そのような心情に共鳴し、そのような心情に動かされて「お父様」と呼び、「息子」として愛することができる立場が、この世界に現れなければなりません。イエス様はそのような心情域の御言葉を持って来られましたが、心情世界の生活内容を明かすことができませんでした。出来なかったのです。
神様に対してお父様と呼べる心情の帰一点を訪ねていくには、私の体が父の体にならなければなりません。私の血は父の血でなければなりません。そのような立場に立つと、あなたは当に神殿になります。
皆さんが神殿になれば、その心の体は自分のものではありません。お父様のものです。あなたの起源は自分ではありません。お父様から始まったので、お父様で終わらなければならないのです。ですから、あなた自身はあなたではなくお父様です。
皆さんの血がお父様の血に代わる心情の域に入ると、天が悲しむとき、皆さんも知らないうちに涙を流します。ここに初めて来た皆さん、そんな領域がどこにあるのかということですがあります。心情の世界は、すべての存在の価値を数千万倍超える世界です。私たちがこの世界と関係を築く時は、認識を超越することになります。
皆さんがそのような域に入るには、まず血統的に同じでなければなりません。自分の血が父の血と同じだと感じなければなりません。お父様の実の息子娘になった状態、その後は、意志を一緒にしなければなりません。意味、その意味は何ですか? 堕落した世界を復帰することです。
自体を清算した本来の実体、善い実体が父の懐に抱かれて暮らせる世界を成し遂げるのです。ですから、私たちの体は父の血を受け継がれなければならず、私たちの心は父の国を成し遂げようという意志を抱かなければなりません。また生活では父の心情を感じなければならないということです。そうでなければ、父の息子として立つことができないということです。そうでしょ?
父が悲しむと子も悲しみ、父が苦しむと子も苦しくなければならず、親が難しい生活をすると子も難しい生活をしなければならないのです。そうでしょ? 真の孝子と言う事は親の意を受け入れて動かなければならないということです。このように父の血を通じた縁を持たなければならないし、意を通した縁を持たなければならないし、そこに生活を明るい心情を備えてこそ、天に対してお父様と言えることを皆さんが知らなければなりません。天はこのような内容を人間に接するためにこれまで苦労しておられたのです。
天は、このような縁を成し遂げるために、人間が思わないうちに多くの労力をされたことを皆さんが忘れてはなりません。養子の立場にある私たちを心情が通じる親子娘の域まで引き上げるために、天は無限に苦労しておられるということです。
私たちに悔しさがあっても神の悔しさとは比較できず、私たちに悲しみがあっても神の悲しみとは比較できず、私たちに憤りがあるとしても神の憤り、悔しさとは比較できません。また、私たちがどんな傷を負ったとしても、神様が着た傷とは比較できません。
神様は、私たち以上の歴史的な悔しさを感じて来られ、私たち以上の悲しい心情を持って、歴史と共に悲しみ出てきました。私たちはこれらの神であることを知る必要があります。
イエスは神をお父様と知っていましたが、そのお父様をどんなお父様として知っていましたか。とげの麺類を使っている時、神様が自分より数千万倍苦しんでいるとげのある棺桶管を使っておられたことを感じました。心臓に穴が開けられたとしても、イエス様は神様が自分以上の苦痛な場で子供のために苦労するお父様であると思ったので、それを当然と受け入れました。
だから彼は恨み言1つを残すことができませんでした。このように苦しんで行っても人類の前に恨を残さないと決心しました。敵に向かって言うことができない心情と恨みを持つた場でも、天の我慢を考えるればできなかったということです。悲しい人類を救うためのイエスだったので,自分の死と苦しみに勝たなければなりませんでした。
そのようなイエスでなければ救い主になれないということです。自分の命を失った人間だったので、例え命を失っても、すべての欲望を諦めても天を恨みのない立場に入れる様にしなければなりません。イエス様はそのような立場に入ったので、神様の心情に代わる命の救い主になることができたことを私たちは知らなければなりません。
このように恨みの心を持たなかったイエス様、憎むという心を持たないイエス様、歴史的な悪魔よって支配されなかったイエスであったので、悪魔は現れる事ができませんでした。悪魔はどんな存在ですか? 人類に歴史的な限度を提示して諦めさせる様にする存在です。ところが悪魔がイエス様に現れる事ができなかったのは、この堕落した世界の恨み、天の主の恨みまでも彼にはかかる条件がなかったからです。この条件を持って神様に抗議していた悪魔も揃って降伏したのです。
イエス様が敵を愛するように言われた御言葉は本心からの御言葉でした。自分が死んで消えるよりも、人類が永遠の死に陥るのを心配して涙する人が懇願するなら、悪魔はその本体が破壊されるのです。そのような人は悪魔が主管しません。ただ神のみが主管されるということです。信仰と要望を出す悪魔はいくらでも参加できますが、心情を通すことができる一片丹心の精誠の心情を持てば悪魔は爪ほども占領できないということです。悪魔のすべての縁を越えた世界が天国なので、天国は悪魔と縁のない世界であることを知る必要があります。
イエス様が呼んだお父様を今日、私たちは彼の功労に載り頼って、「お父様」「主よ」と呼んでいます。恐ろしいことです。今日も罪悪圏内で卑怯で恥ずかしい生活の一片を握って涙する私たちです。今日の社会とこの世界を眺めることになると、流れてくるこの世界は、歴史的なこの功績一つを抱いて後悔し、恐怖に包まれています。こんな世界の中で私の感情を占領しているのは何ですか? 恐怖です。私の生活をさらっているのは何ですか? 言うまでもなく破綻した偽の義です。さらに天は新しい世界を立てたいと真の義を立てたいのですが、それらを立てる人が誰もいませんでした。しかし、天は今日も変わらずそのような人を探して迷っている天の心情を私たちは知らなければなりません。
三千万民族は神様を知りませんが、神様はこの民族の働きのようになされたことを知らなければなりません。義の心情を抱いて忠臣の義理を立てるために刑長の露に消えた、天が覚えることができるどんな忠信があった心情の基台は、彼の足跡と彼の心情またはその民族の上に行き来されたことを知らなければなりません。
今日の私達は彼の功績の上に成り立った民族です。この民族は、功績の上でも更にその上に載って世話になっています。哀れな人を救おうとする天であり、堕落した子どもを握って泣く親の心情を持った天だから、この世界でよく生きる民族よりも生きていない民族を眺めるとき、さらに哀れに思われます。
私たちの民族は、他の民族の前に誇るものは何もありません。持っているものがありませんでした。全部奪われてしまい、全部失われました。ここでまた私達が何か持つ為の心情を私はほしいと思います。 「血の沸騰する青年男女が行く道を知らずさまよう心にイエスが天に対して父と呼んだ燃える心情を起こしてください」と。彼らがそうすれば、この民族を他のどの民族が支配することはできないでしょう。
哀れに見えるお父様の心情、哀れに感じるお父様のその心情の前に「お父様!私はこのことをしました。」と言えるそのような青年男女、そのような団体、そのような民族があれば、彼らは世界を支配します。ユダヤ民族の中でイエス様が来られた時代にも同様でした。ローマの支配の下で、信仰的な思想が混乱し、民族の土台が破綻し、そこにあるすべてが揺れました。天はそのように悲しみが死んだ時にイエス様を送られたのです。
恨みと恥ずかしい事実として、どうして民主と共産二大陣営が対決する一線で、供え物となる韓国が登場したのかということです。悲しい事実です。私たちには友達がいません。民主と共産陣営が共に私たちの民族を供えて対峙しています。祝福された国を建設しなければならないこの民族が悲しみの民族として危険と冒険の生活をしているのです。ここで私たちが確かに知る必要があるのは、この環境を成し遂げて民族を裏付けて出てきた天輪がある。その天と関係を成立させることができるには何が出てくるのかを考えればこの民族は生きます。
外的に何も持たなかったイエスが、世界を支配する事情の世界と希望の世界を紹介し、今日、世界をイエス主義圏内に引き込んでいるのです。何かが現れたとしても、心と心情の世界を求めてさまよう人間たちが、それを咎もうとしても峻めず、接しないとしても接せるべき、最高の絶対的な基準となるでしょう。
今日、この韓民族は信仰的な混乱期にあります。人格を誇ることができない環境に置かれており、生活の中では恐怖を感じており、すべての世界が一掃され、私たちの民族をわざわざ押し出しているこの時、私たちは何を掴んで安息できますか?
イエス様は神様の御子としてこの地に来られましたが、絶望的な30年余りの生涯と、悲しみと苦難に満たされた3年間の公生涯の道を歩まれました。はだかなんとかも、それを取り除いて、なおさらあるほどの凛々しい気迫と、燃え上がる心情を楽しんでいただきました。そのおかげで、当時のイスラエル民族を全員そのような勇者が、今日の時代にも必要とされています。イエス様は、その民族がイエスを困難に陥れるたびに、彼らと戦うのではなく、適度にゲッセマネの園の上で気をつけて祈ってもらった方でした。
イエス様も、その国家と民族からの迫害に耐えられたとき、ひとり静かな場所を見つけ、天を仰ぎながら父に向かって、ついでに、その試練を乗り越えられました。他にはありません。心情が必要です。食べることを忘れ、着ることを忘れ、人間のなすべての条件を無視して、『父よ、私はあなたの息子、あなたの娘です』と言えなければなりません。そのような息子娘がいるなら、イスラム民族が踏みにじられます、すべてが犠牲となったとしても、心情の世界においてはどの民族よりも天に近い民族となるのです。
そうなると神様が悪い扱いをすることができるでしょうか? どんな親でも、心情を持って接する子、過去と現在と未来を結ぶ心情を持って動く子の前では、親は手を出せないのです。 人間もそうですから、神様は言うまでもないということです。 神様の属性を持たない人間がどこにいるのでしょうか? 神様がそうだから人間もそうなのです。
哀れな境遇にあるこの民族が生きる道を探し、神の心情を探し求めるのです。 そのような場でも「お父様、ありがとうございます」と言えるようにならなければなりません。自由な境遇で天を恨む民族と、困難な境遇でも天に対して「ありがとうございます」と涙を流す民族とは、天地の違いでしょう。
今、神様と私たちは父子関係であり、今日、私たちがどんなに苦労し、どんなに辛くても、どんな迫害を受け、どんな困難な環境が私を妨げても、6千年の間、そのようなことを経験してきた父の聖像には比べ物になりません。 ですから、皆さんが御旨のために仕事をして傷を負ったとしても、それを見て泣く者になるのではなく、私よりもっと大きな傷を負っている父を慰めなければなりません。 自分の傷を忘れて、傷ついた私を訪ねてきて涙を流される父です。それは、黄空であり、滅茶苦茶なことです。
今、私たちは何かをしなければなりません。 この民族の民族精神が希薄になってきています。 この民族は天倫の前に何を出すのか? 今日、この世界、この時代に提示する内容が何もありません。この民族は、天倫の前に何を提示するのでしょうか。 今日、この世界、この時代に提示する内容を持っていません。 今日まで触れていないのは何でしょうか。 神様の心情のためです。 では、この心情の世界を深く感じる者はどのような者でしょうか。 困難な場面に参加する者です。困難な席で我慢しながら父を呼ぶ者です。歴史的な悲しみを背負って来られた父を身近に接することができる条件を持たなければならないということを知らなければなりません。
だからこそ、このような困難な環境に置かれているのです。考えてみれば、私たちの民族は哀れむ必要はありません。 天がおらなければ哀れなのですが、天がおられるとすれば哀れなことはありません。 6千年の歴史の歩みの中で最も哀れなこの民族ですが、その心は天のことを考えたならば、どの民族よりも父に骨に染みるような刺激を与えたことでしょう。
この民族に豊かな縁を築くことができる動きがあるとすれば、これによって新しい世界は展開されるでしょう。 天が私たちの前にそのような道を鉄石のように約束してくださっており、イエス様もその内容を私たちに諭すことが最高の目的だとすれば、私たちの民族を無視してどこへ、どこへ行くのでしょうか。 私たちはこのような信念を持って出発しなければなりません。
神はアメリカだけの神でもなく、イギリスだけの神でもなく、民主主義陣営だけの神でもありません。 宇宙の神であり、私たちの神であり、私の神です。
天は、歴史的な父の心情世界に参加して、その価値を歌える信徒、そのような神父が恋しいということです。 そんな者は億万金を与えても買えないものです。 地を与えても買えないし、天を与えても変えられないのです。 イエス様も、そのような命は宇宙よりも大きいと言われました。
皆さん、ありがとうございます、ありがたいことに、天は金持ちの縁の御言葉を私たちに提示してくださったのですが、私はどの程度まで父に孝行したか、どの程度孝行者になったかということです。 個人的には孝行者として、国や民族的には忠臣の気概を持って天に接しなければなりません。 そうでしょう? 東洋の三綱五倫のようなものはすべて理にかなっているということです。 それを教えるためなのです。天に対する忠孝も同じことです。同じです。親に孝行できない者は、天の前に孝子にはなれません。 国に対する忠臣の切開を持てない者は、到底天の前に忠臣にはなれないのです。 天の前でも、この世界も同じです。心情の世界も内容が違うだけで、同じです。
統一教会の皆さん! 私たちは教派が問題ではありません。 私たちの看板が問題ではありません。 この神殿や家が問題ではありません。 人が問題です。 ただの人が問題ではなく、心情を持った人が問題です。世界に27億の人間がいるとしても、皆さんの心情を引き寄せる人は一人しかいないのです。 そうでしょう? 神様も同じです。今も天上のすべてを動かし、大宇宙と被造物世界全体を動かしておられる神様が望まれるその第一は何でしょうか? 多くの人よりも、自分の心情をすべて捧げて、すべてを忘れて眠りにつくことができるような一人を望まれています。 そうではないでしょうか? 多くの人よりも、そのような一人、そのような一人を夢見ておられたのです。
それで4千年ぶりに送られた方がイエス様でした。 今、6千年の歴史を経過して、そのイエス様に代わる方を送るのが再臨理想です。
探していた父を懐かしんで父と呼べる息子と娘はどこへ行ったのか? そのような息子と娘を探す日が願いの日であり、解怨の日です。 その日を宗教の名詞を借りて言えば、子羊の晩餐の日といいます。
では、真のクリスチャンはどのような人でしょうか。 楽しくて踊る人ではありません。 神様を気にかけて祈る人でしょう。 自分を気にかけて祈る人ではなく、神様を気にかけて祈る人です。自分が花嫁になれないことを心配する者ではなく、新郎であるイエス様が喜べないことを心配する者です。 私を天国に送ってください」と祈るよりも、「父よ、あなたの恨みを晴らしてください」と祈る者です。天国で私の価値を認めてほしいということではなく、「私が今死んでも、父の価値が地上で認められますように」と祈る者です。
今日、信じている信仰観を覆さなければなりません。根本的にひっくり返さなければなりません。 私が信じて天国に行くというのは、天国に行って何をするつもりですか? 天国に行ってまた盗みをするつもりですか? それは天の本質を失って喜ぶことです。 与えようとすることが本質になっています。愛の本質がそのようなものであることを堕落した属性も感じることができます。 受けるために喘ぐ群衆には死の穴が待っており、与えるために奮闘する群衆には生命の復活権が待っているのです。 30年余りの生涯の間、与えるために奮闘して行かれた方がイエス様でした。 3年間の共生の間、与えるために奮闘し、最後には自分の体まで与えて行かれたイエス様でした。 与えるために、失うために喘いでいた王子がメシヤであったことを知らなければなりません。
彼の後を追う私たち、今日の生活において、父の恨みを解怨するためにどれほど犠牲になったかを反省しなければなりません。 そのような人がいるとすれば、彼は天国や地獄の観念がない人でしょう。 地獄に行ったらどうしよう、天国に行ったらどうしよう」と言うことでしょう。 そのような人を天が復活させるとき、サタンも「正しいです」と言うしかないでしょう。 ここで歴史的な生命の基準が立てられることを知らなければなりません。
今日、統一聖徒である皆さんが悲しみに打ちひしがれているお父様を慰めるためにはどうすればよいかというと、聖書の御言葉も必要です。師匠も必要ですが、私は皆さんがどのような師匠を見つめて出て行くことを望みません。 その師匠を仲裁者として、父の心情と結びつけることができる皆さんになることを願っています。民族のために祈るなら、心情的に訴える皆さんになり、天の心情を紹介するために奮闘し、祭物となることができる皆さんになれば、天は皆さんを見捨てないでしょう。 天は私たちを見捨てないでしょう。
皆さんが天を考える時、天は万物の主人公ですが、その主人公の行事を一度でもしたことがありますか? 愛の主体として、人間に対して「私はあなたを愛している」と言ったことがありますか? できませんでした。すべてを持つことができる自由な立場でも、人間に対して「お前は私のものだ」と言い、好き勝手に取ってみたことがない神様です。 また、神様はこの地上に人類がたくさん住んでいますが、あるいは4千年の間準備したイスラエル民族がいましたが、彼らを一度も御自分の息子・娘、あるいはサタンを打ち負かすことができる勇者として立ててみたことがありません。
今日、民主主義陣営にイエス様を信じているキリスト教信者がたくさんいますが、天は彼らをサタンに対する総進撃命令をすることができる総司令官として立てられず、イエス様を立てて天使の世界を命令させ、地上との関係を結ぼうとされましたが、そうできなかったのです。 地上の人間に花嫁の理念を与え、花嫁を探し求めましたが、花嫁だとサタンの前に自慢できる一人に出会えなかった神様です。 そのような神様の前に、私たちはとても残念です。
世間では、統一教会のどなたかは異端者の怪物と言われていますが、「どうか異端者を解明して、あなた方が祝福されますように」という気持ちだけです。言い訳も解明も望みません。 それをめぐって争う時ではありません。 私が生きるのに忙しい時であり、私が父の前に認められる段階までどう行くかが急務の時です。
皆さん、私たちは同じように哀れな者たちです。死んでも一緒に死のうと父を呼びながら誓った時もありました。 涙を流しながら父を呼んだ時もありました。私たちはこの民族を代表してこのような立場に立たなければならず、哀れな時もあったでしょうが、父が残された道ですから行かなければなりません。 この歴史的な悲しみを感じることができれば、感謝し、感謝することです。 先祖の血の涙の痕跡を感じることができ、その悲しい谷間を埋め合わせることに参加することは、哀れなことです。 この身体が引き裂かれようが、惨めであろうが、どこへ行って倒れようが、哀れなことがない私たちです。 このような心情の道を再び探さなければならない終末のキリスト教信者であることを知らなければなりません。
異端と言われても構いませんし、どんな濡れ衣を着せられても構いません。 それが天国理念を解明する私にとって何の障害にもなりません。私は今日、皆さんに心情を分かち合い、心情に同化してひざまずき、心情で語り、心情で泣くことができるそのような集まりがあれば、天は必ず歴史と共にその集まりの群れを導いてくださるということを申し上げたいと思います。
イエス様に対するマグダラのマリアの信仰
一介の売春婦に過ぎないマグダラのマリアが膝をついて3百デナリオンもの香油をイエス様の足に注ぎ、彼女の髪の毛で足を洗うのを見て、ユダヤ人ユダが叱責した時、イエス様はマリアを擁護されました。サリーを通してのマリアではありませんでした。死ななければならないイエス様の心情を心配し、嘆き悲しみ、憤慨された神様の心情の一端がマリアに現れたので、イエス様は福音の御言葉が宣べ伝えられる所々にその名前が残ることを例示されたのです。
マグダラのマリアが墓から復活したイエス様を見て抱きしめようとしたが、復活したこと自体を汚損することを心配して阻止したイエス様です。自分を迎えて喜ぶより、父を迎えて喜ぶ、自分に対して喜ぶ前に父を迎えて喜ぶ、人類が再び再生できる希望があることを見据えて喜んだ後、自分に対して喜んで迎えてほしいという心情を持っていたため、彼女を止めたということです。 そのような悔しい心情を抱いて行き来した初々しいイエス様が、今日私たちが信じているイエス様であることが悲しいことです。悲しいことです。
今日、私たちは世界中のクリスチャンにこれを伝えなければなりません。 歴史が高めてくれたイエスの名詞を呼んで自分の信仰を自慢する人ではなく、歴史に踏まれ、歴史に押されながらもイエスを自慢できる、カルバリー山頂でイエスを探し求めた女性のような人が必要だということです。 イエスを知らずに自分の行く道を探して引き返した十二人の弟子よりも、むしろマグダラのマリアのような人が必要だということです。
皆さん、イエス様を信じながら神様を泣かせた事実がありますか? イエス様を泣かせた時がありましたか? 来なさい、私が行った道をあなたが来るためにどれほど苦労したのか」「来なさい、淋しい私を訪ねて来るためにどれほど苦労したのか、あなたは何者なのか」と抱きしめながら嘆き悲しんでおられる父を抱きしめ、何者なのか、と泣かれたイエス様の手を握ったことがありますか? ないなら、大声を出さないでください。 大声を出さないでくださいということです。
むしろ嘲笑され、排斥された人々が天国世界の王子になるのです。天国世界の王女になるのです。 すべてを失っても、父の御心と父の心情を懐かしむべきです。 それを描いて生活を解明し、教会を解明し、社会を解明する皆さんになるなら、いくら皆さんが地獄に行くと言っても、神様は皆さんを地獄に送らないということです。 そのような人は、天が引き寄せます。
今日の御言葉のタイトルは「父と私」と言いましたが、あえて父という名詞を呼ぶことさえも畏れ多いことです。私たちは父と言うことさえも、「父よ、私のようなものがどうして父と言うことができるのか」という心を持たなければならないのです。他の言葉は必要ありません。 心と体が同調して切ない心情で「お父様」と言うようになった時、そこで宇宙の所有権が決定されて入るということです。 天はそのような統一信徒を待っておられます。
皆さん、若い師匠の後を追うのもいいですが、すべて過ぎ去ります。 私が死ぬ限り、消える限りがあっても、皆さんに残したいのは、民族を超え、人類を超え、世界を超え、天の心情を抱いて慟哭できる姿になることです。 私はその姿を楽しみにしながら死にたいと思います。 このような姿から、天宙と地獄圏まで管轄する権限が与えられるということを皆さんは知らなければなりません。
それでは、私たちは今、父上を自慢しなければなりません。 どのような父上か、歴史的な苦労をされた父上、この父上を紹介することができなければなりません。 父上を自慢することができなければなりません。 この時代を握って戦われた父上を紹介することができなければなりません。 私たちを待ち望み、戦わなければならなかった父上を紹介しなければならないということです。 しかし、これを知らせるのに、心情を土台にしなければ、妄想と妄執になります。
私たちは父を高めなければなりません。 心情を通して歴史的な父を、心情を通して時代的な父を、心情を通して未来的な父を、心情を通して未来的な父を高めなければなりません。 そして、「父よ! 父の御意志はこうではないですか? 父の御意志が私の御意志なのです」と祈るのです。血のつながりを忘れない親と同じように、私たちを訪ねてきた父、その父は私の父です」と言えるようにしなければなりません。
天は6千年の間、私と一緒に暮らすことを待ち望んでおられました。 しかし、その前に敵であるサタンが「このサタンよ、お前はこの天と地の間に足を踏み入れるところがない」と号令できる心情の主人公、「サタンよ、悪の勢力よ! 我が父の姿を見よ」と号令する時、サタンが頭を下げて「正しいです。永遠に永遠に貴方の言うことが正しいのです」と認められ、天の愛の心情を通じることができる主人公、天はそのような花嫁が恋しいということです。 そうではないでしょうか?
イエス様の肉体は殺されましたが、心情は殺されませんでした。 イエス様の肉体はサタンの侵略を受けましたが、心情の世界は侵略されませんでした。 ですから、天は花嫁という名詞を与えられ、心情の世界の忠誠心を備えた花嫁を探しています。 ですから、皆さんはそのような花嫁の心で父を呼ぶことができ、主を呼ぶことができなければなりません。
そして歴代の預言者たちがこのような御旨を立てるために苦労し、直系の息子・娘として立てるために、豊かな縁を結ぶために、天地が苦労されたことに感謝しなければなりません。 さらに、先祖の前で、数多くの霊人たちの前で、サタンの前で申し訳ないという挨拶をし、この地を守れる主人公にならなければなりません。 そうして初めて、神の息子・娘になることができます。神様は、そのような息子・娘から「お父さん」という言葉を聞きたがっておられます。皆さんもそうではないでしょうか? 神様が本当に愛する息子・娘がいるとしたら、そのような息子・娘に対して肉の父が「誰でもいいから、お前は私の息子・娘だ」と言ったら、神様は嫌うということです。 どの国の人という言葉も聞きたくないということです。 彼らは私の息子・娘であり、私の国の民だ。 韓国の民だ、アメリカの民だ、という言葉も聞きたくないということです。 そのようなことは、天の国の理念を抱いておられる神様の前では可笑しい言葉だということです。 天はそのような場で私たちを探しておられます。
それでは、今まで私と共に、家庭と共に、社会と共に、国家と共に、世界と共に生きてこられなかったその父が、今、逆さまに世界から今日の私まで訪ねてくるのに、どれほど苦労されたでしょうか。 訪ねてきて、私を連れて行かなければならないのです。 訪ねてくるのも大変ですが、連れて行くのも大変なのです。主は歴史的な終末まで追い込んで連れて行くために来られるのです。
皆さんはそれをよく知って、私はこの国の私ではなく、私の家庭はこの国の家庭ではなく、この社会と国、被造物世界は堕落した世界のものではないことを標榜されたイエス様の心情を通して立つことができる新郎新婦、神様に対して自慢できる息子・娘になることをお願いします。
イエス様も、その国家と民族からの迫害に耐えられたとき、ひとり静かな場所を見つけ、天を仰ぎながら父に向かって、ついでに、その試練を乗り越えられました。他にはありません。心情が必要です。食べることを忘れ、着ることを忘れ、人間のなすべての条件を無視して、『父よ、私はあなたの息子、あなたの娘です』と言えなければなりません。そのような息子娘がいるなら、イスラム民族が踏みにじられます、すべてが犠牲となったとしても、心情の世界においてはどの民族よりも天に近い民族となるのです。
そうなると神様が悪い扱いをすることができるでしょうか? どんな親でも、心情を持って接する子、過去と現在と未来を結ぶ心情を持って動く子の前では、親は手を出せないのです。 人間もそうですから、神様は言うまでもないということです。 神様の属性を持たない人間がどこにいるのでしょうか? 神様がそうだから人間もそうなのです。
哀れな境遇にあるこの民族が生きる道を探し、神の心情を探し求めるのです。 そのような場でも「お父様、ありがとうございます」と言えるようにならなければなりません。自由な境遇で天を恨む民族と、困難な境遇でも天に対して「ありがとうございます」と涙を流す民族とは、天地の違いでしょう。
今、神様と私たちは父子関係であり、今日、私たちがどんなに苦労し、どんなに辛くても、どんな迫害を受け、どんな困難な環境が私を妨げても、6千年の間、そのようなことを経験してきた父の聖像には比べ物になりません。 ですから、皆さんが御旨のために仕事をして傷を負ったとしても、それを見て泣く者になるのではなく、私よりもっと大きな傷を負っている父を慰めなければなりません。 自分の傷を忘れて、傷ついた私を訪ねてきて涙を流される父です。それは、黄空であり、滅茶苦茶なことです。
今、私たちは何かをしなければなりません。 この民族の民族精神が希薄になってきています。 この民族は天倫の前に何を出すのか? 今日、この世界、この時代に提示する内容が何もありません。この民族は、天倫の前に何を提示するのでしょうか。 今日、この世界、この時代に提示する内容を持っていません。 今日まで触れていないのは何でしょうか。 神様の心情のためです。 では、この心情の世界を深く感じる者はどのような者でしょうか。 困難な場面に参加する者です。困難な席で我慢しながら父を呼ぶ者です。歴史的な悲しみを背負って来られた父を身近に接することができる条件を持たなければならないということを知らなければなりません。
だからこそ、このような困難な環境に置かれているのです。考えてみれば、私たちの民族は哀れむ必要はありません。 天がおらなければ哀れなのですが、天がおられるとすれば哀れなことはありません。 6千年の歴史の歩みの中で最も哀れなこの民族ですが、その心は天のことを考えたならば、どの民族よりも父に骨に染みるような刺激を与えたことでしょう。
この民族に豊かな縁を築くことができる動きがあるとすれば、これによって新しい世界は展開されるでしょう。 天が私たちの前にそのような道を鉄石のように約束してくださっており、イエス様もその内容を私たちに諭すことが最高の目的だとすれば、私たちの民族を無視してどこへ、どこへ行くのでしょうか。 私たちはこのような信念を持って出発しなければなりません。
神はアメリカだけの神でもなく、イギリスだけの神でもなく、民主主義陣営だけの神でもありません。 宇宙の神であり、私たちの神であり、私の神です。
天は、歴史的な父の心情世界に参加して、その価値を歌える信徒、そのような神父が恋しいということです。 そんな者は億万金を与えても買えないものです。 地を与えても買えないし、天を与えても変えられないのです。 イエス様も、そのような命は宇宙よりも大きいと言われました。
皆さん、ありがとうございます、ありがたいことに、天は金持ちの縁の御言葉を私たちに提示してくださったのですが、私はどの程度まで父に孝行したか、どの程度孝行者になったかということです。 個人的には孝行者として、国や民族的には忠臣の気概を持って天に接しなければなりません。 そうでしょう? 東洋の三綱五倫のようなものはすべて理にかなっているということです。 それを教えるためなのです。天に対する忠孝も同じことです。同じです。親に孝行できない者は、天の前に孝子にはなれません。 国に対する忠臣の切開を持てない者は、到底天の前に忠臣にはなれないのです。 天の前でも、この世界も同じです。心情の世界も内容が違うだけで、同じです。
統一教会の皆さん! 私たちは教派が問題ではありません。 私たちの看板が問題ではありません。 この神殿や家が問題ではありません。 人が問題です。 ただの人が問題ではなく、心情を持った人が問題です。世界に27億の人間がいるとしても、皆さんの心情を引き寄せる人は一人しかいないのです。 そうでしょう? 神様も同じです。今も天上のすべてを動かし、大宇宙と被造物世界全体を動かしておられる神様が望まれるその第一は何でしょうか? 多くの人よりも、自分の心情をすべて捧げて、すべてを忘れて眠りにつくことができるような一人を望まれています。 そうではないでしょうか? 多くの人よりも、そのような一人、そのような一人を夢見ておられたのです。
それで4千年ぶりに送られた方がイエス様でした。 今、6千年の歴史を経過して、そのイエス様に代わる方を送るのが再臨理想です。
探していた父を懐かしんで父と呼べる息子と娘はどこへ行ったのか? そのような息子と娘を探す日が願いの日であり、解怨の日です。 その日を宗教の名詞を借りて言えば、子羊の晩餐の日といいます。
では、真のクリスチャンはどのような人でしょうか。 楽しくて踊る人ではありません。 神様を気にかけて祈る人でしょう。 自分を気にかけて祈る人ではなく、神様を気にかけて祈る人です。自分が花嫁になれないことを心配する者ではなく、新郎であるイエス様が喜べないことを心配する者です。 私を天国に送ってください」と祈るよりも、「父よ、あなたの恨みを晴らしてください」と祈る者です。天国で私の価値を認めてほしいということではなく、「私が今死んでも、父の価値が地上で認められますように」と祈る者です。
今日、信じている信仰観を覆さなければなりません。根本的にひっくり返さなければなりません。 私が信じて天国に行くというのは、天国に行って何をするつもりですか? 天国に行ってまた盗みをするつもりですか? それは天の本質を失って喜ぶことです。 与えようとすることが本質になっています。愛の本質がそのようなものであることを堕落した属性も感じることができます。 受けるために喘ぐ群衆には死の穴が待っており、与えるために奮闘する群衆には生命の復活権が待っているのです。 30年余りの生涯の間、与えるために奮闘して行かれた方がイエス様でした。 3年間の共生の間、与えるために奮闘し、最後には自分の体まで与えて行かれたイエス様でした。 与えるために、失うために喘いでいた王子がメシヤであったことを知らなければなりません。
彼の後を追う私たち、今日の生活において、父の恨みを解怨するためにどれほど犠牲になったかを反省しなければなりません。 そのような人がいるとすれば、彼は天国や地獄の観念がない人でしょう。 地獄に行ったらどうしよう、天国に行ったらどうしよう」と言うことでしょう。 そのような人を天が復活させるとき、サタンも「正しいです」と言うしかないでしょう。 ここで歴史的な生命の基準が立てられることを知らなければなりません。
今日、統一聖徒である皆さんが悲しみに打ちひしがれているお父様を慰めるためにはどうすればよいかというと、聖書の御言葉も必要です。師匠も必要ですが、私は皆さんがどのような師匠を見つめて出て行くことを望みません。 その師匠を仲裁者として、父の心情と結びつけることができる皆さんになることを願っています。民族のために祈るなら、心情的に訴える皆さんになり、天の心情を紹介するために奮闘し、祭物となることができる皆さんになれば、天は皆さんを見捨てないでしょう。 天は私たちを見捨てないでしょう。
皆さんが天を考える時、天は万物の主人公ですが、その主人公の行事を一度でもしたことがありますか? 愛の主体として、人間に対して「私はあなたを愛している」と言ったことがありますか? できませんでした。すべてを持つことができる自由な立場でも、人間に対して「お前は私のものだ」と言い、好き勝手に取ってみたことがない神様です。 また、神様はこの地上に人類がたくさん住んでいますが、あるいは4千年の間準備したイスラエル民族がいましたが、彼らを一度も御自分の息子・娘、あるいはサタンを打ち負かすことができる勇者として立ててみたことがありません。
今日、民主主義陣営にイエス様を信じているキリスト教信者がたくさんいますが、天は彼らをサタンに対する総進撃命令をすることができる総司令官として立てられず、イエス様を立てて天使の世界を命令させ、地上との関係を結ぼうとされましたが、そうできなかったのです。 地上の人間に花嫁の理念を与え、花嫁を探し求めましたが、花嫁だとサタンの前に自慢できる一人に出会えなかった神様です。 そのような神様の前に、私たちはとても残念です。
世間では、統一教会のどなたかは異端者の怪物と言われていますが、「どうか異端者を解明して、あなた方が祝福されますように」という気持ちだけです。言い訳も解明も望みません。 それをめぐって争う時ではありません。 私が生きるのに忙しい時であり、私が父の前に認められる段階までどう行くかが急務の時です。
皆さん、私たちは同じように哀れな者たちです。死んでも一緒に死のうと父を呼びながら誓った時もありました。 涙を流しながら父を呼んだ時もありました。私たちはこの民族を代表してこのような立場に立たなければならず、哀れな時もあったでしょうが、父が残された道ですから行かなければなりません。 この歴史的な悲しみを感じることができれば、感謝し、感謝することです。 先祖の血の涙の痕跡を感じることができ、その悲しい谷間を埋め合わせることに参加することは、哀れなことです。 この身体が引き裂かれようが、惨めであろうが、どこへ行って倒れようが、哀れなことがない私たちです。 このような心情の道を再び探さなければならない終末のキリスト教信者であることを知らなければなりません。
異端と言われても構いませんし、どんな濡れ衣を着せられても構いません。 それが天国理念を解明する私にとって何の障害にもなりません。私は今日、皆さんに心情を分かち合い、心情に同化してひざまずき、心情で語り、心情で泣くことができるそのような集まりがあれば、天は必ず歴史と共にその集まりの群れを導いてくださるということを申し上げたいと思います。
イエス様に対するマグダラのマリアの信仰
一介の売春婦に過ぎないマグダラのマリアが膝をついて3百デナリオンもの香油をイエス様の足に注ぎ、彼女の髪の毛で足を洗うのを見て、ユダヤ人ユダが叱責した時、イエス様はマリアを擁護されました。サリーを通してのマリアではありませんでした。死ななければならないイエス様の心情を心配し、嘆き悲しみ、憤慨された神様の心情の一端がマリアに現れたので、イエス様は福音の御言葉が宣べ伝えられる所々にその名前が残ることを例示されたのです。
マグダラのマリアが墓から復活したイエス様を見て抱きしめようとしたが、復活したこと自体を汚損することを心配して阻止したイエス様です。自分を迎えて喜ぶより、父を迎えて喜ぶ、自分に対して喜ぶ前に父を迎えて喜ぶ、人類が再び再生できる希望があることを見据えて喜んだ後、自分に対して喜んで迎えてほしいという心情を持っていたため、彼女を止めたということです。 そのような悔しい心情を抱いて行き来した初々しいイエス様が、今日私たちが信じているイエス様であることが悲しいことです。悲しいことです。
今日、私たちは世界中のクリスチャンにこれを伝えなければなりません。 歴史が高めてくれたイエスの名詞を呼んで自分の信仰を自慢する人ではなく、歴史に踏まれ、歴史に押されながらもイエスを自慢できる、カルバリー山頂でイエスを探し求めた女性のような人が必要だということです。 イエスを知らずに自分の行く道を探して引き返した十二人の弟子よりも、むしろマグダラのマリアのような人が必要だということです。
皆さん、イエス様を信じながら神様を泣かせた事実がありますか? イエス様を泣かせた時がありましたか? 来なさい、私が行った道をあなたが来るためにどれほど苦労したのか」「来なさい、淋しい私を訪ねて来るためにどれほど苦労したのか、あなたは何者なのか」と抱きしめながら嘆き悲しんでおられる父を抱きしめ、何者なのか、と泣かれたイエス様の手を握ったことがありますか? ないなら、大声を出さないでください。 大声を出さないでくださいということです。
むしろ嘲笑され、排斥された人々が天国世界の王子になるのです。天国世界の王女になるのです。 すべてを失っても、父の御心と父の心情を懐かしむべきです。 それを描いて生活を解明し、教会を解明し、社会を解明する皆さんになるなら、いくら皆さんが地獄に行くと言っても、神様は皆さんを地獄に送らないということです。 そのような人は、天が引き寄せます。
今日の御言葉のタイトルは「父と私」と言いましたが、あえて父という名詞を呼ぶことさえも畏れ多いことです。私たちは父と言うことさえも、「父よ、私のようなものがどうして父と言うことができるのか」という心を持たなければならないのです。他の言葉は必要ありません。 心と体が同調して切ない心情で「お父様」と言うようになった時、そこで宇宙の所有権が決定されて入るということです。 天はそのような統一信徒を待っておられます。
皆さん、若い師匠の後を追うのもいいですが、すべて過ぎ去ります。 私が死ぬ限り、消える限りがあっても、皆さんに残したいのは、民族を超え、人類を超え、世界を超え、天の心情を抱いて慟哭できる姿になることです。 私はその姿を楽しみにしながら死にたいと思います。 このような姿から、天宙と地獄圏まで管轄する権限が与えられるということを皆さんは知らなければなりません。
それでは、私たちは今、父上を自慢しなければなりません。 どのような父上か、歴史的な苦労をされた父上、この父上を紹介することができなければなりません。 父上を自慢することができなければなりません。 この時代を握って戦われた父上を紹介することができなければなりません。 私たちを待ち望み、戦わなければならなかった父上を紹介しなければならないということです。 しかし、これを知らせるのに、心情を土台にしなければ、妄想と妄執になります。
私たちは父を高めなければなりません。 心情を通して歴史的な父を、心情を通して時代的な父を、心情を通して未来的な父を、心情を通して未来的な父を高めなければなりません。 そして、「父よ! 父の御意志はこうではないですか? 父の御意志が私の御意志なのです」と祈るのです。血のつながりを忘れない親と同じように、私たちを訪ねてきた父、その父は私の父です」と言えるようにしなければなりません。
天は6千年の間、私と一緒に暮らすことを待ち望んでおられました。 しかし、その前に敵であるサタンが「このサタンよ、お前はこの天と地の間に足を踏み入れるところがない」と号令できる心情の主人公、「サタンよ、悪の勢力よ! 我が父の姿を見よ」と号令する時、サタンが頭を下げて「正しいです。永遠に永遠に貴方の言うことが正しいのです」と認められ、天の愛の心情を通じることができる主人公、天はそのような花嫁が恋しいということです。 そうではないでしょうか?
イエス様の肉体は殺されましたが、心情は殺されませんでした。 イエス様の肉体はサタンの侵略を受けましたが、心情の世界は侵略されませんでした。 ですから、天は花嫁という名詞を与えられ、心情の世界の忠誠心を備えた花嫁を探しています。 ですから、皆さんはそのような花嫁の心で父を呼ぶことができ、主を呼ぶことができなければなりません。
そして歴代の預言者たちがこのような御旨を立てるために苦労し、直系の息子・娘として立てるために、豊かな縁を結ぶために、天地が苦労されたことに感謝しなければなりません。 さらに、先祖の前で、数多くの霊人たちの前で、サタンの前で申し訳ないという挨拶をし、この地を守れる主人公にならなければなりません。 そうして初めて、神の息子・娘になることができます。神様は、そのような息子・娘から「お父さん」という言葉を聞きたがっておられます。皆さんもそうではないでしょうか? 神様が本当に愛する息子・娘がいるとしたら、そのような息子・娘に対して肉の父が「誰でもいいから、お前は私の息子・娘だ」と言ったら、神様は嫌うということです。 どの国の人という言葉も聞きたくないということです。 彼らは私の息子・娘であり、私の国の民だ。 韓国の民だ、アメリカの民だ、という言葉も聞きたくないということです。 そのようなことは、天の国の理念を抱いておられる神様の前では可笑しい言葉だということです。 天はそのような場で私たちを探しておられます。
それでは、今まで私と共に、家庭と共に、社会と共に、国家と共に、世界と共に生きてこられなかったその父が、今、逆さまに世界から今日の私まで訪ねてくるのに、どれほど苦労されたでしょうか。 訪ねてきて、私を連れて行かなければならないのです。 訪ねてくるのも大変ですが、連れて行くのも大変なのです。主は歴史的な終末まで追い込んで連れて行くために来られるのです。
皆さんはそれをよく知って、私はこの国の私ではなく、私の家庭はこの国の家庭ではなく、この社会と国、被造物世界は堕落した世界のものではないことを標榜されたイエス様の心情を通して立つことができる新郎新婦、神様に対して自慢できる息子・娘になることをお願いします。