人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集4(17,18,19)

2024年07月20日 17時13分29秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 4 - 17. 見捨てられたイエス (1958年6月22日)
1958年6月22日(日)、前本部教会
聖書拝読:ベドロ前書2:1-10




<御言葉>
 この聖書の言葉には、イエス様を石に例えています。また、捨てられた石が家の隅の重要な石になったと言いました。イエスのこの状況は、家庭と教団とイスラエルの民、さらには愛する三人の弟子までが理解していなかったことがわかります。
神様は選ばれたイスラエルの民を救うために敵から引き離して育て出し、この民を通じて神の大きな意図を達成しようとされました。しかし、イスラエルの民はこの神の意図を理念的にも歴史的な立場からも見ていましたが、その意図を生活の面では実現できませんでした。
そして神様は希望の存在を見つけるために、各自に神の意図を体現させるための苦労の道を歩んできました。つまり、4000年間の苦労を通じて生活の領域にまで至りましたが、それを知る者は一人もおらず、心ではメシアを待ち望んでいましたが、実際に現れたメシアを歓迎する者は一人もいなかったのです。
アンナは一生を通じて聖殿を離れず断食しながらメシアを待ち望んでいましたが、実際に現れたメシアを証しし迎えることができなかったため、これもまた天の意図から遠ざかってしまいました。これが天の悲しみでした。
イエス様は神が摂理された4000年の結晶として来られました。当時のイエス様の両親や親戚がイエス様を自分の民を救うメシアだと知っていたなら、そのイエスを馬小屋で誕生させることはなかったでしょうし、ユダヤの民がメシアだと知っていたなら、大工の息子として30年間の私生活期間と3年間の公生活の道において、この町やあの町へと追いやられることはなかったでしょう。これを見た神も悲しみ、イエス自身も悲しみました。


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さらにイエスを反逆者とされたため、神の意図とユダヤの民が待ち望んだ希望とは何の関係も持てませんでした。また、神とも関係を持つことができませんでした。こうして天とイエスとの隔たりが埋まらず、イエスは再びこの民の過去の歴史とその時代の現実と未来の永遠の時間を前にして、心配せざるを得なかったのです。
イエスを知らず、つまり彼をこの国の救世主でメシアとして受け入れなかったため、被造世界の万物やこの地上の人間たちは誰一人として神と直接的な関係を持つことができませんでした。
イエス様は大工の息子として木を削るとき、民の罪と過ちを削り取ると考えながら仕事をされ、言動や行動においても善を中心とした天的な理念を立てるための準備の生活をしていました。しかし、イエス様のこの状況と心中を知る者は当時一人もいませんでした。
そのためイエス様は言いたくても誰にも打ち明けられない状況に置かれていました。家庭でも彼の意図を理解してくれず反対され、最終的には家を離れることになりました。イエス様が教団を訪ねたときも、神の心と意図を理解していない教会からも見捨てられ、最後には民の反逆者として扱われました。しかしそれ以上にゴルゴタの道が残っていることを知っていたイエスは、ここで天と離れられない存在になることを固く決意されました。
ですから、神と宇宙と関わりを持つ者だけが、宇宙的な価値と世界的な価値を与えられることができるでしょう。イエスは家庭、教会、民族、地上世界、天上世界の霊人と地獄にいる霊人たちまで、自分と関わりがあることを感じていたため、家庭と教会から見捨てられても、それによって挫折することはありませんでした。ユダヤの人々はイエスが民の反逆者として十字架にかかることで全てが終わると思っていましたが、12人の弟子をはじめとする残った者たちの火花があったため、イエス様は彼らを通じて歴史を動かすことができました。それで今日のようにキリスト教が世界的に広がることができたのです。


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終わりの日の私たちは何よりも神の心を知る者にならなければなりません。人間には知(ち)、情(じょう)、意(い)の3要素があり、知と意を足場にして情的な天情を成し遂げる部分が残っています。神の情的な流れがあり、我が民族に対して天的な摂理があるため、我が民族は誰よりも天に対する切なる心と忠孝の心が強く動いているのです。
私たちが神様の心情と真理を知るには、特定の指導者は必要ありません。イエス様が十字架にかかるときに「なぜ私をお見捨てになったのですか?」と言われたこの事実、この一言によって歴史の新しい転換点が芽生えたことを知るべきです。
イエス様が亡くなった後、命を持つ女性たちの集まりを契機にして全宇宙を動かし出したというこの一事実を知るべきです。だからこそ、この民族は何も持っていないとしても、神様の心の奥深くの核心を持たなければなりません。この民族は全てを奪われても、神様の心情だけは奪われない民族であるべきです。そうして、この民族が天と地のために血を流す祭壇となり、天と地の全ての人々と万物を見て泣くことができれば、そこには生きる道があるでしょう。
神様は怒りの鞭を振るいながらも涙を流される方です。ところが、これを見て喜ぶ人は裁きの条件にかかるでしょう。したがって、皆さんは過去に見捨てたイエス様を再び見つけ、そのイエス様の前に友人となってこそ、再臨のイエス様の前に花嫁として立つことができるでしょう。












文鮮明先生御言葉選集 4 - 18. 残された群れに参加しよう (1958年6月29日)
1958年6月29日(日)、前本部教会
聖書拝読:ローマ書9:25-29


 神様はご自身が永遠であるように、被造物も永遠の理念を持って創造されました。しかし、個人や民族、人類、そして万物が永遠の被造物として残らなかったため、神様はそれらを今日まで悲しみながら探し求めてこられました。つまり、人間の堕落により創造の理想の園を失った神様は、それでも被造世界への希望を諦めずに偉大な創造の理念を実現するために長い歴史の道を歩み、サタンとの激しい戦いを続けてこられ、今日まで耐え忍んでこられました。


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神様にはこのような大きな希望がありますが、一方で非常に小さなものから探さなければならない悲しみもあります。この大きな希望は個人から始まるべきものでしたが、個人が堕落したため全体の希望が実現しませんでした。したがって、全人類と万物の希望が実現する前に、まず個人から神様の希望が実現しなければなりません。これが神様の知られざる事情です。
神様は個人を中心に希望を実現しようと、カインとアベルを立てられましたが、これが崩れたため、1600年の歳月を経てやっとノアの家庭を見つけて立てられました。しかし、この時もノアの家庭がハムの過ちによって崩れ、アブラハム、モーセを経てイエス様にまで延長されました。
イエス様が来られる前に多くの預言者たちが神様の理念を個人から実現しようとしましたが、それができず、独り子イエス様にまでこの希望が受け継がれることになりました。イエス様は個人として来られましたが、普通の個人ではありませんでした。イエス様は4000年間耐え忍んできた神様の忍耐と希望の理念、そして心情を理解していた方です。そして、4000年の歴史の中で来られた預言者たちが成し遂げられなかった全ての希望を一身に背負い、4000年の善の結晶体として個人を超え、民族、国家、世界、宇宙的な次元で天倫の悲しみを解消するという理念を持って来られました。
そのため、当時の地上の人々は神様の大きな理念を持って来られたイエス様を、一人のイエス様の理念にとどめるのではなく、イスラエル民族や人類の一人一人の心情にまでとどめるべきでした。しかし、人々がそれを知らず、受け入れなかったため、その大きな神様の理念はイエス様一人の理念で終わり、またイエス様が亡くなったことで、その大きな理念は地上の理念としてとどまらず、霊界の理念としてとどまることになりました。
これにより、地上にいる人々は永遠に地上に残るべき理念を探し待つ身となり、イエス様はこの理念を地上に残すために再び来なければならない立場に置かれることになりました。


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では、地上の人々が待ち望む理念、地上に永遠に残る理念を持つ個人、家庭、民族、人類はいつ、どこに現れるのでしょうか?私たちはこれを知るべきです。イエス様は去るときにその言葉と希望を残して行かれましたが、その理念は残せませんでした。その理念が現れなければなりません。
では、終わりの日にその理念を持つことができる人はどんな人でしょうか?その人はまずイエス様の希望と意志を持たなければなりません。そして、その希望と意志を持つその上に理念を持つことのできる心と歴史の悲しみを持たなければなりません。そうして神様の創造の理念を通じることのできる人でなければなりません。イエス様は地上に来て福音の言葉を伝えるときに切に望まれたことは、「誰よりも私を愛しなさい。」(マタイ10:37)ということでした。
では、「誰よりも私を愛しなさい。」と言われたイエス様の言葉の真意を深く理解してこれを実践した人がいたでしょうか?いなかったのです。3年間共に生活しながら従った弟子たちの中にも、その言葉をそのまま実践した人はいませんでした。
また、イエス様は兄弟を愛しなさいと言われました。そして、復活後に弟子ペテロに現れ、「あなたはこれらの人々よりも私を愛するか?」(ヨハネ21:15)と三度繰り返し問われました。ペテロが答えると「私の子羊を養いなさい。」(ヨハネ21:15)と言われました。さらに、イエス様は弟子たちに「私は再び来るので、準備して待ちなさい」と言われました。イエス様が地上におられたときにされた重要な言葉を要約すると、この二つの内容に集約できます。
では、イエス様が残された切なる言葉は誰が成し遂げるのでしょうか?この残された言葉を成し遂げる人は、終わりの日の審判を免れ、イエス様に会うことができるでしょう。


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皆さんは一生の中でイエス様を愛したことがありますか?そして、その愛の程度が親や妻子や世の中の誰よりも大きかったと自信を持って言えますか?これをもう一度考えてみるべきです。天にいるイエス様がこの地に対して切に望まれるのは、誰よりも自分を愛することのできる人が現れることです。もしこの地にそのような人がいるなら、その人は神様の創造の理念を知っている人であり、神様の6000年の苦労とイエス様の苦しい心情を知り、同情する人でしょう。
イエス様は神様の創造原理的な価値を代表した方であり、矛盾や対立のない天の創造の法度の中にいる方です。イエス様はこのような立場にあるため、その肉体と心が一つとなり、たとえアダムから4000年の距離を置いていても、時間性と空間性を超越しておられました。そのため、イエス様は4000年前のアダムに神様の創造理念が宿っていたことを直感で感じることができました。
そのようなイエス様にはどのような使命があったのでしょうか?永遠の神様の愛と結ばれるべき人間が神様の愛と結ばれていなかったため、この神様の愛を人間に結びつける使命がイエス様にはありました。また、人間と万物の間に愛を結びつける使命もあったのです。この使命を果たすためにイエス様は来られたので、神様に代わって来られた自分を世の中の誰よりも愛するようにと言われたのです。しかし、当時、世の中の誰よりもイエス様を愛した人は一人もいませんでした。
その観点から私たちの心を整え、歴史の道を振り返るとき、私たちは罪悪の血統を受け継いだ個体であり、創造の理念を持っていない自分であり、新郎として来られたイエス様を新婦の立場で迎えられなかった個体であることがわかります。イエス様を愛することのできる環境にありながら、イエス様を愛せなかったため、地上の人間には終わりの日に世界的にイエス様を誰よりも愛さなければならない条件が残されることになりました。
ここにいる皆さんは、歴史上なかった愛を持って忠臣の立場で万王の王であるイエス様、新郎であるイエス様の前に立ったことがありますか?もしそうでなければ、誰よりも天を愛する人だとは言えないでしょう。


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神様は6000年の間、全てを捨てて愚かな罪人たちを探してこられましたが、もし私たちがこのような神様を愛で迎えられないなら、私たちを探し求めて来られる神様の理念は私たちによって中断されることを知っておかなければなりません。
従って、このような時期に皆さんが家庭のために祈るときには、誰よりも神様とイエス様を愛する子供たちが現れるように祈らなければなりません。国のために祈るときには、どの民族よりも神様とイエス様を愛する人々が多く出てくるように祈らなければなりません。また、人類のために祈るときには、世界のキリスト教徒がどの宗教徒よりも神様とイエス様を愛するように祈らなければなりません。皆さんが神様とイエス様を誰よりも愛することができないなら、せめてこのような祈りをしなければなりません。
今日、被造物のすべてが人間に望むものは何でしょうか?それはイエス様のこの切なるお願い、つまり「誰よりも私を愛しなさい」というお願いを成し遂げる存在が現れることです。このような存在が現れることを万物が望んでいるのに、そのような存在が現れないため、万物が嘆き、天が嘆いているのです。これを知っておかなければなりません。
では、その嘆きとは何でしょうか?エデンの園で神様の愛と理念と結ばれるべきアダムとエバが堕落によって正しい関係を結べなかったため、それを再び回復し、神様の理念と愛と結ばれることを待ち望む嘆きです。したがって、この嘆きを解消できない人は終わりの日の審判にかかるのです。
では、この審判から残される人はどのような人でしょうか?それは神様とイエス様の心情を誰よりもよく知り、またそれを誰よりも愛することのできる人です。このような神様の心情を知って初めてその心情を通じて神様の理念に通じることができ、そうすることで敵をこの天地間から追い出す力が生まれるのです。イエス様が十字架上でも敵のために祝福を祈ることができたのは、神様の心情が彼の胸の中でいつも強く湧き上がっていたからです。そのため、イエス様は死を目前にしても堂々とした態度を見せることができたのです。


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イエス様は「新郎と新婦」という言葉を残して去られました。それでは、新郎と新婦とは何でしょうか?イエス様が去られた後、2000年が経過した今日まで、誰よりも神様とイエス様を愛した新婦がいたでしょうか?いませんでした。多くの人がイエス様について語り、イエス様による歴史を語りましたが、神様の創造の理念を人類の前に示すことができなかったイエス様の心情を知る者はいませんでした。イエス様について語り、その歴史を語ることも重要ですが、その心情を体得することの方が重要なのです。したがって、イエス様の心情と私の心情が一つになって初めて、神様の理念を代わることができる人となり、終わりの日に残されることができる人となるのです。
イエス様は弟子たちを自分以上に愛しました。天の悲しみがあるとすれば、その悲しみとは何でしょうか?イエス様は神様の創造理念を地上に残すために、自分の身体以上に弟子たちを愛しましたが、弟子たちは自分たちを愛してくれるイエス様の事情と心情を気にせず、他の考えを持ってイエス様について行きました。その愛をイエス様が生きている間に正しく受け取ることができず、地上にその愛の実が結ばれなかったことが天の悲しみです。そのイエス様の愛の心情を弟子たちはイエス様が亡くなった後に初めて感じ、その時からイエス様が言っていた言葉の意図を理解するようになったのです。
イエス様が希望し探し求めていた人はどんな人だったのでしょうか?それは、自分を誰よりも憎み捨てる人々でした。イエス様はそのような人々を誰よりも愛する心を持って探し求めました。したがって、終わりの日にイエス様に会うことができる人は、誰よりも自分を憎み捨ててでも愛の心を持って天を探し求める人ということです。
世の人々はイエス様が来られることを望んでいます。しかし、イエス様が来られることをただ望むのではなく、主を探し求める人になるべきです。そのためには、自らが歴史の道で天が経験した悲しみの峠を越え、イエス様が十字架を背負った困難の峠を越えなければなりません。そうして摂理歴史の期間を短縮し、時空を超えて2000年前のイエス様が抱いた苦しい心情を体得できるようにしなければなりません。
それでは、亡くなったイエス様の墓を訪ねた人は誰だったのでしょうか?その人は、たとえ人々から見れば微弱な存在だったマグダラのマリアでした。この町から追われ、あの町で非難され、行く先々で嘲笑を受けながらも誰よりもイエス様を愛する心を持って従ったマリアでした。このような切なるマリアの前に、イエス様は復活の姿で現れました。これは、終わりの日に全世界のキリスト教徒に彼らの進むべき道を示した象徴です。


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そのマグダラのマリアはどのような生活をしていたのでしょうか?イエス様を愛するために、着る物や食べる物を全て忘れ、一心不乱にイエス様だけのために生きました。生死を超越し、体面を考えずに従った彼女の歩みは、終わりの日の聖徒たちが歩むべき道でした。もし今もこの地にマグダラのマリアのような心情を持つ人がいるなら、その人の目には神様の6000年の摂理に込められた涙が浮かぶでしょう。そして、天の前に無限に借りがある自分であることを知るでしょう。
また、自分の体を燃やしてでも受けた愛に対して報いる道がないことを知り、死の道を歩むべき自分であることを知るでしょう。皆さんはこのような心情を一度でも抱いたことがありますか?このような人であれば、創造時代から過去・現在・未来を通じて全てを捨てて探し求める天の心情を知るでしょう。そして、その人は天の前に顔を上げることができないでしょう。なぜなら、天の前に無限に借りがある自分であることを知っているからです。このような心情を感じ、自分の全てを捨てて天だけを従う人でなければ、終わりの日に残されることはないのです。
従って、イエス様を信じて安楽を求める人はイエス様の使いにはなれますが、彼の友にはなれません。また、イエス様を信じてもその心情を知らない人は彼の友にはなれますが、新婦にはなれません。したがって、天が望み、イエス様が望むのは使いでもなく友でもなく、新婦なのです。
イエス様が歴史上の誰よりも神様と人類を愛し、創造の理念を通じた実体としての資格を備えて神様を呼び求めるとき、神様が創造主としての威厳と体面をすべて忘れてイエス様を支えられた一瞬の場面があったことを知る人はいません。さらに、神様がイエス様を創造主であるご自身よりも高い位置にまで立ててくださったことを知る人もいません。
イエス様は選ばれた民の前で拒絶され、追われる環境にありましたが、4000年間神様が耐え忍んできた心情を知っていたため、耐えざるを得ませんでした。さらに、神様が4000年間すべてを犠牲にしてでも一人の息子を見つけようと努力されたことを知っていたイエス様は、地上で新婦を見つけるためにはどんな犠牲と拒絶があっても耐えなければならないと考えました。だからこそ、敵のように扱う民族を呪わなかったのです。


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しかし、イエス様のその心情を少しでも理解していたマグダラのマリアでしたが、復活したイエス様に手を触れようとしたとき、触れないでと言われました。これは、イエス様を地上で完全に受け入れて奉仕する新婦の資格を持つ人が現れない限り、聖霊の心情とイエス様の心情、そして神様の悲しみの心情が解消されることはないことを示しています。
従って、終わりの日には、神様を代わる実体として現れる一人を見つけ、その人を誰よりも愛する心を持ち、その人を代わることができるべきです。そして、そのような人々が集まる教会が必要であり、民族が必要です。このような教会、このような民族、このような人類は天情を中心に成し遂げられるべきです。しかし、今日の人間がこの天情を感じることができない限り、終わりの日に残される人にはなれません。
今や皆さんは自分が歴史的な罪人であることを知り、他人を非難し批判する前に自分をまず知り、祈ることを学ばなければなりません。そして、民族と人類を考えて祈る人になるべきです。そうして、神様の創造理念の世界を成し遂げるべき人類に対して、人類は無限に歓迎するでしょう。万物に対して、自分たちのために犠牲し、拒絶されたことを知り、慰め、歓迎するでしょう。また、このような人々が天の前に現れるとき、天は彼らの涙を拭い、彼らの苦労を慰めてくださいます。こうして、終わりの日に残される人となります。このような人を天とイエス様と万物は待ち望んでいることを、皆さんは知っておかなければなりません。












文鮮明先生御言葉選集 4 - 19. 回復の縁を持って来られたイエス (1958年8月3日)
1958年8月3日(日)、前本部教会
聖書拝読:使徒行伝3:13-24


私たちが日曜日に教会に来ることを、習慣的に、あるいは当たり前のこととして、「今日は日曜日だから、神様の前に出て礼拝を捧げよう」と考える人が多いかもしれません。しかし、皆さんが座っているこの場所がそのような次元で考えられ、また成し遂げられる場所ではないことを知らなければなりません。つまり、皆さんがこうして集まることができたのは、皆さんが知らない何らかの背後の縁によって成し遂げられたのです。その縁は、私たちの個体を中心に見たとき、前後左右、上下と関係がある縁であることを深く銘記しなければなりません。
歴史の道程においてイエス様が現れた事実は、ただ偶然に成し遂げられた事実ではなく、定められた天倫の意図があってのことです。つまり、歴史的な縁、時代的な縁、そして未来的な縁を成し遂げるために、イエス様は現れたのです。この事実を当時に知っていた人がいたならば、イエス様は十字架にかけられなかったでしょう。


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イエス様は一人の個人に過ぎませんでしたが、イエス様が結んでいる縁を全体に繋げて引き出そうとすると、人類の歴史的な縁が引き寄せられ、その時代の縁や未来的な縁までも引き寄せられることになっていたのです。しかし、そのことを知る者は当時誰もいませんでした。そして、イエス様が地上と天上にいる無数の聖徒たちや神様さえも、イエス様との縁を中心に動かすべき中心的な使命を持って来られたという事実を知る者もいませんでした。
さらに、この事実を知らなかった無知なユダヤの民は、それまで天が約束した一つの意図を探し求め、その意図の中に立っていると自負していましたが、イエス様を反対することでその意図から外れてしまいました。歴史的な教団を築いてきましたが、その教団が天の側のものではなくなってしまいました。また、選ばれた民の権利を誇るイスラエル民族には、終わりの日の約束の祝福を成就してくださるという民族的な希望や教団的な希望がありましたが、天主的な理念の主体であるイエス様を認識できなかったため、無惨に崩れてしまったのです。このように人類の歴史の道程の中で対立劇が繰り広げられる場所で、イエス様は悲しみの涙と犠牲の血でこれに対応しましたが、その事実を当時の人々は知らなかったのです。
しかし、イエス様が叫ばれた言葉は、その切なる心情から湧き上がって叫ばれた真理でした。また、イエス様が歩まれた30余年の生涯は、自己の欲望を満たすための生涯ではありませんでした。さらに、イエス様の希望は自己のための希望ではありませんでした。
しかし、この事実を知るべきユダヤの民は知らず、自己を忘れて天の意図を成し遂げようとしたイエス様だけが知っておられたのです。この悲しみが今日の私たちの悲しみの根源となりました。これを私たちは知らなければなりません。また、皆さんは信仰者の立場から一歩進んで、イエス様が歩まれた道が私たちが歩むべき道であり、イエス様が望まれる理念の園が私たちが成し遂げるべき理念の園であることを理解しなければなりません。
イエス様は神様の祝福の中で過ごすことのできる新郎新婦の理念を憧れ、望まれました。そして、神様の祝福を成し遂げるために小羊の宴を中心に14万4千の群れを抱き、これらと共に歓喜の歌と栄光を神様の前に捧げることを望まれました。これがイエス様の切なる願いでした。しかし、イエス様は結局ユダヤ民族の不信によってその本来の希望を成し遂げることができず、むしろカルバリの山で十字架にかけられました。イエス様がゲッセマネの園で血と汗を流して祈られたのは、神様の切なる悲しみの心情を代弁した切なる祈りでした。その切なる祈りは自己の解決策を求めるためのものではありませんでした。無知で眠っている民とサタンと愛する三人の弟子のためのものでした。


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このように神様の希望を胸に抱き、無知な民を導く責任を持つイエス様、天倫を妨げるユダヤ民族は審判を受けるべき罪の民族でしたが、再び天に向かって許しの手を求める祈りをされなければならなかったイエス・キリストの心情はどのようなものであったでしょうか?さらに、十字架の苦難の道を歩まれ、敵のような群れに向かって「彼らの罪を彼らに問わないでください」という切なる訴えをされたキリストの祈りは、人間の前に、摂理の道程の前に、あるいは天性の心情の前に、どのような縁を結ぶためであったのでしょうか?
今日の私たちは、再び遡ってイエス様の心情を解き明かし、その心情に対して頭を垂れることができなければなりません。主が歩まれた道を私が歩み、主が辿られた足跡を私が追い、主が命を捧げた祭壇に私が忠誠を尽くし、神様の悲しみを代わりに抱える一つの姿とならなければなりません。そして、私たちは天情の縁を握り、全人類と歴史的な縁を代わりにしたイエス様の心情を握ることができるかを反省しなければなりません。つまり、イエス様の歴史的な縁、時代的な縁、未来的な縁を代わりにすることができるイエス様の友となることができるかを自問しなければならないのです。
自分一人でできることはこの世にありません。私がどのような存在であるかを確かに解明するにあたって、私が結んでいる相対的な関係を除いては到底解明することができないのと同じように、神様の復帰摂理も同様です。一つがあれば二つがあり、一つの集まりがあれば前後・左右・上下に連なっているのです。そして、その一つの存在が歴史性、時代性、未来性を通過することができる一つの主体性を備えるとき、そこから新しい歴史が始まるのです。神様は堕落した人間がますます落ちていくときに引き上げ、時と場所を超えて摂理を展開しておられることを知っておかなければなりません。
今日、皆さんは他の人から「どれくらいイエス様を信じていますか?」と質問されたとき、即座に「10年信じています」「20年信じています」または「何年信じています」と答えるのは簡単です。しかし、縁の歴史を振り返るとき、皆さんは6000年の歴史が加算されている立場にいることを知っておかなければなりません。つまり、自分の信仰の位置を見つけることができるようにならなければならないのです。
さらに、人間は縁の歴史から逃れることができないため、今日の皆さんは時代的な縁の中にあっても必要不可欠な信仰の中心を持っていると自信を持てる人でなければなりません。そして、今から皆さんが築く信仰の基盤を、未来の子孫が見習うことができるようにしなければなりません。そのような未来的な縁の基盤を現実の信仰の中でどのように整えていくかが問題です。


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従って、今日この立場に立っている皆さんは6000年の歴史を代わりにして神様の前に自信を持って現れ、「6000年間苦労された私の父よ!」と呼ぶことのできる信仰を持たなければなりません。また、今日27億の人類を抱きかかえようとして苦労の道を気にせず耐えてこられた父を私の父と呼ぶことができる人でなければなりません。そして、今日私が叫ぶ信仰の訴えで億千万代の子孫までも涙を流させる信念と覚悟を持って天の前に立たなければなりません。そうすることで、永遠の摂理の運行法則に従って動いておられる神様を父と呼ぶことができるのです。
従って、今や未来を引き寄せ、現実と過去を統合して神様の前に証することができる自分になったのか、またはそのような自分を対して証することができる他の一人がいるのかが問題です。
4000年の歴史が経過した後、イエス様はそのような使命を背負い、現実の道を切り開くためにこの地上に来られました。したがって、今日の皆さんは観念的な信仰をしてはなりません。歴史的な認識を通じて知られた知識的な観念から抜け出せない信仰をしてもいけません。しかし、もし皆さんがそのような立場にあって進む道が塞がれてしまったとしたら、歴史の道程を再び振り返り再分析する時が来たのだということを知っておかなければなりません。今日まで信仰の道を歩んできた多くの教会や、自分の理念を誇ってきた多くの宗教が、終わりの日に至り進む道が塞がれてしまったという事実は、歴史的な縁や時代的な縁、または未来的な希望の縁を結ぶことができない立場にあることを証明しているのです。
それでは、今日私たちはどのような信仰者を探しているのでしょうか?それは、歴史的な縁、時代的な縁、未来的な縁を代わって私と関係を結ぶことのできる信仰者を探しているのです。しかし、今日皆さんは自分の胸から、身体から、また生活から染み込んでくる何かを感じています。つまり、私たちは五感を通じて何かを感じているのです。そして、その五感の感覚を通じて心の世界を奮い立たせる何らかの真理があるのかという問題が生じます。
そのような真理は、今日の私たちの生活環境とは全く関係のない新しい分野から出発した真理のように見えるかもしれませんが、そうではありません。今日の私たちの生活と完全に一致する縁を持つ真理なのです。今日、希望として望んでいた理念を忘れ、朦朧とした中に置かれたとき、つまり、暗闇の障壁が立ちはだかり、自分の心の中心を立てようとしても立てられない状況に置かれたときに必要な真理なのです。


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したがって、今日皆さんはこれまでの歴史の道程に現れなかった、未来を見通し過去を繋ぐことのできる真理を必ず見つけなければなりません。したがって、今日皆さんは自分のどんな努力や犠牲、苦難を厭わずにそのような真理を探し、この地に根付かせなければならない世界的な使命を負っていることを忘れないでください。
そのため、このような縁を結んで来られた一人の存在がいるということは、人類の歴史の道程においてまさに福音中の福音です。これを考えると、今日皆さんはイエス様が主張された真理を追求しなければなりません。そして、皆さん自身が歴史的な縁、または時代的な祝福された信仰の縁を持たなければならないのです。
イエス様の心情を通じて流れ出る歴史的な縁に一つとなった自分になれましたか?なれなかったのであれば、皆さんはイエス様が歴史の道程を継承して今日まで縁を結んできたその縁を犯した罪人であることを知り、無条件に頭を垂れるべき人であることを自覚しなければなりません。また、時代的な縁を代わって福音の言葉を伝え、時代的な責任を果たすために実践の道を歩まれたイエス様の30年余りの生涯の道程を踏みにじった自分であることを悟らなければなりません。
そのような縁を通じて紹介された福音の言葉を理解せず、その縁を知らない人は、大きな借りを負った人です。神様の縁を通じたイエス・キリストであり、イエス・キリストを通じたキリスト教の真理なのです。その真理の前に今日私たちは借りのある人であることを知らなければなりません。天の前にイエス様が立つまでに4000年という神様の努力があり、神様の心情と歴史の過程で多くの先祖の血が染み込んでいたことを、皆さんはもう一度感じなければなりません。
では、皆さんが理念の縁を求め、その縁に基づく自分の位置を見つけたいと願うならば、前後左右と両肩に背負った大きな借りの重さを感じたことがありますか?天倫を動かす縁と法度は、今日この分野で私たちを促していますが、私たちは一人の個人の縁にとどまっています。もし皆さんがそのような縁にとどまって生活し、その縁から抜け出せないならば、皆さんの前には天情を通じた審判が待っているでしょう。あるいは、歴史の道程で殉教した多くの先烈の血が訴えるでしょう。そのような権内においても、天に向かって父と呼ぶことができたイエス様の心情を皆さんは知らなければなりません。


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イエス様の心と神様の心が通じることができ、歴史の過程で苦労された父の全体の心情がイエス様によって慰められることができました。また、イエス様お一人で未来に対する神様の全体の希望を代わることができました。イエス様はこのように歴史の道程において誰とも比較できない唯一無二の偉大な存在であったことを、当時の人々は誰も知りませんでした。
そのため、知らなかった歴史的な悲しみを解消し、栄光と喜びの姿で進むべきだったのが神様の意図でしたが、その意図が逆に悲しみの姿で、十字架の祭壇として現れてしまったのです。それでは、それを見守られた父の心情を今日皆さんは何で解消して差し上げるのでしょうか?これが最も大きな問題です。ですから、イエス様が去られた後の霊的復帰の歴史は、私たちの心霊復帰の道程において逆転していることを知っておかなければなりません。
今日、天主的な縁の使命を果たさなければならない使命的な分野において、上下の関係はもちろん、心霊も統一されなければならないということです。私たちの生命体の一つの細胞も統一された心情によって動いているのと同じように、そのような事実が歴史の過程を経て私たちの心に通じることができなければなりません。
そのため、皆さんが歴史的な責任を負って泣かれたイエス様、神様の意図を考えられたイエス様、夜通し祈られたイエス様、十字架にかかられたそのイエス様とどのような部分の縁を持っているかが重要な問題です。したがって、皆さんが「父よ、私は微力ですが、イエス様の一部分の重荷でも担います」と言えるようにならなければなりません。ご自身の悲痛な心情を誰とも相談できず泣かれたその切ない心情を感じて共に泣くことのできる悲壮な心情を持たなければならず、そのような心でイエス様の困難な事情の一部分でも担わなければなりません。
それでは、今日私たちの信仰生活において、イエス様をつかんで夜を明かしながら祈る人が教会に少なくとも三人はいるべきです。そうすれば、その教会は滅びることはありません。そのような教会、そのような教団は倒れることはありません。イエス様が伝えた福音は、この地球上に広まり、多くの教団を作り出しましたが、イエス様の意図を外れたキリスト教を見つめると、今日の私たちは再び反省し、3年の公生活で苦しんでいたイエス様の足跡を追う人々にならなければなりません。


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イエス様は神様の心情と歴史的な心情を通じて、当時のユダヤ教徒たちを見つめ、彼らの前に現れるときは堂々として自信に満ち溢れていましたが、裏では誰にも知られず涙を流し泣いていた方でした。形式と儀式にとらわれ、神様の心情の縁からだけでなく、道からも外れる人々を見たときには、鞭を振るって打ちたい心情であったのです。
今、私たちは自分たちの心情と生活の縁を通じることのできるイエス様の心を見つけなければなりません。また、そのような人々がどこにいるのかを探さなければなりません。そして、そのような心を持っていないならば、それを誰に受け継がせるのかを考えなければなりません。
このような立場に置かれている私たちならば、過去に犯した歴史的なすべての過ちを自分が代わりに背負わなければなりません。さらに、過去の悲しみだけを知っていてもいけません。それを超えて、未来に希望する心情まで知り、「これらすべてを私が責任を持ちますので、休んでください」と言えるようにならなければなりません。しかし、もし皆さんがそのような心に燃えて成し遂げた生涯の一片や生活の一片もないならば、悔い改めなければなりません。
今日、この世界はどのような時代に向かって動いているのでしょうか?現在は物質を中心に争っている時代ですが、これからは思想を中心とした闘争の時期が訪れます。つまり、人間の体に代わることのできる物質主義の時代を超え、心に代わることのできる思想主義の時代が現れるのです。
人間には体と心があり、心の上に霊があり、霊の上には神様がいます。したがって、人間は神様と完全に一つになって初めて完全な人となるのです。人はたとえ小さな一つの個体であっても、全体の歴史を代わる存在であり、未来のすべての縁を代わる存在であるため、天主的な価値を持つ存在なのです。では、人類の歴史は何を成し遂げるために今まで流れてきたのでしょうか?多くの私たちの先祖たち、私たちの預言者たちは何を望んできたのでしょうか?堕落した人間だったため、遠くから縁を持って中心へと探し求めてきたのです。つまり、氏族主義の時代から部族、民族を経て国家時代と国際時代、世界的な連盟時代を経てきたのですが、ここで天は一人の代表的な人を探しているのです。つまり、歴史的な縁、時代的な縁、未来的な縁を兼ね備えたその基盤の上に、神様の心情を結びつけることのできる一人の人を探しているのです。これを忘れないでください。


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従って、第一次世界大戦当時は物質を中心とした闘争の時期でした。つまり、この地のすべての人々が自分の心をかけて物質を求めようとしたのです。このように、世界が物質万能主義を叫んでいた時代があったのです。
しかし、これがどの時代にも通用するのかと言えば、そうではありません。人は自分の生涯の縁を求めていく上で、自分の心を前に掲げて進まなければならないのです。これが天倫の鉄則です。心の命令に従わない者は天が打ちます。今まで天は歴史の道程で人間に自分の心を中心に立ち、良心に従って生きるように、どのような物質的な悪の条件にも引っかからずに生きるようにと命じてきました。
では、人間の良心の基準は天倫の心情を100パーセントそのまま受け入れることができるようになっているのでしょうか?そうではなく、多くの障壁が立ちはだかっているのです。皆さんが望む希望の峰、つまり天国の門の前には多くの障壁が立ちはだかっています。これをキリスト教的に言えば、審判の門です。今日の世界は恐怖と不安と混乱の時期にあります。つまり、中心をつかもうとしてもつかめない時代なのです。
今日、私たちは物質をたくさん持っていてもいけません。なぜなら、神様は人を作るとき、物質である体をまず作り、その後に霊を吹き込んで作られたので、霊と肉体で成り立っており、霊が中心だからです。この世界が物質的な権限を中心に一つに動くとき、どのような闘争の時期が現れるでしょうか?思想闘争の時期が現れるでしょう。実際、そのような現象が第二次世界大戦以降に濃厚に現れています。そして、心を中心とした思想の時代が現れるでしょう。
では、思想はどのような思想であるべきでしょうか?物質を貫き、心を貫き、霊を中心とした思想であるべきです。霊を中心とした思想の時代を探し求めることが復帰の道です。人間はこれを失った状態にまだとどまっており、霊と良心と体の調和を失った状態にまだとどまっているのです。そのような状況がこの世界に象徴的に現れているのです。つまり、今日の世界は民主と共産の二大陣営に分かれて戦っているのです。この戦いは神様とサタンも対決する戦いであり、人間同士が宗教を中心にしても闘争する戦いです。


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従って、将来、世界を動かそうとする民族があったとしても、自分たちの手段と方法を持っては世界を支配することはできません。今日の思想の状況は現状では二つに見えますが、原則としては二つではなく四つでなければなりません。そこで今日、第三世界の国々がサタン側の宗教形態を持ちながら左翼陣営と手を組んでいるように、民主陣営でも新しい宗教形態を持って世界の人々と手を組む何かが出てこなければなりません。将来、キリスト教を中心とした世界的な宗教運動が現れるでしょう。
つまり、世界のキリスト教は民主陣営の中で良心的な権限に該当する分野にあるため、相対的な進撃戦があるでしょう。私たちの心に二つの心があり争っているように、二つの世界の衝突があると見ています。人間が望むのは一つの起点です。二つが一つに合わさる起点、その起点は縁の出発であり、縁の総合であり、縁の結果です。
従って、主体的な縁を通じることのできる内面的な基準を立て、それを生活の中心として生きなければなりません。そのような一つの生活の舞台を地上に築き、その価値が全人類の心情を通じる共同的な価値として現れる立場が整い、すべての問題が解決されるならば、世界は審判の時を迎えるでしょう。したがって、このような緊迫した歴史の過程に置かれている今日の青年男女は、自分の決意を整え、天に向かって新たに進んでいかなければなりません。
私たちが世界の近代史を振り返ると、文芸復興(ルネサンス)以降、フランスの政治革命と第一次世界大戦以後、物質文明が極度に発展しました。しかし、産業革命が起こり得たのは何故かというと、蒸気とガソリンの力を利用することができたからです。蒸気と石油を足場にして産業革命が成し遂げられたのです。
その後、この段階を超えて20世紀の前半に入ると、電気文明へと転換されました。水と石油は物質ですが、今や目に見えない電気の力を利用した電気文明の時代が来ました。物質を動かして光を発する段階を超えると、その次には熱の文明時代、つまり原子力時代が来るのです。これが最後の時代です。このように歴史は3段階の産業革命の過程を経てきたのです。


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しかし、これまでの歴史の道程において、経済体制や他の何かに大きな影響を与える刺激的な契機を作ることのできる民族と国民がいるならば、その民族と国民は世界を支配することになるでしょう。今日、イギリスがそのような使命を担ってきましたが、それを彼ら自身は知らなかったのです。
それでは、今日の物質文明が発展していく中で、その時代時代を打ち破ることができる小さな火花の使命を担う一人の動きが世界を動かすことができると誰が知っていたでしょうか?誰も知りませんでした。今日の物質文明の最終段階において、原子力が現れて一つの火花を発しています。しかし、その火花を誰が引き継ぐのかが重要な問題です。
では、物質段階が終わった後にはどのような段階に入るのでしょうか?それは思想です。したがって、心を探していかなければならない摂理があるため、文芸復興以降の潮流を中心に17、18世紀を契機にして今まで急激な変化の時代を経験してきました。思想の交錯が何度も繰り返された後、現在に至って形成されたのが左右の二大主義です。
しかし、終わりの日であるこの時代において、この二つの主義に求められるものは何でしょうか?それは、まるで物質文明を誇るここに原子力が現れて一つの火花を投げたのと同じように、今日の民主主義と共産主義が互いに優越性を誇るこの時代において、一つの火花となり得る新しい主義です。もしそのような一つの火花となり得る新しい主義を求める切実な心で燃える青年男女がいるならば、眠れずにその問題を解決しようとするでしょう。
どうせ戦いが始まったのですから、判決を下さなければならない立場に置かれています。優れた主義が出てくるとき、物質を支配し、心が完全であればその体を支配するのと同じように、今日、思想的な主義が現れて世界的な経済力を席巻する時が来ています。したがって、アメリカも第二次世界大戦までは経済的に繁栄し続けましたが、今は主義を求める時代になったため、物質的に打撃を受けています。これは一面ではありがたいことと感じます。しかし、捨てる時は堂々と捨てるべきです。援助などせずに、捨てるべきときには思い切って捨てる国家らしく大胆に捨てるべきです。これが将来の時代において私たちが提起しなければならない問題です。


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さらに、ここで民主主義において問題となるのは何でしょうか?思想の火花を引き起こす力はどこから出てくるのか、またその力が私たちの心から生まれるとするならば、その火花はどこから燃え上がるのかということです。これらの問題は皆さんの心では解決できません。これらを解決できるのは霊です。したがって、霊的な火花を起こす革命を起こす人であれば、その人は過去に天の意図のために苦労したどの道士よりも、あるいは今日の主義の主張者、またはどの世界的な理念よりも貴いのです。
従って、霊を中心とした経済体制の火花を投げかけて世界の経済を吸収しようというのです。また、霊的な思想と主義の形態の火花を投げかけて世界を動かそうというのです。しかし、世界は二つの道に分かれています。つまり、共産主義は捨てるべき物質を捨てずに探し求めて自滅していますが、一方で民主主義はありがたいことに神様を探し求めています。このように、二つの世界が分岐点に立っていることを皆さんは知っておかなければなりません。
人間は復帰の道程に立っているため、体は心に服従し、心は霊に服従し、霊は神様に服従するようになっています。これが天倫が定めた絶対的な縁の法則であるため、これを破って存在する人は誰もいないのです。
皆さんは良心からの訴えを「お前!」と言って服従させる勇気を持っていますか?今は心に服従しなくても、死ぬときには服従します。人間はこのようにできているのです。
それでは、皆さんは物質に打ち勝つことのできる人間になっているかどうか、反省してみなければなりません。今日までの時代は主義の時代であったため、良心に従って生きればよいとされてきました。しかし、今日の宗教生活をする人がかえって堕落しています。また「宗教も何もかも関係なく、ただ良心的に生きればよい、天国など全く無意味だ」という人もいます。しかし、人間の原則的な道程はそうなっていません。主義の思想を経て、心が心としての権威を持って体を打つとき、そのとき心の権威はどこに現れるのでしょうか?心の主観、権威が崩れる日には、どんな世俗的な主義を持ってしても心の権威を再び現すことはできません。


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今日の信仰者たちはほとんどが固執を持っています。彼らの心がただ霊にのみ服従するという理念的な条件を持っているため、誰が何を言っても聞きません。それでは、そのような人をつかんで私の心がその人を主観する権威を持っているかといえば、持っていないのです。
それでは、その持っていない心を革命することができる火花はどこから現れるのでしょうか?皆さんは視野を広げ、民族を超え、世界を超え、宗教や教権を超えて抗議する度胸がありますか?耳に入ってくる千万回の説教よりも、心を揺さぶる一言に頭を垂れることができる人が真の宗教人です。今日、救いが天国にあると思われていますが、そうではありません。心を照らすことができて初めて真の救いの歴史を起こすことができます。しかし、今日の主義が定着地を見つけられないように、私たちの心も定着地を見つけられずに漂っていますが、それではいけません。もしこのような心を持ちながら安らかに眠る人は末端に置かれるでしょう。
今日、皆さん自身の命と先祖たちの命を救わなければならない覚醒時代です。これを考えるとき、自分自身はこんなに自由に動いて生きる存在ではありません。宇宙的な縁の中で私の実存価値を立てることを、このすべての存在世界は待ち望んでいることを実感しなければなりません。心で感じ、頭で感じるだけでなく、さらに感情的に感じることができる位置まで進むべきです。
さらに今日、人々を見て「とても可哀そうです、父よ!しかし、父が良心を持つ人間の前に物質を与えなければならない責任と、真の心を持つ者の体を支配しなければならない意図を知っており、真の霊が父の支配を受けなければならないことを私たちは知っています」と言い、自分に山のような黄金や宝物を持ってきたとしても、それが心の望むものでないならば、それを果敢に捨てることができるべきです。問題は、このように大きな物質的な苦痛を軽々と乗り越えることができるかどうかです。したがって、私の体の価値は宇宙よりも大きいので、この宇宙よりも大きな体を私の心が服従させるとき、私の心は宇宙的な価値を超えるのです。


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今日、宗教的なすべての問題はここから始まります。このような立場から仏教を見ると、仏教もまた心を探すことに専念する宗教です。「心一つ明らかにすれば万法に通じる(明一心通万法)」これが仏教の教理の総結論です。
今日、繋がってくる物質は歴史的な罪悪の壁を築いてきたものです。したがって、皆さんはその物質の前に頭を垂れてはなりません。心が望まないときには無慈悲に断ち切ることができるそのような人々を天は求めていることを知らなければなりません。
この民族は哀れな状態にありますが、この原則から考えると一つの希望を持つことができます。私たちは物質的に乏しい民です。ここに生きる道があるならば、今こそ心を一つにしなければなりません。心を抱きしめ、心の飢えを訴えながら苦しむ人々が出てくることを天は望んでいます。飢えと苦しみに満ちたこの心と一体となり、霊的な火花を起こすべき時が来ています。この国、この民族は経済的にも心的にも貧困に直面しています。
それでは、今日私たちが心配すべきことは何でしょうか?それは神様を探し霊的な火花を起こすことができるかどうかです。すべての問題はそこに帰結するでしょう。過去の混乱の時代において、血が飛び肉が裂けるゴルゴタの死の丘を笑顔で越えた初代キリスト教信者たちが新たな火花を投げかけて世界的な革命を起こしたように、今日の皆さんもそのような霊的な最終の火花を投げかけて新たな歴史を起こさなければなりません。
皆さんには今まで信じてきた主義と信仰の内容すべてを押しのけて心の革命を起こす、すなわち新たな火花を起こす使命が最終的に残されています。ここに叫ぶ最終の声があるならば、それは「この乾いた心と体の園に天が投げかけることのできる永遠の火花をください」という声でしょう。その火花がこの民族を救う日には、世界全体がその火花を起こした人に頭を垂れる日が来ることを知らなければなりません。


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そのような縁が現れると、これまでの歴史時代では見られなかった矛盾した現象が起こります。そのときには未知の謎のような事件が起こるでしょう。その解明は私の心ではできません。誰かが私の命を奪いに来ても「違う」と言える新たな衝撃を引き起こすものでなければなりません。それは平面的な作用ではなく、立体的な作用でなければならないのです。
それでは、神様はこの歴史の過程を内面的にどのように通って来られたのでしょうか?神様はイエス様が来られる前には、まず物質を通して代償する時代を経て来られました。体を失った人間が父の前に出るためには、まず物質を父の前に捧げる時代を経なければなりません。つまり、犠牲の時代を経なければならないのです。
そのため、犠牲の時代の果実としてイエス様が結ばれました。そして、イエス様を中心にして霊的な火花を起こしたため、その後、イエス様を中心とした霊的な主義の形態で歴史が成り立って来ています。また、それが今日では多くの形態で現れ、再び二つの道に結集され、これからは世界がキリスト教を中心に統合運動を展開するでしょう。
従って、今まで想像もできなかった天情を感じさせ、良心と体が調和することができる新しい何かを提示しなければならない摂理が今日のキリスト教に残されているのです。最初は上がったり下がったりする小さな規模の興亡が繰り返され、最後には次第に大きく広がります。そうして大きく上がったものと大きく下がったもの、つまりこの二極の流れを合流させるために歴史的な転換点が現れるのです。
従って、背後の起点と未来の起点を中央に統合させる時が「理念復帰完成時代」であり、「歴史復帰完成時代」であり、「復帰摂理の終結時代」であることを知らなければなりません。また、個人においても外的な世界観と内的な摂理観を自己に結びつけなければならない時です。人間は原則的な縁の世界から逸脱した存在であるため、必ず一度は清算しなければなりません。


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人間には霊があり、心があり、体があります。また、周囲には生活環境があり、万物があり、土地があります。まず土地ができ、その後万物ができ、その万物を私たち人間が食べて生きています。そうして体が成長し、心が成長し、霊を成長させます。その次には神様に出会うことが定められているのです。これが原則的な法則です。どんな革命を起こした人でもこの法則から逸脱して生きた人はいません。私たちは逸脱していない直線上の縁的な条件を立てて見つめています。
従って、皆さんは今や世界を探さなければなりません。しかし、そのような欲望がありますか?皆さんは皆そのような欲望を持っているでしょう。この地を自分の土地にしようとすること、すべての万物を自分の万物にしようとすること、それは欲ではありません。原則です。なぜなら、神様の真の息子娘になれば神様のものが自分のものになるからです。例えば、皆さんの父親が裕福であれば、そのものが自動的に自分のものになるのと同じ原則です。
また、存在界全体を分析すると、物質の背後には人がいて、人の背後には神様がいます。したがって、私たちがその基準に入れば、世界的な理念と世界的な物質を見つけることができるのですが、まず世界的な人を見つけなければなりません。したがって、イエス様も世界的な人を見つけるための運動を展開されました。そして、世界的な縁を見つけた後、天主的な縁を結ぼうとされたのです。つまり、一段ずつ上がっていくのが天の摂理です。したがって、このような復帰の運命から逃れることができない人間であることを知らなければなりません。
それでは、今日の状況がこのようになっている中で、皆さんはどうすればいいのでしょうか?共産主義は物質主義であるため、いずれ必ず崩れます。民主主義陣営は天を求めて上がっていかなければなりませんが、誰を中心に上がるのか?これが私たちが解決しなければならない使命です。したがって、皆さんは今までの主義思想で期待していた以上の真の愛とその価値を示さなければならないのです。
従って、私たちは物質を超え、霊を超え、神様の前にまで進まなければなりません。世界的に見れば、今は心を超えて霊的時代に入る時であるため、今日の道端には狂人が多くいます。良心が敏感で良心に従って生きようとする人に霊界が襲いかかり、そのような現象が現れています。私の良心の上には悪い霊が支配しています。私の体がサタンの支配下にあるのと同じように、私の良心が一段上がるとその上には悪霊が支配しています。したがって、私の体を支配する悪霊を打ち破り、その代わりに善霊を現さなければならないのが最終的な霊的な問題です。


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従って、良心的な人々の中から精神異常者が多く出てきます。恐怖症のようなものが多く生じています。そして、世界的な恐怖症が生じています。ここで問題となるのは、自分の良心を中心にその恐怖症と戦っていく熱情があるかどうかです。そのような中心が確立された人は、どんな世界的な革命もその人を支配することはできません。天と地を動かすことができる天の革命でなければ、その人を動かすことはできないのです。
従って、そのような人々が持つ決意は永遠の決意です。どんな原子爆弾やどんなものであっても、回っているその軌道と法則を変えることはできません。したがって、変わらない良心を中心に一つの原則を立てて天理の原則の理念と通じることができなければなりません。そうして、その価値を自分の心と体の理念の中に置き、天と一直線の関係を結ばなければなりません。そうして、皆さんがそのすべてを生活の舞台で100パーセント実践できる価値を万物世界と人間世界の前に示すことができる何かがあるならば、皆さんはまさにそれを見つけた人であり、すべてを所有した人となるでしょう。このような理念の目的を経て進む使命が私たちにあります。
それでは、ここで問題となるのは何でしょうか?世界に向かって叫ぶどんな主義があっても、自分と縁がなければ関係がなく、世界に向かって繰り広げられるどんな心的革命の火花も、自分と縁がなければ何の関係もありません。したがって、皆さんはそのような関係を結ばなければなりません。そして、皆さんは自分の価値を宇宙的な価値として知り、この世に比べ物にならない何千万倍の価値として知るとき、この地球のすべての怨念を解放することができます。さらに、皆さんはまた、万民を抱き、彼らのすべての心的基準を合わせることができて初めて、神様を「父」と呼ぶことができるのです。
イエス様は「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか」(マタイ16:26)とおっしゃいました。今日、宇宙時代に入っていると言っても、心の世界にはどんなものも及ばないのです。このような偉大な理念を地上の理念として歌いながら生きるのが人間であることを、皆さんは知っておかなければなりません。
今、皆さんがそのような心的な縁の摂理を経て現れるとき、皆さん一人一人は神様もどうすることもできず、サタンはなおさらどうすることもできません。どれほど悪がどうであろうと、石ではなく鉄でさえも消化できるようになるのです。どんな主義、どんな思想も皆さんを飲み込むことはできません。したがって、皆さんはこのような大きな縁的な個人の善の価値を知らなければならず、その大きな縁的な価値に帰結できる橋を架けなければなりません。そうして、自分との橋を架け、過去に残された単位の中で少数の部分を通して全体の価値を立てなければなりません。これが決定的な基準となるのです。
従って、皆さんは個人の縁を超えて、大宇宙的な縁を結ばなければなりません。それを現実に合わせて落とし込む、つまりゼロにしなければなりません。そうすることで初めて自分が神的な存在として立ち、宇宙の神様も一つの存在として立つことができるのです。大きな神様と小さな神様が互いに天的な価値を歌うことのできるその世界が、私たちが望む縁の完成の世界であり、地上天国の世界であることを、皆さんは忘れてはならないのです。

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