人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集5(9)

2024年08月31日 18時02分13秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 5 - 9. 開拓者となったイエスの実体(1959年2月1日)


1959年2月1日(日)、全本部教会にて


マタイによる福音書8:18-22




<祈り(Ⅰ)>


天のお父様、不忠実な私たちですが、あなたを求めてここに参りました。どうか憐れんでください。あなたの呼びかけに応えてこの場に集まった私たちが、心も体もすべてあなたのものとなるようお許しください。


あなたとの永遠のつながりが、この場で築かれるようにしてください。私たちの心があなたの心と通じ合い、あなたの聖なる御姿に触れられる体となるようにお許しください。そうして、永遠に続くつながりと関係を持ち、あなたが動くときに私たちも動き、その意志に従って行動できる者とならせてください。


今日ここに集まることは偶然ではなく、あなたの導きであることを私たちは知っています。私たちを集めてくださったのは、死の力を断ち切り、サタンに打ち勝つ生贄となるためです。どうか、あなたの願いの通りに私たちを導き、あなたが喜ばれる生贄として立ててくださるよう、天のお父様、心から願い求めます。


私たち自身を中心とした条件を持たないように、どうかお許しください。また、私たちの体があなたの前で害となる要素を持たないようにお許しください。心と体が一致し、ただあなたのみが通じ、あなたが自由に主導できる本来の姿を備えさせてください。


あなたとの切り離せない心情で一つになれる体にならなければならないことを、私たちは知っています。お父様、どうか私たちの体をあなたがご自身で臨在できる聖所として、私たちの心をあなたがご自身で臨在できる至聖所として作り上げてください。私たちの心と体が、あなたがご自身で臨在し、安らぎを得られる基盤となるように、天のお父様、心から願い求めます。


     17


どうか今、私たちの心の扉を開き、すべての罪悪の要素を取り除いてください。あなたの意志にそぐわないすべての要素を取り除いてください。そして、あなたのみが主導できる私たちとならせてください。あなたの生命体とならせてください。天のお父様、心から願い求めます。


一週間の生活の中で足りないことが多かったかもしれませんが、あなたの前にひれ伏します。どうか、再創造の苦しみの中でも私たちを再び愛してください。せめてこの一時間だけでも、全焼の生贄として天のお父様の懐に抱かれる息子娘とならせてください。愛する天のお父様、心から願い求めます。


この日は聖なる日です。すべての人々に祝福を与えてください。三千万の民衆にも祝福を与えてください。多くの教団にも祝福を与えてください。あなたの心情を慕い、あなたの天倫の意志を願う多くの息子娘の上に、直接的な恩恵の手を差し伸べてください。あなたが世界的に摂理していることを、私たちが心と体で体験できるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


この日、地方に散らばっている孤独な家族たち、あなたの意志一つを心にかけて祈っている息子娘たちに、均等な恩賜を与えてください。そしてご自身で守り導いてください。試練と迫害の中でも、最後まで残る者となるようお許しください。始めから終わりまで主導してください。主の御名によってお祈り致します。アーメン。




<祈り(Ⅱ)>


行く道が分からずにさまよっていた私たちを、天のお父様がこの場に導いてくださいました。傷ついた体と心を持って、あなたの前にひれ伏しました。


     18


天のお父様にお捧げするものを何も持っていませんが、どうか導いてください。憐れみの恩恵を施してください。愛する天のお父様、疲れた私たちの手を取ってください。頼りどころのない私たちの体を抱きしめてください。永遠のその世界の愛を私たちに施してください。待ち望んでいた希望の父として私たちを教え導いてくださるこの一時間を、天のお父様、心から願い求めます。


真心を込めてあなたに向き合いたいのですが、あなたとの距離があまりにも遠いと感じます。しかし、この場には、あなたのためにすべてを捨てると誓った者も多く、あなたの前にすべてを捧げる覚悟をした者も多くいます。天のお父様、彼らの上に現れて、命じてください。天のお父様がご自身で導き、天のお父様と愛のつながりを持てるこの時間となるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


今、私たちが進む道も、私たちが生きることも、私たちに属するすべてがあなたの意志一つのためです。今、私たちの一体を、ご自身で引き受けて主導してください。そして、ご自身で抱きしめてください。そして、人と結ばれるというその意志が、天のお父様の愛の動きによって現れるようにお許しください。求めている本来の一つの存在を、この一時間を通じて再び形作ることができるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


私たちは自らの意思でこの道を選んだわけではありません。行かざるを得ない天倫の意志があり、ここに来ました。あなたの苦労と血のにじむ道を知り、その意志を完成するために身をよじっています。どうか私たちの心と体を憐れんでください。


あなたが立ててくださった命の灯台を求めて来ました。天のお父様の前に誇れる一つの姿を求めて来ました。天のお父様、どうか命じてください。栄光の恩賜を与えてください。再創造の手を差し伸べてください。


     19


天のお父様の前にふさわしくない私たちのすべてを取り除いてください。天のお父様の善の歴史だけが現れるようにしてください。天のお父様が直接動かれ、私たちが喜んで心と体であなたの前に礼拝できるこの時間をお許しください。愛する天のお父様、心から願い求めます。


私たちは新しい園を心に抱いています。新しい国の理念を慕っています。しかし、天のお父様、この道を阻む敵が多いです。


今日も戦い、明日も戦わなければならない立場にあります。天のお父様、共にいてください。あなたの刺激的な力と衝撃を、この一時間を通して与えてください。天の愛を慕う切なる心だけが、私たちの生活を主導できるようにしてください。そして、環境を動かせるようにしてください。天のお父様、心から願い求めます。


天のお父様、この国、この民族を憐れんでください。進むべき道が分かりません。この民族が求めるのは、希望の祭壇であり、自由の園です。しかし、許された理想世界と天が動かれることを誰も知らずにいます。どうか彼らを目覚めさせてください。そして、この民族に対する私たちの責任が大きいことを知っています。今日この一時間、天のお父様の前にひれ伏した私たちが、この民族に対する責任を果たせるようにしてください。


暗闇の力の下で呻いているこの地上の人類を救う責任を担っていることに気づかせるこの一時間をお許しください。天のお父様の新しい真理の言葉によって、この民族を新しくすることができるようにお許しください。そして、この地上の人類を愛せる時間をお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


     20


天のお父様、この期間、地方に散らばっている孤独な家族たちを憐れんでください。牧者として送った彼らが、あなたに向かって叫ぶこの時間です。どうか均等な恩賜で抱きしめてください。そして、残された戦場で倒れる者がいないように守ってください。落伍者が出ないようにしてください。心から願い求めます。


不忠実な私たちですが、体を整えて天のお父様の聖なる神殿に集まりました。天のお父様の前にふさわしくないすべての要素を取り除いてください。そして、自分を中心に主張するいかなる主義や観念や認識も取り除いてください。あなたのみが動けるこの一時間となるようにしてください。あなたのみが関与できるこの時間をお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


すべてを委ねましたので、あなたの意志のままに主導してください。主の御名によってお祈り致します。アーメン。




<祈り(Ⅲ)>


天のお父様!わかり得なかった摂理の意志というものを、私たちはもう一度心の中で深く思い返すとき、私たちの祖先が堕落した後、6千年という長い歴史を経てきましたが、人間はあなたのその深い心を理解できなかったという事実を、私たちはあまりにもよく知っています。また、あなたの事情が困難であることもすでに学びました。そして、あなたの願いが今日、地と全人類と天の前に残されていることも私たちは知っています。


今日、私たちがあなたの願いの範囲内に立ち、あなたの心情の園に立って「天のお父様、私がここにいますので、慰めを受けてください」と言える、尊厳なる天のお父様の前で称賛される息子娘の誠実さを持っているかを考えると、私たちはあまりにも遠い距離にいることを認めざるを得ません。


     21


あなたのその心情を代わりにできる願いの実体としておいでになったイエス・キリストが、地上に再び現れるとき、天倫の心情を求めてさまよう者は、そのイエス様の心情を通じて行わなければならないでしょう。そして、天倫の事情を通じてさまよう選ばれたイスラエルにおいては、彼らの事情がイエス様の事情と一体化しなければならなかったことも私たちは知っています。イエス様を送った天のお父様の願いが万人のための願いであったことを、イスラエルの民は知らなければなりませんでした。しかし、願いの実体であるイエス様を見逃してしまったために、この悲しみが今日、私たちにまで引き継がれているという歴史的な悲しみをも感じています。


今、天のお父様に対して叫びたいことは何でしょうか、天のお父様に対して探し求めたいものは何でしょうか、求めたいことは何でしょうか?今日、私たちの祖先が持てなかったあなたの心情を、イエス様が代わりに持たれたように、私たちもその心情を持たせてください。


イエス様の事情と願いを持ち、終わりの日に天のお父様と同じ心情を持った存在にならなければならないこと、そして今まであなたに対する歴史的なすべての負債を清算しなければならない責任があることを、私たちは知っています。今、私たちの心と体を合わせて天のお父様の前にひれ伏しましたが、何を持って天のお父様と呼ぶことができるでしょうか?どのような事情で天のお父様の事情に伴うことができるでしょうか?また、どのような願いを持ってあなたの6千年の願いの心情を代わることができるでしょうか?何一つ持っていない不肖な姿です。


このような立場にある人間を憐れんでくださる天のお父様であることを知っているため、憐れみの心が大きい天のお父様であることを知っているため、十字架の道を歩んで耐えてこられた天のお父様が「来なさい」とおっしゃったことを知っているため、何も整えていない不忠で不完全な姿でありながらも、両手を合わせて天のお父様の前にひれ伏しました。悲惨なこの姿を憐れんでください。そして、天のお父様の御言葉で私たちを目覚めさせてくださることを願い、天のお父様の事情に合うように私たちを教え導いてくださることを願います。天のお父様、私たちを対して忍耐してこられたお怒りの心があるならば、その心を解き放つこの時間をお許しください。


悔しく、無念な心があるとしても、取るに足らない私たちを通して、そのすべてが解消されるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


     22




天のお父様!2千年前に来られたイエス様は本当に哀れな方でした。最後の瞬間まで、その心情を理解する者は一人もおらず、その事情と願いを知る者も誰もいませんでした。地を見ても、万人を見ても、あなたの意志を展開できる基盤がなく、30余年の生涯を悲しくも惨めに生きたイエス様の事情を知る者たちとならせてください。そして、イエス様の心情を似る者とならせてください。希望を抱き、イエスが残された足跡を追う息子娘となるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


4千年間、見つけて立てられたユダヤ教団はどこに行き、イスラエルの民はどこに行きましたか?建てられたエルサレムの聖殿もイエス様のために準備されたものでしたが、イエス様との関係を結ぶことができませんでした。準備されたユダヤ教団もイエス様との関係を結ぶことができませんでした。準備された民族もイエス様との何らかの関係がない立場で、むしろイエス様を追い詰める立場に立っていました。しかし、そのような孤独な立場に一人で立ち、追い詰めるその人々のために祈らなければならなかったイエス様の事情を知る者が、この時間にここに多くなるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


天のお父様、私たちがこの場に集まったのは、あなたが「来なさい」と命じられた命令を聞いたからです。今、私たちが進む足跡には十字架の道が残されていることを知っており、涙に濡れた視線を持ち、罪悪の世と戦わなければならない時が来ました。そして、あなたの心情を通らなければならない時が来たので、私たちを呼ばれたことを知っています。ですから、天のお父様の心を私たちの心に、天のお父様の事情を私たちの事情に、天のお父様の願いを私たちの願いに、天のお父様の敵を私たちの敵に、天のお父様の戦いを私たちの戦いにし、天のお父様の願いを成就して差し上げることができる、勝利の生贄として捧げられる息子娘となるようにお許しください。愛する天のお父様、心から願い求めます。


天のお父様、「狐にも穴があり、空の鳥にも巣があるが、人の子には頭を置く場所がない」と言ったイエス様の心に刻まれた事情を、私たちが泣いたからといって解消できるわけではなく、私たちが死んだからといって解消できるわけでもないその恨みの事情を、この時間に私たちが体験することをお許しください。天のお父様の前に近づき、イエス様の前に近づくことができ、三位一体の神の懐に抱かれるこの時間をお許しください。私たちのこの一つの集まりが、天のお父様が頭を置く場所となるようにお許しください。そして、宿る場所となるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


今、御言葉を伝えようとしていますが、どうか多くの言葉よりも、あなたの心情を伝えられるようにお許しください。そして、あなたの事情を伝えられるようにお許しください。




無言で動くことができる私たちとなり、あなたの心情に触れ、あなたの栄光を仰ぎ見て、あなたの心情を体感できるようにお許しください。それぞれが生きた聖殿として、あなたと共に動き、静まることができる姿となるようにお許しください。


この一時間、聖別された祭壇を築くことができるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。また、悪魔が侵入する時間とならないように守ってください。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


     23


<御言葉>


今日、皆さんと共に考えたいテーマは「開拓者となったイエスの実体」です。「開拓者となったイエス様の実体」という題でお話しします。


神様は、堕落した人類を救済するために、限りなく努力してこられました。私たちが罪に落ち込んでいるときに、私たちを見つけ、私たちのために福祉を紹介してくれた方がいるとすれば、それは私たちの愛する親でもなく、何らかの情で結ばれている子供や夫婦でもありません。また、国家でもなく、どのような聖人賢者でもありません。それが神様であることを皆さんは忘れてはなりません。


神様は、今日まで私たちの希望の全体を開拓するために苦労されてきました。さらに、私たちの事情と心情を解決し、私たちの絡まったすべてを解きほぐすために、休むことなく努力し、戦ってこられました。このように、神様は歴史の始まりからこの時間まで、開拓者としての使命を果たしてこられたという事実を皆さんは忘れてはなりません。


     24


天は、アダムが堕落した後、イエス様が来られるまでの4千年という長い年月の間、開拓の苦労を引き継ぐべき人間が無知な立場にあったにもかかわらず、変わらずに摂理を続けてこられました。私たち人間に対して一日の希望を持ち、幸福の園を目指してこられました。私たち人間は歴史を経て、一歩一歩その世界を目指して進んできたという事実を私たちはよく知っています。


神様は、人間の堕落以降4千年間、個人を通じて民族を経て、イスラエル民族を立て、あなたの願いの意志を成就するために、4千年の苦労の基盤の上に天の全体的な使命を引き継ぎ、天の心情と願いを引き継ぐことのできる一人の主人としてイエス様を送られました。


しかし、その時、信じていたユダヤ教徒たちや、選ばれた民として自慢していたイスラエル民族は、その方が誰であるかを知りませんでした。このようにして、神様の苦労により選ばれたイスラエル民族は、その苦労を報いるために送られたイエス・キリストを受け入れませんでした。教団も受け入れず、社会も家庭も誰一人として受け入れませんでした。


そのために、神様が願われた開拓の意志は挫折し、イエス様によって成就の道を歩むはずだったイスラエル民族は失敗の道、すなわち死の道を歩んだのです。


神様は開拓の道を歩んで苦労され、イエス様はこの開拓の意志を完成し、天の苦労に報いるべき栄光の使命を持って来られました。しかし、選ばれた民がイエスを知らず、追放したので、イエス様は4千年の苦労を続けてこられた天の前で、その間に開拓してきたイスラエル民族に代わって、再び開拓者の立場に立たなければならなかったという事情を私たちは知っておかなければなりません。


     25


イエス様は天を担い、選ばれた民が希望する理念の世界を建設しなければならない責任を負って来られました。しかし、メシアを待ち望んでいたイスラエル民族は、実際に現れたイエス様が彼らが望んでいたメシアであることを知りませんでした。ここに天の悲しみと悲劇の場面が新しい方向に展開されたのです。誤った方向に展開されたこの一つの事実を通じて、私たちは神様の代わりに悲しむ心情を持たなければなりません。そして、イエス様の代わりに悲しむ心情を持たなければなりません。もしそのような心情がなければ、私たちは人間を対して開拓者の使命を果たしてこられた神様の心情、選ばれた民族の前に開拓者の意志を抱いて現れたイエスの心情を知ることができないのです。


幸福の基盤と希望の園を成すために、その教団と民族はイエス様が先頭に立って死の峠を行けば一緒に行かなければならず、イエス様が幸福と喜びの峠を行けば同じように一緒に行かなければなりませんでした。天は4千年間苦労して切り離せない天的なつながりを結んでくださったが、私たちの先祖は天とのつながりを裏切り、天の開拓の功績を裏切ったこの事実を私たちは悲憤に感じなければなりません。


今から2千年前、イエス様は信じられない要素を持っていたイスラエル民族を切ない心で見つめておられました。また、天的な心情の基盤の上に立つべきユダヤ教団がモーセが受けた律法の形式的な面にとらわれ、天の祭壇の立場から離れているのを見ておられました。自分たちが生きるべき場所がどこなのか、行くべき方向がどの方向なのかを知らずに苦しんでいるイスラエル民族を見つめるイエス様は、神様が4千年間開拓の道を通して自分を立て、彼らを収拾して新しい世界を開拓する群れとして立てようとする目的のもとに、自分を送られたことを知っておられました。その時のイエス様の心情は、壮絶なものであったに違いないということを皆さんは知らなければなりません。


彼は馬小屋で生まれた後、孤独な生活を送りながら大工である父ヨセフを助けました。彼の生活は限られた環境の中での生活でしたが、彼の理念はイスラエル民族を越え、世界を越え、宇宙全体に広がるものであり、そのように生きておられたイエス様でした。


しかし、彼に命じていたヨセフも、彼を追っていた兄弟たちも、この一つの事実を知らないことを考えるとき、イエス様は言葉にできない悲痛な立場に立たざるを得ませんでした。イエス様がこの世の事情を知り、神様の摂理に込められた内的心情を知り、現世に置かれた地の事情を見つめるとき、それら、すなわち心情と事情と物情が一つになって、神様が望まれる方向に動いていくことを望んでおられました。


     26


それにもかかわらず、神様の心情は心情のまま、イエス様の事情は事情のまま、世の中の事情は事情のまま、バラバラに混乱して動いていました。


この一つの事実を見つめるイエス様は、どのような覚悟と決心をしたのでしょうか? 30年の準備の道を経て、実践の道を通じて神様の意志を完成しようという覚悟と決心をしました。イエス様はそのような時を見つめながら、自分の心が悲しくなるほどに天に向かって叫び、地に向かって進む道が途絶えているほどにその事情を人間を通して解こうとされました。


天の心情が自分に近づけば近づくほど、世が自分に近づかなければならず、選ばれた民族と天が立てた教団が自分に近づかなければならないのに、神様には近づいているのに、民族はかえって遠ざかっていることを感じながら生きなければならなかったイエス様の生涯は、皆さんが想像することのできないほど深刻な生涯であったに違いありません。


そのようなイエス様は、天の深刻な事情を知らないこの民を恨んで去るのではなく、彼らの生活を突破して行かなければならず、彼らの心の扉を開けて行かなければならず、最後には彼らの心情を抱いて越えて行かなければならない道が残されていることを考えておられました。これがイエス様でした。ですから、イエス様は「私がまさにあなたたちが望んでいる希望の救い主だ」と主張することができなかった哀れな事情があったということを皆さんは一度考えてみるべきです。


イエス様はこのような逆境の中で、新たな覚悟をしなければなりませんでした。天が4千年間開拓者としての使命を果たしながら築いてこられた基盤が崩れたため、その場所に天の理念を立てることができないことを知っていたイエス様は、再びイスラエル民族に対して戦おうとする壮絶な心情を抱いていました。このことを今日、私たちは知らないでいます。ですから、イエス様はそのような環境に置かれて、「神様、力をお与えください。神様、私に新しい方向を備えさせてください。神様、私に内面的にも外面的にも壮絶な決心を持たせてください」と天に対して内的に祈られました。また、天に対して無言で、心の中で自問自答する生活を30年間という長い年月にわたって繰り返していたことを私たちは再び考えなければなりません。


     27


このような立場に立たれたイエスは、無形でおられる神様の代わりに開拓者の使命を果たすにあたって、どのような使命感を持っていたのでしょうか? 天に対しては、閉ざされた天の扉を開け、天国を建設しなければならない開拓の使命を感じ、また、地に対しては、絡み合い閉ざされている万民の心の世界、天と閉ざされている心の世界を開拓しなければならない使命を感じておられました。さらに、罪に満ちたこの世界を再び開拓しなければならない使命があることをイエス様は感じておられました。


イエス様は神様が4千年間苦労して来られた復帰摂理の歴史を中断させることができず、イスラエル民族が神様を裏切ったとしても、自分は変わらずにその一つの目的を成し遂げなければならないという覚悟で歩んでおられました。すなわち、イエス様は天が動かされたその内的なつながり、その天的なつながりを考えるとき、このように壮絶な覚悟をその身に持たざるを得なかったのです。そして、イエス様にとって当時の環境圏でこのような使命を果たすことのできる開拓者になるかならないかが重要な問題でした。そのような開拓者となるとき、イエス様は神様の前に民族を代表し、選民を代表し、歴史を代表して現れることができ、その覚悟を神様が信じることができ、神様が誇りに思われる一つの姿として現れることができたのです。


では、イエス様はこの使命を果たすためにどのようにしていたのでしょうか? それは、準備期間を経ていました。イエス様は天の心に人類の心を接ぎ木しようとされました。そして、天と地が動き、天と人が動く、つまり一体となる理念を成し遂げようとされました。自分の全身をかけて、天と地が一つとなり、人間と地が一つとなり、地と天が一つとなり、天と人が一つとなる、そのような立場を成し遂げる開拓者として立とうとしたイエス様の覚悟は、言葉に表せないほど壮絶なものであったことを私たちは知らなければなりません。


天が選ばれたイスラエルのために自分を立てられたのです。そして、地にあるすべての被造物のために自分を立てられたのです。ですから、地が自分を裏切っても、民族が残っているので、自分を見捨てることはできませんでした。また、民族が裏切っても、天が残っているので、自分を見捨てることはできなかったイエス様でした。


そのため、彼は内的な心情から壮絶な覚悟と決心を持たざるを得なかったのです。ですから、悪魔から世界を取り戻さなければならないという悲憤の心情と、敵に対する憎悪が心の中から爆発すればするほど、彼は限りなく悲しかったという事実を私たちは知らなければなりません。


     28


そのような心で満たされた準備期間において、イエス様は何百回、何千回、何万回も心の中で誓ったことでしょう。この理念を目指して進む道において、4千年間天の代わりに歩んできたイスラエルの選民の歴史を振り返るとき、イスラエル民族は天の味方になれませんでした。これを知ると、イエス様はこの道を進むには、厳しい迫害があることを予測し、新たな覚悟をされたのです。


神様は今日も、この惨めな環境の中に生きる人間を探し求めておられます。このように探すために苦しんでいる天と人間が互いに通じ合えないことを解決しなければならない責任を感じたイエス様でした。ですから、イスラエル民族が天が定める方向に進まないのを見て、限りなく悲しい心情を感じました。また、この地上の世界を見つめておられる神様が、あなたが足を運べる場所がなく、善の基盤となることができないこの地、悪魔が支配し、蹂躙しているこの地を見つめて、4千年間苦労してこられたことを思うと、限りなく悲しい心情に包まれざるを得ませんでした。


イエス様はそのような悲しみに沈むそのたびに、「私は天のために、人類のために、この地のために天の味方として戦おう」と決意し、どのような迫害や困難が襲ってきても、これを乗り越えてやろうという決心が彼の中で溢れ出てきました。ですから、30年の準備期間に決意したのは、前途の実践の道で大きな戦いを展開しようという覚悟でした。信じないイスラエル民族の前で排斥の生贄となって消え去ることがあっても、今私はこのような道を進もう、このような方法を見つけようと覚悟しました。


信じてくれるならこうするだろうし、信じてくれないならこうするという方法を誰も考えていない中で考え、誰も気にしない中で天に向かって祈っていたイエス様であったことを知らなければなりません。また、30年間、大工のヨセフの家で育ちながら、兄弟たちが喜んでも、喜びの表情をすることができず、親戚や教会などの集まりが楽しそうにしていても、楽しさを表すことができなかったイエスであったことを皆さんは知らなければなりません。


それはなぜかというと、天が望む方向と人間が考える方向があまりにも違っていたからです。これを見つめると、その差が大きければ大きいほどイエス様はさらに固い決心をし、その差が大きければ大きいほど、そのギャップを自分が埋めなければならないと思っていました。


     29


しかし、言いたいことがたくさんあっても口を閉じなければならなかったイエス様でした。イスラエルの地域地域を巡って伝道したいという気持ちが強くても、家庭に役立たなければならなかったイエスの30年間の準備期間の悲しみを皆さんは知らなければなりません。


イエス様が30年の準備期間に開拓者として抱いた決意は何だったのでしょうか? それは、「死の峠があろうと私は行く。迫害の道があろうと私は行く。滅びることがあろうと私は行く」という決意でした。


このようにして、イエス様はこの準備期間に、自分の生活環境を清算することができ、自分のための生涯の理念を清算することができ、民族的なすべての縁を清算することができ、旧約とその法度を重視するユダヤ教団の形式までもすべて清算するという一生の覚悟を持ったのです。


天の国を、全世界の人々の心を開拓しなければならないイエス様は、眠るときも覚めているときも、その生活において彼の心情は神様の理念の境地を一日に何度も往来することがない日はありませんでした。そのようなイエス様であったことを皆さんは知らなければなりません。


30年の準備期間の内なる悲しみを、この地上の万民は理解してくれませんでしたが、ただ神様だけはイエスの味方でいてくださいました。イエス様がかんなを持って木を削る場でも、のこぎりを持って木を切る場でも、食事をして休む場でも、彼の心は神様の心情と事情に共感し、神様の願いである天国が建設されることを願い、一瞬たりともそれを忘れたことがなかったという事実を皆さんは知らなければなりません。


     30


さらに、4千年の歴史を放棄してでも、この価値は放棄できない。選ばれたイスラエルを放棄してでも、この価値は放棄できない。選ばれた教団を放棄しても、これは放棄できない。親や親戚、どんなものでもすべて放棄できるが、これだけは放棄できないということを心に刻み、骨と肉に染み渡らせて感じていました。このようにして、徹底的に動くことができる天情の心情を持ち、希望の一日を見つめて準備してきたイエスの生涯は、壮絶な生活の連続であったことを皆さんは知らなければなりません。


一日を探し、一時を探して準備していたイエス様の心情と彼の姿を、皆さんはもう一度思い描いてみてください。彼が着ていたものは粗末であり、その姿は哀れに見えたかもしれませんが、彼の視線だけは、地上のどんな征服者や開拓者にも劣らないものでした。


天の心情と通じる彼の視線は、宇宙を突き抜けても余裕があるほどの強烈な視線を持っていたという事実を、私たちは考えざるを得ません。このような心情と視線を持って見つめていた彼は、試練を受ける哀れな人の姿にならざるを得ず、悲しみを帯びた姿にならざるを得なかったのです。


この事実を振り返ってみると、イエス様は歴史の道を通して苦労してこられた神様を支える心が強くなればなるほど、不信のイスラエル民族になってしまうのではないかという心配が大きくなり、不信の使徒たち、不信の弟子たちが出てしまうのではないかという無限の心配を抱いていたという事実がわかります。イエス様はこのような心を抱きながら、黙々と30年の準備期間を過ごしました。


イエス様が天の側に立って燃え上がる心情の熱度がどれほど強くなっても、それは自分自身のためのものではありませんでした。天の希望に燃え上がり、世界を見つめる視線がどれほど深刻であっても、それは自分自身の欲望のためのものではなかったことを私たちは知っていなければなりません。


     31


彼が見つめる視線は、ただイスラエル民族のために向けられており、彼の心情もイスラエル民族のためにあり、全世界のためにあったことを知っていなければなりません。そのため、イエス様は無限に悲しい涙を流したのです。その準備期間にイエス様は、十字架の峠を一度だけ覚悟したのではありませんでした。誰かが死ぬという噂を聞くたびに、その人を救うべき人が自分であると感じることが何百回もありました。誰かが不当に迫害を受け、不当に追い込まれ、哀れな立場で不当な目に遭っている人がいると、その事情を自分の事情として考えました。当時の社会の悲惨な現象を、自分自身の実践の道において展開される実証的な生贄のように見つめていたイエスの心情を皆さんは知らなければなりません。


2千年前に来られたイエス様、30年の準備期間を悲しく過ごされたイエス様、そのイエス様の前には、心情に共鳴し、彼を知り、彼に礼拝を捧げ、彼をお迎えする人が一人もいなかったのです。見た目に不格好な者も一人もいませんでした。これは本当に悲しい事実です。そのような人がいたならば、今日の後世の私たち人間は、少しでも面目を保てたかもしれません。これを考えるとき、今日の私たちは天の前にどれほど多くの借りがあるか、計り知れないことを知るべきです。


洗礼者ヨハネの30年の準備の道を見つめて、無限の期待を抱いていたイエス様でした。公生活の道を出発する実践の日を待ち望んでいたイエス様は、ついに準備期間を経て実践の過程に踏み出しました。そのとき、民族が歓迎するだろうと思い、あるいは洗礼者ヨハネが歓迎するだろうと思って行ったが、民族も洗礼者ヨハネも冷淡であり、反対しました。ユダヤ教団も反対しました。準備期間において壮絶な覚悟をして出てきたイエスが、実践の一歩を踏み出すにあたり、イスラエル民族を基盤として世界に対して戦うのが本分であったのに、逆に彼らが自分に反対してきたため、逆にイスラエル民族に対して戦わなければならないという惨めな実践の道が開かれたのです。これを皆さんは知っておくべきです。ですから、4千年間苦労してメシアを迎える準備をしていたイスラエル民族は、第2回目の最初から再び開拓の使命を果たさなければならなくなった事実を知るべきです。


ここで、神が4千年間摂理して築いてこられたすべての基盤が崩壊したため、神はアダムとエバが堕落した直後に摂理されたその歴史の絶対性を持って再びやり直し、全ての民の前に現れなければならなかったイエスの悲しみを私たちは考えなければなりません。選ばれた民だとして訪れたのに、かえって彼らから追放されたのです。


それで、イエス様が向かった場所はどこでしょうか? 神が4千年間苦労して築いてこられたイスラエル民族が天を裏切り、かえって悪魔の立場に立ってしまったのを見つめるイエス様の悲しみに満ちた心情を誰が知るのでしょうか! そのため、イエス様は荒野に出て40日間の断食を行いました。


     32


今日、皆さんが信じているイエス様が、このように哀れな方であったということを、皆さんはまだ知らなかったでしょう。天の独り子であり、天の皇太子であるイエス様が人間の世を訪れ、人間から拒絶され、荒野に出て食べるものもなく、神の敵であるサタンの前で試みを受けるというこの事実を、その時代の人々は知りませんでした。ですから、このようなイエスの悔しさに満ちた道を見つめる神の悔しさを、どう言葉で表現することができたでしょうか!


悔しさで胸に痛みを感じていたイエス様は、自分自身の哀れさを見て、天が心配することを知っていました。そのため、自分の悲しい心情も表さず、天に対して極めて孝行心を持っていました。そのようなイエス様を私たちは振り返るとき、イエス様はエデンの園でアダムが天を裏切っていたその境地を超え、自分のために心配してくださる神の心情を感じました。ですから、自分自身の悲しみをもって当然祈るべき立場にあったのに、これを避け、悔しさを抑えて天を慰めようとしたため、堕落の悲しみを転じて神の前に進む希望の道を開くことができたのだということを皆さんは知らなければなりません。イエス様は30年の準備期間において、これを実践の道として見つけ出そうと決意しました。自分が踏み出した一歩が民族を敵にしなければならないことを知っていました。


それでは、神の作戦法とはどのようなものでしょうか? 一人を見つけるためには、その一人の価値に見合うだけの試練を受けてから見つけるということです。これが天の摂理です。一つの家族を見つけるためには、その家族に見合うものを天が代わりに受けてから、その家族を取り戻すのです。したがって、民族を再び立てるためには、神がその程度の打撃を受けてから見つけ立てるのです。イエス様は、実践の道において、これが天の作戦法であることを知っていました。


神に代わらなければならなかったイエス様が民族を見つけるためには、個人の生贄になり、家族の生贄になり、教団の生贄になり、民族の生贄になって、叩かれる犠牲の開拓の道を歩んでこられたことを、皆さんは知らなければなりません。


このような理念の実践方法を持って現れたイエス様は、準備したユダヤ教団から自分の同志を見つけようとしましたが、誰一人歓迎する者はいませんでした。今日の韓国の実情を見ても、漁師と言えば人扱いされず、貧しく悲惨な生活を送っているのが私たちの知っていることですが、今から2千年前のその時代、無知で貧しい漁師たちを探しに行ったイエスがどのような立場にあったかを知らなければなりません。皆さんが聖書で見るように、ペテロのような人々がイエスを見て、イエス様の言葉を聞いてすぐに感動して従ったと見ますか? とんでもないことです。聖書にはその背後の生活の内容が記されていないのです。ペテロのような人々は、イエス様を信じるに足る噂を聞いていたことを知っておくべきです。


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民族に捨てられたイエス様は、労働者のように現れ、漁師の友のように、彼らと同じ思いを抱く友となり、心情を共有する友となり、願いを共有する友となって、彼らが望むことは何であれ、死を覚悟してでも成し遂げてあげるという気持ちで戦いました。このような心情的な内容と理念を持って証し、戦ったために、ペテロのような漁師たちが従うことができたのです。


では、無学な弟子たちを選び、3年間で何をしたのでしょうか? 神がイスラエル民族を立てるために4千年の間、苦労し奉仕してこられたのと同じように、イエス様は彼らを立て、奉仕の生活をされました。


12人の弟子を選ばれたイエス様は、彼らに対して大きな期待を抱いていました。ユダヤ教団を動かし、祭司たちやすべての学者たちを主観するために、天が遣わしたイエス様でした。それゆえ、彼の理念は大きく、彼が持つ欲望も大きく、彼の心情的基準も高かったのです。このような神の実体的理念を持ち、一人の開拓者として現れたイエス様を認識しなかった当時の祭司たちや学者たちは、堕落直後のアダムとエバよりもさらに哀れな人々であったことを知るべきです。


このような群れを見てイエス様はどうされたでしょうか?  天が4千年間、選民を立てるために奉仕の道を歩み、悪魔に対して犠牲と生贄の道を歩んできたその歴史的な伝統を、イエス様は3年間の公生活の道で通過されたことを皆さんは知っておかなければなりません。


したがって、イエス様は食べたいものがあっても、食べるものがあっても、それを忘れて弟子たちを探され、着る服があれば自分が裸であることを考えずに弟子たちに与えました。安らぎの場所があれば、弟子たちをそこに置き、自分は貧しい場所に留まりました。天と結びついたこのような心とこのような理念を持って生活したイエス様の3年間の公生活の道が、必然的に勝利的な成果を収めなければならないはずだったにもかかわらず、その成果を得られなかったその事情を皆さんは知らなければなりません。


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イエス様の心情を理解しなかった弟子たちは、イエス様を利用して高い地位に就こうとしました。それを知っていたイエス様は、地を叩いて泣いてもその心を解く方法がなく、天に対して号泣してもこれを解く方法がなく、哀れな心情を抱えて生活していました。


しかし、行かざるを得ない使命の道が残されていたため、その心を抑えて弟子たちに対して「誰でも自分を高くする者は低くされ、誰でも自分を低くする者は高くされる」(マタイ23:12)と言われました。自分の心に刻まれ、自分の骨肉に刻まれた決意の一端を再び証しされたということを、皆さんは知らなければなりません。


その時、この言葉を聞いた弟子たちは、それはイエス様の言葉であって、自分たちには関係ないと思っていました。皆さん! ヨハネの母が自分の二人の息子を終わりの日の栄光の座に置いてほしいと願ったときに、絶望と悲しみに満ちたイエス様のその心情を一度考えてみてください。イエス様は本当に哀れな方です。イエス様が弟子たちにそのように教え、指導してくれたにもかかわらず、彼らはその意味を理解できませんでした。


したがって、従う者が多くなればなるほど、弟子たちは自分たちが喜ぶ行動を示しましたが、イエス様が自分たちに実践で示し、教え、指導してくれたことを見本にして、彼らがイエス様に従う者たちの前で模範を示し、イエス様を高め、イエス様に仕えるこのような生贄の立場には立てませんでした。むしろ弟子たちのせいで、他の人々がイエス様の前に出るのが難しくなったのです。それにもかかわらず、イエス様はその弟子たちに、自分たちを超えて教団が叫んでいることを成し遂げる責任があることを知っていました。そして、教団には教団を超えて民族が叫んでいることを成し遂げる責任があることを知っていました。民族には民族を超えて世界が叫んでいることを、世界の人類には世界を超えて天が叫んでいることを成し遂げる責任があることを知っていました。


しかし、このような彼の心情を理解する人は一人もいなかったのです。このような事情に置かれているイエス様、ただ自分のために求める数少ない弟子たちを見つめるイエス様に、もし悲しみがあったなら、それ以上の悲しみはなかったことでしょう。


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このようにして、イエス様は天心万苦の精誠を尽くし、信徒たちが飢えているときにはパンを作って食べさせ、彼らが泣くときには彼らを慰め、絶望するときには八福の言葉を通して天の祝福を紹介しました。このようにして、彼らを率いて歩きながら、落胆することを心配し、あるいは離れていくことを心配していたイエス様の心情的な哀れな事情を表現したのが、まさに福音書の言葉であることを私たちは知っておかなければなりません。


しかし、どれほど外的な条件が変わろうとも、イエス様の心は変わることなく、彼の進む道も変わることはありませんでした。この道は堕落した私たち人類が必ず歩まなければならない運命の道であるにもかかわらず、ついていくべきイスラエル民族がイエスを裏切り、従っていた群衆が裏切り、本来イエス様を信じて仕えなければならなかった弟子たちでさえ、彼と心情や事情、そして希望を異にしていました。このことを見つめるイエス様の視線には、悲しみを感じさせる場面が数多く見えたことを皆さんは知っておかなければなりません。


しかし、イエス様は個人的に迫害を受けるべき自分自身を知っており、家庭的にも迫害を受けることを知っており、教団的にも、民族や国家的にも、当時の世界を代表するローマ帝国の前でも迫害を受けることを知り、黙々と歩み続けました。変貌山を越えてゴルゴダの丘を目指す彼は、「どんな迫害や苦難が来ても来るなら来い、私は自分の時を迎えるために超えるべきものは超えなければならない」との覚悟を持っていました。もしそれを超えなければ、準備の過程が悲しみの一面として現れるため、覚悟していたこの峠、死の峠に向かって進みました。この意味を実践するためには、死の生贄としてこの人類に自分の血と肉を分け与えていくという覚悟が天心を代弁していたのです。このように、人類を代弁して天心に感動し、覚悟して歩むイエスの歩みでした。しかし、準備期間に覚悟したその決心を実践するために歩んでいる彼がその誰にも知られていなかったということを皆さんは知らなければなりません。


自分を拒絶する多くの群衆を恨むことを知らないイエス様、誰よりも敏感で、誰よりも強い憤りを持っていたイエス様でした。また、イスラエル民族を中心とした使命の道を再び開拓しなければならない責任感を感じていたイエス様でした。4千年の縁を通して神の心情が注がれていることを知るイエス様は、捨てることのできない民族であったため、彼らが自分を拒絶しても「私を通して救ってください」と、「彼らが迫害しても私を通してこの民族を救ってください」と、最後には弟子たちが裏切る場面に立たされても「私を通して救いの使命を果たしてください」と天に向かって祈願していました。イエス様はまさにこのような道を歩んでいたのです。


12人の弟子たちがイエス様と死んでも共に死に、生きても共に生きようという覚悟で「主よ! どこへ行かれるにも共に参ります」と言っていた言葉は、イエス様が福音を持って現れた時に発せられた言葉です。従う弟子たちが「先生がどこへ行かれるにも私はついていきます」と覚悟していたのは、イエス様が最初に出発した心情とゲッセマネに向かう時の心情と似たものであったことを皆さんは知っておかなければなりません。


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「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所がない」(マタイ8:20)とおっしゃり、「私の体と頭と心情を父の胸に委ねます」と祈ったのは、絡み合った人類の嘆きと逆境をすべて乗り越え、苦労された神を抱きしめて切なく悲しい心情を委ねるものであり、これがまさにゲッセマネの園での最終的な祈りでありました。このような約束を立て、それを実践するために進む歩みが十字架を背負い、ゴルゴダの道を歩むイエス様の姿でありました。イエス様は神が4千年の間、苦労されたその道を代わり、一つの生贄として捧げる覚悟をしました。これがその時まで摂理の使命を理解せず、裏切ってきた堕落した人間を代表して、反対する人類の前で、自分を死の生贄として捧げる覚悟を持って進んでいたイエスの歩みであったことを私たちは忘れてはなりません。そして、イエスの実践の道も悲しみで終わりを告げました。


すなわち、彼は実践の道において、同志を一人も持たずにその生涯を終えたのです。外的な心情でもそうであり、実践的な生活環境でもそうでした。そのため、イエス様は歴史の生贄として、孤独に血と肉を捧げ、新たな生命の道を人類の前に示すために死を覚悟して歩んだのが、まさに彼の実践の道であったことを皆さんは知らなければなりません。


イエス様は十字架上で血を流しながら息を引き取る前に、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!」(マタイ27:46)と祈り、その後に「すべてが終わった」(ヨハネ19:30)とおっしゃいました。ここで「すべてが終わった」という言葉は、民族を信じ、その民族を中心にして成し遂げるべき理念的な世界をすべて成し遂げたということではなく、30年の準備期間において「悲しみの道が始まるときにはこうしよう」と決心していたその決心をすべて成し遂げたという意味であることを私たちは知っておかなければなりません。この一言の言葉は喜びの言葉ではなく、イエス様が全人類に対して自身の悲しい心情を吐露した言葉でした。知らない人間に対してその悲しい心情を語った最後の遺言であったことを私たちは知っておかなければなりません。


ですから、人類はイエス様の内なる悲しみの道を開拓し、真に「すべてが終わった」と言える日が来ることを望んでいます。それが再臨の日であることを皆さんは知っておかなければなりません。皆さん、そのことを知っておかなければなりません。


イエス様が決心して悪魔の世界と対決しながら進んできた道がまさに十字架の道であったため、今日、全世界のキリスト教徒もその道を模範として歩んでいます。見てください。天は叩かれてから取り戻すと言いました。民族が裏切り、12使徒までもイエス様を否認したために殺されたイエス様が復活して取り戻したのは誰だったでしょうか?  それは12人の弟子たちでした。天はこのように叩かれてから取り戻します。また、イエス様を信じていたステファノは石で打たれて殺されました。このようにして天の側に立っていたステファノが殺された後、天は代わりにサウロを取り戻しました。


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イエス様が復活して自分を裏切った弟子たちを再び取り戻したのと同じように、イエス様の弟子たちをすべて殺すという時に、イエス様は復活の権能を発揮してサウロを奪うという、つまり打たれてから取り戻すことを行いました。また、サウロはパウロに改名された後、12使徒に代わって叩かれました。このように追われていたパウロが使徒の中の使徒となり、キリスト教の基盤を築いたとは誰が想像したでしょうか!


それでは誰がイエス様を打ったのでしょうか? ローマ兵たちがイエス様を打ち、イスラエル民族全体が打ちました。その中でも主導的に打ったのは誰かと言えば、それはローマです。ですから、イエス様の弟子たちはイエス様が打たれたことをさらに補うために償いの復帰をしなければならない原則が残されていたため、ローマに入って代わりに叩かれました。12使徒と70門徒、そして信じていた多くの群衆が民族を代表して叩かれたことを再び償いの復帰をしなければならない原則が残されていたため、打たれたローマはそのままではいられませんでした。


ローマ帝国の時代が過ぎ、旧教が栄えた封建社会を過ぎて改革期に入ると、腐敗した旧教がルターが反旗を翻した時に打ちました。このように打てば打たれる新教は、その後その場所を離れ、天道を中心に大西洋を渡り、彼らが誇り、彼らが築き上げてきた文化を起こし、今日のアメリカを築きました。それは世界的な外的カナンの形を追われるキリスト教の群れを通して築き上げられてきたことを示しているのです。


それでは今日のイスラエルが民主国家を代表するこのような社会形態として現れたので、天はまた叩かれる群れを探し求める時が来たということです。したがって、この時は歴史的な転換期です。歴史が叩かれる群れを探し求めています。したがってこの時には教団の中において、民主国家の中で叩かれ追われる群れが出なければならないでしょう。追われる群れは、その主義や理念が従来のものとは異なります。なぜなら、イエス様が持ってきた理念は地上の理念ではなく天国の理念であるため、地上で通じる理念とは根本的に異なるからです。新しい理念に従って生きようとする人々は、その理念の建設者がイエス様であったため、天地開闢的な変革の過程を経て現れることを私たちは歴史を通じて知っています。


それでは、その瞬間にどのような群れが現れるべきでしょうか? 歴史の終末期にイエス様のゴルゴダの道を歩みながら信じる神霊派、すなわち天の祝福を受けた群れが出なければなりません。ゴルゴダの頂を目指して追われ、追われつつも行かざるを得ないこの道を再び歩んでいる群れが出なければならないということです。したがって、今日の時代には、イエス様の個人的なものではなく、キリスト教的な、あるいは教団的なゴルゴダの負担を背負って進む教派が出なければならない時が来ていることを私たちは忘れてはなりません。


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イエス様が手に入れたものは、打たれて手に入れたものです。ローマに打たれたのでローマを手に入れました。このようにして教団復帰運動や国家復帰運動、世界復帰運動を展開したため、個人的に叩かれるゴルゴダの道を歩まれました。したがって、今日では教団的に叩かれる、すなわちゴルゴダの道を進む教団が出なければならず、民族的にもゴルゴダの道を進む民族が出なければならないのです。終末にはこれが天に至る公式的な道です。


それでは、今日この時代において天を探し、準備期間を過ぎて実践期間を過ごし、天倫の本性を探し求めなければならない私たちは何を準備しなければならないでしょうか? また、どのような立場に立たなければならないでしょうか? イエス様が30年間準備したのと同じように、その立場に立たなければなりません。そして、内的な天的心情から人間の心情を代弁し、あるいはすべての主権を代弁して対決し、独りで立ち上がって進む覚悟を持たなければなりません。したがって、今日このような覚悟を持って世界的なゴルゴダを越えていく群れが必ず現れなければならないのです。これを皆さんは知らなければなりません。


イエス様が亡くなられる際に「すべてが終わった」とおっしゃいましたが、それでは摂理の完成点にはなりません。ですから、私たちは生きて「すべてが終わった」と言える道を歩まなければなりません。そして、天軍天使や霊人、そして被造物全体が頭を下げて「おお、あなたの願いが叶った日が今日です。栄光をお受けください」と言えるような、そのような場所で「すべてが終わった」と言える日を準備しなければならない時がまさに今です。ですから、今日のクリスチャンたちは、死んで「すべてが終わった」と言うその日を超えて、生きて「すべてが終わった」と言えるその日を迎えるために信仰しています。したがって、今日の第一の完成期における天的な開拓者の使命を皆さん自身が果たさなければなりません。


イエス様は世界のために死んだかのようですが、世界的な舞台で迫害を受けませんでした。民族と国家の舞台で迫害を受けました。しかし、最終的に勝利のゴルゴダを超えるべき完成期であるキリスト教終末期の今日において、皆さんは世界的な舞台を基盤にして、イエスの30年の生涯の準備期間に抱いていたその心、その決心を持ち、また3年間の実践期間に持っていた作戦法を持ち、どんなゴルゴダでも死を覚悟して越えなければなりません。そして、この仕事を成し遂げる責任を担い、敵を攻撃せずに開拓者の使命を代わりに果たさなければなりません。


言い換えれば、天の新たな第二の舞台を築かなければならないということです。そのためには、敵に対して祈りを捧げていたイエス様の内的な心情を抱き、越えていくことができる、すなわち世界的な使命を受け継いだクリスチャンになる必要があります。そうでなければ、完成の日、「すべてが終わった」と言うその時、すなわち栄光の日を迎えることはできないということを皆さんは知らなければなりません。


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今日まで、キリスト教徒たちは繰り返し未完成の道を歩みながら、この道を責任を持って開拓者の使命を果たしてきましたが、今度は完成の道を開拓しなければなりません。したがって、天の理念を心に抱き、準備してきたその第一の理念が第二の理念として現れたことを今日私たちは受け継がなければなりません。そして、第一にイエス様の心情的な憤りを解放し、その次に6千年の神の憤りを解放して差し上げなければなりません。そして、天の前で死ぬことなく「すべてが終わった」と言えるその日を迎えなければなりません。


悪魔に対して戦う悲運の歴史の道を隠して、神の栄光のために戦って勝利の日を迎えなければなりません。また、皆さんは十字架の道を歩んだイエス様と同じ心情を持ち、またその実体と同じ姿を持って天の前に立たなければなりません。そうすることで、イエス様がこの地上に来て二重の開拓者の使命を果たせなかったことを今日の皆さんが代わりに果たすことができるということです。したがって、私たちはイエス様が残した世界的なゴルゴダの道を開拓しなければならない自分自身であることを痛感しなければなりません。


ここで、イエス様が追われ、追われる者たちを捨てることができず、民族を抱きしめ、敵を抱きしめ、祈りながら越えていったのと同じように、今日私たちもそのような者たちを抱きしめ、祝福を祈ることができる寛容さを持たなければならず、死を超えて天を掴む覚悟がなければなりません。そうすることで、栄光の日を迎え、神の愛に包まれることができる世界的な息子娘、世界的な新しい楽園の開拓者になることができるのです。これを肝に銘じてください。


ですから、イエス様が築かれた天国が私の心に、イエス様が求めていた愛の心が私の心に、イエス様が求めていた世界が私の体からすべて完結されなければなりません。そして、悪魔が何の未練も持たない勝利者の姿として、新しい宇宙的な開拓者として天の栄光の旗を掲げて進むことで、お父様の意志が成就し、皆さんの復帰の使命が終結し、イエス様の憤りを解放することが完結されるのです。これを私たちは知っておかなければなりません。






祈り


お父様! 恐れ多くも私たちに使命を託し、叫び求める哀れなその声に、私たちの骨髄が震えるような恩寵を受けたことに感謝いたします。


     40


今、私たちの信仰が私たちの心ではなく、涙なくしては接することのできないお父様の心であることを知りました。そして、哀れなものを抱きしめ、もがき苦しむ天の心情を知ることができました。声を上げて泣いても終わりのない恐れ多いその恩寵の前に、身をかがめ、頭を垂れて、罪人の種族、罪人である自分をさらけ出さずにはいられないことを悟ることができました。


愛するお父様! 私たちを見つけてくださり、ありがとうございます。今日お迎えしたお父様の訪れは喜びに満ちたものでしたが、明日お別れするお父様の姿が歓喜の歌を約束して去ることができるお父様の姿であることを願います。お会いする時は喜びで満ちていますが、別れる時は悲しみで満ちています。これが人間に向き合い続けてきたお父様の苦難の道であることを知りました。今日よりも明日が、お父様の前により待ち遠しくなれるように許してください。青春期よりも老年期に入るにつれて、さらにお父様を恋しく思えるようにしてください。


そうして、心の深く高いその世界に一歩一歩進むことができる息子娘にしてくださいますように。そして、お父様の恨みの心情を慰め、イエス様の恨みを解き放ち、歴史上の先祖たちの恨みを解き放つことができるようにしてください。今日の終末的な使命、天的な解放の聖業を私たちによって成し遂げてくださいますように、心から願い、祈り求めます。


今日私たちは、開拓者の心情で来られたことを知りました。栄光が変わって開拓者がどうして現れるのでしょうか? バプテスマのヨハネが裏切ったためでした。教団が裏切ったためでした。民族が裏切ったためでした。世界のすべての人々が裏切ったためでした。これが今日のキリスト教史に残された事実であることを知る限り、イエス様が準備期間を通じて、実践期間を通じて、完成基準を目指して進んでいったその内的決意の心情が、終末期に残された私たちの心の土台の上に沸き上がるようにしてください。


イエス様は民族的な敵、国家的な敵に向き合いましたが、今日の私たちには、民族を超えた世界的な敵、宇宙的な敵に向き合わなければならない責任、すなわち最後の開拓者の使命を果たさなければならない責任があるのです。お父様、どうか私たちに力を与えてください。この責任を独りで担い、世界的なゴルゴダの道を最後まで毅然と歩み、勝利する栄光の息子娘とならせてくださいと心からお願い申し上げます。すべての御言葉を主の御名においてお祈りいたします。アーメン。


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御言葉選集5(8)

2024年08月31日 17時02分56秒 | 日記
文鮮明先生の御言葉選集 5 - 8. 山を求めるイエス様の悲しい心情 (1959年1月25日)


1959年1月25日(日)、前本部教会


<祈祷 (Ⅰ)>

お父様、この日を覚えてください。私たちの身体と心が自己中心のままで、あなたの御前に出ることがないようにしてください。私たちの心と身体が、あなたが直接臨在できる聖なる至聖所となるようにしてください。この時間が、あなたが行き、教えることができる純粋な供え物として、あなたに捧げられることを許してください。


お父様、一週間の間に傷ついた心と疲れた身体を抱えてあなたの前に出てきました。愛の手を差し伸べ、新しい生命の喜びを私たちに与えてください。あなたと私たちとの間に切れない永遠の絆を結んでくださいと、心から願います。

あなたが喜ばれるとき、私たちも喜べるようにしてください。あなたが悲しまれるとき、私たちも悲しめるようにしてください。あなたが行うとき、私たちも行えるようにしてください。あなたが戦うとき、私たちも一緒に戦えるようにしてください。永遠に消えない、切れない絆を結んでくださいと、心から願います。

今まで多くの先祖たちもあなたとの絆を結ぶために懸命に努力してきたことを知っています。あなたが喜ばれる存在として、永遠に抱きしめて愛することのできる存在として、私たちを立ててください。あなたと永遠の愛の絆を結び、あなたと離れることができない関係をこの時間に結ばせてください。

     1

この日は聖なる日ですので、あなたの愛の心情と私たちが一つになることによって、3千万人の民がこの一時間の中で同じ恩恵を受け、あなたの愛の領域に引き入れられるようにしてください。

隠れた祭壇を築き、あなたのために心配し祈る家族が多くいることを知っています。彼らも切れない命の糸に絡み合い、あなたが喜ばれる愛の園で一つになれるように導いてください。心から願います。

この時間、私たちのすべてを捧げますので、あなたのものとして受け入れてください。あなたの心から切り離すことのできない、永遠の一体となる存在にしてください。

今、私たちのすべてを差し出し、あなたのものとして心と身体を満たし、真の心の喜びを回復できるこの時間にしてくださいと、心から願います。

すべての上にあなたの祝福の手を共にしてください。主の名により心から祈ります。アーメン。

     2


<祈祷 (Ⅱ)>


お父様、あなたが集められた子供たちの前に、許された言葉を伝えようとします。私たちの心の主となり、私たちの身体の支配者となってください。


お父様、私たちは2千年前にイエス様が希望の一つの基準を失い、十字架を覚悟しなければならなかった悲しい瞬間に発せられた言葉を見ました。お父様、時と時期はすでに過ぎ去りましたが、心情の世界は時間を超越していることを知っています。イエス様を送り、心配されたあなたの憤りの心情が私たちの憤りとして現れるようにしてください。イエス様の30余年の生涯が私たちの生涯で現れるようにしてください。


お父様、私たちの先祖が天に対して責任を果たせなかった事実が永遠の恨みとなったことを知る者は地上にいません。お父様、あなたはこの不孝な者たちを集め、多くの言葉で天の心情を紹介し、持っている事情を通してすべてを教えてくださいましたが、私たちにはあなたに捧げるものが何もなく、備えもありません。ただあなたに捧げることができるのは、死ぬことができる一つの生ける供え物しかないことをこの時間に私たちが知ることを許してください。


あなたの心を通して私たちの心が動き、あなたの心情を通して私たちの心情が動き、互いに手を握り合い、天の種族として進むことができるように導いてください。そして、あなたの御子を裏切った事実を憤り、あなたの御子を再び迎えることができる切なる心情を持つことを許してください。その切なる心情がこの集まりの心を通して、身体を通して現れるようにしてくださいと、心から願います。


お父様、今、許された短い時間にあなたの言葉を伝えようと願います。伝える者の心と受け取る者の心が一つになるようにしてください。


     3


言葉がどれほど良くても、その言葉が私たちの心情と結びつく前には、私たち自身とは何の関係もないことを知ることを許してくださいと、心から願います。


あなたが私たちに行われなければ、そのような絆は結ばれないことを知っていますので、最初から終わるまで全体を支配してください。地方に散らばっている孤独な家族たちもこの時間に同じ胸に抱き、同じ恩恵で導いてくださいと願っております。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。




<御言葉>


キリスト教がこれまでの歴史を経てきた中で深い絆を結んでいたもの、それは「山」です。ですので、今日は皆さんに「山を求めるイエス様の悲しい心情」という題でお話しします。本文の言葉によりすでによく知っているでしょうが、変貌山に登るイエス様の姿をもう一度この時間に思い出してみてください。


その山頂に登られたイエス様は、過去の歴史にあった全体の摂理を代行する存在であり、その時代全体を代行する存在であり、さらには未来の子孫たち全体を代行する存在でした。しかし、彼が変貌山に喜びの心で登られたのではなく、緊張と悲しみ、孤独の心情を抱えて登られたという事実を思い出してください。


このような出来事は、その瞬間だけで終わったものではなく、イエス様以前の時代やイエス様の時代、さらにはイエス様以後にも影響を与える重大な決定が下された出来事だったのです。


     4


イエス様が重大なことに直面するたびに足を向けられた場所、それは高い山々でした。荒野で40日間飢えた後、悪魔の三つの試練を受けたイエス様は、天への心配と人類への心配と被造物全体への心配をその身に背負い、前後左右を明確に分けなければなりませんでした。そのような責任を負ったイエス様にとって、その場面は天と悪魔、天の仕事と悪魔の仕事を分ける重大で緊張感のある場面でした。その時もイエス様は悪魔に引かれて山頂で試練を受けたのです。


イエス様と縁のあった山を振り返ると、イエス様の前には荒野で悪魔に引かれて登った一つの山があり、ユダヤ人の不信によって最後の十字架を背負う問題を天の前で決定するために訪れた変貌山がありました。そして、次には死のゴルゴタの道を越えるための決定的な祈りをされたゲッセマネの園がありました。この事実を私たちは思い出すべきです。


そのような山を求めたイエス様の足取りがどのように動き、彼が感じた悲しみと苦しみの心情がどのようであったか、彼がどのような姿で現れたのかを考えなければなりません。2千年前に荒野に出られたイエス様の姿をもう一度深く考えなければなりません。そうしないと、悪魔に対して戦いの道を歩んだイエス様の心情を理解することはできません。


荒野の三つの試練でイエス様が悪魔を屈服させ、最後に勝利した場所もまた高い山頂でした。選ばれたバプテスマのヨハネとその仲間から拒絶され、ユダヤの民から裏切られ、荒野の道を進むイエス様の足取りは、今日までこの地上で誰も体験し得なかった悲しい心情を抱えた歩みであったことを知るべきです。


イエス様は天の独り子であり、4千年の歴史を解決する者であり、またその時代と未来の世代の前に天が誇ることのできる勝利の標となる存在でした。しかし、そのようなイエス様が民も背後に置き、教団も放棄し、選ばれたバプテスマのヨハネも、ヨセフの家も残して、友人もなく一人で荒野に出て行かれた悲しい心情を思い出さなければなりません。


     5


そのような歴史的な償還条件を立てようという使命感を抱いて出発したイエス様は、40日間の断食をしながら、その一つの場所で何を思い出していたのでしょうか? それは、昔の先祖たちが歩んできた悲しみの道を自らの体で償還復帰しなければならないという責任感を、誰よりも切実に感じたということです。この事実をこの時間に私たちは理解しなければなりません。


それでは、三つの試練の過程で悪魔に引かれて高い山頂に登っていたイエス様は何を考えていたのでしょうか? 4千年の歴史全体の道のりを心に抱えながら、最後の勝利の盾を立て、悪魔を屈服させるかどうかという緊張感を抱いて高い山頂に向かって登っていたイエス様だったのです。


荒野を歩んだイエス様は、昔エデンの園でアダムとエバが追放された後、エデンの園を失ったために、その子孫もまたその園を探し求めなければならないことを思い出していたことでしょう。神から追放されたアダム以後、悲しみの園で生きてきた歴史的な先祖たちを思い出すとき、イエス様は「山」という名詞とともに山について深く考えざるを得なかったことでしょう。


イエス様は、アダムとエバがエデンの園から追放されたことを追放されなかった立場に戻すために、1600年後に現れたノアが120年という長い年月をかけてアララト山の麓であらゆる逆境を耐え忍びながら箱舟を作った彼の節操を思い出していたでしょう。そして、ノアがそのような生涯を送ったのは、今日の私自身のためだと考えていたでしょう。ノアがこのように山頂に登る自分の姿を懐かしみながら苦労したのだろうとイエス様は思っていたでしょう。


次にアブラハムの時代に移り、アブラハムが供え物を失敗した後、イサクを燔祭に捧げる命令を受けて山頂に向かって行ったことを思い出していたでしょう。この時、サラの晩年に得た子であるイサクを騙してモリヤ山に連れて行ったアブラハムの緊張感あふれる心情を思い出していたのです。


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イサクは誰のために供え物として捧げられなければならなかったのでしょうか? アブラハムは誰のために独り子のイサクを供え物として捧げなければならなかったのでしょうか? もちろん、父なる神のためであり、同時に来るべきメシアのためであったのです。このような歴史的な事実を思い出していたでしょう。


次にモーセを思い出していたでしょう。彼はパロの宮殿での40年とミディアンの荒野での40年の苦労の道を歩んできました。このような悲しい心情を抱えて出発したモーセの前に、ホレブ山の麓で燃える茨の中に神が現れ、新しい約束をされた場面を思い出していたでしょう。


また、モーセが自分を訪ねて来られた神をホレブ山で迎え、不変の絆を結んだ場面、敵である悪魔をこの宇宙から必ず排除するための神の摂理とその目的に対するモーセの忠誠心によって、神とモーセが結びついたその場面を思い出さざるを得ませんでした。


選ばれたイスラエルの民をエジプトの地からカナンの地へ導く命令を受けたモーセは、80歳の老人であり、荒野で苦しめられた身体でした。しかし、彼の視線と姿は天の心情に深く響いていました。そのような心の基準を持っていたモーセを思い出さざるを得ませんでした。


さらに、60万人の民を食べ物もなく、衣服もない荒れ地である荒野に引き連れて行った立場で、最後までカナンの地へ導かなければならない責任を負ったモーセは、彼らが誤ったり、間違った道を進まないか心配して登った場所がシナイ山でした。シナイ山頂でモーセは40昼夜の断食祈祷をしました。その後、神様の言葉を受け取って下山しますが、イエス様はそのようなモーセの状況を思い浮かべざるを得ませんでした。


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モーセがこのようにシナイ山に登って40日間の断食祈祷をしたのは、ただ天の父のためであり、メシアが来る道を整えるためであり、さらに、選民を立てて神が求める復帰された国を見つけて立てるためであったことを思い出さざるを得ませんでした。


次にエリヤがカルメル山頂で悪魔側であるバアルの祭司たちと対決していたその場面は、すべて誰のためだったのでしょうか? このような思いを巡らせて歩んだイエス様は、先祖たちが山頂に登って決定的な解決点を見つけるために天の前で祈ったその事実が、すべて神様のためであり、さらには自分のためであったことを思い出していました。イエス様は山に対するこのような歴史的な絆を思い出し、緊張感あふれる心情を抱えていました。今日、私たちもこのようなイエス様の心の世界を思い出さなければなりません。


イエス様が荒野の道で悪魔に引かれて行ったその足取りは、自分のために歩んでいたものではありませんでした。原理を通して知っているように、イエス様は個人復帰と環境復帰と世界復帰を果たさなければならないことをその心に抱き、この象徴的な条件の過程を経て山頂に登られたのです。その場で大試練が起こることを覚悟し、歴史的な新しい先祖としての伝統を立て、天の心情を受け継ぐ決意を持って、悪魔と共に山頂に登ったイエス様であったことを私たちは知るべきです。


このように、目的に対して誰よりも緊張感あふれる心情を抱いて出発したイエス様でした。どのような歴史的な先祖よりも確固たる覚悟を持って悪魔をその手中に収めて屈服させる決意を持って荒野に出られた方であったことを知るべきです。そして山頂に一人で立たれたイエス様であったことを知るべきです。


イエス様はこのような歴史の道のりを思い出すとき、自らが緊張感を持つべきであると感じると同時に、当時選ばれたイスラエルの民を考えるときにも歴史的な責任感を感じ、言葉にできない悲しみの心情を感じたのです。


     8


神様はこの地上にバプテスマのヨハネを立て、天の目的を成し遂げるための新しい道を整えさせました。メシアを迎えるための基盤を整えるために事前にバプテスマのヨハネを送ったのですが、そのバプテスマのヨハネがイエス様を信じなかったのです。そのため、イスラエルの民を選民として祝福し、4千年の間引き連れてきたその歴史を代行し、時代的な責任を果たし現れるべき民と選ばれた者が消えてしまったのです。このため、失われた群れを再び探さなければならなかったイエス様のその状況を私たちは理解しなければなりません。


そのような立場に立たされたイエス様は、失望せざるを得ない心情でした。その時代のすべての選ばれた民と立てられた群れを思い浮かべるとき、悲しみに満たされずにはいられないイエス様の心情でした。しかしイエス様は、そのような状況を作り出した動機と起源をたどって考え、またその時代までの歴史的な心情を考慮してみるとき、このような状況をもたらした存在がまさに悪魔であることを感じたのです。ここでイエス様は、必ずや悪魔に勝利しようという確固たる決意を持って悪魔の試練に立ち向かったのです。このような緊張感あふれる場面を忘れてはならないのです。


悪魔が「天下の万国とその栄光を見せて、もし私にひれ伏して礼拝するなら、このすべてをあなたに与えよう」(マタイ4:8-9)と言ったとき、イエス様は断固として悪魔を拒絶しました。これによって悪魔の前に一つの勝利の基準を立てました。またそれによって歴史的な悲しみと時代的な悲しみに結びつけられる自分自身の基準を獲得し、歴史的な絆の基盤となっている選ばれたイスラエルと立てられたユダヤ教に向かって再び戻らなければならなかったイエス様の状況を考えるべきです。


こうしてイエス様は荒野の道で勝利の基準を立て、イスラエルの民とユダヤ教を訪ねましたが、彼らは誰も歓迎してくれませんでした。イエス様が行く場所や滞在する場所のどこでも歓迎してくれるどころか、むしろ彼を迫害と反対と嘲笑で迎えたのです。最初に拒絶され荒野の道に出たことも残念で悔しいですが、悪魔に対して勝利した条件を持ち再び民を探しに出たイエス様の前に反旗を翻して出てくるユダヤ教とイスラエルの民を見るとき、それは言葉では言い表せないほどの痛みと悲しみに満ちた心情であったのです。そのような立場に置かれたイエス様を私たちは思い出さなければなりません。


迫害を受ける混乱した環境の中で、民と教団を回復するために山頂で彼らのために祈り、3年間の公生涯の道を通して悪魔と戦いましたが、何の成果も得られませんでした。ですので、最後には自分が死んででも必ず無知な民を警醒させなければならないという心情で変貌山に登ったのです。


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イエス様は人としてできるあらゆる努力をしても成果が得られないことを悟った後、自分が死んで犠牲となり、血と肉を捧げてでも歴史的な絆と時代的な絆を結びつけている彼ら、天の心情に結ばれているその民を救うという切なる思いを抱いていました。しかし、そのような心情を抱いて訪れた場所は立派な宮殿ではありませんでした。自分を迎えてくれる弟子の家でもなく、その国の民の家でもなく、当時のユダヤ教の家でもありませんでした。彼が訪れた場所はどこだったのでしょうか?変貌山でした。行く場所がなく変貌山をあちこち歩いていたイエス様の悲しい心情を考えてみてください。


イエス様が悲しい荒野の道を歩んだのも、先祖たちが不信し責任を果たせなかったためでしたが、3年間、天の心情を理解してくれる人を探し求めましたが、その目的を果たせず、再び山を登らなければならなかったその悲しい心情とその足跡を私たちは思い出さなければなりません。イエス様が荒野に出られた足取りは、サタンに対して勝利する基準を持ち、民を引き寄せるために出発したものでしたが、変貌山を訪れるその足取りは、抱いていた決意をすべて捨て、自分の身体を民の前に差し出すために死を覚悟して出発した足取りでした。この時間、そのように山を登ったイエス様の心情と姿を思い出し、それを自分の悲しみとして感じ取り、そのような心情でイエス様を見る者がいるならば、彼は天に対するイエス様の悲しみ、民に対するイエス様の悲しみ、そして教団に対するイエス様の悲しみまでも理解することができるでしょう。


変貌山に登るとき、三人の弟子がイエス様の後についていました。彼らは民を代表して選ばれた弟子の立場でしたが、山に登るイエス様の前に何の助けとなる条件も立てられなかった弟子たちでした。


イエス様が荒野に出発したときは天使が来て仕えてくれましたが、民のために戦い、民のために死を覚悟して変貌山に登るときは、民を代表してついていた三人の弟子さえもイエス様に仕えることができませんでした。これを考えると、悲しみで始まり悲しみで終わったイエス様の生涯は痛ましいものであったことを感じざるを得ません。


そのイエス様はひざまずいて天を仰ぎ、「私の力が尽きるまで、私にあるすべての誠意を捧げ、望まれる目的に従って進んでいく」と祈りました。歴史的な先祖たちよりも堅固な志を持ち、忠義と誠心と努力を傾けて3年間の公生涯の道を歩んできましたが、民から追い詰められ、教団からも追い詰められました。親族や弟子たちの誰一人としてイエス様の味方にはなってくれない中で、イエス様は天に向かって祈る生活をしていたのです。


     10


イエス様の心情は、自分が孤独な場所で悲しみを感じることよりも、神様が人間に対して4000年の間苦労してこられた歴史の結果がこのような姿であることを知り、神の前に自分の心情を告げることさえも心苦しい心情であったことを知るべきです。


そのような心情に満たされたイエス様には、民に対する恨みや教団に対する恨み、あるいは堕落したアダムとエバに対する恨みが生じる余地はありませんでした。誰を恨む余地もなかったイエス様であったことを知るべきです。


昔の先祖たちは悲しいときに天からの慰めを受けましたが、イエス様は悲しい場所でも「悲しい」と祈ることができない自分自身であることを悟ったのです。祈る前にすすり泣きの涙がまずイエス様の膝を濡らしていたでしょう。その姿は天と地の上で罪人の中の罪人のような姿でした。4000年の間苦労の歴史を繰り返し摂理されてきた神の前に、勝利の条件を立てることができず敗北の道に立たされた悲しい事情を抱えたイエス様は、口を開いて祈ることができなかったのです。


その姿と事情があまりにも哀れであったため、神はエリヤとモーセを送り、エルサレムでのイエス様の死について話し合われました。弟子たちだけでなく、神が悲しみに沈むことを知っていたイエス様は、民のために、また未来のために天が心配されることを知り、過去と現在と未来を考え、悲しみました。死の道を歩んででも希望がなく、行く先が遮られている状況にあるユダヤの民を救わなければならないと感じたイエス様は、エリヤが「父よ、私だけが残っております」と嘆願したそのような祈りの心情で神様の前に現れました。このようなイエス様の心情は本当に痛ましいものでした。


今日まで私たちの先祖が天に対して出て行く中で、その行った事柄がこのように悲しい歴史を残したという事実をよく知っています。神様は変貌山での弟子たちが自分たちが罪の種族であることを知り、イエス様と同じ心情で、あるいはイエス様に代わって民の悲しみを心配してくれることを望まれました。イエス様を慰め、イエス様に代わって祈ってくれることを望まれましたが、弟子たちの考えは異なりました。これが今日まで私たちの先祖たちが歩んできた歴史の実態でした。


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エルサレムでの死を予告されたイエス様は、その死の一日を密かに準備しました。イエス様は自分の死の時が近づき、事態が混乱していることを感じました。また、愛する弟子が自分を裏切ることを知り、自分が十字架に向かう前にまず世のすべての事を終わらせなければならないという深刻な心情を抱いていました。そのような心情が彼の身体と心に刻まれていたのです。


死を目前にして最後の道を進まなければならない救い主の使命を背負った自分自身であることをイエス様は知っていたため、死の道を越えた後に進むべき方向を設定しなければなりませんでした。イエス様は自分のこの死によって歴史的な悲しみや時代的な悲しみ、そして未来の悲しみが消えるのではなく、死の山を越えた後にも残されることを心配していました。このようなイエス様の心情はどの時よりも緊張感に満ちていたことを知るべきです。


このような心情にとらわれているイエス様を理解した人は地上に一人もいませんでした。その事情を理解してくれる弟子も一人もいませんでした。イエス様の事情を理解する方は神様しかいませんでした。このため、イエス様は自分だけが知っている悲しい心情を抱え、歴史的であり時代的であり未来的な恨みを抱え、不運の障壁と黒い雲が前を遮る環境、死に追い込まれる悲惨な環境に立たされていたのです。このようなイエス様の心情が悲しいならば、この地上のどの誰よりも悲しい心情であり、悔しいならば誰にも比べられないほど悔しくて不条理なものであったでしょう。


それでは、イエス様は誰のためにこの地に来られたのでしょうか?歴史を代行し、時代を代行し、また民と教団のために来られましたが、彼が進む道はあまりにも悲しいものでした。イエス様はその悲しみが自分の悲しみで終わるものではなく、その悲しみが歴史的な悲しみとして、時代的な悲しみとして結びつくことを知っていたため、また未来の悲しみとして結びつくことを知っていたため、身の置き場を知らず焦燥感に満たされていたことを知るべきです。


そのためにイエス様が訪れた場所がゲッセマネの園でした。これを考えて悲しむことができる人になるべきです。万民の救い主であり、万王の王としてこの地に来られたイエス様が最後の悲しみを吐露した場所は弟子の家ではありませんでした。信仰を持っていたユダヤ教団でもなく、ユダヤの宮殿でもありませんでした。神と話し合い、すべてを決定するために登られた場所は深夜に誰も行かないゲッセマネの園であったのです。この事実を知るべきです。


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したがって、終わりの日にある今日の信徒たちは、イエス様がゲッセマネの園で流した涙を代わりに流すことができるべきです。また、そのようなイエス様の第二の姿を描く心を持つべきです。そうしてこそ、歴史的な悲しみを抱え、時代と未来のために涙を流されたイエス、悲惨で哀れな状況に置かれて三度も血の汗を流して泣かれたイエス様と絆を結ぶことができることを知るべきです。


夜通し「父よ、もしできるならば、この杯を私から取り去ってください」(マタイ26:39)と祈られたイエス様が悔しいならば言葉にならないほど悔しく、悲しいならば言葉にならないほど悲しかったでしょう。イエス様のために4000年の歴史が一日に過ぎ去り、多くのイスラエルの民が一朝にして滅び、4000年の摂理の基盤が一時間で崩れ、立てられたユダヤ教団が一時間で崩れることを考えると、彼が流した血の汗は歴史の距離を結びつけた血の汗であり、彼が流した血の涙は歴史の距離を結びつけた血の涙でした。しかし、当時のユダヤの民はこのような内容を夢にも思わなかったことを知るべきです。


イエス様の後を追った弟子たちは「先生がどこへ行かれるにも共に行く」と誓いました。しかし、イエス様のその痛ましい心情を誰が引き継ぎ、誰がこの痛ましい血の涙の事情と絆を結んだでしょうか? この地にはそのような人は一人もいませんでした。そのような事柄はただイエス様だけが行い、成し遂げたのであり、この地上の人間の中にはそのような心情を引き継ぐ者はいなかったことを知るべきです。


ですので、イエス様は死を目前にしてゲッセマネの園で三度も天に向かって「アバ、父よ、あなたはすべてをおできになります。この杯を私から取り除けてください。しかし、私の思い通りではなく、あなたの御心のままにしてください」(マルコ14:36)と祈られました。この訴えは天と地が震えんばかりの一言であり、死の世界が権勢を持って進むのを阻止しようとする緊張感あふれる一言でした。


したがって、ゲッセマネの園での祈りがキリスト教徒にとって死んだ祈りとなってはなりません。どの時代や世紀を経てもこの痛ましく血のにじむ最後の訴えの声が私たち人間の心の中に絶え間なく生き続けなければなりません。「ああ!天よ!」と叫んだイエス様の心情にあなたの心が共鳴する一日を望み、天は再び摂理を進めておられるのです。


     13


これを考えるとき、今日の終わりの日にある信徒たちは、カルバリ山とゲッセマネの園で訴えられたイエス様のその歴史的で緊張感あふれる心情を引き継がなければなりません。そうして、ゲッセマネの園で眠っていたイエス様の三人の弟子と同じ立場にあるキリスト教徒たちを目覚めさせなければなりません。このような時代が到来していることを知るべきです。


そして、ゲッセマネの園に登られ、天に向かって「父よ、もしできるならば、この杯を私から取り去ってください」(マタイ26:39)と祈られたイエス様と同じ心情を抱いて、「アバ、父よ、できるならば私たちのメシアを十字架にかけないでください」と祈る者となるべきです。


イエス様が「父よ、もしできるならば、この杯を私から取り去ってください」(マタイ26:39)と三度も祈られたとき、そのような心情で「アバ、父よ、できるならばイエス様に代わって私が十字架にかけられるようにしてください」と祈った人は誰もいませんでした。このような祈りができる一人の選ばれた信徒もいませんでしたし、一人の選ばれた民もいなかったという事実を知るべきです。


イエス様が歩まれた生涯の道は、山頂で繰り広げられるそのような緊張感あふれる出来事の連続であり、喜びに満ちた出来事は一つもありませんでした。孤独な時にはオリーブ山の谷を訪れ、悲しい時には静かな森を友として無言の説教をする生活をされました。誰一人としてその深い心情の内容を訴えることができる自由な場所を持つことができなかったという事実を知るべきです。


イエス様は山頂に登って父を仰ぎ見るたびに、悲しみと苦しみを抱いていました。そのような中で、イエス様には一つの願いがありました。それは何であったのでしょうか?それは、見えるすべての山河が神の涙と結ばれ、先祖たちの切ない心情と結びついている地であることを思い出しながら、このすべての山河が悲しみと涙の山河とならず、喜びと栄光の祭壇を築き、勝利の賛美歌を捧げる山河となることを願っていたのです。これこそがイエス様の願いでした。それでは今日、私たちは山を見て何を感じるべきでしょうか?私たちの先祖が過去に緊張感あふれる決意を持ち、すべての悲しみの歴史をこの山で終結させようとしたことを知っているならば、その山が先祖たちがサタンの世界に対して勝利してくれることを望んでいたことを感じるべきです。山はイエス様が緊張感あふれる場面場面で勝利の基準を立てるために祈った場所であったと考えるべきです。イエス様はこの山で勝利と栄光の祭壇を築き、「アバ、父よ、私によって栄光を受けてください」と言える日を待っていたでしょう。このため、これを知ったあなたたちは、今、山を見てイエス様の血と涙の基盤となった山であったことを感じるべきです。


     14


おそらくイエス様はゲッセマネの園で一つの草をつかんでも訴えられたでしょうし、一つの岩をつかんでも訴えられたでしょう。このため、その岩や草は夜通し祈られるイエス様の心情に結ばれ、その心情の中に浸ることができましたが、当時の人間はそうではありませんでした。この事実を知るべきです。


さらに、悲しみの人類となったことを嘆き、万物を見ることが恥ずかしく、山を見ることが恥ずかしい自分自身であることを悟り、終わりの日にこの地に再び来られる主の前に、イエス様を山に追いやったユダヤ民族のような人になってはなりません。そうして家庭から主を迎え、社会で迎え、国家で迎えなければなりません。野や山どこであっても、さらには山頂であっても主を迎えなければならないのです。そうして天の前に喜びの存在として、栄光の存在としてその主を迎え入れることができるべきです。また、その主の一言は悲しみの言葉ではなく、喜びと愛に満ちた言葉となる環境を整えて差し上げる責任があなたにあることを知るべきです。


「山よ!山河よ!」とおっしゃり、悲しみの歴史を嘆かれた神の涙の跡を受けた山々、あるいはこの地を前にして、または被造物全体を前にして、歴史の道のりを前にして、この時代を前にして、いかなる存在物に対しても天は悲しみの涙を通して見つめておられます。神はこの地のどの存在物にも悲しい心情を抱いて接しておられるのです。


皆さん!皆さんは山から出発し、山に山に向かって歩まれたイエス様の歩みを知るべきです。イエス様は山頂で勝利の条件を整え、生活環境においても勝利の条件を整えました。山頂でも神を迎えることのできる日を待ち望んでいたイエス様であったことを知るべきです。


これは山を求められて勝利の一基準を立てるために祈られたイエス様の歴史的な心情であり、イエス様の時代的な歩みであり、またイエス様の願いであったのです。これを知るべきです。


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さらに私たちは今日の荒野の道でイエス様に代わって悪魔と戦わなければならず、変貌山で戦われたイエス様に代わって民と国家、世界のために死を覚悟して戦うべきです。ゲッセマネの園で死を目前にして歴史的な絆を結ばれたイエス様の心情を持って、天の父に向かって叫ぶことができるべきです。胸が張り裂けるような切迫した心情を持ち、この地との絆を結びたいとする天の心情を引き継ぐことができるべきです。


そして、あなたを通して天の心情と結びつけることのできる一つの存在を立てなければ、イエス様が歩まれた山頂の苦労は無駄になってしまうことを肝に銘じてください。




<祈祷>


お父様、宗教を求めて出発する人類には名山が必要であることを知っています。歴史に現れたすべての偉大な人物たちは山と縁を結び、山とともに事情を吐露し、山とともに生死の基準、勝敗の基準を決定してきたという事実をよく知っています。


イエス様は人類を代表して行かれた方であり、彼が行かれる場所は山頂であり、心をつなげて天に向かって事情を訴えられた場所は山頂であったことを知っています。


このような歴史的な絆を結びつけてきたのが山であったことを知っているので、この三千里半島の山々にも神の子供たちが現れるようにしてください。そして、神に勝利の栄光を捧げ、歴史的に山で結ばれた恨みを償還することのできる誇り高き者たちとなるよう導いてください。


     16


そのような者となるためには、私たち個人だけでなく家庭や社会、さらには宗教や民族、世界がこの山頂を通さなければならないという事実を知っているので、今日私たちは天地を代わりに山頂を行き来されたイエス様の心情を見習い、その足跡に従わせてください。そして、最後に勝利の祭壇を山頂に築き、「ホサナ」の勝利の賛歌を歌う日まで、私たちは変わることなく戦い、またその戦いに臨んで疲れることなく、後退することなく進む、真の子供たちとなることを許してください。


お父様、このような覚悟と決意であれば、あなたが助けてくださることを知っていますので、その定められた一念でいかなる困難な道でも突き進むことができるよう導いてください。そして、あなたが望まれるなら、どこにでも出かけてその意を受け、あなたの心情と結びつける責任を負う真の子供たちとなるように心から願い、すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


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御言葉選集5(7)

2024年08月25日 17時06分34秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 5 - 7. 「おお!私はどこに行くべきか」 (1959年1月18日)

1959年1月18日(日)、前本部教会。

聖書拝読:マタイ7:7-8




<祈祷(I)>

一週間の間に受けた傷と傷ついた心を持って、再びお父様の前に参りました。憐れみ深いお父様!この一時間、愛の御手を伸ばし、私たちの体と心を包み込み、私たちの心の上に、お父様の愛と教えを注いでくださるよう、切にお願い申し上げます。


お父様、この日は新年に入って三度目の聖なる日です。どうか、私たちの心がお父様の心の中に留まることを許し、私たちの体がお父様の懐に抱かれることを許してください。この一年、私たちが父と共に喜びを分かち合うことを許し、お父様の希望の領域の中で生きることを許し、父に代わってサタンと戦うことができるようにしてくださるよう、愛するお父様、切に願い求めます。


善の理念と善の愛と善の生命と善の栄光を持ち、私たちを探しに来てくださったお父様の歴史的歩みを知るとき、私たちはお父様の前に顔向けできない民であることを認めざるを得ません。しかし、お父様の善なるその心を変えずに、私たちを再び見つけて教え導いてくださるよう、お父様、切に願い求めます。


命と死が今日、私たちの命を天秤にかけて見ているこの一時間であることを認識させてください。私たちの体と心をお父様の前に捧げる生ける捧げ物であるべきことを理解しました。そして、これまでの生活と今日という一日の生活も、聖別されるべき一時間であることを認識しています。どうか、体と心のすべてをお父様の前に捧げ、再びお父様の認めを受けることができるこの時間としてください。お父様、切に願い求めます。


私たちは、お父様が大きな期待を持って接してくださるときに、失望させてしまう不完全な者たちです。しかし、あなたとの歴史的な縁と血統的な縁を持つ私たちであることを見て受け入れてくださり、この一時間、親しく私たちを訪ねてくださるよう願い求めます。


     1


不完全な体と心が一つとなり、サタンと対峙するためにお父様の前に伏しているのです。私たちの訴えと捧げる礼拝が、お父様の前に喜びとなりますように。お父様が私たちを責任を持って扱ってくださらなければ、私たちはサタンの懐に引きずり込まれてしまうことを知っています。お父様、この時間、親しく私たちを導いてくださるよう切に願い求めます。


ここに集まったあなたの息子娘たちを親しく教え導いてください。この一日、天のために戦う責任を私たちが負わなければならないことを知っています。お父様、愛する幼い息子娘たちがお父様の前に集い過ごしているこの期間を通じて、天の心情を感じ取らせてください。この機会にお父様の御心を成し遂げるために歩んだ人々の足跡を知ることを許し、さらに、お父様の息子娘が戦って進んでいたその戦いの道を知ることができるようにしてください。天の御業を知ることができ、天が永遠に手放すことのない息子娘たちとなるようにしてくださることを、お父様、心から願い求めます。


彼らには、世界中に散らばっている多くの兄弟姉妹を見つけなければならない責任があります。隠された祭壇を築き、天の前に切に祈りながら、血に染まった祭壇を築いている、踏みにじられているあなたの息子娘が多くいることを知っています。どうか彼らを慰めてください。お父様が彼らを集められたのは、天の使命を与えるためであることを知っています。どうか彼らをサタンの世界から永遠に区別し、お父様が永遠に抱きしめてくださるように願い求めます。そして、お父様の栄光の祭壇を担うことのできる祭司たちとして、その責任を全うする完全な姿を備えることができるように許しください。愛するお父様、切に願い求めます。


お父様、今日、恩恵に報いる術がない私たちであり、何も捧げることができない私たちです。憐れみ深いお父様、孤独な者の友となってくださるお父様、罪人を許してくださるお父様、そのような私たちをお許しくださり、この一時間、見捨てずにいてくださるよう切に願い求めます。


私たちの心を知るお父様、ときに孤独な場所に置かれ、天に対する思いで苦しむ息子娘がいることを知っておられるでしょう。どうか彼らを見て、全体を憐れんでください。彼らはこの一時間、お父様の許しとお父様の慰めを求めているでしょう。どうか彼らに恵みをさらに与えてください。憐れみの御手を差し伸べてくださるよう切に願い求めます。


     2


お父様、この時間、多くの眠れる人類を祝福してくださり、苦難の中にある三千万民族を祝福してくださり、道を失い、行くべき道を知らずに分裂して戦っている韓国の教団を祝福してくださるよう願い求めます。彼らに生命の旗を掲げさせ、鞭を打ってでもお父様の戒めを受けることができる息子娘たちにしてください。


私たちには、進んでも犠牲にならなければならない責任が残されています。人間的な考えでこの犠牲の生活を望まないことが多い私たちですが、それでもこの責任を与えてくださるお父様の心情を理解できるよう導いてください。すべての条件を乗り越えて、今日も、明日も、十年後も、死の谷に至るまで進み続ける責任があることを知り、どうかその一つの道を最後まで歩むことができるよう、疲れず、失望せず、ためらわないように許してください。お父様、切に願い求めます。


今日、私たちのこの礼拝を親しく受け入れてくださり、この時間にも地方の孤独な信徒たちが牧者を送り出して、ひざまずいて切に祈っていることを知っています。どうか彼らの涙に満ちた祈りを踏みにじる者とならないように導いてください。彼らの真実を踏みにじる者とならないよう導いてくださることを、お父様、切に願い求めます。


私たちの心と心が通じ、心情と心情が通じる者たちとなることを許してください。父を中心としてすべてが通じ合い、思いを交わすことができる者たちとなることを切に願います。残りの時間を親しく導いてくださるように願い、主の御名によって祈ります。アーメン。






<祈祷(II)>


お父様、多くの人々が進むべき方向を知らないまま、あなたを求めるために非常に悲しい歴史的な道を歩んできたことを私たちはよく知っています。おられるようでおられないようなお父様の存在、歴史とともに生きておられるようでありながらも、確信を持って存在しているという認識を持つことができないお父様、私たちの心と共におられるようで、実体的な存在として定義することができない父を、私たちは非常に悲しい気持ちで見つめています。


     3


善の理念で全宇宙を創り、人間に真の良心を与え、知情意の感情を通じてその善の理念を体感することができる驚くべき祝福を下さったことを私たちはよく知っています。しかし、お父様の存在はある時点の時間的な限界でしか感じられないという事実を否定できないこともよく知っています。


今、私たちの心に入ってくるお父様の御姿を思い出すたびに、私たちは知らず知らずのうちに悲しみに囚われてしまいます。惨めな自分の姿を見て嘆かずにはいられません。このような境地に導いてくださる父、それは私たちの命を永遠の命へと導くための、お父様の歴史的な心情の働きであることを理解しています。


歴史の背後で、歴史を一つの実体的な理念として成し遂げるために、私たち人間が知らないうちにその心情と心を通じて見つけてくださった父を知りたいと願い、お父様の心を私たちの生活の理念と生命の理念として確立することを切に願い求めます。しかし、お父様の存在の価値を確かに知らないために、私たちの生活の価値も知らず、私たちの命の価値も知らないまま、今日も明日も苦しみ続けなければならない惨めな立場に置かれています。お父様、そのような私たちを憐れんでください。惨めな死の瀬戸際でさまよっている今日の私たち一人ひとりを憐れんでください。


今、お父様、愛の御手を伸ばさなければならない時が来たことを理解しています。その愛の波が私たちの周囲の環境と私たちの心情の世界にまで及ばなければならず、唯一主導的な権限を持っているそのお父様の心情の権限を私たちが回復しなければならない時であることを理解しています。心を中心にして戦わなければならない時が到来していることを知っています。どうか、閉じた心の扉を開く寛容な者となることを許してください。今、体を屈してお父様の前に礼拝を捧げる準備を整えた息子娘となる時が来ました。どうか、私たちの心の扉を叩くお父様の声を聞くことができるようにしてください。私たちの前に現れるお父様の御手を見ることができる私たちとなるよう、切に願い求めます。


残された恨みの土台、恨みの障壁を乗り越えて進まなければ、終末に至る決戦が残されていることを私たちは理解しています。お父様、これを理解し、お父様の存在を知っているあなたの息子娘に力と能力を与えてください。すべての苦難を乗り越えて戦うことができる堂々とした姿、天の正兵の姿を備えることを許してください。あなたの決断に従って、審判の権限を代行するにあたって堂々として自信のある息子娘となることを、愛するお父様、切に願い求めます。


     4


選ばれた者たちを祝福されたのもあなたであり、それを成就させるのもあなたであることを知っています。私たちの心の根本は善であり、また、善を通して動かされていることを知っています。善の目的も、歴史的な目的も、摂理的な目的も、父を中心にして一つとなることであることを知っています。従って、善の心情を通じて憧れる理念的な頂点が実を結ぶことを許し、その理念の本体となるために着実に進むことができる自分を立てるこの時間となることを、お父様、切に願い求めます。


今、私たちの心がどこを向いているのか、私たちの体がどこに向かって動いているのかを見つめさせてください。今、私たちの心が父を慕い、善を慕うために全精力を注ぐことができるようにしてください。私たちの体は善を掴むために苦しみながら切に求める手を差し伸べて、父を呼ぶことができるようにしてください。


父を掴み求め続けてきたのが6千年の歴史であることを知っています。お父様の前に率直な自分を立て、礼拝し、自分のすべての事情を打ち明けて、教えを受けることができるこの時間となることを、愛するお父様、切に願い求めます。


お父様、ここに集まった息子娘たちを憐れんでください。この時間はお父様の前に捧げ物を捧げる時間でした。どうか、この時間だけでも天も頭を下げ、千千万万の聖徒も頭を下げ、万人も頭を下げ、万物も頭を下げることができるように許してください。昔、イスラエルの民がお父様の前に捧げ物を捧げたとき、父も頭を下げて見守り、地上の万人、万物も頭を下げたことを知っています。今日のこの一時間、私たちも知らず知らずのうちに頭を下げて憐れみの恵みを求めることができるように許しください。お父様、親しく訪ねてくださり、受け入れてくださり、導いてくださることを切に願い求めます。


他の人が通らない道へと追い込むのも父であり、行きにくい道へと導くのも父であったのです。どうか、お父様がこの道を責任持ってくださるよう願い求めます。私たちは、どんな人間の心に動かされたのでもなく、どんな人間の事情に引かれて来たのでもなく、行きたくなくても行かざるを得ない心の力に引かれてここまで来ました。どうか、怠惰にならないように導いてください。


     5


あなたが急かす教えを知らない私たちです。その教えを理解し、その教えの方向に向かって進むように、時間ごとに力強く衝撃を与えてください。どうか、あなたに向かって進む過程で脱落する者がいないようにしてください。お父様、切に願い求めます。


今、自分のすべてをお父様の前に差し出すことを許してください。私たちのためにお父様の祭壇を汚すことがないように許しください。誠心を尽くしてお父様の前に捧げ物を捧げようと伏しているこの時間としてください。


自分の主義や認識、あるいは何らかの観念が残っているならば、この時間すべて取り除いてください。幼子の心で、すべてをお父様のものとして捧げ返し、地上のサタンに対して誇ることができる息子娘となることを許してください。お父様、切に願い求めます。


今、御言葉に接しようとしています。お父様、共にいてください。多くの教えをお与えくださることを知っています。どうか、聞いた後に天を悲しませることがないようにしてください。切に願い求めます。


今、語る者の心も受ける者の心も一つとなることを許してください。この時間だけでも幼子の心に戻り、母の懐に抱かれて乳を飲むような、そんな時間となることを切にお願いし、すべての御言葉を主の御名によって祈ります。アーメン。


     6




<御言葉>


今日、皆さんは神が存在するかどうかを確信できていません。しかし、皆さんは生きざるを得ない運命にあり、また、進まざるを得ない運命に置かれています。それにもかかわらず、常により良いものを求めて進んでいます。この動きは、今日も明日も、そして歴史が終わる日まで続くでしょう。また、皆さんやその子孫までもがこの道を進むでしょう。この事実を皆さんは否定できないはずです。


どうせ何かの目的に向かって進まなければならない私たちであれば、私たちはどこへ向かい、どう生き、どう行動し、善と悪についてどのような主張を持つべきか、よく考える必要があります。


皆さんがこうした複雑な問題を一つ一つ解決して明らかにしようとする気持ちが芽生えたとしても、この世の現実を見つめると、後退できる道があるならばその道を選びたいと強く思うことでしょう。目を開いて世の中を見ても、世界は皆さんが望む環境にはなっておらず、振り返って自分が生きている社会を見ても、その社会が自分の心が望む福祉社会にはなっていないと感じるでしょう。


今や、社会環境と時代が複雑に流れているため、皆さんがその社会に留まることができないという事実を懸念せざるを得ません。


世の中は複雑ですが、今日、どのような理念を持って心霊世界を導いている宗教団体の動きはさらに複雑です。ですから、そのような宗教団体を訪ねてみても、心では引かれるものの、それに従うのは難しいのです。


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今日、このような複雑な状況に絡まって、心は望んでいるのに、体は行きたくても行けないという状況にあります。このように心が望む方向に動くことができない自分自身を嘆かざるを得ない立場に私たちは置かれているという事実を知ることができます。


従って、このような立場に置かれている人々が、生きている間に自分自身を立てて批判しないのであれば、死後にでも全宇宙の前で自分を立てて批判しなければならないというのです。そのような場所を宗教では、誰も行きたがらない地獄の世界と定義しています。


今日、私たちは進まざるを得ない立場にあるため、何とかしてこの道を歩んでこの場所まで来ました。では、自分自身を立ててここまで来たという価値を天が求めるとき、皆さん自身は何を誇ることができるでしょうか?過去を振り返り、後悔のため息をつくしかないでしょう。


過去を見ても、現世を見ても、未来を見ても、同じような立場に置かれている自分自身だということです。だからこそ、私たちは何とも言えない最終的な理念と最高の幸福を心から求めています。では、これはいつ、この矛盾した自分自身とこの世界を超えて成し遂げられるのでしょうか?この事実を理解し、心に衝撃を受け、この矛盾した環境を打破しようという使命感に満ちた真の若い男女がいるとすれば、その人は生への執着心さえも失うような境地に入るでしょう。


自分の体からすべての罪を取り除くことができる自分を持たず、罪に満ちた体を放棄し、誰よりも低い位置に立つことができる自分を持たずに、皆さんの心を何が捉え、どのような理念に向かわせているのか、この矛盾をどう超えるのでしょうか?世界中の人々がここに引っかかっています。全人類と万物、つまり天と地のあらゆる存在物もこの過程に引っかかっているという事実を皆さんは知るべきです。この人間であることを皆さんも否定できないでしょう。


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これを認めたその日から、「私はどこへ行けばいいのか」と嘆き、叫び声を上げる心情の訴えが聞こえてくるでしょう。そこで、今日皆さんにお話ししたい題は「おお!私はどこへ行けばいいのか」です。この題で少しの間、お話しします。


今日、私たちの周りにあるすべてのものは、堕落の歴史的な道を歩んできたことを知っています。そして、今日私たちの周りにいるすべての人々は、堕落した現実の中で生きています。また、この現実を基に堕落の歴史が続くであろうと私たちは予測しています。


では、過去の堕落、現世の堕落性、未来にまで続く堕落の原因をどう解明するのでしょうか?今日まで6千年という長い年月を経て、私たちの先祖たちは数多くの苦労と数多くの犠牲を重ねてこれを避けるために努力してきましたが、堕落の歴史は続いてきたということを皆さんはよく知っています。また、今日の現世においても、罪に満ちたこの世界から抜け出すために、多くの人々が苦しみ、心を痛めていることをよく知っています。


過去もそうであったし、現在もそうである世界に生きている自分自身を振り返ってみると、自分の心に過去の先祖たちが抱いた恨みの心情が動いており、現世の衝撃による悲しみの感情が流れていることを否定できません。


では、今、懐かしく思う一つの縁があるとすれば、それは何でしょうか?今この時は、堕落の歴史的な道を歩んで、悲しみの心情を抱えて戦ってきた私たちの先祖を懐かしく思うべき時です。また、この現世において、死の権威から脱するために、苦難の権威と堕落の権威から抜け出すために、悲しみの心情を抱えて戦っている私たちの同志を懐かしく思うべき時です。


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ですから、今日私たちが過去を懐かしく思うならば、過去に起こった歴史的な事実を懐かしく思うのではありません。その歴史的な悲しみに対抗し、真の信仰の心情を抱えて戦っていた先祖たちのその心情を懐かしく思うべきだというのです。


では、私たちの先祖たちが歴史的な悲しみを清算するために持っていた志操は何だったのか?私たちの先祖たちが今日の自分自身を抱えて立てようとする志操は何か?今日、未来に希望を持ち、現実のすべての逆境を乗り越えながら明日の善の基盤を築くために戦っている同志たちは誰か?


このような心を甦らせることができない人は、歴史的な縁を裏切った者であり、時代的な縁を裏切った者であり、未来を台無しにする者であることを否定できないでしょう。今日、皆さんはまさにそのような立場に立っています。


では、どのような先祖が現れて、皆さん自身について「あなたは私を知っていますか?」と言うとき、皆さんは何と答えるのでしょうか?また、今日この時代において罪に満ちた世界と戦っている兄弟に対して、「あなたは私に何を言ってくれるのか?」と尋ねるでしょう。そして、「明日の道を切り開くために戦い、迫害されている私に何か助言を与えてくれるのか?」と尋ねるでしょう。このように、過去と現在と未来の観点から聞こえてくるその声に対して、皆さんは何と答えるのでしょうか?これが問題です。


一歩進んで、先祖たちが言った言葉を聞いて、先祖たちが言った言葉とその心情を理解したとしても、その理解で終わらない事実がまだ残っているということです。時代的な状況をすべて理解しても、それで終わらない状況が残っており、未来のすべての状況を知ったとしても、それで終わらない状況が残っているのです。つまり、歴史的な悲しみ、時代的な悲しみ、未来的な悲しみが残っているということです。このような悲しみが残っていることを知るとき、私たちは先祖たちに代わって、現在の人々に代わって、後の世に代わって代弁しなければならない自分たちであることを考えなければなりません。


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もし、このような責任を果たせる子孫を持たなかったならば、過去の私たちの先祖たちがいくら功績を残したとしても、その先祖たちは嘆くことでしょう。目的のために戦った人々、悲しみの心情に満ちた先祖たち、天と地に対して恨みの心情に満ちた先祖たちが、今日私たちに一つの希望を持っています。だから、私たちがその心情を持たなければ、私たちの先祖たちの悲しみはさらに深まるでしょう。今日この時代や未来も同じだということを皆さんは知っておくべきです。


復帰の道は語っています。アダムの家庭から悲しみの歴史が始まり、復帰摂理を受けてきた先祖たちは悲しい道を歩んできました。ノアが通り、アブラハムが通り、イエスまで波乱万丈の悲運の歴史を経て、このような悲運の歴史が世界を襲ってきました。


このような歴史的な悲運を阻むために、天を代表し、人類を代表し、歴史を代表し、時代を代表し、未来を代表してきたのがイエスでした。しかし、イエスもこの歴史的な悲運の運命の前で勝利の条件を完全に成し遂げることができず、一つの希望の日を約束して去ったために、今日まで悲しみの歴史が続いているという事実を私たちはよく知っています。


では、今日私はどこへ向かっているのか!今、皆さんは昔のアダムの心情を超えなければならず、ノア、アブラハム、モーセの心情を超えなければならず、どの預言者やどの個人の心情も超えなければならないばかりか、洗礼者ヨハネとイエス様の心情まで超えなければなりません。そして、私たちはイエス様が去った後、今日までの2千年の歴史の過程で、多くのキリスト教徒が虐殺され、殉教した悲しく悲惨な心情を超えなければなりません。そのすべてを代替できる一つの実体の果実が私たち自身であるということです。だからこそ、天は皆さんが歴史的なその心情の縁と向き合うために、どのような心の基盤を皆さんの心に持っているのか問いかけるでしょう。


天が歴史を経て戦ってきたとすれば、終わりには一人の勝利した息子娘を立てようとするでしょう。だからこそ、私たちは歴史的な悲しみの心情を感じ取って勝利しなければなりません。そして今日、私たちはこの時代において歴史に結ばれた天の悲しみのすべての条件を回復しなければなりません。従って、全体の歴史に対する天の悲しみの心情を抱えて慰めることができる天の息子娘になるべきです。もし、そのような息子娘がいるとすれば、神が6千年の間、誰も抱きしめることができなかったとしても、そのような個々の存在を通して喜びの心情を持って抱きしめてくださるのではないかと考える必要があります。


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皆さんに心情があるならば、これは皆さんの個々の存在から始まったものではありません。先祖の縁を通じ、先祖の心情的な基盤を経ていない存在はありません。だからこそ、その心情は歴史的な心情圏内に属している心情であることを私たちは否定できないでしょう。


では、今日私はどのような心情の世界でさまよい、どのような視線とどのような五感を持って生を営んでいるのか?しかし、これを考える前に皆さんはまず「天よ!私はそのような感覚を持って生涯を生きているのだとすれば、昔のエデンでアダムとエバが堕落する前に神に対する心情、堕落する心情、神が追放する心情、この人類を抱えてノアを立てるまでの1600年間苦労された神の心情、ノアが120年間山の頂で方舟を建てながら無限の蔑視と迫害を受けつつも天を抱えて苦労してきたその心情、波乱万丈の歴史の過程を経てきた神の心情を抱えて一度生きてみたい。」と語りたくなるでしょう。


お父様が歴史の生きた実体として、勝利の象徴として一人の人間を立てようとするならば、皆さんは「お父様、御手を伸ばして、私たちが人間が堕落前に父と共に楽しんだその心情から、堕落後の歴史の悲しみのその場面場面を見ることができるように旅をさせていただけますか?」と祈ってみてください。


では、天の悲しみと人間の悲しみが解決されない焦点はどこにあるのでしょうか?それは人はいても神の心情を掴む人がいないからであり、歴史的な心情を掴む人がいないからであり、今日この時代を摂理されている神の心情と未来の心情を掴んで神の心情を人間の心情と結びつける歴史を成し遂げた人がいないからです。従って、天の嘆きがあるとすれば、この意義を成し遂げられなかった嘆きよりも大きな嘆きはないという事実を皆さんは知るべきです。だからこそ、今、皆さんは天を求める道をもう一度振り返るべきです。神は私たちを永遠の希望の園に送るために、私たちに対して訪ねて来られたのです。


皆さんが原理を通じて知っているように、私たち人間は神の言葉を裏切ったために神の言葉を失い、神の実体を失い、神の愛を失いました。


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神が言葉を発されたときの心情はどのようなものであったのか、実体を創られたときの心情はどのようなものであったのか、その実体を通じて誇りたいと思われた神の内的な心情はどのようなものであったのか?


これを考えるとき、私たちは神の言葉を失った者であり、本来の実体を失った者であり、神の理念の園を動かすことができる愛の実体を失った者です。従って、私たちは自分を立てて誇ることができない罪人であることを悟らなければなりません。また、自分の実体を立てて主導的な行動を起こすことができない存在であり、自分の心を立てて安息の基盤を見つけることができない存在であることを知るべきです。


このような人間になったために、神が私たちを訪ねて来られるには、まず実体を探して来られ、愛の心情で訪ねて来たかったのですが、人間が実体と愛と御言葉を失ったため、神が直接実体として来られることができなかったのです。ですから、イエス様が実体の代わりに来られましたが、イエスも実体を持った行動をすべて成し遂げずに去りました。


御言葉を裏切った人間に実体を代わる存在を与えましたが、人間がその実体さえも裏切ったため、また神の愛を与えましたが、それも裏切ったため、今日私たち人間の前には実体と御言葉、愛などの名詞だけが残されました。だから、人類はそれを探して苦しんでいるのです。


そして今日、私たちは歴史が回っているのだと理解しています。御言葉のような御言葉が私たちを完成させることができず、実体のような実体が私たちを実体として導くことができず、愛のような愛で私たちの永遠の安息を見つけることができないということを知ったので、私たちは「真の御言葉はどこにあるのか?実体はどこにあるのか?愛はどこにあるのか?」というスローガンを掲げ、それを探して苦しむ立場に立っているのです。


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このような立場に置かれた人類を見て、イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。求める者には与えられ、探す者は見つけ、叩く者には開かれます。」(マタイ7:7-8)と言われたことを皆さんは知るべきです。


今日、私が歩んでいる一歩はどこへ向かっているのか?探すために歩んでおり、求めるために歩んでおり、叩くために歩んでいるのです。このような歩みを堕落以降6千年もの間歩んできましたが、まだ止まることを知らない運命に置かれています。


では、今私が歩む一歩はどこへ行くのか?この地を見れば、善だけではありません。善よりもむしろ悪が多いです。このような時、私たちの足跡が左に行くのか右に行くのか、または善の方向に進んでいるのかが深刻な問題です。


そして皆さんは真の師を探してさまよっていますが、善の指導者、真の師を探して何をするのか?彼らを通じて、自分の心の安らぎと希望を起こすことができる御言葉を聞きたいのです。何か新しい御言葉を見つけるために新しい師を探してさまよっているのです。では、御言葉を探して何をするのか?その御言葉と一つになる自分自身の実体を作り上げることが重要なのです。そのために御言葉を探しているのです。


これまでの私たちの先祖たちも、天の存在を明らかにするために、人生の根本問題を解明するために努力してきました。そして、そのような努力は今この瞬間も続いています。皆さんがそのような観念に捉えられているかどうかに関係なく、関心を持つ多くの人々は今日も叩いており、探しており、求めており、さまよっています。皆さん、そのような姿を見つめるとき、皆さんもその立場で苦しんでいるのかどうかを考えてみる必要があります。もし、皆さんが苦しんでいないのであれば、歴史を支配してきた神と出会うことはできないということです。今日、この世界にそのような人がいないのであれば、神の意図と善の理念、または私たちが望む希望の時代は天と共に人間と縁を結ぶことはできないということです。この結論に至ることができます。


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しかし、皆さんが知らなくても、必ず探して、さまよい、苦しんでいる人々が皆さんの先祖の時代から存在しており、現在も存在し、また今後も絶え間なく続いていくという事実を否定することはできません。皆さんはこの観点から、今日という存在がどのような立場にあるのかを自問してみるべきです。


今日、若い学生たちが鞄を持って学校に行きます。しかし、鞄を持ってどのような目的で行くのかを考えられない学生がいます。「私は社会に出る。」、「行くとどこへ行くのか?」、「私は国家の重大な責任を負って出る。世界があるので、世界を導くために出る。」と出ますが、そこからさらに進むとどこへ行くのか?天があるならば、未知数が横たわります。世の中のすべてがこのような苦難の場所に置かれていることを私たちは否定できません。内的な世界もそうであるし、外的な世界も同じです。無限に伸びていきたいのですが、一歩進むたびにその苦難の兆しが私たちの前を遮っています。


そこでそれを避けて内的な世界に向かおうとすると、道義や道徳や倫理や宗教といった方向に自分自身を導いていこうとするのですが、そこにもまた無数の苦難が立ちはだかるのです。その時は「神よ、宗教を立てたのですか?神よ、歴史を支配しているのですか?」と言いたくなるでしょう。神がいるならば、なぜこのような悲運の歴史を作り出したのか、またそれを体験させる原因はどこにあり、私が世の中のすべての内的な世界を見抜く権限を持たないで苦しんでいる原因はどこにあるのかを解明しようとする立場で、天と地と世をかけて、自分の命をかけてこの悲運の力と対決しなければなりません。これが分かれ道の峠であることを皆さんは知るべきです。人間はどうしてもこれを越えなければならないのです。


この悲運の苦難をどこで解くのか?世の中を見ると、無数の破滅の理念しかなく、内的な世界を見ると、さらに暗くなり、暗闇に包まれる立場に直面しています。


そのような境地で真理を求める心が強ければ強いほど、地も天も人間自身も失われた中で、天と地に代わって歴史の道を代わりに進んだ先祖たちが苦しんだその歴史的な心情を知って、自分でも知らず知らずのうちに歴史的なその悲運のすべての苦難の言葉を一度自分の口から言ってみたいのです。しかし、天を見つけることもできず、地を見つけることもできません。帰るしかありません。


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では、歴史的な心情の境地で「私は信じます。」と口にしてみても、うまくいかないのです。この瞬間を皆さんが生きている間に感じることができなければ、運命の直前に遭遇することになります。しかし、その時はすでに手遅れです。


では、今日人類が苦しんでいる原因はどこにあるのか?運命の直前にこの難関に遭遇しないためには、若いうちに必死に信じなければなりません。このように若いうちに必死に信じる信仰を持っていることが、人間の希望であることを皆さんは知るべきです。


運命の直前にこれに遭遇すると、どうしようもなくなります。だからこそ、天は人間が若いうちに善を中心とした生活観念、世界観念を持てるように、つまり自分のすべての問題を解決する一つの解決点を与えるために逆境が道へと追い込むのです。天は人間に世を避けさせるために、人間をさらに反対の道へと追い込むのです。


どのような教義、どのような教派よりも自分を信じるようにと強調してくるのです。自分を信じるためには、自分が人類を信じたのと同じくらい信じなければなりません。今日、信じているすべての信者たちを見てみると、彼らは「神を信じています。」、「イエス様を信じています。」と言葉だけで言っていますが、それでいいのです。しかし、このような信仰は通りすがりの人も言うことができます。このような信仰を天は望んでいません。


では、天はどのような信仰を望んでいるのでしょうか?イエス様が「私を信じなさい」と言ったのは、自分が神を信じるようにイエス様を信じなさいということです。また、イエス様が「私は神の子だ。私は神を信じている。」と言えたのは、自分が神を父として信じるように神も自分を子として信じていることを確信していたからです。このような立場でおっしゃった言葉なのです。


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今日、私たちは信仰を求めてさまよっています。御言葉を求めてさまよっており、御言葉を基にした信仰の道を求めてさまよっています。御言葉を持って真の信仰を中心として人々を訪ねて来られるその実体的な一つの中心存在をキリスト教的に言うと、再臨主というのです。人間は神を信仰の基準としてきました。そして、これまでの信仰を分析してみると、御言葉を基にして人類を導いてきました。


では、ここでこれまでの宗教がすべてを解決できなかったために、再び戦わなければならない時が近づいているのです。これを聖書的に言うと、終わりの時の7年大患難の時期です。これを皆さんは知るべきです。


私たちは御言葉を通して実体に出会うべきです。今日、イエス様の御言葉を信じる人は多いですが、イエス様を信じる人は少ないです。イエス様の御言葉に従う人は多いですが、イエス様の実体を頼りに従う人は少ないです。私たちは進まなければならない人間でありながら、真の御言葉を持つ方が現れても信じず、むしろ迫害しています。


では、今日私たちはどのような人になるべきでしょうか?御言葉と一つになるべきです。そして、神に代わって来られた方は、天的な唯一の存在であり、すべての人間の模範であり、人間の全体の理念を代表する存在ですが、その存在と私たちを比較するとき、私たちが違う存在になってはいけません。


だからこそ、最高に善良で、最高に正義であり、最大の勝利者であるその一つの実体を標榜して、皆さんは再び第2の一歩を踏み出さなければならないのです。これが人間が進むべき道です。


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しかし、この地上のすべての人間は6千年という長い年月を過ごしている間に御言葉に頼り、その御言葉通りに生きようと苦しみながら進んできましたが、御言葉の主人公であり、御言葉の実体である方をお迎えして生きた人は一人もいません。


歴史的な私たちの先祖から今日に至るまで、そのような存在を正しくお迎えして生きた人は一人もいないということです。神は堕落後の4千年の歴史を摂理され、多くの預言者たちを立てられ、無限の御言葉を与えられました。そして、人間に一つの中心を見つけさせるために民族を結集し、一つの方向に導いてこられましたが、御言葉の実体を送ることを約束されました。その方が誰かと言えば、まさにメシアだったのです。だからこそ、イエス様は「私が律法や預言者を廃止しに来たと思ってはならない。廃止しに来たのではなく、完成しに来たのだ。」(マタイ5:17)とおっしゃいました。


イエス様はその時までのすべての御言葉を完結することができる方であり、神が歴史の道を通じて与えられたその御言葉以上のものを持って来られた方です。そのような存在として来られたメシアでした。しかし、御言葉の実体であるメシアを待ち望んで来た多くの人類は、いざ現れた御言葉の実体を見逃してしまいました。御言葉の実体をすべて失ってしまった人間になったという事実を皆さんは知っておくべきです。


突然、御言葉を持って現れたイエス様が神を抱えて分かれ道の戦いをして、歴史的なすべての条件を踏み越えたように、私たちもイエス様を抱えて分かれ道の戦いをしなければならない条件が残っているということを皆さんは知るべきです。


では、イエス様を抱えてどうするのか?ヤコブが天使を抱えて戦ったような戦いをすべきです。長子の相続をイサクから祝福されたヤコブは、その日から御言葉を中心にして祝福の条件を立てようとしました。祝福の条件を立てた後には実体を回復しなければなりませんが、そのためには天を抱えて分かれ道の戦いをしなければならないのです。これが本来の私たち人間が進むべき道です。


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では、今日キリスト教を見てみると、まだサタンを支配することができる御言葉の権限を成し遂げていません。真にサタンを支配することができる権限の実体であるイエス様を紹介し、彼のために祈りながら進む信者はこの地上に少ないということです。皆さんがこれまでの御言葉に包まれて、そこからいくら努力しても進むべき道は遠いです。


今日まで6千年もの間、歴史は流れてきましたが、ここからどこへ進むのか?どこへ進むのか?御言葉を踏み越えて実体を抱きしめなければなりません。新約は大部分が書簡ですが、書簡で出会うのではなく、心に湧き上がる情を通じて出会わなければなりません。このように天と一つになった一つの存在、堕落後6千年の歴史の中で初めて現れたその立場に進んでみた人は一人もいないのです。


御言葉を踏み越えてイエス様を抱きしめる人がいるとしましょう。しかし、イエス様の前に進み出て「あなたが持っている天の全権の力と救い主の資格で万民を救済するための権限を私に教えてくださり、すべての罪の根本を清算する方法を教えてください。そして、あなたと共に永遠に楽しむことができる天の愛を紹介してください。」と祈りながら進んだ人がいないということです。このような人がいなければなりません。


もし、イエスに出会ってそのような条件を要求し、祝福を受けて恩恵を受けることができる人がいるとしましょう。しかし、イエス自身が両手を広げて「おお!あなたの願いはこのようであったので、永遠の幸福を享受しなさい。」と言うことができないのです。天の心情がまさにそうなのです。


なぜなら、イエスも十字架にかかって死んだことによって、この地上で新郎新婦として二人が一つになって神の前に出て「神よ、あなたが私たちの実体を立てたので、あなたの心の奥に秘められた愛を授けてください。」と言うべき部分が残っているからです。


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では、イエス様は「おお、ここまで来るのに苦労したので、私を条件としてあなたが神の愛を受けなさい。」と言うことができることを私たちは知るべきです。今日、大多数のキリスト教徒はイエス様の愛だけを受けようとしているのです。


パウロが言うには、イエス・キリストの中にある者は神の愛の中にあると言いました。自分にある愛ではなく、イエス・キリストの中にある神の愛を指していたのです。


従って、花嫁の理念を求める皆さんは、このような御言葉を通じて実体を見つけたとしても、神の前に出て「お父様、あなたの愛を、愛の全権を私たちに祝福してください。」と言うべき部分が残っているのです。従って、今日私たちはこのような立場にまで進まなければなりません。


言い換えれば、今日私たちは真理を求めて超え、実体を求めて超えて神の前に出て「神よ!私に愛の祝福を授けてください。」と言わなければならないのです。それでは、これはどういう理由なのか?これは神を求めてきた人々に対して、神が「私を求めて出てくるまで、多くのサタン、数え切れないサタンの試練を経てきたのだから、大変苦労した。」と言いながら、サタンと共に戦って勝利した道のり、神を知るまでの道のりを称賛することができるが、神の心の中で待ち望んでいた理想の園から取って生きることができる愛の心情としては祝福してくれないからです。


だから、天は「それがあなたの願いならば、今は罪深い世界に出て行きなさい。」とおっしゃるのです。つまり、「あなたは罪深い親の子孫であるので、復帰の過程を経なければならない。それで私の息子娘になることができる位置に達したならば、あなたは失われた真の親を探しなさい。」とおっしゃるのだと皆さんは知るべきです。


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私たちは神と出会えばすべてがうまくいくと思っていました。しかし、人間にはまだ残されている分野があります。つまり、人間の祖先が人類の真の祖先になれなかったために真の親を持たず、真の子供になれなかったということです。従って、皆さんが養子として神を知り、サタンと戦って勝利したとしても、直系の血統の縁を結ぶには真の親をお迎えしなければならないということです。そうなっています。


どのような信仰の勇者でも、神の前を離れれば苦しむことになります。結局、神の前に出て「その親が地上にいるのか、いないのか?」と尋ねるしかありません。その時、神は地上にいると答えるでしょう。しかし、もし地上にいなければどうするのでしょうか?皆さんがその親に代わって責任を負わなければなりません。「お前が一度親になってみろ。」このような言葉をおっしゃるのです。


そうすると、その信仰の勇者は別の場所へ足を運ぶでしょう。この地上のすべての信仰者たちをたどって探し当てるでしょう。だから、皆さんが真の親を探してその親の前に出て「おお、私がこれまでの困難を乗り越え、今や真の親であるあなたの前に出ましたので、お父様、これまで歩んできた歴史的なすべての悲しみを慰めてください。今、あなたの永遠の幸福の中で生きることができる全権、あなたの理念の園の全権を私たちに引き継いでください。」と訴えても、訴えたとおりにはならないのです。


その親はまた「お前が進むべき道がまだ残っているので、兄弟を探して来なければならない。」と言うのです。結局、彼は親を離れて兄弟を探しに行きます。だから、地上をさまよい、さまよって兄弟を見つけたら、「お前がいなければ私ができず、私がいなければお前ができないこのような兄弟、死んでも一緒に死に、生きても一緒に生きることができる兄弟、骨と骨を結びつけ、肉と肉を結びつけた身体の中でも切り離すことができない兄弟を探して、私はこのような命令を受け、お前に関する目的を知ってお前を探して来たので、6千年の歴史の恨みが私たちによって解決されるならば、お前と私が兄弟としてその解決の幸福を享受しよう。」と言うでしょう。


すると、真の信仰の兄弟はこう言うでしょう。「おお、君が探して来てくれたことはありがたい。しかし、我々によって神の全体的な目的が成就したわけではありません。まだ進むべき道が残っています。」と。それでは、その道は何の道でしょうか?残っているその道は、善の民族を探して来なければならない道です。この信仰の勇者は再び足を進めます。


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だから、一つの民族を見つけて「私がこのような歴史の道を経てあなた方に出会ったので、あなた方を通じて天の目的を成し遂げなければなりません。」と事情を話しても、その民族は「歓迎はできるが、喜びの踊りを踊ることはできない。」と言うでしょう。なぜなら、彼らの民族を破壊したサタンがまだ残っているからです。そして、サタンによって壊れた民族があると同時に、その民族と結びついた民族があるからです。さらに、そのような民族があると同時に「善の民がいた。」という答えが出てくるのです。


だから、また峠を越えてその民を見つけて「おお、今や喜びと幸福と目的の達成をすべて実現できる一つの民を見つけたので、天の民となる者たちと共に楽しもう。」と言いますが、そうはいきません。またあるのです。世界を越えて、私たちの真の親と真の兄弟と真の民族、真の民、真の国家、真の人類が集まって、一斉に神の前に礼拝し、その後にようやく成し遂げられるのです。


これが歴史の背後を動かして来られた神の心情に悲しみの苦難を積み重ねたものであり、これが私たちが生きて来た歴史の目標です。


これとは反対の方向に絡み合っているのが罪深い世であり、この理念を実現できないようにその前進を妨げるのがサタンの歴史であることを皆さんは知るべきです。必ず進まなければならない人生の道がこのように定まっています。


イエス様はこの地上に真理の本体として来られ、神に代わる実体として来られ、神の心情に代わる愛の実体として来られました。誰よりも人類の真の親、真のお父様の実体として来られたのです。イエス様が真の父として来られたのです。だからこそ、私たちは互いに真の兄弟なのです。イエスも「あなた方をもう奴隷とは呼ばない。終わりには子供たちと呼ぶであろう。」とおっしゃいました。子供たちなのです。


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親であるイエス様を中心にして兄弟として出発し、民族を作ろうということでしたが、その基盤が70門徒と120門徒だったのです。その群れを中心にしてイスラエル教団を動かし、民族を動かそうとしましたが、失敗しました。それによって第一イスラエルは崩壊し、第二イスラエルの歴史が始まりましたが、これがまさにキリスト教の歴史です。


このようにして、キリスト教は今日までイエス様を中心にした世界民族を形成してきました。従って、終わりの時代に到達した今日の人類は、自分自身が歴史的な悲運の峠をすべて越えていく中で、勝利的な縁を結んで進んでいかなければ、14万4千の群れに入ることはできないのです。


黙示録14章には「小羊がシオン山に立ち、そのとともに14万4千が立っていたが、その額には小羊の名とそのお父様の名が書かれていた。」と記されています。皆さん!イエス様の印を受けましたか?まずイエス様の印を受けなければならず、その後にお父様の印を受けなければなりません。イエス様の印を受ければすべてがうまくいくと思いますか?違います。イエス様の印を受け、そしてお父様の印を受けなければならないのです。これが堕落した人間が贖罪の完成を望んで進んできた目標なのです。


堕落していない、神の愛を受けることができる善良な人の目標は、まず神の印を受け、次に兄弟に印をつけることです。さらに、民族と民に印をつけることができなければなりません。これを考えるとき、天の悲しみがどれほど大きかったのかを皆さんは知るべきです。このような天の悲しみに関する御言葉は、夢の中でも知らなかった言葉であり、どの友人からも聞いたことがなく、どの師やどの教役者からも聞いたことがない言葉です。この内容は真に深刻な言葉です。


では、今日ここに立っているこの足取りは、明日どこに向かって行くのでしょうか?皆さんは今、神の愛の圏内にいますか?真の親の愛の圏内にいますか?真の兄弟の愛の圏内にいますか?真の民族の愛の圏内にいますか?真の民の愛の圏内にいますか?天地を統合して神の前に頭を下げるとき、その神が抱きしめることができる愛の圏内にいますか?そのような人は一人もいません。イエスもこのことを成し遂げていないのです。だからこそ、イエス様はまだ楽園で保留状態に留まっています。


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では、イエス様は終わりの時に再び来て必ず何をしなければならないのか?この仕事を回復しなければなりません。イエス様は御言葉を踏み越えました。しかし、十字架にかかって死んだ後に復活されたイエス様は、マグダラのマリアが抱きしめようとしたときに拒絶された方であり、「花嫁よ!私と共にお父様の前に行こう。」と言うことができる立場を経ていない方でした。だからこそ、2千年間、花嫁の席を探すその日を待ちながら努力してこられました。イエス様は本来、歓喜する花嫁と共にお父様の前に出て祝福を受け、真の親となるべきでした。そうして、真の子供を抱え、真の民族、真の民を築かなければなりませんでした。このようにして神はイエスにこの天地における真の祖先になるよう祝福しようとされました。


しかし、イエス様は人類の真の祖先として祝福を受けられずに去って行かれたのです。これを皆さんはよく知っています。これが天の悲しみであり、イエス様の悲しみです。今、果てしない涙を流すこのような悲壮な心情の痛みが皆さんの心に響かなければなりません。天の御言葉を裏切った私であり、天の実体を裏切った私であり、神を裏切った私であり、天の兄弟、民族、民を裏切った私であり、さらに進んでは、天の主権を侵害した私をどうして天が許してくださるでしょうか?許されることのない罪人であることを知り、自分の居場所を知らずにもがく青年男女が多く出てくることを天は望んでいます。


これを知るようになるとき、私たちの心情は燃え上がらざるを得ません。情が通い、心が動き、歴史に対して恨みたくなるし、時代に対して恨みたくなる心が込み上げてくるでしょう。


この憤りが強ければ強いほど、この憤りをどこで解決するのかという考えが浮かぶでしょう。このような歴史的な悲しみはサタンのせいであったので、サタンと共に一大決戦をしなければなりません。そして、このような覚悟を持った青年男女が多くいなければ、親を回復することも、兄弟を回復することも、民族、国家、天の主権を回復することもできないことを皆さんは知るべきです。


これまで私たちは安穏な生活を送ってきました。感覚のない無骨者として、存在意識は持っていましたが、存在の価値を持たずに悲しい道を歩んできました。それでもなお、自分が優れていると恥知らずに出てくるのです。今日、私たちがこのような罪深い民族であることを、この時間だけでも認識しなければなりません。これすらも知らない人間は、天の天罰を受けて当然であり、裁きの日に硫黄の火の淵に投げ込まれる裁きの生け贄となって当然でしょう。


     24


これを知り、自分が裁きを受けることを恐れてはなりません。天が自分よりも悲しい事情にあることを知らなければなりません。また、先祖たちが歩んだ歩みが自分よりも悲しい事情であったことを知らなければならず、今日この時代に志を持って進んでいる真の人々が、今日自分が感じている悲しみと苦しみ以上の生活をしていることを知らなければなりません。このような事情を知っている人間でなければなりません。


私たち人間は今日も進み、明日も進み、生きて進めなければ、死んでからでも永遠に歩み続けなければなりません。この運命の峠、この悲惨な苦難の話は恨むことができません。従って、天はこの苦難を引き起こした主人公であるサタンと決戦を行うための天の精兵であり、勇者として天と地に向かって号令をかけて進むことができる青年男女を探しているのです。だから、私たちはそれに向かって突き進むことができる天の心情を持って叫ぶ群れが求められているのだということを知るべきです。


だから、今皆さんは神の心情を通じることができなければなりません。さらに、真の親の血を受けた子供、その血と結びついている民族になり、民にならなければなりません。その親と一つになって、その喜びが全体の喜びであり、全体の喜びが私の喜びであるべきです。そうして、すべての人々が神をお迎えして、その前で賛美を捧げ、礼拝を捧げることができなければなりません。これが私たち堕落した人間が必ず進むべき目的地であることを皆さんは知るべきです。




<祈祷>


お父様、エデンの園を失った人間が経験してきた屈辱の歴史の道と苦しみの歴史的な縁を経て、あなたを探し求めることをしなければならない非常に悲しい障壁と峠が私たちの前に立ちはだかっていることを知りました。


お父様、今日も明日も進まなければならない私たちのこの歴史の悲しみを知ることを許し、命の源であるあなたの悲しみを知ることを許してください。


     25


永遠なるお父様の幸福の園を知り、その園まで一歩一歩進んでいく際に、行進の道を合わせていける私たちになれるよう許してください、愛するお父様、切に願い、望みます。


私たちがどの段階で進んでいるのか、どの段階に留まっているのかを知ることを許してください。お父様、今まで無責任に生きていた私たち個々の存在が裏切り者の歴史の道を歩まないように許してください、全体に応えて一つの理念の園で父をお迎えし、お父様の前で礼拝を捧げられるその日が来るまで、サタンと戦い続ける息子娘たちになれるよう許してください、切に願い、望みます。


お父様、ここにあなたの息子娘たちが集まり、御言葉を聞いたので、この御言葉を通じて自分の人生の道を新たな角度から探し、天の法に従って目的地に向かって進む革新的な運動が起こることを許してください、お父様、切に願い、望みます。


この日のすべてを主宰してくださることを願い、主の名によって祈ります。アーメン。

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御言葉選集5(6)

2024年08月25日 16時37分56秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 5 - 6. 共に生きるべき人間と神 (1959年1月11日)
1959年1月11日(日)、全本部教会にて。


ヨハネによる福音書 14:6-12


<祈祷(Ⅰ)>
使命の前に立ち、子供としての立場を教え、私たちに本来の価値を教えてくださった父なる神様に、この時間、感謝の意を表さずにはいられません。


今、私たちの心を私たちの心のままに放っておかず、お父様の心と結びつけ、お父様の心を代わることのできる心にしてください。私たちが心で感じるすべてが父を代わる感覚となり、私たちが体験するすべてが人性を超えて天性を代わる体験となるよう、この一時間をお許しください、愛するお父様、心から願い求めます。


お父様! 父から離れた私たちが再び父と会わなければならないので、私たちの歩みが自分のすべてを忘れ、失われた父を見つけるために必死になる熱望の歩みとなるようにしてください。心からの思いと誠実な忠誠、そしてそこから生まれる行いを持たなければならないことを知っていますので、お父様! 私たちの不忠をお許しください。お父様の前で忠誠を尽くすべき私たちが忠誠心を持たなかったことをお許しください、お父様、心から願い求めます。


父、この日は新年に入って2度目の日曜日です。この一日に、私たちが新たな決意を持って出発できるようにしてください。この一日、私たちの心がお父様の前で一つにならなければならないことを知っています。私たちは、お父様の手に導かれなければならないので、お父様! どうか私たちの心をお迎えください、そして私たちの身体を抱きしめてください、お父様、心から願い求めます。


今、この時間から私たちがお父様の前で生ける犠牲として捧げられなければならないことを理解しています。この一時間から、お父様の前で生ける犠牲として捧げられる私たちとなることをお許しください。


     1


この日は聖なる日ですので、この地上にいるすべての人々を祝福してください、そして三千万の民族を祝福してください、また、無数の宗派を祝福してください。特に、この日も孤独な場所で天の一つの意志を抱き、涙を流して訴えている、地方に散らばる孤独な兄弟姉妹たちを抱きしめてください。


天の意志があるために彼らは孤独な場所に立ち、また彼らが天の心情と状況を知っているために、天の心情と状況を代わって戦っているので、この一時間も同じ恵みで彼らを抱きしめてください、心から願い求めます。


お父様! 地方に散らばり戦っていたあなたの息子娘たちが、この一週間を通じて新たな決意と新たな覚悟と新たな武装をするために集まりました。この訓練を通じて、お父様の栄光の痕跡を身体で心で体験できるようにお許しください。


万象の前に現れ、天の慈悲で実行されたその聖なる姿の価値を、私たちが代わりに証しすることができるよう、天の装いを整えられるように祝福し、導いてください、お父様、心から願い求めます。


今この一時間、足りない私たちが集まり、心を合わせて父を迎えて礼拝を捧げたいと思いますので、この場所に現れて、どうか受け入れてください、そして私たちを抱きしめてください。隠された命の恩恵で私たちを導いてくださるよう、心から願い求めます。


     2


暗闇の勢力の中で苦しんでいるこの民族と万民を救う責任が私たちにありますので、お父様! 日夜彼らを守り、闇の勢力と戦わせてください。彼らの代わりに命をかけて犠牲にならなければならない全体的な責任と使命があることを理解し、この一時間、お父様の前で誓う私たちが、その使命を引き継ぐことができるようにお許しください、心から願い求めます。すべてをお任せしますので、御意のままに導いてください。主の名によってお祈りしました。アーメン。






<祈祷(Ⅱ)>
お父様! 地上に住むすべての人々を哀れんでください。意志を完結させなければならない日が近づいていることを私たちは知っています。その日はお父様の慰めの日であり、イエス・キリストの希望の日であり、人類が切に待ち望んでいた日であることを私たちは知っています。


その一つの栄光の日を迎えて、私たちが心から父を迎えなければならない時が来ました。そしてその一つの恐ろしい審判の日を迎える前に、私たちは罪の歴史から逃れなければならない時が来たことを理解しています。ですので、お父様、私たちの心を再び作り直し、あなたが喜ばれる性格を持つことができるようにしてください。私たちの身体を再び作り直し、あなたが運営できる形体となることができるように、心から願い求めます。


そして、この時間、心でも身体でも、お父様が作られた本来の願いを歌うことができる、あなたの所有物となることができる真の息子娘をすべて許してください。


そしてその栄光の中で一つになり、お父様の喜びが私たちの喜びであり、私たちの喜びがお父様の喜びであると同時に、天上のすべての聖徒たちの喜びであり、被造物のすべての喜びであると現れることができるよう、お父様の希望の日とお父様の栄光の日とお父様の喜びの日がこの地上に早く現れることを心から願い求めます。


     3


今、心が未熟な者がいるならば、お父様の本来の心に従って走れるようにお許しください。お父様の姿を代わって作られた人間の本来の形を持たない者がいるならば、その身体を従わせてすべての悪の要素を取り除くことができるようにお許しください。


お父様が動かれるときに、心でも身体でもお父様の心情に共鳴し、動くことができる天の息子娘が非常に恋しいですので、お父様! 私たちの心があなたの本来の心に共鳴し動かないならば、その心を取り除いてください。あなたの姿を似せていないためにお父様の心情に共鳴し動くことができる形体ではない身体があるならば、その身体を従わせて本来の形を整えることができる一つの美の存在として現れるのに不足のない身体となることを心から願い求めます。


お父様、この日に集まったあなたの息子娘たち、たとえ一つの命でもサタンの手に渡ることがないようにし、お父様の愛の腕に抱きしめて聖別してください、心から願います。お父様が直接臨在できる殿として、お父様が直接動かすことができる一つの身体として、お父様がすべてを自由に主観することができる聖徒たちとして作り直してくださるよう、心から願い求めます。


お父様、この日は聖なる日ですので、可哀そうな三千万の民族を哀れんでください、そして道を探し求めてさまよっているあなたの息子娘が多いので、彼らを抱きしめてください、心から願います。


暗黒の権勢にとらわれ、命の道を探し求めることができずに苦しんでいるあなたの息子娘たちを早く抱きしめて聖別してください。一つの理念で通じ合えるあなたの息子娘となることができるようにし、祝福してください、そして最後の日に一つの祭壇を整える方向に導いてください、心から願います。


     4


今、私たちの身体と心をすべて捧げますので、お父様、受け入れて主観してください、そしてサタンが入り込む要素をすべて取り除いてください。お父様が直接主観し、直接命じて動かし、善の栄光を現すことができるこの一つの集まりとなるよう、心から願い求めます。


私たちが持っているすべての心情を捧げ、再び子供のような心に戻ってお父様の命令に全体的に応えることができるこの一時間となるよう、愛するお父様、心から願い求めます。


お父様! この日を迎えて孤独な心情で祈る場所々に、あなたの愛の手を取り上げず、この一時間、私たち全体の心身を主観してくださり、抱きしめてください。この集まりがお父様の聖なる至聖所でお父様の前に栄光を捧げる祭りとなるようお許しください。すべての言葉を主の名において祈りました。アーメン。


<祈祷(Ⅲ)>
お父様! 愛する弟子たちの前で、やがて地上での生涯を終え、お父様の国へ行くことを話さなければならなかったイエス様の悲しい心を察することができる私たちにしてください。


時間的にはイエス様と私たちの間には2千年の隔たりがありますが、心情の世界では時間を超えることができることを知っていますので、今日もイエス様の切迫した姿と悲しい心情に浸りながら、一言一言切実に訓戒された聖なる姿を見ることができる直接的な体験の働きを起こしてください。これらの場面は、人間である私たちにとって望まないわけにはいかない場面です。


     5


この地上で誰がイエス様の心を理解したでしょうか? 悲しみに沈んだその姿を見て、心の深いところに刻み込まれる天の悲しみを体験した人は一人もいなかったので、天はこのような人々を前に嘆かざるを得なかったことを知っています。天の心情を知り、「主よ!」と呼ぶ弟子一人をも持つことができなかったイエス様は、疑いに満ちた人生の道を歩まざるを得ず、また疑われながらその悲しい生涯の終わりを迎えなければならなかった悲しみを、この時間、私たちが心で共感できるようにしてください。


イエス様が切実な天の心情を抱き、天の全体の偉業を抱いて人間を訪ねて来られましたが、人間はそのようなイエス様を自分たちの思いのままに扱い、拒むところまで拒みました。孤独な場所に追いやられるところまで追いやりました。しかし、悲しみに沈み、嘆きの場所を余すところなく歩み出されても、イエス様はそのような人間を見捨てることができず、命の園へと向かう一つの道を開拓するために彼らを引き連れ、ゲッセマネの園へ向かわざるを得ないこと、そしてゴルゴタの十字架の道を歩まざるを得ないことを考えられたイエス様の痛ましい胸の前に、信頼できる弟子一人もいなかった悲しい事情を私たちに知らせてください。


終わりの日に天が私たちを探されるならば、天の最後の心情を大切にし、その心と共にその言葉と共に、心身を通じて心情を体験できる天の子供となるべきことを私たちは知っています。


過去の悲しみは私たちの祖先たちの不足によるものであり、天の心情を知らなかったことに起因していたことを知っています。今日、私たちがこの事実を考えながら天上を見つめ、孤児のような立場にあったイエスの心情を持って「お父様!」と訴え、当時の心情を通じることができるようにしてください。彼らに心を開き、信頼できる弟子たちとなることを許し、イエス様を証しできる存在となることをお許しください、お父様、心から願い求めます。


ここでトマスは「主の行かれる道を知らない」と言い、ヨハネ14章8節ではピリポが「主の姿を見せてください」と言いました。このように、天の父を見せてほしいと求める弟子たちを目にしたとき、イエスの悲しみがどれほど大きかったかを、ここにいる者たちが一緒に感じられるようにしてください。


     6


イエスが神と共に生きたことを知らなかった弟子たち、そんな弟子たちを残して一生を終えなければならなかったイエスの心情、人間のために全ての生涯を捧げたにもかかわらず、その生涯の実りを見ることができず、痛ましい心情に沈みながら天を心配していたイエスの心を、この時間、私たちが共感することができるようにお許しください、お父様、心から願い求めます。


お父様、ここにあなたの息子娘たちがひざまずいております。彼らの心を一つにしてください。彼らが何も持っていなかったとしても、お父様が残された心情、お父様が自らイエスを送り、示したかった切実なその心情を体験できるようにしてください。


そして天の全体の心情を代わることができ、天の意志を願い、天の心情世界を懐かしむ、被造物全体を代わって現れるのに不足のない息子娘となることを許しください。すべての万象の前に誇ることができる息子娘が現れることを、今日まで望んでおられるお父様の心情とイエスの心情を、この時間理解できる息子娘となることを許しください、お父様、心から願い求めます。


深い死の波に巻き込まれて眠っている三千万の民族を、お父様! 導いてください。暗黒権勢に対して命の権限を持って戦わなければならない、あなたが建てられた教団が一つになるようにしてください。


お父様の意志に従ってはいますが、その意志が何であるかを知らず、天の道を歩んでいると言ってもその道がどんな道かを知らずにいますので、お父様! 私たちに悟ることができる能力をお与えくださり、祝福してください。


     7


お父様、ここに集まったあなたの息子娘たちが、この民族を代わって天の切実な心情を理解できる者となり、父に最も近い場所に立つことを許しください。お父様の勧告の言葉を聞くことができ、お父様の切実な事情を抱きしめて「我がお父様、我がお父様!」と呼びながら泣くことができる切実な心を持って、お父様の前で礼拝を捧げることができるようにお許しください、お父様、心から願い求めます。


サタンは私たちの心情の世界を侵略するために、この時間もあらゆる狡猾な手段で私たちの目を覆っていることを教えてください。私たちが心を一つにして完全に一つとなり、生ける犠牲としてお父様の前に捧げられるこの時間を許しください。


この時間、あなたの命の道を見つけなければならず、あなたと命の縁を結ばなければならず、あなたの命の言葉に触れなければなりません。これを知って、あなたの言葉を伝えようとしていますので、伝える者の心や受け取る者の心が切実な場所で憧れの心情に浸って一つとなることを許しください。


そしてお父様の創造本来の理念を私たちの心情で体験し、その心情を自分のものとして受け取り、許された言葉に共鳴して再び形作られる私たちとなることを許しください、お父様、心から願い求めます。


今日この時間以降、すべてをお任せしますので、御意のままに成し遂げてください。孤独な兄弟姉妹たちを直接抱きしめてくださいとお願いしながら、主の名において祈りました。アーメン。


     8




<御言葉>
「皆さんにお伝えしたい短いお話のタイトルは『共に生きるべき私たちと神』です。『共に生きるべき人間と神』というテーマでお話しさせていただきます。神様がすべての被造物を創造された動機と目的は、共に生きるためでした。共に生きるために創造されたことを、皆さんは知るべきです。


最も小さなものから大きなものに至るまで、その過程に連なるすべての存在物は、神様と共に神様の愛の中で動くことができる喜びの存在として創造されたことを、皆さんはよくご存じでしょう。


その中でも、私たち人間は神様が最も心血を注いでお作りになった存在です。すなわち、神様の考えの中の考えの存在であり、心情の中の心情の存在であり、創造理念の中の理念の存在であり、創造の実体の中の実体の存在です。


従って、神様が人間を所有することは、宇宙全体を所有することになるのであり、人間を支配することは被造世界全体を支配することになるのであり、人間と共に喜ぶことは被造世界全体と喜ぶことになるのです。神様はこのように、創造の理想から創造の結果に至るまで、目的のすべてを代替する代表的な存在として人間を立てられたことを、皆さんは知るべきです。


神様が被造世界を創造された目的は「共に生きること」ですが、今日、人間と万物、すべての存在物が神様と共に生きることができないのはなぜでしょうか。それは、堕落によるものであることを、私たちはよく知っています。堕落のために、神様が臨在することができる土台が失われてしまったのです。


     9


それでは、神様がアダムとエバを失ったその日から今日この時まで、私たち人間を探し求められているのは何のためでしょうか。それは、私たち人間が神様の宮となり、神様の身体となり、神様と一体となって天と地を代替する一つの実体存在になるとき、私たち人間が喜ぶことが神様の喜びとなり、神様の喜びが私たち人間を通じて万物に伝わるからです。すなわち、私たち人間が神様と万物を結びつける中間の媒介者であるからです。


本来そのようであるべき私たち人間が、今日までそのような喜びを感じたことがなく、神様が築こうとされた本来の聖殿を持ったこともなく、神様の心情や神様の思いや神様の理念を持ったこともありませんでした。これが今日までの人間たちの実情でした。


地上にいくら優れて立派な人物がいても、彼は神様が望まれる理念の宮となることはできず、神様が探してくださることができる理念の実体ともなれず、神様の心情を代替することのできる真の姿を持っていないという事実を認めざるを得ません。


そのような立場に置かれた私たち人間は、どこを経てどこへ行き、どこに留まりたいとして、この6千年の長い歳月を過ごしてきたのでしょうか。今日も生きることを望み、明日も生きることを望み、命への愛着を持ち、命の終わりのない延長を願い、一つの理念を求めて彷徨う人間たち、これらの人々が留まりたいと願う希望の起点はどこなのでしょうか。


創造された主人がいながらもその主人を知らず、心情の主体がいながらもその心情の主体を知らず、本来の真の愛の主体がいながらもその真の愛の主体を知らず、他のものを求めて彷徨っている人類を見つめる神様の心情はどうでしょうか。


     10


創造の理念がなく、創造の実績がなければ分かりませんが、創造の実績としての万物があり、創造の理念が神様の中に残っているならば、その理念と実績を完成させ、完結させることのできる存在が現れるべきです。


では、そのような存在はどのような存在でしょうか。その存在は万物でもなく、神様でもなく、まさに人間であることを、私たちは知るべき時が来ました。そして、私たちがそのような人間にならなければならないことを知らなければなりません。だからこそ、神様は6千年間、私たち人間を探し求めてこられました。今日まで、私たち人間を一つの土台とし、天のものに移すために探し求めてこられています。


人間が堕落しなかったならば、すべての条件を完備し、生活を通じて創造理念全体と結びつき、その理念の中で完成され、完成された実体として神様の前に理念の実体となることができたでしょうが、堕落したために、神様は去り、万物との縁も切れ、人間同士の縁も切れてしまいました。これが悲しみの中の悲しみであり、嘆きの中の嘆きなのです。


これは私一人に限られた嘆きではなく、隣を見れば同胞の嘆きであり、世界を見渡せば人類の嘆きであり、さらに万物を見渡せば万物の嘆きであり、頭を上げて心を通して天の世界を見渡せば、天の嘆きです。このような途方もない事実を皆さんは感じたことがありますか?


心と身体でその嘆きを抱きしめて大きく嘆きながら泣いたことがありますか?嘆きに満ちたすべての万象を抱きしめ、その上に降りかかる嘆き、私たちを創造された主人の嘆きを心配し、より大きな嘆きに満たされ、天を抱きしめて慟哭し、万人を抱きしめて慟哭し、万物を抱きしめて慟哭したいというそのような心情を一度でも抱いたことがありますか?


     11


そのような心を持っていない私たちですが、天が嘆きの心情で私たちを探し求められるならば、皆さんはその天の前に不孝者中の不孝者であり、逆賊中の逆賊であり、裏切り者中の裏切り者であることを感じるべきです。


もしそのような天がいないならば別ですが、いらっしゃるならば、今日この地上に生きている私たち人類は許されない逆賊であることを知るべきです。このような不信の人間であり、裏切りの人間であり、絶望の人間を再び作り直す条件を探して、天は今日この時まで探し求められています。


堕落したアダムの位置にある人間を引き出して天の側に立て、神様の理念から神様の願いまで、神様のすべての属性を完備させて共に議論しながら生きようとされるのが、創造主が人間を探し求められる目的です。これを感じる者がいるならば、神様はこれ以上の感謝することはないでしょう。


今日まで天は人間たちが知らないうちに、個人を通じて環境的な摂理の基盤を築き、環境を通じて世界的な摂理の基盤を築いてきたことを、皆さんは復帰の道を通してよくご存じでしょう。それでは、どうして天は誰も知らないうちに、6千年の歴史を経て、私たちの先祖たちとの縁を結ぶために戦ってこられたのか、私たちの民族と国家と土地との縁を結ぶために戦ってこられたのか。その目的は何でしょうか?


神様の御言葉は、はじめにその御言葉に背いた私たちの先祖たちにだけ現れたわけではありません。堕落後6千年の歴史の道を経て、どの時期やどの時代を問わず、神様は御言葉を現されました。このように神様の御言葉が現れなかった時がなかったにもかかわらず、人間たちは神様の御言葉を心に植え、その御言葉の実を結ぶことができませんでした。これが人類の悲しみの中の悲しみなのです。天の御言葉を心に植え、その御言葉の実を結ぶことを望まれていた天の希望を、何百万回も裏切った先祖たちであることを知ったとき、堕落の血統を残した先祖たちに対して敵意を抱く真の子孫たちは現れないでしょうか?皆さん、考えてみる必要があります。


     12


先祖たちが天の御言葉に背き、天に対して悲しみを抱かせ、罪の壁を築いたことを憤り、その先祖たちを抱きしめて抗議できる、こみ上げる心情で天と地に向かって叫び出すことができる真の息子娘の姿はないでしょうか?天は探されるでしょう。


神様はアダムとエバの身体に御言葉を植え、その御言葉を通して実体を持った本来の人間として立てようとされましたが、その心の中には何を伝えようとされたのでしょうか?神様の心を植えようとされ、神様の理念を植えようとされ、また、神様の命と神様の愛をその心の中に伝えようとされました。


しかし、神様のそのような創造理念が私たちの先祖たちの裏切りによって失われ、神様の御言葉も失われ、神様の実体である本来の人間も失われ、神様の心も神様の命も、そして神様の愛もどこかへ消え去りました。このようなものを失った以上の悲しみは、被造世界にはもうないでしょう。私たちはこのような悲しい事実を前に、骨身にしみる心情を持ってすすり泣くことを学ばなければなりません。


このようなものを失い、堕落の犠牲となったために、人間は失う前の「本来の自分」を恋しがります。その「本来の自分」が恋しいのです。地上のどんな物が恋しいのではありません。創造された万象があっても、その万象は私と関係のない立場にあります。歴史と世界があっても、それもまた私の心の世界と縁を結ぶことはできず、真の自分を慰めてくれることもなく、どんな刺激的な衝撃を与えることもできない、私とは何の関係もない立場にあります。では、これがどうしてそうなったのでしょうか?


人間にとって最も大切なのは「本来の自分」、つまり神様のすべての属性を備えるべき本来の自分です。しかし、その自分を失ったのであり、最も大切なものを失った人間であるため、それが見つかるまでは人間自身の中で喜びや幸福を感じることはできません。だからこそ、今日、堕落した人類は東西南北四方に散らばって、その本来の自分を探し求めて彷徨っているのです。


     13


それでは、まず何を探さなければならないのでしょうか?今日、私たちは万物を支配することができる自分になれておらず、身体があっても神様の宮にはなれず、心があっても神様の心を知ることができる心にはなれず、心情があっても神様の心情とは何の関係もない心情になっていることを知るべきです。私が理念と愛を求めて議論しても、それらは天とは何の関係もない立場に落ちてしまったことを知らなければなりません。


これが人間の悲しみであり、神様の悲しみであり、被造物の悲しみです。これを考えるとき、天を求める私たち、神様の善と神様の愛を求める私たち、神様の恨みを晴らそうとする私たちは、誰が叩いても蔑まれても、彼らに叩かれながらも天に向かって天が望まれる意志を求めて進まなければならない運命にあります。


だからこそ、天は人間を叩く際、個人から種族を経て民族を経て世界に至るまで叩くのです。天が人間を叩く目的は、人間を滅ぼすためではなく、人間と接している悪の要素を取り除くためです。この悪の要素のために人間を叩くという事実を、皆さんは知るべきです。


今日まで、サタンという非原理の主人公が私たちを弄んできましたし、私たちの家庭や社会、私たちの創造理念の世界を弄んできました。このサタンとサタンによる罪が、今日まで私たちの生活を支配し、世界を支配する一つの中心となってきたのです。だからこそ、今、私たち人間が心を翻し、神様を思い出し、創造本来の自分を恋しがる心を持たなければなりません。サタンが私の肉体を支配し、世界のすべての被造物を動かしてきたのですから、それよりも強い条件が私たちの心から爆発しない限り、私たちは神様と創造本来の縁を結ぶ方法がないことを、皆さんは知るべきです。


このようにして、私たち人間はサタンに叩かれながらここまで来た結果、今日の終末時代まで来てしまったのです。今この時は、神様の6千年の願いが接近してくる時であり、サタンが破れる時であり、人類の願いが接近してくる時です。


     14


この終末はサタンにとっては無限の悲しみの日であり、本来の人間にとっては無限の喜びの日であり、摂理を進めてこられた神様にとっては無限に栄光ある日です。私たちはこの終末を迎えるために進んでいる終末の信徒にならなければならない運命にあります。


それでは、神様は6千年間、何をしてこられたのでしょうか?私たちに何を注入するために、長い年月を費やしてこられたのでしょうか?私たちを一つの基盤、一つの土台とし、神様の御言葉を注入するために費やしてこられました。エデンの園で与えられた御言葉を人間が失ったために、それを回復するために6千年がかかったとしても、この地上の人類の前に真の御言葉、神様との関係を知ることができ、神様の実在性を知ることができ、神様の心情と神様の理念と神様の愛を知ることができる、そのような御言葉を人類の前に現そうとされたのです。


しかし、今日まで人類の前にそのような御言葉は現れませんでした。このようにして、その御言葉を取り戻すために、神様は6千年もの間、努力されてきたことを皆さんは知るべきです。


皆さんの身体を解体して分析してみてください。皆さんの属性の中に神様の御言葉がありますか?神様が御言葉を蒔くために6千年間も努力されたのに、その血と汗の結晶である御言葉が皆さんの心の中に入っているでしょうか?天はこのように問いかけられるでしょう。


神様は結局、私たちを見つけ出し、私たちと一つになって、私たちの生活環境とこの世界に理念の園を創設しなければなりません。それによって初めて、神様の復帰摂理が終わるのです。このような理由で、天が皆さんを探し求めて来られるとき、皆さんが神様のものとして神様の前に立つためには、サタン世界のいかなる言葉よりも強力な天が蒔かれた御言葉の所有者とならなければならないのです。


     15


神様は万物をお作りになるときも御言葉を通じてお作りになり、私たちを探し求める際にも御言葉を通して探してこられます。このようにして、皆さんが神様から出たと言うならば、神様が御言葉を蒔かれたのですから、皆さんにはその御言葉を収穫して、お父様のものとして探し出して差し上げる責任があります。


では、終末とは何でしょうか?御言葉を収穫し、一つの実体を持つべき時です。実体!御言葉を通して実体が形作られます。このようにして御言葉を通して形作られた実体を探し求められたのが神様の歴史であり、イエス・キリストがこの地上に来られた目的です。


神様は堕落した人間に実体を先に示すのではなく、まず御言葉を示されました。それは、逆の順序で探していかなければならないからです。失われた順序通りに探していかなければならないのです。


実体を望まれるとき、まず堕落した人間の胸にその御言葉の種を蒔き、その御言葉を基にして一つの生命体を成す実体を持つのです。このような実体が現れるならば、聖書に「神様がアダムとエバを創造され、その鼻に息を吹き込まれたので、人が生きた者となった。」(創世記2:7)とある聖書の言葉のように息を吹き込んでくださるでしょう。


このようにして実体が完成した後、神様が息を吹き込まれて、生きた霊になるのです。それでは、生きた霊とは何でしょうか?生きた霊とは、神様が私の父であることを感じることができる存在、神様と一体となった世界に入り、切り離そうとしても切り離せない、永遠不変の神様の実体対象であることを体感できる存在です。人間たちがそのような価値を感じることができる生きた霊として完成し、神様の前に現れることを望まれて、神様はこれまで歴史を進めてこられたのです。


     16


神様は私たち人間の心の土台に蒔かれた御言葉を通して何をされるのでしょうか?エデンの園で失われたアダムとエバの姿を再び形作られるでしょう。皆さんはこれを知るべきです。


従って、4千年の歴史が終わるとき、神様が人間の前に4千年間の御言葉に代わる御言葉の実体として送られた方は誰でしょうか?それはイエスです。それでは、この御言葉の実体として現れたイエスはこの地上で何をしなければならなかったのでしょうか?イエスには、旧約時代に蒔かれた御言葉を受け取った人間たちを導かなければならない責任がありました。旧約の律法を信じていたその時代の人々は、心の土台の上に御言葉に代わる存在を立てなければならず、イエスの身体を握りしめなければならず、イエスの心を握りしめなければならず、イエスの理念を握りしめなければならず、イエスの命とイエスの愛を握りしめなければならなかったのです。


4千年の間、預言者を送り、約束された御言葉に代わる実体、旧約の御言葉を通して証されたその御言葉の実体がこの地上にメシアとして現れたのがイエスです。しかし、数多くの御言葉を通して予言され、神様の無限の苦労を通して送られたイエス、全体の御言葉に代わることができる実体存在として、私たち人間が直接目で見ることができるように、耳で聞くことができるように、手で触れることができるように、握りしめることができるように送られたそのイエスはどこへ行ったのでしょうか!そのイエスはどこへ行ったのでしょうか!イエスはこの地上の人間のために来られましたが、神様が4千年間蒔かれた御言葉の完成実体として、旧約時代の人々の前に無形の神様として御言葉を語られなければならなかった神様の悲しい心情に代わる実体として来られ、実体を持つ実体の神様のように現れ、人間の前に実体の御言葉を与え、御言葉の目的である人間と一つになるためにイエスは来られたのですが、人間たちは実体のイエスを必要としないと言って送られたイエスを好き勝手に弄び、好き勝手に処分しました。だから今日、私たちは実体を失った人間になりました。


イエスがこの地上に来られたのは、天の御言葉、すなわち旧約の御言葉を収穫するためでした。この御言葉を収穫すると同時に、イスラエル民族がイエスを信じてその心の中にすべて取り込むようにされなければなりませんでした。逆の順序でしなければならなかったのです。しかし、人間たちは『4千年の旧約歴史!1600年前からモーセを通じて立てられた律法が神様の御言葉であるのに、イエスは何だ?この御言葉に従わない者は反逆者だ。』と言ってイエスを殺しました。これを私たちはしっかりと知るべきです。


御言葉は実体の前に従わなければならず、実体は神様の前に従わなければなりませんが、その実体であるイエスを人間が殺してしまったのです。実体であるイエスは神様と一体となり、4千年間の歴史的なすべての怨念の条件を清算しようとされました。それでは、歴史的な怨念の条件とは何でしょうか?それは、4千年間与えられた神様の御言葉に背いたことです。この怨念は、イスラエル民族がイエス一人を信じて一つになることで解消されるのですが、イスラエル民族は4千年の怨念の御言葉を掲げ、その実体を捕らえたのです。これがイスラエル民族が犯した罪なのです。


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だからこそ、イスラエル民族は世界を流離孤客として放浪し、奴隷の奴隷となって世界中の人々から踏みにじられ、迫害に迫害を受けなければならなかったのです。栄光の中の栄光の国を建設すべき民族が、苦痛と十字架の道を彷徨い、栄光の国を望みながら歩んでいるのです。それはなぜでしょうか?イエスを殺した罪のためです。この事実を今日、全世界のキリスト教徒たちは知らないのです。これまで私たちには神様の御言葉のようなものはあったかもしれませんが、神様の真の御言葉はありませんでした。


神様に代わり、この地上に実体的な御言葉を立てられるべきであったイエスが、旧約の御言葉のような約束の御言葉を残されたのが新約の御言葉です。だから、人間たちは新約の御言葉の中で実体を探して苦しんできました。しかし、この聖書を見ても、御言葉の中心が何であるかわからないのです。イエス様はこの地上に来られて「まだ、あなたたちに言うことが多くあるが、今はあなたたちがそれに耐えることができない。」(ヨハネ16:13)と言われ、御言葉を言い残して行かれました。人間が完成した実体、地上で完全な基盤を持った実体として生きることのできる生活的な御言葉はどこにあるでしょうか?ありません。聖書の中にもありません。ないのです。この御言葉を言い残して行かれたイエスであるために、再び来られなければならないという命題が残されたことをしっかりと知るべきです。信じられないならば、祈ってみてください。祈ってみると教えてくれます。


では、今日の終末とはどのような時でしょうか?御言葉の実体、御言葉の主人公と出会う時です。しかし、御言葉の実体と出会うためには、人々を救うために神様が6千年間、本当の人間の前に現れようとされたその御言葉、神様の御言葉の中心を通じることのできる御言葉を持ち、その御言葉と一体となる必要があります。そのような人だけが来られる主と関係を結ぶことができます。


イエスはこの地上に来られて、完全な御言葉を伝えるために来られましたが、完全な御言葉を現すことはできませんでした。しかし、聖霊を通じてその完全な御言葉を現すことを約束されたのです。だから、2千年間、努力された聖霊によって、私たちは終末にイエスが現そうとされた御言葉を知ることができるのです。そして、その御言葉を通じて、実体として現れる方を知ることができるのです。その時、私たちはその方を知り、その方を新郎として迎え、私たちは新婦として新郎新婦の相対的な関係を結ばなければなりません。


イエスが実体を持ってこの地上に来られ、人間たちを実体的な聖殿として完成させるための御言葉を言い残されなかったために、私たちがその御言葉に代わる価値的存在として、第2の実体聖殿として立つことができなければ、私たちの身体の中に神様が臨在することはできません。そのような存在が生きる場所が地上の天国です。聖書を抱えて泣いてみた人がいますか?旧約の完成実体として来られたイエスを殺したために、聖書にはそのイエスが完成して実体として現されるすべての御言葉が記録されていないのです。


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無形の神様が御言葉を通して人間に対されたのを実体で対するためにイエスを送られましたが、イエスが亡くなられたために旧約型の御言葉しか残されておらず、これが新約の御言葉です。今、私たちはイエスの御言葉を信じるのではなく、イエスの実体を信じるべきです。実体!今は実体信仰の時代です。


ペテロは12使徒の中でもイエスの御言葉を自由に聞くことができ、信じることのできる立場にありましたが、イエスを自分の心に正しく受け入れることのできる位置には進んでいませんでした。同じように、御言葉の実体を握りしめることのできない立場にあったため、マグダラのマリアが復活したイエスを抱きしめようとしましたが、抱きしめることを止めました。このようにして、実体を抱きしめることのできない人間になってしまったのです。このようになってしまったのが、私たち人間の第2の悲劇です。


第1の悲劇は、エデンの園でアダムを失ったことであり、第2の悲劇は、イエスを失ったこと、御言葉の完成実体を失ったことです。このような理由で、再び来られなければなりません。これを知れば限りなく泣くべきことです。この地上に生きている人間にとって悲しいならば、この上なく悲しいことはないでしょう。


天は恨みを晴らす日を望まれ、4千年間、涙の峠、悲しみの峠、腹痛せざるを得ない峠を越えてこられました。このような峠を越えながら、希望の実体としてイエス一人をこの地上に立てられましたが、イスラエル民族はそのイエスを死の場に送りました。


神様はイエスをイスラエル民族の前に、神様の命を代わり、約束された理念を代わるメシアとして送られました。それにより、イスラエル民族にメシアの後を追い、メシアを迎える準備をさせようとされましたが、メシアとして来られたイエスを抱きしめて泣かなければならない民族が、嘆き悲しまなければならないイスラエルはどこへ行ったのでしょうか?アダムを失ったその日から4千年間、神様をお迎えしてきたイスラエル民族はどこへ行ったのでしょうか?サタンの犠牲となったのです。このイスラエル民族は天の逆賊となりました。逆賊!


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今日、信じる人々は、イエスが十字架にかかって死ぬために来られたと信じています。それはイエスの降臨目的を知らずに言う言葉です。十字架の道理を信じるのではなく、復活の道理を信じるべきです。十字架はイスラエル民族がイエスの身体を弄んだ罪の条件で生じたものであることを知るべきです。この十字架を超えて復活された後、40日が経過した後、成し遂げられた聖霊降臨と共に復活されたイエスを信じるのが、キリスト教の正統な信仰です。これが正しいキリスト教の信仰です。しかし、キリスト教ではイエスが死ぬために来られたと言います。もし、死ぬために来られたのならば、4千年間、イスラエル民族が信じなければ打ちのめし、エジプトで過酷な労働を強いられ、涙を流しながら引き出されたでしょうか?また、バビロンで捕虜となったときにも、預言者を立てて切に諭されたでしょうか?4千年間の歴史がイエスを捕らえて殺すための歴史だったのでしょうか?もう一度考えてみる時が来ました。


このようなキリスト教徒たちが世界に広がっています。これらが天を裏切り、天を裏切ったイスラエル民族と同じ第2のイスラエル民族ではないと言い切れる人はいるでしょうか?この深刻な事実を、私たちは知るべきです。イエスは神様の御言葉を完成した実体として、天国の御言葉を教えてくださるべきでした。その御言葉はサタンが試すことのできないものです。その御言葉を信じて進む者には、サタンは試すことができません。今日、この地上でイエスを信じる信徒たちの中で、試練を受けなかった人がいましたか?いませんでした。誰もが試練を受けなければなりません。


私たちに必要なのは、サタンが億千万回試そうとしても試すことのできない御言葉です。しかし、イエスがサタンに侵されながら残して行かれた御言葉を持って信じて進んでいるので、その信徒たちにサタンが攻撃してくるのです。それでは、実体を持ち、サタンの試練を乗り越えることのできる時代はいつ来るのでしょうか?その時が再臨の日です。


私たちの身体にサタンが侵すことのできない御言葉の種を蒔いて、神様の御言葉として収穫しなければならず、私たちの身体に御言葉を通じた実体を蒔いて、神様の実体として収穫しなければなりません。そして、神様が喜びに満ちて抱きしめ、愛されることのできる、霊と肉が一つとなった完成実体とならなければなりません。そのような存在が、キリスト教で言う最終的な新郎新婦となることのできる存在です。


終末である今日には、聖霊の働きがあります。このため、私たちの中で聖霊が100%働くことができるように促すことのできる信徒が現れなければなりません。何を言っているかわかりますか?それでは、聖霊が今日、私たちのために働かれるその理念の基準は何でしょうか?聖霊を前に置いて問いかけるべきです。これが終末の私たち信徒がしなければならないことの一つです。


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イエス様が来られてから聖書は66巻になりました。新約聖書には4つの福音書以外にもいくつかの巻がありますが、イエス様が地上に来られた後、最後に収録された黙示録があります。その御言葉は、イエスがこの地上に来られて話したかった御言葉ですが、それを霊界で示されたのです。


聖霊がこの地上で行われる働きを終えるためには、イエスが亡くなられた後、聖霊を送られるときの御言葉の本意を完全に理解し、送られた実体の事情を理解して、その実体以上の位置まで超えて行ける一つの存在が現れなければなりません。このようにして、聖霊の働きは地上で収穫され、地上に聖霊の代わりとなる存在を立てて、聖霊の働きを継承させようとするのが神様の摂理の意図です。


だからこそ、神様の働きは神様に代わるイエスに移されましたし、イエスの働きは聖霊に移されました。今、聖霊の働きを今日信じる信徒たちに移そうとされているのです。それによって、三位一体が休むことができます。そのような位置に進む前には、神様が立てられた御言葉を見つけることができませんし、私たちの身体に御言葉を蒔いたとしても、その御言葉の目的を果たした自体にはなれません。


イエスは復活後、新婦になるべき立場にあったマグダラのマリアが抱きしめようとしたとき、近づいてはいけないとおっしゃるしかありませんでした。それは、マグダラのマリアが『おお、いいよ。』と言ってイエスが手を広げて抱きしめてあげることができる新婦の装いを持っていなかったからです。歴史的な怨念をすべて清算し、生きて完成の御言葉を語ることができる位置に立った新婦になって初めて、サタンが訴えることができません。また、そうであってこそ、摂理が終わるのです。


イエスが来られてから2千年という長い歳月を待ちたかったのが神様の本来の心ではありませんし、イエス様の心もそう願っていたわけではありません。それでは、どうして2千年という長い歳月を待たせることになったのでしょうか?数多くの困難をすべて乗り越えた後、『神様の6千年の歴史の内容はこのようなものでした。』と言える実体、すなわち神様に代わる完成実体としてサタンが反論できない御言葉を語ることができる者が一人も現れなかったために、2千年間待たざるを得なかったのです。このようにして、2千年という長い歳月の間、摂理が延長されたことを、私たちは知るべきです。これが神様の悲しみであり、イエス様の悲しみです。


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終末において、私たちがイエスの御言葉を通じて、イエス様の実体を握りしめて進むとき、何をしなければならないのでしょうか?私たちはサタンが侵すことのできない働きをしなければならず、サタンが侵すことのできない御言葉を語らなければなりません。それでは、その御言葉とはどのような御言葉でしょうか?イエスの身体を握りしめた後に、イエスの心と愛を私たちの心に移し受けることのできる御言葉です。イエス様の御言葉を通じて、実体として現れる方を知り、イエス様の心情を通じて心の基盤を持った後に初めて、約束された神様の愛が人類に与えられるのです。これが復帰です。


堕落せず、御言葉を完成した実体として立ったならば、アダムに神様が臨在され、アダムは神様の実体、御言葉の化身となったでしょう。すなわち、アダムの身体の中に神様が臨在され、アダムの心は神様の心として、アダムの心情は神様の心情として、アダムが感じる感情も神様の感情として現れることができたでしょう。これが創造の目的でした。皆さん、しっかりと知るべきです。


今日、キリスト教で信じられているように、神様は尊厳な方であり、私たちと関係を持つことのできない方なのでしょうか?違います。聖書ははっきりと語っています。「私がお父様の中に、お父様が私の中に、私があなたたちの中にいることを、あなたたちは知るであろう。」(ヨハネ14:20)と。


私たちは何を信じるべきでしょうか?イエスの表面的な部分だけを信じるのでしょうか?違います。私たちはイエスを御言葉の実体として、神様の心情の実体として、神様の心の実体として信じるべきです。そうして、神様の心情と神様の理念、そして神様の命と神様の愛を私たちの身体に移し受け、天が動くなら共に動き、天が止まるなら共に止まることのできる人間にならなければなりません。このように生活の面で天と動き、天と止まることのできる、天と切り離すことのできない関係を結ぶ人間を作り上げようとするのが、創造の目的でした。


今日、神様を信じている人々のように『おお!神様!』といったそのような観念的な信仰を持つ時は過ぎ去りました。そのような神様は、今日発展するこの社会に何の価値も与えてくれません。そのような神様は必要ありません。


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今、終末に神様を信じ、神様を求めて進んでいる真の神様の息子娘がいるならば、その人たちは神様を生活の中心に据えることができなければなりません。そのような神様を人間が求めるその時に、神様はため息をつかれるでしょう。その時、神様がため息をつかれ、相談できる人間は、億千万のサタンがいたとしても侵すことができません。なぜなら、神様の愛を中心に据え、神様の心情を通じ、神様の心を通じ、神様の御言葉を通じた人、神様の事情を抱きしめて愛する者を奪い去ることのできる存在はないからです。いません。いません。


イエスがこの地上に来られましたが、神様がイエスを握りしめて、『あなたは私の永遠の息子であり、サタンを根本的に屈服させた私の真の息子だ。』とおっしゃって、一度も愛されたことがありません。神様がイエスを握りしめて愛されなかったことを知るべきです。イエスが霊肉を通して神様の完全な愛を受けて行かれたならば、楽園に行って祈る必要はなかったでしょう。それでは、イエスの怨念は何でしょうか?新郎新婦の関係を築けずに行かれたことです。


神様の御言葉を通じることのできる個体として神様の愛を受け、霊肉を一つにした実体として、サタンが到底訴えることのできない勝利の御言葉を神様に代わって現すことのできる位置に立たれたならば、その時代にイエスがそのような御言葉を立てて行かれたならば、イエスを信じるキリスト教徒たちにサタンはびくともしないで屈服したでしょう。


しかし、イエスが亡くなられたことで、この地上で実体として締めくくられるべき創造理念を締めくくることができなかったのです。それによって、イエスは霊界に行かれて霊的な働きをされています。イエスが聖霊を通して霊的に活動されますが、肉の働きが残っています。このため、イエスは肉を探し求めなければなりません。これがイエス様の事情です。


イエスの肉を打ったサタンには、今日この地上にいる人類の肉を握りしめて対抗する条件が残っています。私たちはこれを知り、その条件に堂々と反対して進まなければなりません。


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聖霊も私たちを探す際、私たちの肉体がなければなりません。身体がなければなりません。


身体とは何でしょうか?それは、神様が宿ることのできる聖殿です。神様が私たちの身体を聖殿として造られたために、イエスも聖殿を通じなければならず、聖霊も聖殿を通じてこそ救い摂理を行うことができるのです。救いとは何でしょうか?それは、善を繁殖することです。善の息子娘を繁殖するのです。霊肉の実体を通じずに繁殖する存在が地上にどこにいるでしょうか?そのような被造物はありません。


だからこそ、神様もイエスを地上に立てて、堕落後4千年間積み重なってきた歴史的な悲しみを清算しようとされました。このようにして、イエスは神様の御言葉を成就する代わりの存在であり、神様が臨在されることのできる創造本来の第2のアダム的な存在として来られた方であり、神様の心情と事情と願いを持って来られた方であり、神様の理念と生命力と愛を持って現れた方でした。これをしっかりと知るべきです。人間が堕落した後、神様の悲しみは何でしょうか?それは、御言葉を自由に語ることができる人を失ったことであり、その次には命を繁殖させることができる実体を失ったことです。


神様が宿ることのできる天の血統を持つ民族はどこへ行ったのでしょうか!だからこそ、生命の中心としておられる神様が御言葉の相対者を探しておられ、御言葉に代わることのできる生命体を持つ神様の血族を探しておられることを知るべきです。その次には、神様の理念を探しておられます。そして、その後に初めて愛が授けられるのです。これが復帰摂理を進められる神様の意志であり、創造理想であることを私たちは知るべきです。初めて聞く方は、この内容をよく理解できないかもしれません。


それでは、終末とはどのような時代でしょうか?神様の御言葉に代わることのできる一つの存在がこの地上にいないために、人類は東西南北に分裂し、数多くの困難な道を経ながら御言葉の実体を探し求めなければなりませんでした。そのために、物質を奪おうとする戦争時代を経て、思想戦争時代を迎えました。今、この思想戦争時代を経ると、良心戦争時代が来るでしょうが、これから来るその時代を宗教戦争時代と呼ぶことでしょう。


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そのような時代を過ぎた後には、どのような時代が来るべきでしょうか?心情と愛の戦争時代が来るべきです。サタンの愛が大きいか、神様の愛が大きいかという時代が来るべきです。これが堕落した人類が歩むべき運命の道です。行きたくても行かざるを得ない必然的な道であることを知るべきです。


それでは、今の時は何をすべき時でしょうか?思想界に代わる精神界を形成すべき時です。そして、これからは心の主義が出なければなりません。もし心の主義が現れるならば、皆さんの心はその理念に引き寄せられるのです。このようにして、心の主義が現れ、基盤を築くならば天情が動き、人情が動いていきます。このようにして、その理念の範囲内で生きざるを得ない、そのような主義が出るべきだということです。


歴史は物質的、つまり最下層の次元から戦いを進めていくのです。だからこそ、6千年の縦の歴史は、物質から精神界、精神界から心の世界へと探し求めて進む歴史です。一方で、サタンの権限は上から下へと降りていく歴史を経て進んでいます。最上位と主張していた上流階級から中流階級、下流階級へと降りていきます。しかし、このようなものはサタンの支配下にあるため、すべて消え去ってしまいます。歴史の発展過程も、物質を中心にした戦争、つまり第1次世界大戦と第2次世界大戦を経て思想戦争時代に入ります。しかし、このようなものもすべて過ぎ去ります。その次には、心の戦争時代が来て、心の主義時代が来ます。


これまでの歴史の道程において、上流階級も世界を支配してみましたし、中流階級も世界を支配してみました。今度は下流階級が世界を支配するでしょう。また、歴史の発展過程を見ると、人類は物質を中心に戦ってきた時代を経てきました。今は精神を中心に戦う時代です。これからは、良心を中心に戦う時代が来ます。この良心を中心に動くのが宗教です。


だからこそ、宗教が戦う時がやがて来ます。これから天を中心にした心、その天的な心を中心にした真理、心を通じ、情を通じ、全天地と情を分かち合い、『神様と私は一つだ。』と結論づけることのできる真理を持つ宗教が出るべきです。そのような時代が来るでしょう。それがそうなるかどうか、見ていてください。


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宗教家たちは昔から物質を探し求めず、物質を放棄してきました。この人たちは最も愚かに見えますが、最も賢い人たちです。宗教は歴史的な戦争の条件から脱出できる基盤を築いてきました。イエスを信じて行った人たちは、戦いの歴史を経た人たちが行く地獄を免れることのできる最も安全な基盤を築いてきた宗教を信じたのです。


今日、自分を主張して歩き回る青年男女たちが『おお!宗教!』と笑っているが、そのような時は過ぎ去ります。見ていてください。そのような時代遅れの思想を持っていると、これから共産党に打ちのめされます。『ああ!私は知らなかった!』という時が来ます。天地の運勢はこのような過程を経て越えていくのです。


今、残された最後の主義はどのような主義でしょうか?『良心的な人々を皆動員せよ。』というスローガンを叫びながら出てくる主義です。このような主義は、人類が望む御言葉に代わり、御言葉を通じて実体に代わり、実体を通じて情に代わることのできる主義です。このような内容を備えて、『良心的な人々を動員せよ。』という時が来ることを、皆さんが知らなかったならば、期待していてください。


これまでの歴史の道程で、良心的な道義生活をした人々が一度世界を揺さぶったことがありましたか?イエスも『貧しい者に福音が伝えられる。』という御言葉を言われましたが、道義生活をした人々が世界を揺さぶったことはまだありませんでした。


心の世界だけが全宇宙を支配することができます。物質世界と精神世界には障壁が多いです。精神世界には主義が四方性を持っています。一つの統一的な中心を持つことのできる基盤は、どこから始まるのでしょうか?それは精神から始まるのではなく、歴史の道程を共通して動かしていく心の土台から始まることを知るべきです。皆さん、これを考えてみましたか?精神も区別された位置に立つことはできますが、変わらない一つの基準は心の主義です。


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私たちは真の宗教を探してさまよい続けてきました。6千年間、さまよい続けてきました。今、私たちは神様の前に心を開き、歴史の発展道程の動きと歩んできた摂理の道程の悲しい困難を知り、『今、神様が臨在されることのできる本来の心が懐かしいです。』と言いながら、終わりなき涙を流すことのできる主人公にならなければなりません。


天はそのような存在を探してさまよい続けられました。今日もさまよっておられます。明日も探し求め続けられるでしょう。これを皆さんは知るべきです。このような理由で、神様は数多くの民族を率いられ、彼らに善を指向させ、良心を正すために宗教という言葉を頼りにして、その宗教の道理を足がかりにして世界を動かし続けておられます。


だからこそ、宗教の理念は昔も今も、平面の直線上を歩んでいます。歴史は困難な道を進もうと進むまいと、思想主義はどのような困難、どのような戦いの道を経ようと経まいと、どのような犠牲と困難に直面しようとも、心的世界の理念で立てられた宗教は平行線上を守り続けようとしています。しかし、これがいつまでも平行線上を歩んでいるだけではいけないということです。


今日、私たちが良心的な基準を探して進む道にも悪が対立しており、サタンが反論できる余地があります。だからこそ、私たちは私たちの心と天の心が一体となるその起点の上で、人情と天情が一体となり、私たちの理念と天的な理念が一体となるその起点の上で、私たちの命と天の命が一つとなり、私たちの愛と天的な愛が一つに絡み合うその起点で、天と縁を結ばなければなりません。天と私たちの心が一つになり、命が一つになり、理念が一つになり、愛が一つになった縁を何で断ち切ることができるでしょうか?堕落した人間同士が結んだ情の縁も断ち切ることができずに泣いて騒ぐのに、天情で絡み合って一つになるその縁を誰が断ち切ることができるでしょうか?


世の中にどんなに罪悪の力が強く、地の権力が強いとしても、この心の根本で結ばれた情的な流れの一つの基準を打ち砕くことのできるものは何もありません。そのような基準を見つけるまで、歴史はもがき苦しみ、人類は苦境の中で苦しむでしょうが、これを防ぐ勇者は地上にいるでしょうか?青年男女がいるならば、このような責任を担うために、このような使命の道を切り開くために、自分の身体を一つの爆弾として、一つの原子爆弾として用い、サタンの城を破壊しようという燃える爆発の心情を持つ勇者がいることを、私は待ち望んでいます。


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今日も行かなければならず、明日も行かなければならない嘆きと恨みの道、時を逃せば千秋万代の子孫たちまでもが行かなければならない悲しい道を誰が責任を持って阻んでくれるでしょうか?いるとすれば、それは天です。今日、私たちがこれを知ったのですから、私たちの時代にこの道を歩まなければなりません。


食べるものを食べられず、着るものを着られず、あらゆる困難と暴風が押し寄せたとしても、『これを私が責任を持って敵に対して戦おう。』と言える真の息子娘、そのような勇気を持った天の精兵たちが多く現れることを天は望んでおられます。これを皆さんは知るべきです。


このような人々が世界が求める人々であり、民族が求める人々であり、教団が求める人々です。人間が生きてみれば70~80年ですが、神様が人間のために6千年間苦しんできたことを知り、その神様の心情を知るならば、この地上の出来事が自分の望むように成し遂げられないとしても嘆くことはできないでしょう。


迫害があっても、神様が6千年間受けられた迫害に比べられるでしょうか?悲しみがあっても、神様が6千年間受けられた悲しみに比べられるでしょうか?追い詰められても、神様が6千年間受けられた悲しみに比べられるでしょうか?私たちは踏まれても弁解せず、追い詰められても弁解せずに進まなければなりません。無念さを味わい、迫害を受けても弁解せず、天の心情を慰めるために、『お父様!人間の祖先がこのような困難を引き起こした張本人でしたので、私たちの祖先に代わって今日、私を迫害させ、神様がこれまで苦労してこられた苦難の道程と歴史の道程をこの時間、天の心情と共に体験する歴史的な犠牲として立ててくださったことを感謝いたします。


お父様!私があなたの涙を代わりますので、どうか、涙をおさめてください。私があなたの悲しみを代わりますので、どうか、悲しみをおさめてください。私の無念さと憤りで、あなたの無念さと憤りを代わりますので、今、無念さと憤りをおさめてください。サタンに対する戦いと歴史以来今まで、あなたの心にかかっている雲をすべて取り除いてください。私を犠牲として清算してください。私がいるので、お父様、慰めをお受けください。』と言える天の勇者、青年男女が現れることを天は待ち望んでおられることを皆さんはしっかりと知るべきです。


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天のために進む道が死の道、迫害を受ける道、涙の道であるとしても、私たちは進まなければなりません。その道は私たちが泣く前に天が先に私たちのために泣かれた道であり、私たちが悲しみ、嘆く前に天が先に悲しみ、嘆かれた道です。このようにして、天が私たちのために6千年間苦労してこられたことを皆さんは知るべきです。


歴史の道程は心の主人公を探し求める道程です。今、この歴史はどこへ向かうのでしょうか?心の中心を見つけられない者、心の主人を見つけることのできる心的基準を持たない者は、天的な愛は夢にも見ない方が良いでしょう。このような観点から今日、信仰を持っているキリスト教信者たちを見ると、これとはあまりにもかけ離れた生活をしています。


天情を通じて進む道が骨髄の道です。人情を通じて進む道は外向きに流れる道です。このような姿勢で天を代表して立っているかのように振る舞うのは軽率な行動です。このような者たちが地上から一掃される日が終末の審判の日であることを皆さんはしっかりと知るべきです。


皆さんは迫害されている統一教会を訪れました。なぜここを訪れたのでしょうか?皆さんは命を渇望している者たちであり、心の乾きを感じている者たちであり、理念の欠乏を感じている者たちであり、命の飢えを感じている者たちです。このようにして追い詰められ、傷ついた身体を引きずってここに来ましたが、ここにはまた、傷ついた身体に加えられる鞭があります。皆さん、ごめんなさい。


しかし、傷ついた身体を引きずって来た私たちに、どんな困難があったとしても、それは天の困難に比べられません。これをイエスはあまりにもよく知っていたため、十字架の死の峠でも民族を救うために自分を送られたが、民族を失うことになった神様はどれほど悲しいだろうかと感じられました。このようにして神様の悲しい心情を知り、民族のために4千年間苦労された神様を心配する心に満ちていたために、彼自身をサタンに差し出しながら敵に向かって祝福を祈ることができる堂々とした心の余裕があったということです。これを皆さんが知るべきです。


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今日、このようなキリスト教信者がいますか?だからこそ、私たちは与えられた使命を分かち合って担わなければなりません。『神様よ!私たちに力をください。これを知ったので、力が尽きる日までこの目標に向かって走ります。走っていて力が尽きて倒れたら、また力をください。』と言って進まなければなりません。祈るとまた力が与えられます。今日も明日も、いや10年、20年、40年を走る覚悟を持って進まなければなりません。今、皆さんはこのような覚悟で神様の御言葉を探し求めなければなりません。


この地に聖殿を建てるために来られたイエスを裏切ったイスラエル民族は、イエス様と一つになれなかったために、聖殿の実体であるイエスを失い、2千年間、荒野をさまよう民族になってしまいました。これは、イスラエル60万人の群衆の前に天を代表して立てられたモーセを民族の指導者ではないと裏切ったのと同じことです。イスラエル民族がモーセを見捨てたことが、イエスを裏切ることのできる歴史的な条件となったのです。それと同じように、困難な歴史の場に戻って、終末に直面した今日の全世界の人類は、世界的なカナン復帰2千年の過程を経て、世界的なカナン復帰のための40年の道程を中心にして、第1次、第2次世界大戦を経て、今、第3次世界大戦が起こる危険の中で生きていますが、摂理の中心がどこにあるのか分からずに苦しんでいます。


どのような学説やどのような理論を基にして実践してみても解決策を見つけることができずに苦しんでおり、自分たちが主張する実証的な何かや生活的な倫理観も自分たちの実体的な永遠の基準だと自信を持つことのできる内容や心的基準を持っていないという事実を、私たちはあまりにもよく知っています。


だからこそ、宗教も苦しみ、倫理も苦しみ、哲学も苦しみ、どのような主義もすべて苦しんでいます。科学者たちまでもが苦しんでいます。この時が世界の終末時代、悲惨な荒野時代です。中心存在たちが中心を見つけられず、天倫を裏切ることができる時であり、持っていた中心までも失うことができる時です。


今日、この時代に私たちは世界カナン復帰を建設する過程で倒れたイスラエル民族とならずに、第2のイスラエルの理念を備え、モーセを裏切った民族を蹴り飛ばしてカナンの地を奪還しようと叫びながら進んでいったヨシュアとカレブのような人物たちとならなければなりません。このような人々を指して聖書は終末の二本のオリーブの木と言ったのです。


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このような時が終末に来るでしょう。その時、世界のキリスト教徒たちは、荒野でさまよい続けた60万人の群衆のように苦しむことになるでしょう。ここで、第2の選民的な理念を新たに認識し、新しい理念を備えて、これまでのすべての間違ったイスラエルの生活習慣を蹴り飛ばして『ヨシュアとカレブを中心にして進んでいこう、行進しよう!』と言える群れが現れなければなりません。


だからこそ、終末に直面している今日のキリスト教信者たちは、新しいカナン復帰を目指して進まなければなりません。新しいカナン復帰に行くことのできる思想観念で武装しなければならない緊迫した立場に置かれています。そして、この理念の楽園を阻んでいる敵たちに一撃を加えることのできる心情的な武装をした勇士たちにならなければなりません。しかし、今まで漠然と荒野をさまよい続けています。


ヨルダン川を渡ってヨシュアとカレブの後に続いて新しいカナン復帰を探し求めて進んだ2世たちのように、モーセがファラオの宮廷で残忍な悪手を蹴り飛ばして出てきた以上の決意を持って、過去の民族が持って倒れたすべての歴史的な観念を一掃してしまわなければなりません。『そのような観念を一掃して進もう』と叫ぶ声が地上に響き渡ると、信徒たちは耳を傾けてしっかりと聞かなければならないでしょう。


今、終末に直面している私たち信徒たちは、天に向かって歴史的な祈りを捧げなければなりません。どのような祈りでしょうか?モーセがシナイ山で石板を受け取るために捧げた祈り以上の祈り、アブラハムがモリヤ山で捧げたイサクの燔祭の時の祈り以上の祈り、イエスがゲッセマネの園で命を賭けて捧げた祈り以上の祈り、十字架を背負ってゴルゴタを目指して神様の心情を探して一歩一歩進みながら心で捧げた祈り以上の祈りです。


このような祈りをしようとする心情に満ちて天と地を抱きしめて涙を流す群れはどこにいるでしょうか? 探さなければならない時が来たことを皆さんは知るべきです。


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御言葉選集5(5)

2024年08月24日 16時58分42秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 5 - 5. 勝利の国を復帰しよう(1959年1月4日)


1959年1月4日(日)、全本部教会。


創世記 1:27-28、創世記 2:15-17、使徒行伝 1:1-9




<祈祷>


愛するお父様、新しい年にこの日を私たちにお許しくださったことを感謝します。この初めの時間にお父様の前に出て、恥じることのない真の崇拝の時を持つことができるように許してください。そして、お父様が喜ばれるこの時間となりますように。


私たちがお父様の前に非常に不忠であったことをお許しください。そして、摂理の目的の前に私たちのすべてを捨て、お父様が望まれる祭壇のために忠誠を尽くすことができるように許してくださいと切に願います。


この時間、お父様が親しく導いてくださいますように。今、私たちの体と心をお父様に捧げたいと願いますので、受け取ってくださり、親しく運行して、お父様が命じられる言葉と内容をお与えくださいと切に願います。


おお父様、今まで私たちが摂理のために戦い続けてきたすべてのことが、この一年においては勝利に結びつかなければなりませんので、全身全霊を捧げ、お父様が喜ばれる実績を示すことができるように許してください。


今、お父様が許されたあなたの息子娘たちが喜ぶことができる恵みをお与えください。選ばれたあなたの息子娘たちに親しく勝利の証をお残しくださるように切に願います。


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この時間も孤独な家族が地方に広がって、お父様の前に崇拝する場所に、愛と恵みの手を差し伸べ、慈悲の恵みをお与えください。


お父様の全体の目的の前に忠誠を尽くすことができるあなたの息子娘たちとなるように許してくださいと切に願います。この地上であなたの名を使う場所に、愛の手を差し伸べ、慈悲の恵みをお与えくださいと切に願いながら、この一日をすべて任せて導いてください。主の名によってお祈りします。アーメン。




<御言葉>


今日、皆さんにお話ししたい内容は「勝利の国を回復しよう」、イスラエルの国を回復しようということです。イスラエルという言葉の意味は「勝利」を意味しますので、「勝利の国を回復しよう」という意味のタイトルで、しばらくの間お話しします。


創世記の言葉の中で、神が人を創り、祝福されたという内容があります。しかし、その祝福は成就した祝福ではなく、約束の祝福でした。ですから、アダムとエバは大きな希望を抱き、万物を支配することができる日を心に憧れながら生きていました。


そのような状況の中で、神はアダムとエバに善悪を知る木の実を食べてはならないと命じました。「その木から取って食べると、必ず死ぬ」(創世記 2:17)と言われました。従って、アダムとエバは神が祝福された希望を心に抱き、命令を守る必要がありました。命令に従うことで、アダムとエバは神の目的を果たし、真の家庭を築くことができる一男一女としての出発ができました。これが原則です。


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そのため、人間は必ず希望を持つ者でなければなりません。そして、私たちが希望を持ち、永遠の関係を築くためには、信仰の過程を経なければなりません。この希望が実現し、信仰が成就する日に、私たちは神の愛を受けることができます。これが原則です。従って、パウロもコリント第一の手紙13章で、「信仰、希望、愛、この三つは常に存在するが、その中で最も重要なのは愛である」と述べています。


しかし、人間は堕落によって希望を失い、信仰を失いました。希望と信仰を失うことで、神を中心とした愛を失いました。これを回復するためのものが、今までの6千年の回復摂理の歴史であることを、私たちは知っておかなければなりません。


アダムやエバに代わって、神が被造物の前に与えられた祝福を希望として受け、その希望を自分のものにするために、神が命じたことを守り、実行しなければなりません。それをしなければならない立場にあるのです。


神を中心とした希望と信仰を持ち、実践生活において勝利を収めるとき、初めて私たちは神の愛を受けることができる個人回復の基準を立てることができます。どのような個人や家庭、教会、そしてすべての被造物までも、このような権利の中にあるということを、私たちは理解しなければなりません。


神はこのような理念を持って被造世界を創造されましたが、堕落によってこれらを失ったため、今まで人間は希望を求め、信仰を求め、愛を求めてきました。


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従って、私たちが歴史を振り返るとき、旧約時代は希望を求めて実践してきた時代であり、新約時代は信仰を求めて実践してきた時代です。従って、これからの聖約時代は、愛を求めて実践していく時であることを、皆さんは理解しなければなりません。


希望を求める摂理の時代であった旧約時代には、割礼を通じて選民としての条件を立ててきました。新約時代には、水の洗礼と火(聖霊)の洗礼を通じて、神の前で信仰を立ててきました。そして聖約時代においては、神の愛の印を受けることで、神との愛の縁を結ぶことができるということを、皆さんは知っておかなければなりません。


それでは、今までの6千年の歴史は何をするための歴史だったのか?それは、人間が堕落によって失った希望と信仰と愛を回復するための歴史でした。今まで神はそれを回復するために努力してこられたのです。ところが、今日の私たちは、まだ信仰の時期にとどまっているのです。


それでは、希望は何を象徴していたのでしょうか?それは、神の新しい言葉を象徴していました。そして、信仰は何を象徴していたのでしょうか?それは、神の真の息子娘になるためのものでした。真の息子娘を見つけるために、信仰が象徴されてきたのです。そして、これからは神の愛を中心に、自分の存在が完成した後に家庭を見つけることで、初めて神の愛が成立することを、皆さんは知っておかなければなりません。


神は今までの6千年間、回復摂理の歴史を進めてこられましたが、人間の前に希望の神、信仰の神となることはできても、まだ愛の神になることはできていませんでした。それでは、私たちが今するべきことは何でしょうか?希望の神、信仰の神を土台にして、愛の神を迎えることができる生活環境を築かなければなりません。このような環境を打破しなければならない重要な時が、まさにこの時です。


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今までの信仰生活は、自分一人を見つけるためのものでした。失われたアダムとエバと同じ立場で、原罪のない本来の存在を見つけるためのものでした。では、神が最後に望むものは何でしょうか?まず、神の愛を中心に、個々の存在が結ばれた一つの家庭を見つけることです。さらに、神が愛することができるその家庭を中心に、その家族が増え、民族と世界を見つけることを望んでおられます。これが神の全体的な意図です。


それゆえに、今日の私たちは、私たち自身の希望の時、または信仰の時が過ぎる前に、希望と信仰を見つけて立てなければなりません。私たち一人一人が、6千年間神が摂理された全体を結実した姿、つまり完全なアダムとエバの一つの姿を持つべきです。そして、神の愛を中心に新しい家庭を形成しなければならないということを、皆さんは理解しなければなりません。


イエス様も天国を約束してこの地上に来られましたが、その目的を全て果たすことができませんでした。過去に来た多くの預言者たちも、天を証ししましたが、その目的を果たすことができませんでした。従って、全ての歴史的な希望と信仰を持って天国、つまり勝利の楽園を見つけなければならない今日の私たちです。それでは、今日、皆さんがすべきことは何でしょうか?天が喜ぶ個々の存在を見つけ、天が喜ぶ家庭を築くことです。しかし、その家庭を見つけるには、真の父母を見つけなければなりません。そして、真の夫婦、真の兄弟を見つけなければなりません。


これを見つけるためのものが、神の摂理の歴史です。従って、希望を象徴した時代は旧約時代であり、信仰を象徴した時代は新約時代です。そして、これから愛を象徴する時代が来ますが、その時代を聖約時代と言います。こうして、そのような縁が天から地上世界まで広がっています。


従って、イエスが来る前の旧約時代に生きた多くの人々は、神の前で希望の存在でした。そして、イエスの時代の新約時代の人々は、神の前で信仰を立てることができる対象でした。しかし、これからの聖約時代においては、希望の存在を代わりにでき、信仰の存在を代わりにできる段階を超えて、愛することができる存在を見つけようとしています。これが神が6千年間摂理してきた全体の意図であることを、皆さんは知っておくべきです。


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それでは、今日の私たちは神の愛を受ける必要がありますが、過去の希望の時代に受けたそのような愛は私たちに必要ありません。また、信仰の時代に受けた神の愛も必要ありません。


私たちは、今すべての恨みの歴史を超えて、あなたを愛するという神の直接的な祝福を受けなければなりません。こうして皆さんが天と地に結ばれた恨みを晴らして差し上げることで、イエスと皆さんが新郎新婦の縁を結ぶことができ、愛の条件を通じて神の愛を受けることができます。これが今までの回復摂理の全体的な意図です。


このようにして、神の愛を受けることができる一つの存在になれば、その人は旧約時代を代わりにし、新約時代を代わりにし、聖約時代を代わりにすることになります。従って、皆さんは今まで霊界にいる楽園の霊人たちや、現在地上に生きているキリスト教徒たち、または再臨時代に再臨主を迎え、直接的な神の愛の権内で生きることができる人々と一つの目的を達成しなければなりません。


皆さんは過去の信仰指向的であり、希望指向的な信仰圏内にいた人々、つまり旧約時代から新約時代までを通過した多くの霊人たちは、終末に聖約時代の人を通じてでなければ、神の前に立つこともできず、神の愛を受けることもできないことをよく知っています。


従って、私たち自身は、今や天と地のすべてに対して戦って勝利できる勝利者の姿を持っていなければなりません。この天の全体摂理を見たとき、今まで天上の楽園にいる霊人たちは、希望のイスラエルであり、現在地上にいるキリスト教徒たちは、信仰のイスラエルです。これからはまた新しいイスラエルの世界が来なければなりませんが、そのイスラエルは何かといえば、それは愛のイスラエルです。


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従って、今日の皆さんは神の愛を受けるイスラエルとなるべきです。そして、愛を受けた証を持つイスラエルとなるべきです。そうすれば、過去の希望時代と信仰時代を経たという一つの条件を完結させ、お父様の前に堂々と立つことができるようになります。これを皆さんは理解しなければなりません。


これを指して、私たちはイエス以前の時代の聖徒たちを第一イスラエルと呼び、イエスが来てから現在までイエスを信じている聖徒たちを第二イスラエルと呼び、これから再臨時代に再臨主を迎えて直接的な神の愛の権内で生きることができる人々を第三イスラエルと呼んでいます。


そのため、終末においてこの第三イスラエルの立場に入る人々は、歴史の中で初めて現れる者たちです。また、神の心情を代わりにして、愛という名を掲げて直接関わることができる、創世以来初めて現れた者たちです。従って、このような者が現れなければ、天の希望の摂理も信仰の摂理も全て崩れるということです。従って、終末に置かれている今日の私たちの使命がどれほど重要であるかを再び感じなければなりません。


この地を見れば、この地には第二イスラエルが生きています。そして、霊界には第一イスラエルが生きています。しかし、まだ神が統率できる第三イスラエルが形成されていないのです。さらに、部族の編成から教会の編成、あるいは家庭の編成もされていないのです。


それでは、神がこの地上でしようとしていることは何か?神はヤコブ、モーセ、イエスの時代から12兄弟、12長老、12使徒のような天的な数を探してこられました。このように、天の全ての原則の数を見つけ、それによって天上や地上にいる全ての人々を一つの階級に結び付け、一つに統合することです。これが天の摂理の目的です。このようになると、天国の門が開かれます。しかし、天国の門は天国だけで開かれるのではありません。地上でも開いて広げなければならないのです。


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これまで一つの地域的な限界内にあったその天国の門が、イエスを信じて進んでいく聖徒たちが増えることによって、次第に広がっていったことを私たちは知っておくべきです。これが神の望みです。そのため、皆さんは終末において、サタンとの戦いで勝利し、復帰の目的を立てて、天国の門を通じた存在でなければなりません。


今日の皆さん自身がどの部族に属しているかが問題です。今日、全世界にキリスト教の教派がいくら多くても、その教派は12使徒を代表する何か一つの部族に属さなければなりません。しかし、天が地上を統率し、動かし、命令することができるこのような部族編成はまだできていません。このような地を天は今も心配しています。モーセ時代の12部族はヤコブ時代の12兄弟に代わるものでした。


アブラハムからモーセの時代まで選ばれた民として立てられたこの群れは、ヤコブの家庭を中心とした回復時代の部族に代わる民族回復型の群れでした。従って、その12部族を中心にして、400年間繁殖した子孫は、すべての部族権内に入らなければなりません。そして、モーセの部族権内に入った民は、世界を代表して回復の使命を担ったイエスの12弟子を中心とした部族権内に入らなければならなかったのです。モーセを通じてイエスの時代まで形成されたイスラエル民族は、イエスの12弟子を中心とした部族に編成されなければならなかったのです。このような回復的使命が残されていたことを私たちは知っています。


それでは、当時イエスが来て死なずに目的を果たしていたならば、旧約時代の霊人たちが第二イスラエルとなり、イエスを信じて天の真の愛を受けることができる群れが現れることで、彼らが第三イスラエルとなるべきでした。しかし、この目的が果たされなかったために、第二イスラエルに対する目的はそのまま残りました。また、第二イスラエルに対する目的が果たされなかったために、これが延長されて、2000年が過ぎた今までキリスト教信者がイエスの時代に生きていた選ばれた民が担うべき使命を補完してきたということです。このように、イエスが12使徒を中心にこの地上でイスラエルを統率できる部族編成を行わなかったことが、神の悲しみ、イエスの悲しみ、聖霊の悲しみであったことを私たちは知っておかなければなりません。


それでは、今日の私たちはイエスの目的を成就させ、神の目的を成就させるためには、まず何をすべきでしょうか?それは、天がこの地上に全世界を代表して立てることができる一つの部族を編成しなければならないということです。


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部族を編成するには、ヤコブの12人の息子、モーセの12長老、イエスの12使徒が出てきます。しかし、ヤコブと12人の息子の関係は親子の関係でした。従って、モーセと12長老の関係も親子の関係でなければならなかったが、親子の関係を築くことができませんでした。イエスと使徒たちも親子の関係であるべきでしたが、それができませんでした。これが今日まで回復摂理の過程において一つの悲しみの条件が残された理由であったことを、私たちは知っておかなければなりません。


ヤコブと12人の息子たちは親子の関係にありましたが、モーセと12長老、イエスと12弟子たちは親子関係を結ぶことができませんでした。もし、イスラエル民族がモーセを自分たちの民族の父として迎え、自分たちの民族を天の勝利した民族として立てることができる存在として、天が立てた民族的な父として知り、親子関係を結んでカナンの地へ出発していたならば、イスラエル民族がモーセを裏切ることはなかったはずです。


しかし、モーセと12部族が親子関係を結ぶことができなかったために、モーセが悲しんでも、その民族は悲しむことを知りませんでした。このように互いに関係が途切れ、ここで神が愛を通じて回復しようとした全体の目的にひびが入り、選ばれたイスラエル60万人の民は荒野で倒れることになりました。


その後、イスラエル民族はヨシュアとカレブを中心にカナンの地に入りました。そして彼らがイエスが来るまで持っていた願いは、一人の主を迎えることでした。それでは、なぜイエスを立てなければならなかったのか?それは、モーセを民族的な父として迎えることができなかったために、イスラエル民族はこれから来る世界的な父を迎えなければならない一つの時期を迎えたのです。すなわち、真の父として来られるメシアを待ちながら、イスラエル民族は準備を進めてきたのです。ですから、この地上にメシアが誕生した後、イスラエル民族が天の目的を受けて12使徒と共にイエスと親子の関係を結んでいれば、イエスと別れることはできず、使徒たちも互いに別れることはなかったはずです。イスラエル民族がイエスと神の愛を受ける親子の関係を結ぶことができなかったことが、今日の歴史的な悲しみとなったことを私たちは知っておかなければなりません。


従って、この時期において私たちは天が望み、探している12部族の部族長のような代表者を再び立て、主の愛を中心に親子の縁を結ばなければなりません。そうでなければ、歴史の過程で神の摂理の目的を完結することはできません。これを皆さんが知っておかなければなりません。


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しかし、今日まで回復の過程を歩んできた私たち人間がヤコブ、モーセ、イエスの時代までの4000年間、神の意志を裏切ったために、すべてを失った立場に立ってしまいました。アダムからイエスまでの4000年間、神の意志を全て崩したのと同じ立場に立っているのです。ですから、私たちは民族が倒した罪を再び責任を持ち、イエスが来てから2000年間、努力してきたすべてのことまで責任を持たなければなりません。このような責任を負い、新しい部族を編成してイエスと親子の関係に縁を結ぶことを望んでいるのが、今日の私たちキリスト教徒の立場です。ですから、皆さんは先祖たちが成し遂げられなかったことをすべて遺業として、部族を逆に編成して進んでいくことを目指しながら進んでいかなければならない立場に置かれています。


それでは、部族を編成するにはどうすればよいでしょうか?イスラエル民族になるためには、アブラハムの時代には割礼を受けなければならず、イエス様の時代には洗礼を受けなければなりませんでした。しかし、これからはイエス様の印と父の印を受けなければならないことを、皆さんは知っておかなければなりません。これが私たちが新しい部族を編成して進む際に重要な問題です。イエス様の印を受け、父の印を受けなければなりません。これを成すために神は今までの6000年間、摂理してこられました。希望の旧約時代と信仰の新約時代を経て、愛の聖約時代に進むには、神が私たちを抱きしめ、愛することができる立場を築かなければなりません。


今日の皆さんはこのような過程にあります。従って、皆さんが個人的に完成された聖別された存在となった後には、天が成し遂げようとされた本来のアダム家庭を探しに行かなければなりません。そして、アダムの兄弟となるべきです。


こうして、父母を失った人間たちは兄弟同士で合わさって父母を回復する歴史的過程を経てきました。アダム家庭からノア家庭、ヤコブ家庭を経て見つけてこなければならなかったのです。従って、そのような個人が父の認めを受けた後には、兄弟を探すべき時が来ます。兄弟とは、私の兄弟だけではありません。その兄弟はアダムからヤコブに至るまで、すなわち2000年間、神の摂理を完了させる基準を作り、天の家庭を代表する父母が出た後に初めて12人の兄弟を持ちます。これと同様に、今日の私たちも回復摂理の過程において、自分自身が父の前に認められた後に、アダム家庭の3数を経てノア家庭の3数を経てヤコブ家庭の3数を経て、次にヤコブ家庭の12数を経て進んでいかなければなりません。そして、これを経た後には70数を経て進んでいかなければならず、その次には門徒型の120数を経て進んでいかなければならない立場にあることを皆さんは知っておくべきです。


真の兄弟を見つけた後に真の父母を見つけることができます。父母を見つけた後に兄弟を見つけるのではなく、兄弟を見つけた後に父母を見つけることができるのです。今日この基準を考えると、多くの人が逆の生活をしています。従って、真の父母を見つけようとする人がいるならば、その人は兄弟を通じてでなければ父母を迎えることができないことを知っておくべきです。


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今、神が最も心配しているのは、天を代表する真の父母がいないことではなく、真の兄弟がいないことです。これを皆さんは知っておくべきです。このような摂理的な意図を担うべきだったイエス様は、弟子たちを真の兄弟の立場に立たせるために、3人の弟子を選び、12人の弟子を選びました。しかし、3人の弟子が一つになれず、12人の弟子が一つになれなかったために、真の父母を回復できる道が閉ざされたこの悲しい事実を私たちは知っておくべきです。


そして今、私たちは真の子女の立場を経て、真の父母の門を経た後に初めて、6000年間摂理の希望として残された天の愛を受けることができることを知っておくべきです。この時が必ず来ます。従って、皆さんは自分自身において兄弟との争いに勝利しなければなりません。そうして、天の前で私は新婦であり、イエス様は新郎、すなわち新郎であるイエス様はアベルであり、私たちはカインとして、アベルであるイエス様と一つになるべきです。


それでは、イエスと一つになるにはどうすればよいでしょうか?新婦一人で行っても、新郎であるイエス様を迎えることはできないことを知っておかなければなりません。新婦自身だけが行っても、新郎であるイエス様に会うことはできません。兄弟と一つになって進んでこそ会うことができるのです。さらにイエス様は新郎の名を持って来られますが、新郎の門を通った後には何を探すべきでしょうか?天の失われた家庭を探すべきです。それを見つけなければならない立場にあります。


今日、私たちが勝利の道を切り開き、神の真の愛を受けるために、まず何をすべきでしょうか?私の心と体において、私の心の罪を克服し、心が動くままに生活圏内で体を自由自在に完全に支配することができなければなりません。新郎であるイエスをアベルとして、私の体が新婦の立場で、あるいはカイン的な立場で彼と完全に一つになるべきです。しかし、それだけで事が終わるわけではありません。新郎であるイエス様と私が完全に一つになった後に、新郎であるイエス様が探すために努力していた3人の弟子たちを代わりにする存在を見つけるべきです。また、12人の弟子たちを代わりにする存在を見つけるべきです。


なぜイエス様は3人の弟子を探したのか?アダム家庭の3人の息子を代わりにする弟子を見つけ、真のアダムの立場に立たなければならなかったからです。イスラエル民族はどこから形成されたのか?ヤコブから形成されました。アダム家庭の3人の息子を代わりにする者を見つけた後に、ヤコブの時代に来て初めて勝利の条件を立てました。さらに、その3人の息子を基盤として、12人の弟子が一つになり、この地上で勝利の足場を築く必要がありました。しかし、3人の弟子と12人の弟子がすべて裏切り、イエス様は死なざるを得ませんでした。イエス様はこの地上で真の家庭を築くことを望んでいましたが、その目的を果たせずに去りました。従って、今日の私たちがイエス様の新婦の立場に立つには、イエス様がこの地上に残したいくつかの条件を見つけて進むことができるべきです。そうしなければ、新郎である主に会うことはできません。アダム家庭の3数を見つける過程が、今日の私たちの教会においては三位基台の編成です。従って、三位基台を中心にして一つにならない限り、天の前に立つことはできません。


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三位基台が一つになることによって、アダム家庭で失われたものを再び回復しようとする神の目的を果たすことができます。それで、これが2000年過ぎたヤコブの時代に来て、12人の兄弟を探し、摂理の目的を果たしてきたのです。これと同様に、3数を基盤として12人の弟子を探し、一つになった後に初めて、皆さんは父母を迎えることができ、さらに一つの部族を代わりにする種族権内に入ることができるのです。これを皆さんが知っておくべきです。


これがアダム家庭からヤコブの時代までの2000年の歴史を蕩減するための絶対的基準でした。従って、モーセもこの道を通らなければならず、イエス様もこの道を通らなければならなかったのです。


しかし、モーセは12部族が摂理の目的において何を意味する数であり、70長老が何を意味するのかを知りませんでした。しかし、イエス様はこの地上に来て、3人の弟子を選び、さらに12人の弟子を選び、この70人の門徒を立てて、歴史的な縁を結ぶことを知っていました。それで、このような摂理を行いました。イエス様はこの基盤を整えて、必ず民族の足場の上に立たなければなりませんでした。


しかし、この民族的な足場を築く責任は、イエス様が担うべきものではなく、洗礼者ヨハネが担うべきものでした。しかし、洗礼者ヨハネが崩壊したことで、民族的な足場が崩れ、4000年間摂理されたすべてが崩れた結果を招きました。そこで、イエス様は再びアダム家庭に戻り、回復の使命を果たすために、3人の弟子から12人の弟子、70人の長老、120人の門徒を探し、再び第二の道を歩んだということを私たちは知っています。しかし、選民イスラエルの立場に立つべきユダヤの民が、天の前で全て捨てられ、信じていなかった漁師たちや異邦人がこの祝福を継承してきたことを、私たちは知っておくべきです。


イエス様が去ってから3人の弟子たちの部族はどこへ行ったのでしょうか?ありません。イエス様が去ってから12人の弟子たちの部族はどこへ行ったのでしょうか?ありません。70人の長老や120人の門徒も、言葉に対する条件は立てましたが、実体に対する条件は立てていませんでした。これを今日の私たちが回復しなければ、神の目的を果たすことはできません。


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これから世界的な使命を担うべき再臨理想時代において、再臨主がこの地上に来て目的を果たそうとするには、イエス様が立てようとしたその足場を立てなければなりません。そうでなければ、回復の使命を完結することはできません。


従って、天はまず3人の弟子を見つけたという基準を合わせて立てるでしょう。見つかったその3人の弟子たちは、死んでも一緒に死に、生きても一緒に生きるべきであり、3人が天を代わりにできる立場に立たなければなりません。次に、12数を見つけなければなりません。これが最低限度の天の足場です。


次に私たちがすべきことは、まず天国の国民を見つけることではなく、天国の家庭を見つけることです。国民がいるためには、まず家庭が必要だからです。従って、この家庭を見つけた後に初めて父母を迎えることができるのです。このように逆さまです。


旧約時代は国民を見つける時であり、新約時代は子女を見つける時であり、聖約時代は父母を見つける時です。従って、新約時代からは家庭を見つける時代でしたので、イエス様は愛を紹介され、愛の道理を立てました。


それでは、今日の私たちは、この回復の時代を経て新しい理想時代に進むために、どのような立場に置かれているのでしょうか?イエス様はこの地上で長子の使命を担い、天の前に立つべき責任を担って来られましたが、この責任を完遂することができなかったため、2000年間延長されました。従って、今日の私たちにはこれを代わりに蕩減回復しなければならない使命があるのです。終末の聖徒である私たちは、このような重大な立場に置かれていることを知っておくべきです。


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それでは、皆さん自身が天国の一つの家族になるにはどうすればよいでしょうか?天が最低限度で探しているもの、すなわちノア家庭で失われたその数を補充しなければなりません。しかし、この3数を補充したからといって、天の前に立つことができるのでしょうか?それも違います。アダム家庭の3人の息子を代わりにできる数がヤコブの時代に来て初めて完結したため、今の時代にはその3兄弟の条件を立てるだけでは不十分であり、必ず12数の条件を立てなければなりません。そうして初めて天国の家庭に復帰した基準を地上に立てて、父の前に進むことができることを皆さんが知っておくべきです。男性も女性も、それぞれこの責任を担っています。元々は、自分を中心にして3兄弟を作らなければ、これからの新しい時代に父母の立場に進むことはできません。


それでは、終末はどのような時代でしょうか?父母が出てくる時代です。しかし、父母が出てくるとき、宇宙的な父母が出てき、民族的な父母が出てき、家庭的な父母が出てくるのです。皆さんは宇宙的な父母を手本にし、あるいは教団的な父母を手本にした後に初めて、家庭的な父母を探しに進むことができます。


6千年の回復摂理の歴史を振り返ると、神は今まで人類に対して真の父母の立場、宇宙的な父母の立場から摂理を進めてこられました。イエスと聖霊は今まで選ばれた第二イスラエルに対して民族的な父母の立場から摂理を進めてこられました。


従って、イエス様は民族的な使命を代表し、教団的な使命を代表しておられましたので、大祭司の立場から出てこられました。従って、皆さんはこのようなイエスを中心にして天の前に立つことができる家庭的な大祭司となり、家庭の真の父母となるべきです。これが神が終末にこの地上に探して立てるべき摂理の中点であることを、皆さんが知っておくべきです。


従って、教団的な父母の立場におられたイエス様は、世界的な父母の立場に進むために再臨という名を残して去られました。それでは、世界的な大祭司の責任を持って来られる方は誰でしょうか?その方は世界的な父母です。このようになります。しかし、今日、この地上を見れば、宇宙的な真の父母がいなく、教団的な真の父母がいなく、家庭的な真の父母もいません。


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それでは、真の父母となるにはどうすればよいのでしょうか?それぞれが教団的な大祭司の立場にある教団的な父母を迎えた者でなければなりません。そうでなければ、家庭的な父母になることはできません。また、その教団的な父母は、天宙的な父母を迎えなければ、完全に教団的な父母としての役割を果たすことはできません。


従って、このような摂理の歴史が完結せずに残っていることを見れば、神の意志はまだ成し遂げられていないということです。それでは、全体回復の使命を完結させるべき私たちは、今何をすべきでしょうか?まず、宇宙的な父母を探して迎え、教団的な父母を探して迎えるべきです。この仕事をして初めて、家庭的な父母の資格者になることができます。


国家を見ても、そこには代表者があり、種族には種族の代表者があり、家庭には家庭の代表者がいます。人間はこのような全体の世界と関係を持っているため、宇宙的な父母、教団的な父母、家庭的な父母を迎えて進まなければ、天の民になることはできません。


今日、この地上に生きている全世界の人類が探しているものは何でしょうか?それは宇宙的な父母を探しています。特にキリスト教信者たちは、教団的な父母が現れることを望んでいます。その宇宙的な父母が現れる日が再臨の日です。しかし、まだ教団的な父母を迎える摂理は成し遂げられていません。


天は6000年間摂理の目的を立ててこられましたが、教団を中心に大祭司の責任を持って来られるべき再臨主の使命が残っていることを見ると、天は新郎新婦という約束の範囲内の摂理を果たしましたが、新郎新婦が教団を中心に生活できる真の父母の位置にはまだ進んでいないことがわかります。真の父母の位置が決まる前には、真の子女たちで構成される真の家庭は成立しません。もう一歩進んで、宇宙的な父母の位置が決まる前には、教団的な父母の位置が決まることはできません。今日、堕落した人間にとって、父母はいるけれども、その父母は真の父母ではありません。その父母は神の前に認められた父母ではありません。


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それでは、終末の私たちがすべきことは何か?それは、私たちが生きているこの時期に宇宙的な父母を迎え、教団的な父母を迎え、その後には家庭的な父母まで迎えなければならないということです。つまり、3代の父母を迎えなければなりません。家庭は民を代表する形であり、教団は子女を代表する形であり、宇宙的な父母は真の父母を代表する形です。


今日、この地上に人間が生きているけれども、天が許した真の父母の愛の権から外れています。父母と血と肉が通じ合うこのような縁が、生まれてから永遠の世界に至るまで結ばれていないことが悲しい事実です。従って、家庭的な父母から教団的な父母、宇宙的な父母と神の愛が結びついてこそ、初めて6000年間の全体の愛の権内に入り、神の前で顔を上げて立つことができることを、皆さんが知っておくべきです。これが私たち人間が必ず歩むべき道なのです。


それでは、私たちは今どこに立っているのか?私たちはまだ家庭的な真の父母の位置に入っていない立場にあります。従って、家庭的な真の父母の位置を見つけなければならないのですが、その父母を見つけるには簡単ではありません。なぜなら、落ちてしまったので、再び見つけるためには、兄弟の橋を築かなければなりません。私たちのすべてを犠牲にすることがあったとしても、真の父母を見つけるために、あるいは私自身が真の父母になるためには、このような歴史的な恨みを晴らす条件を立てて、蕩減した基準を作らなければなりません。そうでなければ、天は皆さんを許すことができません。


それでは、皆さんがすべきことは何でしょうか?父母を迎える立場にあるので、父母を迎えることができる兄弟の基盤を築かなければなりません。これが三位基台の意義です。編成された三位基台の兄弟たちが、天の父母を迎えることができる中心を持って、3人の兄弟が一つになり、12人の兄弟が一つになった時、初めて天国の家庭としての資格を与えられることができます。そして、その家庭は父母を拡大し、教団や民族、国家を代表する形を持って、その上に父母を迎える基準を準備しなければなりません。


その後に、教団的な形を整えて、世界的な父母を迎える準備を進めなければなりません。ヤコブの時代でも家庭的な基準を作りましたが、その後の子孫が信じなかったため、その基準が全て崩れました。モーセの時代でも民族的な家庭の基準、民族的な父母の基準を整えてきましたが、信じなかったために全て崩れました。イエス様もこの地上に来られて、世界的な家庭の基準を整えようとされましたが、人々が信じなかったため、その目的が全て崩れました。


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従って、今日の人間は希望を持っていますが、信仰を持っていますが、愛を持っていません。堕落によって私たちは希望を失い、信仰を失い、愛を失いました。従って、それを再び見つけなければならない運命にある私たちは、新しい希望を持たなければなりませんし、新しい信仰を持たなければなりません。さらに、新しい希望と新しい信仰が結びついて一つになる兄弟を持たなければなりません。そうしてヤコブ以後、希望で探し、イエス様以後、信仰で探した、その全体の目的を代わりにする基準を皆さんの実体を通じて立てなければなりません。このような実体的な条件を全て整えた時、初めて神がそのような私たちの存在を見て、希望の存在であり信仰の存在であると言うことができるのです。


これまで人間は神を希望として見てきましたし、神を信仰として見てきました。しかし、神がこの地上に希望と信仰の結実を備えた実体が現れる時、その人を見て希望を持つことができるのです。すなわち、神が私たちに対して希望を持つことができ、私たち自身が信じることができる実体となった時、神の愛が世界と縁を結ぶことができるのです。


それを実現するためには、蕩減回復の原則に従って、皆さんの心に父母の愛が成立しなければ、夫婦の愛が成立します。さらに、父母の愛と夫婦の愛が成立してこそ、兄弟の愛が成立します。このようになっています。


父母の愛は一つです。夫婦の愛は父母を中心に繁殖するためのものですし、兄弟の愛はこの夫婦を代表して繁殖することができます。一つから出発して、徐々に拡大していくことが父母の愛です。堕落した私たち人間がこれを探しに行くには、最小単位である兄弟から出発します。兄弟から出発しなければ、理想世界を建設することはできません。


それでは、真の父母を迎えるにはどうすればよいでしょうか?真の夫婦となり、真の家庭を築く必要があります。そうしてその上に真の父母を迎えることができます。皆さんが先生を信じて従うことは良いことです。しかし、先生を信じて従うその心の大きさだけ、他の人が皆さんを信じて従うことができる存在でなければなりません。このようにして、イエスが探そうとした家庭の形を持つべきです。そうすることで、万人は兄弟となります。このことを実現するために、三位基台を編成しました。従って、皆さんはこれから何かをするとき、一人ではいけません。伝道するときも一人ではいけません。


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このような三位基台を築いて、兄弟の立場に立ったとしても、兄弟同士で行うことはできません。それを共にする必要があります。父母と兄弟が一つになってこそ、家庭が成立するのです。そして、これが一つの民族形を持つには、このような家庭が12家庭になるべきです。10数以上を超えた場合に、民族的な条件を代わりに担うことができるのです。


イエス様はなぜ120人の門徒を立てたのでしょうか?アダムからノアまでの10代目であり、ノアからヤコブまでの12代目です。この2000年間を代わりにした縦の結実体がヤコブの12人の息子たちですから、イエス様は縦の12数を中心にしました。ノアからヤコブまでの12代とノアからアダムまでの10代を代表する数を持つために、12数に10を足して120が出るのです。これが何かというと、回復するための全体数を代表する数でした。


従って、これまで皆さんに対して伝道するように言ったのです。人間は地上に生きている間に120人を伝道しなければなりません。それができないなら、12人だけでも伝道しなければなりません。12人を伝道するには、その12人だけでは不十分です。120人を伝道することはできないが、横的に120人を作ることができるようにしなければなりません。すなわち、120人が横的に和することができるようにしてこそ、回復の使命を果たすことができます。


今日、皆さんには勝利の国を建設する責任があります。勝利した国には、勝利した天と地を代わりにすることができる真の父母がいなければなりません。次に、教団をはじめとする世界のすべての宗教を代表する使命を担う真の父母もいなければなりません。また、家庭を代表することができる真の父母もいなければなりません。これを横的に見ると、教会は社会性を帯びており、国家は世界性を象徴して進んでいきます。従って、皆さんが縦的にも横的にも縁を結ばなければ、一つの国の民として、一つの家庭を持つ人にはなれません。


皆さんが進むこの道が天国に行く道ですから、皆さんは必ず進むべきです。従って、家庭を持つ人は家庭的な責任を果たさなければなりません。また、教会を担当する人は教会的な責任を全うしなければならず、より大きな使命を持つ人はより大きな使命の責任を全うしなければなりません。そうすれば、その形と動きが同じになります。すなわち、使命の分野が異なるだけで、生活形態も生活様式も同じです。範囲が大きいか小さいかに違いがあるだけです。従って、これから皆さんは家庭の立場から世界を代わりにすることができる蕩減の条件を立てなければなりません。民族を代わりにし、教会、教団を代わりにしてこれを立てて進めていかなければ、初めて宇宙的な真の父母の理念を成し遂げることができることを、皆さんは知っておくべきです。また、今日、回復の理念を成し遂げる上で、地上に生きる私たちの責任がどれほど貴重であるかを知っておくべきです。


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モーセの道はイエス様の道であり、イエス様の道は私たちの道です。モーセが12部族と70人の長老を中心に60万人の民を率いて進んだように、イエス様も12人の使徒と70人の長老、120人の門徒を中心に歴史を進めましたが、イスラエルの民が共に進んできたならば、イエス様は世界的な足場をつかみ、出発することができたでしょう。しかし、これを民族が受け入れなかったため、イエス様は目的を果たせずに十字架にかけられました。


それでは、今日の再蕩減時代において私たちはどのような使命を果たすべきでしょうか?それは、互いに団結し、3人が12人を作り、12人が120人を作り、120人が60万人、さらにそれ以上に動かせる時を作らなければなりません。それを作り上げなければ、神の全体的な摂理を中心にして、天が全権的な活動を行うことはできません。これを皆さんは知っておくべきです。そうして初めて民族を越えて国家的な段階に進むことができます。従って、皆さんはこれから希望の一日を目指して進んでいかなければなりません。言い換えれば、希望の一日を迎えるために準備を進めていかなければなりません。


この時代において私たちは家庭的な使命も果たさなければならず、民族的な使命も果たさなければならず、世界的な使命も果たさなければなりません。私たちが多くの迫害を受けている原因はここにあることを知っておくべきです。迫害を受けながらも、家庭的にも教団的にも国家的な使命を果たしたという条件を立てることで、6000年間神が摂理してこられたその基盤に私たちを立てようとしているのです。このような神の意図があることを知っておくべきです。この目的の前に立つ日には、イエス以降、今日まで霊界にいる数多くの霊人たちは第一イスラエルの立場に立ち、イエス様が地上に来て去った後に信じた聖徒たちは第二イスラエルの立場に立ち、今日、完成的な条件の上に立つ人々は第三イスラエルの立場に立つということです。第三イスラエルの立場に立つことが、新郎が進むべき道の目的地であるため、私たちは反対の経路をたどって進まなければなりません。


愛を代わりにすることができるのが第三イスラエルであるため、愛の目的を通さなければ神と縁を結ぶことはできません。従って、霊界にいる第一イスラエルは地上にいる第二イスラエルであるキリスト教徒を通じなければならず、第二イスラエルであるキリスト教徒は第三イスラエルを通じなければなりません。また、第三イスラエルを目指している私たちは、仲介的な基準を探し立てなければなりません。自分自身においても、家庭的な分野や教団的な分野においても、世界的な分野においても、皆さんはこのような立場を探し立てなければなりません。


このような全体の目的を前にして、自分がどの段階にあるかを今日の皆さんがよく知っておくべきです。皆さんが先生、先生と言うのはありがたいことです。先生、先生と言うのはありがたいことですが、回復の条件を探し出さない限り、先生もどうすることもできません。


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それでは、今日、真の父母を探して進む過程において、真の兄弟同士はどのようなことを探し立てるべきでしょうか?これまでの6000年間、堕落の血統を経て進んできましたが、どの時代の誰も兄弟を愛したこと以上の愛を、この地上に築かなければなりません。これを立てなければ、天が「おお、お前たちは私が認める兄弟だ」と言うことはできません。このように真の兄弟の道を経た後に、皆さんは家庭的な父母になることができる恩恵の権内に入ることができます。そして、自分のためにそれを行うのではありません。皆さんは民族的な父母、宇宙的な父母のために、家庭的な父母の立場に立たなければなりません。皆さんはこのようなことを行わなければなりません。いかに優れた者であっても、このような蕩減の道を条件として進まなければなりません。


これを成し遂げなければ、勝利したイスラエルの父母にはなれず、勝利したイスラエルの兄弟にもなれず、勝利したイスラエルの民にもなれません。従って、兄弟を編成して天の前に認められた後、家庭を編成し、その後、家庭が合わさって民族を編成し、反列を編成していくべきです。


天がこの地上で探している12部族を代わりにしてきた世界の全てのキリスト教がイスラエルの名を持っているけれども、イスラエル的な反列がないために、神が摂理できる足場がないということです。従って、神が摂理できる足場を作るために、今日散らばったイスラエルの反列を再び編成し、回復できる世界的な足場を作らなければなりません。このような責任が今日の私たちにあります。




<祈祷>
今日、私たちは伝道しています。伝道は兄弟を探すことです。ですから、兄弟が増えれば種族になり、種族が増えれば民族になり、民族が増えれば国家になり、国家が増えれば世界になります。しかし、真の兄弟を見つけようという切実な心があっても、一人ではできないので、あなたと私は一緒にならなければなりません。そうして初めて父の前に立つことができるのです。個人は兄弟と一つになって家庭的な父母を迎えることができ、教団は教団同士で兄弟のように一つになってこそ、教団的な父母を迎えることができます。また、世界は世界、国家は国家で、兄弟のように愛して一つになってこそ、宇宙的な父母を迎えることができるのです。


さて、私たちはこのような歴史的な使命を担うべき時代に置かれています。従って、失われた反列を私たちの手で探し立てなければなりません。しかし、こうして私たちが天の前に立とうとするには、家庭を通過しなければなりません。イエスも家庭を通過できなかったため、楽園に行かれました。


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今まで6000年間の摂理の目的は、家庭を通過するための目的です。しかし、これまで誰も家庭の門を通過できなかったため、この世には神の愛という言葉を見つけることはできません。家庭の門を通過できなかったため、イエスも再臨しなければならないという命題を残し、霊界でも楽園という中間段階にとどまっています。従って、私たちは家庭を通過した後に民族を通過しなければなりません。そうでなければなりません。民族権内に家庭が入り、国家権内に民族が入るからです。


従って、私たちは家庭を合わせて民族を編成し、民族を編成して国家を形成し、国家を編成して世界を形成しなければならない重大な責任があることを知っておくべきです。従って、今日、皆さんが自分が生きる目的が自分の家庭のために生きるという観念を持つならば、天との関係が断たれることになります。私が家庭を中心に生きても、民族のために生きるという心を持ち、民族のために責任を持つ家庭があれば、その家庭は民族のために生きるだけでなく、天と地のために生きるという心を持たなければなりません。このような心を持って生きることができる者たちが、父の大きな恨みを解き放つことができるという事実を知ったので、お父様、私たちが今日からあなたの意志を実践することができるように許してください。


兄弟同士で一つになり、父の栄光の目的を広げていくことができるようにしてくださいと、主の御名によってお祈り致します。アーメン。


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御言葉選集5(4)

2024年08月24日 16時22分28秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 5 - 4. かつて悲しんだ天の心情 (1959年1月3日)

1959年1月3日(聖誕日)、元本部教会にて。

マタイによる福音書 1:18-2:12




<祈祷 (Ⅰ)>

私たちは言葉に表せない悲劇と悲しみを残した歴史の事実を知っています。エデンの園を見つめて喜ばれていたお父様の心が、アダムとエバの堕落によって悲しみの心へと変わり、それが6千年もの長い歴史を通じて続いてきた悲しみであることを私たちは知っています。また、私たちが心と体を尽くしてお父様の憂慮する心情を抱き、失われたエデンの園を回復しなければならない歴史的責任を負っていることも理解しています。


お父様! 失われたアダムとエバを再び見出すために、あなたが4千年間苦労し、その結果、アダムの姿を持ってこの地に送られた方がイエス様であることを私たちは知っています。イエスが誕生されるまでのお父様の苦労が大きければ大きいほど、その苦労によって誕生されたイエス様の姿は天の誇りであり、被造物と人類の誇りでなければならないものでした。そのような事実を天は知っていましたが、地は無知で理解せず、天はそれを歓迎しましたが、地は知ることができず歓迎できなかったことを、今日私たちは恥じるしかありません。


苦労されたお父様の希望の眼差しが、飼い葉桶に横たわるイエスの哀れな姿に留まらざるを得なかったこの哀れな事実を思い返し、先祖たちが不信を抱き、先祖たちが不忠であったことを痛感しています。アダムとエバの堕落の罪を人間が再び繰り返したという事実を知っているからこそ、今日私たちは歴史的な悲しい事実を心で感じ、深く悲しまざるを得ません。


昔、お父様を慰めることができなかったイスラエル民族、選ばれた選民に代わって、私たちがお父様の悲しみを慰めることができるように許していただけることを切に願っています。


イエス様が来られてからすでに2千年が経過しましたが、心情の世界は時間を超越することを知っています。歴史を超越して存在するお父様、悲しい心情を抱いて天国へ行かれたイエス・キリストの心情を抱いて、この時間、慰めることができる私たちにしてくださることを許してください。


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イエス様が来られてから2千年の悲しみを、今日この時まで天と地に残された深い恨みを私たちが理解し、イエス様が誕生された当時の姿を心で受け入れるこの一時にしてくださることを、お父様、切に願います。


今日その日を記念するこの一時を、お父様、祝福してください。そして、イエス様が望まれたその喜びの栄光を表されて、2千年前に来られたイエス様が悲しまれたことがこの一日で解放されることを許してください。


すべての内面的な心情を知っている私たちがこの日を記念しようとしているので、人々が知らずに残したすべての過去の悲しみがこの一時によって償われることを許し、私たちがお父様の前に立つことができるように許してください。イエス様が喜ばれ、お父様が慰められることを切に願い求めます。


ここには全体的な復帰の使命を担い、目的に従っている私たちがいます。復帰の親を見つけて迎える立場にある今日の私たちであることをあなたはご存知です。今、私たちはイエスを真の兄弟として迎えなければならない時が来ました。真の兄弟となる立場から、この地上に残されたあなたの悲しい事実を体験し、解放して差し上げることができる私たちにしてくださることを、お父様、切に願い求めます。


この地上には天を目指して生きる道を探している多くの人々がいますが、あなたの命の力がどのような目的で現れるかを知らないでいます。お父様、この一時に彼らの心と体を直接管理してください。霊的なすべての動きを動員し、彼らが終わりを予告するあなたの全体的な目的を理解できるように許し、あなたの内面的な心情を理解できるようにしてください。それによってあなたの真の息子や娘となれる喜びの日が早くこの地に訪れることを許してください。


    2


地上に来て十字架の苦難の道を歩まれたイエス様もこのような事に協力していることを私たちは知っています。地上にいる私たちが全力を尽くしてあなたが喜ばれる目的を果たすことに少しも不足がないように励ましてください。そして、地上の兄弟たちが団結して進むことができるように許してください。お父様、切に願い求めます。


私たちが心を一つにしてお父様に捧げるこれが歴史的な解放の供え物となることを許し、残された千年の恨みが私たちによって解放され、これから幸せの起源を探すことができる聖なる時間となることを許してください。お父様、切に願い求めます。


お父様、短い礼拝ですが祝福してください。不足な心と体を束ねて、お父様の意志のままに管理してくださることを切に願います。顕現することのできる栄光の賜物がここに現れることを切にお願い申し上げます。主の名においてお祈りしました。アーメン。



<祈祷 (Ⅱ)>

お父様、この時間、すべての人々に再び祝福の手を差し伸べてください。この時間に3千万人の民に再び祝福の手を広げてください。あなたの名を覚えている多くの子供たちに愛の賜物を許してください。そしてこの一時、孤独な場所で心から祈ろうと伏している子供たちの頭の上に、お父様、愛の手を差し伸べて祝福してください。罪悪が留まる地上で残された悲しみを一代で慰めようとこの時間、父のために心配している家族がいることを、お父様、覚えてくださり、この時間祝福してくださることを願い求めます。


    3


地上のすべての人々はこの日を知らず、結ばれた天の悲しみを理解しておらず、無限の悲しみを抱えているあなたの心情をさらに理解していません。あの日の痛ましい事実を知らない私たちに、お父様、この日を許してくださり、すべての人々が理解できないこの一日をキリストの誕生日として祝うことができる栄光の賜物を許してくださったことを感謝せざるを得ません。ここに集まったあなたの息子や娘たちを覚えてください。


今この日を祝うことが、2千年間悲しんでこられたイエスの心情を慰めるきっかけとなることを許してください。悲しみの場所で誕生し、30年余りの生涯を捧げてゴルゴダの道を気にすることなく歩んだキリストを思い出し、彼の全跡を遺産として受け継ぐことができるこの時間にしてくださることを許してください。彼が生前に残された偉業を私たちの使命として引き継ぐことができるこの時間にしなければならないことを私たちは知っています。


お父様! イエス様が残された恨みが地上にまだ残っていることを、この地にいる人間は知らないでいます。今ここに集まったあなたの息子や娘たち、その体と心があなたの心情に染まり、あなたの心情に捉えられることができるようにしてください。幼いイエス様の心情を理解し、死の危機に瀕したイエス様の心情を悟り、慰めることができるようにしてください。


人間は知らないが、イエス様は今でも霊界で働いておられることを感じ取れるこの時間にしてください。お父様、切に願い求めます。この一時間、不忠不孝な体と心ですが、この日を祝うためにお父様の前に伏していますので、あなたが臨まれ、復帰の新たな理念を開拓できるように、溢れる賜物をここに現してください。お父様、この日を覚え、この日を祝福してください。切に願い求めます。


今、少しの間、言葉を伝えたいので、どうか共にいてくださることを切に願います。この日に私たちが祈り願うすべてが天と地に結ばれたものを解放する条件として残ることができるように許してください。


    4


貴重なこの日に私たちが新たな目的を受け入れ、勝利の証をお父様の前に残さなければならない重要な日であるので、この日を覚えてください。喜びと共にお父様、顕現してくださることを切にお願い申し上げます。主の名においてお祈りしました。アーメン。


<御言葉>

今日は、神が望まれたその日かもしれない重要な日です。私も目的を抱いて出てきたときに望んだ日です。そして、4数で償うと同時に新たな3数を見つけて償うこの時間こそが歴史的な縁の時間であることを皆さんはまず覚えておくべきです。ですから、皆さんの前で少しお話ししようとしている言葉のタイトルは「かつて悲しんだ天の心情」です。このような内容の言葉を持って今日この日を記念しようと思います。


神は一人の人間を作るためにすべての万物を創造されました。初日から5日目まで創造されるその万物を見ながら、無限の希望と無限の喜びを持って楽しまれていたのです。


そして、このすべての万物の主人公として、神の代わりに万物を支配する主人として、私たちの祖先であるアダムとエバを創造されました。そして、無限に喜ばれた心情で彼らのために祝福されました。つまり、彼らに「生めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1:28)と言われました。「生めよ、増えよ、地に満ちよ」との祝福の言葉を私たち人間に与えられたのは、神を喜ばせるための目的で私たち人間が創造されたという意味です。また、神もこの目的を達成するために私たちを祝福されたのです。


しかし、神のその祝福をアダムとエバは果たせませんでした。そのために、今日この時までその祝福が果たされないまま、悲しい歴史が流れてきたという事実を皆さんはもう一度振り返らなければならないのです。


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アダムが成長しているとき、天は無限に喜んでいました。万物もアダムを通して天に喜びを返していました。しかし、このアダムが天倫の意を完全に理解していない立場で、天の意を、天の言葉を受け入れなかったために、堕落という悲しい鎖に縛られることになったのです。


天地の法度を立て、天倫を立ててこられた神が、アダムとエバが堕落したことで、彼らを自分の愛の懐から追い出さざるを得なかったのです。そのような神の悲しい心情を万物は知っていましたし、天使界の善霊たちも知っていましたが、堕落した人間の子孫である私たちは今までそれを知らなかったのです。このような事実を今日の皆さんはよく知っているはずです。


今日この日を記念するために私たちは集まりました。イエスの誕生を祝うために集まりました。では、そのイエスはどのような方だったのでしょうか? 彼は失われたアダムに代わって天が見出して立てられた存在でした。ですから、当時の人々はイエスの誕生と同時に、神の胸に4千年の間積もっていた悲しみを感じ取り、幼いイエスを抱いて代わりに泣いてあげることができ、イエスを抱いて代わりに喜んであげることができなければなりませんでした。そのような人々が多くなければならなかったのに、誕生されたイエスを抱いて喜んでくれる人、誕生されたイエスを抱いて神に代わって泣いてくれる人は一人もいませんでした。


神の悲しみは人間によって結ばれたものであり、神の悲しみは神だけで解くことができません。神の心の奥底に染み込んでいる悲しみが解かれるためには、必ず人を通してでなければなりません。人間によってこのような悲しみが結ばれたので、人が神に代わって悲しんであげなければ、神の中に染み込んでいる悲しみは解かれることがないという事実を皆さんは理解しなければなりません。


飼い葉桶に横たわっている幼いイエスを見つめて神に代わって泣かなければならない立場にあったにもかかわらず、マリアとヨセフは神の内的な心情がこのように悲しいという事実を知りませんでした。そのため、ヨセフとマリアは飼い葉桶にいるイエスを見つめても、真心で天に代わって悲しむことができなかったということを私たちは知らなければなりません。


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そして、訪ねてきた東方の三博士、羊飼い、アンナなど、多くの人々がイエスを証しし、喜びの心を持っていました。しかし、彼らが喜ぶ前に、神の中に悲しみが染み込んでいることを知っていた人は一人もいませんでした。


では、私たちは今、何をすべきでしょうか? アダムとエバを失われた神の悲しみを理解し、同時にイエスが誕生したこの事実を喜ぶことを知っているべきです。神の心に染み込んでいる悲しい心情を解くためには、人間の祖先によって成されたこの罪悪の世界を償い復帰しなければなりません。罪深い世界を償い復帰するためには、神に代わって泣ける熱心な心を持たなければなりませんし、イエスを抱いて泣ける存在にならなければなりません。もしヨセフとマリアがそのような人々であったなら、イエスの意を受け継ぐことができたでしょう。また、そのような心を持った東方の博士であったなら、彼らもまたイエスの意に従ったことでしょう。


しかし、イエスのために苦労し、イエスのために目的を果たすべきだったヨセフとマリアも、真に天の悲しい心情を抱いてイエスに接することはできませんでした。また、東方の三博士も同様に、天が悲しい心情を抱いてイエスを見つめるようにイエスを見つめることができませんでした。


今日、私たちはまずイエスが生まれるまで神が悲しまれたその心情を思い出さなければなりません。エデンの園でアダムとエバが堕落したことで神が彼らを追放される際の悲しい心情、二度とない独り子として立てたアダムが敵であるサタンに引きずられていく姿を見ておられる神の悲しく惨めなその情景を、皆さんは心に浮かべなければなりません。


この悲しみを解消するために、神はアダムとエバの堕落以来、4千年もの間、摂理を進めながら、多くの預言者たちを送って、この悲しい事情をすべての人々に告げられました。しかし、人間たちはこのような神の悲しみを知ることができず、天が送った預言者の悲しみを理解できなかったために、イスラエル民族は天を背く歴史を歩んできたのです。神は必ず意志を成し遂げられるために、一時も休むことなく苦労されました。ついに4千年の歴史が過ぎた後、ようやく失われたアダムを復帰することができ、その中にマリアとヨセフが現れたのです。


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では、ヨセフとマリアはどのような立場にあったのでしょうか? アダムとエバは婚約段階で堕落しましたが、ヨセフとマリアもまさにそのような立場にありました。神はヨセフとマリアをそのような立場に立てて摂理を進められたのです。そのようなヨセフとマリアを選んで立てるまでに4千年もの時間がかかりました。これを皆さんは理解しなければなりません。


では、マリアが神の前に立つことになった動機と、ヨセフが神の前に立つことになった動機を考えてみると、マリアは幼い身でありながらも、神がこの民族を通して摂理されることを知っていました。そして、マリアはメシアがこの地に来ることを誰よりも切実に願っていました。ヨセフもまた、自分の民族を救い出し、選ばれたイスラエルの選民を天国の国民として導いてくれるメシアが来ることを誰よりも切実に願っていました。


マリアとヨセフは誠心を尽くしてメシアが来ることを待ち望み、神の意志が成し遂げられることをその心に確信していました。自分たちが誠実を尽くせば、どのような方法でもメシアが誕生されることを予告してくださるだろうと信じ、また予告してくださることを願って誠実を尽くしていました。これを私たちは理解しなければなりません。


昔、エデンの園でアダムとエバは信じられずに堕落しましたが、彼らは民族を代表して信じる心、メシアが来ることを願う心、誠実を尽くす心、忠誠を尽くす心を持っていました。この心が神を感動させ、神がイスラエルにメシアを送ってくださることを約束する動機となったことを私たちは理解しなければなりません。


天使がマリアに現れてメシアを宿すことを予告したとき、マリアは戸惑いました。自分はまだ男性を知らないので、そのようなことはありえないと否定したマリアでした。しかし、お父様の意志に対する切実な心を持っていたマリアは天使の命令に答えて、「主の婢ですから、御言葉どおりこの身に成りますように」と答えました。しかし、この一言はユダヤ民族が4千年間守ってきたイスラエルの律法に反するものでした。なぜなら、処女が妊娠することはありえないことでありました。 ワツは妊娠した処女はすぐに石打ちにされ、死刑を宣告されるほどモーセの律法は厳しかったのです。それにもかかわらず、マリアはこのような決断を下したのです。


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ですから、処女の身、さらに婚約中の処女の身で天の前に選ばれたマリアは、生きるか死ぬかという問題を解決しなければならない立場に立たされました。また、自分の血族や社会全般に影響を与える重大な立場に置かれました。


しかし、マリアはこの世のすべてを放棄しても、お父様の意志だけは放棄することができず、お父様の意志を成し遂げるためにはどのようなことでも感謝して受け入れるという確固たる心情でした。このようにマリアが全人類に代わって、自分のすべての威信や体面、自分の一生、自分の命までも犠牲にする瞬間に、ようやくメシアが誕生する縁が結ばれたという事実を私たちは理解しなければなりません。


また、そのような立場でメシアを宿したマリアは、天の前に委ねられた身として、メシアの誕生後に自分が進むべき道を無限に心配しなければならない立場にありました。その事情は神の苦しい事情に似たものであり、その心配は悪い地を心配する神の心に似たものでした。それで神は天使を通してヨセフにマリアを保護するように命じられたのです。


ヨセフもまた、天使を通して自分と婚約したマリアが妊娠したことを知りましたが、人間的な面ではそれを受け入れ難い立場にありました。しかし、神は偉大な意志を成し遂げるために人間を立て、その人間を通して摂理されることを知っているヨセフは、天使の命令に従ってマリアを迎え入れたのです。このようにしてマリアとヨセフが協力したことが、エデンで失われたアダムを再生させる基盤となったことを私たちは考えなければなりません。


今日、皆さんが2千年前のイエスの時代に戻り、マリアとヨセフの立場に立つなら、皆さんはどうするでしょうか? 天が皆さんを訪ねてきて、切実な事情を伝え、皆さんと縁を結びたいと望んでいる場合、皆さんはどのような態度を取るでしょうか? 皆さんはどのような心情を持って天に接するのでしょうか?


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もし皆さんがマリアのような心情、ヨセフのような心情を持って天の前に現れないなら、マリアとヨセフが天を心配する心情で誕生させたそのイエスを祝う今日の皆さんの立場は、天の前にふさわしい立場とは言えないでしょう。


ですから、今、皆さんは心を改め、自分が本当にヨセフの立場にあるのか、あるいはマリアの立場にあるのかを深く考えてみなければなりません。いつ天が私に命令しても、その意志に従い、その意志を信じて実行するためには、すべての社会的な慣習や風習、自分が信じてきた倫理観さえも否定していたヨセフとマリアのような人間でなければなりません。したがって、皆さんは自分の命を賭けてこの問題を乗り越える信仰を持って、この一時にイエスの誕生を祝う立場に立たなければならないのです。


神はイエスを送られてヨセフとマリアが心配しなかった心配をされ、ヨセフとマリアが考えなかったことを考えられました。そして、神はヨセフとマリアが誕生されたイエスを大切に保護し、成長させることを望まれました。イエスが敵の世界に立ち向かう責任者として出るまで、全力を尽くして養育し、全力を尽くして支えてあげることを望まれました。また、全力を尽くしてイエスの生活の供え物となってあげることを望まれたのです。


しかし、イエスが誕生するまではヨセフとマリアが一つになって神の願いを心配する心を持っていましたが、イエスが誕生した後は神と同じ心を持って心配することができず、自分たちの心配の条件を中心にしてイエスを見つめ、自分たちの生活の条件を通してイエスを養育しました。


ヨセフとマリアはイエスの保護者になり、イエスの囲いとなり、イエスの戦いの盾にならなければなりませんでした。ですから、彼らは神の心情に代わって現れたイエスを、死ぬまでも受け入れるべきでした。そして、神のために命を賭けてイエスを受け入れるべきだったのがヨセフとマリアでした。育っているイエスは彼らが生んだ息子でありながら、自分たちに属する息子ではありませんでした。


    10


もしヨセフとマリアがイエスを宿した時に抱いた決心を、イエスが成長する間も持っていたなら、イエスの十字架の道は防ぐことができたでしょう。母子が協力すべき内的な事情と外的な事情を完成させることができなかったために、イエスは家庭を捨てて弟子を求めて出かけました。


ですから、イエスはガリラヤ地方のカナの婚礼で、マリアから水を葡萄酒にしてほしいと言われて、マリアに「女よ、私と何の関係があるのですか?」(ヨハネ2:4)と答えました。この言葉を考えるとき、私たちはイエスが心に抱いた思いをマリアが理解していなかったことを知ることができます。ヨセフも知らず、彼の愛する兄弟も知らなかったのです。イエスはその心で天を心配し、その体で生活環境を心配していました。イエスが神を心配したことは当然のことでしたが、生活環境を心配したことは悲しい事実であることを私たちは理解しなければなりません。


悲しく生まれ、悲しく育ったイエスでした。神だけを考え、神だけを心配して生きるべきだったイエスは、その生活環境を失い、心では神を心配し、体では生計を心配しなければならない立場に置かれたこの悲しい事実を私たちは知っておかなければなりません。


こうしてイエスが家庭を離れたことは、すなわち兄弟を離れることであり、4千年間を経てきたヨセフの一族を離れることでした。信じてくれない多くの人々を見つめるとき、イエスの心情は誰にも訴えることのできない悲しい心情だったことを私たちは考えなければなりません。


イエスの心が痛むのは、彼の環境が悲しく困難であったからではなく、母や兄弟たち、親戚たちが自分を理解してくれなかったからです。この一事がイエスにとっては悲しみの中の悲しみとなったことを私たちは理解しなければなりません。


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したがって、今日の私たちは歴史をさかのぼり、元々のマリアの立場を回復しなければならないし、ヨセフの立場を回復しなければならないし、イエスの兄弟の立場を回復しなければならないし、イエスの一族の立場を回復しなければならないし、さらにはイエスの立場まで回復しなければなりません。このようにしなければならない歴史的な恨みが残っている事実を私たちは知っておかなければなりません。


では、皆さんはイエスが誕生し、この地に来られ、十字架を背負っていった30年余りの生涯を心の奥深くで感じ取り、イエスが悲しんだ事実、あるいは心であれ体であれ苦しんだ事実を痛感しなければなりません。そうでなく、誕生されたイエスだけを祝うことはできません。誕生され、そうして悲しく去ったイエスを知ってこそ、イエスの誕生を祝う資格者となることを皆さんは理解しなければなりません。


ヨセフとマリアが誕生されたイエスを抱いて見つめているその場面は、天の前に喜びの条件となったかもしれませんが、イエスの全生涯を抱いてあげず、祝ってあげなかったために、神の前に喜びの条件を立てることができなかった結果を残すことになりました。


これを考えると、私たちは誕生されたイエスを歓迎する一方で、去られたイエスを知らなければなりません。そして、そのイエスに従い、十字架から遡って誕生されたイエスを抱きしめて祝福する心を持たなければなりません。こうして去られたイエスであり、このように戦われたイエスであり、その生涯で感じたすべての心情を理解し、その心情を受け継いで向き合わなければ、去られたイエスを祝う資格がないことを皆さんは理解しなければなりません。


では、今日私たちはイエスの一身の悲しみを真の私の悲しみとし、イエスの生涯の苦しみを真の私の苦しみとし、イエスが今日まで2千年間歴史された全体の目的を私の目的として心の中に抱いて見つめなければなりません。成長したときのイエスの心情と、成長して苦しみを受け、十字架にかかられたイエスの心情を私たちが理解してこそ、来られたイエスを祝うことができ、そのイエスと私たちが縁を結ぶことができ、そのイエスを条件として神と私たちが縁を結ぶことができることを私たちは知っておかなければなりません。


    12


今日、私たちはイエスの前に行った東方の博士も代わらなければなりません。イエスに行って黄金と没薬と乳香を捧げ、礼拝した三人の東方の博士が準備した贈り物も準備することを知っていなければなりません。道を行く羊飼いが訪れて礼拝したその準備でも整えなければなりません。天の千千万の聖徒たちがイエスが地に誕生されたことを喜び、歌った歌が天に広がったのと同じように、人間は知りませんが、誕生されたメシア一人を中心に、すべての万物までが応じたこの一事を私たちは考えながら、今日私たち自身が全体を代わってイエスを祝う心を持たなければならないし、祝うことができる心、三人の東方の博士に代わって祝うことができる心、羊飼いに代わって祝うことができる心、万物に代わって祝うことができる心、このような心を持ってイエスに直接向かわなければなりません。


そのとき、全宇宙は止まることなく涙を流すでしょう。涙を流してから喜びで祝うことができるでしょう。このようにしなければならないことが、イエスを送り出した今日の私たち人類の使命であることを理解しなければなりません。


イエス様は皆さんがどのような心情を持つことを望んでおられるのでしょうか? イエス様はどのような心情でこの一日を記念してほしいと望んでおられるのでしょうか? イエス様が心情で私たちに要求しておられることがあるなら、それは自身が地上で30年余りの生涯を生きたとき、誰にも理解されなかったその心情を理解してもらうことであり、2千年の歴史を経て、多くの聖徒たちを殺され、死の場に送り出されたが、耐えてこられたその心情を理解してもらうことです。これを私たちは理解しなければなりません。また、イエス様は、自身が天に代わって地上で神の意志を成し遂げる責任をすべて果たしきれなかったことを代わりに償い復帰してもらうことを望んでおられることも理解しなければなりません。


今、私たちの心はイエスの赤い心を抱き、私たちの体は血を流したイエスの実体を抱き、天と地を抱いてすべての人々のために涙を流し、敵を許して祝福を祈ってくれたイエスの心情を探し、心で痛みを感じ、体で疲れを感じなければなりません。


このような心を持って「天の悲しみをこの時間私たちを通して解放し、イエスの歴史的な悲しみを私たちを通して解放してください」と言える心が、皆さんの心の中から湧き上がってこそ、神は私たちを探しに来られて、縁を結んでくださるでしょう。


    13


イエスは十字架にかかられた後、霊的な救いの基盤を開拓されましたが、これも平坦な道を通って開拓されたものではありませんでした。死をも恐れない孤独な道を通って開拓されたのです。このようなイエスであったために、今日まで一日も休むことなく涙の歴史を築いてこられたという事実を私たちは理解しなければなりません。


したがって、私たちは今、イエスを抱いて死んでも共に死に、生きても共に生きなければならない共同運命に立っていることを知り、イエスの死が私の死であり、イエスの悲しみが私の悲しみであり、イエスの怒りと恨みが私の怒りと恨みであると感じなければなりません。イエス様の骨に染みる怒りと恨みがまだ地上に残っていますが、この怒りを解消するべき人は、イエス自身ではなく、神でもなく、今日の私たちであるということを片時も忘れてはならないのです。


では、皆さんが祝福の意味を持ってイエスを見つめ、礼拝したいという心があるならば、皆さんは今、イエスが残した恨みの都を目指し、恨みの土地に向かって前進しなければなりません。これを抱えてまず戦い、責任を果たしてからイエスを祝うときにこそ、イエスは私たちに向かい合うことができるということを理解しなければなりません。イエスがこの地に来られて成し遂げるべき意志は、その通りには成し遂げられず、その意志は成し遂げるべき意志として2千年の歴史が経過した今日まで、多くの後継者たちに引き継がれてきたのです。


イエスが残された意志は十字架にかかりながらでも成し遂げるべき意志であり、イエスが残された意志は神が知らないという立場に立っても成し遂げるべき意志であり、イエスが残された意志は、民族が裏切り、この地の近い人が裏切るとしても捨てることのできない意志であることを理解し、皆さん自身がその意志を成し遂げるとイエスに代わって天の前に立たなければならないのです。


この意志を抱いて進む際には、何が私を裏切り、何が私を妨げるとしても、皆さんはかつてイエスが残された意志を私が引き受けたという立場に立って、それを当然のこととして戦っていかなければなりません。そうしなければ、イエスが残された意志を成し遂げることもできず、イエスが残された恨みを解放して差し上げる方法もないことを理解しなければなりません。


    14


イエスが残された意志を成し遂げ、残された恨みを解放して差し上げなければ、2千年の間、私たちを探してこられた神の意志と神の恨みを解放して差し上げることができないことを理解しなければなりません。


したがって、私たちは「今日の私」は個人であっても「個人的な私」ではないことを理解し、「私」は一分子であっても「全宇宙と縁を結んでいる私」であることを理解し、歴史的な全体の心情を代わってあげることを望み、イエス様の全体の意志を代わってあげることを望み、さらに進んで未来の願いまで加えて、今日の私たちに責任を託そうとされる神の心情が残っていることを理解しなければなりません。


このように歴史的に重大な位置に立たされている私一人であることを知り、イエスを呼び、神を呼ぶことのできる皆さんにならなければなりません。そして、神の4千年の心情とヨセフとマリアの心情が結びついて誕生されたイエスが30年余りの生涯を送り、私たちに望まれた切実な心情があり、それが再び2千年という長い歴史が流れて今日の私たち一人に切実に求めていることを理解しなければなりません。


さて、皆さんには天に向かって手を挙げて救いを求める心がありますか? 体をかがめて天に向かって悔い改める心がありますか? 手足を動かして天に向かって走ることのできる心がありますか? 自分のすべての心の準備と体の準備を整えて十字架を前に置いて戦ったイエスの壮大な戦いを引き受けることができる心情がありますか? 皆さんはどのような心情を持っているかを自分で分別し、残された歴史的な恨みを解放する運動を引き受けなければならないということを、この時間、再び痛感しなければなりません。


では、今日、イエスは私たちの前に何を予告されるのでしょうか? イエスは地上で真に彼の心情を吐露し、天の事情を告げることのできる真の息子娘を探しに来られましたが、イエスは真の息子娘を見つけることができませんでした。30年余りをさまよいながら探し歩かれましたが、生死を共にすることのできる人、天の遺産を引き継ぐことのできる一人の人を見つけることができず、引き継ぐことができずに去られました。


    15


このようなイエスの心情を知り、皆さん自身も同じ責任を引き受けて同じ立場に立ち、天に向かって「お父様」と呼びかけなければならず、地のすべての人々を見つめて悔い改め、叫ばなければならず、すべての万物を見つめて天を祝うように叫ばなければならない切実な心情を持たなければなりません。このような心的な衝動がなければ、皆さんは来られたイエス、去られたイエス、去ってもなお苦労しておられるイエスの意志を受け継ぎ、2千年が過ぎたこの時を経て死の場で戦ってきた多くの預言者たちの前に、面目を立てることができないことを再び考えなければなりません。


では、今、私たちはお父様の前に手を挙げて懇願し、誓わなければなりません。「お父様! 今この時、どうか願わくば、私たちが2千年前にこの地に来られたイエスの体を代わりにすることを許してください。お父様の祭壇の前に差し出したこの体が、2千年前に来られて去られたイエスを代わりにすることを許してください」と懇願し、誓わなければなりません。


今、心情を懸けて天に向かって誓わなければなりません。私たちが抱く心情と意志がイエスの心情とイエスの意志を代わりにすることができ、私たちの四肢がイエスの体を代わりにすることができなければなりません。心情では天を抱き、体では地とすべての人々を抱こうとされたイエスの心情と事情を私たちが一代で代わって解放して差し上げることのできるイエスの化身となるべきです。そして、心では天を抱き、体ではこの地上の人類を抱いて戦うことのできる私たちにならなければならないのです。


イエスが食べたものは自分のためではなく、生きたのも自分のためではなく、悲しんだのも自分のためではなく、焦ったのも自分のためではありませんでした。悲しいときも、イエスは自分より先に悲しんでいるお父様を見て、面目ないと感じました。苦しみがあるときも、天の苦しみがより大きいことを考えて、頭を下げ、より強く責任感を感じた天の子であるイエスの姿を、私たちは見習わなければなりません。


不信の人々を救う責任を持って現れたイエスだったので、30年余りの生涯に苦難の道、労苦の道、悔しく苦しい道が多くありましたが、気にされませんでした。イスラエル民族がお父様の前に立つことができないことを考え、夢の中でも悔しがられたそのイエスの心情を今日、私たちは理解しなければなりません。


    16


目的に対する私たちの心が切実であればあるほど、心で天を抱き、体では地に向かって切実な心を持って現れることができなければなりません。イエスはゴルゴタの道を歩まれながらも、血を流す場でも、肉が溶ける場でも、天を抱いて慰め、すべての人々を抱いて心配された方でした。今日、私たちはこのような心情を理解しなければなりません。イエスは不憫な方でした。両親を持ちながらも真の両親を持たず、兄弟を持ちながらも真の兄弟を持たず、弟子を持ちながらも真の弟子を持たなかった方でした。


私たちはこのような歴史的なことを回復し、自分自身がイエスの真の両親となることができなければならず、イエスの真の兄弟となることができなければならず、イエスの真の弟子となることができなければならず、イエスの真の信者とならなければなりません。


若い人々は年配の方々を見るときに、真の両親としてお仕えし、お世話したいという心が溢れなければなりません。また、年配の方々は若い人々を見るときに、その母親や父親と同じ立場で彼を抱きしめ、自分の心情を尽くして愛することのできる心、自分が犠牲となることのできる切実な心が皆さん自身の中から湧き上がらなければなりません。


真の兄弟を持ちたいと望まれたイエスでしたが、真の兄弟を持って天の前に出たいという切実な心を命が尽きるまで一度も解き放つことができず、実現できませんでした。それがイエスの恨みでした。これを解放して差し上げたい私たちであるならば、私たちは真の兄弟の立場からすべての人々を愛することができなければなりません。そのような心があってこそ、イエスの恨みを解放することができるでしょう。


神の愛の権限内で永遠に二つとない一つの立場に立つことのできる真の弟子として、イエスの愛を受けた者はいませんでした。また、イエスも真に愛することのできる弟子を持たれませんでした。これがイエスの恨みとなりました。この恨みを解放して差し上げるために、私たちは真のイエスの弟子にならなければなりません。


    17


では、真の弟子とはどのような弟子でしょうか? イエスの心情を通じてイエスの血を通じたそのような人です。これまで6千年の歴史が過ぎ、イエスを信じる信者は多かったですが、今日まで真の信者を持つことができなかったイエスでした。真に愛することのできる信者を持たなかったイエスでした。この事実を知っている今日の私たちは、イエスを信じる真の信者となり、イエスを受け入れることを知っていなければなりません。


さらに進んで、イエスには真の一族がいませんでしたし、真に愛することのできる民族がいませんでしたし、愛することのできる国家がいませんでしたし、愛することのできる世界がいませんでした。このことを悟って今日の私たちは手を取り合い、心を合わせ、事情に事情を合わせてイエスの民族、イエスの国家、イエスの世界を見出さなければなりません。真にイエスの愛を受けることのできる立場から、この事業を成し遂げなければなりません。


では、この地上にある万物や天にいる千千万の聖徒たちが地上にいる私たちに訴えるとしたら、何を訴えるでしょうか? イエスの恨みを解放してあげることを訴えるでしょう。では、イエスの恨みとは何だったのでしょうか? 地上に来て、真の両親を持つことができず、真の兄弟を持つことができず、真の弟子を持つことができず、真の民族と真の国家を持つことができず、真の世界を持つことができなかったことです。私たちはこのようなイエスの恨みを解放してあげなければなりません。


これまで一時も休むことなく戦ってこられたのがイエスの立場であるので、今日、私たち一人が神の真の息子娘になるためには、イエスの両親にもなれることを知り、イエスの真の兄弟にもなれることを知り、イエスの真の弟子にもなれることを知り、イエスの真の信者にもなれることを知り、イエスの真の代理者にもなれることを知り、イエスの真の世界を築く勇士にもなれることを知っていなければなりません。このような者となってこそ、イエスの恨みはようやく解放されることができるのです。


今日、私たちはこのような心情を持ってイエスの側に立つ者にならなければなりません。イエスがこのような心情を持って来られたのですから、今日の私たちもこのような心情を持って感激の心を抱き、誕生されたイエスを見つけて出会う喜びを感じることができる者となり、イエスに会って祝うことができる者となり、将来再び来られる再臨主も祝うことができる資格者となるでしょう。


    18


今、天は私たちに何を求めているのでしょうか? 天の喜びは私たちによって成し遂げられるものであり、天の解放も私たちによって成し遂げられるものです。今日の私たち一人は、今やこのような歴史的に重要な立場に置かれています。ですから、私たちの言葉はイエスの言葉を代わりにしなければなりませんし、私たちの行動はイエスの行動を代わりにしなければなりません。迫害を受けて歩く一歩も、イエスが拒絶されながら歩かなければならなかった足跡を代わりにするものと理解し、友を失って孤独であり、兄弟を失ったり、両親を失ったり、弟子を失ったとしても、イエスの事情を感じ取ることができなければなりません。そのような立場に立ってこそ、かつてイエス様がゲッセマネの丘で迷われた事情と通じるでしょうし、ゲッセマネの園に上がって祈られたイエスの悲壮な心情と通じることができるでしょう。


では、今日、私たちがすべきことは何でしょうか? イエスが探し求めた真の一つの家庭を見つけることです。一つの両親を迎えて兄弟たちが一つの一族を成し、繁殖して一つの民族、国家、世界を築くことがイエスの願いでした。


今日、私たちも各家庭に戻ると、両親がいて子供がいます。しかし、愛の真の秩序を立て、真の兄弟と両親と親族と教団と民族を作らなければなりません。このような心を抱いて、皆さんがこの地に誕生されたイエスを見つめる心があるとすれば、イエスは飼い葉桶に寝かされていたとしても、喜ぶでしょう。このような心情を持って今日この一日を記念することをお願い申し上げます。


<祈り>


お父様、送られたイエスをなぜ死の場に追いやられたのかを、人間は今まで知りませんでした。アダムを失われたお父様の悲しみとイエスを失われた悲しみを、今日、私たちが知ることを許してください。哀れなイエスを信じる哀れな信者たちが出てこなければならないことを知っています。主の目的を知る信者が出てこなければならないことを知っています。


摂理の道を歩んだ人々は、死の道をさまよいながらも真の道を探し求めたことを知ることを許してください。真の両親を探し求めたことを知ることを許してください。それが千秋の恨みになった事実を私たちがこの時間知り、私は真の両親を持っているのか、真の兄弟を持っているのか、真の弟子を持っているのか、真の信者を持っているのか、真の民族を持っているのか、真の世界を持っているのかを深く考えさせてください。


    19


天の悲しみが今日も地と天と万民の中に限りなく染み込んでいることを感じずにはいられません。今日この日を祝う私たちは、真の両親となるために、真の息子娘となるために、真の孝子となるために、真の忠臣となるために集まりました。


不足した私たちを通して、過去に悲しまれたイエス様を慰めてください。お父様の心情の中に常に留まり、あなたの事情を解放成就させて差し上げることのできる私たちとならせてください。すべてを委ね、主の名において祈りました。アーメン。

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御言葉選集5(3)

2024年08月18日 17時40分14秒 | 日記
文鮮明先生の御言葉選集 5 - 3 「真理を探し求めてさまよう人類」1958年12月21日(日)、前本部教会。

聖書拝読:マタイによる福音書 7:1-12



<祈祷 (Ⅰ)>

愛する天のお父様、愛の理想郷を目指し、あなたの愛を慕わねばならない人々が、その理想郷を建設しようとするあなたの心情を拒んでから、何千年もの歴史の歩みを経て悲しい涙の足跡を残しています。どうか、このような私たち人間をお許しください。

失われたあなたの愛を恋しく思わねばならない時が来ています。私たちはあなたの心情を感じ取り、あなたの側に立たねばならない復帰の日が近づいていることを知っています。愛するお父様、今日、私たちを立て、新たに勧告してください。私たちをお呼びくださったので、新たに戒めてください。復帰の悲しみを取り除き、喜びと栄光の姿であなたの前に礼拝できる私たちとならせてくださることを、お父様、切に願います。

どうか私たちの心が私たち自身のものに留まらないように、そして私たちの身体が自分だけのものにならないように許してください。私たちが感じる感情から持っている観念や主義主張まで、すべてが私たち自身のものでないようにしてください。すべてが天を基にしていることを知っているので、この時間、あなたのものとしてすべてを掲げ、あなたにすべてをお返しできる私たちとなることを、愛するお父様、切に願います。

私たち一人ひとりは、自分の心を主張しても、その心だけで万象の前に現れることはできません。また、自分の身体であっても、それだけで万人の前に誇れる自分ではないことを認めさせてください。自分の持つ何ものをもってしても、自らを宇宙全体の前で誇ることはできない自分であることを認識させてください。そして、自分のすべてを捧げ、あなたの復活の心情を受け入れ、あなたの心情で調和できるようにしてください。そして、あなたの心情の中に深く入り込めるよう導いてください。再創造の命令の言葉を喜びの心情で受け入れることができる切なる心を許してください、愛するお父様、切に願います。

お父様、幼い者たちがこの時間集まったので、私たちが持ってきた心を主導してください。あなたの前にひれ伏す時には、供え物を捧げるのが私たちの本分でしたが、何も持ってこれませんでしたので、お許しください。あなたに捧げるのは切なる心だけです。この心をすべてあなたのものとして受け取ってください。この身体をあなたに捧げますので、生ける供え物となることを許してください。このような切なる心、慕う心がここに集まった全体の頭の上に、心情の上に、心の上に現れることを許してください、お父様、切に願います。

     1

お父様、ここに集まったあなたの息子娘たちの心を主導してください。個々の状況が違うように、感じる感情も違い、過去に汗と涙を流した歩みも違い、主張も違いますが、この一時間だけでもあなたの心情に引きつけられ、あなたの切なる心に引きつけられるよう主導してください。そして互いに一つの束に結び、同じ目的を果たす供え物となることを許してください。この集会の中にサタンが入り込む心の要素を持つ者がいないようにしてください、お父様、切に願います。

お父様、許された一つの基盤を持っていることに感謝し、私たちが負わなければならない使命を理解させてください。私たちはこの民族の前で言葉を宣言しました。この言葉によって天を向かって慕う心情を持ち、現れる者が多くなることを許してください。この民族、この民の中に、この言葉を握りしめ、あなたに向かって切に祈る者が多く現れることを許してください。

終わりの日に直面している私たちが天の栄光と意思を成就するために勝利の祭壇を準備できるようにし、あなたの勝利の日が早く来ることを切に願います。あなたの栄光が結実することは難しくないと信じています。私たちがそのために内的にも外的にも忠実に準備することを許してください、お父様、切に願います。

今、私たちにとって、この時期は心と身体を捧げて祈らなければならない時期であることを許し、伝えるべき言葉を私たちの心と身体に持つことを許してください。この言葉を実践する責任感を失わないなら、その結実がこの民族の前に現れると信じています。お父様、あなたの意思をこの民族を通して成し遂げ、受け取るべき栄光をこの民族を通して受け取ってくださいと切に願います。

今日は聖なる日です。万人に祝福を与えると約束された日ですので、あなたに向かって切にひざまずいて集まった祭壇祭壇に祝福を与えてください。

     2

一つの心情を通して、一つの血統を通してあなたの前に息子の名前を持って集まった子供たちですので、互いに一つになることを許してください。互いに許し合い、互いに調和することを許してください。そして、あなたの抱いた心情を私たちも抱き、あなたの意思を気にかけることができる集団となることを許してください。

お父様、韓国の教会界を哀れんでください。彼らは命の道を求めていますが、自分たちの進むべき道がどこなのか分かっていません。そして、自分たちの命に自信を持てなくても、そのような教団の上に祝福を与えてください。お父様、進むべき道を知らずに迷う彼らの前に命の光を照らしてください。全宇宙の前に一日の勝利の栄光を表すあなたの息子娘たちとして、万人の前に誇れるこの民族となることを許してください、お父様、切に願います。

お父様、私たちを孤独な場所に追い出されたこの一つの意思を理解しています。私たちを民族の前に供え物として許してください。供え物の道理は、まずあなたが喜ばれ、万物が喜んだ後に喜ばねばならないことを知っています。だからこそ、供え物は自分の血肉をすべて捧げてあなたの意思のために静かに生きる責任があります。ここに集まった息子娘たちもそのことを知っています。

今、立てられた天情を受け入れて、この身も心も祭壇となり、あなたの前に捧げられる供え物となるようにしてください。この一身があなたの実体の聖殿となり、あなたの栄光を讃えることができ、ただ一人、あなたの事情を慰めることのできる息子娘たちとなることを許してください、愛するお父様、切に願います。

今日も地方で多くの迫害と困難の中で与えられた責任を果たすために戦っているあなたの息子娘たちと共にいてください。彼らをあなたが導かれたので、その結実もあなたの胸で成し遂げられるように導いてください、お父様、切に願います。

     3

今、欠けた誠心ながらも、あなたの膝前にひれ伏してそのまま捧げますので、お父様、欠けているものがあれば自らむちを持って叱責してください。それでも、あなたの心情を理解する子供たちがいるならば、抱きしめてあなたの事情、あなたの心情を吐露できるこの一時間となることを許してくださいと、切に願い、求めます。今日のすべてをお任せして主導してください。主の名においてお祈り申し上げます。アーメン。



<祈祷 (Ⅱ)>

お父様、この一年も終わりに近づいているこの時に、私たちが過ぎた一年を振り返り、新しい年を迎える準備の心情を持つことを許してください。新しい年にも、あなたの新たな栄光を望みながら、過ぎた一年よりもさらに深く、切なる心情であなたの手に引かれ、あなたの事情を通じることのできる場所に私たちを導いてください。あなたの胸に引き寄せられることを許し、行くべき場所がどこであってもついていく準備と覚悟を持つことを許してください。

お父様、私たちの命は私たちのものではないことを知っています。私たちの理念や愛さえも私たちのものではないことを知っています。今、私たちの心、私たちの体、さらには私たちの命さえも、あなたによって与えられたものであることを許し、私から出たものではないように導いてください。

人間が自分を中心に誇ることも、肉体を持っている期間だけであることを知っています。人間がどんなに自らを高めても、制限された時間の範囲を超えることができない欠けた存在であることを理解しました。あなたの高き心情を見習うことのできる心を与えてください。広き心情を見習うことのできる切なる心を与えてください。深き心情に似るために、自らを否定し、天に向かってひれ伏すことのできる心を抱くことを許してください、お父様、切に願います。

お父様、私たちの身体を供え物として捧げますので、受け取ってください。この祭壇の前にひれ伏しているので、受け入れてください。人間的な何ものもここに入り込まないように許してください。人間の力を通じた何ものも入り込まないようにしてください。

     4

この一時間だけでも、お父様、6千年間、あなたが人間を探し求めてこられた切なる心情と、その心情の上にあふれる感情をもって格闘させてください。そして、あなたの悲しみを感じ取り、無限に泣き崩れることのできる心の変化が起こることを許してください。あなたの事情を抱きしめ、胸を叩くほどの極めて深い心情を持つことを許してください。

お父様、失われた人間を探し出すために、6千年の歴史的な復帰摂理の歩みを続けてこられたことを学びました。そのような歴史の道を通じて、あなたが流された涙の祭壇の跡を私たちは知りました。あなたがその歩みの中で、安らかに歩むことができなかったことを知りました。今、私たちの心が焦燥に駆られても、自分のためにあるのではないように許してください。無限に苦しい時にあっても、自分を中心としないように許してください。

言葉にできないほど孤独で、言葉にできないほど迫害され、無限に追い込まれ、無限に不当な立場に立たされても、自分のためではなく、あなたのために立つことのできるあなたの息子娘たちとならせてください。

心は心を通してでなければ通じず、命は命を通してでなければ通じず、理念は理念を通してでなければ通じず、あなたの愛も愛を通してでなければ通じないことを知っています。お父様、永遠の命を動かすためには、命は命で動かさねばならず、愛は愛で動かさねばならないことを知っています。お父様、そのように命の主であるあなたが命として現れ、愛の主であるあなたが愛として現れてください。

私たちはその命の枯渇に苦しんでおり、愛の枯渇に苦しんでいます。そして、すべての理念的な面で困窮しているので、一日の生活も守れない欠けた姿です。天と地を裏切り、理念を失った堕落の恨みを胸に抱き、この日も悲しみながらあなたの前にひれ伏します。この哀れな姿を、お父様、抱きしめてください。あなたが知らないと言うなら、誰が私たちを引き受けてくれるのでしょうか。あなたが私たちを支えなければ、誰が私たちを支えてくれるのでしょうか。私たちの前には指導者もなく、師もいません。唯一、お父様、あなたが共にいてくださることを切に願います。

     5

私たちが困難に直面する時や、悲しみに襲われる時、あなたが私たちの心を慰めるために努力してくださっているのを感じるとき、あなたの前で顔を上げられない私たちであることをお詫び申し上げます。「行け」とおっしゃる道に従い、私たちが迫害される歩みを続けるのを見て、涙を流されるお父様、申し訳ありません。「来い」とおっしゃるあなたの呼びかけに応えて、あなたが歩まれた足跡をたどり、死の道も覚悟した私たちです。お父様、死の道が現れたとき、死の恐怖に怯え、その前で退く者にならないようにしてください。私たちの身体が引き裂かれ、心が引き裂かれる苦しみが訪れても、お父様、あなたのため息が残っており、あなたの願いが残っており、あなたの愛が残っている限り、すべてを克服して立ち向かうことのできる天の真の勇士、天の真の息子娘となることを許してください、愛するお父様、切に願います。

お父様、私たちを民族の前に、孤独な場所に追い出されたのは、あなたの大きな摂理があるからであることを知っています。どうか、あなたが私たちを叱り、打ち、歴史してくださり、私たちが死の世界を突き破ることのできる命の基盤となるようにしてください。そのように、この命の動きが私たちを通じて孤独な祭壇にまで現れるようにしてください。

死の世界を突き破ることのできる天の勇士がいるならば、その者もまた感謝の心を持ち、立ち向かわせてください。そして、あなたが残されたこの最後の道でためらう者にならないように許してください。残された者たちがその道を見て引き返す者にならないようにしてください。今日、死の都市に向かって進んでいる私たちです。お父様、あなたの力強い手を取り除かないでください。力の言葉を与えてくださり、最終的な栄光を讃えるその日まで、最終的な勝利を手にする日まで導き、勧告してください、お父様、切に願います。

お父様、40数の道を探して立てるために、私たちよりも多くの苦労をされてきたことを知っています。そして、成し遂げる時が近づいていることを知っています。今、私たちの心はどこへ行くのか、私たちの身体はどこへ行くのか。この民族はどこへ行くのか。この人類はどこへ行くのか。どこへ行っても死の恐怖が迫っています。ここでこの民を責任を持って導くことのできる、血がたぎる若者たちが必要な時が来ています。ここに集まったあなたの息子娘たちを勧告し、彼らの血と肉があなたのものとなるようにしてください。愛の爆発物、愛の原子爆弾となるようにしてください。そうして死の世界を克服し、すべてをあなたのものとして返すことができるようにしてください。その勝利の園を新しい再創造の理念圏内で抱き、威風堂々とした勇姿を持つ精兵の姿となるように導いてください、愛するお父様、切に願います。

お父様、切に祈ります。この民族の運命を哀れんでください。この民族を抱きしめ、無限に涙を流し、無限に悲しみ、無限に悔い改めるあなたの息子娘たちが多くなければなりません。この民族の中には、天倫のため、国家のため、民族のために泣かなければならない選ばれた者たちがいます。

     6

お父様、私たちの心に民族的な命の感情、民族的な愛の感情が爆発するようにしてください。この民族を兄弟として、両親として、友人として抱きしめ、あなたに向かって進むことのできる息子娘となることを許してくださいと切に願います。

深い眠りに落ち、迷っている人類を哀れんでください。この人類の命に代わって、あなたの前に祭壇を築こうとする多くの息子娘たちが集まっている場所ごとに祝福してください。

速やかに、あなたの業を行うために無限に許容し、無限に譲歩する心を持つことができるようにしてください。あなたの業であるならば、命を超越し、自分のすべての所有権を超越してあなたの前にすべてを捧げなければならない人間であることを知っています。互いに思いやり、互いに尊重し、互いに支え合うことができるように導いてください。そうして、失われた一つの理念の世界、一つの善の園を復帰するあなたの働きが、この全ての民族、頭を下げる場所ごとに現れることを許してください、お父様、切に願います。

この時間、霊界にいる無数の聖徒、無数の天使たちを動員して、正しくない暗闇の勢力を防いでください。そして、取り除いてください。お父様、あなたが唯一の主導者として、唯一の栄光を担当してくださることを願います。孤独な家族を抱きしめ、慰め、導いてくださることを願います。すべての言葉を主の名によって祈ります。アーメン。




<祈祷 (Ⅲ)>

お父様、私たちの心情を空虚な心情に変えてください。あなたに向かって無限に湧き上がる私たちの心情となることを許してください。そのような心情の中で、あなたが万物を創造されたその創造理念を移してくださり、あなたが動くと私たちの心が動き、あなたが静まると私たちの心情が静まることのできる自分たちとなることを許してください。

     7

静かな心に沈んで、その心に映る姿を見て喜びたいと思われたお父様、静かな心情を見て訪ねてきて撫でたいと思われたお父様、今、私たちの心と心情はあなたによって動き、あなたのものとしてのみ使われるようにしてください。そして、あなたのものとしてのみ調和し、あなたのものとしてのみ本質世界に深く染み入ることのできる私たちの身体と心情となることを切に願います。

地上には多くの人が住んでいますが、その心の根底、その心情があなたの中に隠され、埋もれるために苦しんでいる者はいないことを、お父様、知っています。今日、私たちの心は非常に本然の心情が恋しく、本来の本性が求められています。これを実現するためには、あなたの新しい言葉が必要であることを知っています。

あなたが喜ばれるために創造された人間が、たとえ堕落して悪い世界に生きているとしても、本性の本然の世界を目指して動いています。本性を呼び起こすための本然の再創造の言葉を6千年、待ち望んできました。そんな言葉を恋い慕い求めて6千年…。

今、死の都が裁きの日を迎えようとしています。お父様、そんな時にあって、恐怖の世界で苦しんでいるこの人類、行くべき道を知らずに迷っているこの人類、中心を失い、居場所を知らず、留まる場所を見つけられない人類を哀れんで、あなたの胸の中に戻れるように導いてください。

ここに集まった子供たちは、あなたが探し求めることのできる聖殿であり、本質的な基盤であることを知っています。あなたが動かないならば、この地上のすべての被造物は裁きの日を迎え、無限の苦しみを受けることでしょう。お父様、再創造の手を差し伸べてください。

     8

愛するためにアダムとエバを創造された元の創造原則があるのではないですか。その原則に基づいて、この人類を再びあなたの前に立たせるために、疲労も顧みず、無念も悲しみも顧みず、怒りと涙の道も顧みず、血の祭壇も顧みず、私を支えてくださるあなたの心情を理解させてください。そのようにせざるを得ないあなたの歴史的な事情を理解できるように導いてください。


あなたの焦燥感を感じ取って、この時間、すべてをあなたのものとして調和させ、あなたのもの以外の一切を取り除いてください。あなたが喜ばれるならば、私たちも喜ぶことができ、あなたが動けば、私たちも動くことを許してください。そうして、万象の前に美の栄光を備えた本来の姿で現れ、新しい声で伝えることのできる姿に回復させてください、愛するお父様、切に願います。

今、私の心が私の心でないことを知りました。私の身体が私の身体でないことを知りました。私が生きているこの地が私のものでないことを知りました。この宇宙が私のものでなく、すべての被造物が私のものでないという事実を知りました。すべてがあなたに由来し、あなたの意思と結びついて、あなたのために創られたものであることを知っています。

このように創られた中心に対して、すべての人々は喜びの栄光を探さねばならないのが創造の本性であることを知っています。立てられた一つの中心の栄光に調和し、心が動き、全宇宙が動くことのできるそのような調和の実体、本来の姿に回復させてください。

今、宇宙的な悲しみの歴史を清算し、新しい喜びの歴史を創造せねばならない時が来ました。お父様、私たちの力が不足しているので、強い力を与えてください。そして、強い欲望を持つことを許してください。新しい勇猛さを備えて目標に向かって自信を持って進むことのできる天の精兵の姿を備えることを許してください、お父様、切に願います。

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カナンの地を見据えたヨシュアとカレブにあなたは「強くあれ、雄々しくあれ」とおっしゃいました。敵に対して立てられたヨシュアの前に立つ基準は「強くあれ、雄々しくあれ」というものでした。今日の私たちも強く雄々しくカナンの都市に向かって総攻撃を仕掛けなければなりません。

最後の決戦が目前に迫っているこの時、暗闇の勢力に対してこの地上で責任を持って戦うことのできる息子娘が必要であることを知っています。お父様、ここに集まったあなたの息子娘がそのような責任者となることを許してください、愛するお父様、切に願います。

ここに集まった息子娘たちの心を主導してください。今日、自らを立てて主張する者がいますか?自分の主義や思想、観念を通じて、あるいは自分の認識を通じて、あなたに接する者がいますか?それはあなたの絶対的な権威を知らない者であり、あなたの背後にある苦しみを知らない者です。

お父様、私たちの心情を握りしめ、新しい命の言葉を聞き、新しい愛の感情を通じて再創造の業を成し遂げることができるようにしてください。自分の不足や未熟さを悟らせ、未完成な存在であることを告白して、頭を下げることのできる息子娘となることを許してください、お父様、切に願います。

本性は一つの理念に向かって動こうとします。私たちの身体と心もその意思に従って動くことができるようにしてください。この時間、心と身体が一つとなることを許し、この一つとなった身体と心が供え物として捧げられることを許してください。

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恨みと悲しみで6千年間閉ざされていた死の壁を切り開くことができるようにしてください。そうして、無数の聖徒たちが動き、三位一体を中心とした霊界の多くの霊人たちがこの時間、喜びの讃歌を捧げることができるようにしてください。万有万象のすべての存在の前に復帰と解怨の日を約束するこの一時間となることを許してください、お父様、切に願います。

心が主導となり動く全体の世界を身体で統合し、あなたの祭壇の前に結びつけるこの時間となることを切に願います。

今、言葉を伝えようとします。伝える者の心と受ける者の心が二つにならないようにしてください。心で動く言葉であるならば、心で心を感じさせてください。身体で調和させ、あなたの実体の姿の前に導かれるこの一時間となることを許してください。

サタンが一切入り込まないようにしてください。サタンが訴える要素を聖別してください。お父様、あなたが直接、主導してください。


自らの不足を感じ取らない者には、炎のような目で現れてください。そして、私たちの身体と心をあなたのものとして主張し、あなたが臨在してください。苦しみの条件を通じて蕩減復帰の使命を完遂する、その業を成し遂げることのできる私たちとなることを許してください。すべての言葉を主の名によって祈ります。アーメン。


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<御言葉>


今日、皆さんにお話ししようと思う題名は「真理を探し求めてさまよう人類」です。「真理を探し求めてさまよう人類」という題名でお話しします。


今日、皆さんは言葉にできない焦りと忙しさを感じ、その一方で悲しみを感じている自分をよく知っていると思います。しかし、自分の身体には心があり、その心には心が求める何らかの目的があり、その目的の本体へと無限に吸収しようとする力があることを否定できないでしょう。何か分からないけれど、自分を何の当てもなく無限に引っ張っていくような生活環境に置かれている自分自身を否定できないでしょう。


このように感じるならば、皆さんは自分自身に戻り、自分の身体を再び感情で見つめ直し、自分の心を再び感情で見つめ直す必要があります。さらに、今日の人類が知らない理念的な無形の世界があるとするならば、その霊的な世界の霊を中心に自分自身を再感情する必要があります。


そして、その霊と自分が一体である、つまり、いかなる観念や思想、理念の中で一体的な関係を築き、一つの方向に進むことのできる自分を見つける必要があります。そうしなければ、皆さんの心情には平和が訪れることはなく、幸せや何かを求めたとしても、その希望は成就されないのです。これをまず皆さんに断言します。


皆さんが原理を通して学んだように、人間は本来、善なる存在でした。しかし、その善なる人間が一日で過ちを犯し、善でない存在となったことを歴史が証明しており、私たち宗教者も証明しています。また、自分自身もその事実を否定できません。


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その善の基準は、私たちの命と他のすべてが追い求める理念の基準であり、希望の基準です。さらに、心と心の中で動いている永遠の愛の中心であり、情的な理念の焦点です。そして、それは今日、自分の心を引っ張って何らかの絶対的な安息の場所を追い求めるものです。また、時間と空間を超えて、自分の身体を制御し、自分の心の方向を制御し、自分が目指している理念を制御する力として作用しています。


今日、これを自分一人を中心に見たとき、つまり、身体を中心に見るのか、心を中心に見るのか、あるいは霊を中心に見るのか、そのいずれかが一つ一つの中心となるべきです。そして、これに自由に接し、自由に調和することができて、個人の生活的な感情が全体の感情と結びつくことのできるそのような環境を作るべきです。そうしなければ、皆さんの心と身体、あるいは霊的な動きの全体の価値を見つけることはできないことを理解してください。


だからこそ、堕落によって生じた恨みが今日のような悲しみの場所を生み出し、堕落による悲しみが人類をこのような逆境に追いやったのです。ですから、皆さんが進んでいる歴史の道は堕落によって始まった道をそのまま歩んでおり、そのような立場で苦しんでいるのです。


それならば、皆さんが苦しんでいる自分の姿を第三者の立場に立って批判してみてください。あなたの身体はどの方向に向かって動いているのか? あなたの心はどの方向に向かって動いているのか? そして、あなたの霊的な姿はどの方向に向かって動いているのか? 何か分からないが、絶対的な理念の本体であり、善の本体であり、命の本体であり、愛の本体であるその何かを必然的に探さねばならない人間なのに、自分自身は今、迷っています。


そうであれば、このような自分の姿が絶対的な善の方向と角度に比べて、どの方向と角度を持っているのでしょうか? 自分の心は上へ行きたいのに、左へ行くのはどういうことなのでしょう? 自分の心はより高い理念を持ちたいのに、限界のある宇宙観を持っているのはどういうことなのでしょう? このような立場から脱却し、本来の自分を見つけるために復帰の道を歩んでいる今日の人類です。今、皆さんの姿をもう一度冷静な立場から観察するべき時が来ました。そして、皆さんは何かを探すために苦しんでいる自分の頑なな姿を見つめることを知るべきです。さらに、皆さんの心と霊が実体として調和し、一つの栄光の価値を代わることのできる姿となるべきです。しかし、創世以来、そのような姿は一度も現れたことがありません。ですから、何か分からないが、探さなければならない道、運命の道を歩まなければならない自分自身であることを理解すべきです。


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自分自身には身体があり、心があり、霊があります。私たちはこの身体と心と霊が統合された一つの姿となるべきです。したがって、この地上に何らかの創造的な主人がいるならば、その主人の前に引き寄せられ、抱きしめられることができ、その一体が他を抱きしめることができる姿、これが創造主が探し求めている姿であるでしょう。また、今日、私たち人間が探し求めている姿でもあるでしょう。


では、自分の心は身体に真実を求めるよう命じています。まず真の身体を求めるよう命じています。今日、世界の人類は何か分からないが真実を探し求めてさまよっています。堕落による恨みの中で生きているこの世界に住んでいるため、何か分からないが真実を探さねばならないその運命に巻き込まれています。


今、皆さんは探さねばならない本来の自分を見つけて喜ぶことができない自分であることを理解すべきです。悲しみに直面している自分であることを理解すべきです。しかし、何かの世界を見て悲しんではいけません。苦しみを感じても、何かの相対的な世界で起こる苦しみを感じてはいけません。悲しみと苦しみを感じるならば、真の自分を見つけられない悲しみ、真の自分を見つけられない苦しみを感じるべきです。世に悲しみや苦しみが多いとしても、真の自分を見つけられない悲しみと苦しみよりも深い苦しみや悲しみはないことを知るべきです。


では、創造主である神様は今日まで誰を探しておられるのでしょうか? 皆さん自身、つまり私を探しておられます。だからこそ、真の私が完全に決定されねばならないのです。そうでなければ、完全に一つの実体を中心とした真の家庭、真の家庭を中心とした社会、国家、さらに国家を単位とした世界、世界を単位とした天宙とつながることはできないのです。だからこそ、完全に私となることがすべての段階の第一基準となるのです。


神様は6千年間、人間に対して無限に悲しんでこられました。愛する息子娘を失ったこの事実が悔しいならば、それ以上に悔しいことはないことを理解すべきです。すべての被造物が宇宙空間に満ちていますが、それは問題ではありません。アダムとエバを一つ失ったことによって、全宇宙が暗闇の世界に変わったということです。そして、神様は無限の苦しみと悲しみを感じておられるということです。


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では、今日の人間が失った自分を見つけるためにはどうすればよいのでしょうか? 失った当時の神様の心情を思い出さねばなりません。そうでなければ、本来の自分を見つける方法はないのです。失ったものは失ったその場所に戻って探すことができるように、失った自分を見つけるためには、自分を失った時の神様の心情を思い出さねばなりません。そのような運動を提唱しなければ、人間は本来の自分を見つけることができないのです。


それで天は私たち人間に対して6千年もの間、探し求めてこられたのです。つまり、私一人を見つけるために6千年の歴史的な道を歩んできたのです。その6千年の歴史的な道は血の涙の道であり、その6千年の歴史的な道は迫害の道であり、その6千年の歴史的な道は死の道でした。


このような道を歩みながらも、神様は私一人を探し求めるために、6千年前のエデンの園でアダムとエバを失い流されたその悲しみの涙、苦しみの心情を忘れずに戦い続けてこられました。6千年を一日として失ったその時の心情で人間を探し続けてこられました。このような神様の心情を皆さんは理解すべきです。


悲しみは6千年前の神様の心情から始まりました。したがって、今日までの歴史は悲しみの歴史として残り、私たちには悲しみの結実が生じました。ですから、神様の心に刻まれたその悲しみを解消しない限り、今日の人類の悲しみは解消されません。この事実を私たちは理解しなければなりません。


絡まった問題は絡まった場所で蕩減復帰しなければならないのです。これが救済摂理の鉄則です。これが鉄則であるならば、今日の私たち人間は自分一人を探し求めるために失われたその心情を探し求める歴史的な終末時代が来ることを知るべきです。では、終末時代にはどうなるのでしょうか? 一つの心情の基準を定め、その心情を基準に審判が行われるということです。


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今日、皆さん自身を見つめたとき、皆さん一人の身体には6千年もの間、神様の悲しみの涙の跡が染み込んでおり、神様の苦しみの血の跡が染み込んでいることを理解すべきです。そして、骨の髄にまで悪に対する恨みが刻まれていることを理解すべきです。また、このような恨みの条件を取り除くための神様の悲しみと苦しみが自分一人の身体に染み込んでいることを理解すべきです。


昔、エデンから追放された人間は、神様の心情を知らず、自分を中心にして悲しみました。だから今、自分の身体の悲しみと苦しみを忘れて、まず神様を悲しみと苦しみから解放しなければなりません。このような自分にならなければ、歴史的な恨みを解消して乗り越えることはできないのです。だから今、自分一人が6千年もの間流された神様の涙の結晶であることを感じるべきです。そして、自分一人の身体は神様の涙の結晶であるだけでなく、神様の苦しみの結晶であることを理解すべきです。そのような場所でこそ、自分の存在価値が再生されるという事実を理解すべきです。


だからこそ、堕落によって生じた悲しみと苦しみを解消すべき終末に直面している私たちは、今、神様の心情を代わらねばなりません。6千年もの間悲しみ続けてこられた神様を代わって悲しむことができるようにすべきです。6千年もの間苦しんでこられたその神様を代わって苦しむことができるようにすべきです。その神様を代わって受け入れる立場にあるのが人間です。しかし、このようなことを知らない人間であるがために、天は審判という言葉を掲げて人間に対して涙を流しながら摂理を進めておられるという事実を皆さんは理解すべきです。


では、審判を避ける道はどんな道なのでしょうか? 自分の身体を抱きしめて泣くことではありません。自分一人の苦しみのために泣くことではありません。自分を救うために自分の苦しみよりも大きな苦しみを持っておられる神様の苦しみを理解すべきです。自分の悲しみよりも大きな神様の悲しみがあることを理解し、自分の身体の困難よりも大きな神様の困難があることを理解すべきです。そして、自分のすべてを否定し、背後から歴史を動かしてこられた神様の心情に染み込んでいるすべての苦しみを解消して差し上げるべきです。そのようなことを担うべき身体を探し求めねばならない運命を持っているのが今日の人類です。


このように見ると、堕落した人間が自分自身を打ち破るためにはどうすべきでしょうか? 自分の心を動かすことができ、自分の身体を動かすことができ、自分が持っている物質を動かすことができるのは何でしょうか? それは完全な愛の心情です。だから皆さんは、霊が心を抱きしめて愛することを感じることのできる人、心が身体を抱きしめて愛することを感じることのできる人、身体が万物を抱きしめて愛することを感じることのできる人になるべきです。まさにそのような人が、私たち人間が探し求めねばならない目的地であり、終着点なのです。


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しかし、心があっても、心が身体を抱きしめて愛していることを感じる人がいませんでした。霊が心を抱きしめて愛していることを感じる人がいませんでした。神様が私たちの霊と心と身体を抱きしめて愛しておられますが、それを感じることのできる人がいませんでした。このことを皆さんは理解すべきです。


神様は私の霊を抱きしめて愛しておられ、私の霊は私の心を、私の心は私の身体を、私の身体は万物を抱きしめて愛すれば心情が統一されるのです。そのような世界では万物を愛する心情は身体を通し身体を愛する心情は心を通し、心を愛する心情は霊を通し、霊を愛する心情は神様と通じるのです。これが人間が探し求める終着点です。


皆さんを引き止め「あなたにはどんな使命があるのか知っていますか?」と尋ねる人はいません。しかし皆さんが知らないうちに皆さんが進む道を遮り、「あなたは誰か? あなたはどこへ行くのか? あなたは何をするのか?」と勧告しておられる方がいます。しかし皆さんはこれを知りません。


では人間が堕落したことによって何を失ったのでしょうか? 愛を失いました。神様の愛を失ったことが人間が嘆き悲しむ原因です。そのために人類の歴史も神様の愛を失った中で嘆き悲しむ歴史の道を歩んできました。分かりますか?


神様の愛は実体的な地上の天国を建設することのできる永遠の天国理念の土台です。しかし人間は堕落によって永遠の世界の理念的な基盤である神様の愛を失いました。この神様の愛を失ったために、神様は人間から離れてしまいました。そうして地上の天国を築くことのできる神様の愛は次第に崩れ落ちていくのです。


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神様の愛を失ったことが堕落であると述べました。では、その堕落の歴史的な経路を考えてみると、どのような道をたどったのでしょうか?まず最初に、エバが神様の愛を失いました。次にアダムがそうなりその後に彼らの子供たちもそうなりました。このことは皆さんもよく知っているはずです。これが堕落の経路であり、人類の歴史もまた、愛を失う歴史であったのです。


では最初に愛を論じたのは誰だったでしょうか?それはエデンの園のエバでした。次に誰だったのでしょうか? アダムでした。そして、その次はカインとアベルでした。これが神様の前に最初に現れた人類の家族が歩んだ堕落の歴史の原型だというのです。この堕落の歴史的形態が人類の歴史の始まりに起こったため、人間は今までこのような歴史を経てきているのです。


したがって愛は全宇宙を統率できる一つの中心です。それは主観的な中心であり、統率的な中心であり、寛容的な中心です。これが愛の理念です。この理念が歴史の基盤となったのです。


そのため歴史の道程を見てみると原始時代には母系を中心とした氏族社会がありました。これは最初にエバすなわち母親が愛を論じたからです。これが部族社会を経て、父系を中心とした歴史へと移行し、そして今日の民主主義時代に至っては、兄弟を中心とした兄弟主義の時代になっています。このようにして下ってきた歴史は、終わりを迎えました。今日の人間たちには、親に対する愛を見つけることができなくなってしまいました。今日の民主国家がその例です。


そのため最後には兄弟の立場から夫婦の理念を備えて進んでいくものさえも壊れる時期がやって来ます。だからこそ、今日、天が人間と連絡を取ることができる愛の梯子が断たれつつあるのです。したがって今日の人類は親の愛を失った孤児、真の夫婦の愛を失った孤児、真の兄弟の愛を失った孤児のような立場で生きています。これまで先進国ではまずこうしたことが縦に起こっていましたが、現在ではこれが世界的に、横方向に広がっているのです。


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では、堕落がどのようにして起こったのでしょうか? アダムとエバが神との縦の関係を結べず、サタンと相対的かつ横の関係を結んだために堕落が起こったのです。したがって歴史的な終末時代である今日、民主主義を中心に平等主義が叫ばれているのです。


堕落によってアダムの家庭で何が起こったのでしょうか? カインがアベルを殺しました。そのアベルはエバの代理として存在していました。だからこそ、今日の先進国では平等主義が叫ばれると同時に、女性が男性よりも多くの権限を持つようになっています。したがって、この時代は、横の面を通じて縦の面を立てなければならない時代なのです。しかし、ここで完全な縦の関係を結ぶことができなかったために、世界的な関係が壊れている様子を見ることになります。


今日、皆さんが進んでいくべき道は、天が示す新しい理念の道であり、生命の道であり、愛の道です。この新しい理念と生命を紹介する愛の道を見つけていく歴史の道に立っていることを、皆さんは悟るべきです。

これまで皆さん自身が失ってきた親はどのような親でしょうか?失ったその夫婦はどのような夫婦でしょうか?失ったその子供たちはどのような子供でしょうか?彼らは堕落していない親であり、堕落していない夫婦であり、堕落していない子供です。したがって、今や堕落した一族となったそのエデンの悲しみを払拭し、エデンの喜びを獲得できる一つの集団がこの地上に現れなければならないのです。そのような集団が現れなければ、神様の6000年の復帰摂理は根本的に滅亡の危機に瀕することになるでしょう。

堕落した人間を救うための人類の歴史は、蕩減の原則による歴史でした。母から父へ、父から子供へと主権が移り変わってきた歴史でした。今や歴史的な大転換の時代を迎えました。そのため、天地の運勢が回復されつつあるのです。蕩減復帰の必然的な運命の道程に立っている人類であることを、皆さんは理解すべきです。

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そのため、現在に至っては男女平等が主張されています。女性たちが男性から適切に待遇される時代が来たということです。そうでしょう?これはエデンの園でエバがアダムを逆に支配していたことを蕩減復帰することです。堕落によって進んできた歴史は、正常な歴史ではなく、平面的な歴史でもなく、相対的な歴史でもありませんでした。それは偏向的で、一面的で、一方向の歴史でした。したがって、それが元に戻らなければならないのです。

天は堕落して落ちた人間を戻し、一つを左へ、もう一つを右へと分ける摂理をなさいました。このようにして左右の分立形態は、男女の間にも起こり、男同士、国家と国家、世界と世界の間でも起こっているのです。そして「左」は誤ったことを象徴し、「右」は正しいことを象徴しています。人間は、堕落によって天性を失ってしまいました。それで、良心の導きによって善の道を歩んできたのです。

今日、皆さんは天の前に堅固に立つべきであり、全宇宙を統率する主人公になるべき立場に立っています。では万物の主人公として決定されるための一つの本質は何でしょうか?それは、生命力ではなく、理念でもなく、愛です。ですから、コリント人への第一の手紙13章13節には「こういうわけで、信仰、希望、愛、この三つはいつまでも残りますが、その中で最も偉大なのは愛です。」と書かれています。つまり、愛の道こそが、人間が歩むべき道なのです。この道を歩むべき人間であるために、使徒パウロはそのような言葉を残して去られたのです。イエスは、内なる霊と外なる肉を合わせて、子供の立場を表す一つの愛の基準を立てるべきだったのです。しかし、ユダヤ民族が不信仰のため、その基準は立てられませんでした。

人類の歴史は再創造の歴史であるため、復帰の過程が再び展開されなければなりませんでした。それで霊的なイエス様は天に昇り、地上の人間と向き合うべき聖霊が地上に来られることになりました。そうなりました。この聖霊は、地上にいる霊的な(信仰的な)子供たちを抱えて、何をなさるべきでしょうか?エデンの理念を再び成就しなければなりません。そのために聖霊が降臨されたのです。

したがって、私たちは聖霊と子供の名分を持ち、新郎なる救世主を見つけなければなりません。しかし救世主を探し求めるにあたって、キリスト教徒たちは霊と肉を合わせて探すことができず、理念的な面だけで探しています。今日、道の道、信仰の道を歩む人々も、肉を打つ生活をしています。このようにして信仰者たちは心の世界、霊の世界を探し求めて彷徨っているのです。

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また、今日の子供である信徒たちは、霊と肉を合わせた形を整え、霊的な母である聖霊を中心にして復帰を望みながら進んでいかなければなりません。エデンで父を支配していた母は、逆に支配されるべきです。そして、母の位置を確立しなければなりません。そして、子供たちを支配しなければなりません。

そのエデンの希望は、霊と肉を合わせて成し遂げられなければなりません。人間が堕落したために、霊と肉が分断されてしまったので、霊と肉が一致した立場に立つ必要があります。そして縦の立場にだけ立つのではなく、横の立場にも立たなければなりません。一方向だけを固守し、縦の立場にだけ立つことで、人間は身体と心が分裂し、心と霊が分裂してしまったのです。

では、イエス様の願いが成就される日はいつなのでしょうか?イエス様は地上に来られて、聖霊を立てられましたが、それだけでは満足できません。再臨の約束を残されたため、その約束を果たすために再び来なければならないのです。その再臨の理想は、エデンの園で失われた身体的な母を取り戻すことです。見つけられたその母は、堕落した母を支配して、身体的な父の位置を復帰しなければなりません。ここでイエス様の願いが成就されるのです。

この願いの成就は、霊と肉が一つになることができる理念世界において可能です。そのようになって初めて、霊と肉を持った一つの父母が天地間に現れます。摂理の法則に照らして見ると、一方向的な歴史観が相対的な歴史観として成立するその日が、人類の歴史の道程において必然的に訪れなければならないのです。そのため、今日の人類が一方向的な側面だけを選択すれば、悲しみの世界で苦悩することは避けられません。

このように見ると、復帰の運命の道を歩んでいる私たち人類は何を探すべきでしょうか?永遠に愛することができる私の真の身体を探し、この身体の親を探さなければなりません。身体の親を見つける前に、心の親、霊の親が現れる道理はありません。なぜなら、天地の創造が外面的なものから成し遂げられたからです。それゆえ、皆さんが文字を書くときも左から書き始めます。右から書き始めることはないのです。これは、創造理念世界の存在方式を表現しているのです。

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今日、人間たちが苦痛の中で叫び声を上げるのはいつ終わるのでしょうか?神に代わって私の身体を愛してくれる親を見つけるその日を迎えなければ、人類の苦痛はこの地球上から取り除かれることはありません。どんなに皆さんが立派であっても、皆さんは本来の肉体的な真の父母を失った人間です。したがって、真の父母が現れない限り、真の子供が存在することはできず、この世は依然として罪悪に満ちた世界であり、地獄の世界であり、苦痛の世界であるほかないのです。

このような人間を神は逆さにして探し出そうとされています。神は霊を通じて私たちの霊を探し、身体を探し出そうとされています。神は人類の真の父母、すなわち霊的な真の父母、心の真の父母として存在しています。神はこのように霊と心を合わせた親の立場に立たれていますが、肉体的な親を探し出して会う一日を人類に予告されました。その日がキリスト教でいう子羊の宴の日です。今やその時が来ています。したがって、母系時代を経て、父系時代を経て、今や兄弟時代に入っています。

人間は新しい主義を掲げ、新しい制度を持ち出してきましたが、そこで理想的な相対、理想的な兄弟、理想的な子供、理想的な親が生まれなければ、その主義や制度は崩壊していくでしょう。それはどこまで追いやられるのでしょうか?万物以下の地位に追いやられることになるでしょう。そして、裁きの日に至るのです。

このように見ると、今日の人間は真の父母を探し求めなければなりません。実体を持った真の父母は、新しい理念とビジョンを持って人間を探し求めに来なければなりません。人間がその真の父母を迎えて生きる世界こそが、理想世界なのです。そのような世界を実現するために、イエス様は再び来るとおっしゃったのです。そして、それによって再臨という名詞が成立したことを知っておくべきです。これは疑いのない事実です。

では、この段階に立っている皆さん自身を、今や全ての被造物の前に置いて攻撃しなければならない時が来ました。サタンに代わって皆さん自身の身体を自分自身で攻撃しなければならないのです。皆さんの身体をサタンに代わって自分で打ち倒して進まなければならないのが道の道です。自分自身の身体を打たなければならないのです。

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親の道、愛の道は私一人では見つけて越えることはできません。それはなぜか?私個人は歴史的な堕落の道を通ってこの罪悪の世界に存在しており、時代的な堕落の運命の中に留まっているからです。したがって、この道は一人で見つけることができないのです。そこには歴史的な問題が絡んでいます。そこには私個人を中心にした家庭の問題があり、社会、国家、世界、さらには霊界の問題があります。

新しい理念の世界と縁を結び、その世界と調和しなければ、理念的な愛の世界を見つけることはできません。道の道は、逆境の中で戦いながら見つけていく道です。また、これが6000年間、摂理されてきた神様の道程であったことを皆さんは知るべきです。

では、皆さんは何者ですか? 6千年を代表する犠牲です。したがって、6000年を代表する犠牲となるためには、6000年間にわたって人間に犠牲を捧げさせた神様の心情を理解して現れなければなりません。

エデンの園でアダムとエバが堕落して神様の愛の権限から追い出されたとき、彼らはどのように感じたのでしょうか?彼らは自分たちが追い出されることを悲しんでいました。これが人類の涙の起源となり、苦痛と悩みの起源となったのです。しかし、エデンの園にはそのようなアダムとエバの悲しみだけがあったのではありません。神はアダムとエバを追い出す際に、彼らが追い出されることの悲しみ以上に大きな悲しみの心情を持っておられたのです。これを知らずに生きているのが人間です。皆さんはそれを知るべきです。

ですから、皆さんは神様の愛の権限から追い出された一族であり、その子孫となりました。そのような人間たちは、自分を中心にして悲しんでいますが、神は今日も追い出された人間を見て悲しんでおられるのです。

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では、自分を中心にして天を裏切って追い出された人間は、どうすれば復帰できるのでしょうか?自分の悲しみがあろうとなかろうと、自分の悔しさや死があろうとなかろうと、自分のすべてを否定して神様の悲しみと神様の苦しみと悔しさを抱えて涙を流すことができる集団にならなければなりません。そうでなければ復帰されることはありません。

したがって、キリスト教では悔い改めるように言いました。ここでの悔い改めとは、号泣することを意味しています。すなわち、涙で始まった歴史の起源を再び探さなければならないのです。そのためには、自分自身の悲しみを抱えて泣いてはいけません。死の境界線に落ちた人間を6000年間抱え、人間が知らない間に涙を流して苦しみ悲しんできた神を抱えて泣くことができなければなりません。そのような人がいれば、神は「そうだ、お前こそが私が愛する息子だ」と言われるのです。したがって、このような言葉とともに神様が歓迎することができる人が現れれば、神は人間のために悲しみ、悔しさを味わい、苦しんでこられたすべてを蕩減し、解放することができるのです。

皆さん、イエス様は誰ですか? 人類の真の父です。4千年ぶりに神に代わって真の父母の心情を持って地上に来られた方です。4000年間、悲惨な状況に苦しんできた人類と再会し、神に代わって彼らを抱きしめて愛するために来られた父でした。そのようなイエス様を人間は認識できず、十字架にかけて殺しました。しかし、殺してみたら、それが自分の父であったのです。殺してから、自分の真の父であることが分かったのです。

地上に来られたイエス様、そのイエス様は私たちを命へと導いてくれる真の父でした。そんなことも知らずにイエス様を殺しましたが、彼が本当に自分の父であると分かると、涙を流さない者はいません。どんなに悪党であろうと、殺人者であろうと、石のような心を持った息子であろうと、胸を叩いて号泣するでしょう。父の悲しみを知らないはずがないのです。

このように見ると、イエス様の十字架の死は、4千年間苦しんだ父母の悲しみを知らない人間たちに、号泣させる一つの刺激となったとも言えるでしょう。したがって、十字架に遭遇した者は号泣しなければなりません。号泣してでも、イエス様が天に代わってこの地上に真の父母として来られたのに、そのイエス様を殺したことをまずは神様のために嘆き悲しみ、来られた真の父母のために嘆き悲しみ、さらに地上の人類のために嘆き悲しまなければなりません。

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では、今日の終末に直面している信徒たちはどのような号泣をすべきでしょうか?自分のために泣く時は過ぎました。家族のために、民族と国家のために泣く時も過ぎました。今や世界のために、天のために、聖父、聖子、聖霊のために泣くことができなければなりません。そうすることで、愛を中心にして創造された全体の世界を統率する理念の中に参加することができることを、皆さんは知るべきです。

イエス様を殺した人間たちでしたが、イエス様が真の父母であることを知りました。それで、その真の父母を失った悲しみと悔しさを感じ、再び生き返ることを望みました。そのような本性が人間にあったため、神はその願いを叶えるために再臨主を送ってくださるのです。

その再臨主を迎えるべき終末の信徒たちも共に涙を流さなければなりません。すなわち、歴史的な涙を代わりに流し、時代を代表して代わりに涙を流さなければなりません。

その後に、喜びの涙を流さなければなりません。私たちは生きている間に、このような涙を流さなければなりません。人間たちはこれまで悲しみの涙は流してきましたが、喜びの涙を流したことはありませんでした。そのため、喜びの涙を流すことができる一日を人間たちは待ち望んでいるのです。その日がまさに再臨の日であり、失われた真の父母を見つける日であることを皆さんは知るべきです。

皆さんが待ち望んでいる真の父母様は、ただ数十年の間準備して来られるのではありません。その期間は人間の一生ではありません。6000年でした。来られるのに、安らかに来られるのではありません。皆さんが安らかに眠り、休んでいるその時間にも、天は皆さんを見つけるために努力されていたのです。乞食のように、貧民のように、放浪者のように、囚人、迫害される者のように、極めて悲惨な姿をして、人間の最低の地位から探しに来られるのです。

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ですから、皆さんが眠っている時間にも、天は涙の道、悲しみの道、嵐に巻き込まれる道、一瞬の休息もない道を歩んでこられました。この道がイエス様が歩まれた道であり、多くの先知先烈たちが歩んできた道でもあります。

皆さんが安らかに食べ、眠り、安らかに休んでいる場所にも、天の悲しい声が響いており、天の悔しさと苦痛と号泣が響いているという悲しい事実を皆さんは感じるべきです。それを感じられなければ、皆さんは真の父母の前で愛される資格がありません。

したがって、皆さんは心を抱いて眠りながらも、食事をしながらも、恥じる心を持たなければなりません。罪人中の罪人であり、天地が許せない罪人であることを感じなければなりません。自分が見ているもの、聞いているもの、見て感じているすべての事実が不十分であり、自分自身がこのような裏切り者の結実体であることを知るべきです。そのような私を探し求めている神様の事情を皆さんは知らなかったことを感じるべきです。

今日の信徒たちは、そのような事情を知り、兄弟の手を握って号泣できなければなりません。道端で彷徨う乞食を見て抱きしめて号泣できなければならず、困難な労働者を見ても「なぜ私の兄弟がこんなふうになってしまったのか」と嘆くべきです。

目を上げて彼らを見つめるとき、彼らを見つけて立たせ、彼らを通して自分を見つけて立たせるべき天倫の歴史的道程があるのです。これを知り、出会う人々ごとに涙を持って対することができる、そのような感情に満ちた人間が地上に現れることを、神は6千年間待ち望んでおられます。しかし、民族の飢えを見ても腹を満たして横たわっている者は裁かれるでしょう。民族が裸でいるのに腹を叩きながら踊りに興じている者は裁かれるべきです。

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では、堕落した人類がすべきことは何でしょうか?自分が飢えても兄弟の飢えを切実に思わなければなりません。自分が食べられず、着られなくても、兄弟のために世界の人類のために生きなければなりません。そうして、天が世界の人類のために泣いていたことを私を通して横方向に蕩減復帰しなければならないのです。天はこのような信徒を求めていることを皆さんは知るべきです。

6千年の歴史の道程の中で、ある時、ある一人がそのような心情を持って天を「お父様」と呼んでくれたことがあったでしょうか? 誰が天を親と呼び、誰が人類を真の兄弟と呼んでくれたのでしょうか? そのような人は誰もいなかったのです。

今日、教団を導く教職者たち、信仰の道を歩んでいるとされる教職者たち、その心はどこを彷徨っているのでしょうか? 天が6千年の歴史をかけて切実に探し求めてきた、その天の苦しみと悲しみと願いを代弁した人々もその道を歩んできたのに、皆さんの身体はどこへ、皆さんの心はどこへ向かっているのでしょうか?これを明らかにしなければなりません。皆さんは、このようなことを解決すべき、堕落の恨みに満ちた人類であることを知るべきです。

歴史に残る人物は、自分を主張して前に出た人ではありませんでした。民族史に残る人物であれば、民族を抱えて前に出た人であり、社会的な人物であれば社会を抱えて前に出た人であり、世界的な人物であれば世界を抱えて前に出た人であり、天的な人物であれば天を抱えて前に出た人でした。

今日、皆さんは親殺しの許されない罪人中の罪人ですから、誰があなたを侮辱し、迫害しても当然のことだと思い、捨てられても当然だと考えるべきです。そのような場所でも、神様の悲しみと歴史的な悔しさを感じ、「ありがとうございます」と言わなければならないのが皆さんです。

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それでもなお、侮辱する兄弟を抱きしめて涙を流すことができる場所が、神様の心情を通じることができる場所です。十字架の上で自分を打つ者をむしろ心配し、そのために涙を流し祈ってくださったイエス様の心情、このような心情を抱いて進む道が、真の人間が歩む典型的な道であり、骨の髄まで貫いていかなければならない道です。

今日、皆さんは犠牲です。私たち統一教会員は皆、犠牲にならなければなりません。天はこのような歴史的な犠牲を求めています。では、犠牲とはどのような存在でしょうか?それを受け取る神様が喜ばれ、万人が喜んだ後にようやく頭を上げる存在です。しかし、今日のキリスト教が神様が喜ばれる前に頭を上げ、万人が喜ばれる前に頭を上げたならば、それは壊れてしまいます。キリスト教が万人のために奉仕しなければならない使命を持っているのに、それを果たしていないならば、改革すべき時が来たのです。

そのため、万王の王であり天の皇太子であるイエスもまた喜ぶことができません。なぜなら、犠牲として来られたからです。霊界に行っても、神は喜ばれ、地上の信徒は喜んでも、犠牲であるイエス様は喜ぶことができません。神と万人が喜んだ後に、ようやくイエス様が喜ぶことができる日が来るのです。それが再臨の日です。これが犠牲の歩む道です。

では、今日、この民族が受けるすべての迫害を見つめるとき、皆さんの心はどのように感じますか? 5千年の歴史を経て、この民族はあらゆる苦難の道を歩んできました。悲しみがあってもどこに訴えることもできず、悔しさや苦痛があっても訴えることができず、この民族は進んできました。では、民族を抱えて皆さんはどうすべきでしょうか?孤児のようなこの民族ですが、私たちが手を取り合って号泣できるなら、この民族は生き延びることができるのです。

兄弟の過ちがあろうとなかろうと、天が許された同じ血筋と骨肉を持って生まれた兄弟である以上、自分個人の事情を超えて、親の歴史的な血統と心情に結びつくために泣くことができる寛大な人々が現れなければなりません。そのような青年たちが求められています。

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そのような青年たちの燃えるような情熱があるなら、その情熱をどこに注ぐのでしょうか?自己の出世と欲望のためであれば、それは個人の限界の中で終わるでしょう。人間の本来の理念は、無限の善を越えて越えて神を抱きしめて喜びを感じることを望んでいます。したがって、このような人間本来の理念のために、その情熱を注がなければならないのです。

今日、この民族が歩んできた歴史の道程に神様の摂理があったなら、その摂理の終わりに神はどのような集団を求められるでしょうか?それは、神様の意志を成し遂げるために泣く姿です。一つの意志に結びついて泣き、一つの心情に結びついて泣き、一つの行動に結びついて泣き、まずは犠牲になろうとする集団です。天はそのような集団を求められるでしょう。

ですから、2千年前イエス様は人間に対して「父や母を私よりも愛する者は私にふさわしくなく、息子や娘を私よりも愛する者も私にふさわしくありません…」と言われました。表面的に考えると、このような矛盾した、でたらめな言葉がどこにあるのでしょうか?理解し難い言葉のように見えますが、イエス様は、愛を失って堕落の道を歩んできた人類が、歴史の終わりには自分個人を中心にすべてが崩れていくことを知っておられたため、それを防ぐためにそのような言葉を述べられたのです。もしその時、イエス様が言われた言葉を実践する歴史が起こっていたなら、2000年間そのようなことはなかったでしょう。

今、天を中心にしない親の愛、夫婦の愛、子供の愛を破壊すべき時代が来ました。このような愛を破壊し、その代わりに天を中心とした親の愛、子供の愛、夫婦の愛を教えようとするのがキリスト教です。ですから、キリスト教では新郎新婦の名前を掲げ、父という名前を掲げ、子供という名前を掲げて摂理してきました。

堕落した人間は、愛を失った存在です。そのような人間の前に、愛の主人公として地上に再び天的な愛を回復しようと来られたのがイエス様でしたが、それを成し遂げられずに霊界へ行かれました。そこで人間は霊的な愛の基準を立て、肉的な愛を回復していく道を歩んでいるのです。このことを皆さんは理解すべきです。

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人間には上と下があり、前後があり、左右があります。その上を代わるものが親であり、下を代わるものが子供であり、前後を代わるものが夫婦であり、左右を代わるものが兄弟です。これが愛の原則です。わかりますか? 人間はこの道を見つけて進むべきですが、その中で前後の関係にある夫婦の関係が最も重要です。だからこそ、イエス様は新郎新婦を最も強調されました。

では、イエス様は新婦をどのような心情で探そうとしているのでしょうか? 神に代わる新婦、子供に代わる新婦、兄弟に代わる新婦を探そうとしているのです。わかりますか? 新郎新婦を送り、地上に一つの基準を立てようとするのが神様の意志です。その意志は、新婦を中心にして上には神、下には子供、左右には兄弟があり、その全体が四位基台の形を成そうというものです。そのような愛を代表する相対存在である新婦を探して進んできた歴史が、2000年の摂理の道程です。

では、今、皆さんがすべきことは何でしょうか?男性は女性を尊重すべきであり、女性は男性を尊重すべきです。互いに尊重する心がなければ、女性は男性に対して接することができず、男性も女性に対して接することができません。男性は父の分身であり、女性は母の分身です。分身ということです。

したがって、今日の復帰の過程において、男女がお互いに接するとき、その顔を見てついていく人は崩れるでしょう。相手を神様の二性性相の一性と考え、男性なら女性を、女性なら男性を尊重すべきです。

互いに尊重の心を持ち、個々の相対的な性質を探し求めて進むことが本来の人間が歩むべき道です。子供に接するときも、たとえ自分の息子であっても、彼を父の分身として、娘は母の分身として考え、その性を尊重する心情を持つべきです。また、神様の理想を展開し、万物を創造し、それを総合して万物の主人公として人間を創造されたその理念を心に抱いて、子供を抱きしめて愛することができる親にならなければなりません。そして、堕落した世界に立っているその子供を見つめ、神様が6000年間悲しまれたその感情に対して「そうだ、お前は神様が喜ばれ、人類が待ち望んでいた本来の人間になれ」と言って涙を流すことができる真の親になるべきです。

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このように見ると、イエス様は万物に対して、宇宙に対して資格を備えていました。だからこそ、イエス様は、自分が探している新婦は神様の代わりであり、人類の代わりであり、千年万代の後の子孫の代わりであるという感情を持って新婦を探されたのです。これが新郎であるイエス様の心情であったことを理解するべきです。そのような新婦を探す日には、天と地を抱いた愛の感情を感じることになるでしょう。親に対しても同様であり、子供に対しても同様でしょう。そのような愛の主人公にならなければなりません。

このように、親を代わり、子供を代わりすることができる一体理想の感情を持ち、実体的な形を持った新郎新婦として出会う日が来なければなりません。その日が来れば、天地、すなわち被造物の悲劇的なすべてのもの、または天と地に遮られていたすべてのものが前後左右上下に和動することができるのです。この日が私たち人類が望んでいる日であることを、皆さんは知るべきです。

では、今日、人間が見つけて進むべき場所はどこでしょうか?この一つの場所を見つけて進むべきです。皆さんがこの一つの場所を見つけて進むためには、親に対してそのような心を持ち、兄弟に対してそのような心を持ち、自分の相手に対してもそのような心を感じることができなければなりません。その一つによって世界を代わる感情を感じることができなければなりません。

皆さんがそのような愛の心情を持って天と地の前に立つことができなければなりません。そうしてこそ、神様が4千年を歴史し、イエスと聖霊を立てたように、実体の新郎の立場から実体の新婦に出会うことができるのです。このような関係を結ぶことが神様の創造目的であり、このような実体的な相対を見つけることが人間が進むべき目的地なのです。そうすれば、人間の身体に神様が入り込み、一体として和することができる理想の園が開かれます。これが人間が探して進むべき最終的な目的地であり、人間が見つけるべき必然的な運命の基準点であることを、皆さんは知るべきです。祈りましょう。

<祈祷>
父なる神よ、真を求めて彷徨っている人類の前で、私の一個体は神様の代わりであり、夫婦の代わりであり、親の代わりであり、子供の代わりであり、兄弟の代わりであることを知りました。また、このような偉大な根本的存在の位置を決定することができる心の安息所を私の一個体を通じて、宇宙に築かなければならない必然的な歴史の道程があることを私たちは知りました。

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今、私たち一個体において、男性は真の姉を、真の妹を探し、真の母を探し、真の相手を探していることを知りました。このように同じ理念を求めて彷徨っている人類であり、同じ立場にある人類であり、敵対することができない人類であり、創造理念で結びつかなければならない人類であることを知っています。

しかし、人類の堕落によって親の愛が壊れ、夫婦の愛が壊れ、兄弟の愛が壊れました。したがって、今日、私たちがこれを取り戻すためには、まず兄弟同士で愛の感情を感じなければなりません。さらに、神様の6千年の悲しみに代わって愛することができる相手を探さなければ、天地を代わることができる原則的な基準が復帰されることを知りました。

今日、私たち一人ひとりの姿は単純な存在ではなく、四方性を備え、どの一面も欠けてはならない存在であるため、兄弟がいなければ悲しいこと、友がいなければ悲しいこと、親がいなければ悲しいこと、子供がいなければ悲しいことを知りました。これは、人間が四方性を備え、互いに愛し合うことが天理の原則であり、それが永遠の本心であり、神様が許してくださった生活の第一基準であるため、現生活でこのような状況に直面すると悲しむことになることを、ここに集まったあなたの息子娘たちが知ることができるようお許しください。

今、人類を神に代わって抱くことができる心、聖子に代わって抱くことができる心、聖霊に代わって抱くことができる心情を持たせてください。そして、天の子供として抱くことができるようにお許しください。そのような心を持って天を思い、地を思うことができる私たちであることをお許しください。悲しみ、苦しみながらも喜ぶことができる一日を迎え、永遠の万物世界の前に一つの中心として復帰されることができる喜びの日が早く訪れることをお許しください。

父なる神よ、今日、真を求めて彷徨う道程の終着点で愛する兄弟を持たない者は裁かれるでしょう。愛する子供を持たない者は迫害されるでしょう。愛する親を持たない者、愛する新郎新婦を迎えない者は裁かれることを知ることができるようお許しください。

このような絶対的な鉄則に基づいて、私の身体から真の親を、心から真の親を、霊から真の親を探し求めるべきであり、霊の親はあなた、心の親は再臨の主、肉の親は私を産んでくださった親であることを知り、その相手となる私の子供、兄弟、相手を見つけることができるようお許しください。主の名において祈ります。アーメン。


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御言葉選集5(2)

2024年08月18日 16時11分15秒 | 日記


文鮮明先生の御言葉選集 5 - 2. 神様が主管しようとされる天国を探し築こう (1958年12月14日)


1958年12月14日(日)、前本部教会。


聖書拝読:創世記 1:24-28




<祈祷(I)>

失われた真の子供を探し出すために、復帰の悲しい道を進んでこられたお父様の心情と、お父様の事情と、お父様の姿を、この時間、心と体で感じ取り、体得できる息子娘となることを許してください。


アダムとエバを愛することができなかった、6千年の長い年月を愛に飢えて過ごされたお父様の心情を体得できるお父様の息子娘とさせていただき、悲しいお父様の心情を抱きしめ、慰めることができる切なる子供たちとさせてください。


今、この心と体をお父様のものとして捧げることができるようにしてください。私たちの体と心を自分のものとは思わず、永遠なるお父様のものとして誇れる勝利の供え物とさせていただけるよう切に願います。そして、6千年間、真の愛の心情で抱きしめ、愛することができなかった心情を解いて差し上げることができる、あなたの血族とさせていただけるよう切に願い求めます。


地上に多くの人が住んでいますが、お父様が「私の息子娘だ」と愛し、サタンの前で「私の息子娘だ」と弁明し、抱きしめて愛することができる息子娘がいないことを知っています。2千年前、イエス様がこの地上のすべての人を救うために戦いの道を歩まれた時も、お父様は自ら抱きしめて愛することができなかったことを私たちは知っています。


お父様が愛する子供は、誰にも奪われることができないことを知っています。お父様の心に深く刻まれたイエス様であっても、あなたの愛を受けられなかったことを私たちは知っています。愛することができなかったお父様の事情も私たちは知っていますので、栄光の一日を立て、天の息子娘を立て、その切なる心情を解き、抱きしめて愛し、すべての心情を吐露してください。そのような天の息子娘がこの地に現れることがお父様の願いであることを私たちは知ることができるよう許してください。


     1


今日、私たちは何も持たず、すべてを失ったとしても、お父様の愛の懐に抱かれ、永遠の愛を受けることができる息子娘となることを願います。


愛するお父様! 私たちを祝福してください。権能の手を伸ばして、私たちを聖別してください。悪の要素を取り除き、完全にお父様のものとなることができる私たちの体と心を許し、そういう集まりとさせてください。お父様、切に願います。


お父様! 私たちの心をお父様がご存じであり、私たちの体をお父様がご存じであるので、この時間、お父様の前に跪いた私たちのこの一つの体と心に欠けるものがあるならば、お父様、力を示してください。力強い手を伸ばし、再創造の歴史を起こしていただき、聖別された姿となることができるよう許してください。お父様だけが動かすことができ、お父様だけが主管することができ、お父様だけが勧告することができるこの時間となるよう、愛するお父様、切に願い求めます。


多くの人がこの地上に住んでいますが、その中で価値のない私たちを選び、何もない私たちを呼んでくださったお父様の前で、責任と使命を果たせないのではないかと恐れる心を抱いています。お父様! この時間、私たちをお導きください。モーセが杖で紅海を打ったとき、紅海が分かれたことを知っています。お父様、私たちの杖となってください。お父様の手が動くように、動くことができる天の杖となることを許してください。愛するお父様、切に願い求めます。


この日にここに集まったあなたの息子娘たちを、お父様、親しく主管してください。戦いの地を目指して進軍しなければならない最後の時間がすでに来ています。 今や自らを振り返り、どこにいるのかを見極めさせてください。お父様のものとして捧げられる私たちとなるよう導いてください。各自の立場で、置かれた場所で、お父様の前に供え物として捧げられる息子娘とさせてください。お父様、切に願い求めます。


     2


3千万を代表して私たちが戦いの一日を定め、期待し、待ち望んでいます。お父様、その日を祝福してください。私たちが新しい命の爆弾となって投げられることで、死んでいた命が生き返り、お父様の安息の地を見つけ、喜びの日が速やかに地球上に現れるよう許してください。この民族の中に現れることを許してください。お父様、切に願い求めます。


今、私たちの不忠な体と心を一つにまとめ、お父様の前に捧げたいと思います。自ら罪のすべての要素を捨て、純潔な体と心として、お父様のものとして捧げられるよう祝福してください。サタンの侵略がないように許してください。すべてのことを主の御名によって申し上げました。アーメン。




<祈祷(II)>

お父様、この者たちの心を主管してください。跪いたこの子供たちの魂がいろいろな形をしていても、お父様の命の動きによって統一された性質を備え、一つの供え物として、この時間、お父様を迎えることができる子供たちとさせてください。


今日、この日はすべての命が父の前に出て、お父様を賛美する日であることを知っています。お父様の御名を歌う場所ごとに愛の手を伸ばしてください。天の恩恵を授けていただけるよう切に願います。特に孤独な家族たちがこの一時間、お父様に願い求めていることを知っています。彼らが訴える声をお聞きくださり、彼らの切なる心を哀れんで、彼らが望む願いと彼らが求める願いを成就させてください。


今、ここに集まったあなたの息子娘の前に、一言の御言葉を伝えたいと思います。与える者の心と受ける者の心が二つにならないように導いてください。動くときには共に動き、定まるときには共に定まり、お父様の現れに私たちも共に喜び、創られた本来の楽園の喜びと恩恵の心情をお父様を迎えながら体得できる時間とさせてください。


     3


虚しい自己を中心としたすべての考えや主義、観念や意識、天を悲しませる心情を持たないように許してください。すべてを捨てて、無私の心情と子供のような心を持ち、お父様に捧げ、御旨に委ねることができるこの時間とさせてください。切にお願い申し上げます。すべてのことを主の御名によって申し上げました。アーメン。





<御言葉>

今、読まれた本文の御言葉は、神がアダムとエバを創造し、祝福された御言葉です。神の御姿に従って一男一女を創造し、すべての万物を主宰し、この地をも済艦しながら子孫を増やしなさいと言われた祝福の御言葉です。今日は皆さんと共に考えたい御言葉の題目は「神様が主管しようとされる天国を探し築こう」です。このような題目でお話しします。


神は我々人間がまだ考えていなかった、より高い理念を中心として被造世界を創造されました。その理念を中心として、すなわち神と人間が永遠の愛の権能内で共に生きるために被造世界を創造されました。


しかし、人間はこのような父の御旨、すなわち創造主神の御旨と一つになれませんでした。そのために、神が人間に対して表そうとした理念は理念として残され、その経綸は経綸として残りました。そして、神と人間の間には復帰、あるいは救いという悲しい条件が生じ、その条件を通して神が人間に向かってこられたことを私たちは原理を通してよく知っています。


では、堕落した今日の‘私’は、堕落する前の本来の‘私’に戻らなければならないでしょう。これが人間が果たさなければならない必然的な義務であり、神が成し遂げられなければならない必然的な責任です。ですから、今まで神はこの地上にいる人間を探し出すために苦労してこられましたし、人間も神を探し求めるために苦労してきたことを皆さんは感じなければなりません。


     4


このように神が私たちを探しに来られた足跡を辿ることが私たちの信仰生活です。そして、皆さんは神と先知先烈、そして私たちの先祖が人間を再び探し出すために苦労の道、悲しい血の道を歩んできたことを忘れてはなりません。


では、天が探しに来られた、そして私たち人類が探し求めてきたその終着点は何かと言えば‘私’です。したがって、私たちは天が認めることができる‘私’、歴史を代表することができる‘私’にならなければなりません。摂理の終末時代であるこの時、必然的にそのような人が現れなければならないということです。もし、そのような人が現れなければ、神が6千年の間探してこられた摂理の道も、私たち人類が6千年の間御旨を探し求めて苦労してきた信仰の道もすべて無駄になるということを皆さんは知っておくべきです。


では、天が求め、人類が求めるその‘私’とはどのような‘私’でしょうか?これは神が表すことができなかった創造理念を備えた心情と事情と希望を持つ‘私’であり、今日の人間の歴史において人間が体得できなかった心情、すなわち天的な心情を備え、すべての万物に対して歌うことができる、すなわち万宇宙の主宰者の栄光の価値を持った‘私’です。皆さんはそのような人にならなければなりません。


今日、人間はその人を探し、その人と縁を結ばなければなりません。そのような人と人間が縁を結ばなければ、人間は救われず、神の救いの摂理も完成を見ることができません。また、今日の歴史的な目的もいかなる完成の基準を立てることもできないということを皆さんは知っておくべきです。ですから、今日まで人間がその理念的な標的に向かって走ってきたということを心に留めておかなければなりません。


私たちは人間が堕落したことを知っています。では、堕落とは何でしょうか?堕落とは人間が主人の立場を失ったことであると言えます。すなわち、万宇宙の主宰者として堂々と立つことができる立場を失ったのです。本来、神は人間を御自分の実体として立て、万物万象の前に立ち、号令をかける時に万象が動き、定まることができるそのような本来の一つの自体として立てるために人間を創造されました。しかし、このような本来の御旨を成し遂げることができずに堕落し、今日の私たちのような人間になりました。これを再び復帰するために本来の‘私’を探し求めることが復帰歴史の道であるということを皆さんは知っておくべきです。


     5


人間が堕落することにより、何を失ったのでしょうか?それは神の愛を失い、神の御言葉を失い、その御言葉の実体を失ったということです。では、本来の自己を探し求める私たちにとって必然的にしなければならないことは何か?それは失われたものを再び取り戻さなければならないということです。すなわち、神の愛、神の御言葉、神の人を失ったので、これを探し求めなければならないということです。そして、今日まで救いの摂理をしてこられた神もこれを探そうとされていたのです。


愛を失った人間、御言葉を失った人間、実体を失った人間、人間はなぜ、何ができなかったために愛と御言葉と実体を失ったのでしょうか?信じられなかったためにこれらを失ったのです。信じられなかったためにこれらを失ったのです。ですから、神が人間を探し求められるためには人間が信仰の条件を立てなければならないということです。すなわち、神は信仰を条件として人間に向き合ってくださるということです。そして、信仰を前提条件として人間を救う摂理をされるのです。


私たちが実体を取り戻し、御言葉を取り戻し、神の愛を取り戻す復帰の道においても、まず何を取り戻さなければならないか?それは信仰を取り戻さなければならないということです。これが私たちの重要な問題です。ところが、その信仰を探し求める人間の前には神の愛が紹介され、神の御言葉が紹介され、神が探そうとされる実体が紹介されているのです。


では、完全な信仰とは何か?今日、私たちはイエス・キリストを信じていますが、イエス・キリストと完全な一体の関係を結ばなければなりません。また、信じると同時に神の御言葉を所有しなければならず、神の実体を所有しなければならず、神の愛を所有しなければなりません。このような信仰が復帰の道において必然的な条件です。このような理由で神は信仰の条件を立てて、私たち人間を探しに来られているのです。


人間が実体を備え、御言葉を備え、愛を備え、愛と信仰が調和し、愛だけが残れば、その愛で神に向き合えるように導かれたのが復帰の要点です。このようなことが復帰摂理の道で必然的に現れなければならないのです。


     6


私たち一人の個体を見ても、体があり、心があり、霊があります。ところが、私たちが信じられずに堕落したために体と共に万物を失い、神の御言葉を失い、神の愛を失いました。これが人間が犯した罪の根本的な結果です。ですから、私たち一人の個体がこれらを復帰するためには、歴史の中で積み重なった罪のすべてを取り除かなければならないのです。


では、今日、私たちはどのように復帰の道を歩むべきでしょうか?今日、堕落したこの世は体の安息所を求めて彷徨っています。すなわち、体だけを中心とした生活をしているのです。そして、体が安息するためには物質が必要なので、今まで人類は物質、すなわち外的な条件を満たすために戦ってきたのです。


私の体が安息する間に、次に私の心が安息しなければなりません。では、私の心の安息の楽園はどこでしょうか?今日まで人間はその場所を探し求めてきたのです。さらに、その心の福祉を見つけた後には何を探しに行くべきか?皆さんは永遠なる魂の福祉を探さなければならず、永遠なる私の命の福祉を探さなければなりません。したがって、皆さんはこのように体が安息できる福祉を見つけ、心が安息できる福祉を見つけ、霊が安息できる福祉を見つけた後、信仰を完成させ、神の愛と結ばなければならないのです。


歴史の発展の道をよく考えてみると、歴史はこれまで物質を中心として戦いを続けてきた歴史でした。第二次世界大戦まで物質を中心として戦ってきました。すなわち、経済的基盤を探して体の安息所を探して彷徨うことを第二次世界大戦まで行ってきたということです。


では、その後、第二次世界大戦後の歴史はどのような歴史か?精神界、すなわち人間の本来の心を探し求める現象が起きています。このような現象は思想と主義を中心として繰り広げられていますが、人間の心の福祉を解決するべき思想や主義がその責任を果たせていないのです。ここで今、行き詰まっていることを知っておくべきです。


     7


人間が堕落したことによって、体を失い、心を失い、霊を失いました。これを復帰し、安息の条件を探し求めてきた歴史が人類の歴史ですが、物質を探し求める段階を過ぎ、今は良心を探し求めなければならない段階に来ているのです。そして、皆さんは世界が思想と主義を中心とした2つの陣営に分かれ、対立していることを知っておくべきです。


さらに、私たちは復帰の道を通り抜けていかなければならない立場にあるため、物質を中心とした理念を超えて、心を中心とした理念を探し求めなければならないということです。このような終着点が人類の歴史の道においてなくてはならないということを皆さんは知っておくべきです。


そして、心の福祉を見つけた後にはどうすべきか?永遠の静的な福祉を見つけなければなりません。最後にこの地上に残る勝利の条件は何か?それは天と地を超越できる静的な主義、心も動かし、宇宙も動かすことができる主義です。この宇宙は他のどのような縁によっても絶対に動きません。皆さんは神もどのような静的な理念の世界を探し求めていることを良心を通して見ることで知るでしょう。


資本主義の時代も過ぎ去り、思想の時代も過ぎ去り、これからは良心の時代が来るでしょう。そして、これからは良心の時代を超えて、永遠なる天的な愛を中心とした心情の時代が来なければなりません。このような時代を通るのが堕落した人間の運命であることを皆さんは知っておくべきです。


今、私たちは霊の安息所を探さなければならず、心の安息所を探さなければならず、神の愛を中心とした永遠の静的な安息所を探さなければなりません。このような道は人間が進まなければならない運命の道であることを皆さんは知っておくべきです。


     8


では、今日、私たち一つの自体がそのような立場に立って、どのような権能を回復しなければならないでしょうか?天と地を主宰する権能を回復しなければなりません。これは人間が当然行使できる本来の権能です。したがって、人間は天と地を代表して天と地を主宰し、天と地を統一させて一つの心情の理念世界を築かなければなりません。このような責任が私たちにあるのです。そして、そのような世界が人間の本来の安息所でしたが、人間が堕落したことによってその本来の安息所を失い、そのために復帰の道が生じたことを知っておくべきです。


では、私たちはどのような過程を通過しなければならないでしょうか?私一つの個体を中心に家庭を経て、社会を経て、国家を経て、世界を経ていかなければなりません。これが復帰の道における段階です。


もし、人間が堕落しなかったならば、人間の心と本来の理念が実際の生活で調和を成していたでしょう。しかし、堕落によって理念は理念として残り、人間の心は別の道を進むことになりました。このような理念と心の間隔が人間に苦痛として残ったということを知っておくべきです。


これが何故、このようになったのか?神に背き、天倫の法度を犯したサタンのせいです。では、サタンが今日まで人間を支配してきた理念の福祉はどこまでだったのか?それはこの地の大地、見える実体世界だけだったということです。


ですから、神はこのような本来の理念の福祉を残しておいて、まずサタンが主宰するこの地の民を抱えてサタンと対決してこられました。これが復帰の摂理の歴史です。 今や神様が心情を通じることができる新しい世界が人類の前に現れなければなりません。その世界が現れる一日はキリスト教が語る再臨の日であり、その一日が宗教で言う審判の日なのです。


     9


昔から人間は互いに戦ってきました。それで、氏族から部族、民族、国家間の戦いを経ていく間に次第に多くの民族が融合され、現在は2つの世界に形成されました。


人類がこのような過程を経てきたのは、人類が復帰の運勢を免れることができなかったためでした。それで、この地上にそのような形態が整ったのです。神とサタンがこのような2つの世界をそれぞれ相手にして今も戦っているのです。


一人の人間を見ても、人間はまだ体を復帰していないのです。この体を復帰するための戦いの歴史が第二次世界大戦前までの戦いの歴史です。第二次世界大戦以前は物質を中心とした、すなわち経済を中心とした戦いの歴史でした。第二次世界大戦以前までは物質、経済が左右されれば、国の主権と世界全体が左右されていました。このような物質を中心とした時代が過ぎた後に、すなわち第二次世界大戦以降に思想の時代が来たということです。


これは歴史発展の必然的な流れでした。今、精神を中心とした主義と思想の時代が来ました。では、ここでどのような思想が勝利するでしょうか?それは物質を支配することができる思想です。心が体を主宰しなければならないように、思想と主義が物質を支配しなければならないということです。今日も世界のすべての主権国家は必ず経済の基盤の上に成り立っています。しかし、その国家の理念が世界的に広がるためには、その理念は物質を超越した理念でなければならないのです。


民主陣営と共産陣営も多くの国々が各々主権を持ち、互いに対決していますが、ここでどちらの陣営が勝利するでしょうか?その勝敗を決定するのは何でしょうか?これはどちらの陣営がまず所有している物質を弱小国に与えることができるかにかかっています。ここで勝敗が決まるということです。


     10


今日、自由陣営では弱小国に経済援助をしなければならないという主張がありますが、効果を上げていません。それで、ソ連はこれを弱点と見て、経済攻勢を取ってきています。エジプトに対する経済援助を行い、民主陣営の弱点を利用しようという作戦を展開しています。しかし、民主陣営はこれを理解していません。


全世界に主義思想を広めるためには、その思想や主義は物質を支配できなければなりません。また、そのような思想であっても、それを全世界に広めるためにはすべてを犠牲にする覚悟が必要です。この道以外には他の道はありません。


次に人間が探し求めるべき最後の道は何か?良心主義の世界を目指していかなければならないということです。そのためには、人間に主義と思想の時代を過ぎさせ、良心の時代を目指させ、永遠なる命の世界を目指させ、神の静的な理念の世界を目指させる何かが出てこなければなりません。これが何なのか、今日の人間は分かっていません。


では、神が存在するとすれば、神はいつの時を見据えて作戦計画を立て、準備してこられたのでしょうか?神は思想の時代を過ぎ、良心の時代を見据えて進んでこられました。その時こそが神の作戦と計画が実行段階に入る時であることを知っておくべきです。


しかし、今日、私たちの前には2つの陣営、すなわち民主陣営と共産陣営の前に宗教の形態を持ったアラブ圏が生じているということです。かつてのサラセン帝国を模倣したイスラム教文明圏を形成し、一つの理念を掲げて一つのブロックを形成しています。これは何を意味するのでしょうか?人類を宗教理念の世界に統一させることが神の復帰摂理の目的であることを示しているのです。このような復帰摂理の目的の最後には、このような作戦が必然的に行われるということです。


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ところが、民主陣営と共産陣営が戦って、共産陣営が崩壊するならばどうなるでしょうか?共産陣営の多くの国々が自由陣営よりもアラブ圏に吸収される可能性が高いということです。これを私たちは知っておくべきです。


今日、この地上に一つの目的、一つの理念を中心とした統一世界が築かれるべきならば、この時代において民主陣営では何が必要でしょうか?神の心情を中心とした理念を持った宗教、神の実体である人間を愛する宗教、すべての主義主張に取って代わる宗教が必然的に出てこなければなりません。そのような宗教が出てくる終末が近づいているという事実を今日の人間は知りません。いずれの日にか、民主陣営からアラブ陣営、すなわちイスラム教圏を制圧することができる、統一の理念を持った宗教が現れるでしょうか?


統一理念、これは新しい時代においては必ず出てこなければならない歴史的な基準であり、宇宙的な基準であり、天宙的な基準です。その基準の上で宗教の統一が行われるということを今日、皆さんは考えるべきです。この意味で統一教会という名前には一理があります。


まだ、統一理念を中心として継続的に発展し、その理念を主張し、このような世界の動きに対して先頭に立って戦ういかなる迫害される群れも現れていないということです。 今や思想の時代、主義の時代において私たちが探し築かなければならないものは何でしょうか? 人間は心で故郷を憧れてきたのであり、神の心情を中心として楽しむことができる愛の楽園を夢見て切望してきました。


私たちが歴史の発展過程を振り返ってみると、人類最初の文明であるエジプト文明はナイル川を中心とした河川文明です。すなわち、エジプト文明はナイル川を母体として発展した文明だということです。そのエジプト文明はまたどのように発展したのでしょうか?彼らは「川の向こう側には何があるのか?」と気にしていました。常に川の向こう側に行ってみたいと望んでいましたが、このようなことがエジプト文明を発展させる精神的な背景となったのです。このような河川文明時代が過ぎ去った後に地中海文明が築かれました。彼岸を望む切なる心、希望の心情がきっかけとなり、人類社会が発展してきたのです。そして、彼岸に向けた切なる心情が文明の革命を起こしたということを皆さんは知っておくべきです。


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ギリシャ・ローマ時代には地中海を中心とした文明圏が形成されました。地中海を見つめ、地中海の向こう側、すなわち彼岸に対する関心を持った民族が地中海を支配していたのです。16世紀に入ると、地中海文明が衰退し、大西洋文明圏が形成されました。その後、大西洋を渡ることを望む人々の意志と努力によって大西洋を横断してアメリカに到達し、今はアメリカとアジアをつなぐ新しい太平洋文明圏を形成しています。そのような時がほぼ来ているということです。


今、人間はこの地上で自由に生きることができるようになり、望んでいた希望も叶ったために宇宙に進出しようとしています。すなわち、新しい彼岸を探し求めているということです。それで、今後は宇宙時代が開かれるでしょう。そして、「月に行こう」という希望通りに、実際に人間が月に到着するでしょう。


では、歴史発展の道で新しい理想郷を望み、実際に開拓するようにした人間の心的な動向と理想郷を憧れる人間のこのような心の動きが、宇宙を征服した後には終わるのでしょうか?終わらないでしょう。


宇宙を超えて心の楽園、世界万民の心を主宰することができる楽園、心の世界を探し、その次に心の世界を超えて神が実在するならば、その神の理念世界で完全に神と一体を成し、神の理念に染まり、他の何も求めなくなった時に理想郷を憧れる心の動きが終わるでしょう。


では、私たち人類が科学文明を称賛し始めたのはいつからでしょうか?16世紀後半からでした。科学文明の歴史はわずか400年しかありません。しかし、私たちが6千年の人類歴史を考えてみると、人類は6千年の間ずっと心で理想郷、すなわち天国を目指してきたのであり、神を探し求めてきたということです。そして、神を探し、天倫によって神と縁を結ぶことを望んできたという歴史的な事実を皆さんは否定できないでしょう。


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皆さんは人間の心や良心を否定する書籍を見たことがないでしょう。この地上に心を否定する世界、心を否定する主義はありません。人間が永遠なる理念の世界、人間の感情と通じる体得の世界を憧れ、目指していることを否定する主義はないのです。


多くの教会や多くの宗教がこの心の世界を理念として教えてきましたが、無駄なことを教えてきたのでしょうか?とんでもないことです。数千数万冊の書籍を見ても、その理念を否定する書籍はありません。しかし、このような宗教の理念が正しいのに、その理念が実現しない原因は何でしょうか?これは人間が堕落したためです。


これから人間は心の世界、永遠なる霊的な世界を突破して進んでいかなければなりません。これが今日、終末に直面している人間が解決しなければならない重要な問題であることを皆さんは確実に知っておくべきです。神は宗教と道を通じて主義主張の世界を超えて、一つの時を見据えて進んでこられます。


今日、共産主義者たちは物質的な革命を主張していますが、これではいけません。物質的な革命、それが問題ではありません。さらに進んで、良心の革命を提示しなければなりません。では、良心の革命を提示しながら進むことができる主義はどこにあるでしょうか?さらに進んで、心情的な革命を起こすことができる主義はないでしょうか?これを考える必要があります。このような主義が出てこなければ、この世界は統一されないでしょう。もし、そのような主義が現れるならば、その主義は物質を基盤にしなければならず、御言葉を基盤にしなければなりません。


人間が堕落したことによって、信仰を失い、愛を失い、御言葉を失い、実体を失いました。そこで、これらを復帰するために人間はまず物質主義の時代を経て、理念と思想の時代を過ごしています。今後は静的な時代が来るのです。


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御言葉を信じさせるのは情(じょう)です。人々は知情意(ちじょうい)と言いますが、しかし情が先だというのです。この人間本来の情を爆発させ、本来の情の世界で静的な感興で被造万物を歌うことができる偉大な芸術家が現れなければなりません。そして、静的な偉大な科学者と宗教家が現れなければなりません。


今日まで人間は何を探し求めてきたのでしょうか?人間は主義にも満足せず、信仰にも満足しませんでした。真の御言葉、真理を探し求めてきたのです。その真理を探して何をしようというのでしょうか?私の心が新しい理念を中心にして命が躍動することができる春の楽園を迎えようというのです。人々を命が躍動させる真理こそが真の真理でしょう。そうではないでしょうか?


神は今までキリスト教を通して真理の御言葉を紹介してくださっています。人間に実体を復帰するための御言葉を与えてくださいましたが、その御言葉の使命が完了しないまま歴史は流れています。


2千年前にイエス様がこの地に来られ、その御言葉の使命を完結させ、心の革命と情の革命を起こそうとされましたが、人間がイエス様を信じず、お迎えしなかったために、このようなことが成されませんでした。そこで、今日、これらが人類の前に再び成し遂げなければならないものとして残されることになったのです。


イエス様を信じているキリスト教信者だけでなく、それ以外の多くの宗教人もそのような真の御言葉を待ち望んでいます。堕落した人間を復帰させることができる体と心、情、すべてを通じることができる真理の御言葉が出てくれば、世界は自然に統一されるでしょう。堕落した人間を救う復帰の摂理が必然的に必要ですが、堕落によって失われたものをそのまま取り戻す内的な革命が必要です。この内的革命を遂行しなければならない人々が終末のキリスト教信者であり、宗教人であり、良心家たちです。実際、良心家たちは神の復帰摂理に大きく貢献しているわけではありません。彼らがどれほど苦労したとしても、世の終わりがやってくるのです。


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そのように見れば、聖書66巻の御言葉はありがたい御言葉です。しかし、聖書を通しては人間の本来の心を呼び起こし、本来の心情を引き起こすのは難しいということです。ですから、このような2つの内容を備えた新しい御言葉を私たちは探さなければなりません。


もし、このような御言葉を見つけられなければ、神の6千年の摂理は失敗に終わります。このような現象を見ると、神の復帰摂理が失敗に終わらないようにするためには、世界の文化と思想が規合されて進んでいる歴史の趨勢を考慮する時、今や最後の日に必ず必要なものは、本来の心を動かし、本来の心情を動かすことができる御言葉だということです。これが問題だということです。


2千年前にこの地に来られたイエス・キリストは、言いたいことをすべて言えませんでした。また、人間を愛したかったのですが、すべてを愛することができませんでした。これが人類にとって大きな悲しみでした。そして、神にとっても悲しいことでした。復帰の道にいる人間に体と心の世界、情の世界、そして神の心情を紹介する御言葉を語られなかったことが神の悲しみであり、イエス様の悲しみだったのです。


では、今日、私たちがその御言葉を探す中で、神は宇宙を超越して存在する方ではありません。被造万物も神との関係と縁を離れては完成できません。私たちが一つの家を建てるにしても、すべての材料を結びつけて互いに関連性を持たせて建てなければ家は完成しません。


今、聖書66巻の中から神の心と心情を見つけなければならず、イエス様の心と心情を見つけなければなりません。神とイエス様の心と心情を知ってこそ、自分の心と心情を知ることができます。しかし、聖書には神の心と心情、イエス様の心と心情が完全に表されているわけではありません。聖書には「天国があなたの心の中にある」と記されていますが、本当に「天国が私の心の中にある」と言える人がどれほどいるでしょうか?そんな人がどこにいるでしょうか….


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今日、そのようなことを探さなければならない私たち、ここで考えてみると、良い聖書の節を覚えている人は多いです、立派な名文句を。今、私たちがイエス様の心と心情を知るには、万民の救い主であり、すべての人間の真の父として来られたイエス様が、なぜこの地上で悲しまれたのか、そしてイエス様が何を一番悲しまれたのかを知らなければなりません。これを知るべきです。これを知ってこそ、イエス様の心と心情を知ったと言えるのです。イエス様が一番悔しく、憤り、苦しんだことは何か、その事情が何かを知るべきです。


それを知ってこそ、イエス様に対して「あなたの心情と心がこのようでないでしょうか?私はその心情と心を知っています。」と言いながら、イエス様を慰めることができるべきです。そうして初めて真の人間になるということです。これを皆さんは知るべきです。


神が一人の人間を探し出すために今日まで悲しみ、苦しんでこられたその歴史的な内容がこのようであり、時代的な内容がこのようであり、さらに未来に対する希望がこのようであるということを知るべきです。これを知らないために今日、全世界の人類が苦しんでいるのです。


イエス様がこの地に来られ、悲しみの道を歩み、苦しみの道を歩み、十字架の道を歩まれた後に復活の喜びの日を迎えられましたが、天に対しては喜ぶことができましたが、地の人間に対しては喜ぶことができませんでした。これを皆さんは知るべきです。では、復活の日を迎えたイエス様が、どうして神に対しては「父よ!」と言って喜ぶことができたのに、人間に対しては喜ぶことができなかったのでしょうか?イエス様は神の心を知り、神の心情を知っていました。


それで、神の心情を抱きしめ、神の心を抱きしめ、涙を流しながら感謝し、喜ぶことができました。しかし、地上の人間はそのようなイエス様を抱きしめて喜んだ人が一人もいませんでした。それで、イエス様が人間に対して喜ぶことができなかったのです。復活の栄光圏の中で天が喜ばれるその場に人間が出席して共に喜ぶことができていたならば、2千年という悲しい歴史過程は生じなかったでしょう。


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このような事情の心情を抱えて復活されたイエス、そのイエス様の復活の姿をマグダラのマリアが見て、「ああ、主よ!」と言って抱きしめようとした時、イエス様は「私に触れるな」と言われました。これはどういうことでしょうか?人間がどれほどイエスを抱きしめようとしても、イエスの悲しみと苦しみを知らず、イエスの心と心情を知らなければ、イエス様と一つになることができないということを決定的に示されたのです。


今、この地上に生きている人間は、自分が持っている物質や主義を捨てて出なければならない時が来ました。イエス様に反対した者たちはどのような者たちでしたか?私たちは自分が持っている物質や自分が持っている理念や自分が持っているすべてを捨てても、イエス様の心情を知ろうとするべきです。イエス様の心情は自分のためにある心情ではなく、神のためにある心情だったのです。そして、神の心情を心に刻み、神を心に迎えようとしたのです。


神の心情には複雑な経緯がありました。イエス様はこれを解明して、「神よ!今、分かりました。あなたが摂理された究極の御旨が何であり、どのような心情を抱いて摂理されたのか分かりました。」と言いながら、神を抱きしめて自分の威信や体面も忘れて涙を流しながら喜ばれました。イエス様と同じように、皆さんもイエス様を抱きしめて涙を流しながら喜ぶことができるべきです。そうして初めて内的な世界の理念が外的な世界の理念として現れることができるということです。これを皆さんは知るべきです。


これが信仰の核心であるため、人間が両手を挙げて主を信じ、愛で御言葉を実践し、信仰で実体を復帰しても、最後に残るものは何かというと、神の心とイエス様の心と人間の心が一つになり、さらに神の愛とイエス様の愛と人間の愛が一つになることです。これが信仰者たちの最後の課題であり、静的な課題です。ですから、愛の宗教であるキリスト教は最後に残る宗教です。


天国の人々は与えるために苦労する人です。自分の体と心、自分のすべてを与えるために苦労する人です。ところが、この堕落した世のほとんどの人々は皆、自分を中心として生きようと苦労する人々です。このような人々は心の革命を起こすことができてこそ、人間と万物を創造し、人間と万物をその胸に抱いて愛そうとする神の愛を受けることができる息子娘になることができるのです。


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今まで神は一度も霊と肉が完成されたという条件を備えた人を抱きしめて愛したことがないということです。イエス様さえも愛することができませんでした。それゆえにイエス様はまだ天国で祈っておられるのです。


そのために私たちは私たちの霊と肉、全体を抱きしめようとされる神の愛だけを渇望し、子供を愛する親の愛は問題にならない神の愛を受け、そのような権内で初めて神の子供という名分を立てて万物を主宰することができるべきです。そのような世界が神が復帰しようとされる主宰世界であり、安息の楽園であることを皆さんは知るべきです。


では、今、私たち個体の問題に戻って、復帰の運命に置かれた私たちはどうすべきかというと、新しい理念を探し求めなければならないということです。そうすべき時が来ました。これからは真の人生観問題、宇宙観問題が浮上するでしょう。見える実体世界に対する認識と観念を土台とした宇宙観は捨て去られるということです。心の世界に対する認識と感じられる感覚を通して、見えない世界を開拓するでしょう。


今日、この地上に天宙的な理念、心の世界を統一することができるいかなる主義が現れるならば、その主義は最後の主義です。その後には愛だけが残ります。今日、この地上には科学文明が極度に発達しています。しかし、このような科学文明を支配できるように精神文明の水準を向上させなければなりません。心の世界を主宰することができ、さらに霊の世界を主宰することができるそのいかなる主義を必ず探さなければなりません。このような主義を探さなければならないことが私たちの運命であるということです。これを皆さんは確実に知っておくべきです。


そうして、神の愛と結ばれなければなりません。神の愛は宇宙を通じる愛であるため、その愛を抱きしめると全宇宙が私の中に入ってくることができます。そのような宇宙的な感情を感じ、宇宙のすべての万象を代表して天の前で歌うことができ、天と共に喜んで生きることができる息子娘にならなければなりません。さらに万物を主宰することができる主宰権を備えた息子娘にならなければなりません。そのような息子娘になってこそ、神の創造理想の楽園で生きることができる息子娘として認められ、神が抱きしめて愛される息子娘になることができるということです。これを皆さんが知っておくべきです。


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<祈祷>


父なる神よ、歴史の流れを人間は知りませんが、お父様が御自ら摂理の御旨を摂理してこられたことを私たちは知っています。


今日、ここに来たあなたの息子娘たち、自分がどのような環境に置かれているのか、自ら判断することができるように許してください。体を探し求めるために、体の安息を求めるために生きている者がいるでしょうか? 心の安息だけを求めて生きている者がいるでしょうか? これらを超えて、お父様の愛によって安息を見出すことができる息子娘たちになることを許してくださいますように、父なる神よ、切にお願いし、願い求めます。


これが人間が進むべき必然的な復帰の道であることが分かりました。堕落によってこれを失ったために、信仰と実体と御言葉と愛を探し求めてきた人類の歴史の前に堂々と立つことができるように許してください。そして、天の心情と天の愛と天の願いを持って、この地のすべての万物の前に堂々と立つことができる息子娘たちになることを許してくださいますように、切にお願いし、願い求めます。

お父様、永遠なる命で私たちの体と心を永遠に抱きしめてくださいますように切にお願いし、すべての御言葉を主の御名によって祈りました。アーメン。


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御言葉選集5(1)

2024年08月12日 17時26分18秒 | 日記
文鮮明先生御言葉集 5 - 1. 神様の所有と私たちの所有 (1958年11月9日)

1958年11月9日(日)、本部教会(清波洞1街)。

聖書拝読:マタイによる福音書 6:16-34




<祈祷>

お父様! 私たちの歩みが天に向かって進む時が近づいています。お父様がどれほど苦労されたか、私たちは知っています。そして、お父様が決意された意志が何であるかも理解しています。また、お父様が私たちに成し遂げてほしいと願っている子供の責任がどれほど困難なものであるかも知っています。


お父様の意志を理解する者、お父様の許しを得た園に住む者、その一人は無限の涙を流さねばならないことも知っています。その一人がお父様に向かって進む時、傷を負わなければならないことも理解しています。また、その一人はお父様と共に歩まなければならないことも知っています。そして、その一人は体にもその痕跡を持たなければならず、心にも悲痛な思いを抱き、無限の嘆きの中でお父様の裁きの日を備えることを知っています。


また私たちは、そのような子供を探し求めるお父様と永遠に繋がらなければならないことも理解しています。しかし、今日は私たちがお父様の前に立っている者であると自認する立場に立たないように導いてください。言うことも、行動することも、顔を上げることも恥ずかしい自分たちであることを忘れないように許してください。


もし私たちの中に心を開き、天の思いを知り、お父様の心を感じる者がいるならば、その者は父とこの民族の悲しみを代わりに嘆かずにはいられず、人類の悲しみを代わりに嘆き、すべての霊たちと共に天と地に刻まれた悲しみを分かち合う友となることを私たちは知っています。


今日、私たち自身がそのような立場にあるかどうかを考えた時、お父様、苦労されたお父様の前に、心配されたお父様の前に、苦難の道を歩まれたお父様の前に顔を立てられないとしても、恥ずかしい気持ちを持つことができるようにしてください。私のお父様、心から願い祈ります。


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お父様、選ばれた者たちを導き、聖なる都エルサレムの門を通過させるためにお父様が持っている悲しみ、私たち一人一人を善の立場に導こうとするお父様の困難がどれほど大きかったことでしょう。それにもかかわらず、今日、私たちはお父様の苦労を忘れ、お父様の心配を忘れ、お父様が示された足跡を忘れてしまいました。どうか、天の軍勢が動く時、その動きがお父様の足跡を追うものであるように許し、心に誇りを持って進む動きであるように許してください。


人々はこの道を進みたくないと思っています。今日も明日も、多くの人々はこの道を心では望んでいますが、行動には移せずに止まっていることを知っています。これを解決すべき責任がお父様だけでなく、私たちにもあることを理解させてください。


しかし、この厳然たる事実を責任を負おうとする人々が非常に少ないことも私たちは知っています。安逸な私たちの心に、お父様の切なる思いが溢れ出るようにしてください。お父様の悲しみが溢れ出るようにしてください。そして、天の道を探し求める正しい者たちであるように許してください。


天の祝福を求める者は多く、お父様の子供となるために尽力する者も多いですが、6000年の歴史が経過した今日、お父様の真の息子娘、お父様の前に捧げ物となりたいと忠誠を尽くす者を見つけることは困難です。私たちがお父様の摂理の道を混乱させる可哀そうな者たちとならないか、非常に恐れています。イスラエルの人々がそうであったように、自分自身を誇ることができない私たち自身を心配する人々であるように許してください。


今日、お父様の前に恥じない子供、心配される子供とならないために尽力する息子娘であるように導いてください。お父様、心から願い祈ります。


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祖先の恨みが私たちの前を遮っているこの時、無数の不信のサタンたちが私たちを誘惑しているこの時、お父様の前で誇れる価値ある存在として見つけられるように許してください。お父様、心から願い祈ります。


今日、私たちはお父様の前に礼拝するために集まりました。自らを反省し、心と体が一つになれる条件、善の条件を立てることができる立場に立てるように許してください。お父様、この日を迎えるにあたり、お父様を心配し祈る者たちは誰ですか? 涙を流す者たちは誰ですか? 天と地を代わって悲しむ者たちは誰ですか? 彼らを祝福してください。そして、彼らの上に栄光の日が早く訪れるように許してください。


ここに集まったあなたの息子娘たちが、お父様、他の人々が果たせなかったことまで責任を果たすことができるように許してください。残された使命に対して誠実であり、残された意志に対して真実であり、お父様の一つの意志のためにすべてを捧げて戦い続けるあなたの息子娘たちとなるように許してください。お父様、心から願い祈ります。


戦っている私たちの歩みとその止まる位置が、本来の理想の園とどれだけの距離があるのか、自ら分析できるように許してください。そして、その心配の基準を突破するための戦いで勝利できるように導いてください。


この日にすべてのことがお父様の意志通りに成し遂げられるようにしてください。喜びの恩賜を受けるにふさわしい心情を持つ者がいるなら、その者に働きかけてください。そして、お父様に対して行うように現れ、お父様のために尽力するように祝福してください。


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すべてをお父様に委ねましたので、あなたの導きに任せます。サタンが入り込む時間とならないように許してください。すべてのことを主の名前で祈り願います。アーメン。




<御言葉>


「神様の所有と私たちの所有」このような題で、しばらくお話しさせていただきます。


私たちは、創られた被造物が主を失ったことを知っています。万物もそうであり、私たち自身もそうであることを、私たちはよく知っています。堕落によって、人間は神様に絶対的に所有されることができず、また万物とこの世界を絶対的に所有することができなくなっています。そして今日まで、絶対者である神様もご自身が創った万物を自分の所有だと主張し、自信を持って支配できないというこの悲しい事実を、私たちは知るべきです。


それゆえ、これまでの歴史の道程は、ひとりの主に所有されるための道程であったということです。時代を越え、世紀を越え、今日この日までその目的を達成するために、波乱万丈の闘争の歴史を歩んできたことを私たちは心に留めておくべきです。


このすべての被造物が存在しているという事実を否定することができないのなら、この被造物を支配する主、あるいは絶対者が存在しなければなりません。したがって、その絶対者の支配の下で、誰からも非難されることのない絶対的な安定点を見つけない限り、この世界は闘争の歴史から逃れることはできません。


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神様がご自身の創られた万物を自分のものだと主張できないというその一つの事実を、今日の信者たちは誰もがよく知っています。言い換えれば、神様が全力を尽くして創った万物を、意志通りに支配することができず、意志通りに活用することができない立場にあるのです。それゆえ、元の立場を回復するための神様の摂理の歴史があり、これまで信仰者たちは時代ごとに不当な死を遂げ、不当な迫害を受けながら、神様の意志を探し求めてきました。


天に忠誠を尽くし、天のために命を捧げ、その一つの意志を成し遂げるために戦ってきた多くの子供たちを、天が善の理念を中心にして、勝利の栄光を中心にして支配することができないというのもまた、神様の悲しみです。そして、真の信仰の道を歩もうとする真の人々の悲しみであることを、皆さんは知るべきです。


神様がご自身の実在する所有の価値を万宇宙の前で誇れるその一日、それが神様の摂理が総決算される日であり、すべての被造物の願いの焦点であり、イエス様とこれまでの聖賢たちが理想とした基準点であることを、皆さんは知らなければなりません。


今日、皆さんと皆さんが生きている生活環境を見てみると、皆さんが持っている所有物や皆さん自身、皆さんが属している家庭、皆さんが属している社会、そして皆さんが属している国家と世界は誰のものだと断言できるでしょうか。それが天の所有だとも言えず、皆さんのものだとも言えません。これがこれまで堕落した人類にとって最大の悲しみであったことを、私たちは知らなければなりません。神様は救いの摂理という標語を掲げて、ご自身を追随しようとする人々に「この世のすべてのものを持って私のために尽くしなさい」と言うことができなかったのです。このような神様の事情、極めて悲しい事情を、私たちは感じなければなりません。人間を万物の支配者として立たせるべき神様であるにもかかわらず、持っているすべてのものを持ってご自身を追いなさいと勧告できない神様の事情を、私たちは感じなければなりません。


それゆえ、道の道程を探し求める者は、どの時代、どの民族、どの世界に属していようとも、自分が持っているすべての所有物を断ち切って追いなさいとおっしゃる神様の悲しい心情を痛感しなければならないし、痛感しなければならないし、痛感しなければならないのです。そうしなければ、神様の所有権が見つかる時が来た時、神様と何の関係もなくなるということを、皆さんは知らなければなりません。


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今日、信仰していると自称する人々は、救いを受けたいと言っています。天の人になりたいと言っています。また、天の国の民となり、選ばれた第三イスラエルの名前を持って進みたいという心を持っています。そのような心を持つことは良いことですが、自分自身がそれを持つことのできる基準と資格を持っているかどうかが問題であることを、皆さんは知らなければなりません。


天が万物を支配できない立場にあるため、この地上にいかに素晴らしい人々が多く来て去ったとしても、この地を完全に支配して自分のものとして決定することのできる勇者は現れなかったという事実を、私たちは知らなければなりません。


では、この歴史の道程はいつまで続くのでしょうか。この地が永遠に自分のものだと主張できる一つの主人公が決定されるその日まで、歴史は波乱の道程を歩み続けるでしょう。今日まで人間は文化や、あるいはどのような政治権力や宗教も、自分の所有物のように誇ってきましたが、時代の変化に伴い、ある民族が誇ったその文化はその中心が別の場所に移され、ある主義主張を中心としたすべての政治権力も変わり、宗教も変わってきたのです。私たちは歴史の道程を考察する時、この事実をよく知ることができます。つまり、どのような動きも決定的な所有権を持つ立場には立てなかったという事実を、私たちは歴史の道程を振り返る時に知ることができます。


神様が完全に支配できない時に、自分の思い通りに行動したことが堕落の始まりでした。神様が完全に支配できる時を迎えて行動していたならば、堕落することはなかったでしょう。神様は創世以来、今日まで支配的な権限を持って行使することができませんでした。それゆえ、歴史的に多くの人々が民族を動かそうとし、国家を動かそうとし、世界を動かそうとしましたが、その時代を総責任者としてとどまることができませんでした。


個人だけでなく、氏族や部族、民族、国家、さらには天と地まで、神様が支配する時が来なければなりません。それゆえ、神様が天と地、霊界があるならばその霊界まで支配される必然的な動きが、歴史の終末時代に現れなければ、神様が支配する全体の理念が成就することはできないことを、私たちは知らなければなりません。


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それゆえ、神様は私たち人間に対して、持っているすべての物質を捨て、自分の持っている命を捨て、自分の持っている理念を捨て、この地上で喜びを感じる情さえも捨てるように要求しておられます。これが人間に対して主張される神様の道の基準です。


では、神様は何のためにこのような要求の条件を私たちに提示されたのでしょうか。それは、絶対者の所有権が現れる時が必ず来るため、その時に私たちを神様の前に堂々と立つ資格者にするためでした。それは、これまで神様を追い求め、善の意志を探し求めてきた人々が守り続けなければならなかった必須の条件でした。


キリスト教の歴史を振り返っても、神様は喜びを与える前に苦しみを受けさせ、何かを誇らせる前に迫害を受けさせ、自ら楽しむ環境を避けて休まずに祈るように命じられました。神様がこのような道の基準を人間の前に示されたのは、ある一つの時を契機として、人間を神様の完全な所有とするためであったことを、私たちは知らなければなりません。


聖書の本文に「まず神の国とその義を求めなさい」とあります。それなら、神様の国と呼ばれるその国、神様の義と主張されるその義はどこにあるのでしょうか。また、神様の人と主張される人はどこにいるのでしょうか。つまり、神様が所有できる国とはどのような国でしょうか。それは善の国であるでしょう。その国は宗教を超越し、国家の観念を超越し、人間の区別を超越し、主権を超越し、どのような文化や思想をも超越する善の国であるでしょう。


それゆえ、天国は東西を問わず善良な人々が自分たちの理想的な国だと主張した国であり、自分たちが住みたいと主張した場所です。そして天国は、自分のものを心置きなく主張し、所有の観念を確立できる場所です。このような場所が私たちが望む天国です。


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今日、キリスト教であれ、どの教派であれ、自分たちを中心とした所有観念、あるいは教派的な所有観念に浸っている人々がいるならば、その人々を打つ時が必ず来ます。ある国家の主義だけを中心とし、全体を引き寄せて統合しようとするその主義を打つ時が必ず来るのです。これが鉄則です。


神様はサタンさえも容認されます。それなら、神様がサタンを打たずに容認される理由は何でしょうか。また、サタンの請願を聞き入れ、サタンの訴えの条件を受け入れる理由は何でしょうか。それは、サタンが神様の意志に反対して従わないにもかかわらず、神様を嫌ってはいないからです。神様の意志に従わないけれども、心の中では神様を尊敬し、好意を抱いているからです。


サタンが神様に向かって「神様よ!私の手中にあるこの世界をあなたに差し上げます。ですからアダムを脇に置き、アダムの座に私を立たせてください。そうしてくださるならば、私は人間以上に神様をお仕えします。」と懇願しているのです。サタンが神様に、自分をそのような立場に立たせてくださるならば、人間以上に神様をお仕えすると言っているのです。神様はこのような困難な立場におられます。


それならば、天が多くの預言者と先祖たちを送り、イエスを送って成し遂げようとしたことは何だったのでしょうか。それは、サタンが知っている以上に神様の事情を知り、サタンが神様に対する以上に神様を思うことができる者を立てて、サタンに対する所有権を行使することです。このことを完成することが再臨の歴史の目的です。


それでは、サタンがサタンになった動機はどこにあるのでしょうか。天倫を破綻させた動機はどこにあるのでしょうか。それは、アダムとエバよりも神様の愛を受けたいという願いからでした。神様がアダムとエバを愛する以上にアダムとエバを愛し、アダムとエバが神様を愛する以上に神様を愛していたならば、堕落しなかったでしょう。ここに条件があったのです。悪とは何か。それは、自分よりも他者を思いやることができず、善を奉仕できなかったことです。今日、堕落した人間はこの条件にすべて関わっています。


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それでは、善の国とはどのような国でしょうか。神様が所有できる国とはどのような国でしょうか。また、神様に所有されることができる人とはどのような人でしょうか。神様に所有されることができる万物とは何でしょうか。その結論は何でしょうか。自分を中心としたものは、どのようなものでも神様が所有されることはありません。神様を中心とした立場に立つ存在、神様に吸収されることができる存在です。そのような存在を神様は所有することができるのです。


サタン世界の法則は、自分を思いやる法則です。したがって、サタン世界の人々は家庭、社会、国家、世界、天と地のすべての存在が、自分個人のために存在しなければならないという考えを持っています。これが善なる神様の法則と異なる点です。それなら、善なる人とはどのような人でしょうか。自分が所有するすべてのもの、観念までも他者のものであると感じ、他者のために、あるいは全体のものであると感じ、全体のために使うことができる人です。


このようにして、人間世界でどのような堕落の現象が生じたかというと、万物と世界と神様までも自分を中心とした生活の中に引き入れようとする現象が生じました。これがまさにサタンの歴史によって生じた堕落の現象です。


それならば、善の歴史とは何でしょうか。それは自分の個人から革命を起こし、神様を思いやり、世界を思いやり、他者を思いやるために新しい方向の道を開拓していく歴史です。これがまさに宗教の目的でもあります。


それゆえ、キリスト教の歴史を振り返ってみると、どの時代、どの世紀を問わず、神様の使命を持ち、神様の意志に従っていた人々の中には、自分を思いやって生きた人は一人もいなかったのです。今日までサタン世界で自分を中心にし、自分を思いやるようにしていた英雄たちは、すべて消え去ってしまいました。そのような人々は、歴史が進むにつれてすべて批判されるのです。


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イエス様がこの地上に来られた目的は何だったのでしょうか。それは、神様が所有できる国、神様が所有できる人、神様が所有できる万物を回復するためでした。また、彼が主張した主義とは何だったのでしょうか。イエス様の主義は「自分を犠牲にして民族と世界と宇宙のために奉仕しよう」という主義でした。宇宙のために多く奉仕し、多く犠牲にした人は、その宇宙の主人公となるのです。


今日、悪の世界でもそのような人々を多く見ることができます。無言で忠誠を尽くし、無言で奉仕する者たちは、どのような国家やどのような社会やどのような場所に行っても主人公となるという事実を私たちは知ることができるのです。


今、神様が私たち個人や家庭、社会、国家、世界、そして全宇宙を所有できる権限を取り戻す責任が私たちにあることを感じなければなりません。このような所有権は神様自身が築くのではなく、人間が築いて解決しなければなりません。このような重大な義務が残っているため、歴史的な摂理を代表してきた多くの聖賢たちは、この義務を果たすために、首を切られ、死に至る道を歩まざるを得なかったのです。


イエス様は30年余りをヨセフの家で働きながら、自分が神様の子であると主張することができませんでした。私は天の全権大使のような存在だと主張することができなかったのです。それは、神様も長い歴史を通してそのような主張を一度もできなかったことを知っていたイエス様だからです。それゆえ、ゲッセマネの園で十字架を前にして最後の祈りをする場面でも、自分の意志を中心に「父よ!成し遂げてください。」という祈りをすることができず、「父よ!私の意志ではなく、父の意志のままにしてください。」と祈られたのです。


イエス様は救世主として地上に対する使命感と責任感が強ければ強いほど、大きければ大きいほど、自分自身に対する存在意識と所有観念が強いでしょうが、自分自身のためだけに生きてはならないことを非常によく理解されていました。そして、イエス様はどこまでも自分は神様のものであり、神様に所有されるべきであることを知っていました。神様の心情を感じ取ることができ、神様の意志を探し求めることができました。だからこそ、神様の心情を自分の心情で代わりにし、神様の意志を自分の意志で代わりにできる立場に立つことができました。そして、被造物の前に天の意志に従い、天の心情に従うべき人間の前に救世主としての資格を持つことができたのです。


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それならば、天国の民とはどのような人々でしょうか。それは、自分を持って万民の前で奉仕の旗を掲げて進む者たちです。それゆえ、今日、私たちはどの民族を救うためにも、自分が所有しているすべてをその民族のために分かち与えなければなりません。それでも足りなければ、自分の命までも捧げる覚悟を持たなければなりません。そのような者たちこそが天国の民です。そのような民を集めて天国の理念を成し遂げなければならないという神様の事情があることを皆さんは考えなければなりません。


それでは、イエス様が地上で所有的な価値を決定しようとされる事実があることを知ったならば、皆さんは自分自身を中心に考えてみなければなりません。イエス様は「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配するな」(マタイ6:31)とおっしゃいました。これは、その時代の人々にとっては矛盾した警告の言葉でした。


それなら、なぜこのような言葉をおっしゃったのでしょうか。それは、6000年間食べず、飲まず、着ずにでも回復しなければならない天的な所有の理念が残っていたからです。神様はどれほど飢え、哀れな民族がいたとしても、その民族以上に哀れな立場におられ、どれほど不当な民族がいたとしても、その民族以上に不当な立場に置かれています。


それにもかかわらず、神様は私たち以上に私たち自身を心配しておられるのです。しかし、これを知るべき人々が知らずに自分個人を中心に心配しているのを見ると、イエス様はそのような言葉をおっしゃったのです。したがって、今日、イエス様のその言葉通りにその国とその義を求めようとする者がいるならば、彼は自分の飢えをかけて「この地上で私のように飢え苦しんでいる善良な者たちはどれほど多いのでしょうか?」と心配しながら天に訴えるべきです。善良な立場にいない自分が飢え苦しむのは当然ですが、善の立場にいる者たちが飢え苦しんではならないのです。そのような者たちのために心配しなければなりません。このような運命が私たちに課されていることを知るべきです。


それゆえ、イエス様は着ることも食べることもできない立場にあったとしても、神様が所有できるその国とその民を作るために尽力してくださることを願っておっしゃったのです。


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それなら、神様がいらっしゃるならば、どのような者を選ばれるのでしょうか。また、どのような者を選んで自分の子供とされるのでしょうか。自分の飢えを越えて自分の困難を越えて、手を挙げて他者を祝福することのできるその一人を見つけられるでしょう。そして、自分の怒りや悲しみを超えて神様の怒りや悲しみを心配し、泣くことのできる人を探されるでしょう。


それゆえ、イエス様はご自分の運命が一刻を争う十字架の上でも、敵を見つめて「天よ!永遠の天よ!彼らに永遠の天罰を下してください。」とは言われず、むしろ手を挙げて彼らに対して祝福を祈られました。このようなイエス様の心情が天国民の心情であり、すなわち神様の心情であることを皆さんは知らなければなりません。


それでは、このような原則に基づいて、今日、私たちの信仰生活と神様を信じているというキリスト教を見てみると、天国に残されることのできる民は何人いるでしょうか。さらに、神様の所有だと永遠に主張できる民族はどこにあり、神様の国だと主張できる土地はどこにあり、そのような物、そしてそのような人はどこにいるのでしょうか。これを皆さんが知るべきです。


皆さんは皆、天国に行きたいと願っています。それだけでなく、今日、何人かの人々が「天国は私のものだ」と自信を持って主張するのを見ることがあります。そのような人々を見ると、どうして彼らは神様以上に所有的な面について堂々と語ることができるのかと思います。神様ご自身でさえ、まだ天国は自分のものだと主張できる立場に立っていないのに…。イエス様も今なお天を向いて祈る立場におられます。また、神様も今なお苦労されています。


霊界にいる何千億の霊たちが地上のために協力しているのも、解放の場、栄光の場で楽しんでいる生活をしていないのは何故でしょうか。どうしてそのような立場に立たなければならないのでしょうか。それは、神様が創世以来今日まで天国を作り上げて「これは私のものだ」と主張できる立場に立っていないからです。神様がそのような立場におられるにもかかわらず、今日、地上の信徒たちの中には何人かが天倫の原則と背反する立場に立ってそのような言葉を発しています。


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天に向かって進めば進むほど、天の恨みを解けば解くほど、借りている自分自身を深く感じます。神様は6000年間この地に対してその国とその民を探し求めてこられました。そうして探し求めてこられ、苦労された歴史的な借りが6000年間積み重なっています。したがって、自分自身が満足と喜びを感じたからといって天国を所有したとは言えません。


ですから、自分が天の子供であるならば、神様に代わって心配し、神様に代わって守るべき責任が残っている土地があり、世界があり、すなわちそれらが神様が所有できるものとなっていない限り、自信を持てない自分ということを感じるべきです。


それゆえ、イエス様は天の王子として主導的な行動をする心的基準を持ってこの地に来られましたが、それを一度も行使することができませんでした。行く先々で弟子の足を洗い、病人を癒されました。このようにして、イエス様の生涯は自分のために生活した日が一日もありませんでした。


彼の生涯を振り返ると、ただひたすら他者のために生活していました。他者のために苦しみ、他者のために涙を流し、他者のために辱めを受け、他者のために裂かれ、他者のために殺される悲しみの生活でした。


イエス様のこのような悲しみを解放できない神様なら、そのような神様は必要ないということです。それゆえ、ある日、神様をこの悲しみの鎖から解放して差し上げることによって、神様が全天と地が私のものであると主張し、手を挙げて万民に「皆一緒に楽しもう!」と言えるその日が訪れる前に、自分自身の立場を主張することはできないという事実を私たちは知らなければなりません。そして、このような曲折があったために、キリスト教の真理は愛を強調し、犠牲と奉仕を強調し、迫害と軽蔑される生活を強調したのです。


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それでは、私たちが神様の所有となるためにはどうすればよいのでしょうか。神様のために多くの涙を流すことができるようになるべきです。神様の悲しみを代わって悲しもうとする心を持つほど、神様の所有となるでしょう。そして、神様の苦労を代わって背負ったほど、神様の所有となり、神様に代わってサタンの非難を受けたほど、神様の所有となることができるのです。


それゆえ、皆さんが行った分だけ忠誠を尽くした分だけ神様の所有となるのであり、それは人々が嫌がって退けた悲しみや苦しみを抱え、忠誠を尽くした時に成し遂げられるのです。この道がキリスト教徒が歩むべき原則の道です。


韓国のキリスト教に火を灯したのは、まさに初期のキリスト教徒たちがこのような道程を歩んだからです。もし「私たちは天国の民なのに、なぜ死ぬの?」と言って否定する者たちが現れていたら、神様の摂理の意志は韓国に伝わることはなかったでしょう。


また、イエス・キリストご自身が「私は神様の子供なのに、なぜ死ぬのか、なぜ辱められ、軽蔑されなければならないのか?」と言って否定していたら、今日皆さんが信じることができる救いの道は人類史上に現れることはなかったでしょう。


どの国でも、その国民を指導する方法として愛国者を取り上げて忠誠を教えたのは何故でしょうか。それは自分の家庭を捨て、自分の欲望や名誉を捨てて、一国の意志を代行したからです。彼らはその国が受ける苦しみを代わりに引き受け、その悲しみを代わりに引き受け、自らが先に悲しみ、その国の主人に代わってすべてを責任を持とうとした人々であったことを知らなければなりません。また、これが天の法を守る姿勢であることを皆さんは知らなければなりません。


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今日、混乱したこの世の中では、多くの人々が自分自身を誇り、自分の主張を立てようとし、自分が持っている権限を示そうとしています。真のクリスチャンを見つけることは難しく、真の神様の子供、神様が所有できる真の民を見つけるのはさらに難しいです。


今、私たちは友を迎えなければなりません。一つの天国民となり、一つの教団を作り、一つの民族を編成しなければなりません。


しかし、神様から所有の決定を受けたその一つの信徒は、韓国のどこにいるのでしょうか。その一つの教団は韓国のどこにあり、その一つの民族は世界のどこにあるのでしょうか。私たちは、私にあるすべての力を使い果たすまで叫び、倒れるまで探さなければならない時が来ていることを知るべきです。


それゆえ、今日、皆さんは自分を飾る前に、この三千万人の民族を飾ろうという心、自分を考える前に、この地上のすべての人々を考えようという心が湧き上がらなければなりません。さらに、草一本でも抱きしめて泣いてあげられる心が、自分でも知らないうちに心の中で爆発するようでなければなりません。このような心情を持たずしては、完全な神様の子供にはなれません。


なぜなら、そのような人間は神様の涙の結実であり、神様の苦しみの結実であり、また神様の血の祭壇に捧げられる犠牲なのです。それにもかかわらず、これを考えずに図々しく自分を主張しているのです。万物も同じことです。


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それでは、この民族の進むべき道を開拓する者は誰でしょうか。本当にこの民族のために地を叩き、胸を打ち、嘆く者が現れるべきです。そして、この分裂した教団を誰が正すのでしょうか。教団を支えるために燃え上がる情熱を持った青年男女たちが、偽善者たちと対決するために地を叩いて叫び、血を流す決死戦を覚悟して立ち上がるべきです。


それでは、この世界を救う者は誰でしょうか。それは皆さんの青年男女たちです。これを皆さんはもう一度考え直さなければなりません。


今日、西洋の物質文明は大いに発展しました。これは大陸エジプトを出発点として、アッシリア文明、バビロニア文明を経て、ギリシャ文明を経て、ローマ文明を経て、今日まで西洋文明を形成してきたのです。


宗教史を調べてみると、イエス様の時代にはすでに3000年以上の文明を誇っていたエジプトは何を中心にそのような文明を築いたのでしょうか。エジプト人は太陽神を崇拝し、オシリス(Osiris)という神を信じていました。このような信仰と思想によって彼らの精神を武装し、団結した力を発揮してそのような強大な国家と文明を築いたのです。彼らはこれを政策的な理念として儀式を強化し、その理想的な標準を目指して民族を導き、エジプト文明を誕生させたのです。


このようにして、国として主張できるものを築き、それによって支配する基準を持つようになりました。この時、彼らが自分の民族を超えて異邦の国々に良い点があるならば、その良い点は吸収しなければなりませんでした。自国のどのようなものでも犠牲にしてでも交換して受け入れたならば、その国は滅びなかったでしょう。


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しかし、その国は滅びましたが、その文明は歴史を通じて発展してきました。オリエント地方ではアッシリア文明とバビロン文明が興りましたが、パレスチナ地方ではユダヤ教を中心としてヘブライ思想が形成され、神を中心とした文明が発展してきました。


ギリシャ地方では外的な神の理念を中心としたギリシャ文明が発展し、やがて芸術を崇拝するさまざまな思想と内的に調和しました。これが知識の王国ギリシャを経て、ギリシャ人が創設した独特な宗教的理念となりました。


このようにして、世界的な文明圏を形成しましたが、混乱した思想圏の時期を経てキリスト教思想と融合し、その後ローマに渡りキリスト教文明を築いたのです。中世にはキリスト教はこの宗教の理念を中心にして、その理念の下にある人々は上下を問わず吸収して融合させるべきでした。しかし、この目的を達成することができず、世俗的に堕落したために神様はそれを打たざるを得ませんでした。


もしローマ教皇庁が腐敗せず、自分たちが存在するのは世界のためであり、自分たちが存在するのは人類のためであるという使命感を持って、自分たちが良ければ自分たちが良い前に他者が良いことができるように、すなわち自分よりも他者のために生きる思想を提唱していたならば、教皇庁は崩壊しなかったでしょう。


しかし、ローマ教皇庁がそれを成し遂げることができなかったため、それをそのままにしておくことができずに神様は外的にはルネサンスを起こしてそれを打ち、内的には宗教改革を起こして旧教を打たれました。そうしてその後、ピューリタンを中心にアメリカ大陸に渡り、そこでキリスト教理念を中心とした国家を築くようになったのです。つまり、ローマの政治理念、キリスト教の宗教理念、ギリシャの知性主義が融合して今日の全民主主義を支配する汎米主義(汎米主義)を成したのです。


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しかし、今やアメリカが今日の民主主義を統合して天倫と連なるその時まで、国家的な使命を代行し、所有的な権限を代行する責任を果たすには、どのような思想を持たなければならないのでしょうか。まず自己中心主義思想を捨てなければなりません。これがアメリカ国民にとって何よりも重要なことです。


ですから、アメリカが持っていた経済、文化、科学、宗教、政治体制、これらすべてが自国民のためにあると主張するならば、それは正しいです。そのためにルネサンス運動が起こり、覚醒を促しました。今日では共産主義が登場して覚醒を促しています。今や思想的にも宗教的にも攻撃が始まるでしょう。このような時、私たちは先覚者の心を持って天の動きを知るべきです。このアメリカに警鐘を鳴らすことのできる宗教理念はどこから出るのでしょうか。志のある者たちは考えなければなりません。


これは絶対者の所有権を取り戻せなかったために、打ったり慰めたりしてでもその地位まで引っ張り上げるために起こる歴史的発展の過程的な現象であるということです。それでは、ルネサンス運動とは何でしょうか。それはヘレニズムの復古運動、すなわちギリシャ精神に基づき人間本性を回復し、自我意識を強調する運動でした。同じように、今日アメリカを中心とする民主主義圏内のすべてのキリスト教は初代キリスト教精神に戻らなければなりません。表面的な言葉だけを信じるのではなく、言葉の中に含まれている思想を見つけ、それを中心に再武装する運動が起こらなければなりません。もしそれができなければ、現代のキリスト教は中世の旧教と同じ立場に立ってしまいます。なぜなら、それは神様の言葉が要求されるのではなく、神様の人々が要求され、神様の民族、神様の国が要求されているからです。言葉はそれを成し遂げるために出されたものです。


今や言葉絶対時代を過ぎて、実体絶対時代を築かなければならない時が来ています。それゆえ、言葉を超えた時代を経て、実体を超えた時代の歴史的終末時代が訪れるということです。そして、この時代が審判の時代です。


これを考えると、歴史は今日私たちに警鐘を鳴らしています。過去の預言者たちが歩んだ道は私たちの生活を動かしており、彼らの精神は私たちの思想を背後から操っています。それゆえ、ここから逸脱する者たちは天法によって大手術を受けなければならない時が必ず来るでしょう。


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それでは、神様が地を探し求め、地の人を探して天のものにされた後にはどうなるのでしょうか。神様の命を自分のものとして誇ることのできる日を迎えなければなりません。神様の理念と愛を万宇宙と人類の前で誇ることのできる日を迎えなければなりません。


それならば、今日皆さんの中に神様の命を誇った人がいますか?いるならば出てきてください。また、栄光の天国を成し遂げるために命まで捧げようとした人がいますか?いるならば出てきてください。そして、神様の真の子供となるために、この地に天国を築こうと立ち上がった人がいますか?


多くの人々が復帰の過程でサタンの非難を受ける権内で天国の味を見たかもしれませんが、サタンを取り除いた中で本当に永遠の平和の祖国、天国の味を味わった人はいません。本当の天国の味を感じ、神様の愛を感じた人は、サタンと戦わなければならないという刺激を受けます。そして、本当の天国の味を感じ、神様の愛を一度でも受けると、神様から二度と離れることはありません。このようにして、神様の愛を感じた人がこの地に現れなければなりません。


それでは、神様の所有が決定される限界はどこまででしょうか。それは一草から、一坪の土地から、一人の人から、最終的には天国に至るまで、さらには神様の心情世界に至るまでです。


しかし、その所有の形態は相対的であってはならず、観念的であってはならず、主体的であり、主観的でなければなりません。そのような世界が築かれて初めて、神様の安息が成し遂げられるのです。


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神様が喜ばれるものを人間が喜ばないわけにはいきません。そのため、神様は第七日を安息の日として定め、休むようにおっしゃいました。しかし、6000年の歴史が過ぎた今日まで、安息の日を誇り、休むことができなかった神様であることを、皆さんは知っていましたか?知っていましたか?


イエス様も福音の言葉を強調し、安息日の重要性を強調し、2000年の摂理の歴史の曲折の中で戦いの歴史を持ってきましたが、勝利の栄光の一日を迎え、父に誇り、万民と共に安息しようとおっしゃった時がありましたか?ありませんでした。このようにして、神様とイエス様が安息できない立場におられるので、私たちも安息できないのです。


それゆえ、安息が訪れる前に戦争があり、安息が訪れる前に苦しみがあり、安息が訪れる前に死があるのです。これを覚悟して乗り越えた時に初めて、私たちは安息の味を見ることができるでしょう。イエス様も十字架の後に安息の一面を感じられたのは、そのような道を歩んだ後でした。


それでは、今私たちは何を所有しなければならないのでしょうか。安息の園、幸福の園、善の園、愛の園、理想の園を所有しなければなりません。しかし、これを所有する前に、私たちはまずサタンに打たれ、天にも打たれなければなりません。イエス様もサタンと天に打たれました。ユダヤ教のファリサイ派がイエス様を追い出し、同時にローマ人も追い出しました。


次に、イエス様が十字架にかかられる時、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」(マタイ27:46)と切実に祈られたことを見て、神様も見捨てられたのです。それゆえ、天国を所有する者、天国に所有されることのできる者は、神様を探し求める道程で神様のために最も哀れな立場に置かれる者です。世界の人類の中で神様を所有することができる民族とはどのような民族でしょうか。それは最も哀れな民族です。そのような民族であればあるほど神様に近いのです。


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それゆえ、終わりの日には大患難が来ます。これは何でしょうか。自分を中心に所有しようとする心が強い者、自分を中心に安楽を求めて行動する者は打ち負かされるでしょう。これが大患難です。それでも人々をこのような状況に置いて覚醒させ、最終的な審判を通過させようとされる父を思う時、私たちは父に感謝しなければなりません。


もしこのようなことがなかったとすれば、真のために生き、真のために死のうとする者たちは哀れになるでしょう。したがって、死の墓から残されるその者たちが安息の園の主人公となることを、私たちは知るべきです。そのように考えると、聖書66巻の中で何もかもを捨ててでもイエス様が死に際して証ししたその真理を握りしめて実践した者は、イエス様の所有となるでしょうし、神様の所有となるでしょう。


ですから、過去の自分を中心にして、私が何の責任者であったとか、私がどんなことをしたのに私を認めてくれないとか言って不平を言う者がいるならば、荷物をまとめて出て行くべきです。そのような者は、結局ある時に清算されることになるのです。


それでは、皆さんが正義に燃える心、新しい理想の園を築こうとする熱望を持っているならば、皆さんの一挙一動は神様の所有の意志を成し遂げるためのものであり、神様の所有の権限を成就するためのものでなければなりません。したがって、今、皆さんは自分を越えて世界を代表して戦わなければなりません。皆さんの手や足、皆さんの体がそのように動かなければなりません。


今日、神様の再創造の理念を成就しなければならない天宙時代です。このような時、新しい安息の園を築くための天の勇士となるためには、まずサタンが干渉できるすべての要素を排除しなければなりません。そして、天国にあるすべてを持ち帰り、神様をお迎えして慰めて差し上げなければなりません。そのためには、皆さんは天のために歩んできたイエス様以上に、6000年の間、意志のために歩んだどのような人以上に難しい道を堂々と歩んでいける心情を持たなければなりません。


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神様の世界を所有する前に、神様の理念を所有する前に、神様の苦痛と悲しみを所有し、神様が歩まれた逆境まで所有しなければなりません。そのような者たちは天国も地獄も支配することができます。地獄も支配するのです。


それでは、イエス様はどうして地獄を支配することができたのでしょうか。もし善なる面だけで神様の意志を責任を持ち、善なる面だけで神様のために死んだとすれば、天国は支配することができるでしょうが、地獄は支配することができません。それゆえ、イエス様は悪しき場においても自らの節操を守り、天的な基準を立てられたので、地獄までも支配する基準に立つことができたのです。


今、皆さんは地獄の苦しみを踏み越えて、サタンに対して堂々と勝利することのできる資格を持たなければなりません。そのためには、皆さんは神様の善を証しすることができ、神様の義を心配し、神様の全体的な意志を堂々と示すことができなければなりません。


そうして初めて、天の祝福を受けることができ、その時になって私たちクリスチャンは天の前に立つことができます。それゆえ、私たちは最終の審判の舞台まで、最終の決定点まで走り続けなければなりません。したがって、今、皆さんはそこに向かって個人として、民族として、世界として駆け抜けていかなければなりません。しかし、それを越えさせるために、個人を越えて民族、世界が全て攻撃を受けることになるのです。


そこで同じ理念を持って感謝しながら越えていく者たちが、新しい天国の民となり、新しい家庭、新しい社会、新しい国家を形成して天国を築くことを、皆さんは知らなければなりません。


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ですから、自分を思いやり、泣く者は哀れな者となります。それゆえ、私たち統一教会の信徒には断食もさせてみました。それは何故か?自分を中心にして苦しむその場所から離れるためです。それゆえ、断食もさせ、試練も経験させます。その場所を避ければ、打たれるのです。「ありがとうございます。」と言いながら越えていかなければなりません。


神様はサタンも神様の仕事をしたという基準に立たせるために、6000年間耐えてこられました。皆さんが悪を中心に動いていたすべての人々を善に屈服させるその日が最終審判の日です。そのような立場に立って神様に誇れる者が最終審判を越え、神様の所有となるのです。


今日、人々は神様は自己中心的だと言いますが、それは誤った言葉です。イエス様が「私は父の中にあり、父は私の中にいる。」とおっしゃいましたが、これはありがたいお言葉です。皆さんもそのような感じを感じなければなりません。そのようになれば、皆さんは失われたと思っていた世界が、万宇宙がさらに素晴らしく神様と共に皆さんの前にあるということを知ることができるでしょう。


「私があなたの中にあり、あなたが私の中にいる。」という言葉は空言ではありません。それでなければ、神様のものであり、私のものであり、神様であり、私であるということにはならないのです。そのようになれば誇るべきではありませんか。だからこそ、神様は私がいなければ成り立たないのです。何故か?神様は人間のために万物を創造されましたが、人間に与えられた万物を再び神様にお返しする焦点の対象として人間を立てられたので、人間なしには神様はどうすることもできないのです。


それゆえ、世界を見ればすべてが回っている道理です。力の作用が直線的に伸びると永遠に消耗されてしまいます。神様が被造世界を創造された最初の目的はどこにあるのでしょうか。それは直線的に進む力を回すためでした。したがって、世の中の理は回る理であり、同時に動く理です。


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皆さんが化学を学ぼうとするならば、物質を研究し、分析し、運動し、作用するすべての現象を観察することになりますが、その理を逸脱した存在はないことがわかります。そのすべてが360度回っているのです。宇宙も回り、社会も回り、私の心も回っています。


宇宙の中心である神様の心情を中心に回ることのできる者は、神様が回るなら彼も回るでしょう。神様が回る限り、この宇宙も回るでしょう。神様が回るなら、私たちが回り、万物が回るようになるでしょう。


そのような立場に立って初めて、神様の心情が私たちの心情と化すことを感じるでしょうし、神様の心情を感じ取ることができるでしょう。それで、パウロも自分の身体の内にいるのか、身体の外にいるのか分からない境地を強く感じただけでなく、三層天(三層天)や無形実存体の存在価値を感じることができたのです。そこで信仰者の力が発生するのです。


イエス様もそのような境地で主張することのできるその一時を望み、今まで耐えてこられました。キリスト教信徒たちもその一時を望み、今まで耐えてきました。それでは、皆さんは訪れるその一時を迎えることのできる心的基準ができているのでしょうか。そうするためには、皆さん自身がまず神様のものでなければなりません。私の主観も神様のものであり、私の命も神様のものでなければなりません。さらに、家庭も社会も、私たちが持っているすべてが神様のものであり、すべて父のものでなければなりません。


しかし、神様が受け取られるとしても、サタンが支配して汚されたものは受け取ることはできません。サタンの要素(罪悪)があってはならないのです。それを一度打って罪悪の要素を取り除いた後で受け取られるのです。このような神様の悲しみがこもった復帰歴史なのです。


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それゆえ、供え物を捧げる時には、剣を取って切り裂かなければならないということです。皆さんにもそのような時があるのです。それゆえ、終わりの日には分かれる歴史が起こります。分かれて戦争が起こるでしょう。韓国は南北に分かれています。世界に韓国と似たような国家が6カ国以上現れるはずです。この理を逸脱しては動けません。


皆さんがこのことを理解して、自分の命を父に捧げると言っても、神様がすぐに受け取られることはありません。そのまま受け取れば、サタンの無限の非難にかかってしまうため、神様は鞭を振るって打たれ、それでようやく受け取られるのです。そうしてこそ、サタンは非難できないのです。


したがって、神様が選ばれたノアもそうでしたし、アブラハムもそうでしたし、モーセも、イエス様もそうでした。それゆえ、今日、私たちもそうしなければならないのです。もしその道を避けて逃げようとする者がいるならば、それは正規の門を通って入ろうとする者ではありません。正門ではなく、塀を乗り越えて入ろうとする盗賊や強盗と同じ者だということです。


それでは、盗賊や強盗とはどのような者でしょうか。他者のものを自分のものとして行使し、利用しようとする者が盗賊であり、強盗なのです。このことを理解して復帰の難関を越えなければなりません。このように考えると、皆さんが「私の命を父に捧げます」といくら祈っても、「よし、あなたの命が本当に欲しかった」と受け取ることはできない父の悲しみの事情を理解しなければなりません。そのような事情を理解する前に、私たちがすべてを父の前に捧げても、絶対に受け取っていただけないのです。


このような事情を人々に伝え、また解かなければならなかったイエス様がそうせずに行かれたために、再臨という悲しい事実が残されたことを皆さんは知るべきです。


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それでは、今日、終わりの日に立たされている私たちはどうすればよいのでしょうか。そのような「父の悲しい事情、曲折したその心情を私たちに教えてください」と懇願しなければならないでしょう。さらに、自分のすべてを捧げてでも十回で贖罪を受けるべきことを一回で受けることができる道があるならば、その道を探し求めて進まなければなりません。これが終わりの日にキリスト教信徒が歩むべき道です。したがって、そのような場を探し出して越えて行かなければならない、すなわち患難の道をまず越え、勝利しなければならない世界的な運命の道に立たされている私たちです。


終わりの日には大審判、7年の大患難が来ると予言されています。ここで打たれることを恐れ、避ける者は天国に行くのは難しいでしょう。しかし、そのような時を楽しみながら「どうか来てください。一時間で打ち破られ、打ち破られ、私の命が尽きるとしても、7年の大患難を越えさせてください」と言える子供たちが現れることを神様は望んでおられることを、皆さんは知るべきです。


このような者となれば、6000年の歴史の所有は問題ありませんし、天国と神様の心情までも所有することができます。したがって、私たちがいつでも申し上げ、要求すれば、神様が応えてくださるこのような所有的存在、すなわち神様の絶対代理者としての価値的存在として立つことができるということを皆さんは知るべきです。


そのようになれば、ようやく父は私たちを誇り、私たちは苦労された父に対して謹んで拝礼し、慰めて差し上げることのできる一日が訪れることを皆さんは知るべきです。


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御言葉選集4(23)

2024年08月11日 18時10分22秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 4 - 23. ゴルゴダの友になるのは誰か 

1958年10月19日(日)、前本部教会

ルカによる福音書 23:26-43



<祈祷>

 今日、私たちは再びお父様の御前に集まりましたが、悲しみに暮れるお父様に栄光を捧げることができないのではないかと恐れています。また、お父様が望まれる御心の前で過ちを犯すのではないかと恐れます。お父様、もし私たちが不適当であるならば、自ら低い位置に身を置き、せめてお父様様の慈悲を願う切なる心を持てるようにお許しください。


お父様が見守ってくださらなければ、私たちはどうしてこの地上でお父様の栄光を望むことができましょうか。また、お父様の御心に残る者とならなければ、どうして許された楽園の意義を望むことができましょうか。お父様、あなたの心に残ることができる者たち、あなたの御心に一致する者たち、そしてあなたと共に生活できる者たちになりたいと、私たちは最初から心に描いてきました。そしてその御心を目指して歩んできました。


初めはお父様の御心を理解し、お父様を賛美しましたが、その過程で多くの傷ついた心を持つ人々がいることを知っています。お父様、これらすべての困難な状況を慈悲深くお見守りください。


     1


最初にお父様の御前で誓った決意が、終わりの日の復帰の園の中に残らなければならないことを、私たちは復帰の道を通して学びました。イスラエル民族の中で荒野の道を歩む中で倒れなかった者たちがいたのは、エジプトのパロの宮殿を後にして出てきた時にお父様様に対して持っていた真剣な心情が、荒野の40年の道のりにおいても変わらなかったからであることを知っています。さらに、お父様様に対して忠義を尽くした者たちが第2イスラエルの祝福を受けたことも、私たちはよく知っています。


お父様の御前で誓った私たち、お父様の御前で決意した私たち、そのお父様の命令に従うことができる私たち自身であるかどうかを、自ら問いかけるこの時をお与えください。


終わりの日が近づいているのに、お父様のために責任を負う者がいないことを見て、お父様が嘆いているのを感じます。私たちはお父様を見つけ、お父様の栄光を望み、心の中で自らをお父様の子と称していますが、お父様の残された御心、お父様の許された摂理、お父様の戦いの道において、どの一分野をも責任を持って表れる者がいないのを見て、お父様様が嘆いていることを知っています。お父様、この時、私たちが再びお父様様の御前に贖罪の祭壇を築き、悔い改めの涙を流せるようお許しください。


荒野の道で安息を求め、お父様を恨んで荒野で倒れたイスラエルの者たちを私たちは知っています。今日、私たちはそのような姿にならないために、お父様の御手をしっかりと握りたくて集まりました。お父様の栄光に参加する者たちとなるように、愛するお父様、心から願い求めます。


お父様、今、この三千万の民族を慈悲深くお見守りください。お父様、この民族を慈悲深くお見守りください。この民族のために集まる多くの祭壇が、もし民族と天の御心から遠く離れているかもしれませんが、彼らを通して成し遂げなければならない摂理の御心がある限り、お父様が直接介入してくださいますように。また、お父様様の警告に耳を傾けない場合は、鞭を取ってでもその進むべき道を教えてください。愛するお父様様よ、心から願い求めます。


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眠っているこの民族を目覚めさせる使命を担い、最後まで残る者たちがいるべき時、お父様、たとえ一人でも多くの命が、お父様の愛の心情に一致することが許されますように。6千年間嘆かれたお父様を支え、お父様の御前で悔い改め、お父様の御前で服従し、サタンに対抗して戦い抜くことのできるお父様の息子娘たちとなるように導いてください。お父様様、心から願い求めます。


お父様が歴史を動かし、摂理を進められましたが、人間の過ちのために後悔と嘆きと恨みが積もっていることを知っています。私たちを通してその恨みを解消してください。お父様、私たちがあなたの理想の楽園を見つけたいと願っておりますので、切なる心情で歴史を動かし、直接的に導いてください。もし清めるべきものがあれば、それを清め、お父様様の御前に栄光の捧げ物として捧げられるようにし、おお父様様の許された祭壇が清められるようにしてください。愛するおお父様様よ、心から願い求めます。


地上で努力しているお父様様の息子娘たちを探しているこの時、自分だけを頼りにして止まっている者たちにならないようにお許しください。自らの不足を感じている私たち、お父様の祭壇の前に立てない不足な存在ですが、御心のためにゴルゴダの道を最後まで守り抜くことができるお父様の息子娘となるようにお許しください。そして、最後まで残る者たちとなるようにお許しください。愛するお父様様よ、心から願い求めます。


お父様、時期とお許しになった御心は、今日私たちを通して現れ、成し遂げられるべきものですが、もし私たちがその御心に向き合えないときには、お父様が準備された他の者たちを立て、私たちに恥をかかせる時が来ることを心配せざるを得ません。ですから、お父様! 私たちを通して栄光の日をお示しくださり、お父様様様の恨みの心情を晴らしてください。


そして、喜びの日を立て、その日には私たちも共に喜びを分かち合えるようにお許しください。愛するお父様、心からお願い申し上げます。


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お父様、今日ここに集まった者たちは、お父様の前に現れたいと願っていますが、お父様が非常に気にされることを心配せざるを得ません。お父様が許された希望の御心に向かってためらうことなく進み、お父様が命じるままに動き、安心して互いに信じ合えるその日が、この民族の前に速やかに現れるようお許しください。お父様様様、心からお願い申し上げます。


お許しになった御心に対して、お父様の心情を持てず、お父様が悲しむ子供たちになってしまうのではないかと恐れます。今日の私たちの心が、お父様の心に似るようにお許しください。また、私たちの事情がお父様の事情と一致するようにお許しください。私たちの願いがお父様の願いに似るようにお許しください。そうして、死ぬにせよ生きるにせよ、お父様様を中心に据えさせてください。死んでも生きても、おお父様様のものとして所有されて生きる私たちとなることをお許しください。おお父様様、心からお願い申し上げます。残されたこの時間をおお父様様に委ねましたので、御心にかなうようにお導きください。


今日も地方に散らばり、切に祈る孤独な者たちがいます。お父様、彼らに一律に恵みの御手を差し伸べ、励ましの賜物をお与えくださり、天の栄光を体感できるようお許しくださいと、心からお願い申し上げます。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


<御言葉>


今日皆さんと共に考えようとする御言葉の題目は「誰がゴルゴダの友となるか」です。


ゴルゴダという意味は、皆さんがよく知っているように、「頭蓋骨の場所」という意味であり、つまり死の場所という意味です。したがって、ゴルゴダの友となるということは、死の道の友となるということです。キリスト教徒はゴルゴダの主を信じています。ゴルゴダと言えば、私たちはイエス様の十字架を連想します。そして、イエス様の十字架を考えると、イエス様の聖像を連想し、そのイエス様の聖像を思い浮かべると、イエス様の死と共に天が悲しまれたことを思い起こします。


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しかし、死にゆくイエス様を前にして、天は悲しみ、地は喜びました。地のために来られたイエス様であり、天のために来られたイエス様でした。しかし、天と地のために行かれるイエス様を、天は理解しましたが、地は理解しなかったのです。これが歴史的な悲しみであることを、私たちは知らなければなりません。


もしイスラエルの民が、天が送ったイエス様を神が知るように知っていたならば、今日の人類の歴史はこのように大きく異なるものになっていなかったでしょう。イエス様は真理の代表者であり、生命の代表者であり、理想の代表者であり、愛の代表者として来られましたが、彼が主張した真理と生命、理想、愛は、人間を基準にしたものではなく、天を基準にしたものでした。そして、堕落した人間が希望として求めるべき真理、堕落した人間が持つべき生命、堕落した人間が求めるべき理想、堕落した人間が永遠に所有すべき愛でした。そのような真理と生命、理想、愛を持って来られたイエス様でしたが、そのイエス様が地上で亡くなってしまったために、人間が求めていた真理を見つけることができなくなり、人間が求めようとしていた生命と理想、愛を見つけることができなくなりました。ですから、今日まで人間はさまよい続けるほかありませんでした。このことを私たちはもう一度認識しなければなりません。


これまで、イエス様の心情から生まれた、つまり彼の胸から生まれた真理の言葉を持つ人が、この地上にいませんでした。また、イエス様の骨と肉に刻まれた生命を持つ人が、この地上には一人もいませんでした。そして、イエス様の体と心が一体となり、希望として見つめた理想、すべての人々を包み込み、一つの目的に向かって進むことができるイエス様の愛を、今日この地上でイエス様の代わりに持つ者も一人もいませんでした。天の真理と生命と理想と愛を持って来られたイエス様は、地上の人間を中心にして、その天の理念と愛の御心を成し遂げようとされ、創造主である神と一つの目的を成し遂げようとされました。しかし、私たちの祖先が不信と背反をしたため、その後の歴史の道程で神が立てようとされた真理は行方を失い、神が立てようとされた生命と理想と愛もすべて失われてしまいました。


そのため、堕落の因縁に埋もれている人間は、真実の言葉を求めてさまよい、真実の生命を求めてさまよい、真実の理念と真実の愛を求めてさまよわなければなりませんでした。このため、終わりの日の人間が、歴史の過程で悲しみに打ちひしがれた闘いの道程を経て、一つの生命を見つける時が来なければならないのです。一つの生命の動きが世界を動かし、一つの理念が世界の人類を包括し、共通の目的を成し遂げることができる時が来なければなりません。


そうして、全世界の人類が切っても切れない一つとなり、何であれ溶け込ませることができる統一的な愛の動きが、終わりの日に広がることを、御心を成し遂げるために来た数多くの先知先烈たち、または御心を持つ者たちは望んできました。また、彼らがそのような一日を成し遂げるために、死を恐れずに闘ってきたことを、今日、歴史的な終末の時代に悲しみと不満と恐怖の中で生きている全世界の人類は、再び感じなければならない緊急な時期に直面しているのです。このことを私たちは感じなければなりません。


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イエス様は十字架にかけられて亡くなりましたが、完全に敗れたわけではありません。イエス様が亡くなった後も、むしろ彼の言葉、つまり真理が残り、生命が残り、愛が残りました。では、この残された言葉と残された生命、残された理想、残された愛を、今日の人類はどのようにして見つけ出すのでしょうか? これが人間が共に解決すべき最終的な問題であることを、皆さんは知らなければなりません。


それでは、神の御心を抱いて来られたイエスご自身の悲しみとは何だったのでしょうか。理不尽さとは何であり、怒りとは何だったのでしょうか。苦しみの中の苦しみとは何だったのでしょうか。人間のために生命的で理想的で愛に満ちた天の言葉を持ちながらも、その言葉をすべて伝えられずに去らなければならなかったイエスのその心情、命をすべて与えることができずに去らなければならなかったイエスのその心情、人間が喜びを得ることのできる理想を与えることができずに去らなければならなかったイエスのその心情、天の愛を与えることができずに去らなければならなかったイエスの心情が、彼にとって最大の悲しみであったことを、皆さんは知っておくべきです。


神様は数千年の歴史の過程を通して私たちの先祖たちを立て、天倫の御心に協力させようとされましたが、私たちの先祖たちは時代ごとに天を裏切りました。そのため、天を裏切った先祖を持つ私たちも、今日の終末の時にあって、再び歴史的かつ宇宙的な裏切り者の群れになりやすい、このような重大な岐路に立っていることを感じ、知らなければなりません。


神様がアブラハム一人からモーセを経て、つまり数千年にわたる労苦を経て、ようやく一つの言葉の中心体、生命の中心体、理想の中心体、愛の中心体として選ばれたイスラエルの民の前に約束して送り出された方が、メシアであるイエスでした。しかし、そのメシア一人が来られることを数千年もの間待ち望み準備していた、つまり歴史的な功績の上に立っていたユダヤの民は、いざメシアが来られたときに彼を迎えることができませんでした。歴史の過程で多くの先祖たちが希望していた、その歴史的な主役として迎えなければならなかったイエスでしたが、彼を迎えた人は一人もいなかったのです。


今日、私たちはベツレヘムの馬小屋に横たわっていたイエスを誇る者となってはなりません。当時、ベツレヘムにメシアが現れるという予言がありましたが、その予言に従ってメシアを迎えるために小屋一つでも建てて待っていた者はどこにもいませんでした。


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その当時、ベツレヘムに主が突然おいでになるのではないかと心配し、その時と時期を心に抱いて準備した小屋の主がいたかもしれませんが、いざメシアが現れたときに彼を迎える人はいませんでした。イエスが生まれたとき、エルサレム全市が騒然としました。ベツレヘムでメシアが生まれたという噂が広がりました。しかし、エルサレムの中でもベツレヘムの中でも、メシアの誕生を準備していた人は一人もいませんでした。天の皇太子であり、万民のメシアであるべきイエス様が、馬小屋に横たわっているという哀れな姿だったことを、今日信じているクリスチャンたちは再び考え直さなければなりません。


また、天の事情を語り証言されたメシアであるイエスをイスラエルの民が認識しなかったため、今日イスラエルが天の前に立つことができなくなったのです。メシアも地に来られたときには、身に着けるものが必要であり、住む家も必要です。しかし、当時、天を信じていたファリサイ派の人々やサドカイ派の人々、またユダヤ教徒の中で、現れたメシアを迎えるために一部屋でも準備した人は一人もいませんでした。このようにして、天を信じてきた私たちの先祖が犯した罪状を前に、私たちは悲しまなければなりません。今日、私たちがそのような歴史的な過ちを繰り返さないために、自ら心に憂いを抱き、天の前に訴える者となるべきです。


天が4000年の間、メシア一人を送るためにイスラエルの民を準備していたにもかかわらず、イエスの状況がこのようになるとは! 4000年かけて準備された労苦はどこに行ってしまったのか。天が約束した一人の選ばれた子を送ったのに、その時、何も知らずに深い眠りに陥っていたのはユダヤの民であり、深い眠りに陥っていたのはエルサレムだったのです。


彼らは自分たちの教団を誇りとしており、また天の御心に仕えようとしていたユダヤ教団でもありました。このような民の前にイエス様が現れることになったのは、神の御心を受けるべき人間と、御心を摂理していかれる神との間に横たわっている事実だったのです。しかし、この事実を皆さんはよく知らないでしょう。


イエス様は30歳に至るまで大工として生活していました。もし霊的な体験をした人がいたならば、イエスの30年の生涯の一端を知ることができるでしょう。それを知っている人がいれば、美味しい食事をしても胸が痛むでしょうし、良い服を着ても胸が痛むでしょうし、良い環境にあっても胸が痛み、悲しい生活を送ることになるでしょう。


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ヨセフが神の御心に従ってマリアを迎え入れたとき、神は共におられました。しかし、その後、ヨセフの家庭で育ったイエスは、義理の子供として虐げられました。ヨセフの子供たちが増えるにつれて、イエスはますます孤立した立場に置かれるようになりました。そして、自分の事情や心情を語ることができず、ぼさぼさの髪の青年として、30余年の人生を鋸や鉋を持ち、他人の戸を作りながら過ごしました。このようなイエスの事情を誰が知っていたのでしょうか。誰も知りませんでした。当時のイエスは、今日皆さんが信じている歴史的なイエスとして、歴史的に評価される人格を持つキリストとして現れることができませんでした。


それでは、今日の終末に現れるメシアを迎える者は誰でしょうか? それは歴史的なイエスの人格を受け入れる者ではありません。時代的なイエスの人格を受け入れる者であることを、皆さんは知っておくべきです。


天倫の御心を胸に抱き、この地を憂いながら生きていたイエスでしたが、彼の両親は彼を理解せず、兄弟たちも彼を理解しなかったという悲しむべき立場にあったイエスであったことを、皆さんは知っておくべきです。


私たちは今、そのようなイエスを信じなければなりません。私たち統一教会の信者は、そのようなイエスをまず信じ、知るべきだということです。私たちは十字架のイエス、死の道を歩まれたイエスを知っていますが、実は生きる道を見つけに来られたイエスでもあったことを知るべきです。ただ亡くなられたイエスにしがみついて泣く者となってはいけません。


イエス様は、亡くなる前に死を見据え、それに備えていたその心情を誰にも打ち明けることができず、天地の憂いと悲しみ、そして天地の恨みを抱えたまま、その心情を誰にも打ち明けることができない悲惨な状況に置かれていました。そのような立場にあったイエスを抱きしめて泣くことができた者、そのイエスの事情を理解できた者、そのイエスと友となれる者がいれば、その者たちがイエス様の使徒となったことでしょう。


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しかし、ペテロはどうだったのでしょうか? ガリラヤ湖のほとりで漁をしていたペテロが、どうしてイエスの最初の弟子となったのでしょうか? これは驚くべき事実でした。ユダヤ教はどこに行ったのでしょうか、選ばれた民族はどこに行ったのでしょうか、天の御心の中にはいなかったこのペテロや、その他の漁師たちがどうしてイエスの弟子となったのでしょうか? イエスは不満を抱かざるを得なかったのです。そして、歓迎するユダヤの民がいなかったために悲しまれたイエス様でした。


ですから、今日皆さんは、主を信じるにあたって、亡くなられたイエスだけを信じるのではなく、生きて働かれたイエスを信じなければなりません。十字架にかけられたイエスだけを信じるのではなく、30余年の生涯を通じて天の御心を心配されたイエスを信じるべきだということです。彼の生涯の道には、御心のためのため息の生活があり、悲しみの心情があり、その上に十字架の悲しみが重なっていることを、皆さんは知らなければなりません。


ゴルゴダで苦しんでいたイエスの心情を知る者が地上にどこにいるでしょうか? 彼の友となる者がどこにいるでしょうか? イエス様には、家庭から友が必要でしたし、兄弟の中にも友が必要でした。すべての父親や母親に代わることのできる友、教会に代わることのできる友、イエス様が背負う十字架を代わりに背負うことのできる友、さらには世界の十字架の道、ゴルゴダの道を代わりに歩むことのできる友が必要だったのです。しかし、今日そのような御心を知り、イエスを信じる者は一人もいません。


歴史的な御心のために来られたイエスが肉体を持った人間として現れたものの、時代的に不遇な環境の中で活動され、倒れてしまったために、イエス様が残された御心を追って歴史の道を歩む人々もまた、不遇な時代的環境に置かれ、イエスを叫ばざるを得ない状況に陥りました。また、イエスがゴルゴダの十字架を背負われたときには、全宇宙がかかっていたということです。だからこそ、ゴルゴダの友を求めてさまよう天の心情であることを私たちは知らなければなりません。つまり、ゴルゴダの心情を理解してくれる友を天が求めてさまよっているのです。


それでは、イエス様はご自身を新郎、信徒たちを新婦にたとえられましたが、イエスの新婦となる人とはどのような人でしょうか? それはゴルゴダの道程においても友となれる人々です。


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歴史的に見ると、悪が強くなると善は弱くなりました。悪が強くなって善が悪を導くことができないとき、悪が善を支配しながら流れていきました。しかし、その中で小さな善が現れ、それよりも大きな善を成し遂げ、善の目的に向かって前進していきました。このようにして、善が次第に上へと昇っていくという歴史の発展過程を経てきたのが、今日までの歴史の道程であることを、皆さんは知っておくべきです。


歴史は個人から始まり、家庭を経て、社会性を帯びて流れていきます。集団的な氏族の形態を経て、部族を経て、民族を経て、国家形態を経て、世界にまで及んでいます。そして歴史は、見える世界で終わるのではなく、霊的宇宙の世界まで進展していくでしょう。


人類の歴史において、個人は個人を中心として主張する善の時代、氏族は氏族を中心として主張する善の時代、部族は部族を中心として主張する善の時代、民族は民族を中心として主張する善の時代、国家は国家を中心として主張する善の時代、世界は世界を中心として主張する善の時代を経てきました。このようにして、歴史は小さな善が次第に大きな善へと発展してきました。


したがって、闘いにおいても、個人の闘いが家庭の闘い、家庭の闘いが氏族の闘い、氏族の闘いが社会の闘い、社会の闘いが国家の闘い、国家の闘いが世界の闘いを経て、霊界があるならば、その霊界とこの地上との闘いにまで至るということです。また、神が存在するならば、その神と地の無数の悪霊たちとの闘いが終わらなければ、この宇宙に平和の時代は訪れません。このような原則的な過程を通して摂理されている神の事情を、皆さんは理解すべきです。神がサタンと地上の悪しき者たちと戦ってすべての問題を解決しなければ、宇宙的な平和の時代は訪れないのです。


それでは、闘いは個人の闘いが氏族、部族、国家、世界的に広がってきたのですが、これから世界はどうなるのでしょうか。霊界があり、天があるならば、その霊界と戦わなければなりません。終末に立つ皆さん、心に訪れる恐怖をどうやって逃れるのでしょうか。これからは原子爆弾以上の恐怖を感じる時代がやってきます。つまり、外面的に起こる原子時代の恐怖だけでなく、心に訪れる恐怖の波が皆さんを襲うでしょう。


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そのため、今日の人間は恐怖心が多く、精神病者が増えています。これは霊的なサタンとの戦いに直面しているからです。この戦いを終わらせ、善なる神と自分が一つとなり、天のお父様の闘いを自分が引き受け、お父様の悲しみを自分が、お父様の苦しみを自分が責任を持つ者となるべきです。だからこそ、お父様のその苦しみ、その悲しみ、その理不尽さを代わりに責任を負うためのその一日が、イエスが再び来る再臨の日であり、人類が迎えなければならない大審判の日であるのです。神の摂理はこのように定められています。


それでは、このような歴史の道程を経てきた今日、どのような状況になっているのでしょうか? 現在は、国家間の闘争の時代を過ぎ、民主主義と共産主義が世界的な闘争の過程を経て進行している時期です。したがって、いずれは一つになるでしょう。それでは、なぜキリスト教の歴史がこのような過程を経てきたのでしょうか? それは、イエス様がゴルゴダで十字架を背負われたとき、右側にいた強盗と左側にいた強盗の姿が、今日の世界において現れているからです。右側の強盗は天の側を代表する世界的な民主主義の形として現れ、左側の強盗は天に反対し、物質と人間を中心にした世界的な形として現れているのです。


次に現れるものは何でしょうか? それは、イエスの死と共に復活の時が訪れるということです。つまり、個人的な左側の強盗が出発し、それが家庭的に広がり、氏族を経て部族、民族、国家、世界を形成しました。また、右側の強盗の形も世界を形成するようになったのです。イエスという一つの存在が地上に蒔かれることで、その結実が終わりの日にこのように現れたのです。


ここで私たちが心配しなければならないのは、民主主義がどのような立場に立っているかということです。そして、皆さんはイエス様が亡くなられたときの心情を知り、神の国が到来するときに自分を見つけて喜ぶことができるようになるべきです。イエス様の心情を代わりに持つことができないこの民主主義が、最終的にどうなるのかを知るべきです。今日、民主主義陣営に属している私たちは、自分が何万回死んでも当然のことと認識し、イエス様の死に涙を流して共感できる右側の強盗のような人になるべきです。皆さんはそのような時に来ているのです。


今日、全世界で起こっている現象をキリスト教的に見ると、それらは歴史の結論的な現象です。皆さんは、神がこの結論に至るまでにどのような歴史的過程を経てきたのかを祈りによって考えるべきです。そして、皆さんが「お父様! この民族が選ばれた民族として世界の祝福を受けるようにしてください。ユダヤ教を裁き、不信の列を裁いてください。」と祈らざるを得なかったことが、イエスが経験された状況だったことを理解すべきです。


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イエスが亡くなるときに抱いたその怒りとは何だったのでしょうか? 選ばれたユダヤ教がイエスの胸を痛め、選ばれた民がイエスを十字架につけたのです。これが怒りと悲しみの源でした。そのようなイエス様は、ご自身の悲しみが大きかったものの、4千年間涙と血で祭壇を築いてきた神の事情を思い、4千年間選ばれ育てられてきたユダヤの民であることを思い出すと、ご自身の死を忘れ、彼らのために祈ることができたのです。このようなイエスの精神を、今日の世界中に散らばるキリスト教徒たちは再び感じるべきです。


もしイエスが手を挙げて祈らなかったならば、ユダヤの国がまず裁きを受け、ユダヤ教徒がまず裁きを受けていたでしょう。天が猶予の過程を残したことによって、自らが死にゆく足跡を追って救いの恵みを与えたイエスであったことを、皆さんは理解すべきです。


私は右側の強盗に対するイエス様の言葉を読むと、知らず知らずのうちに涙がこぼれます。悲しくてたまりません。4千年の神の悲しみがここにあったことを知らなかった民族……。これは悲しい場面でした。その当時、イエス様の前にただ散らばっていた多くの民衆がいたのです。イエス様の血と肉に共に連帯し、感情を共有するべき者たちがユダヤ教徒であり、ユダヤの民であるべきでしたが、そうはなりませんでした。イエス様の十字架の死に血を共に流すべきだったのに、むしろそこには殺人強盗が共にいたというのはどういうことなのでしょうか。イエス様は万民の救い主でありながら、哀れな救い主でした。イエス様が亡くなられるときに唯一の同伴者が殺人強盗であったという事実は、非常に悲しいことです。


ゴルゴダの友がペテロであったならば、12使徒であったならば、天には恨みは残らなかったでしょう。そうであれば、イエス様は亡くならなかったでしょう。もし12使徒が団結し、イエス様の死と共に死のうとしたならば、奇跡が起こっていたでしょう。そうなれば、イエス様は死ぬことはなかったのです。


しかし、33年間選ばれた民族を見つめて悲しまれていたイエス、3年間の公生涯の間、地上の人類のために泣かれたイエス、そのイエスに希望を託していた民族はどこに行ったのでしょうか? 見守っていた教会はどこに行ったのでしょうか? 3年間の公生涯の間に喜びや悲しみを共にしながら従った弟子たちはどこに行ったのでしょうか? 彼らは自分が良くて楽しいときには、「私はイエスの友であり、イエスの弟子だ」と言っていました。誰よりもイエスの立場に立とうとしました。しかし最後には、イエスが歩まれる道とは全く無関係の立場に置かれることになりました。これがまた新たな歴史の出発点となり、そのような形で歴史が発展し、今日の終末に至ったのです。


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それでは、イエスの祝福を受けたのは誰でしょうか? それは、従っていた12使徒でもなく、天を信じていたユダヤ教徒でもなく、祝福されて選ばれたイスラエルの民でもありませんでした。十字架上で共に血を流して死んだ右側の強盗が歴史的な祝福を受け、最初の弟子よりも先に楽園に入ったのです。この事実は悲劇中の悲劇です。もしも殺人強盗の一人でもイエス様の死の日に共にいなかったならば、救いの摂理は頓挫していたでしょう。殺人強盗の流した血が、イエス様の心情を代わりに地上で福祉と楽園を建設する条件を天運と共に築くことができたために、イエス様は復活して地上に再び現れ、不信仰の民に接することができたということを、皆さんは知っておくべきです。


そして、イエス様一人を死の場で新郎として迎えた者がいたために、その基盤から、善の実りが必ず地上に現れるでしょう。それはイエスの代わりに現れるのです。


サタンの勢力がどれほど強くても、善を打ち倒す際に、その善の種までも完全に取り除くことはできないことを知っておかなければなりません。善のために犠牲となり、死の場に立つだけでなく、その善を守って倒れる忠誠心を持つ者がいるならば、その一人が倒れることによって、善は何倍にも増殖して広がるのです。これが鉄則です。


当時、反対していた人々は、イエス様を十字架にかければすべてが終わると思っていました。イエスに従う者が一人もいなかったため、サタンの支配下に全てが奪われたと思っていたのです。しかし、死んだ右側の強盗を条件として復活の歴史を起こしたことを、今日のキリスト教徒は知りません。


サタンはイエスと右側の強盗、そして12使徒を打ちました。イエス様が亡くなられた後、サタンは12使徒を打ちました。天は12使徒もすべてサタンの前に引き渡したのです。それでは、なぜそうしなければならなかったのでしょうか? イエスの道は個人的なゴルゴダの道でしたが、イエス様がゴルゴダの道を歩まれたことで、12使徒もゴルゴダの道を歩まなければならず、ユダヤの民もゴルゴダの道を歩まなければならず、イスラエルの民族もゴルゴダの道を歩まなければなりませんでした。そして、今日の全世界のキリスト教徒もこのゴルゴダの道を歩まなければならず、全人類もこのゴルゴダの道を越えていかなければならないことを知っておくべきです。


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しかし、今日の民主世界は、民主主義を中心にイエスが越えた世界的なゴルゴダの丘を越えなければならないことを知らないのです。皆さんもご存知のように、イエス様が「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と祈られたのは、ご自身の死を悲しんだからではなく、自分がこのように死ねば、自分を通じて全世界の人類も十字架のゴルゴダの道を越えなければならないことを心配されたからです。それで「お父様よ、できることならこの杯を私から取り去ってください」(マタイ26:39)と祈られたのです。


もしイエス様がこのゴルゴダの道を越えられなかったならば、世界的なゴルゴダの道はなかったでしょう。世界的であり宇宙的な使命を持って来られたイエス様がゴルゴダの道を越えられたことで、そのイエスに従う者たちには、個人的なゴルゴダの道が残され、家庭を中心とした摂理の時代と時代においては、家庭的なゴルゴダの道が残されました。また、家庭の時代を過ぎて摂理の御心がますます拡大され、社会の段階に進んだときには、家庭の十字架の道だけでなく、社会的な十字架の道も残されました。


また、国家的な摂理の御心を信じて受け入れる国家的な摂理の時代においては、家庭の十字架、社会の十字架、国家の十字架の道を歩まなければなりませんでした。したがって、今日の世界的なキリストがこの地に来るならば、世界に対する十字架、国家に対する十字架、社会に対する十字架、家庭に対する十字架、個人に対する十字架をすべて背負って越えなければなりません。このような運命の丘が残されていることを、今日の世界のキリスト教徒は知らないのです。


今日のキリスト教徒たちはどのような主を迎えようとしているのでしょうか? 天があるならば、どこでイエスに会うのでしょうか? 十字架の丘を越えて復活の場で会わなければなりません。これが再臨と復活です。したがって、イエス様が来られてから今日までの歴史の道程は、個人から家庭、社会、国家、世界を目指したゴルゴダの道を歩みながら、押しのけ、打たれ、叩かれているのです。


今日の時代は、民主陣営が共産陣営に打たれている時です。それでは、この世界的なゴルゴダをどうやって越えるのでしょうか? イエス様と同じように、この民族を思う心情を持ち、この民族全体が一つの体のように動いて進まなければなりません。そのような民族になる前に、越えることが難しい世界的なゴルゴダの道が立ちはだかっていることを、皆さんは知っておくべきです。


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したがって、極めて悪い場所で善の根または善の実を見つけて立てなければ、悪しき罪人から善なる人々を一つにする道が開かれることはありません。そうして復活したイエス様の権限に頼って、失われた12使徒を再び見つけ出さなければならないのです。当時、個人がイエスを代わり、12使徒がイエスを代わりに受け入れるべきだったのです。しかしそうしなかったため、12使徒のほとんどが皆殺しにされました。12使徒が死の道に立ち向かうとき、仲間を追い出した人が一人いましたが、それが使徒ヨハネでした。そして、一人の強盗はユダヤ教によって追い出され、イスラエルの民によって追い出され、裏切った12使徒たちによって追い出されました。天が立てた民の中でイエス様一人を立て、その復活によって12使徒を再び立てました。さらに天は、その12使徒を代わりにして、イエス様と同じように追い出された一人を立てました。それがパウロです。


今日のキリスト教徒たちは、パウロが天を愛し、神の御心を理解していたと言います。しかし当時、パウロは12使徒たちから追い出されました。使徒として福音を伝えましたが、パウロは12使徒たちから追放されたのです。パウロは復活したイエスに出会い、天の使命を受けました。そして、裏切った使徒ではなく、裏切らなかった生きた使徒として異邦の地ローマに行き、迫害を受けながら福音を伝えたパウロでした。


パウロは12使徒の殉教に代わり、洗礼者ヨハネの死に代わって主を求めたため、地上において摂理的な軌道が異邦の地に移されました。この意味がわかりますか? こうしてパウロはローマ帝国に入って一人で追放されました。宗教的に歓迎されない立場に置かれたのです。


しかしパウロは、イエス様が定められた摂理の御心一つを抱き、人類の十字架であるゴルゴダの道を歩まれたのと同じように、ローマのどのような迫害の矢にも屈することなく突き進みました。天の御心のためには死も恐れずに進んでいくその姿は、イエスの姿を彷彿とさせました。


そうしてパウロを中心にして、キリスト教は動き、家庭的な段階を経て、部族的な段階を経て、民族、国家、世界の段階へと進んでいきました。イエスがゴルゴダの道を歩まれたように、パウロが天の使命を担い、12使徒に代わってサタン世界に対し、死のゴルゴダの道を自ら進んで歩みました。そうしてローマのネロ皇帝時代の激しい迫害と虐殺の過程を経てきたことを、皆さんは知っておくべきです。


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また、個人的なパウロの犠牲が、当時の部族や12使徒のような人々、イスラエルのような集団を生み出しました。こうして、個人から全体が一つにまとまり、死を超えて戦った結果、ローマ帝国を打ち破ることができたのです。そして、約4世紀の間、キリスト教は繁栄しました。中世封建社会の時代には、ローマ教皇庁を中心としてキリスト教は全盛期を迎え、全世界がキリスト教徒によって支配されるようになりました。


しかし、このローマカトリックには進むべき方向がありました。すなわち、国家のゴルゴダの道を超え、世界的な舞台を開拓する使命があったのですが、それを知らず、国家的な理念の欲望にとらわれていたため、彼らは天に打たれることとなります。文芸復興を通じて天は彼らに打撃を与え、宗教改革を通じて旧態依然とした儀式を打ち破り、ついには教皇庁が根本的に追いやられることとなったのです。そして徐々に衰退していったのです。


ところが、このようなキリスト教の信徒たちの中から新しい革新勢力が現れました。それがルターを中心とした反抗者たちであり、プロテスタントと呼ばれる人々です。旧教を中心とする集団を打ち破る過程で、ルターを中心としたプロテスタントが形成されたのです。この精神を受け継いだピューリタンたちがアメリカに渡り、新大陸の文明を築き、世界的なキリスト教王国を建設したのです。


しかし、世界の歴史がこのように進展してきましたが、今や天が世界に打撃を与える時が来ました。したがって、私たちはここで、人々の中で追いやられている集団がどこにあるのかを見極めることができなければなりません。民主主義陣営の中で最も追いやられている集団、最も不幸な国がどこなのかを探さなければならないのです。


これは、イエスが血を流した十字架の上で、強盗が友となったように、世界的なゴルゴダの道を進む時に、裏切ったユダヤ民族とは友でない集団、または国家が出てくるということです。そのような集団、そのような国家が出てこなければならないということは、歴史的な摂理観に照らしてみれば妥当なことです。


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しかし、今日の世界を見渡すと、神を信じない共産主義が現れました。彼らは神がいないと言っています。神はどこにいるのかと言うのです。それゆえ、イエスを打ち負かすための死の舞台でイエスの味方となった右側の強盗が現れたのと同じように、今日の共産主義は自分たちのすべての野望を実現するために虐殺主義に突き進んでいるのですが、その虐殺が民主主義陣営の側に立つ条件の犠牲となるということを理解しなければなりません。


では、今日の世界でこのように全人類をゴルゴダの道へと追いやる中で、この道を越えなければならない今日のキリスト教徒はどうすべきでしょうか?この世界の前にゴルゴダの道をまず進む集団となるべきです。全キリスト教の先頭に立ち、追いやられる集団、使徒たちの前に追いやられたパウロ、ユダヤ人の前に追いやられた強盗、ローマ教皇庁の前に追いやられたプロテスタントがいたように、今日の世界的な新改革派の立場で追いやられる集団が出てこないか常に注意していなければなりません。これは歴史が証明する事実です。


それでは、今日の私たち統一教会の信徒たちは、20世紀の新しい改革宗教団体として、20世紀のすべての主義や思想から追いやられなければなりません。民主主義陣営、教派主義的状況のこの世界で追いやられる集団となるべきなのです。また、天の理念を持って進んできた国家があるならば、その国家もまた世界の前で強盗のように血を流さなければならないのです。


したがって、韓国は38度線を中心に6・25動乱を通じて世界の生死運命をかけて左翼と右翼が衝突し、血を流す立場が生じたということです。これを考えると、今日の民主主義のゴルゴダの道が右側の強盗の境遇に似ていないとは言えません。


では、今日の韓民族の前に恨みがあるとするならば、今何をつかむべきでしょうか?主の思想をつかんで戦う時ではありません。亡くなったイエスのゴルゴダの心情を持たなければならず、その意義を理解し、民族が裏切った心情、歴史的な裏切りの心情、世界的な裏切りの心情を抱き、あなたが苦難の道を歩まないように私が代わりに行くという心を持たなければなりません。そして、この民族がイエスの栄光を讃えるという心情を持っていた右側の強盗のような心情を持つならば、ゴルゴダの死の道で再び復活したイエスを迎え、復活の栄光の時代に入るのではないかと考えられるのです。


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それゆえ、今日の統一教会の皆さん、迫害されても悲しまないでください。追いやられに追いやられているうちに、イエスの心情がわかり、イエスに会うと、死のゴルゴダを前にしてゲッセマネの園で切実な祈りを捧げた心情まで理解することができます。イエスが追いやられた極限で天と一致して復活の恩恵をもたらしたように、あなたが追いやられるならば、ここから新しい歴史が始まるのです。


私たちが世界的な理念を持っているならば、世界的に追いやられ、国家的に追いやられ、教会的に追いやられ、社会的に追いやられ、家庭的に追いやられ、個人的に追いやられるが、ここで残る集団にならなければ、宇宙的な復活の時代に、宇宙的なゴルゴダの道を越えてこられる主の前に花嫁の資格を持ち、復活の権能を代行することができる天の本然の息子娘となることができるのです。


だからこそ、今日、皆さんは真の友を求めてさまよいました。真の家庭、真の師を求めてさまよいました。真の主義、真の国家、真の世界を求めてさまよいましたが、まだ見つけることはできませんでした。イエスを中心に考えてみると、皆さんはその目的を達成する立場を失ってしまったことを理解しなければなりません。


したがって、今日、私が真の友を見つけたいと望むならば、友のゴルゴダにおいて真の友となるべきであり、真の家庭を見つけたいと望むならば、家庭のゴルゴダを担う者でなければなりません。さらに、国家や世界的なゴルゴダの道においても、皆さんはイエスと同じ心情を抱き、ゴルゴダの道を責任を持って進まなければなりません。そして、すべての人が自分の永遠の生命の問題を任せ、委ねるとしても、それを担うことができるようになり、さらに世界的な問題にも対応できる者でなければ、世界的なゴルゴダの道において天の前に友となることができるということを、皆さんは心に刻むべきです。


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御言葉選集4(22)

2024年08月04日 17時46分14秒 | 日記

文鮮明先生御言葉選集 4 - 22. 神が求められる自由と解放と統一 (1958年10月12日)
1958年10月12日(日)、本部教会。
ヨハネによる福音書 8:31-47




<祈り>
お父様!この場にひれ伏すあなたの息子娘たちを見捨てず、全身全霊をお父様に捧げることをためらわない息子娘にしてください。私たちは不完全で不忠実であり、多くの点で足りませんが、あなたが私たちを探し求めて努力してきた歴史的な心情に頼り、全身全霊を捧げますので、どうか御自身で導いてください。


不十分な部分を、お父様、聖霊の火で焼き尽くして聖別し、お父様が取るにふさわしい私たちとなり、全身全霊を一つにして捧げることができるこの時間を許してくださいと、切に願い、求めます。


お父様!あなたの息子娘たちがこの場まで歩んできた険しい道は、あなたの涙の跡を代わりに歩んできたものであり、悲しみが染み込んだ、血と肉を裂くようなあなたの道を代わりに歩んできたものであります。お父様、私たちの心で決意したことと体を動かして行動することをご存じで、この時間、私たちをあなたの深い愛の心情で御自身の胸に抱いてくださり、サタンの非難条件にかかる命が一つもないように許してくださいと、切に願い、求めます。


私たちを立てて、この民族の前で、お父様、新しい御言葉を伝えようとする意図を私たちは知っていますが、私たちの不忠と不完全さのために、あなたが望む使命と責任を果たせず、お父様に悲しみをもたらすのではないかと焦る心を持っていますので、お父様の御心に対してこれまでの不十分な事実を御覧になり、それを補うためのあなたの命の力と愛の力を与えてくださり、どんな使命と責任でも果たすことができる直接的な恩賜を私たちに与えてくださるよう、お父様、切に願い、求めます。


私たちが進む道には、それを阻むために無数のサタンが蠢くでしょう。それに備えた私たちの決心が完全であり、私たちがあなたの前で命の生贄となり、最後まで耐え忍んでサタンとの戦いに負けないように、お父様、導いてください。


     1


初めて持った決意と覚悟で前進し、ただお父様の栄光を現すために努力し戦うことができる息子娘となるように許してください、愛するお父様、切に願い、求めます。今、この場に集まった子供たちを憐れんでくださり、お父様の愛の胸に抱かれるように許してください。


闇のすべての要素と条件を取り除き、命の権威を持って一つに束ねてお父様を迎え、栄光の賛美を捧げ、栄光の恩賜に感謝することができるこの時間を許してください。


最初から最後までサタンがこの一つの集まりに現れないように許してください、ただお父様の栄光だけが私たちの心と体を通して現れるように許してください、と主の御名によって訴えました。アーメン。




<御言葉>
皆さんと共に考えたい御言葉の題は「神が求められる自由と解放と統一」です。この題を持ってしばらく御言葉をお伝えします。


「神が求められる自由と解放と統一」これを信仰的な見地からお話ししようと思います。皆さんは神が全知全能であらゆることができると知っています。しかし、いくら力のある神であっても、神の心情に入り込んでその心が本当に自由な立場にあるかと問われたとき、私はそうだとは答えられません。また、神の本心は希望に満ちた摂理を前にして解放の喜びの中にあるかと問われたとき、それもまたそうではないと言えます。さらに、神が創造された人間とすべての万物の世界が、神の心情を動機として動いているか、つまり神の心が動けば人間も動き、万物の世界が一緒に動くことができる統一的な位置にあるかと問われたとき、それもまたそうではないと私たちは断定せざるを得ません。


     2


神様も自由になりたいと望んでおられるのが本性であり、本然の心情です。そして神様は解放された立場で全宇宙を主観しなければならないお父様であります。しかし、そうできないことが神様の悲しみであり、全ての被造物の悲しみであり、歴史上の悲しみの原因となったのです。全ての被造世界を一つの統一理念で束ねて支配しなければならない神様が、そのような立場におられないことが神様の悲しみであり、神様の苦しみであり、神様の無念であるという事実を私たちは認めざるを得ません。


神様がこの全ての被造物を創造されたときの本来の理想郷は、自由の園であり、解放の園であり、統一の園でありました。しかし、神様の理想が実現されなかった何らかの事情があり、それが神様から人間と全ての被造物世界にまで悲しみの源となったという事実を皆さんは否定できないでしょう。では、その悲しみの源は何か?それは人間の堕落であることを今日私たちはよく知っています。


それでは、堕落した人間を救おうとする神様がこの社会に望まれる理念があり、私たちが探し求める理念があるとすれば、その理念の基準点は何か?神様の心情を代わりにした自由、神様の事情を中心にした解放、神様の理念を中心にした統一が神様の願いであり、ひいては私たちの願いであり、その理念の基準点であるということを皆さんは知るべきです。


「主の霊があるところには自由がある」(コリントの信徒への手紙第二 3:17)と聖書に記されていますが、今日、自由の神であり、解放の神であり、統一の神である私たちのお父様、そのお父様を迎えて生きる皆さん自身の心情に、どのようにすればあらゆる試練を超越できる自由の心情が染み込むことができるか、この全ての試練の壁を越えることができる解放の起点はどのようにすれば見つかるか、私たちの理念の中心が望む、つまり全体が統一された安息の時はいつ頃見つかるかということが皆さんが考えるべき重要な問題です。


まだ神様も自由な立場におられず、解放の場におられず、統一された位置におられないために、今日この地上で自由を叫んでいてもその自由は私たちが享受すべき真の自由とはならないのです。解放を語っていてもその解放は完全な解放ではありません。統一を主張していてもその統一もまた完全な統一ではありません。人類社会は氏族から始まり、部族、民族を経て国家へと統一してきましたが、そのような部分的な統一は真の統一ではないのです。


     3


神様の御心がそのようであるため、神様によって創造された私たちにとっても、私たちが望む完全な自由、私たちが望む完全な解放、私たちが望む完全な統一は、神様が自由になり、神様が解放と統一の主人公となる日が来て初めて実現できるのです。したがって、神様の自由と解放と統一がまさに人間が望む自由と解放と統一の基準であるということを私たちは論理的な見地から否定できないのです。


今日、私たちの歴史の道を振り返ってみると、中世の封建社会以後に人文主義を中心として自由と平等と博愛の思想を鼓吹してきました。では、本来の自由と本来の平等、本来の博愛、これらのすべての属性は誰の属性か?それらはまさに神様の属性なのです。


中世のキリスト教が神様の理念を中心として神様の心と通じる自由の立場に立っていたならば、あるいは解放された立場に立っていたならば、統一された立場に立っていたならば、この地に革命や革新という言葉は必要なかったでしょう。キリスト教が神様を中心として完全な自由と完全な解放を享受できる位置、完全な統一が達成されたその基準を持たなかったために、自由と解放と統一の動きが外的世界に移ったのです。これが今日、私たちが言うルネサンス運動であったのです。


その後、自由思想を掲げて君主国家を革命し、再び帝国主義国家と対峙しながら自由思想を鼓吹しましたが、すべて壊れました。自由を求めて革命を起こしましたが、帝国主義国家の形態を完全に克服することができず、結局壊れたのです。そして主義や思想、あるいは政治的理念を立てて現在に至るまで進んできましたが、これもまた次第に壊れています。


自由を渇望する私たち人間が完全な自由の理念を探してそれを所有する立場に立てず、外的な自由だけを主張することにより、むしろ次第に真の自由を失ってきています。つまり、国家的に社会的に家庭的にさらには個人的に自由を主張してきましたが、完全な自由を見つけられず失ってきた歴史を繰り返してきたということを皆さんは知るべきです。


     4


今日、人間が主張している自由は、人間が本性として永遠に享受できる自由ではありません。また、自由を主張する人々は過度の個人主義に流れ、次第に孤立しています。これを皆さんは否定できないでしょう。


したがって、天と通じ、天の理念と一致する完全不変の自由の理念を立てない限り、またその自由が天地が望む自由と一致しない場合には、自由を求めて動けば動くほど、むしろ不自由の極点に向かっていくということを現時代の動きを見ればわかるでしょう。


それゆえ、私たちが自由を求めて進むとき、私たちの心の中に、このすべての万象の前で一致することができる自由の心情があるかどうかを見極めることが重要です。私たちが神様の自由の立場に立つならば、そのような自由の心情は全世界の人々と共に楽しむことができる基準となるでしょう。しかし、今日の人間はそのような自由の立場を取ることができていないのです。自由を主張しながらも、自分に及ぶ範囲内で自由の観点を定めているのです。


ここで真の自由について論じるならば、原則を離れた自由は真の自由ではなく、責任を逃れた自由は真の自由ではなく、実績を残さない自由は真の自由ではありません。したがって、どのような自由行動でも原則を逸脱してはならず、責任を負わなければならず、その行動の実績がなければなりません。しかし、これらの条件を備えていない場所で自由になろうとするならば、自然に天倫から遠ざかることを認識しなければなりません。


中世以降、帝国主義が出現しましたが崩壊しました。今日まで思想的な形態を持って進んできたものも、やがて真の自由を主張する思想が現れると崩壊する時が遠くないと見ています。この傾向はますます個人にまで及んでいます。皆さん自身に焦点を当ててみても、自由を主張するならば、社会も刷新しなければならず、家庭も刷新しなければならないと感じるでしょう。さらに進んで、歴史は今や心と体をも分離する方向に進んでいます。


     5


民主主義陣営を考えてみると、その理念はキリスト教から取り入れようとしていますが、実生活は科学を中心とした個人主義思想に染まっています。したがって、民主主義の理念は自由を基盤としていますが、キリスト教思想とは根本的に対立しています。


キリスト教の理念は自由を主張しながらも全宇宙の自由を主張し、解放を望みながらも全体の解放を成し遂げる解放を望み、統一を主張しながらも全体が神の心情を代わりにする統一、つまり神が喜ぶならば世界も喜ぶことができるそのような観点からの統一を主張しています。


しかし今日、自由を主張する民主主義陣営の人々は、個人主義的な思想に焦点を当てて自由を論じているため、やがて彼らは国家も否定し、社会も否定し、団体も否定し、家庭や夫婦関係までも否定しています。結果として、自分自身の心の中心までも否定する状況に至っています。


それでは、彼らに最終的に残るものは何か?孤独が残るでしょう。この孤独が極みに達するとき、彼らは互いに信じられず、自分さえも信じられない不信の人間となるでしょう。そして孤独と不信の人間となるとき、宇宙的な恐怖が襲い、最終的には自滅を招くでしょう。今日の歴史はこのような趨勢で動いています。


したがって、私たちが自由を叫ぶならば、過去に叫んでいた自由や今日叫んでいる無責任な自由ではなく、神の愛の理念が伴う真の自由を叫ばなければならず、理念的かつ心情と通じる自由を叫ばなければなりません。そしてそれが皆さんの生命力とともに変わることのない鉄則のように、動こうとしても動けない自由の法則的な何かを持って動く世界でなければならないと見ています。


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それでは、人間が共通して享受しようとする幸福の源はどこにあり、自らが全ての罪悪から解放されたと自負し、時間を超越して解放の喜びを感じることができる幸福の源はどこにあるのでしょうか? また、民族を超え、国家を超え、種族を超え、全ての思想を超え、観念を超えた統一の源はどこにあるのでしょうか?


今日の歴史的終末期に置かれている私たちは、当然取るべき理想を一度も取ったことがありません。したがって、このような理想を探し求めないならば、いくら歴史的な終末時代に理想世界が訪れ、あるいは自由の園が成り立ち、解放の園が成り立ち、統一の園が建設されたとしても、それらは皆さんとは何の関係もないことを知るべきです。


私たちの願いがこのようであるため、神の願いもこのようであると見ています。それでは、神の願いと私たちの願いが私たち一人一人の中で成し遂げられ、神の心情を代わりにすることができる心情的基盤を築き、神が私たちに感じる自由と解放と統一を私たち一人一人の中で見つけることができるのはいつなのでしょうか?これを見つけられないならば、皆さんは歴史的な悲しみと共に審判の犠牲にならざるを得ないことを悟るべきです。


今日まで世界の人類は自由の世界を建設するために戦ってきました。自由を得るために戦ってきました。しかし、神は人間が考えるような作戦を使われませんでした。神が解放の目的を達成するために戦いの過程を経なければならなかったとしても、その方法において神は今日の世界の歴史を紡いできた民族が血の闘争を繰り広げたような戦いの方法とは異なる方法を取ってきたことを皆さんは知るべきです。


私たちが人類の歴史を振り返ってみると、個人を解放するため、あるいは個人を救うためにいかなる主権者とも戦ってきましたが、神様が自由を成し遂げるためには他者を攻撃する方法を取らなかったのです。


     7


人類の歴史を見ると、個人が個人を攻撃し、民族が民族を攻撃し、国家が国家を攻撃し、そうした道を経て一つの自由の理念を追求してきましたが、神様はこれと反対の方法を取られました。個人を探すために個人を攻撃する前に、まずご自身が打たれました。民族を探すためにその民族を攻撃する前に、民族を解放するための苦難の道を神様が先に歩まれました。そして世界を探すために世界を攻撃する前に、まず苦労の道を神様が自ら歩んでこられたことを皆さんは知るべきです。


それでは、将来の自由の主人公となる人はどのような人でしょうか?それは神様を迎え入れることができる人です。そして、神様が自由を成し遂げるための作戦法がこうであるため、今日、私たちが天と同じように感じる自由の理念を探そうとするならば、天の作戦法に従わなければなりません。つまり、家庭を見つけるためには家庭を解放する価値だけまず自分を打たなければならず、民族や国家、世界を探そうとするならば、まずその価値だけ自分を打つことができなければなりません。そして、天のためにも同様にその価値に応じてまず自分を打ち、打たれながらも喜ぶことができなければなりません。このような自由の心情を持つ人だけが、今日の歴史の終末期に必ず残るのではないかと皆さんは考える必要があります。


神様が望まれる自由の主人公、解放の主人公、統一の主人公がその実体の価値を持って地上に一個体として現れなければ、神様の自由と神様の解放と神様の統一の理念が人間と関係を持つことができないため、これを実践するために実体を持つ自由そのもの、解放そのもの、統一そのものとして天に代わって来られた方が今日、皆さんが信じているイエスであることを知らなければなりません。


したがって、皆さんはイエスを信じて神様の心情に深く刻まれていた自由を掴む価値の心情、解放を成し遂げた価値の心情、統一を成し遂げた価値の心情を感じなければなりません。このようにイエス一人を掴むことで、この世のすべてを捨てても自ら喜ぶことができるそのような心情を持たなければ、神様が人間と共に楽しむことができる自由の境地、解放の境地、統一の境地に到達することはできません。


今日、世の中で求められている自由と神様が求めている自由は方向が異なります。世の中は自由を求めるために命を懸けて民族が民族を攻撃し、主権は主権で互いに対決して戦ってきました。しかし天は自ら打たれながら、自ら責任を負い、自ら解決のポイントを立てて全体の範囲にまで広げてきました。これが神様の自由回復運動の秘訣であることを皆さんは知るべきです。


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今日、皆さん自身に焦点を当てて見ると、皆さんが自分の命を放棄できる立場に立っても、その場で喜ぶことができる自由の心を持っているならば、皆さんは最高の自由を持っている人だと言えるでしょう。


復帰摂理の道程に照らしてこれを考えてみると、地上で解放運動があったと同時に霊界でも解放運動がありました。そして神様はこの地上の人間を神の代弁者、あるいは子として直接対することができないため、人間は使者から上がっていって子の座を経て直接神と対することができる位置まで上がらなければなりません。このような歴史の道を経てきたのです。


旧約時代を中心に見ると、神は天使を使者として立て、神の自由の園、解放の天国を建設してきました。そのような僕の立場から神の子として解放される恩赦権に入るためには、命を失いながらも喜ぶことができなければなりません。このような自由の心情を持つ人だけが僕の座を越えて子の座を見つけて入ることができることを皆さんは知るべきです。


したがって、今日まで神の摂理に従ってきた歴史的な先祖たちは、自分の命を失いながらも喜ぶことができる自由の心情を持つことができ、あらゆる試練を立派に乗り越え、死までも乗り越えることができました。このような心情の基準が定められたために、僕の座から子の座、僕の時代から子の時代を望むことができました。そしてこの基準が定められたことによって、神は独り子をこの地に送ることができました。そしてイエスは子の座から父の座まで上がらなければならなかったのです。


イエスはこの地に来て、父の認めを受けるまで自分の命を神のために自由にできる立場に立ちました。そして彼は神の永遠の、変わることのない独り子の理念を完成することができました。それにより今日まで万民の前に立って僕の座にあった人々を子として解放してきました。これは皆さんがよく知っていることです。


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今日、イエスがこの地に来て死を迎える苦難の道を克服し、神の内的な心情と一体となる基準を定めたことにより、私たちがイエスを信じるときに子の座に行くことができる恩恵を受けることができるのです。


皆さん自身が心から神が求められる自由と解放と統一を望んでいるならば、それが皆さん自身に繋がるように、僕の時代から子の時代、子の時代から親を迎える家庭の時代まで自分自身で探し求めなければなりません。しかしこれは自由の原則に基づいて初めて決定されるということを皆さんは知るべきです。


それはどんな命令や制裁、あるいは強制の下で達成されるものではありません。自分の生死の問題を超えて神様を思い、イエスを思いながら喜びと自由の心情が交流されなければ、神様の理念と私たち自身が関係を持つことができないということを皆さんは知るべきです。


復帰摂理の歴史もこのように解放の歴史を繰り返してきました。今までは奴隷の時代を経て、イエスと聖霊を通じて子供として解放される道を歩んできましたが、今や神様の愛を中心にした神様の息子娘となり、神様の家庭で神様の遺産を継承することができる子供となるべきです。


そして、皆さんが神様を中心に永遠に切り離すことのできない生命の基準を立てるためには、死までも自由に主観できる人にならなければなりません。そうして初めて神様の息子娘として神様の遺産を継承する権利を持つことができることを知らなければなりません。


今日、この地も自由を求めて彷徨い、神様も自由を求めて摂理されています。イエスが神様のために死を厭わずに戦ったのと同じように、神様もそれ以上の困難を厭わずにイエスのために歴史を進められました。したがって、奴隷の立場にある人間が天のために死を厭わない自由の心情で生きるならば、最終的には神様が人間に対しても死の峠を自由に越える心情で迎えに来られるということを皆さんは心に留めておくべきです。


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神様が自ら迎えに来られ、主観されなくても、どんな苦難も喜びで乗り越えることのできる自由の基準を立てれば、今までの恐怖や怒り、悲しみや無念さも乗り越え、死の権威までも神様の生命の権威に変えることができるのです。このように根本的な再生の問題を解決できるその時が来てこそ、私たちは神様を自由にお迎えすることができ、神様も私たちを自由に迎えることができるのです。そして神様と私たちが二つではなく一つとなるとき、神様の自由と解放の心情と統一の理念が私たちの自由と解放の心情、そして私たちの統一の理念と一致するのです。


イエスが神様のために命を捧げたにもかかわらず、イエスと神様が通じ合えない部分が残っています。イエスはまた私たちのために死の道までも自由に行きましたが、聖霊とイエスが一つになれない部分が残っています。なぜなら、イエスは天におり、聖霊は地上にいるため、地上なら地上、天なら天というように、一つの場所にしかいられない隔たりがあるからです。また、イエスと聖霊を中心にして子供の立場を見つめて進む私たちとの間にも隔たりがあります。


イエスと神様の間にあるこの隔たりをなくすためには、神様がこの地上のすべての人類を子供のように愛し、神様が自由自在に人類を掴むことができなければなりません。そのような日が来て初めて神様とイエスの間にあるすべての壁を一挙に解決することができるでしょう。


今日、私たちがイエスに従って神様のために死の道までも自由自在に越えたいと願うならば、それが観念や思考だけに留まってはなりません。どんな苦難も自由に乗り越える一つの基準、死の苦しみも忘れられる解放の基準が今日、私たちによって立てられなければなりません。なぜなら、そこで初めて神様との自由な縁が結ばれ、解放の縁が結ばれ、統一の縁が結ばれるからです。今日、神様を求めて彷徨い、神様の御心を求めて信仰を続けている私たちは、神様の自由と解放と統一の理念圏内で神様に代わる自由の主人公となり、神様に代わって万人を解放することができる主人公となり、統一を成し遂げる資格者とならなければならないのです。


そのためには試練の峠を越えても、それを苦痛と感じず、悲しみと感じず、無念と感じない心を持ち、天に対して切なる心で死の峠を越える自由の人となる必要があります。


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このような人がいるならば、天は自分の苦痛や試練も気にせず、すべての権威や威信を放棄してでもその人を掴んでくれるでしょう。そのような境地でのみ神様が私たちの神様となり、私たちも神様の息子娘となることができるのです。


イエスの後、今日まで数多くの預言者が訪れましたが、試練を越えて苦痛を感じなかった人はいませんでした。神様は失われた愛する子供を探すために、すべての威信や苦痛、あるいは試練や悲しみを乗り越える心情の基準を持っていましたが、そのような神様の心情と同じ心情を持つ人を今まで見つけることができませんでした。これが神様の大きな嘆きの条件となっていることを皆さんは知るべきです。


私たちが神様を掴み、そのような死の権威を越える位置、神様が私たちを掴むことで死の権威を越えることができる位置で結ばれる愛の力こそ、そこで結ばれる解放の恩恵こそ、そこで一つになる統一の原則こそ、この全存在世界に自由の基準となり、解放の基準となり、統一の基準となるのです。


このような境地で神様が探そうとするその息子は、歴史上のすべての悲しみを清算した息子、すべての死を清算した息子であり、宇宙全体の価値以上の存在ということです。天と地上、神様と私たちの間にそのような縁はいつ結ばれるのでしょうか?この縁が結ばれなければ、イエス様も自由の位置、解放の位置に立つことはできませんし、統一の理念も成し遂げることができません。そのため、イエス様は未だにあちらの世界で祈らなければならない立場におられるのです。


今日、私たちキリスト教信者にこのような基準が立てられなければ、神様の心情に刻まれていた自由の原則、天の心情に刻まれていたすべての悪と死に対する解放の原則、天の心情に刻まれていた統一の原則が、皆さん自身に変わらない基準として立てられることはありません。


     12


そのような基準が立てられたならば、皆さんがこの世界を見つめるときに、神様が6千年間摂理を進めてきた際に見つめていたその心情を代わって見ることができ、神様が数多くの悲しみと苦痛と逆境を耐えながら愛する息子を探し求めてきたその切なる心情を持って見つめることができるでしょう。


そのような一つの個体が現れ、その個体を中心として家庭が築かれ、社会が建設され、国家と世界が建設されるとき、神様の自由の園を皆さんの生活圏内に建設することができるのです。神様が望んだ解放の園も、あるいは統一の世界も、そのような基準から出発することを皆さんは知るべきです。


今までは、サタン世界が自由ではない自由の形態の主権を立ててきました。それは自由に見えるかもしれませんが、そうではありません。個人から始まり、氏族を経て民族、国家を越えて世界を統合しているように見えますが、実際には自由から離れ、解放の原則から離れ、統一の原則から離れていることを知るべきです。


世の中が望む基準の上で、神様と対立する位置で統一と自由と解放の形態を持つほど、内面的には不安と不満と恐怖に巻き込まれることになります。外面的には成し遂げられているように見えても、内面的には崩壊していくのです。外面的には統一の形態を整えているように見えるかもしれませんが、内面的には分裂していくのです。


それでは、このように内面的に崩壊していくものを何で補うのでしょうか?これを補う歴史を進めているのが神様です。もし、このような神様がいなければ、今日の人類は絶望の果てに皆自暴自棄になり、結局は死の権威で死ぬことになるでしょう。


     13


アメリカのような国の人々には、両親もいません。子供もいません。親戚もいません。このような世の中になっているため、国さえも放棄する人が多いです。さらに、自分たちが信じてきた宗教までも純粋に自分たちの利益を追求し、利益がなくなるとすべてを放棄する立場にいる人が多いです。しかし、世界は一個人のために生まれたのではなく、世界全体のために生まれたのですから、自分の利益だけのために生存する人は、世界的な理念のために存在する世界の前で、自分の利益だけのために生きたことに比例した苦しみを受けることになります。


したがって、今日、個人主義思想が蔓延する社会、自分を中心に生活する社会は、最終的には孤立と不信と恐怖の社会になるのです。そして、最後には自暴自棄になり自滅するほかありません。このような運命の歴史的な終結時代に私たちは直面していることを知るべきです。このような現実を見ている今日の私たちは、自由と解放と統一の理念を持つべきですが、どこから始めればこれを成し遂げることができるのでしょうか?


皆さんが知っているその個人的な思想から始めて主張していけば、自分も知らないうちに世界を失い、この世界から脱落する立場に立たざるを得なくなるでしょう。今日、これを総括して、本然の個人から本然の家庭へ、そして本然の社会へ、本然の国家へ、本然の世界へと回復させる何かが人間の前に現れないならば、神様にとっても私たち人間にとっても大きな問題となります。


神様には今日、この世紀末的な時代に自由と解放と統一の理念を人間と共に成し遂げる責任があります。したがって、神様は外的な世界は分裂の形態を持っていますが、心中の根源的な一つの力を世界に示し、死の要因が侵入できない絶対的な自由の原則、絶対的な解放の原則、絶対的な統一の原則の基準を立てるために、そしてその基準を持つ一人の人、そのような人々が集まる家庭、そのような人々による氏族、そのような人々による国家と世界を成すために摂理を進めてきました。


したがって、聖書にはイエスが万王の王として来られた方であり、私たちの生命の主人公であり、天地の主人公として表現されています。そして、生命の主体であり、理念の主体であり、愛の主体として来られた方として表現されています。ですから、この主体であるイエスと私が永遠の関係を結び、結ばれたその関係が再び神様と永遠に関係を結べるその段階まで進まなければ、神様とイエスと私たちの間の隔たりを埋めることはできません。


     14


今日、私たちの前にいかなる不信の社会、あるいは孤独の社会、恐怖の社会が押し寄せてきても、それを自分の死に備えて毅然として乗り越えることができ、死さえも自由自在に乗り越えられる生命力が皆さん自身にあるならば、どのような審判の世界、破壊の世界が訪れても、皆さんの生命力は破壊されることはありません。そのような基準が残っている限り、皆さんは死の恐怖圏内での審判の犠牲になることはないのです。


この基準は理念的に立てられるだけではなく、霊と肉が実体的に一つとなり、その基準を立てなければなりません。皆さん自身がその基準を持つかどうかによって、今後生き残れるかどうかが決まります。その基準を持たなければ、神様が持つすべてを投入して命を懸けて私たちを探しに来られるときに、私も命を懸けて神様をお迎えする資格者になることはできません。


そのようにして初めて、神様が私を見つけ立ててくださり、自由な生活形態を築くことができるのです。また、神様が私を見つけ立ててくださり、自由と解放の理念、統一の理念を築くことができるのです。皆さんがその資格者になるならば、神様が永遠に存在する限り、私たちは死の権威とは一切関係がなくなるのです。


それでは、今度は皆さん自身に戻って、自分自身に問いかけてみてください。皆さんの心には真の命を中心に楽しむことのできる自由の心情と自由の命、自由の理念があるでしょうか? 問題はここにあります。


そのような心情、そのような命、そのような理念を持っている限り、どんな死の道も、どんな死と苦痛が伴う道も自由に消化して乗り越え、命の要素を回復する資格者になることができます。こうして神様の自由の世界、神様の解放の園、神様の統一の園で永遠に生きる存在となることができるのです。


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自由の道を求めて進む私たちは、試練にも遭い、苦難も受けますが、神様に対する切なる心情、湧き上がる自由のその心情を誰が阻むことができるでしょうか? 誰にも阻むことはできません。すべてを壊すことができても、それだけは壊すことができません。湧き上がるその心情は、死の権威がどれだけ強力であっても阻むことはできないのです。


神様と私が永遠に一つになれる生命のつながりが皆さんの生活を中心に成し遂げられるとき、永遠の神様の自由と神様の解放と神様の統一が、皆さんの心の中で初めて成し遂げられるのです。皆さんの心の中にその基準が立てられない限り、相対的な理念として望む自由、望む解放、望む統一がどれだけ成し遂げられても、皆さんとは何の関係もないのです。


それでは、神様が6千年間も苦労された原因は何でしょうか?それは、神様の心情を代わりにして望んでいるその自由、その解放、その統一を神様と共に持ち、感じ、成し遂げることのできる一つの姿を探すためでした。神様が永遠に存在するように、永遠に変わることのできない基準が決定されて初めて、そのような理念の世界が皆さんの前に訪れるということを知るべきです。


そのような心情の基準を皆さんが持っていないならば、どれだけ外的な世界が成し遂げられても、つまりどれだけ外的に自由と解放と統一の世界が成し遂げられても、それは完全な統一の世界ではなく、完全な解放の世界ではなく、完全な自由の世界ではありません。


それでは今日、私たちの心に生命力が躍動し、理念の力が躍動し、愛の力が躍動していますが、その躍動する力の確固たる基準が、6千年間も苦労された神様に対する精誠の基準が皆さん自身の中に立てられない限り、6千年間も天に対して戦ってきた暗闇の権威、死の権威が皆さんの生涯を覆うとき、皆さんは生き残ることができないのです。


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神様の愛を迎える境地で、自分の生命力、自分の理念、自分の愛の力を持ち、それを基盤にして享受する自由こそが完全な自由であり、その原則に基づく解放こそが完全な解放であり、その原則に基づく統一こそが完全な統一なのです。


このような一つの基準を持たない限り、世界が混乱と混沌、恐怖に巻き込まれたとしても、皆さんはそれを防ぐことはできません。それを動かすことができるのは生命力であり、理念の力であり、愛の力です。これを乗り越える基準を立てなければ、どれだけ苦労された神様の摂理の歴史があったとしても、摂理の歴史を通して求めようとしたその自由も解放も統一も見つけることはできないのです。




<祈り>
お父様!自由の園を失った人間、解放の園を失った人間、統一の園を失った人間たちを憐れんでください。失われたすべてのものが外的な世界で解決されるとばかり思っていましたが、外的には一定の基準を整えながらも、内的には分裂してきた歴史的な悲しみを私たちは知っています。


今、問題となっている内的な自由の世界、内的な解放の世界、内的な統一の世界を勝ち取るために、神様に対する生命の力、愛の力、理念の力が私たちに溢れ、死までも嘲笑い、苦痛と悲しみと無念さをすべて乗り越えることのできる一つの心情の基準が私たちの心に立てられるようにしてください。その結果、心情の世界では全体の聖徒の自由を感じることができ、全体の環境も感じることができ、全体の生命までも動かすことができることを私たちに許してください。


お父様!今日の歴史的な世界を見つめると、内面的には分裂を促しながらも外面的には立派に統一の形態を持ち、物質を中心に動いていることが分かります。しかし、内面的に見ると、それとは逆に精神の欠乏を避けるために、生命の欠乏を避けるために、愛の欠乏を避けるために歴史が流れてきたことを知りました。


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今日、私たちは生命の時間を補充しなければならない、理念の時間を補充しなければならない、お父様の愛を補充しなければならない時期に来ています。私が死の境を越えながらも喜べる心を許してください。お父様をお父様と呼べる心の忠誠を求めなければならず、私に対して心配し、戦ってくださったお父様であることを私が知らなければなりません。お父様のその労苦が、今日の私たちの千万倍の死を超える価値で私を探し求めていることを感じられる心の変化が起こらなければ、精神力や霊の欠乏を補充する生命の力が生まれないことを私たちに許してください。


お父様!今日この地上に生きている人々の心には、物質的な飢饉や渇きだけでなく、精神的な飢饉や精神的な追及を受けていることを知っています。それを満たすことができる聖霊の火、お父様の命、お父様の愛の力を許してください。そしてそれが爆発する場所でのみ得られるすべての内的な生命、追い求めていた自由の理念さえも消化できるお父様の自由の心情、お父様の解放の心情、お父様の統一の心情を私たちに許してください。


お父様、お父様は今日、私たちを探すために一つから全体まで、すべてをその位置に押し出していることを知っています。また、私たちは今日、お父様の名前を持って世界から国家から民族から個人に至るまで、その位置に押し出していることを知っています。


内面的に最終的なその時を迎えて流れている今日、お父様の全体の力を永遠に失わず、世界と矛盾する私を結びつける基準がないので、それを見つけて結びつけることのできる、より大きな心情を私たちに許してください。


お父様の実存性、お父様の命、お父様の理念、お父様の愛、内面的に動いてきた自由と解放と統一がすべて私一人で成し遂げられるように許してください。それによって、遠くの神様も私のもの、遠くの天国も私の国、遠くの理念と通じる心情も私の心情と呼べる資格者になることを知りました。


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心にそのような心情を持つ人だけが天国を所有することができ、そのような人が天国の理念を成し遂げる資格者だからこそ、お父様も私たちに対して「あなたの心に私がいる」と言い、イエスも私たちに対して「あなたの心に私がいる」と言いました。このように天国も私たちの心にあると信じる心情の基準でのみ、すべての解決点が成し遂げられることを許してください、お父様、切に願い求めます。


お父様、今、願わくば私たちにとって自分の体以上に大切に感じられるお父様の心情、自分の自由以上に大切に感じられるお父様の心情、今日の私の生涯以上に大切に感じられるお父様の心情を知り、この世界全体の死を超えるお父様の悲しみを痛切に感じる一つの心情を回復し、それを理解できる私一人を持ってお父様の前に立てる息子娘となることを許してください。


探し求めた労苦の歴史の道の前に、今、私たちの心にお父様の心情が爆発することを許してください。そして、お父様の生命力、お父様の理念、お父様の愛を中心に、生命を基盤にした自由、理念を基盤にした自由、愛を基盤にした自由、そしてそれらを基盤にした解放と統一が成し遂げられたその全体を所有し、「お父様よ!今こそ慰めを受けてください!あなたの心がこれであることを知りました。」と言いながら、歴史の過程で苦労されたお父様の願いを解消することができる心情的基盤を持たせてください。


その結果、お父様を迎え、栄光を受けることのできる生命と理念と解放を歌う立場で、復帰の悲しみと復帰の苦痛と嘆きを解消する自由の回復運動を摂理されたお父様の心までもすべて解消し、世界の全人類が父を迎え、自由を歌い、解放を歌い、統一を歌うことができるお父様の息子娘となることを許してください、切に願い求めます。


今日、私たちに自由の心情があるならば、解放の心情があるならば、無数のサタン、無数の敵があっても、彼らが私たちをどうすることもできないことを知りました。また、理念に縛られないことも知りました。このような自由と解放の位置でお父様と私たちの心情が一つに統一された基準で動く日には、天地は自動的に統一された基準に合致して動くことを知りました。そのような基準を私たちの心に許してくださいと切に願い求めます。


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この生命とこの希望のために私たちは死を覚悟し、お父様の心情と一つになれる基準を立てることができるように許してください。そして、お父様を心に迎えるまで、敵の策略に落ちることのない者たちにしてください。


敵の迫害を超え、お父様の心情が私たちの心に宿るまで変わることのない息子娘となれるように許してください。すべての恐怖を乗り越えることができる息子娘となるように許してくださいと切にお願い申し上げます。すべての言葉を主の名前によって祈ります。アーメン。




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