様の心情を感じて、私の心の主体的な命令に私の体が従うことができる、その待ち望む日を探しています。今日、私たちの心から湧き出るあなたの声を聞いて、失われた自分の体を見つけることができ、お父様が私一人を見つけるために私の背後で苦難と努力の歴史過程を経てきたことを感じて、自ら頭を下げることができる私たちを許してください。また、お父様に対する敬虔な心を自ら体と心で感じることができる私たちになれるようにお許しください。
私たちを訪ねて来られるお父様はいつも「栄光のお父様」としてだけでなく、お父様は悲しみの主人公として、あるいは苦痛の主人公として訪ねて来られ、悲運の表情で訪ねて来られました。そのようなお父様であることを知らなかったために、私たちの悲しみをお父様に任せたがり、私たちの困難をお父様に任せたがり、私たちの悲運をお父様に任せたかったことをお許しください。
そのような歴史の道を歩んできて、悲しみを抑えて嘆きながら訪ねてくださったお父様をお父様と呼ぶことができない堕落の種族であることを私たちは悟り、千年のお父様の努力を軽減するために努めるならば、お父様の悲しみの道を知らない息子と娘がいないようにお許しください、私のお父様、切に願います。
今日、私たちを招いてくださいましたが、集まった私たちにどんな面目があるでしょうか。願わくば、お父様の事情を解放できる者たちがこの場所に集まることを許してください。そして、そのような事がこの一聴衆の体と心から溢れるように許してください、お父様、切に願います。
2
この時間、お父様、私たちを抱きしめてくださり、失われた父の恩恵を再び回復し、私たちの罪を清算するこの時間になるように許してください、お父様! 切に願います。
この時間を司り、お父様! あなたの言葉を伝えたいと願いますので、与える者の心と受け取る者の心が二つにならないように許してください、これを攻撃する者は私たちではなくサタンであることを知っています。私たちの俗っぽい心が悪しきサタンと交流することを望まず、ただお父様の意志だけを信じることができるようにしてください。伏してお父様の前に悔い改めさせてください、私たちが天命が示す道を、お父様とは違う心で進むことがないようにしてください。もしそのような心の隔たりが少しでもあるならば、それを克服するために全体が心を一つにしてこれを乗り越えることができる切なる心を持つことをお許しください、切に願います。
この日は聖なる日であるので、意志を知らない可哀想な人々を祝福してください、可哀想な立場にいる三千万民族に福を授けてください、この民族のために多くの息子娘がひざまずいて礼拝する場所に祝福の手を差し伸べてください、切に願います。声を荒げて戦う民族を憐れんで見てください、お父様! 互いに許し合い、忍耐できる寛容な心を持つことをお許しください、切に願います。
地を抱いて泣くべきこの時、あなたの事情を抱いて泣くべきこの時に、お父様の心情を持つ者がいるならば、この者たちを天の側に立て直すと信じます。私たちの姿をお父様、お許しください。天を追って行くと言いながら敵を追って行く可哀想な者たち、敵ではない者を敵と認識して打ちのめそうとしている愚かな者たちをお許しください。彼らの生命を誰が守るのでしょうか? 彼らの進むべき道を誰が明らかにするのでしょうか? 父の言葉を受け取って耐えられるように許してください、お父様、切に願います。
お父様! 民族の運命を憂う父の意志があることを知っています。民族の進むべき道を憂うお父様!世界中で迫害を受けるこの民族を憐れんでください。この民族を代表して天を仰ぎ、誠心の祭壇を築いている多くの者たちを覚えてください、終末の審判の鞭がこの民族の前に下されないことを心から訴えることができる私たちを許してください!切に願います。
3
今、私たちはお父様の前にまず訴え、進むべき責任が私たちにあることを知りました、私たちがこの責任のために生き、この責任のために祈り、この責任を果たすために天に向かって訴え、お父様を中心として生きるならば、必ずや父の意志がこの地に実現すると信じています。この者たちをそのような立場に立たせてください、切に願います。
この時間を親しく司ってくださることを願い、すべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。
<御言葉>
この時間は『愛する息子娘になって印を受ける者になろう』という題でしばらくお話しします。
どのような希望の世界を望む心があるとき、その希望と縁のある場所にいることができるなら、その希望の中心にとどまりたいと願うのは、今日の人々が持っている共通の心情でしょう。
そして、神の希望があるとしたら、その希望の中に自分たちがとどまることを望むのもまた、皆さんの心でしょう。一つの家庭を見ても、その家庭にはその家庭を導く主人がいて、家族がその主人の心にとどまりたいと願うのも同じ心からでしょう。国家もそうであり、世界もそうであり、天地万物を探し求めて来られた父の摂理の意図もそうであることを、皆さんは覚えておくべきです。
4
したがって、皆さんは自分たちが仕える指導者の心に記憶されるべきであり、どのような宗教を信じるにしても、その宗教の教主の心に記憶されるべきであり、さらに神がいるとしたら、その神の心に記憶される皆さんであるべきです。
そして、神の前に一時的に記憶される皆さんではなく、父の希望と事情をかけて、また父の心情をかけて、永遠に記憶されることのできるそのような息子娘がいるとしたら、天はその息子娘をつかまえてすべての事情を語るでしょう。それだけでなく、6千年の労苦の摂理として探し求めて来られた全体の祝福を無条件で渡そうとされるでしょう。これが父の心情であることを、皆さんは知らなければなりません。
今日、親の血肉を受けて一つの存在として生まれた皆さんは、決して無関心な存在ではありません。歴史的な宗教を支配してきた天があり、天の運勢に従って動いてきた世界があり、世界の運勢に連なって希望を持って進んでいる国家があり、国家の法度に従って進んでいる家庭があり、人倫を従う私個人がいることを認めるならば、天は世界を、世界は国家を、国家は社会を経て家庭に、家庭は私に至るまで完全な縁が結ばれなければならないということです。このような関係が設定されていることを、皆さんは否定することはできません。
このような立場に立つ私、否定しようとしても否定できない環境的な縁を持っている私たちは、今誰のために動いているのでしょうか?皆さんの家庭はどこを向かっているのでしょうか?この国とこの世界はどこを向かっているのでしょうか?これらは私たちが深く考えるべき重大な問題です。
人間の祖の堕落以来、神は人間たちに対して悲しまれたと私たちは知っています。では、その悲しみはどこへ流れていくのでしょうか?すなわち、どこにとどまることを切望して流れているのでしょうか?また、神の苦痛はどのような歴史の道を経て、どのような民族を経て、どのような血族を経て、どのような人に伝わってきたのでしょうか?神の希望はまた、どのような歴史の道を経て、どのようなものと関係を結ぶために動いてきたのでしょうか?それは世界でもなく、国家でもなく、家庭でもなく、まさに私なのです。神の希望は私一人から決まるという事実を、皆さんは確実に知るべきです。
5
したがって、神が認めることのできる一つの足場を持っていなければ、天がどれほど良いとしても関係はなく、私が自分自身で決定できる一つの基準を立てていなければ、どれほど世界的な理論が現れてもその理論は私と全く関係がないのです。このように私一人を基点にして歴史的な悲しみが左右され、歴史的な苦痛と困難が左右されているということを、皆さん自身の心情で、体で、あるいは骨と肉で深く感じたことがありますか?ないとしたら、血の涙を含んで激闘を経て死の道を恐れなかった先祖たちが、皆さんを訴えるでしょう。
私たちはこのような歴史的な信仰者たちが残した伝統と縁を持っています。ところが、もしその縁を忘れてしまう者がいるならば、彼らは全世界の天倫、人倫を総合した宇宙の前で恩知らずの者となるでしょう。今こそこれを悟るべき時が来たのです。それでは、皆さん個々が内面的な信仰を持つにあたって、天倫の前にまず感じるべきことは何でしょうか?まず探すべきことは何でしょうか?それは喜びではありません。幸福でもありません。決して栄光ではありません。
人間が天に悲しみを感じさせたために、まず探し求めるべきことは、この地を支配してきた天の悲しみなのです。今日、道の道を歩んでいる人々は、どの時代どの世界を問わず、天の涙を拭うために苦しみの十字架を越える者であり、無念の嘆きの場所で天の前に訴えの祭壇を築いている者たちであることを、皆さんは知らなければなりません。
では、天はなぜ愛する息子娘をこのような十字架の道に追いやるのでしょうか?それは天の縁がこの世界と国家を経て、民族を経て、社会を経て家庭を経て私に至るまで縁づけられ、世界の縁が私たちに直接的に通じるようにするためです。したがって、皆さんは天の事情を代弁する天の側の息子娘という威信を立てるために、6千年の歴史の悲しみを一瞬の生涯で感じるようにされた天の心情を理解することができなければなりません。
神様はエデンの園を築かれ、そこで永遠に幸福を享受することを望まれましたが、そのエデンの祝福は人間の堕落によって消えてしまいました。ですから、この祝福を失った神様は幸福な神ではなく、悲しみを背負う神となり、国や民から孤独に打たれながらも民族を探し求め、全宇宙の祝福を探し求めて来られたのです。
6
このように、人間たちに対する悲劇的な事情で絡み合った歴史の道を歩んで来られたのが、天の嘆きの道であるとすれば、その嘆きと事情が皆さんと深く結びつかなければなりません。これが人間の責任であり、天の責任であるゆえに、人間が天を探し求める際には神様の悲しみを理解しなければなりません。
1958年9月14日(日)、元本部教会。
聖書拝読:ヨハネによる福音書 10:31-36
<祈 り>
お父様! お父様を迎えて謙虚に崇拝したいという心のない者は、永遠の彼の国でお父様と縁を結ぶことができないことを知りました。
今、私たちが心の扉を開けて訪ねるとき、その心の中心にお父様の心情を感じて、私の心の主体的な命令に私の体が従うことができる、その待ち望む日を探しています。今日、私たちの心から湧き出るあなたの声を聞いて、失われた自分の体を見つけることができ、お父様が私一人を見つけるために私の背後で苦難と努力の歴史過程を経てきたことを感じて、自ら頭を下げることができる私たちを許してください。また、お父様に対する敬虔な心を自ら体と心で感じることができる私たちになれるようにお許しください。
私たちを訪ねて来られるお父様はいつも「栄光のお父様」としてだけでなく、お父様は悲しみの主人公として、あるいは苦痛の主人公として訪ねて来られ、悲運の表情で訪ねて来られました。そのようなお父様であることを知らなかったために、私たちの悲しみをお父様に任せたがり、私たちの困難をお父様に任せたがり、私たちの悲運をお父様に任せたかったことをお許しください。
そのような歴史の道を歩んできて、悲しみを抑えて嘆きながら訪ねてくださったお父様をお父様と呼ぶことができない堕落の種族であることを私たちは悟り、千年のお父様の努力を軽減するために努めるならば、お父様の悲しみの道を知らない息子と娘がいないようにお許しください、私のお父様、切に願います。
今日、私たちを招いてくださいましたが、集まった私たちにどんな面目があるでしょうか。願わくば、お父様の事情を解放できる者たちがこの場所に集まることを許してください。そして、そのような事がこの一聴衆の体と心から溢れるように許してください、お父様、切に願います。
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この時間、お父様、私たちを抱きしめてくださり、失われた父の恩恵を再び回復し、私たちの罪を清算するこの時間になるように許してください、お父様! 切に願います。
この時間を司り、お父様! あなたの言葉を伝えたいと願いますので、与える者の心と受け取る者の心が二つにならないように許してください、これを攻撃する者は私たちではなくサタンであることを知っています。私たちの俗っぽい心が悪しきサタンと交流することを望まず、ただお父様の意志だけを信じることができるようにしてください。伏してお父様の前に悔い改めさせてください、私たちが天命が示す道を、お父様とは違う心で進むことがないようにしてください。もしそのような心の隔たりが少しでもあるならば、それを克服するために全体が心を一つにしてこれを乗り越えることができる切なる心を持つことをお許しください、切に願います。
この日は聖なる日であるので、意志を知らない可哀想な人々を祝福してください、可哀想な立場にいる三千万民族に福を授けてください、この民族のために多くの息子娘がひざまずいて礼拝する場所に祝福の手を差し伸べてください、切に願います。声を荒げて戦う民族を憐れんで見てください、お父様! 互いに許し合い、忍耐できる寛容な心を持つことをお許しください、切に願います。
地を抱いて泣くべきこの時、あなたの事情を抱いて泣くべきこの時に、お父様の心情を持つ者がいるならば、この者たちを天の側に立て直すと信じます。私たちの姿をお父様、お許しください。天を追って行くと言いながら敵を追って行く可哀想な者たち、敵ではない者を敵と認識して打ちのめそうとしている愚かな者たちをお許しください。彼らの生命を誰が守るのでしょうか? 彼らの進むべき道を誰が明らかにするのでしょうか? 父の言葉を受け取って耐えられるように許してください、お父様、切に願います。
お父様! 民族の運命を憂う父の意志があることを知っています。民族の進むべき道を憂うお父様!世界中で迫害を受けるこの民族を憐れんでください。この民族を代表して天を仰ぎ、誠心の祭壇を築いている多くの者たちを覚えてください、終末の審判の鞭がこの民族の前に下されないことを心から訴えることができる私たちを許してください!切に願います。
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今、私たちはお父様の前にまず訴え、進むべき責任が私たちにあることを知りました、私たちがこの責任のために生き、この責任のために祈り、この責任を果たすために天に向かって訴え、お父様を中心として生きるならば、必ずや父の意志がこの地に実現すると信じています。この者たちをそのような立場に立たせてください、切に願います。
この時間を親しく司ってくださることを願い、すべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。
<御言葉>
この時間は『愛する息子娘になって印を受ける者になろう』という題でしばらくお話しします。
どのような希望の世界を望む心があるとき、その希望と縁のある場所にいることができるなら、その希望の中心にとどまりたいと願うのは、今日の人々が持っている共通の心情でしょう。
そして、神の希望があるとしたら、その希望の中に自分たちがとどまることを望むのもまた、皆さんの心でしょう。一つの家庭を見ても、その家庭にはその家庭を導く主人がいて、家族がその主人の心にとどまりたいと願うのも同じ心からでしょう。国家もそうであり、世界もそうであり、天地万物を探し求めて来られた父の摂理の意図もそうであることを、皆さんは覚えておくべきです。
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したがって、皆さんは自分たちが仕える指導者の心に記憶されるべきであり、どのような宗教を信じるにしても、その宗教の教主の心に記憶されるべきであり、さらに神がいるとしたら、その神の心に記憶される皆さんであるべきです。
そして、神の前に一時的に記憶される皆さんではなく、父の希望と事情をかけて、また父の心情をかけて、永遠に記憶されることのできるそのような息子娘がいるとしたら、天はその息子娘をつかまえてすべての事情を語るでしょう。それだけでなく、6千年の労苦の摂理として探し求めて来られた全体の祝福を無条件で渡そうとされるでしょう。これが父の心情であることを、皆さんは知らなければなりません。
今日、親の血肉を受けて一つの存在として生まれた皆さんは、決して無関心な存在ではありません。歴史的な宗教を支配してきた天があり、天の運勢に従って動いてきた世界があり、世界の運勢に連なって希望を持って進んでいる国家があり、国家の法度に従って進んでいる家庭があり、人倫を従う私個人がいることを認めるならば、天は世界を、世界は国家を、国家は社会を経て家庭に、家庭は私に至るまで完全な縁が結ばれなければならないということです。このような関係が設定されていることを、皆さんは否定することはできません。
このような立場に立つ私、否定しようとしても否定できない環境的な縁を持っている私たちは、今誰のために動いているのでしょうか?皆さんの家庭はどこを向かっているのでしょうか?この国とこの世界はどこを向かっているのでしょうか?これらは私たちが深く考えるべき重大な問題です。
人間の祖の堕落以来、神は人間たちに対して悲しまれたと私たちは知っています。では、その悲しみはどこへ流れていくのでしょうか?すなわち、どこにとどまることを切望して流れているのでしょうか?また、神の苦痛はどのような歴史の道を経て、どのような民族を経て、どのような血族を経て、どのような人に伝わってきたのでしょうか?神の希望はまた、どのような歴史の道を経て、どのようなものと関係を結ぶために動いてきたのでしょうか?それは世界でもなく、国家でもなく、家庭でもなく、まさに私なのです。神の希望は私一人から決まるという事実を、皆さんは確実に知るべきです。
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したがって、神が認めることのできる一つの足場を持っていなければ、天がどれほど良いとしても関係はなく、私が自分自身で決定できる一つの基準を立てていなければ、どれほど世界的な理論が現れてもその理論は私と全く関係がないのです。このように私一人を基点にして歴史的な悲しみが左右され、歴史的な苦痛と困難が左右されているということを、皆さん自身の心情で、体で、あるいは骨と肉で深く感じたことがありますか?ないとしたら、血の涙を含んで激闘を経て死の道を恐れなかった先祖たちが、皆さんを訴えるでしょう。
私たちはこのような歴史的な信仰者たちが残した伝統と縁を持っています。ところが、もしその縁を忘れてしまう者がいるならば、彼らは全世界の天倫、人倫を総合した宇宙の前で恩知らずの者となるでしょう。今こそこれを悟るべき時が来たのです。それでは、皆さん個々が内面的な信仰を持つにあたって、天倫の前にまず感じるべきことは何でしょうか?まず探すべきことは何でしょうか?それは喜びではありません。幸福でもありません。決して栄光ではありません。
人間が天に悲しみを感じさせたために、まず探し求めるべきことは、この地を支配してきた天の悲しみなのです。今日、道の道を歩んでいる人々は、どの時代どの世界を問わず、天の涙を拭うために苦しみの十字架を越える者であり、無念の嘆きの場所で天の前に訴えの祭壇を築いている者たちであることを、皆さんは知らなければなりません。
では、天はなぜ愛する息子娘をこのような十字架の道に追いやるのでしょうか?それは天の縁がこの世界と国家を経て、民族を経て、社会を経て家庭を経て私に至るまで縁づけられ、世界の縁が私たちに直接的に通じるようにするためです。したがって、皆さんは天の事情を代弁する天の側の息子娘という威信を立てるために、6千年の歴史の悲しみを一瞬の生涯で感じるようにされた天の心情を理解することができなければなりません。
神様はエデンの園を築かれ、そこで永遠に幸福を享受することを望まれましたが、そのエデンの祝福は人間の堕落によって消えてしまいました。ですから、この祝福を失った神様は幸福な神ではなく、悲しみを背負う神となり、国や民から孤独に打たれながらも民族を探し求め、全宇宙の祝福を探し求めて来られたのです。
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このように、人間たちに対する悲劇的な事情で絡み合った歴史の道を歩んで来られたのが、天の嘆きの道であるとすれば、その嘆きと事情が皆さんと深く結びつかなければなりません。これが人間の責任であり、天の責任であるゆえに、人間が天を探し求める際には神様の悲しみを理解しなければなりません。
神様の苦痛と悲しみと無念さを抱いて、無数のサタンに対して戦い勝つことができなければなりません。そうでなければ、そのような歴史的な心情を体感しなければ、敵と戦おうにも戦うことができないということを皆さんは理解するべきです。
この地には、多くの財産を持っていてそれを失うと嘆く人がいます。あるいは子供を持っていて、その子供を失うと嘆く人もいます。しかし、地上のどんな貴重なものを持っていても、それを失って悲しむ人は多いですが、自分自身を失い、天を失って悲しむ人はほとんどいないのです。全宇宙を与えても取り替えられない自分自身を失い、宇宙と比べられない栄光の実体である天を失って悲しむ人は非常に少ないのです。
今日、道を歩む人にとっては、集めた財産を失うことが悲しみではなく、自分自身を失うことが悲しみであり、天を失うことが悲しみです。天を探し求める道は、悲しみを探し求める道です。だからイエス様も「あなたの背に十字架を背負って私に従いなさい」とおっしゃったのです。
ですから、今、私たちが悲しむことで天の悲しみを代わりにし、私たちの苦痛と無念さが天の苦痛と無念さを代わりにすることができてこそ、父の前に立つことができるのです。神様が6千年の間歩んで来られた一歩一歩がそのようであるため、歴史的な摂理と縁を持っている皆さんが、歴史的摂理の主人公である父との縁を結ぶためには、そのような悲しみ、そのような苦痛、そのような無念さを担わなければならないのです。
これが天倫の道であるため、歴史の道の各時代に悲しみが宿りましたが、計画された意図を成し遂げるために、すなわち、万物を探し、民を探し、子供を探し、そして神様自身を探さなければならないために、天はこのような道を歩んで来られたのです。
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人間が堕落したために天地を失われた神様は、神としての役割を全うできずにいらっしゃるのです。力と威信と権限を失われたのです。これを回復するための復帰運動が、今日、善を目指して進む人倫の指導理念の基準であり、道を探し求める道の者たちの心的基準なのです。私たちは失われた宇宙を必ずや取り戻さなければならないのです。
では、私はどうすればよいのでしょうか?天が認める私個人を見つけ、天が認める家庭、天が認める社会、天が認める国家、天が認める世界、天が認める宇宙を探し、神様の意図を解放し成し遂げなければなりません。そうして神様の権限を持って万物を統治し、神様を迎えることができなければなりません。これが生涯をかけて探し求めなければならない重大な問題なのです。もし皆さんがそのように神様に対することができないとしたら、どれほど神様がこの世界に現れても、国家に訪れても、どれほど神様が社会に現れても、家庭に訪れても、皆さん自身とは何の関係もないということです。
これまでの歴史の過程を振り返ると、どの時代でもすべての主義や理念が天運に向かって動いていたのです。そうして多くの理念が集まってきて、今では一つの理念、世界的な理念の時代となったのです。どの主義であっても二つがぶつかり合えば、必ず一つは壊れるのが原則です。今、私たちは人間を中心とした平面的な戦いではなく、天を中心とした立体的な戦いの時期にあり、霊界が私たちを襲うために待っていることを知っておくべきです。
ですから、現在の世界各地で終末の現象が現れています。すなわち、精神病者が多く現れ、神経系統の恐怖症現象が生じています。これにより、アダムが堕落直後に恐怖心を抱いたように、この世界は天倫を裏切った血のために言葉にできない恐怖を感じる人々で満ちている世界になりつつあるのです。
次には、理念を失った世界がやってきます。このような時には、私のどんな固執も通用しません。ここに追い込まれ、あちらに流され、まさにすべてが混沌として中心を持てない宇宙の終末時代に直面している皆さんは、この歴史的な転換点を前にしてどうすればよいのでしょうか!崩れゆくこの世界とこの民族を見つめて、皆さんはどうすればよいのでしょうか。天が私を立てて民族の前に誇ることができ、私を立ててこの宇宙の前に誇ることができるようになるためには、神様と親子の関係を結ばなければならず、神様が万物を支配することができる理念を立てたからこそ、万物を支配することができる私にならなければなりません。
8
しかし、今日私たちは前を見ても塞がれており、後ろを振り返っても分からず、横を見ても敵がいます。左右どちらも中心も、すべてが私を破壊しようとするサタンたちで満ちています。このような時に、私たちは自分自身を守り、天を守り、天倫を守り、そして左右のサタンたちを防がなければなりません。全宇宙と天地万物の主人公が天であるなら、その天には何らかの理念があるでしょう。そして一人を立ててその理念を成し遂げようとするでしょう。
天を求める人には、その過程には幸福がありません。満足もありません。過程で満足する人がいるとしたら、その人は真に天を求める人ではありません。まず悲しみが訪れるのが原則であり、苦痛を受けるのが原則です。すなわち、縦にも横にも、そして左右に悲しみと苦痛と無念さを経験した後にこそ、喜びが訪れるのです。このような理由から、キリスト教では6千年の歴史をすべて一掃する日を審判の日と呼ぶのです。
では、天が悲しみと苦痛を持ち、無念さを持って私たちにそれを信じさせようとするのは何を意味するのでしょうか?それは決して皆さんを滅ぼすためではありません。皆さんを天の息子娘とするためなのです。息子娘であれば血と肉が通います。そして思想が通じなければならず、理念が通じなければなりません。そのような相対的な基準を構成して動かなければならないのです。
しかし、神と私たちの父子関係を誰が破壊したのでしょうか?この関係は神の力だけでは回復できず、私たちの力だけでも回復できない、悲しい状況にあります。皆さんにとってこれ以上に悔しいことはないでしょう。それゆえに、私たちは子を愛する父を失った悲しみ、永遠に共に生きるべき親を迎えることもできず、会うこともできず、従うこともできないという、絡み合ったその悲しみ、その苦しみ、その無念さを感じることのできる息子娘にならなければなりません。
神様は悲運の道を歩みながら、父と子の関係を結び、私の息子娘だと喜べる子供を探してこられましたが、私たちは全く神の悲しみを知らなかったのです。子供を子供と呼べず、息子を息子と呼べない堕落した血統を引き継ぎ、サタンの支配権内にあるため、理念的には切り離すことのできない血肉の関係を持っている息子でありながら、実生活では無数の敵の条件を持っているのです。
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したがって、神は二つの悲しみを持つことになったのです。息子を失ったことが一つの悲しみであり、再び関係を結ぶことができないことがもう一つの悲しみなのです。神にこのような悲しみをもたらした私たちは、罪人中の罪人であり、負債者中の負債者であることを感じなければなりません。天に対して6千年の歴史的な労苦をもたらし、悔い改めて労苦しなければならない負債者中の負債者であるということです。
神が愛する子供である私たちを子供と呼べず、誰が拒否してもその心から消え去ることができない、心情で結ばれた父子の関係、永遠の愛を中心とした縁は神自身も拒否できない深い心情で流れているのに、そのような心情を持ちながらも息子娘と心から呼べず、接することができないのが悲劇なのです。
今日の私たちの悲しみは、神の悲しみに比べれば悲しみではありません。お金がたくさんあるからといって喜ばないでください。自分が望んだすべての幸福な外的条件を備えているからといって、その心が喜ぶわけではありません。物質を持つほど、それに比例して償還の条件が私をさらに沈滞させることを知らなければなりません。今日の地上の堕落世界において「すべてを清算して出てきたので天の息子娘になれる」と自信を持って言える人がどこにいるでしょうか?
私たちは天を見つめ、天が流した涙の跡の前に伏して叫ぶ人類の悲しみと神の涙に満ちた心情と嘆きに染み込み、叫ぶ万物の悲しみを感じることができなければなりません。
私たちはまた、父の悲しみを感じなければなりません。父の苦痛を感じなければなりません。父の無念さを知るべきです。そして天の理念を持って神に代わり地を主観できてこそ、父の意志を成し遂げることができることを知らなければなりません。
10
今日、この地が堕落世界であるために、皆さんが神と出会うことができず、神も天的創造の原則と宇宙的天法の基準があるため、その原則を超えて人間を直接探しに来ることができないのです。
ですから、旧約時代には犠牲を捧げてそれを条件として人間と万物が結ばれました。新約時代にはイエス様が犠牲となりました。イエス様を通じて人間と万物、イエス様と人類が縁を結ぶことができたのです。神の子であるイエスが極めて悲しい場所に昇ることによって、天の祝福の基準が成り立ち、イエス様と人類が縁を結ぶことができたのです。
今、結ばれるべきは父と子の縁です。その縁を結ぶためには、子のために父が打たれなければなりません。そして万民から民へ、民から子へ、子から神へと縁を結ばなければなりません。これが幸福と理念、そして栄光を求めて復帰する神の法則です。
では、その縁はどこで結ばれなければならないのでしょうか?霊界ではなく地上で結ばれなければなりません。だからこそ、天は新郎であり、地は新婦だと強調されたのです。これは破ることのできない縁です。そして人間がそれを感じる心情は変わりません。千年前の人も万年後の人も、その心情を超えることはできないので、一つしかない絶対的な基準を立て、新郎は新婦の名前を立て、それを条件として息子娘まで縁を結んでいくのです。そして地を探し、民を探し、子の実体を探し、親を探すのです。これが復帰です。
ですから、万物と人間との関係を結ぶためには万物を犠牲として捧げ、民と子との関係を結ぶためには子を殺して犠牲として捧げ、子と父との関係を結ぶためには父が十字架を背負わなければなりません。このような歴史的な理念の過程を見ると、今日私たちには歴史的な理念の過程を一挙に償還復帰しなければならない使命があるため、今は父を立てて私を探さなければならない終わりの日だということです。
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旧約時代には民の代わりに祭司を立てて犠牲を捧げ、祖先を崇拝し律法を行えば、それなりに救いを得ることができました。新約時代にはイエスを信じれば救いを得ましたが、今後は神を信じなければなりません。血と肉が絡み合い、手が絡み合って永遠に拒むことのできない基準で縁を結んだ私たちの父なる神を信じなければなりません。
6千年の摂理の歴史が繰り返される悲しい道のりで、心だけでなく体まで「これが私の息子だ」と天が認めることのできる一つの息子娘が生まれなければなりません。そのような息子娘が生まれることによって、神が地のために流した涙について理解し、無知な人々を目覚めさせることができるでしょう。また、歴史以来多くの人々が知らなかった涙を流す神の事情を知ることができるのです。
では、この地の民と子のために涙を流す神の事情を知らない全人類、全天地を代表してその心情を知ることができる人は誰でしょうか?親が子を愛する心が時間を超越して永遠であるように、千里の距離を超え、限界のないその天的心情を理解し、今日歴史的な父を抱いて「父の悲しい心が私の心であり、父の切ない心情が私の心情です。私に十字架の重荷を背負わせてください」と言える人でしょう。
皆さんは苦痛の十字架を再び背負わなければならない天の事情を知っていますか?今日私たちは、この民族に対する神の心情と神の意志に従って苦しんだ先祖たちの土地に対するすべての歴史的心情、民に対する心情、子に対する心情、さらには神に対する心情を感じ取らなければなりません。
苦痛の中にあったパウロは嘆いて「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができようか」(ローマ8:35)と言いました。これは、パウロがキリストの中にある神の愛を知っていたことを意味します。イエスも神の前では花嫁の立場にあるのです。私たちの新郎であるイエスにとっても、必要なのは神の愛なのです。
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新郎新婦の地位は外面的なものです。完全な復帰は、万物の復帰から始まり、子供の復帰までを完成しなければなりません。ですから、新郎新婦の関係を経て聖霊と出会い、イエスと出会わなければなりません。そしてそこにとどまることなく、「父よ!エデンの園で失った息子娘の代わりに祝福してください」と言えるようにならなければなりません。堕落の恨みを感じることなく、真の父母の息子娘として、神の祝福を受けることのできる息子娘になるべきなのです。
神の恨みとは何でしょうか? 神は民を抱きしめて泣き、地を対して泣かれましたが、神が望まれる勝利した息子を抱きしめて喜びの涙を流すことができなかったことが、天の恨みです。つまり、天から「あなたは勝利した息子だ」と認められる人がいないことが、天の恨みであり、悲しみなのです。さらに、失われた息子娘を探し求めるために彷徨う神を抱きしめて泣いた人が一人もいなかったのです。
子供を持つ親がたとえ一国の首相であったとしても、失われた子供を見つける場面では、一国の首相としての体面や面目は問題ではありません。体面を無視し、威信を無視して、その子供が乞食であろうと何であろうと、手を握りしめ、体を抱きしめて号泣するでしょう。神と人間の間でそのような場面が天地創造以来地上で一度も起こらなかったことが、神の悲しみであり、万物の悲しみであり、人間の悲しみであることを皆さんは知るべきです。
犠牲の時代には犠牲を捧げて上がり、民族を立てるときには指導者の言葉を信じてその指導者に従って上がりました。その時には指導者の言葉に従うことがすなわち犠牲でした。その後、独り子イエスを信じて上がりました。今後は真の父母を信じなければなりません。真の父の息子娘にならなければなりません。皆さんはその道を探し求めようと努力する人になるべきです。
6千年の歴史の理念があったとしても、今後はその理念の理論的な結実がこの地に現れなければなりません。地を抱きしめて泣くことができる一人の責任者、民を抱きしめて泣くことができる一人の責任者、イエスの事情を抱きしめて泣くことができる一人の責任者が、いつこの地に現れるのでしょうか?
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分断された歴史を今日一つの実体が現れてつなぎ、宇宙全体の歴史の理念を代わりにする実体が現れて、父と新郎新婦の心を揺さぶり、万民と縁を結ぶ心情を持つ責任者が現れて、地を抱きしめて泣く心を起こし、その心を維持させることができるようになることを、人々は望んでいるのです。
その一つの存在を私たちは天を代わりに迎え、イエスを代わりに迎え、万民を代わりに迎え、地を代わりに迎えなければなりません。そしてそのように地を抱きしめて泣き、地を愛し、民を抱きしめて泣き、民を愛し、次に神を抱きしめて泣き、神を愛することができるようにならなければなりません。そうして神の悲しい心情が喜びの心情に変わらなければなりません。
そのような皆さんを見て、父はもちろんのこと、三位一体の神や千万の聖徒やサタンの世界の人々までも「その通りだ」と言えるようになり、6千年の間に嘆きながら希望していた真の父母の子供として、歴史的な心情を代わりにして天の深い悲しみを解消するために誰よりも代表として戦い、サタンを復讐した息子として立てられ、神の永遠の愛の子供であると証しされることで、印を押されるのです。
今日、キリスト教徒が言う14万4千の群れ...、言葉は素晴らしいです。天の印を受けた息子娘...、言葉は素晴らしいです。解怨復帰の条件を整え、天倫の摂理を代行する天の息子娘が、彼らの言う通りでしょうか?実際には、天が印を押せる息子娘は、天を代わりに地に対して泣く心情を持たなければならないのです。
民を抱きしめて泣くことができ、苦痛を受け、無念さを受けるときにも天倫を代わりにし、天を代わりにして耐えることができる人でなければなりません。歴史的に深く刻まれた神の悲しみ、人間が犯したすべての過ちを回復し、すべての試練を克服することができる息子娘でなければ、印を押されることはできません。
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では、今日私たちはどこで印を受けるべきでしょうか?必ず神と共にでなければなりません。神の心情から印を受け、神の事情から印を受け、今日の自分の家庭から、社会から印を受けなければなりません。父を抱きしめて泣くことができる歴史的な心情の帰一の地点を見つけるときにのみ、天の印を受けることができるということを私たちは明確に理解するべきです。
この地には、多くの財産を持っていてそれを失うと嘆く人がいます。あるいは子供を持っていて、その子供を失うと嘆く人もいます。しかし、地上のどんな貴重なものを持っていても、それを失って悲しむ人は多いですが、自分自身を失い、天を失って悲しむ人はほとんどいないのです。全宇宙を与えても取り替えられない自分自身を失い、宇宙と比べられない栄光の実体である天を失って悲しむ人は非常に少ないのです。
今日、道を歩む人にとっては、集めた財産を失うことが悲しみではなく、自分自身を失うことが悲しみであり、天を失うことが悲しみです。天を探し求める道は、悲しみを探し求める道です。だからイエス様も「あなたの背に十字架を背負って私に従いなさい」とおっしゃったのです。
ですから、今、私たちが悲しむことで天の悲しみを代わりにし、私たちの苦痛と無念さが天の苦痛と無念さを代わりにすることができてこそ、父の前に立つことができるのです。神様が6千年の間歩んで来られた一歩一歩がそのようであるため、歴史的な摂理と縁を持っている皆さんが、歴史的摂理の主人公である父との縁を結ぶためには、そのような悲しみ、そのような苦痛、そのような無念さを担わなければならないのです。
これが天倫の道であるため、歴史の道の各時代に悲しみが宿りましたが、計画された意図を成し遂げるために、すなわち、万物を探し、民を探し、子供を探し、そして神様自身を探さなければならないために、天はこのような道を歩んで来られたのです。
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人間が堕落したために天地を失われた神様は、神としての役割を全うできずにいらっしゃるのです。力と威信と権限を失われたのです。これを回復するための復帰運動が、今日、善を目指して進む人倫の指導理念の基準であり、道を探し求める道の者たちの心的基準なのです。私たちは失われた宇宙を必ずや取り戻さなければならないのです。
では、私はどうすればよいのでしょうか?天が認める私個人を見つけ、天が認める家庭、天が認める社会、天が認める国家、天が認める世界、天が認める宇宙を探し、神様の意図を解放し成し遂げなければなりません。そうして神様の権限を持って万物を統治し、神様を迎えることができなければなりません。これが生涯をかけて探し求めなければならない重大な問題なのです。もし皆さんがそのように神様に対することができないとしたら、どれほど神様がこの世界に現れても、国家に訪れても、どれほど神様が社会に現れても、家庭に訪れても、皆さん自身とは何の関係もないということです。
これまでの歴史の過程を振り返ると、どの時代でもすべての主義や理念が天運に向かって動いていたのです。そうして多くの理念が集まってきて、今では一つの理念、世界的な理念の時代となったのです。どの主義であっても二つがぶつかり合えば、必ず一つは壊れるのが原則です。今、私たちは人間を中心とした平面的な戦いではなく、天を中心とした立体的な戦いの時期にあり、霊界が私たちを襲うために待っていることを知っておくべきです。
ですから、現在の世界各地で終末の現象が現れています。すなわち、精神病者が多く現れ、神経系統の恐怖症現象が生じています。これにより、アダムが堕落直後に恐怖心を抱いたように、この世界は天倫を裏切った血のために言葉にできない恐怖を感じる人々で満ちている世界になりつつあるのです。
次には、理念を失った世界がやってきます。このような時には、私のどんな固執も通用しません。ここに追い込まれ、あちらに流され、まさにすべてが混沌として中心を持てない宇宙の終末時代に直面している皆さんは、この歴史的な転換点を前にしてどうすればよいのでしょうか!崩れゆくこの世界とこの民族を見つめて、皆さんはどうすればよいのでしょうか。天が私を立てて民族の前に誇ることができ、私を立ててこの宇宙の前に誇ることができるようになるためには、神様と親子の関係を結ばなければならず、神様が万物を支配することができる理念を立てたからこそ、万物を支配することができる私にならなければなりません。
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しかし、今日私たちは前を見ても塞がれており、後ろを振り返っても分からず、横を見ても敵がいます。左右どちらも中心も、すべてが私を破壊しようとするサタンたちで満ちています。このような時に、私たちは自分自身を守り、天を守り、天倫を守り、そして左右のサタンたちを防がなければなりません。全宇宙と天地万物の主人公が天であるなら、その天には何らかの理念があるでしょう。そして一人を立ててその理念を成し遂げようとするでしょう。
天を求める人には、その過程には幸福がありません。満足もありません。過程で満足する人がいるとしたら、その人は真に天を求める人ではありません。まず悲しみが訪れるのが原則であり、苦痛を受けるのが原則です。すなわち、縦にも横にも、そして左右に悲しみと苦痛と無念さを経験した後にこそ、喜びが訪れるのです。このような理由から、キリスト教では6千年の歴史をすべて一掃する日を審判の日と呼ぶのです。
では、天が悲しみと苦痛を持ち、無念さを持って私たちにそれを信じさせようとするのは何を意味するのでしょうか?それは決して皆さんを滅ぼすためではありません。皆さんを天の息子娘とするためなのです。息子娘であれば血と肉が通います。そして思想が通じなければならず、理念が通じなければなりません。そのような相対的な基準を構成して動かなければならないのです。
しかし、神と私たちの父子関係を誰が破壊したのでしょうか?この関係は神の力だけでは回復できず、私たちの力だけでも回復できない、悲しい状況にあります。皆さんにとってこれ以上に悔しいことはないでしょう。それゆえに、私たちは子を愛する父を失った悲しみ、永遠に共に生きるべき親を迎えることもできず、会うこともできず、従うこともできないという、絡み合ったその悲しみ、その苦しみ、その無念さを感じることのできる息子娘にならなければなりません。
神様は悲運の道を歩みながら、父と子の関係を結び、私の息子娘だと喜べる子供を探してこられましたが、私たちは全く神の悲しみを知らなかったのです。子供を子供と呼べず、息子を息子と呼べない堕落した血統を引き継ぎ、サタンの支配権内にあるため、理念的には切り離すことのできない血肉の関係を持っている息子でありながら、実生活では無数の敵の条件を持っているのです。
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したがって、神は二つの悲しみを持つことになったのです。息子を失ったことが一つの悲しみであり、再び関係を結ぶことができないことがもう一つの悲しみなのです。神にこのような悲しみをもたらした私たちは、罪人中の罪人であり、負債者中の負債者であることを感じなければなりません。天に対して6千年の歴史的な労苦をもたらし、悔い改めて労苦しなければならない負債者中の負債者であるということです。
神が愛する子供である私たちを子供と呼べず、誰が拒否してもその心から消え去ることができない、心情で結ばれた父子の関係、永遠の愛を中心とした縁は神自身も拒否できない深い心情で流れているのに、そのような心情を持ちながらも息子娘と心から呼べず、接することができないのが悲劇なのです。
今日の私たちの悲しみは、神の悲しみに比べれば悲しみではありません。お金がたくさんあるからといって喜ばないでください。自分が望んだすべての幸福な外的条件を備えているからといって、その心が喜ぶわけではありません。物質を持つほど、それに比例して償還の条件が私をさらに沈滞させることを知らなければなりません。今日の地上の堕落世界において「すべてを清算して出てきたので天の息子娘になれる」と自信を持って言える人がどこにいるでしょうか?
私たちは天を見つめ、天が流した涙の跡の前に伏して叫ぶ人類の悲しみと神の涙に満ちた心情と嘆きに染み込み、叫ぶ万物の悲しみを感じることができなければなりません。
私たちはまた、父の悲しみを感じなければなりません。父の苦痛を感じなければなりません。父の無念さを知るべきです。そして天の理念を持って神に代わり地を主観できてこそ、父の意志を成し遂げることができることを知らなければなりません。
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今日、この地が堕落世界であるために、皆さんが神と出会うことができず、神も天的創造の原則と宇宙的天法の基準があるため、その原則を超えて人間を直接探しに来ることができないのです。
ですから、旧約時代には犠牲を捧げてそれを条件として人間と万物が結ばれました。新約時代にはイエス様が犠牲となりました。イエス様を通じて人間と万物、イエス様と人類が縁を結ぶことができたのです。神の子であるイエスが極めて悲しい場所に昇ることによって、天の祝福の基準が成り立ち、イエス様と人類が縁を結ぶことができたのです。
今、結ばれるべきは父と子の縁です。その縁を結ぶためには、子のために父が打たれなければなりません。そして万民から民へ、民から子へ、子から神へと縁を結ばなければなりません。これが幸福と理念、そして栄光を求めて復帰する神の法則です。
では、その縁はどこで結ばれなければならないのでしょうか?霊界ではなく地上で結ばれなければなりません。だからこそ、天は新郎であり、地は新婦だと強調されたのです。これは破ることのできない縁です。そして人間がそれを感じる心情は変わりません。千年前の人も万年後の人も、その心情を超えることはできないので、一つしかない絶対的な基準を立て、新郎は新婦の名前を立て、それを条件として息子娘まで縁を結んでいくのです。そして地を探し、民を探し、子の実体を探し、親を探すのです。これが復帰です。
ですから、万物と人間との関係を結ぶためには万物を犠牲として捧げ、民と子との関係を結ぶためには子を殺して犠牲として捧げ、子と父との関係を結ぶためには父が十字架を背負わなければなりません。このような歴史的な理念の過程を見ると、今日私たちには歴史的な理念の過程を一挙に償還復帰しなければならない使命があるため、今は父を立てて私を探さなければならない終わりの日だということです。
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旧約時代には民の代わりに祭司を立てて犠牲を捧げ、祖先を崇拝し律法を行えば、それなりに救いを得ることができました。新約時代にはイエスを信じれば救いを得ましたが、今後は神を信じなければなりません。血と肉が絡み合い、手が絡み合って永遠に拒むことのできない基準で縁を結んだ私たちの父なる神を信じなければなりません。
6千年の摂理の歴史が繰り返される悲しい道のりで、心だけでなく体まで「これが私の息子だ」と天が認めることのできる一つの息子娘が生まれなければなりません。そのような息子娘が生まれることによって、神が地のために流した涙について理解し、無知な人々を目覚めさせることができるでしょう。また、歴史以来多くの人々が知らなかった涙を流す神の事情を知ることができるのです。
では、この地の民と子のために涙を流す神の事情を知らない全人類、全天地を代表してその心情を知ることができる人は誰でしょうか?親が子を愛する心が時間を超越して永遠であるように、千里の距離を超え、限界のないその天的心情を理解し、今日歴史的な父を抱いて「父の悲しい心が私の心であり、父の切ない心情が私の心情です。私に十字架の重荷を背負わせてください」と言える人でしょう。
皆さんは苦痛の十字架を再び背負わなければならない天の事情を知っていますか?今日私たちは、この民族に対する神の心情と神の意志に従って苦しんだ先祖たちの土地に対するすべての歴史的心情、民に対する心情、子に対する心情、さらには神に対する心情を感じ取らなければなりません。
苦痛の中にあったパウロは嘆いて「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができようか」(ローマ8:35)と言いました。これは、パウロがキリストの中にある神の愛を知っていたことを意味します。イエスも神の前では花嫁の立場にあるのです。私たちの新郎であるイエスにとっても、必要なのは神の愛なのです。
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新郎新婦の地位は外面的なものです。完全な復帰は、万物の復帰から始まり、子供の復帰までを完成しなければなりません。ですから、新郎新婦の関係を経て聖霊と出会い、イエスと出会わなければなりません。そしてそこにとどまることなく、「父よ!エデンの園で失った息子娘の代わりに祝福してください」と言えるようにならなければなりません。堕落の恨みを感じることなく、真の父母の息子娘として、神の祝福を受けることのできる息子娘になるべきなのです。
神の恨みとは何でしょうか? 神は民を抱きしめて泣き、地を対して泣かれましたが、神が望まれる勝利した息子を抱きしめて喜びの涙を流すことができなかったことが、天の恨みです。つまり、天から「あなたは勝利した息子だ」と認められる人がいないことが、天の恨みであり、悲しみなのです。さらに、失われた息子娘を探し求めるために彷徨う神を抱きしめて泣いた人が一人もいなかったのです。
子供を持つ親がたとえ一国の首相であったとしても、失われた子供を見つける場面では、一国の首相としての体面や面目は問題ではありません。体面を無視し、威信を無視して、その子供が乞食であろうと何であろうと、手を握りしめ、体を抱きしめて号泣するでしょう。神と人間の間でそのような場面が天地創造以来地上で一度も起こらなかったことが、神の悲しみであり、万物の悲しみであり、人間の悲しみであることを皆さんは知るべきです。
犠牲の時代には犠牲を捧げて上がり、民族を立てるときには指導者の言葉を信じてその指導者に従って上がりました。その時には指導者の言葉に従うことがすなわち犠牲でした。その後、独り子イエスを信じて上がりました。今後は真の父母を信じなければなりません。真の父の息子娘にならなければなりません。皆さんはその道を探し求めようと努力する人になるべきです。
6千年の歴史の理念があったとしても、今後はその理念の理論的な結実がこの地に現れなければなりません。地を抱きしめて泣くことができる一人の責任者、民を抱きしめて泣くことができる一人の責任者、イエスの事情を抱きしめて泣くことができる一人の責任者が、いつこの地に現れるのでしょうか?
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分断された歴史を今日一つの実体が現れてつなぎ、宇宙全体の歴史の理念を代わりにする実体が現れて、父と新郎新婦の心を揺さぶり、万民と縁を結ぶ心情を持つ責任者が現れて、地を抱きしめて泣く心を起こし、その心を維持させることができるようになることを、人々は望んでいるのです。
その一つの存在を私たちは天を代わりに迎え、イエスを代わりに迎え、万民を代わりに迎え、地を代わりに迎えなければなりません。そしてそのように地を抱きしめて泣き、地を愛し、民を抱きしめて泣き、民を愛し、次に神を抱きしめて泣き、神を愛することができるようにならなければなりません。そうして神の悲しい心情が喜びの心情に変わらなければなりません。
そのような皆さんを見て、父はもちろんのこと、三位一体の神や千万の聖徒やサタンの世界の人々までも「その通りだ」と言えるようになり、6千年の間に嘆きながら希望していた真の父母の子供として、歴史的な心情を代わりにして天の深い悲しみを解消するために誰よりも代表として戦い、サタンを復讐した息子として立てられ、神の永遠の愛の子供であると証しされることで、印を押されるのです。
今日、キリスト教徒が言う14万4千の群れ...、言葉は素晴らしいです。天の印を受けた息子娘...、言葉は素晴らしいです。解怨復帰の条件を整え、天倫の摂理を代行する天の息子娘が、彼らの言う通りでしょうか?実際には、天が印を押せる息子娘は、天を代わりに地に対して泣く心情を持たなければならないのです。
民を抱きしめて泣くことができ、苦痛を受け、無念さを受けるときにも天倫を代わりにし、天を代わりにして耐えることができる人でなければなりません。歴史的に深く刻まれた神の悲しみ、人間が犯したすべての過ちを回復し、すべての試練を克服することができる息子娘でなければ、印を押されることはできません。
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では、今日私たちはどこで印を受けるべきでしょうか?必ず神と共にでなければなりません。神の心情から印を受け、神の事情から印を受け、今日の自分の家庭から、社会から印を受けなければなりません。父を抱きしめて泣くことができる歴史的な心情の帰一の地点を見つけるときにのみ、天の印を受けることができるということを私たちは明確に理解するべきです。
<祈祷>
お父様! 歩んでいる道がどんなに険しいものであろうとも、私たちの心はお父様のその心情の痛みには比べることができず、私たちの無念さも、幾重にも立ちはだかるサタンの領域を歩まれたお父様のその足跡には比べることができないことを、どうか理解させてください。
険しい道を歩みながらも天の意志を担う使命感が私たちの心に湧き上がるようにしてください。そして悲しみながらも、お父様の悲しい歴史の友となり、あなたの道に共に歩むことができる息子娘となることを許してください。歴史的な苦痛を共に感じ、苦しむ心情の友となることを許してください。無念の心情に共に立ち、友となることを許してください。お父様の内なる悲しみの友となると同時に、外なる悲しみの友となり、永遠のお父様の喜びの対象となることを許してください。
今日、すべてが問題となる前に、祝福を求めてさまよう私自身が問題であることに気づきました。しかし、私たちの心の中にある悲しみを理解しない人間には、幸福の道を見つける手立てがないことも理解しました。苦痛の道を歩まなければならない人間がその道を避けようとするならば、決してその苦痛の道を避けることはできないことも知りました。無念さや無念を乗り越える忍耐を失った多くの人々に、その忍耐がなければいかなる苦痛も避けることができないことを悟らせてください。
悲しみの峠を越え、苦痛の峠を越え、無念の心情の峠を越えてこそ、その日の祝福が決定される天倫の原則を私たちは理解しました。今、お父様の心情を抱きしめ、地を抱きしめ、万物を抱きしめ涙を流し、「お父様の悲しみは私の悲しみ、お父様の苦痛は私の苦痛、お父様の困難は私の困難です。そのすべての苦痛を私に任せ、お父様は幸福な場所に立ってください」と言える私たちになることを許してください。
15
切っても切れない苦痛と情と他のすべてが共鳴する父子の関係の縁があることを知っていますので、お父様の認めを受ける時へと導いてください。
多様な人々の中で、勝利した息子たちを立てて全宇宙を復帰させたいというお父様の心情を理解しました。その心情を私の身に持ち、現すことができるように導いてください。いかなる犠牲をもいかなる死の道も感謝しながら、お父様の道を守り続ける息子娘となることを許してください。お父様との縁を断ち、裏切る者とならず、必ずやお父様の意志を成し遂げる私たちとなるように導いてください。
このすべての御言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
お父様! 歩んでいる道がどんなに険しいものであろうとも、私たちの心はお父様のその心情の痛みには比べることができず、私たちの無念さも、幾重にも立ちはだかるサタンの領域を歩まれたお父様のその足跡には比べることができないことを、どうか理解させてください。
険しい道を歩みながらも天の意志を担う使命感が私たちの心に湧き上がるようにしてください。そして悲しみながらも、お父様の悲しい歴史の友となり、あなたの道に共に歩むことができる息子娘となることを許してください。歴史的な苦痛を共に感じ、苦しむ心情の友となることを許してください。無念の心情に共に立ち、友となることを許してください。お父様の内なる悲しみの友となると同時に、外なる悲しみの友となり、永遠のお父様の喜びの対象となることを許してください。
今日、すべてが問題となる前に、祝福を求めてさまよう私自身が問題であることに気づきました。しかし、私たちの心の中にある悲しみを理解しない人間には、幸福の道を見つける手立てがないことも理解しました。苦痛の道を歩まなければならない人間がその道を避けようとするならば、決してその苦痛の道を避けることはできないことも知りました。無念さや無念を乗り越える忍耐を失った多くの人々に、その忍耐がなければいかなる苦痛も避けることができないことを悟らせてください。
悲しみの峠を越え、苦痛の峠を越え、無念の心情の峠を越えてこそ、その日の祝福が決定される天倫の原則を私たちは理解しました。今、お父様の心情を抱きしめ、地を抱きしめ、万物を抱きしめ涙を流し、「お父様の悲しみは私の悲しみ、お父様の苦痛は私の苦痛、お父様の困難は私の困難です。そのすべての苦痛を私に任せ、お父様は幸福な場所に立ってください」と言える私たちになることを許してください。
15
切っても切れない苦痛と情と他のすべてが共鳴する父子の関係の縁があることを知っていますので、お父様の認めを受ける時へと導いてください。
多様な人々の中で、勝利した息子たちを立てて全宇宙を復帰させたいというお父様の心情を理解しました。その心情を私の身に持ち、現すことができるように導いてください。いかなる犠牲をもいかなる死の道も感謝しながら、お父様の道を守り続ける息子娘となることを許してください。お父様との縁を断ち、裏切る者とならず、必ずやお父様の意志を成し遂げる私たちとなるように導いてください。
このすべての御言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
文鮮明先生御言葉選集 4 - 20. 愛する息子娘となり印を受ける者になろう (1958年9月14日)
1958年9月14日(日)、元本部教会
ヨハネによる福音書 10:31-36
<祈り>
お父様! お父様を迎えて謙虚に崇拝したいという心のない人は、永遠の彼の国でお父様と縁を結ぶことができないことを知りました。
今、私たちが心の扉を開けて訪ねるとき、その心の中心にお父様の心情を感じて、私の心の主体的な命令に私の体が従うことができる、その待ち望む日を探しています。今日、私たちの心から湧き出るあなたの声を聞いて、失われた自分の体を見つけることができ、お父様が私一人を見つけるために私の背後で苦難と努力の歴史過程を経てきたことを感じて、自ら頭を下げることができる私たちを許してください。また、お父様に対する敬虔な心を自ら体と心で感じることができる私たちになれるように許してください。
16
私たちを訪ねて来られるお父様はいつも栄光のお父様としてだけでなく、お父様は悲しみの主人公として、あるいは苦痛の主人公として訪ねて来られ、悲運の表情で訪ねて来られました。そのようなお父様であることを知らなかったために、私たちの悲しみをお父様に任せたがり、私たちの困難をお父様に任せたがり、私たちの悲運をお父様に任せたかったことを許してください。
そのような歴史の道を歩んできて、悲しみを抑えて嘆きながら訪ねてくださったお父様をお父様と呼ぶことができない堕落の種族であることを私たちは悟り、千年のお父様の努力を軽減するために努めるならば、お父様の悲しみの道を知らない息子娘がいないように許してください、私のお父様、切に願います。
今日、私たちを招いてくださいましたが、集まった私たちにどんな面目があるでしょうか。願わくば、お父様の事情を解放できる者たちがこの場所に集まることを許してください。そして、そのような事がこの一聴衆の体と心から溢れるように許してください、お父様、切に願います。
この時間、お父様、私たちを抱きしめてくださり、失われたお父様の恩恵を再び回復し、私たちの罪を清算するこの時間になるように許してください、お父様!切に願います。
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この時間を主管して下さい、お父様!あなたの言葉を伝えたいと願いますので、与える者の心と受け取る者の心が二つにならないように許してください。
これを攻撃する者は私たちではなくサタンであることを知っています。私たちの俗っぽい心が悪しきサタンと交流することを望まず、ただお父様の意志だけを信じることができるようにしてください。伏してお父様の前に悔い改めさせてください、私たちが天命が示す道を、お父様とは違う心で進むことがないようにしてください。もしそのような心の隔たりが少しでもあるならば、それを克服するために全体が心を一つにしてこれを乗り越えることができる切なる心を持つことを許してください、切に願います。
この日は聖なる日であるので、意志を知らない可哀想な人々を祝福してください、可哀想な立場にいる三千万民族に福を授けてください、この民族のために多くの息子娘がひざまずいて礼拝する場所に祝福の手を差し伸べてください、切に願います。声を荒げて戦う民族を憐れんで見てください、お父様!互いに許し合い、忍耐できる寛容な心を持つことを許してください、切に願います。
地を抱いて泣くべきこの時、あなたの事情を抱いて泣くべきこの時に、お父様の心情を持つ者がいるならば、この者たちを天の側に立て直すと信じます。私たちの姿をお父様、許してください。天を追って行くと言いながら敵を追って行く可哀想な者たち、敵ではない者を敵と認識して打ちのめそうとしている愚かな者たちを許してください。彼らの生命を誰が守るのでしょうか?彼らの進むべき道を誰が明らかにするのでしょうか?お父様の言葉を受け取って耐えられるように許してください、お父様、切に願います。
お父様! 民族の運命を憂うお父様の意志があることを知っています。民族の進むべき道を憂うお父様!世界中で迫害を受けるこの民族を憐れんでください。この民族を代表して天を仰ぎ、誠心の祭壇を築いている多くの者たちを覚えてください、終末の審判の鞭がこの民族の前に下されないことを心から訴えることができる私たちを許してください!切に願います。
今、私たちはお父様の前にまず訴え、進むべき責任が私たちにあることを知りました、私たちがこの責任のために生き、この責任のために祈り、この責任を果たすために天に向かって訴え、お父様を中心として生きるならば、必ずやお父様の意志がこの地に実現すると信じています。この者たちをそのような立場に立たせてください、切に願います。
この時間を親しく司ってくださることを願い、すべての言葉を主の名によって申し上げます。アーメン。
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この日は聖なる日であるので、意志を知らない可哀想な人々を祝福してください、可哀想な立場にいる三千万民族に福を授けてください、この民族のために多くの息子娘がひざまずいて礼拝する場所に祝福の手を差し伸べてください、切に願います。声を荒げて戦う民族を憐れんで見てください、お父様!互いに許し合い、忍耐できる寛容な心を持つことを許してください、切に願います。
地を抱いて泣くべきこの時、あなたの事情を抱いて泣くべきこの時に、お父様の心情を持つ者がいるならば、この者たちを天の側に立て直すと信じます。私たちの姿をお父様、許してください。天を追って行くと言いながら敵を追って行く可哀想な者たち、敵ではない者を敵と認識して打ちのめそうとしている愚かな者たちを許してください。彼らの生命を誰が守るのでしょうか?彼らの進むべき道を誰が明らかにするのでしょうか?お父様の言葉を受け取って耐えられるように許してください、お父様、切に願います。
お父様! 民族の運命を憂うお父様の意志があることを知っています。民族の進むべき道を憂うお父様!世界中で迫害を受けるこの民族を憐れんでください。この民族を代表して天を仰ぎ、誠心の祭壇を築いている多くの者たちを覚えてください、終末の審判の鞭がこの民族の前に下されないことを心から訴えることができる私たちを許してください!切に願います。
今、私たちはお父様の前にまず訴え、進むべき責任が私たちにあることを知りました、私たちがこの責任のために生き、この責任のために祈り、この責任を果たすために天に向かって訴え、お父様を中心として生きるならば、必ずやお父様の意志がこの地に実現すると信じています。この者たちをそのような立場に立たせてください、切に願います。
この時間を親しく司ってくださることを願い、すべての言葉を主の名によって申し上げます。アーメン。
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<御言葉>
この時間は「愛する息子娘となり印を受ける者になろう」という題名でしばらくお話しします。
何か希望の世界を望む心があるとき、その希望と縁のある場所にいることができるなら、その希望の中心にとどまりたいと願うのは、今日の人々が持っている共通の心情でしょう。
そして、神の希望があるとしたら、その希望の中に皆さん自身がとどまることを望むのもまた、皆さんの心でしょう。一つの家庭を見ても、その家庭にはその家庭を導く主人がいて、家族がその主人の心にとどまりたいと願うのも同じ心からでしょう。国家もそうであり、世界もそうであり、天地万物を探し求めて来られた父の摂理の意図もそうであることを、皆さんは覚えておくべきです。
したがって、皆さんは自分たちが仕える指導者の心に記憶されるべきであり、どのような宗教を信じるにしても、その宗教の教主の心に記憶されるべきであり、さらに神がいるとしたら、その神の心に記憶される皆さんであるべきです。
そして、神の前に一時的に記憶される皆さんではなく、父の希望と事情をかけて、また父の心情をかけて、永遠に記憶されることのできるそのような息子娘がいるとしたら、天はその息子娘をつかまえてすべての事情を語るでしょう。それだけでなく、6千年の労苦の摂理として探し求めて来られた全体の祝福を無条件で渡そうとされるでしょう。これが父の心情であることを、皆さんは知らなければなりません。
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今日、親の血肉を受けて一つの存在として生まれた皆さんは、決して無関心な存在ではありません。歴史的な宗教を支配してきた天があり、天の運勢に従って動いてきた世界があり、世界の運勢に連なって希望を持って進んでいる国家があり、国家の法度に従って進んでいる家庭があり、人倫を従う私個人がいることを認めるならば、天は世界を、世界は国家を、国家は社会を経て家庭に、家庭は私に至るまで完全な縁が結ばれなければならないということです。このような関係が設定されていることを、皆さんは否定することはできません。
このような立場に立つ私、否定しようとしても否定できない環境的な縁を持っている私たちは、今誰のために動いているのでしょうか?皆さんの家庭はどこを向かっているのでしょうか?この国とこの世界はどこを向かっているのでしょうか?これらは私たちが深く考えるべき重大な問題です。
人間の祖の堕落以来、神は人間たちに対して悲しまれたと私たちは知っています。では、その悲しみはどこへ流れていくのでしょうか?すなわち、どこにとどまることを切望して流れているのでしょうか?また、神の苦痛はどのような歴史の道を経て、どのような民族を経て、どのような血族を経て、どのような人に伝わってきたのでしょうか?神の希望はまた、どのような歴史の道を経て、どのようなものと関係を結ぶために動いてきたのでしょうか?それは世界でもなく、国家でもなく、家庭でもなく、まさに私なのです。神の希望は私一人から決まるという事実を、皆さんは確実に知るべきです。
したがって、神が認めることのできる一つの足場を持っていなければ、天がどれほど良いとしても関係はなく、私が自分自身で決定できる一つの基準を立てていなければ、どれほど世界的な理論が現れてもその理論は私と全く関係がないのです。このように私一人を基点にして歴史的な悲しみが左右され、歴史的な苦痛と困難が左右されているということを、皆さん自身の心情で、体で、あるいは骨と肉で深く感じたことがありますか?ないとしたら、血の涙を含んで激闘を経て死の道を恐れなかった先祖たちが、皆さんを訴えるでしょう。
私たちはこのような歴史的な信仰者たちが残した伝統と縁を持っています。ところが、もしその縁を忘れてしまう者がいるならば、彼らは全世界の天倫、人倫を総合した宇宙の前で恩知らずの者となるでしょう。今こそこれを悟るべき時が来たのです。それでは、皆さん個々が内面的な信仰を持つにあたって、天倫の前にまず感じるべきことは何でしょうか?まず探すべきことは何でしょうか?それは喜びではありません。幸福でもありません。決して栄光ではありません。
20
人間が天に悲しみを感じさせたために、まず探し求めるべきことは、この地を支配してきた天の悲しみなのです。今日、道の道を歩んでいる人々は、どの時代どの世界を問わず、天の涙を拭うために苦しみの十字架を越える者であり、無念の嘆きの場所で天の前に訴えの祭壇を築いている者たちであることを、皆さんは知らなければなりません。
では、天はなぜ愛する息子娘をこのような十字架の道に追いやるのでしょうか?それは天の縁がこの世界と国家を経て、民族を経て、社会を経て家庭を経て私に至るまで縁づけられ、世界の縁が私たちに直接的に通じるようにするためです。したがって、皆さんは天の事情を代弁する天の側の息子娘という威信を立てるために、6千年の歴史の悲しみを一瞬の生涯で感じるようにされた天の心情を理解することができなければなりません。
神様はエデンの園を築かれ、そこで永遠に幸福を享受することを望まれましたが、そのエデンの祝福は人間の堕落によって消えてしまいました。ですから、この祝福を失った神様は幸福な神ではなく、悲しみを背負う神となり、国や民から孤独に打たれながらも民族を探し求め、全宇宙の祝福を探し求めて来られたのです。
このように、人間たちに対する悲劇的な事情で絡み合った歴史の道を歩んで来られたのが、天の嘆きの道であるとすれば、その嘆きと事情が皆さんと深く結びつかなければなりません。これが人間の責任であり、天の責任であるゆえに、人間が天を探し求める際には神様の悲しみを理解しなければなりません。神様の苦痛と悲しみと無念さを抱いて、無数のサタンに対して戦い勝つことができなければなりません。そうでなければ、そのような歴史的な心情を体感しなければ、敵と戦おうにも戦うことができないということを皆さんは理解するべきです。
この地には、多くの財産を持っていてそれを失うと嘆く人がいます。あるいは子供を持っていて、その子供を失うと嘆く人もいます。しかし、地上のどんな貴重なものを持っていても、それを失って悲しむ人は多いですが、自分自身を失い、天を失って悲しむ人はほとんどいないのです。全宇宙を与えても取り替えられない自分自身を失い、宇宙と比べられない栄光の実体である天を失って悲しむ人は非常に少ないのです。
21
今日、道を歩む人にとっては、集めた財産を失うことが悲しみではなく、自分自身を失うことが悲しみであり、天を失うことが悲しみです。天を探し求める道は、悲しみを探し求める道です。だからイエス様も「あなたの背に十字架を背負って私に従いなさい」とおっしゃったのです。
ですから、今、私たちが悲しむことで天の悲しみを代わりにし、私たちの苦痛と無念さが天の苦痛と無念さを代わりにすることができてこそ、父の前に立つことができるのです。神様が6千年の間歩んで来られた一歩一歩がそのようであるため、歴史的な摂理と縁を持っている皆さんが、歴史的摂理の主人公である父との縁を結ぶためには、そのような悲しみ、そのような苦痛、そのような無念さを担わなければならないのです。
これが天倫の道であるため、歴史の道の各時代に悲しみが宿りましたが、計画された意図を成し遂げるために、すなわち、万物を探し、民を探し、子供を探し、そして神様自身を探さなければならないために、天はこのような道を歩んで来られたのです。
人間が堕落したために天地を失われた神様は、神としての役割を全うできずにいらっしゃるのです。力と威信と権限を失われたのです。これを回復するための復帰運動が、今日、善を目指して進む人倫の指導理念の基準であり、道を探し求める道の者たちの心的基準なのです。私たちは失われた宇宙を必ずや取り戻さなければならないのです。
では、私はどうすべきでしょうか?天が認める私個人を見つけ、天が認める家庭、天が認める社会、天が認める国家、天が認める世界、天が認める宇宙を見つけ、神の意志を実現させなければなりません。そうして、神の権威を持って万物を統治し、神をお迎えできるようにしなければなりません。これが生涯をかけて探さなければならない重大な問題です。もし皆さんがそのように神に接することができなければ、たとえ神がこの世界に現れても、国家に来ても、たとえ神が社会に現れても、家庭に来ても、皆さん自身とは何の関係もないのです。
22
これまでの歴史過程を見てみると、どの時代においてもすべての主義や理念が天運に向かって動いていたのです。そして多くの理念が統合され、今や一つの理念、世界的な理念の時代になったのです。どの主義であっても、二つが衝突して戦うと必ず一つは崩れるのが原則です。私たちは今、人間を中心とした平面的な戦いではなく、天を中心とした立体的な戦いの時期にあり、霊界が私たちを襲撃しようと待っていることを知らなければなりません。
だからこそ、現在世界各地で終末の現象が現れています。すなわち、多くの精神病患者が現れ、神経系の恐怖症の現象が生じているのです。このようにして、アダムが堕落直後に恐怖心を抱いたように、この世界は天倫を裏切った血によって言葉では言い表せない恐怖を感じる人々で満ちた世界になっているのです。
その次には、理念を失った世界になります。このような時には、どんなに私が固執しても通用しません。あちらこちらに追い込まれ、まさにすべてが混沌として中心を持たない宇宙の終末時代にいる皆さんは、このような歴史的な転換点を前にしてどうすべきかを考えなければなりません。倒れゆくこの世界とこの民族を見て、皆さんはどうすべきか。天が私を立てて民族の前に誇れるようにし、私を立ててこの宇宙の前に誇れるようにするためには、神との父子の関係を結ばなければならず、神が万物を主管できる理念を立てているため、万物を主管できる私にならなければなりません。
しかし、今日私たちが前を見ても行き詰まり、後ろを振り返っても分からず、横を見ても敵がいます。左右も中央も私一人を破壊しようとするサタンたちでいっぱいです。このような時に私たちは自分自身を守り、天を守り、天倫を守り、そして左右のサタンたちを防ぐことができる自分たちにならなければなりません。この宇宙と天地万物の主人公が天であるとすれば、その天には何らかの理念があるでしょう。そして一人を立ててその理念を実現させようとするでしょう。
天を探し求める人には、その過程で幸福はありません。満足もありません。過程で満足する人がいるとしたら、その人は本当に天を探し求める人ではないのです。まず悲しみが訪れるのが原則であり、苦痛を受けるのが原則です。すなわち、縦にも横にもそして左右にも悲しみと苦痛と無念さを受けた後にのみ、喜びが訪れるのです。だからこそ、キリスト教では6千年の歴史をすべて一掃するその日を審判の日と呼ぶのです。
23
では、天が悲しみと苦痛を持ち、無念さを持って来られて、私たちにそれを信じさせようとするのは何を意味するのでしょうか?それは決して皆さんを滅ぼすためではありません。皆さんを天の息子娘とするためなのです。息子娘であれば血と肉が通います。そして思想が通じなければならず、理念が通じなければなりません。そのような相対的な基準を構成して動かなければならないのです。
しかし、天と私たちとの父子関係を誰が破壊したのでしょうか?この関係は神の力だけでも私たちの力だけでも回復できない、悲しい状況にあります。皆さんにとってこれ以上に悔しいことはないでしょう。だからこそ、私たちは子を愛する父を失った悲しみ、永遠に共に生きるべき親を迎えることもできず、会うこともできず、従うこともできないという、絡み合ったその悲しみ、その苦しみ、その無念さを感じることのできる息子娘にならなければなりません。
何か希望の世界を望む心があるとき、その希望と縁のある場所にいることができるなら、その希望の中心にとどまりたいと願うのは、今日の人々が持っている共通の心情でしょう。
そして、神の希望があるとしたら、その希望の中に皆さん自身がとどまることを望むのもまた、皆さんの心でしょう。一つの家庭を見ても、その家庭にはその家庭を導く主人がいて、家族がその主人の心にとどまりたいと願うのも同じ心からでしょう。国家もそうであり、世界もそうであり、天地万物を探し求めて来られた父の摂理の意図もそうであることを、皆さんは覚えておくべきです。
したがって、皆さんは自分たちが仕える指導者の心に記憶されるべきであり、どのような宗教を信じるにしても、その宗教の教主の心に記憶されるべきであり、さらに神がいるとしたら、その神の心に記憶される皆さんであるべきです。
そして、神の前に一時的に記憶される皆さんではなく、父の希望と事情をかけて、また父の心情をかけて、永遠に記憶されることのできるそのような息子娘がいるとしたら、天はその息子娘をつかまえてすべての事情を語るでしょう。それだけでなく、6千年の労苦の摂理として探し求めて来られた全体の祝福を無条件で渡そうとされるでしょう。これが父の心情であることを、皆さんは知らなければなりません。
19
今日、親の血肉を受けて一つの存在として生まれた皆さんは、決して無関心な存在ではありません。歴史的な宗教を支配してきた天があり、天の運勢に従って動いてきた世界があり、世界の運勢に連なって希望を持って進んでいる国家があり、国家の法度に従って進んでいる家庭があり、人倫を従う私個人がいることを認めるならば、天は世界を、世界は国家を、国家は社会を経て家庭に、家庭は私に至るまで完全な縁が結ばれなければならないということです。このような関係が設定されていることを、皆さんは否定することはできません。
このような立場に立つ私、否定しようとしても否定できない環境的な縁を持っている私たちは、今誰のために動いているのでしょうか?皆さんの家庭はどこを向かっているのでしょうか?この国とこの世界はどこを向かっているのでしょうか?これらは私たちが深く考えるべき重大な問題です。
人間の祖の堕落以来、神は人間たちに対して悲しまれたと私たちは知っています。では、その悲しみはどこへ流れていくのでしょうか?すなわち、どこにとどまることを切望して流れているのでしょうか?また、神の苦痛はどのような歴史の道を経て、どのような民族を経て、どのような血族を経て、どのような人に伝わってきたのでしょうか?神の希望はまた、どのような歴史の道を経て、どのようなものと関係を結ぶために動いてきたのでしょうか?それは世界でもなく、国家でもなく、家庭でもなく、まさに私なのです。神の希望は私一人から決まるという事実を、皆さんは確実に知るべきです。
したがって、神が認めることのできる一つの足場を持っていなければ、天がどれほど良いとしても関係はなく、私が自分自身で決定できる一つの基準を立てていなければ、どれほど世界的な理論が現れてもその理論は私と全く関係がないのです。このように私一人を基点にして歴史的な悲しみが左右され、歴史的な苦痛と困難が左右されているということを、皆さん自身の心情で、体で、あるいは骨と肉で深く感じたことがありますか?ないとしたら、血の涙を含んで激闘を経て死の道を恐れなかった先祖たちが、皆さんを訴えるでしょう。
私たちはこのような歴史的な信仰者たちが残した伝統と縁を持っています。ところが、もしその縁を忘れてしまう者がいるならば、彼らは全世界の天倫、人倫を総合した宇宙の前で恩知らずの者となるでしょう。今こそこれを悟るべき時が来たのです。それでは、皆さん個々が内面的な信仰を持つにあたって、天倫の前にまず感じるべきことは何でしょうか?まず探すべきことは何でしょうか?それは喜びではありません。幸福でもありません。決して栄光ではありません。
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人間が天に悲しみを感じさせたために、まず探し求めるべきことは、この地を支配してきた天の悲しみなのです。今日、道の道を歩んでいる人々は、どの時代どの世界を問わず、天の涙を拭うために苦しみの十字架を越える者であり、無念の嘆きの場所で天の前に訴えの祭壇を築いている者たちであることを、皆さんは知らなければなりません。
では、天はなぜ愛する息子娘をこのような十字架の道に追いやるのでしょうか?それは天の縁がこの世界と国家を経て、民族を経て、社会を経て家庭を経て私に至るまで縁づけられ、世界の縁が私たちに直接的に通じるようにするためです。したがって、皆さんは天の事情を代弁する天の側の息子娘という威信を立てるために、6千年の歴史の悲しみを一瞬の生涯で感じるようにされた天の心情を理解することができなければなりません。
神様はエデンの園を築かれ、そこで永遠に幸福を享受することを望まれましたが、そのエデンの祝福は人間の堕落によって消えてしまいました。ですから、この祝福を失った神様は幸福な神ではなく、悲しみを背負う神となり、国や民から孤独に打たれながらも民族を探し求め、全宇宙の祝福を探し求めて来られたのです。
このように、人間たちに対する悲劇的な事情で絡み合った歴史の道を歩んで来られたのが、天の嘆きの道であるとすれば、その嘆きと事情が皆さんと深く結びつかなければなりません。これが人間の責任であり、天の責任であるゆえに、人間が天を探し求める際には神様の悲しみを理解しなければなりません。神様の苦痛と悲しみと無念さを抱いて、無数のサタンに対して戦い勝つことができなければなりません。そうでなければ、そのような歴史的な心情を体感しなければ、敵と戦おうにも戦うことができないということを皆さんは理解するべきです。
この地には、多くの財産を持っていてそれを失うと嘆く人がいます。あるいは子供を持っていて、その子供を失うと嘆く人もいます。しかし、地上のどんな貴重なものを持っていても、それを失って悲しむ人は多いですが、自分自身を失い、天を失って悲しむ人はほとんどいないのです。全宇宙を与えても取り替えられない自分自身を失い、宇宙と比べられない栄光の実体である天を失って悲しむ人は非常に少ないのです。
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今日、道を歩む人にとっては、集めた財産を失うことが悲しみではなく、自分自身を失うことが悲しみであり、天を失うことが悲しみです。天を探し求める道は、悲しみを探し求める道です。だからイエス様も「あなたの背に十字架を背負って私に従いなさい」とおっしゃったのです。
ですから、今、私たちが悲しむことで天の悲しみを代わりにし、私たちの苦痛と無念さが天の苦痛と無念さを代わりにすることができてこそ、父の前に立つことができるのです。神様が6千年の間歩んで来られた一歩一歩がそのようであるため、歴史的な摂理と縁を持っている皆さんが、歴史的摂理の主人公である父との縁を結ぶためには、そのような悲しみ、そのような苦痛、そのような無念さを担わなければならないのです。
これが天倫の道であるため、歴史の道の各時代に悲しみが宿りましたが、計画された意図を成し遂げるために、すなわち、万物を探し、民を探し、子供を探し、そして神様自身を探さなければならないために、天はこのような道を歩んで来られたのです。
人間が堕落したために天地を失われた神様は、神としての役割を全うできずにいらっしゃるのです。力と威信と権限を失われたのです。これを回復するための復帰運動が、今日、善を目指して進む人倫の指導理念の基準であり、道を探し求める道の者たちの心的基準なのです。私たちは失われた宇宙を必ずや取り戻さなければならないのです。
では、私はどうすべきでしょうか?天が認める私個人を見つけ、天が認める家庭、天が認める社会、天が認める国家、天が認める世界、天が認める宇宙を見つけ、神の意志を実現させなければなりません。そうして、神の権威を持って万物を統治し、神をお迎えできるようにしなければなりません。これが生涯をかけて探さなければならない重大な問題です。もし皆さんがそのように神に接することができなければ、たとえ神がこの世界に現れても、国家に来ても、たとえ神が社会に現れても、家庭に来ても、皆さん自身とは何の関係もないのです。
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これまでの歴史過程を見てみると、どの時代においてもすべての主義や理念が天運に向かって動いていたのです。そして多くの理念が統合され、今や一つの理念、世界的な理念の時代になったのです。どの主義であっても、二つが衝突して戦うと必ず一つは崩れるのが原則です。私たちは今、人間を中心とした平面的な戦いではなく、天を中心とした立体的な戦いの時期にあり、霊界が私たちを襲撃しようと待っていることを知らなければなりません。
だからこそ、現在世界各地で終末の現象が現れています。すなわち、多くの精神病患者が現れ、神経系の恐怖症の現象が生じているのです。このようにして、アダムが堕落直後に恐怖心を抱いたように、この世界は天倫を裏切った血によって言葉では言い表せない恐怖を感じる人々で満ちた世界になっているのです。
その次には、理念を失った世界になります。このような時には、どんなに私が固執しても通用しません。あちらこちらに追い込まれ、まさにすべてが混沌として中心を持たない宇宙の終末時代にいる皆さんは、このような歴史的な転換点を前にしてどうすべきかを考えなければなりません。倒れゆくこの世界とこの民族を見て、皆さんはどうすべきか。天が私を立てて民族の前に誇れるようにし、私を立ててこの宇宙の前に誇れるようにするためには、神との父子の関係を結ばなければならず、神が万物を主管できる理念を立てているため、万物を主管できる私にならなければなりません。
しかし、今日私たちが前を見ても行き詰まり、後ろを振り返っても分からず、横を見ても敵がいます。左右も中央も私一人を破壊しようとするサタンたちでいっぱいです。このような時に私たちは自分自身を守り、天を守り、天倫を守り、そして左右のサタンたちを防ぐことができる自分たちにならなければなりません。この宇宙と天地万物の主人公が天であるとすれば、その天には何らかの理念があるでしょう。そして一人を立ててその理念を実現させようとするでしょう。
天を探し求める人には、その過程で幸福はありません。満足もありません。過程で満足する人がいるとしたら、その人は本当に天を探し求める人ではないのです。まず悲しみが訪れるのが原則であり、苦痛を受けるのが原則です。すなわち、縦にも横にもそして左右にも悲しみと苦痛と無念さを受けた後にのみ、喜びが訪れるのです。だからこそ、キリスト教では6千年の歴史をすべて一掃するその日を審判の日と呼ぶのです。
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では、天が悲しみと苦痛を持ち、無念さを持って来られて、私たちにそれを信じさせようとするのは何を意味するのでしょうか?それは決して皆さんを滅ぼすためではありません。皆さんを天の息子娘とするためなのです。息子娘であれば血と肉が通います。そして思想が通じなければならず、理念が通じなければなりません。そのような相対的な基準を構成して動かなければならないのです。
しかし、天と私たちとの父子関係を誰が破壊したのでしょうか?この関係は神の力だけでも私たちの力だけでも回復できない、悲しい状況にあります。皆さんにとってこれ以上に悔しいことはないでしょう。だからこそ、私たちは子を愛する父を失った悲しみ、永遠に共に生きるべき親を迎えることもできず、会うこともできず、従うこともできないという、絡み合ったその悲しみ、その苦しみ、その無念さを感じることのできる息子娘にならなければなりません。
神様は悲運の道を歩みながら、父と子の関係を結び、「私の息子娘だ」と喜ぶことができる子供を探して来られましたが、私たちは全く神の悲しみを知りませんでした。子供を子供と呼べず、息子を息子と呼べない堕落した血統を引き継ぎ、サタンの支配権内にあるため、理念的には切り離すことのできない血肉の関係を持っている息子でありながら、実生活では無数の敵の条件を持っているのです。
したがって、神は二つの悲しみを持つことになったのです。息子を失ったことが一つの悲しみであり、再び関係を結ぶことができないことがもう一つの悲しみなのです。神にこのような悲しみをもたらした私たちは、罪人中の罪人であり、負債者中の負債者であることを感じなければなりません。天に対して6千年の歴史的な労苦をもたらし、悔い改めて労苦しなければならない負債者中の負債者であるということです。
神が愛する子供である私たちを子供と呼べず、誰が拒否してもその心から消え去ることができない、心情で結ばれた父子の関係、永遠の愛を中心とした縁は神自身も拒否できない深い心情で流れているのに、そのような心情を持ちながらも息子娘と心から呼べず、接することができないのが悲劇なのです。
24
今日の私たちの悲しみは、神の悲しみに比べれば悲しみではありません。お金がたくさんあるからといって喜ばないでください。自分が望んだすべての幸福な外的条件を備えているからといって、その心が喜ぶわけではありません。物質を持つほど、それに比例して償還の条件が私をさらに沈滞させることを知らなければなりません。今日の地上の堕落世界において「すべてを清算して出てきたので天の息子娘になれる」と自信を持って言える人がどこにいるでしょうか?
私たちは天を見つめ、天が流した涙の跡の前に伏して叫ぶ人類の悲しみと神の涙に満ちた心情と嘆きに染み込み、叫ぶ万物の悲しみを感じることができなければなりません。
私たちはまた、お父様の悲しみを感じなければなりません。お父様の苦痛を感じなければなりません。お父様の無念さを知るべきです。そして天の理念を持って神に代わり地を主観できてこそ、父の意志を成し遂げることができることを知らなければなりません。
今日、この地が堕落世界であるために、皆さんは神に会うことができず、神も天的な創造の原則があり、宇宙的な天法の基準があるため、その原則を越えて人間を直接探しに来ることができないのです。
したがって、旧約時代には供え物を捧げることによって人間と万物が結びつき、新約時代にはイエス様が供え物となりました。こうしてイエス様を通じて人間と万物、イエス様と人類が結ばれるようになったのです。神の子であるイエスが非常に悲しい場所に上がることによって、天の祝福の基準が成り立ち、イエス様と人類が結びつけられるようになったのです。
25
今、結ばれるべきは父と子の縁です。その縁を結ぶためには、父が子のために打たれなければなりません。そうして民から民に、民から子に、子から神に至るまで縁を結ばなければなりません。これが幸福と理念、そして栄光を求めて復帰する神の法則です。
では、その縁はどこで結ばれるべきでしょうか? 霊界ではなく、地上で結ばれるべきです。だからこそ天は新郎であり、地は新婦であると強調されました。これは破ることのできない縁です。そして人間がそれを感じる心情は変わりません。千年前の人でも、万年後の人でも、その心情を超えることはできないため、唯一の絶対的な基準を立てて、新郎は新婦の名前を立て、それを条件として息子娘まで縁を結んでいくのです。そして地を探し、民を探し、子供の実体を立て、親を探すのです。これが復帰です。
したがって、万物と人間との関係を結ぶためには万物を供え物として捧げ、民と子との関係を結ぶためには子を殺して供え物として捧げ、子と父の関係を結ぶためには父が十字架を背負わなければなりません。このような歴史的な理念の過程を考えると、今日、私たちには歴史的な理念の過程を一度に償還復帰しなければならない使命があるため、今や父を立てて私を見つけなければならない終末の時代なのです。
旧約時代には民の代表として祭司を立てて供え物を捧げ、祖先を崇拝し律法を守れば、それなりに救いを得ることができました。新約時代にはイエスを信じれば救いを得ましたが、今後は神を信じなければなりません。血と肉が絡み合い、手が絡み合い、永遠に拒否することができない基準で結ばれた私たちの父なる神を信じなければなりません。
6千年の摂理の歴史が繰り返される悲しい道程で、心だけでなく体までも「これが私の息子だ」と天が認めることができる一人の息子娘が生まれなければ、神が地のために流された涙に気づき、無知蒙昧な人々を目覚めさせることができません。また、歴史を通じて多くの人々が知らなかった、涙を流す神の事情を知ることができるのです。
26
では、この地の民と子のために涙を流す神の事情を知らないすべての人々、すべての天地の代わりにその心情を知ることができる人は誰でしょうか?親が子を愛する心が時間を超えて永遠であるように、無限の距離を超えた、限界のないそのような天の心情を知り、今日の歴史的な父を抱きしめて「父の悲しい心が私の心であり、父の痛ましい心情が私の心情です。どうか私に十字架の重荷を背負わせてください」と言える人です。
皆さんは、再び苦痛の十字架を背負わなければならない天の事情を知っていますか?今日、私たちはこの民族に対する神の心情と神の意志に従って苦しんだ先祖たちの地に対するすべての歴史的な心情、民に対する心情、子に対する心情、さらには神に対する心情までも感じることができなければなりません。
苦しみの中にあったパウロは嘆いて「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができようか」(ローマ8:35)と言いました。これは、パウロがキリストの中にある神の愛を知っていたことを意味します。イエスも神の前では花嫁の立場にあるのです。私たちの新郎であるイエスにとっても、必要なのは神の愛なのです。
新郎新婦の地位は外面的なものです。完全な復帰は、万物の復帰から始まり、子供の復帰までを完成しなければなりません。ですから、新郎新婦の関係を経て聖霊と出会い、イエスと出会わなければなりません。そしてそこにとどまることなく、「父よ!エデンの園で失った息子娘の代わりに祝福してください」と言えるようにならなければなりません。堕落の恨みを感じることなく、真の父母の息子娘として、神の祝福を受けることのできる息子娘になるべきなのです。
神の恨みとは何でしょうか?神は民を抱きしめて泣き、地を対して泣かれましたが、神が望まれる勝利した息子を抱きしめて喜びの涙を流すことができなかったことが、天の恨みです。つまり、天から「あなたは勝利した息子だ」と認められる人がいないことが、天の恨みであり、悲しみなのです。さらに、失われた息子娘を探し求めるために彷徨う神を抱きしめて泣いた人が一人もいなかったのです。
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子供を持つ親がたとえ一国の首相であったとしても、失った子供を見つけたその場では、一国の首相としての面目や体面は問題ではありません。面目を無視し、威信を無視し、その子が乞食であろうが何であろうが、手を取り、体を抱いて慟哭するでしょう。神と人間との間でそのような場面が天地創造以来地上で一度も起こらなかったことが、神の悲しみであり、万物の悲しみであり、人間の悲しみであることを皆さんは知るべきです。
供え物の時代には供え物を捧げることによって上がり、民族を立てる時には指導者の言葉を信じ、その指導者に従って上がりました。その時には指導者の言葉に従うことが供え物でした。その後は、独り子イエスを信じて上がりました。これからは真の父母様を信じなければなりません。真の父の息子娘にならなければなりません。今や皆さんはその道を探し求める人にならなければなりません。
6千年の歴史の理念があったとすれば、今後はその理念の理論的な結実がこの地上に現れなければなりません。地を抱いて泣くことができる一人の責任者、民を抱いて泣くことができる一人の責任者、イエスの事情を抱いて泣くことができる一人の責任者は、いつこの地上に現れるのでしょうか?
分かれた歴史を今日一つの実体が現れてつなぎ合わせ、宇宙の総合的な歴史の理念を代弁する実体が現れて、父と新郎新婦の心を震わせ、全ての民と縁を結ぶ心情を持つ責任者が現れ、地を抱いて泣く心を持ち、それを維持することができるようになることを人間は望んでいます。
その一存在を私たちは天に代わって迎え、イエスに代わって迎え、全民に代わって迎え、地に代わって迎えなければなりません。そしてそのように地を抱いて泣き、地を愛し、民を抱いて泣き、民を愛し、その後に神を抱いて泣き、神を愛することができなければなりません。そうして神の悲しい心情を喜びの心情にしなければなりません。
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そのような皆さんを見て、父はもちろん、三位一体の神や千千萬萬の聖徒やサタン世界の人々まで「そうだ」と言えるようになり、6千年間嘆きながら希望していた真の父母の子として、歴史的な心情を代弁して天の深い悲しみを解消するために誰よりも代表的に立ち上がって戦い、サタンに復讐した息子として立てられ、神の永遠の愛の子として証しされなければ印を受けることはできません。
今日のキリスト教徒が言う14万4千人の群れ...、言葉は良いです。天の印を受けた息子娘...、言葉は良いです。解怨復帰の条件を作り、天倫の摂理を代行する天の息子娘が彼らの言う通りなのでしょうか?分かってみれば、天が印を押すことのできる息子娘は、天に代わって地に対して泣くことのできる心情を持たなければなりません。
民を抱いて泣くことができ、苦しみを受け、無念さを受けたときにも天倫に代わり、天に代わり耐えることのできる人でなければ、歴史的に深く染み込んだ神の悲しみ、人間が犯したすべての過ちを回復し、すべての試練を乗り越えることのできる息子娘でなければ、印を受けることはできないのです。
では、今日の私たちはどこから印を受けるべきでしょうか?必ず神と共にあるべきです。神の心情から印を受け、神の事情から印を受け、今日の私たちの家庭から、社会から印を受けるべきです。父を抱いて泣くことができる歴史的な心情の帰一地点を見つけたときにのみ、天の印を受けることができることを、私たちは明確に知るべきです。
29
<祈祷>
お父様! 歩む道が険しいとしても、私たちの心はお父様のその心情の痛みに比べることはできず、私たちの無念さを重ねたサタンの領域を歩んだお父様のその足跡に比べることはできないことを理解できるようにしてください。
険しい道を歩みながらも天の意志を担う使命感が私たちの心に湧き上がるようにしてください。そして悲しみながらも、お父様の悲しい歴史の友となり、あなたの道に共に歩むことができる息子娘となることを許してください。歴史的な苦痛を共に感じ、苦しむ心情の友となることを許してください。無念の心情に共に立ち、友となることを許してください。お父様の内なる悲しみの友となると同時に、外なる悲しみの友となり、永遠のお父様の喜びの対象となることを許してください。
今日、すべてが問題となる前に、祝福を求めてさまよう私自身が問題であることに気づきました。しかし、私たちの心の中にある悲しみを理解しない人間には、幸福の道を見つける手立てがないことも理解しました。苦痛の道を歩まなければならない人間がその道を避けようとするならば、決してその苦痛の道を避けることはできないことも知りました。無念さや無念を乗り越える忍耐を失った多くの人々に、その忍耐がなければいかなる苦痛も避けることができないことを悟らせてください。
悲しみの峠を越え、苦痛の峠を越え、無念の心情の峠を越えてこそ、その日の祝福が決定される天倫の原則を私たちは理解しました。今、お父様の心情を抱きしめ、地を抱きしめ、万物を抱きしめ涙を流し、「お父様の悲しみは私の悲しみ、お父様の苦痛は私の苦痛、お父様の困難は私の困難です。そのすべての苦痛を私に任せ、お父様は幸福な場所に立ってください」と言える私たちになることを許してください。
切っても切れない苦痛と情と他のすべてが共鳴する父子の関係の縁があることを知っていますので、お父様の認めを受ける時へと導いてください。
多様な人々の中で、勝利した息子たちを立てて全宇宙を復帰させたいというお父様の心情を理解しました。その心情を私の身に持ち、現すことができるように導いてください。いかなる犠牲をもいかなる死の道も感謝しながら、お父様の道を守り続ける息子娘となることを許してください。お父様との縁を断ち、裏切る者とならず、必ずやお父様の意志を成し遂げる私たちとなるように導いてください。
このすべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
したがって、神は二つの悲しみを持つことになったのです。息子を失ったことが一つの悲しみであり、再び関係を結ぶことができないことがもう一つの悲しみなのです。神にこのような悲しみをもたらした私たちは、罪人中の罪人であり、負債者中の負債者であることを感じなければなりません。天に対して6千年の歴史的な労苦をもたらし、悔い改めて労苦しなければならない負債者中の負債者であるということです。
神が愛する子供である私たちを子供と呼べず、誰が拒否してもその心から消え去ることができない、心情で結ばれた父子の関係、永遠の愛を中心とした縁は神自身も拒否できない深い心情で流れているのに、そのような心情を持ちながらも息子娘と心から呼べず、接することができないのが悲劇なのです。
24
今日の私たちの悲しみは、神の悲しみに比べれば悲しみではありません。お金がたくさんあるからといって喜ばないでください。自分が望んだすべての幸福な外的条件を備えているからといって、その心が喜ぶわけではありません。物質を持つほど、それに比例して償還の条件が私をさらに沈滞させることを知らなければなりません。今日の地上の堕落世界において「すべてを清算して出てきたので天の息子娘になれる」と自信を持って言える人がどこにいるでしょうか?
私たちは天を見つめ、天が流した涙の跡の前に伏して叫ぶ人類の悲しみと神の涙に満ちた心情と嘆きに染み込み、叫ぶ万物の悲しみを感じることができなければなりません。
私たちはまた、お父様の悲しみを感じなければなりません。お父様の苦痛を感じなければなりません。お父様の無念さを知るべきです。そして天の理念を持って神に代わり地を主観できてこそ、父の意志を成し遂げることができることを知らなければなりません。
今日、この地が堕落世界であるために、皆さんは神に会うことができず、神も天的な創造の原則があり、宇宙的な天法の基準があるため、その原則を越えて人間を直接探しに来ることができないのです。
したがって、旧約時代には供え物を捧げることによって人間と万物が結びつき、新約時代にはイエス様が供え物となりました。こうしてイエス様を通じて人間と万物、イエス様と人類が結ばれるようになったのです。神の子であるイエスが非常に悲しい場所に上がることによって、天の祝福の基準が成り立ち、イエス様と人類が結びつけられるようになったのです。
25
今、結ばれるべきは父と子の縁です。その縁を結ぶためには、父が子のために打たれなければなりません。そうして民から民に、民から子に、子から神に至るまで縁を結ばなければなりません。これが幸福と理念、そして栄光を求めて復帰する神の法則です。
では、その縁はどこで結ばれるべきでしょうか? 霊界ではなく、地上で結ばれるべきです。だからこそ天は新郎であり、地は新婦であると強調されました。これは破ることのできない縁です。そして人間がそれを感じる心情は変わりません。千年前の人でも、万年後の人でも、その心情を超えることはできないため、唯一の絶対的な基準を立てて、新郎は新婦の名前を立て、それを条件として息子娘まで縁を結んでいくのです。そして地を探し、民を探し、子供の実体を立て、親を探すのです。これが復帰です。
したがって、万物と人間との関係を結ぶためには万物を供え物として捧げ、民と子との関係を結ぶためには子を殺して供え物として捧げ、子と父の関係を結ぶためには父が十字架を背負わなければなりません。このような歴史的な理念の過程を考えると、今日、私たちには歴史的な理念の過程を一度に償還復帰しなければならない使命があるため、今や父を立てて私を見つけなければならない終末の時代なのです。
旧約時代には民の代表として祭司を立てて供え物を捧げ、祖先を崇拝し律法を守れば、それなりに救いを得ることができました。新約時代にはイエスを信じれば救いを得ましたが、今後は神を信じなければなりません。血と肉が絡み合い、手が絡み合い、永遠に拒否することができない基準で結ばれた私たちの父なる神を信じなければなりません。
6千年の摂理の歴史が繰り返される悲しい道程で、心だけでなく体までも「これが私の息子だ」と天が認めることができる一人の息子娘が生まれなければ、神が地のために流された涙に気づき、無知蒙昧な人々を目覚めさせることができません。また、歴史を通じて多くの人々が知らなかった、涙を流す神の事情を知ることができるのです。
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では、この地の民と子のために涙を流す神の事情を知らないすべての人々、すべての天地の代わりにその心情を知ることができる人は誰でしょうか?親が子を愛する心が時間を超えて永遠であるように、無限の距離を超えた、限界のないそのような天の心情を知り、今日の歴史的な父を抱きしめて「父の悲しい心が私の心であり、父の痛ましい心情が私の心情です。どうか私に十字架の重荷を背負わせてください」と言える人です。
皆さんは、再び苦痛の十字架を背負わなければならない天の事情を知っていますか?今日、私たちはこの民族に対する神の心情と神の意志に従って苦しんだ先祖たちの地に対するすべての歴史的な心情、民に対する心情、子に対する心情、さらには神に対する心情までも感じることができなければなりません。
苦しみの中にあったパウロは嘆いて「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができようか」(ローマ8:35)と言いました。これは、パウロがキリストの中にある神の愛を知っていたことを意味します。イエスも神の前では花嫁の立場にあるのです。私たちの新郎であるイエスにとっても、必要なのは神の愛なのです。
新郎新婦の地位は外面的なものです。完全な復帰は、万物の復帰から始まり、子供の復帰までを完成しなければなりません。ですから、新郎新婦の関係を経て聖霊と出会い、イエスと出会わなければなりません。そしてそこにとどまることなく、「父よ!エデンの園で失った息子娘の代わりに祝福してください」と言えるようにならなければなりません。堕落の恨みを感じることなく、真の父母の息子娘として、神の祝福を受けることのできる息子娘になるべきなのです。
神の恨みとは何でしょうか?神は民を抱きしめて泣き、地を対して泣かれましたが、神が望まれる勝利した息子を抱きしめて喜びの涙を流すことができなかったことが、天の恨みです。つまり、天から「あなたは勝利した息子だ」と認められる人がいないことが、天の恨みであり、悲しみなのです。さらに、失われた息子娘を探し求めるために彷徨う神を抱きしめて泣いた人が一人もいなかったのです。
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子供を持つ親がたとえ一国の首相であったとしても、失った子供を見つけたその場では、一国の首相としての面目や体面は問題ではありません。面目を無視し、威信を無視し、その子が乞食であろうが何であろうが、手を取り、体を抱いて慟哭するでしょう。神と人間との間でそのような場面が天地創造以来地上で一度も起こらなかったことが、神の悲しみであり、万物の悲しみであり、人間の悲しみであることを皆さんは知るべきです。
供え物の時代には供え物を捧げることによって上がり、民族を立てる時には指導者の言葉を信じ、その指導者に従って上がりました。その時には指導者の言葉に従うことが供え物でした。その後は、独り子イエスを信じて上がりました。これからは真の父母様を信じなければなりません。真の父の息子娘にならなければなりません。今や皆さんはその道を探し求める人にならなければなりません。
6千年の歴史の理念があったとすれば、今後はその理念の理論的な結実がこの地上に現れなければなりません。地を抱いて泣くことができる一人の責任者、民を抱いて泣くことができる一人の責任者、イエスの事情を抱いて泣くことができる一人の責任者は、いつこの地上に現れるのでしょうか?
分かれた歴史を今日一つの実体が現れてつなぎ合わせ、宇宙の総合的な歴史の理念を代弁する実体が現れて、父と新郎新婦の心を震わせ、全ての民と縁を結ぶ心情を持つ責任者が現れ、地を抱いて泣く心を持ち、それを維持することができるようになることを人間は望んでいます。
その一存在を私たちは天に代わって迎え、イエスに代わって迎え、全民に代わって迎え、地に代わって迎えなければなりません。そしてそのように地を抱いて泣き、地を愛し、民を抱いて泣き、民を愛し、その後に神を抱いて泣き、神を愛することができなければなりません。そうして神の悲しい心情を喜びの心情にしなければなりません。
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そのような皆さんを見て、父はもちろん、三位一体の神や千千萬萬の聖徒やサタン世界の人々まで「そうだ」と言えるようになり、6千年間嘆きながら希望していた真の父母の子として、歴史的な心情を代弁して天の深い悲しみを解消するために誰よりも代表的に立ち上がって戦い、サタンに復讐した息子として立てられ、神の永遠の愛の子として証しされなければ印を受けることはできません。
今日のキリスト教徒が言う14万4千人の群れ...、言葉は良いです。天の印を受けた息子娘...、言葉は良いです。解怨復帰の条件を作り、天倫の摂理を代行する天の息子娘が彼らの言う通りなのでしょうか?分かってみれば、天が印を押すことのできる息子娘は、天に代わって地に対して泣くことのできる心情を持たなければなりません。
民を抱いて泣くことができ、苦しみを受け、無念さを受けたときにも天倫に代わり、天に代わり耐えることのできる人でなければ、歴史的に深く染み込んだ神の悲しみ、人間が犯したすべての過ちを回復し、すべての試練を乗り越えることのできる息子娘でなければ、印を受けることはできないのです。
では、今日の私たちはどこから印を受けるべきでしょうか?必ず神と共にあるべきです。神の心情から印を受け、神の事情から印を受け、今日の私たちの家庭から、社会から印を受けるべきです。父を抱いて泣くことができる歴史的な心情の帰一地点を見つけたときにのみ、天の印を受けることができることを、私たちは明確に知るべきです。
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<祈祷>
お父様! 歩む道が険しいとしても、私たちの心はお父様のその心情の痛みに比べることはできず、私たちの無念さを重ねたサタンの領域を歩んだお父様のその足跡に比べることはできないことを理解できるようにしてください。
険しい道を歩みながらも天の意志を担う使命感が私たちの心に湧き上がるようにしてください。そして悲しみながらも、お父様の悲しい歴史の友となり、あなたの道に共に歩むことができる息子娘となることを許してください。歴史的な苦痛を共に感じ、苦しむ心情の友となることを許してください。無念の心情に共に立ち、友となることを許してください。お父様の内なる悲しみの友となると同時に、外なる悲しみの友となり、永遠のお父様の喜びの対象となることを許してください。
今日、すべてが問題となる前に、祝福を求めてさまよう私自身が問題であることに気づきました。しかし、私たちの心の中にある悲しみを理解しない人間には、幸福の道を見つける手立てがないことも理解しました。苦痛の道を歩まなければならない人間がその道を避けようとするならば、決してその苦痛の道を避けることはできないことも知りました。無念さや無念を乗り越える忍耐を失った多くの人々に、その忍耐がなければいかなる苦痛も避けることができないことを悟らせてください。
悲しみの峠を越え、苦痛の峠を越え、無念の心情の峠を越えてこそ、その日の祝福が決定される天倫の原則を私たちは理解しました。今、お父様の心情を抱きしめ、地を抱きしめ、万物を抱きしめ涙を流し、「お父様の悲しみは私の悲しみ、お父様の苦痛は私の苦痛、お父様の困難は私の困難です。そのすべての苦痛を私に任せ、お父様は幸福な場所に立ってください」と言える私たちになることを許してください。
切っても切れない苦痛と情と他のすべてが共鳴する父子の関係の縁があることを知っていますので、お父様の認めを受ける時へと導いてください。
多様な人々の中で、勝利した息子たちを立てて全宇宙を復帰させたいというお父様の心情を理解しました。その心情を私の身に持ち、現すことができるように導いてください。いかなる犠牲をもいかなる死の道も感謝しながら、お父様の道を守り続ける息子娘となることを許してください。お父様との縁を断ち、裏切る者とならず、必ずやお父様の意志を成し遂げる私たちとなるように導いてください。
このすべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
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