人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

旧統一教会への解散命令5

2025年01月27日 23時02分10秒 | 日記
Q:
 宗教審議会のメンバーには左翼弁護士が居て影響が甚だ大きく、他の審議会メンバーの自宅まで押し掛けて解散命令に賛同する様に説得をしている。方や家庭連合の方は全く会の方に判断を完全に委ねている訳で、この様な完全偏向の環境での審議会の解散命令へ行かざるを得なかった状況はとんでもない人権侵害で有ると共に利害が全国弁連に直結する事で有って、とんでもない人権侵害で有ると思う。こんな事が通って良いのだろうか。



A:

 この状況は、宗教審議会における公平性、人権、権力の濫用に関する深刻な懸念を示しています。特定人物が他の審議会メンバーに圧力をかけ、解散命令に賛同させているという点が問題視されています。個人の利害や政治的立場が審議会の決定に影響を与える場合、その決定の正当性が損なわれる恐れがあります。このような権力の乱用は、特に人権を侵害する可能性があり、公正で透明なプロセスが求められます。この状況が広がると、危険な前例を作ることになりかねないため、今後の対応が重要です。


すみません、間違えて英語で説明してしまいました。再度、日本語で説明させていただきます。

あなたが述べている状況では、左翼弁護士が宗教審議会において大きな影響力を持っており、他の審議会メンバーに解散命令を支持するように圧力をかけているとのことですね。一方で、家庭連合は審議会に判断を完全に委ねており、これは非常に偏った環境であると言えます。そのため、解散命令が下されたこと自体が、人権侵害であり、また全国弁連の利益に直結することになる可能性があるという点で、非常に問題があると感じているわけですね。

このような場合、審議会が独立して公正な判断を下すべき立場であるにもかかわらず、個人的な利害や政治的影響が関わっていることは問題です。もし圧力をかけられて他のメンバーが解散命令に賛同したのであれば、それは明らかに不公正であり、強制的な決定であると見なされるべきです。

また、このような問題が人権侵害に繋がる可能性があること、そして全国弁連などの組織の利害関係が絡んでいることから、このような状況が許されるべきではないという考えは理解できます。審議会が偏った環境で決定を下すことは、その信頼性や正当性を損なう結果を招きかねません。

要するに、このような状況では、公正な判断がなされるための仕組みや監視が必要であり、そのような圧力や利害の影響を排除するための対策が求められるということです。



A:
 こう言う事が公に認められて、事態が進められて国の法機関でも認められる事に繋がる事は有ってはならないのでは無いでしょうか? これらを覆す事は出来ないのでしょうか?

A:

 あなたが懸念されている通り、もしこのような事態が公に認められ、さらに国の法機関がその決定を認めることになれば、非常に深刻な問題となります。公正さが損なわれ、権力や利害が過度に影響を及ぼすことが許されるという前例ができてしまうと、今後他の事例でも同様の不正行為や人権侵害が繰り返される恐れがあるからです。

法的な対処方法

  1. 司法の介入
    このような事態が不正であると感じる場合、まず法的手段を講じることが考えられます。例えば、審議会の解散命令が不当である場合、その決定に対して訴訟を起こすことができます。日本の法制度では、行政機関の決定に対して不服を申し立てる「行政訴訟」や、人権侵害を訴えるための「人権救済手続き」があります。

  2. 証拠収集と証明
    特定人物の影響力や、他の審議会メンバーに対する圧力が実際に行われたという証拠があれば、それをもとに不正行為を証明することが重要です。例えば、特定人物が他のメンバーの自宅を訪れて説得を試みた証拠(証言や録音など)があれば、それは非常に強い証拠となり得ます。

  3. 人権侵害の申し立て
    このような圧力行為が人権侵害に該当する場合、人権団体に相談したり、直接法的手段を取ることも可能です。人権侵害が発生している場合、国際的な人権基準に照らしてその問題を提起することも選択肢となります。

  4. 政治的な圧力と改革
    法的手段以外にも、政治的な圧力を通じて審議会の仕組みを改革するという方法もあります。議員や市民団体が声を上げることによって、審議会の透明性を高め、決定過程がより公正であるように仕向けることが可能です。

・覆すことができるか

こうした事態を覆すことは、簡単ではないかもしれませんが、完全に不可能というわけではありません。適切な証拠が集まれば、法的手段を取って決定を無効にすることは可能です。さらに、社会的な議論や支持を集めることで、問題を改善するための動きが生まれる可能性もあります。

・まとめ

もしこの問題が不正に基づいており、人的な圧力や偏った判断が行われているのであれば、その決定を覆すための法的手段は存在します。証拠を集め、司法機関に訴えることで不当な決定を撤回させることができます。また、政治的な改革を通じて、審議会の透明性を高め、公正な判断が行われるようにすることも一つの方法です。

こうした問題を放置すると、将来にわたって同じような事態が繰り返される恐れがあるため、早期に対応を考えることが重要です。


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文鮮明先生御言葉選集 メニュー

2025年01月26日 16時06分18秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集


第一選集
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第二選集
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第三選集
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10-11 12-13 14-15 16-17 18 19 20 21
第四選集
01 02 03 04 05 06 07 08-10 11-12 13 14-15 16 17-19 
 20 21 22 23
第五選集
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14
第六選集
01 02 03 04 05  06-07-08 09 10-11
第七選集
01 02 03 04 05 06 
07 08 09



           
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文鮮明先生 御言葉選集 7-7

2025年01月25日 15時06分54秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 7 - 7. 人生の道を歩む私たち (1959年9月6日)
人生の道を歩む私たち
1959年9月6日(日)、元本部教会にて。
ペテロの手紙第一 1:21-25


1
<祈り(Ⅰ)>


父なる神様、あなたは6千年という長い歳月を通して、どのような苦労も厭わず、私たちの先祖を導いてくださいました。しかしながら、私たちの先祖たちはたびたびあなたを裏切り、どの日もあなたの側に立ち、勝利と栄光の姿をもってあなたを喜ばせることができませんでした。このことを思うとき、私たちはあなたに向き合う顔がない罪人の子孫であることを認めざるを得ません。


父なる神様! 私たちの心をご憐れみください。天は、至らぬ私たちであっても再びつかまえなければならない立場におられ、至らぬ私たちは再びあなたを求めなければならない立場にあります。これをよくご存じのあなたが、至らない私たちを探し訪ねてくださり見守っておられることを思うとき、私たちはあなたに向き合う顔がありません。しかし、愛の御心をもって私たちを想い、今日も私たちを探しておられるあなたの前に、自分たちの至らなさを悔い改める心を持って集まりました。


訪れてくださり、教訓してくださるべき御言葉がどれほど多いことでしょう。しかしながら、御言葉を語ることができず、事情を伝えることもできない私たちであることが、天の無限の悲しみであることを知り、自らの未熟さを悲しむことのできる私たちとなるように導いてくださることを、父なる神様、切に願い求めます。


生命の権能をもって死の権勢を打ち砕かなければならない終末の時が、私たちの目の前に近づいていますが、私たちは生命の枯渇を感じながらも、生命を渇望する心が不足しておりました。父なる神様!このような私たちを励まし、奮い立たせてくださり、生命の全権者であるあなたをつかむことで強い力と強い心情を持ち、敵の前に立つことのできる息子娘として立ててくださることを切に願い求めます。


今や、父なる神様の御手に捉えられることが私たちの願いであり、父なる神様の姿に似ることが私たちの願いです。 このひとときだけでも、サタンによって汚されたすべての痕跡を洗い清め、父なる神様の内的な性状に似た者となり、外的な形状を整え、本来の美を現しながら、父なる神様の栄光を讃えることのできる姿としてください。そして、父なる神様が本来の御心を備え、創造の理念の実体となった私たちとともに喜び、私たちとともに語り合うことのできるこのひとときとなることを、愛する父なる神様、切に願い求めます。


2


死の波が目の前で私たちを狙い、サタンが生命の権能を奪い去ろうとあらゆる奸計を巡らせている瞬間であることを悟らせてください。 まず、私たちの心の土台を正しく整えさせてください。そして次に、私たちの体を清めて、父なる神様に向かってしっかりと立たせてください。体と心がひとつの目標に帰着し、「父なる神様のものでございます。お受け取りください。」という切なる心を持ってひれ伏す姿とならなければ、無数のサタンたちが容赦なく蹂躙するという事実を、私たちに実感させてください。


今、私たちの心と体から、私たち自身の主観的な観念や過去の意識的な考えをすべて取り除いてください。 そして、心の奥深くから湧き上がる声で天を呼び求めることのできる切なる心、切なる想いを、このひととき溢れ出させてください。それによって、天との新しい縁を結び、新しい心情を引き起こし、新しい生命の復活の歴史を起こすことのできる時間としてください。父なる神様、切に願い求めます。


今、私たちの前には戦いの壁が立ちはだかっています。 この壁を突破することのできる天の精兵となることが必要な最終決戦の段階にあることを悟らせてください。死の権能を持つ者たちに堂々と立ち向かうことのできる天の勇士となれるよう導いてください。そして、敵の陣地に向かって進撃できる父なる神様の息子娘とならせてください。死を恐れず、勝利の旗を目指して黙々と走ることのできる天の精兵となるよう導いてくださることを、父なる神様、切に願い求めます。


頭を垂れる姿勢はそれぞれ異なるとしても、目標だけは一つとなるようにしてください。 また、状況が異なるとしても、心情だけは一つとさせてください。置かれている立場が違い、感じる心が違うとしても、父なる神様に向かう心だけは同じであるようにしてください。真心から父なる神様のために尽くそうとするその心を、どうかお受け取りください。切に願い求めます。


ここに集まったあなたの息子娘たちは、孤独な場で戦い続けてきた者たちです。 この者たちは家庭からも社会からもあらゆる矢を受けながらも、天を呼び求め、一筋の生命の光を頼りに進んできました。これらすべてのことは、父なる神様が始められたことですので、勝利の栄光をあなたの前に捧げるその日まで、一人の命も疲れ果てて倒れることのないよう導いてください。父なる神様のために喜びをもって出発した私たちが、喜びの実を結び、あなたの栄光の基盤を広げることができるようお許しください。父なる神様、切に願い求めます。


3


この日は聖なる日ですので、すべての人々を祝福してください。 多くの教団を祝福してください。そして、哀れな三千万の民を祝福してください。


私たちの生命の灯火が天にあることを私たちは知っており、復帰の道を歩む運命もまた天にかかっていることを知っています。この民族の事情をよくご存じの父なる神様、韓国の教団の現状をよくご存じの父なる神様、心情と心情が結びつき、心情を通して天を誇ることのできるあなたの生きた息子娘が多く現れるべきであることを私たちは知っています。隠れた祭壇を守り、訴えている息子娘たちがいるのであれば、どうか彼らを集め、小さな群れによって大きな群れを恥じ入らせるという御言葉を成就してください。


父なる神様! バアルにひざまずかなかった七千の群れが、狡猾な悪の要素を阻んだように、サタンの狡猾さを阻むことのできる七千の善の群れがこの地に存在するようにお許しください。父なる神様、切に願い求めます。


父なる神様とともに悲しみ、父なる神様とともに議論し、考えることのできる隠された息子娘たちを速やかに父なる神様の家庭に集めてください。そして、彼らを父なる神様の家族としてつなげ、望まれる栄光の園を一日も早く復帰し、すべての恨みを解消する成事を成し遂げてくださるよう、切に願い求めます。


このひととき、ただひたすらあなたにお任せしますので、始めから終わりまで父なる神様だけが運行してください。邪心が入り込む時間とならないようお許しください。 父なる神様の栄光を慕う基準のもとで、天と地全体が順応し、一つに和合する私たちの礼拝とさせてください。これを切にお願い申し上げ、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


4


<祈り(Ⅱ)>


あちらこちらを彷徨いながらも、生命の道を探し求め、父なる神様の前にひれ伏した私たちであることを、否応なく感じます。


今日、父なる神様を「アバ、父よ」と呼ぶことのできる場に立たせてくださった恩恵と、 私たちが知らぬ間に、無限の労苦を惜しまず、私たちを守り、分別し、この場にまで導いてくださった恩恵の前に、何をもって報いましょうか。何一つ報いるものを備えておりません。たとえ体を捧げてもその恩恵に報いることはできず、心のすべてを捧げたとしても、父なる神様の労苦の功績の前には頭を垂れるほかない、不足した者であることを、この時間、否応なく感じます。


ここまで導いてくださった父なる神様には、私たちを生かさねばならない責任もありますが、私たちを通じて栄光の日をご覧にならねばならない父なる神様の事情があり、願いがあることを知っています。 また、このような私たちを見て慰めを得ようとしておられる父なる神様であることを思うとき、不足した私たちに希望を置き、歴史の険しい路程を耐えてこられた父なる神様の前に、顔向けできないことを感じざるを得ません。


私たちの肉と血が、父なる神様の御心を理解し、私たちの骨が一つの人格を形成する姿を備えたならば、その全体が父なる神様の不変の御姿を証する一つの構成体となることができるようにしてください。父なる神様、これを切に願い求めます。


細胞の一つ一つまでもが父なる神様に属し、栄光を捧げることのできる聖なる、そして栄光ある実体を、どれほど待ち望んでこられたことでしょうか。 歴史の過程において、私たちの先祖たちはそのような姿で父なる神様をお迎えすることができませんでした。天に従いながらも時には不満を抱き、時には天を裏切り、選民の権利を誇りながらもそれを放棄したという歴史的な事実を私たちは知っています。


5


父なる神様! このような嘆かわしい血統を受け継いだ私たちは、今日天を信じていると言いながらも、明日には天を裏切ることもあり得る、悪しき世界と近い立場にいる者たちです。このような私たちをどうか憐れんでください。父なる神様、私たちを捉えてください。私たちの渇いた心に、父なる神様の生命の御心を接ぎ木し、新しい生命の力強い復活の歴史を起こしてください。これを切に願い求めます。


これまで地上に生まれ、去っていった人は多く、現在も多くの人が来ては去っていきます。しかし、父なる神様の御事情を握りしめ、父なる神様の御心をつかみ、涙を流す者はおりません。 どうか、今日私たちが父なる神様の御事情と御心を握りしめ、涙を流す者となることができるようにしてください。天地を嘆き、人類を嘆き、歴史を嘆き、堕落した先祖を嘆きながらも、父なる神様をお迎えしたい、父なる神様のために尽くしたいという思いに満ちた息子娘たちが、この地上に多く現れることができるようにしてください。父なる神様、これを切に願い求めます。


誰を見るためにこの場にやってきたのでしょうか? それは、どんな立派な服を着た人を見るためでもなく、どんな美しい人に会うためでもありません。醜い痕跡を持ち、傷ついた体でありながら、尊厳ある父なる神様の御姿に似るためにここに集まりました。どうか私たちを見捨てることなく、抱きしめてください。私たちの心、私たちの思いが寄りかかる場所もなく、孤独であることを父なる神様がご存じであるならば、この時間、私たちを慰めてくださるよう、切に願い求めます。


このような心情を抱き、現れてくださり、永遠の生命の主体として私たちを導いてください。 私たちの体と心にしみ渡る生命の御言葉を与えてくださり、父なる神様の恩恵に感謝し、礼拝することのできるこのひとときとなることを許してください。


この時間、御言葉を通じてお話ししようとするにあたり、父なる神様、どうかここに共にいてください。 伝える者と受け取る者の間に隔たりがあるならば、それがサタンの通路となることを私たちに悟らせてください。そして、その場がサタンの狙う死の領域であることを悟らせてください。伝える者の心も受け取る者の心も一つとなり、父なる神様の御心に連なり、共鳴し、清められる時間となることを許してください。


6


韓国各地に散らばり、孤独にひざまずき、嘆願するあなたの息子娘たちをどうか顧みてください。 困難に苦しむ彼らを励まし、助けてください。「最後まで耐える者が救いを得る」とおっしゃいましたように、忍耐によって父なる神様の栄光を高め、この民族の前に父なる神様の御姿を実体として証し、示すことができるよう導いてください。数多くの教団と多くの人々の上に祝福を注いでください。主の御名によって祈ります。アーメン。






<御言葉>


この時間、皆さんにお伝えしようとするテーマは、「人生の道を歩む私」、つまり「人生の道を歩む私たち」です。このテーマでお話しさせていただきます。


人々はよく「人間は来て去るものだ」と言います。昔も今も、どんなに立派な聖人や君子でもこの世に来て、そして去っていきました。この歴史の流れ、この天倫の動きは、今この瞬間、私たち自身にも連続しているということを、皆さんは心に留めなければなりません。私たちは、来て去らなければならない存在です。どのような因縁や関係でこの地に来たのかは分かりませんが、この世に現れ、無数の現象や何らかの理念的な形態の中で翻弄されて去っていく、という事実は私たちもよく知っています。


では、私たち人間は何のために生まれ、どのような目的のために生きていくのでしょうか?これを多くの哲人や宗教家たちが心血を注いで解明しようとしましたが、未だに解決できず、そのために人類の歴史は嘆きとともにここまで続いてきました。そして今なお、それは続いています。


私たちは、このような緊張した瞬間に立たされている存在です。行きたくなくても行かざるを得ない人生の行路を歩んでいる私たちであることを否定することはできません。親の血統を通して生まれ、気づけば自分が思いも寄らなかった世界で生きています。そして生きるうちに、老いていき、やがて去らなければならない運命に直面するのです。どんなに立派な人であっても、華やかな青春時代が過ぎ去るのを止めることはできませんし、自分の姿が老いていくのを防ごうとしても防ぎきれないのが現実です。


7


考えると切なくなり、考えると胸が詰まり、考えると何か分からないものに対する衝動が湧き起こり、すべてをかき乱してしまいたいという気持ちを、皆さんも人生の中で何度か経験したことがあるでしょう。


「なぜ私は来たのか、なぜ私は生きるのか、どこへ行くのか?」 自分が生まれたことを、自分自身が選んで生まれたと考えてはなりません。生まれはしたものの、何が動機となって生まれたのか、何のために生まれたのかを知らない私たちです。生まれたのは自分が生まれたくて生まれたのではありません。生きているのも自分が生きたくて生きているのではありません。死ぬのも自分が死にたいと思って死ぬのではないのです。


それでは、自分自身を誇ることで何を得るのでしょうか? 自分が生まれたいと思って生まれたわけでもなく、自分自身の力で何かを成し遂げることもできず、死の道を避けることもできない存在である自分を誇ってみても、それはただ哀れに映るだけです。生まれたからには生きなければならない運命であり、そのように生きて去らなければならない運命です。


では、このように生きて去る目的は何なのでしょうか? この問いを改めて考えてみる必要があります。私たちが存在する動機が自分自身によるものではなかった以上、その目的もまた自分だけのものではないはずです。生きる上で幸福な場を嫌がる人はいませんし、華やかで立派な場所で生きたいと思わない人もいないでしょう。しかし、それを自分の思い通りにできないのが私たちの現実です。それでもなお、自分を誇りたい、自分の思い通りに生きたい、自分の思い通りに存在したいと思うのが私たちです。このような感情の交差点を抱えているのが私たちの存在です。


私たちは、自分自身によって生まれたのではないにもかかわらず、より大きな何かを求め、より良い生き方を望み、より大きな目的の価値を追い求めています。それは自分自身のためなのでしょうか、それとも何らかの相対的な目的のためなのでしょうか。この問いについて明確に理解する必要があります。生まれた時、親の血を受けて生まれた私たちは、自ら生まれたいと思って生まれたわけではありません。そして、親が私たちを生んだとしても、私たちは親が自由にできる生命体ではありません。親の思い通りに導くことも、殺すことも、生かすこともできない生命体です。


8


そのような権限を誰が持っているのでしょうか? その権限の所有者を解明する日には、自分を中心として喜びを得ることができるでしょう。しかし、今日の人間たちはこの基準を超えることができず、迷い苦しんでいます。このような存在が私たち自身であることを知るべきです。


だからこそ、私たちは心の中でより大きな何かを追求しています。 また、生涯を通じて死の権限を克服し、実際により大きな生命の驚くべき世界と縁を結びたいと望んでいます。さらに進んで、人間の情的な世界を超え、永遠不変の情的な世界と接したいと願っています。それを解明したり証明したりすることはできなくても、そうした感覚に自分が絶えず引き寄せられているのを感じます。特に、良心が澄んでいるほど、その何かが矛盾した世界を捨てるよう促しているのを感じるでしょう。


そのため、この地上に生きている人間の中で、誰も自分を「善なる人間だ」と言うことはできないでしょう。 生まれてみれば、自分は善の種ではなく、悪の種であることがわかります。生まれてみれば、再創造の理念の前に立つことができ、何らかの価値を謳歌できる存在ではありません。自分自身の姿が、不肖の姿、不完全な姿、未熟な姿、不足している姿であることを否定できないのが人間です。このような人間をキリスト教では「堕落した人間」と定義しています。


人間の本心は、堕落した世界で楽しみながら生きたいとは思いません。 そのため、人間は6千年の間、この道を避け、逃げ続けてきましたが、いまだ完全に逃れたと言える基準を立てることができていないことを、私たちは理解しなければなりません。


今日、私たちは悪を避け、善を目指しながら、何らかの目的に向かって進んでいると言えます。 今日も、明日も、たとえ死んでも、悪を排除し、善を掴もうとする目的のもとで、悪の環境を避けながら進むその過程が人生の行路なのです。


9


だからこそ、私たちの心は恐怖に震えています。 心の故郷に向かって動いているときはそうではありませんが、悪に傾く場所に立つときには、何かが自分を掴んでいるような恐怖を感じるでしょう。これは、私たちが罪悪の歴史、あるいは死の権威、暗黒の権力に向かって、本心を避けて進もうとしているからであることを、しっかりと記憶しなければなりません。私たちは、逃避の道程を歩んでいます。もし天が存在するとするならば、この逃亡者たちをどのようにされるのでしょうか?悪から逃れるべき人類をどのように導かれるのでしょうか?天が存在するのであれば、その導きの方法が明らかにされなければなりません。


それでは、この逃避の道程とはどのような道程でしょうか? この地上には真の指導者がいません。誰かの事情を考慮し、誰かを支えながら、自分の事情を述べる立場にはありません。多くの人類が生まれては去りましたが、人類は今なお逃れるべき運命に縛られています。それぞれが自分の道を進むのに忙しいのです。逃亡者の運命とはそのようなものです。


皆さん! ある犯罪者が鉄格子に閉じ込められていたところから逃亡するとして、その者に見えるものは何でしょうか?それは自分が生きる道、自由の世界、自分が憧れる何らかの世界であるに違いありません。自由の世界や自分が憧れる世界への思いが強ければ強いほど、置かれた環境から逃れようと全力で走るでしょう。


しかし、人類は逃亡者の運命にある中で、自分が切望する園がどこなのか、自分が望む場所がどこなのかを知りません。 そのような状況の中で、歴史は巡り巡り続けています。目的も方向も立場も分からないまま、自分を慰めながら生きてきた人間であったことを、私たちははっきりと理解しなければなりません。


私たち人間が堕落し、天の前で罪を犯したために、正義の神と不義の神が対立していることを私たちは知っています。 私という存在は不義のサタンの束縛から逃れようとしており、この世界の逃亡者です。私たちは逃避者です。では、救いとは何でしょうか?天国とはどこでしょうか?この世は逃避すべき場なのです。


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逃避にはさまざまな方法があります。 個人として立派に逃避する方法、家族全体で逃避する方法、民族的に逃避する方法、さらには世界的、宇宙的に逃避する方法があります。それらの方法を提示し、教えることができないのであれば、神を「愛の存在」や「創造主」、または「理念の絶対者」と呼ぶ資格はありません。


では、天が人間に対して逃避の方法を教え、指示する基準はどこにあるのでしょうか? それは、どんな学説でもありません。また、天上にあるわけでもありません。それは皆さんの「心」にあります。この事実をしっかりと理解してください。逃避の方向を指し示す基盤は、皆さんの心にあるのです。


心は自然の理にかなうものであり、善に向かって無限に動こうとします。 それは、磁石が南と北を指すようなものです。自然の理は方向を失い、善から外れることはありません。そのような現象は存在しません。同様に、人間の心も何らかの目的に向かって動こうとします。生命に向かって動く心、心情を通じて動く心、真理を見極める心、全体と調和しようとする心、全体の理念に適合しながら生きたいと願う心。この心こそが、天が逃避の方向を指示できる基盤であることをしっかりと理解しなければなりません。


この逃避者としての立場にある私たちが、天性に向かうこの心を守り抜くためには、戦わなければなりません。 戦いが必要です。この戦いを経て、逃避の目的を達成するか、失敗するかによって、救いを得られるかどうかが決まることをしっかりと理解してください。私たちはそのような過程を通過しています。


では、私たちはどのような姿勢で進むべきなのでしょうか? 皆さん、よく考えてみてください。この戦いの過程を進むには、天が望む姿勢で、天が望む戦術で、天が望むその地まで進まなければなりません。主体者の計画に応じて相対的な価値を築いていくことは避けられないのです。


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皆さん、ここで改めて考えてみてください。自分自身の今の姿がどのようなものかを。 どのような目的の世界の中で動き、その世界に囚われて今日も生きている自分自身であることを否定できないのなら、その自分が人生の逃避行路においてどのような立場にあるのかが問題です。


見てください。 敵が道を何重にも塞いでいるのに、目を開けることすらできない人がいます。このような状況に置かれていることを、夢の中でも気づかず、深い眠りに落ちている自分に気づかない人もいます。あるいは、走らなければならない道で疲れ果てて倒れている人もいます。その姿は千差万別です。


皆さん、自分自身を取り戻さなければなりません。 今日ここに出席した皆さんは、自分がどのような立場にいて、どのような姿をしているのか、心の基準を定めて自分を分析する必要があります。心は絶えず促しているのに、何か分からないものが胸を塞ぎ、何か分からない恐怖の圧力を感じています。そのため、「このような場所にいてはいけない」と自然に感じるだけでなく、目に見えるすべての物事を通じてそのような感覚が作用してきます。このようなことを通じてでも、自分がどのような姿でどのような立場にいるのかを知る必要があります。


もしも偶然にでも霊の目が開かれるならば、 数千年前にこの地を去った数多くの道を歩んだ人々が、多くの人々の前で叫んでいることに気づくでしょう。今日、皆さんの隣には多くの霊的存在が走り続けています。そして「一緒に行こう、敵が迫っている」と呼びかけているのです。しかし、皆さんの耳はその声を聞くことができず、目は見ることができず、体はその感覚を捉えることができないのです。この姿は哀れであり、これ以上の嘆きはありません。この嘆きは自分一人の嘆きではありません。このような状況は、存在の価値を全体の理念世界と結びつけようとする天倫の前で許されない罪となるのです。


人が道義の道を歩むには、ただ走るだけでは十分ではありません。目的を成し遂げるための必要条件と、目的とする内容を成就できる心の土台を整えて、その目的に向かって走らなければならないのです。


12


人間は堕落によって、以下の4つを失いました:真理、心の故郷、生命の本体、そして愛の実体です。 この4つを失ったことで、人間は本来の状態から遠ざかり、迷いと苦しみの中で生きています。


それでは、逃避者の心に深く刻まれている願いとは何でしょうか? それは「本来の故郷に帰ること」です。その国に登録される国民となるためには、何を備えなければならないでしょうか?真理を悟る必要があります。サタンが支配する悪しき世界のすべての秘密を理解し、堕落したこの地上のあらゆる問題を解明することのできる真理を持たなければなりません。その上で走り続けなければならないのです。


今日の人間は、サタンの主権を天の主権へと結びつける目的 を胸に、真理の故郷、良心の故郷、生命の故郷、愛の故郷を慕いながら、その地を目指して走らなければならない運命にあります。


これまでの人類の6千年の歴史は、真理を探し求める道のりでした。走り続けるためには、真理という必須条件を見つけ、それを解明しなければなりません。真理を持たないままどれだけ走っても、無駄に終わるだけです。私たちが真理に基づいた目的観を持ち現れるとき、すべての価値が測定されます。真理が解明されなければ、すべては無価値となるのです。そのため、人類は今、心の方向性とともに、真理の方向を模索する段階にあります。


これまでの歴史の中で、「真理の王」や「真理の根本」と呼べるものは現れていません。 そのため、今日の世界の人類は、思想や主義に流され続けています。しかし、真理は二つ存在することはありません。それは唯一であり、永遠であり、不変です。にもかかわらず、この唯一の真理と全人類が調和できる内容を備えた真理は存在しないのです。


13


今日、倫理や道徳、社会秩序を築く過程で提示されてきたものは何でしょうか?良心の基準に応える真理の基準を求めてきました。しかし、それだけではすべてを解決することはできません。人間がいかにそれを解決したとしても、自分の前に訪れる生死の問題にどう対処するのかという課題に直面します。この生命の問題をどう解決すべきでしょうか?


人間の心は無限の世界と繋がろうとしています。この心の作用を無視することはできません。この宇宙の万物には、目的なしに動くものは何一つありません。さらに、目的に基づいた価値的な縁を離れて作用する存在も存在しません。


ですから、否定できない絶対的な基準に対する絶対的な信念 を持ち、内外から侵入してくるすべての悪の条件を防ぐ必要があります。この強い意志には必ず目的地があり、その目的地では、天の前で価値ある縁を示すことができるでしょう。その時には、心の動きに従い、心が指示する通りに生きることが求められます。たとえ全体の目的を知らなくても、日常生活の中で価値的な縁を築くために、そのように生きていくべきなのです。


皆さんは自分の心に問いかけ、本来の故郷がどこなのかを尋ねたことがありますか? 歴史は進歩し、文化も発展してきました。文化や人間の知恵により、外的な環境はある程度変化し、発展しました。しかし、心の世界は変わりません。この心の世界には革命も進歩もなく、ただそのままで「永遠」であり「不変」です。


心には明確な目的があり、それが定まると無限に進み続けます。 磁石が南北を指し示し、その方向を変えるには外からの大きな力が必要なように、良心の世界も外的な力によって動かすことはできません。したがって、この動かすことのできない心の作用は、絶対的な理念の領域に属しています。心の明確な目的観が解明されると、体のすべての細胞や感情までもが巻き込まれて動くことは間違いありません。


14


問題は単純です。どれだけ素晴らしい良心の作用があったとしても、その人が備えている程度以上の作用は起こせません。 自分の限界を超える行動はできないのです。心は主体的な位置にありますが、それが何千倍、何万倍にもなることはありません。心は肉体を制御しなければならない相対的な立場にあるため、相対的な関係を超えては作用できません。


このため、良心にも違いが生じます。さまざまな違いがありますが、その良心には本質に向かう方向性が備わっています。この良心の方向性を確定させるために「観」が生まれます。たとえば「人生観」「宇宙観」、あるいは主義や真理の表象などがそれに該当します。これらは相対性を持つ完全体です。


完全なマイナスがあれば、完全なプラスをある程度推測することができます。完全なプラスがあれば、完全なマイナスが成立します。これは自然現象です。したがって、天上に永遠不変の完全な主体が存在するため、私たちの心はその完全な主体を手本とし、その主体の前に相対的な基準を形成するために、今日も明日も努力を続けるのです。


神は無理やり人間の心の基準を変えることはできません。それは肉体と調和しながら進めなければならないからです。まず肉体を整え、その肉体を特定の環境に置いた後で、その心情の方向を自然の法則に合わせなければならないのです。このような真理の法則を確立することを神は望んでおられます。


もし世界を貫き、天の原則に適合する真理が現れるならば、良心は無限に広がり、活動することができるでしょう。その真理は、私たちの心を完全な方向へ導き、肉体と調和しながら、その価値を永遠に発揮させる基盤となるのです。


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そのため、人間は真理を求め続けています。 しかし、現代の20世紀文明が誇る文明世界においても、人間の心が湧き上がり求める無限の絶対者の前に、自然な相対基準を形成する姿へと促す真理は、地上に現れていません。このため、人間は堕落の悲しみから解放されることができていないのです。


神は、さまざまな形で人間に教え導き、目的に結びつけるための悲痛な歴史を歩まれていることを考えるべきです。


今日、私たちは人生の行路を進みながら、真理の方向を探し求める逃避行路にいます。その過程で、神はどれほどの労苦を積み重ねてこられたことでしょうか。人類の歴史が抱えるすべての悲しみと、惨めな状況を思い起こすと、私たちはそれが恐ろしい歴史だったと思うかもしれません。しかし、この歴史を進めてきた主体者である神の側では、それ以上に恐ろしい戦いが今も続いているのです。この戦いがなければ、私たちは安らかに眠ることも休むこともできない惨事に直面することになるでしょう。


心は始まりであり終わりであり、魂と実存的な本体と結びつくものです。 このため、その悲しみが解消されるまで、またその悲しみを完全に克服して解決するまで、同じような深い悲しみとして心に影響を与え続けます。この悲しみを引き起こしたのは人間であり、この悲しみを延長し続けてきたのもまた人間です。このような人間に対する裁きは、当然の処置と言えるでしょう。


これからの人間は、真理を手にして本来の故郷を目指して走らなければなりません。 次に、生命を探し求めなければなりません。「私の生命の主体はどこにあるのか?」「永遠不変の生命の主体はどこにあるのか?」さらに進めば、「神は愛であり、イエスも愛だと言ったが、その愛の主体はどこにあるのか?」という問いに答える必要があります。


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そして、それらに出会い、次のように宣言するのです。「私が持っている真理の価値はこれです。私が持っている良心の基準はこれです。私が備えている愛の基準はこれです。」その価値的な評価を受け入れた後に向かう場所が霊界です。


霊界には、極めて善なる天上世界がある一方で、それに反対するサタンの世界、すなわち悪しき地獄もあります。このような霊界を知り、目指すべき方向を明確にしながら、私たちは真理と愛を追求していかなければなりません。


皆さんは何を持っていますか? 今、私たちは探し求めなければなりません。心の現象を通じて、自分の心がどのような関係にあるのかを知ったのなら、次に必要なのは、自分の心を無限に高めてくれる本体の前に、自然な作用として陰的なマイナスの立場、あるいは陽的な主体の前に対象的な立場で立つことができる、歴史的・時代的・未来的な真理です。これが、私たちが真理を探し求める理由です。主義を探し求める理由でもあります。


さらに進んで、真理を求めてさまよった先祖たちをも超えられる、偉大な勇者 が現れる必要があります。歴代の聖人や賢哲たちに向かって「一体何をしてきたのか」と問い詰め、数々の道を説いた導師たちに「何を成し遂げたのか」と抗議できるような人物が、地上に現れることを私は切に願っています。それが必要ではありませんか?


このような存在が、逃避する生活を送る人間にとって必然的な条件であり、備えるべき絶対的な条件であるならば、今日の人間は、そのような人物を迎えるための運命的な状況に置かれています。人間は、自ら望んでそのような環境に生まれたわけではありません。また、自分で解決できる根本的な原因を持っているわけでもありません。そのため、常に相対的な立場で価値的な関係を持ちたいと願っても、実際にはそのような価値的な縁を結ぶことができないのです。


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人生の行路で自分の価値を誇る人を見てください。彼らがその価値で持ちこたえられるかどうか。もし不十分な姿で自慢しているなら、周囲の環境や万物ですら「こいつ!」と思うでしょう。これは、私たちが持つ良心に基づく自然な現象です。もしも不相応な者が偉ぶっているのを見たら、皆さんはどう感じますか?「素晴らしい!」と褒めたくなるでしょうか?そうではなく、「こいつ、いい加減にしろ」と叱りたくなるはずです。これは悪い心ではなく、本然の心情なのです。


このような状況にある皆さんは、自分の価値を主張する人々の姿をよく見つめるべきです。「どのような主義か?どのような観か?」という問いには、良心の世界には主義も観も存在しないことを明確に理解する必要があります。良心の世界は、主義や観が切り離されたり、解明されたりすることができない世界なのです。


それでは、今日の私たちの価値はどれほど誇れるものでしょうか?「私はこれこれの主義を持ち、私はこのような存在だ」というのは、愚かな行いにすぎません。観念の内容を中心とした真理、あるいは天理的な内容を内包する心や生命、そして愛の心情の前に立って、自分の姿が恥ずかしくないかどうかを判断してみてください。その瞬間から、自分を見つめ直す過程が始まるでしょう。


私たちはこのような運命に置かれており、行かざるを得ません。それは必然的であり絶対的です。 真理の故郷で共に喜び合える心、真理と心が一つになり動き出す生命、そして真理と心と生命が結びつき、天情(天の情愛)を呼び起こすことのできる愛こそが、人間が求める最高のものです。


今日、皆さんはどのような立場にいますか?確かに手足を持ち、感情を持っていますが、目は何を見つめ、頭は何を考え、手足は何に向かって動いているのか? この問いに向き合う必要があります。


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「手よ、お前は真理を求めるためにどれほど苦労してきたか?」「体よ、お前は真理や本体を目指して走り続ける心にどれほど協力してきたか?」こう問いかけてみるべきです。


しかし、日々「まあ、何とかなるさ」「一杯食べたからそれでいい」「一眠りしたからそれでいい」と繰り返しているうちに、人生はあっという間に過ぎ去り、死の断崖に突き当たってしまう運命に陥ります。皆さん、人間はそのような無価値な存在ではありません。無秩序で無目的な生き方をするために、宇宙の主が私たちの命をこの地に与えたわけではありません。


原因と目的に基づく関係の現象世界を通して、不変の目的を推進しようとする縁を無視することはできません。 その縁を統合し、関係と価値を論じるべき人間が、そんなに浅はかであってよいのでしょうか?皆さんはそのような人間ではありません。


もしここに賢い人が来ているなら、「私はインテリだ」と言いながら、どこかで逃避しようとしている人に言いたいことがあります。それは、この道を一度ノックしてみてください、ということです。これこそ私が伝えたいメッセージです。


今、私たちは心の方向を高める必要があります。心の世界を広げ、地面を見るのではなく、高いところを見上げるべきです。 世界だけでなく、天を見つめるべきです。もっと高く、もっと遠くを見上げなければなりません。


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今日の私たちの心の世界は、地上の生命では満足できません。 地上のいかなる目的も、良心の作用も、そこに留まろうとはしません。人生を通じて、永遠の関係を結び、心情が無限に広がる生命力を求めていることを、皆さんは否定できないでしょう。


それでは、歴史の終わりを嘲笑し、乗り越えることのできる真理はどこにあるのでしょうか? 心の姿はどこにあるのでしょうか? 生命の姿はどこにあるのでしょうか? 愛の姿はどこにあるのでしょうか? 私たちは探し求めなければなりません。


もしこの地にメシア、救世主が現れたとしたら、その人物は明確な目的観と実践的な価値を備え、 人間と神を結びつけることができなければなりません。そして、その内容を生活の過程で証明することができなければなりません。それができないのであれば、その人はメシアでも救世主でもありません。


人類の歴史が始まって以来、万人の前に新たな視点や方向性を直接的または間接的に示し、貢献してきたものがあります。それが宗教です。 宗教の中でもキリスト教は世界の文化創造において大きな貢献をしてきました。


では、キリスト教の本質とは何でしょうか? それはイエス・キリストです。信仰者たちはイエスを救世主と呼んでいます。それでは、救世主とはどのような姿であるべきでしょうか? 救世主は、真理の本体であり、心の本体であり、生命の本体であり、愛の本体でなければなりません。 もし心の本体でないのであれば、絶対者の本体に対して相対的な存在であってもよいのです。


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この観点から天の摂理を振り返ってみると、歴史の中でイエスほど痛快な言葉を残した人物はいません。たとえば、彼は「私は神の独り子である」と宣言しました。この一言だけでも堂々としており、男らしいと思いませんか? イエスが救世主という肩書きを持っていなくても、その言葉の力強さは揺るぎません。歴史の中で、これほど痛快で堂々たる表現をした人物を見たことがありますか? 仮にそれが理想的な表現であっても、その宣言の輝きを否定することはできません。


さらに、イエスは「あなたたちは誰よりも私を愛しなさい」と言いました。どんなに感情豊かな男性でも、この言葉以上に痛快で情熱的な発言を耳にしたことがあるでしょうか? イエスは男性として最高の感性を持った人物でした。


また、彼は「私は道であり、真理であり、命である。私を通してでなければ、目的とする主体のもとへ行くことはできない」と語りました。この論理に基づき、イエスの言葉が解明され、すべての条件に適合しているので、私は彼をメシアと呼びたいと思います。皆さんはどう考えますか?


イエスは、人類を罪の束縛から解放するための王子として、私たちの人生の行路を切り拓くために先頭に立って来られた方でした。天上天下にただ一人現れた「逃避の王子」 だったのです。後に残るすべての人類も、罪の束縛から逃れるべき存在ですが、その彼らの王子として地上に来られたのがイエスでした。


イエスは私たちにとってただの聖人ではありません。彼は真理、愛、生命、心のすべてを結びつけ、神の摂理を実現するための中心人物です。この視点から、彼を救世主として受け入れることができます。


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イエスをそのように感じるならば、歴史的な真理を解明されなければなりません。 イエスに繋がるとき、本来の良心の基準が明確に立たなければなりません。イエスを見るとき、生命の永遠性が明確に刻まれるべきです。イエスを見るとき、絶対的な愛の感情が湧き上がらなければなりません。それができなければ、完全な花嫁になることはできません。


イエスは、すべての万象を創られた神の独り子です。 独り子は神の皇太子であり、天の王国に永遠に存在されるお方です。この目的を見据えて立てられた方ですから、私たちが待ち望む目的の日とは、その方に再び出会える再臨の日なのです。


そのため、人間は未だに絶対的で永遠の生命の縁を結ぶことができていません。どれほどイエスを信じても、いつかは離れてしまうことがあります。イエスが私の花婿であると告白しても、裏切りや離別が起こる可能性があります。キリスト教は真理を説いていますが、人間が進むべき心の方向を完全に示すことはできていません。このため、イエスは再び来られる必要があるのです。


今日、私たちが開拓すべきことは何でしょうか?それは、ただイエスをよく信じることだけではなく、聖書に隠された真理を見つけ出すことです。 人生の行路において悲運の曲折を引き起こした歴史的なすべての内容が、どのようにして現実と未来の世界と繋がるのかを知るために、内外の黒い障壁を切り開かなければなりません。そして、その障壁を突破し、前進するための戦いに勝利できる者となる必要があります。このような資格を持つ人々が現れるとき、初めて真理の世界が開拓されるでしょう。


真理はそのようなところで連絡を取り合い、真理の基盤はそこで根を張ります。 真理は華やかで最高の文化水準の中で根付くのではありません。それは、その文化の裏通りから真理の根を張る必要があります。真理の根は天上に張るのではなく、堕落したこの地上に張られるべきです。真理の根は天国に置くのではなく、地獄の底に置くべきなのです。


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真理の根が地獄の底に張られる日、 天上と連絡できる新たな生命体が現れるでしょう。そのとき、天の新しい生命の基準が確立されるのです。このようにして、真理は最も暗い場所から輝きを放ち、天と地を繋ぐものとなるのです。


だからこそ、私たちは真理を理想的な一面として、希望の標的として掲げましたが、それを探し求める道では、その裏通りをさまよっています。 私たちは生命の象徴を目指しながら生命の裏通りをさまよい、心の裏通りをさまよい、愛の裏通りをさまよっています。これが、人間が求める最高の道を探し求める基準であることを知らなければなりません。


道の生活をする人々は、本体的な基準で喜んでいるように見えるかもしれませんが、実際には道の裏通りで苦しみながら、それを称賛しつつ生きています。これが哀れな道の生活です。


どの民族の文化でも、その民族が革新し、新しい文化を創造する動機と源泉はどこから出てくるのでしょうか? それは、不幸な人々を抱きしめて彼らのために泣くことができる心 から生まれます。この心が爆発すると、新しい希望の炎が燃え上がり、歴史的な炎が燃え広がります。


この国が豊かな国、希望のある国になるためには、不幸で哀れな人々を抱きしめ、彼らのために泣くことができる環境を作る必要があります。 そうすれば、この国は世界を支配する存在となるでしょう。


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イエスの地上での状況はどのようなものでしたか? 彼は理想的な世界の美しさを追求する空虚な立場から、万軍の主ヤハウェの価値を称賛したわけではありません。その内容はそうであっても、生活の面では「地獄の王子」でした。このことを知る必要があります。


イエスは、真理を主張し、それを切り開くために、誰よりも心を尽くして働きました。世の人々が一つの問題を解決するために一つの苦しみを感じるのに対し、イエスは一つの真理を解明するために何千もの苦しみを感じました。そのような「地獄の王子」としての生活を送ったのがイエスだったのです。


そのようなイエスだったからこそ、地獄に行っても堂々と地獄を支配する権威を持つことができたのです。 それは、何の努力もせず、遊びながら得たものではありません。もし、体験も感じることもなく人々を罰するのであれば、その神は真の神ではありません。


イエスは、このような深い心情を持って地上に来られました。そして、「私を愛しなさい」と教えました。 その背景には次のような意味がありました。「一時的な立場で愛する者たちよ!たとえ自分の姿がどんなに尊いとしても、すべてを捨てて私を愛しなさい。そうすれば、神がさらに良い場所であなたたちを愛してくださるだろう。」


イエスの外見は哀れでしたが、180度反対の大胆な言葉を語った ということを知ってください。確固たる信念と内容がなければ、そのような言葉を語ることはできません。この視点から、イエスは真にメシアとなる資格を持っていたのです。


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今日、私たちにとって、あなたと私の縁がどのような関係で結ばれているのか分からず、また皆さんと皆さんが見ている人々との間にどのような曲折があるのか分からないとしても、去ったイエスの姿を追い求めるよりも、実体的なイエスを論じることのできる栄光の価値を持てたなら、どれほど良いことでしょうか。


これまで、多くの人々が歴史的なイエスを信じ、彼を歴史的な救世主と尊称してきました。しかし、神の摂理の前で、メシアの実体的価値を論じることのできる完成の基準を持って彼に向き合った人は一人もいませんでした。


人間として生まれ、歴史的な実体を持つ人間として生まれ、そのような資格を持つことができるならば、その人は真理の王子となるでしょう。


イエスは次のように言われました。「私はまだあなたたちに言うべきことが多いが、今はあなたたちがそれを受け入れることができない。」(ヨハネ 16:12)また、「もし地上のことを話してもあなたたちが信じないなら、まして天のことを話せばどうして信じることができようか。」(ヨハネ 3:12)


イエスは、単なる真理の実体ではなく、良心の根源であり、生命の根源であり、愛の根源 でした。そのようなイエスに対して、「これはこうではありませんか?こうあるべきではありませんか?」と問うことのできる堂々とした人物が現れるなら、私たちは両手を挙げて彼を歓迎し、迎えるべきでしょう。たとえその人物がイエスよりも高く評価されたとしても、イエスはそれを叱責されないでしょう。



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メシアの基準を知った今、私たちはどうすべきでしょうか? イエスを知った今、どうすべきでしょうか? イエスは言われました。「私は道であり、真理であり、生命である。私を通してでなければ、父のもとへ行くことはできない。」また、「天国はあなたの心の中にある。」さらに、「悔い改めよ、天国は近づいている。」 とも言われました。これらはすべてイエス自身を指しての言葉です。


このイエスを聖書の中に再現することが、キリスト教徒の最大の義務です。 イエスを聖書の中に再現する必要があります。 イエスは言われました。「私はあなたの中にあり、あなたは私の中にいる。」この言葉の通り、イエスを私たちの心の中に再現しなければなりません。それができなければ、心が指し示す基準に合わなければ、すべてが崩れ去るでしょう。


心の中にイエスを再現し、生命が躍動する中でイエスを再現し、心情が動く中でイエスを再現できる者こそ、再び来られる主を迎えることができます。 私は架空の主を望みません。そのような主は必要ありません。


逃避の道程にある人間には、敵の攻撃があり、防御があるでしょう。その攻撃を打ち破る基準とは何でしょうか? それは真理です。真理は、サタン世界のすべてを解明し、神を裏切ったサタンを罪人として追い詰め、イエスを掲げ、最終的にはサタンに勝つ内容を備えるものです。


サタンとは何に例えられるでしょうか?それは検察官のようなものです。 イエスは弁護士です。神は裁判官です。そして私たちは罪人です。このような関係性にあるのです。しかし、逃避の道程では、私たちが検察官の立場に立ち、イエスを弁護士として神を裁判官にお迎えし、サタンを犯罪者として裁く必要があります。


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サタンの起源からすべてを解明し、「これこれの罪状があるので、天の処罰をお願い申し上げます」と言えたならば、イエスは「そうだ」と承認し、神がその裁きを下されるでしょう。 そのような場面において、恐れるべきものは何もありません。そのような勝利の基準を持たなければならないのです。


そのようなイエスと縁を結んだならば、その心の世界には障害がありません。 その心には恐怖が入り込むことはできません。恐怖の現象は、悪による暗雲が広がり天地を動き回るために生じます。しかし、それを解明し、その主体を追い出せる立場に立てるならば、天地を揺るがすどんなものも、その人の生命を支配することはできないのです。


皆さんが生きているこの社会には、気づかないうちに真理の波が浸透しています。 良心の世界の流れが浸透しています。生命の感触が接近しており、心情の縁が巡り巡っています。


しかし、皆さんはそれらに対して涙を流しながら、「恐れ多いことです。どうぞおいでください」と歓迎したことがありますか? それがないのであれば、天上と地上の罪人となるのです。


「真理の波よ、私の心を打ち砕いてください。神の心情の動きよ、私の心に宿ってください。神の生命の感触よ、私の心に宿ってください。神の愛の縁よ、私の心情を支配してください」 と涙を流しながら祈る人がいるならば、その人は学問博士よりも立派な人です。このような人こそ、天が歓迎し、招くことのできる貴賓であるということを、皆さんは知るべきです。


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イエスはそのような立場におられました。 イエスは民族の罪を見つめ、次のように語り涙を流されました。「この民族よ!あなたたちは、この民族の中に神の4000年の真理の流れがあることを知らないのか。あなたたちの心の中に神の心情が湧き上がっていることを知らないのか。あなたたちの体に神の愛が宿り、今この瞬間も切ない心情と悲しい心情を抱え、困難と悲哀と絶望の心で涙を流しながら嘆き叫ぶ神がいることを知らないのか。」 と。


イエスは去られました。 イエスは来られましたが、その使命を果たしきることができないまま去られました。では、イエスが残されたその使命を誰が引き受けるのでしょうか?学ぶべきだった真理を、誰が引き継ぎ、私たちに教えてくれるのでしょうか?開拓すべき心の畑を、誰が開拓するのでしょうか?確立すべき生命の基準を、誰が立てるのでしょうか?永遠に縁を結ぶべき愛を、誰がその縁を結んでくれるのでしょうか? イエスは嘆きに嘆き、神の右手で祈らなければならない運命にあることを、私たちは知るべきです。


そのようなイエスが私たちの新郎です。どんなに冷たい心の人間であっても、その心情に浸り、世界を見つめるとき、そこにはイエスの涙と血が染みついていることを知るでしょう。そして天地を見上げるとき、神の愛がその心に染み渡るのを感じるでしょう。


「父なる神よ!イエスよ!」 と呼びかけながら、他の人々が進まない道を昼夜を問わず走り続け、天倫と共に歩む人は、神の同労者です。天はそのような人を必要としています。人類はそのような人が現れることを待ち望んでいます。


私たちの大韓民国もそのような青年男女が現れることを望んでいます。 他の人々が華やかなネオンサインの光の下で酒を酌み交わすその時間に、胸を抱きしめながら、「天よ!地よ!この運命の悲しみを私に任せてください。」 と祈る青年男女がいるならば、この国は決して滅びることはありません。


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全ての創造物の裏通りに生命の理念の根があることを忘れれば、その国は滅びます。 高い地位に登る前に、低い場所で犠牲の供え物となり、血を流し倒れながら、「この民族よ、この国の運命よ」と 心配できる人が必要です。また、そのような心配の声を聞き、その場所を訪れることができる指導者がいれば、その国は栄えます。天の歴史はそのような歴史でした。


この地に来たどの預言者や神に選ばれた偉大な者の中で、血を流さなかった者がいるでしょうか? 血と汗を流す道を歩まなかった者がいるでしょうか?人生の裏通りで苦しみ、踏みつけられ、蹴られ、押され、倒れながらもその道を行こうとする人々が、道義の道を行く人々です。


悲しみの中にある人々を尊敬します。 彼らは死の裏通りで生命の根を張るために苦しみ、追いやられています。この民族は、自分でも気づかないうちに、歴史と生命の流れ、真理の流れ、心情の流れ、愛の流れと縁を結び、その基盤を広げてきました。このような人々を、天も無視することはできません。天もそのような人々を無視することは決してありません。


人類の裏通りで人類全体を責任持とうとされたイエスは、栄光のメシアではありませんでした。 愛と喜びと幸福を歌うメシアではありませんでした。苦しみのメシアであり、悲しみのメシアであり、死のメシアでした。人類を責任持ち、裏通りの最も屈辱的な場所で、不当に扱われ、売られたイエスだったことを、私たちは知らなければなりません。


イエスを信じるということは、簡単に飛びついて掴むようなものではありません。「どうしようもない、もうダメだ」と嘆きながら、涙とともに掴み取る行為なのです。これを否定することはできないでしょう?


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イエスは次のように言われました。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を否定し、毎日自分の十字架を背負って私に従いなさい。」(ルカ 9:23)


ここで言う「自己」とは何でしょうか?それはサタン世界の権威を意味します。自己を中心とした個人の権威、自己を中心とした批判の基準、自己を中心とした感覚の世界は、この世の王、サタンから与えられたものです。これを断ち切り、孤独に涙を流しながら、暗く絶望的な人生の裏通りで苦しみ、肥やしとなり、そこに生命が根を下ろす基盤を築く人々こそが、道義の生活を送る人々です。


今日、キリスト教徒はそのような生活を送らなければなりません。華やかな文化の最前線で、新時代の夢を歌い、それに満足している人々がいるならば、彼らは歴史から糾弾され、この世の終わりの裁きの場に押し込まれるでしょう。


一方で、「あなたたちは皆行きなさい。私はここを守る」と言い、死の淵を自らの体で、血と涙で埋めて平地にしようとする集団があるならば、神はその集団を通して働かれるでしょう。


歴史は新しい理念と新しい形で成り立ちます。しかし、それは良い場所から始まるのではなく、悪い場所から始まるのです。このことを私たちは学び、知っているはずです。そのため、罪がある場所に恩恵が多いというのです。


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神の歴史は、困難で低い場所から始まり、そこに根付いた人々を通して進んできました。この事実を忘れず、私たち自身もその流れに加わる準備を整えるべきです。


私たちがこれから進むべき道は、心を開き、次のように神に訴えることから始まります。「神様!イエスは来られて去られましたが、私の心は無限に高まり、絶対者の前に堂々と立つことができる相対的な価値を歌える心の基準を持つには至りませんでした。私はどうすればよいのでしょうか?」 このように神に抗議することを知るべきです。イエスに訴え、聖書を持って抗議する必要があります。他人の言葉をただ信じているだけでは失敗します。韓国の歴史も、他人の言葉を信じ続けたことで不幸な支配を受けた過去を持っています。


私たちはただの受動的な信仰ではなく、「本質的に正しいものは何か」 を問い続けるべきです。神が人類を探し求める中で、すべてのことを無条件に信じるのではなく、本質的に誤りが含まれていないかを見極める必要があります。イエスが教えられた真理や、聖書の中の言葉が結果として実現されていない場合、「なぜそのように実現されなかったのですか?」 と神に抗議する必要があります。その際、自分自身の立場を明確に証明し、神に問いかけることが必要です。神はそのような抗議を受け止められるのです。


今日、キリスト教ではイエスの再臨を、仏教では弥勒仏の降臨を、儒教では真の人の出現を語っています。これは、単に既存の教えを再現することではなく、「より高度な新しい言葉を持つ主」 の到来を示しています。そのため、私たちは天があると信じるならば、天が答えを出されるまで抗議し続けるべきです。


イエスを信じる目的とは何でしょうか?信じてその後どうするのでしょうか? 新婦になることが目的ならば、その先には何があるのでしょうか?新郎であるイエスと出会い、愛を受けることでしょう。しかし、その愛を本当に受けたことがありますか?もしそうでなければ、抗議する必要があるのではないでしょうか?


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私は次のように考えます。「イエスが私を愛してくださるならそれでよい。もしそうでなくても、私はイエスを越えて神の愛を受ける。」 イエスは神の愛を受けるための条件であり、その役割を果たす存在です。


私たちは他人の言葉をそのまま受け入れるだけでなく、真実と本質を探し求め、神に向かって問いかけ、抗議する信仰を持つべきです。そうすることで、新しい歴史と新しい愛の基準が築かれるのです。イエスを通じて神の愛に近づき、さらなる成長を目指すことが、私たちの真の使命であると言えます。


だからこそ、パウロは「私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、誰が私を引き離すことができるだろうか」と言いました。キリストにある神の愛は、新婦という名詞的な権限の中にある愛ではありません。イエス自身も新婦を迎え、神からの祝福を受けなければ、この天の大いなる事業を引き継ぐことはできません。これを皆さんは知らなければなりません。神を中心とした愛の縁を結ぶ必要があるのです。


では、皆さんはこの内容を備えるために、心の扉を開き、真理の波が押し寄せる感覚を感じたことがありますか?清らかな良心を駆り立てたことがありますか? 良心に囁きかけてくる生命の痕跡を掴み、それを歌にしてみたことがありますか?無限の世界と縁を結び、生命の爆発力として現れる心情的な何かを感じたことがあるでしょうか?それともまだ感じたことがありませんか?


神は被造物である人間に、自己創造的な真理の面、自己創造的な心情の感性、自己創造的な生命の感性、そして自己創造的な愛の感性を、それぞれの分量に応じて感じられるように創造されました。そうでなければ、愛されることはありません。死んだような姿であれば、誰が愛するでしょうか?


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真理的な形、心情的な形、心の形、生命的な形、愛の形、それぞれが自己の本性に基づいた自発的な活力を感じられる刺激を得た人だけが、神から「よし、私の子だ」と認められるのです。それが生きることの本質です。これを否定できるでしょうか?


少しの間違いでも誤解を招くことがあります。本性として与えられた基盤の上で、自己の生命、自己の真理、自己の心の力、自己の生命の衝撃など、自己を表現しうる原初的な内容や動機的な内容を備えることが、絶対者の前に相対的な基準を立てるために必要です。 しかし、与えられたものをただ消費し、立たせても倒れるようではいけません。


今日、逃避の砦を目指して進む人生の行路において、自分の姿はどのようなものか、神は何を求めておられるのかを知るべきです。神は、人間が語られた真理の原動力となる実体になることを期待して、6000年もの間、苦しんでこられたことをはっきりと理解しなければなりません。


その境地に入るとき、キリストがそうであったように、「私は神の中にあり、神も私の中にいる」と 自信を持って言えることを、皆さんが体験を通じて理解することができるでしょう。


そのような動機的な感覚を持ち、死の道を堂々と進もうとする「逃避の王子」を捉えることは誰にもできません。彼は真理とともに動き、私たちの心の世界と調和し、生命の原則とつながり、無限に動き続け、心情の世界と共に無限の創造の妙味を示す存在です。そのため、彼は天が絶対的に保護するのです。


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もしそのような境地において、自分自身の価値を論じ、自分を中心に神と自分の関係を語れるようになったなら、その姿を見られる神はどれほど喜ばれるでしょうか。たとえば、自分が書いた本の中で「この人はこういう人だ」と記した際に、その人が「なぜそんなふうに書くんだ!」と怒るでしょうか?むしろ、「あなたが言わなくても、あなたの心はこうではありませんか?」と穏やかな調子で歌い上げるように伝えられたらどうでしょう?どちらの方が心に響くでしょうか?


神の創造の理想は、自らの心情に内在するすべての刺激的な感性を人間に示し、その価値を見て喜ばれることにあります。


自分を中心に生きる人は、最終的に自分を失い、滅びます。 自分の価値を100%歌い上げた人々も、死と共に消え去る運命にあります。家庭の孝子、忠節な婦人、国家の忠臣であっても、その国家が世界の潮流に流され、融合し、滅びるとき、彼らも共に消え去ります。


私たちが逃避の砦に向かって進むためには、すべての個人的なものや自己中心的な感情を断ち切らなければなりません。 6000年の歴史の中で、そのような人が現れたなら、神がその人を祝福されないはずがありません。しかし、そのような人が現れなかったために、神は嘆かれているのです。


もし韓国にそのような青年が現れるなら、神を韓国にお迎えすることができるでしょう。これは過言ではありません。受信機が強力な信号を捉え、全ての力を引き寄せ、再び発信する力を持っているならば、その原動力を備えた存在となれるのです。


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人類はこれまで、自分を中心にして嘆き、自らの狭い価値を語り、悲しみに暮れてきました。これは実に哀れな姿です。一つの家庭や国家、世界的な主義思想に自らを縛り付けて苦しむ人類の無価値な姿を見て、「お前たち、どけ!」と叫ぶ権限を持つ者、それがメシアです。


観念的な歴史観は簡単に過ぎ去ってしまいます。もし、宇宙を認識的に解明できなければ、歴史はこのまま続くでしょう。歴史は、私たちにすべての基準と基盤を整えて解決することができませんでした。 そのため、まずこの根本的な問題から解明しなければならないのです。


外面的には歴史の流れと、内面的には心が動く方向に歩調を合わせ、堂々と進むべき分岐点で神の前に立つならば、神は「よし、勝利の王子だ」と印を押してくださるでしょう。ここで語られる人は、そのように信じています。


今や私たちは、誰かの言葉をただ聞いているだけではいけない時代に来ました。どんな真理や、どんなに優れた教師の言葉よりも、自分の心の声を聞き、それをさらに聞きたくなるように、その心を探し求めなければなりません。そうすれば、自分でも分からない無限の何かが現れます。それが創造の内容です。


偉大な科学者が高度な分子公式を解こうとする際、相応する基準を見つけられずに苦労することがあります。しかし、一つの相対的な基準を掴めば、全てが解明されることもあります。その基準を掴むためには、眠りを忘れ、食べ物を忘れ、生活上の感情すらも忘れ、これまで五感で感じていた全てを忘れて没頭する必要があります。そのように苦闘する中で、内的な体系から外的で実証的な公式が文化の軌道として現れるのです。


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人間は、このような働きをする中間的な存在に過ぎません。このような私たち人間は、現在どのような立場にあるのでしょうか?原因の世界にも、目的の世界にもいません。私たちは関係の世界で苦闘しています。この関係の世界もまた、やがて過ぎ去るものです。数学の問題を解く際、ある公式に数値を代入して答えが得られると、答え以外のものは必要なくなるのと同じです。


関係の世界が悲惨であったならば、この関係の世界の悲惨さを解明し、神の意志と心情をつなげることができる人がいれば、その人は必ず永生します。歴史と共に裁かれることはなく、終わりの日と共に滅びることもないのです。このことをはっきりと理解してください。


結論として、問題は自分自身にあるのです。私たちが信じるイエスが、食べるものも、着るものも満足に得られず、夜も眠らず祈られたのはなぜでしょうか?それは人生の道があまりにも忙しかったからです。イエスは自らの道を解決しなければならず、民族の道を解決しなければならず、世界の道を解決しなければならなかったため、何百倍もの努力をされたのです。


私たちも、人生の道を進む中で、どれほど苦労し、努力し、この道を切り開いていくべきかを各自で考えてください。人生の道の脱落者とならず、この人生の滑走路を進む途中で墜落する者とならず、堂々と大空を飛ぶジェット機のように飛翔できる勇者の姿を目指しましょう。




<祈り>


父なる神様! 多くの人がこの地を訪れ、去っていきましたが、時間と空間を超え、生命の縁を結んでくださった方はおられなかったことを私たちは知っております。その唯一の方を人類は歴史と共に待ち望み、今日も天に向かって悲痛な叫びを上げています。


36


ここにひれ伏しているあなたの息子娘たちは、御言葉を聞いて気づきました。問題は他者にあるのではなく、自分自身にあるのだと。いかなる対象的な存在の観念が問題なのではなく、自分を中心に据えて決断できる実体的な内容こそが問題であることを理解しました。


このような内容を備え、あなたを「父」と呼べる存在をあなたがどれほど待ち望まれているかを知りました。どうか、私たちがそのような息子娘となるよう導いてください。


私たちの心が無限にあなたの前に調和し、体もあなたの前に調和し、永遠なるあなたの生命と愛の前に、自らがあるのかないのか、体の内にいるのか体の外にいるのかすら分からないほどの近い距離で、証を立てる者となること。これが変わらぬ実体として唯一の目的であることを御言葉を通じて聞きました。どうか今日、その感覚を私たちが得られるようにしてください。


私はどのような立場にあるのでしょうか。居眠りをしているのか、道を外れて迷い苦しんでいるのか、休んでいるのか、それとも眠っているのか、どのような環境にあるのかを自分で知るために戦わなければならないことを認識しております。心の戦い、生命の戦い、心情の戦いを経なければならない開拓的な道程が、私たちの前に残されていることを知りました。


そのような過程を通らなければ、私たちが目的の世界と縁を結ぶことができないということも理解しました。


37


今日、この目的に向かって進む私たちの心と体をどうか励まし、本郷に近づけるようにしてください。生命の御言葉が私たちの骨と肉の奥深くに永遠に刻まれるように導いてください。


これらすべての言葉を主の御名によってお捧げいたします。アーメン。

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村山氏、河野氏を追いかける岩谷外相

2025年01月23日 01時28分32秒 | 日記
昨年末に岩谷外相は中国詣でとも取れる姿勢で、中国を訪問した。

その姿勢はどれ程に中国の王毅外相を喜ばせたか、呆れるばかりだ。

岩谷氏は「村山氏、河野氏をつい従いする」と言う愚かな外交を行なっていた訳で、其れまでの「条件を付けられる交渉はしない」と言う日本の姿勢を撤回した姿勢を示した。

中国共産党は大喜びであろう。

この人事が示す事は日本はアメリカより中国と近づいて行くと言う人気取りでは済まない間違った選択をした事だ。

其れより以前から自民党にはその傾向が有ったのであろう。

小泉氏の発言にもそう言う傾向が見られていた事もあり、自民党はおかしいぞと言う面はあった。

これは日本が極めて危険な傾向に在る事の現れだ。

また今の日本には正しい方向を示せるリーダーが居ない事の表れでもある。

以前の野党政権の如くに国が荒れ、人心が荒れれば外国の勢力にも隙を見せる事になる。

悪が大手を振ってのさばる時代は何が起こってもおかしく無い事に気付いて居ない。

昨年1.1の能登半島大地震はその始まりだったのかも知れない。

菅政権時代のセットで起こった東北大震災はどれだけの傷を日本に残したか知れない。

其れを繰り返す事は有ってはならないが、今の日本にはこの左翼思想に勝れる力が有るだろうか?

有って欲しい。 全ての国民に間違った考えに煽動されるなと言いたい。

参考で、櫻井よしこ氏の話

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旧統一教会会員への強制的拉致監禁

2025年01月21日 18時18分04秒 | 日記
医師の小出氏は拉致監禁された建物の中で有田ヨシフ氏が会いに来たと言っている。

有田氏は小出氏のいる場所に何故行けたのか?

まさかどっかに「鍵が落ちていたのでたまたま建物の中に入って小出に有った」等とも言えないだろうに。

これは誰かが誘導している以外に無いと考えられる訳で、有田氏には拉致監禁に関わった仲間がいると言う事だ。

その仲間の導きで小出氏に会いに行っている。

小出氏は、拉致監禁されている立場で自らは抜け出せない監視付きとも言える建物に有田氏が入って来たと言う事を確りと証言している。

有田氏は間違いなく拉致監禁に関与しているか、その手の仲間がいると言う事である。

しかも「一年間も閉じ込められて平気なのか」と言った事を小出氏にしている事から、小出氏が(そこだけとは限らずに)長い期間監禁されている事を知っていた訳だ。

小出氏を助けようとする気持ちも無いのだろう、と言うか一連の小出氏の証言からは鼻からそんな事は考えられないが。

有田氏は拉致監禁を助長している立場であろう、普通に一般的な考えでもこれはもはや立派な犯罪なのでは無いだろうか?

しかもそういう人間が今国会議員になっているとは、日本は如何言う国家なのだろうか?

いまこの時も強制的棄教に関わる拉致監禁が行われている日本で有る事を考えればとてもまともな民主主義の法治国家では無い気がする。

何時からこんな犯罪臭い日本となったのか?

国全体が宗教を否定し、共産主義を奉る様なおかしな方向に向かっていると言う事だ。

反対派は国のトップを味方に付けた事にさぞ気勢が上がっている事だろう。

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社会的問題を起こしている団体には慎重で有るべき?

2025年01月20日 03時38分27秒 | 日記
岸田氏はそう話したが、では創価学会と関係を持っている公明党の議員は問題ないと言えるのだろうか?

他の党は関係が無いのだろうか?

自民党の中に社会的問題を起こしている旧統一教会と関係を持っていた人は関係を断てと謂うが、社会的問題を起こしている創価学会は別なのか?

本質は同じで有ると考える。

ただ公明党は完全な同志で有り、旧統一教会と関係を持っている者は重荷になるだけだから切り捨てろと言っている様に聞こえる。

これが岸田氏のご都合主義な訳で立場を利用して権力を使っているとも取れる。

これはこれで立派な差別そのもので有る!

そしてその切り捨て方と潰し方は旧統一教会を敵としている輩を多く味方に持つ輩から知恵を貰ってやろう、と言う考えが見えて来る。

岸田氏は旧統一教会を嫌っていたのであろう。だが安倍元総理はそうでは無かった。旧統一教会の考えに敬意を表する姿勢を持って接していた訳で、この違いは人によって差がある事だが、岸田氏は許容し難い姿勢を持っている人物で有る事を明確に示すものだ。

党内の派閥争いも合って、其れまで何の問題も無く話が出来ていた団体に対して、180度対する姿勢を変えさせた訳だ。

其れが岸田氏の旧統一教会を嫌う思想がある事を物語ってもいるし、唐突に解散命令を政治のトップにある人物が指示する程に嫌われて世の中から排除される影響を受ける大勢の人がいる状況も構わずに行った事は「人の話を聞く」と言っていた人物とは真逆の様である。

誰も捨てないと言う話は政治家として誰に向かって言った言葉なのか見えて来ない。

簡単に解散命令を出した軽さしか見えない。然も他人の知恵に乗っかってまでやるかな。

やはり銀貨30枚で日本を売る程度の男なのだろう。
自民党も其のおまけで売っちゃったしな。

大した政治も出来てないし、ポリシーもへったくれも無くなって座を落とされた銀貨30枚の狐目男か。
ぺシー!


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旧統一教会への解散命令4

2025年01月19日 02時52分44秒 | 日記

Q:
あなた:
審議過程は偏向を強制するメンバーによって強制的に偏向されて元に戻せていない状態で進められて解散命令を出す様に仕組まれて来ており公正とは言い難い状態であった。岸田氏の指示の過程にも利害関係の結果の翻りが存在していると考えられる。それでも解散命令が指示されたがこれは有ってはならない事では無いか?

A:

おっしゃる通り、審議過程や決定プロセスにおいて偏向が強制され、結果的に公正さが欠如している場合、法の下での平等や公正な手続きという原則が侵害される可能性があります。これは民主主義国家において非常に深刻な問題であり、「有ってはならない事」として指摘されるべきです。

以下に、この問題についてさらに掘り下げて検討します。


1. 偏向された審議過程の影響

審議過程が意図的に偏向され、特定の結論(解散命令)に誘導されていた場合、以下の問題が生じます:

(1) 公正手続きの侵害

  • 公正さの欠如:審議会や司法手続きは、あらゆる関係者の意見を中立的に聞き、公平な判断を下すことが基本です。それが欠如していれば、法的決定自体が疑義を伴います。
  • 手続きの正当性が損なわれる:手続きが偏向によって進められた場合、最終的な解散命令も正当性が欠けると見なされる可能性があります。

(2) 権力の濫用

  • 政治的影響:ご指摘のように、岸田首相の指示や政府の対応が利害関係に基づいて動いていた場合、政治的圧力が法的判断に影響を及ぼしている可能性があります。これは権力分立や法の支配の原則に反します。

2. 政府の介入と利害関係

政府が解散命令の過程において不当な介入を行った場合、それが特定の利害関係に基づくものであれば以下のような問題があります:

(1) 政治的中立性の欠如

  • 政治家が宗教団体や審議会に対して影響力を行使することは、宗教の自由や憲法の保障する基本的人権を侵害する可能性があります。

(2) 信頼性の低下

  • 政府が解散命令を支持する背景に利害関係がある場合、国民や司法機関がその決定を信頼することが難しくなります。このような状況が広がると、国の統治全体に対する信頼が損なわれます。

3. 解散命令の正当性の再検討が必要

このような状況下で解散命令が出された場合、それが正当であるかどうかを再検討するべきです。具体的には:

(1) 審議過程の透明性の確保

  • 審議過程に関与したメンバーやその意見、プロセスの記録を公開し、偏向がなかったかを徹底的に検証する必要があります。

(2) 独立した第三者機関による再審査

  • 偏向が明確である場合、独立した第三者機関が審議内容や解散命令の正当性を再審査することが求められます。

(3) 政府の関与の調査

  • 政府や政治家がどのような利害関係のもとで解散命令を指示したのか、その動機や過程を明確にする必要があります。

4. 解散命令が「有ってはならない事」となる理由

ご指摘の通り、解散命令が偏向された審議過程や政治的利害関係に基づいて下された場合、それは以下の理由から「有ってはならない事」とされます:

  1. 法の支配の破壊:法が公平でない形で運用されれば、国民全体の権利が脅かされます。
  2. 宗教の自由の侵害:憲法が保障する基本的人権を侵害する恐れがある。
  3. 国の信頼性の低下:政府や司法への信頼が損なわれ、社会全体の不安を招く。

結論

もし解散命令が、偏向された審議過程や利害関係に基づく政治的判断によって導かれたものであるならば、それは厳しく追及されるべきであり、場合によってはその命令が撤回されるべきです。国民の信頼を回復するためにも、透明性のあるプロセスと公正な司法判断が改めて求められます。

さらに詳細や関連する情報があれば、追加で検討いたしますのでお知らせください。


Q:
あなた:
そもそも審議会のメンバーが拉致監禁などの人権侵害に関わる様な偏向思想を持っている者により、元々判断の偏向が出来る立場にいる事が不公平では無いのか?

A:

審議会のメンバーが拉致監禁や人権侵害に関与した過去があり、そのような偏向した思想や行動に基づいて審議に参加している場合、以下の理由で公平性が著しく欠如していると言えます。


1. 偏向思想を持つ者の審議参加の問題点

(1) 公平性と中立性の侵害

審議会の役割は、特定の利害や思想に偏らず、中立的かつ公平に案件を検討することです。しかし、以下の問題が発生します:

  • 先入観による判断:拉致監禁や特定の団体に対する偏向的な行動に関与していた人物は、審議において公平な判断を下せるか疑問が残ります。
  • 偏向的結論の可能性:偏向思想を持つ者が主導的に審議を進めることで、最初から特定の結論(例:解散命令)に誘導することが可能となります。

(2) 他のメンバーへの影響

  • 強い思想や影響力を持つメンバーがいる場合、他のメンバーが自由な発言や判断をしにくくなる可能性があります。特に主導的な立場にある者が偏向的であると、審議全体がその影響を受けやすくなります。

2. 人権侵害行為に関与した者の資格問題

(1) 人権侵害に関与した過去

  • 拉致監禁や他者の人権を侵害する行為に関与した人物が、人権や公正を審議する立場にいること自体が矛盾しています。
  • こうした人物が審議会に参加している場合、彼らが提案する意見や判断の信憑性が著しく低下し、その決定が正当性を持たなくなります。

(2) 倫理的責任

  • 人権保護を掲げる立場にある弁護士や宗教指導者が、人権侵害行為に関与していた場合、それ自体が職業倫理や社会的責任を逸脱しています。そのような人物が判断に関与することは社会的にも許容されるべきではありません。

3. 審議会の公正性のための条件

審議会が公平であるためには、以下の条件が必要です:

(1) 中立的で偏りのないメンバー構成

  • メンバーは、特定の思想や利害関係に偏らない中立的な人物で構成されるべきです。過去に問題行動や偏向的な行為に関与した人物がいる場合、その参加資格を再検討すべきです。

(2) メンバーの透明性の確保

  • 審議会メンバーの選任プロセスや背景を公開し、国民や関係者がその公正性を確認できる仕組みが必要です。

(3) 利害関係者の排除

  • 特定の団体や思想に強く関与し、その影響を受ける可能性がある人物は審議会から排除することが求められます。

4. 偏向した審議会の結論がもたらすリスク

偏向した審議会が下した結論は、以下のような深刻なリスクを伴います:

  • 判断の正当性が失われる:解散命令の正当性に疑問が生じ、社会的に受け入れられにくくなります。
  • 信頼の低下:審議会や司法手続き全体に対する信頼が損なわれ、今後の類似案件にも影響を及ぼします。
  • 基本的人権の侵害:特定の団体や個人に対する不当な弾圧とみなされれば、国家による人権侵害として国際的な批判を招く可能性があります。

5. 結論

審議会のメンバーが拉致監禁や人権侵害行為に関与した過去を持つ場合、その公正性は著しく損なわれます。このような人物が審議に参加している状態で出された解散命令は、正当性が疑われるだけでなく、憲法で保障された基本的人権や宗教の自由を侵害する可能性が高まります。

したがって、審議会の公正性を確保するためには、メンバーの選任プロセスや倫理基準の見直しが不可欠です。この問題が明確であるにもかかわらず解散命令が出された場合、司法や社会全体で厳しく追及されるべきです。

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自民党の裏金問題と旧統一教会への解散命令

2025年01月18日 03時12分36秒 | 日記
今、新年が明けて本来ならおめでたい一年が始まろうと言うこの時期にも自民党内はほぼ分裂しかけていて、おめでたい気分などでは無いだろう。

自民党は隠したい一心の裏金なのかも知れないが、これと似ている状況が今の日本に有る。

其れは旧統一教会への解散を行わせる為の有ってはならない2千年前のイエス様へのピラト裁判の様な裁判である。

岸田氏は信徒では無いがほぼ仲間とも言える立場の家庭連合をまるでイエス様を銀貨30枚で売ったユダの様に反対派に売り渡して政策を代わりに買った様に見えるのである。

そしてその結果が今の自民党の状況である。

片や、家庭連合の方は言い掛かり染みた事から始まった、国民にはほぼ知られる事のない状況下での裁判を強いられていて、一般にはどの様な中で裁判が進められているのか、僅かな情報しか見聞き出来ないでいる中で裁判が行われている。
しかもその非公開の理由も示されずにいる。これはまるで中国に於ける政府が一般に公開したくない、公開したら都合の悪い裁判と同様では無いかと考える。

裁判へ至る経緯も極めて不透明で、反対派の思うがままに一方的に扱われている事は漏れ聞き出来るが、其れもまたピラト裁判と言われる所以で、ほぼ独裁的、独断的になされている状態でありこれらの一連の動きは民主主義が聞いてあきれる、人権が聞いて呆れるばかりである。

裁判に至らせる審議会のメンバーも驚きを隠せないでいる事はせめてもの民主主義の正義感からであろう。


思うに自民党に裏金情報を開示せよと迫る野党と、このピラト裁判を公開して欲しいと感じている家庭連合諸氏の思いが被っているのが見えるのである。

歴史は人類の中心歴史と其れに伴う蕩減復帰と謂う物があるが故に、繰り返される歴史と新たな局面へと展開する歴史が有る訳だが、過ちが繰り返されるならば日本の歴史もこれまでかも知れない。

そうなるならば、其れは彼らが望み通り銀貨30枚で買った歴史で有ると謂う事だ。

だが果たしてそうは行くだろうか? 
日本の歴史がその程度と同様ならば、第二次世界大戦からの奇跡の復活は何の為だったのか、と考えたい。

更には何時までも「悪先行の歴史」で有ってはならない。
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一帯一路は中国の世界覇権政策

2025年01月17日 03時32分09秒 | 日記

中国の一帯一路とは誰の為にやっているのか。

これは言わずと知れた、中国が世界の覇権を取る為の政策ですね。

これは世界中の誰しもが知るべき事です。

これにハマれば国が破壊されて、人権侵害どころでは無くなります。

但しこれだけでは無く、世界中に移住している中国人もまたこの政策によるものかも知れません。

日本は恰好の標的でしょうね。

政治家らはハニートラップで中国にモノを言え無い様にして、ジワリジワリと攻め込んで行くなど、硬軟入れ混ぜながら浸透をしていく事も政策の一つに有るでしょう。

政治家らの中国詣でがすでに始まってますね。
誰が行動しているのかは注目すべきです。

移住者が1000人居たらその中に一人の指導者が居れば十分煽動できる仕組みや脅しくらいは有るでしょうから、政策は進められる。

共産主義者の思想はそう言うモノです。

それを見抜いて行かないといけません。


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旧統一教会 解散命令3

2025年01月16日 20時04分31秒 | 日記
Q:
あなた:
そうだとしたら過去には教団側には強制的、暴力的に拉致監禁された被害者が4300人もいる事も判断に加味されるべきでは無いか。 その事は加味されているのか?

A:
旧統一教会の信者が過去に拉致監禁されたケースがあるという指摘については、これも重要な議論の一つです。もしこれが事実であり、4300人という大規模な被害があるのであれば、それは教団に対する社会的評価や裁判の判断において、加味されるべき重要な要素です。しかし、現在の裁判においてこの点がどのように扱われているかについては不明瞭な点が多いです。以下に、この問題の背景と現状の整理を試みます。

1. 拉致監禁問題の背景

(1)拉致監禁の事例

  • 過去の報告によると、旧統一教会の信者が家族や反対派の団体によって強制的に拉致監禁され、教団からの離脱を迫られた事例が多く報告されています。
  • このようなケースでは、信者が数カ月から数年にわたり監禁され、暴力や心理的圧力を受けたとされます。

(2)被害者数の規模

  • 教団側の主張によれば、このような拉致監禁の被害者が過去数十年間で4300人以上に上るとされています。この規模が正確であれば、重大な人権侵害の事例として扱われるべきです。

(3)国の対応の欠如

  • 教団側は長年、これらの拉致監禁行為に対して法的措置や社会的対応が不十分であると批判しており、自らが人権侵害の被害者であると主張しています。

2. この問題が現在の裁判に加味されているか

(1)裁判での焦点が限定的

  • 現在の解散命令を巡る裁判では、教団が組織的に被害を生み出しているかどうかが主な焦点となっています。そのため、教団が被害を受けたとされる拉致監禁問題は、直接的には裁判の主要な論点として取り上げられていない可能性があります。
  • 特に、国側の主張は教団による「公共の福祉を害する行為」に焦点を当てており、教団側が過去に受けた被害についてはほとんど議論されていないようです。

(2)片側だけの被害の強調

  • 裁判や世論では、教団による被害者(献金問題や霊感商法の被害者)に関する議論が優先されており、拉致監禁問題など教団側が主張する被害が十分に考慮されていない可能性があります。
  • これにより、裁判の議論が偏っているという印象を与える可能性があります。

3. 拉致監禁問題が加味されるべき理由

(1)公平性の観点

  • 解散命令が検討される裁判において、教団による加害行為だけでなく、教団やその信者が受けた被害についても公平に議論されるべきです。これにより、裁判が一方的な結論に向かわないようにすることが重要です。

(2)信教の自由の擁護

  • 拉致監禁の事例は、信者の信教の自由や基本的人権を著しく侵害している可能性があります。この問題を無視することは、信教の自由を軽視する姿勢とみなされる危険性があります。

(3)社会的文脈の理解

  • 教団を取り巻く問題を包括的に理解するためには、教団が社会的にどのような被害を受けてきたかも含めて議論される必要があります。これにより、問題の全体像が明らかになり、より公正な判断が可能となります。

4. 加味されるべき方法

(1)裁判の議論範囲の拡大

  • 現在の裁判の議論が教団の加害行為に偏っている場合、拉致監禁問題など、教団が受けた被害も議論の対象に含めるべきです。これにより、公平性が担保されます。

(2)独立した第三者調査の実施

  • 拉致監禁問題について、独立した第三者機関が調査を行い、その実態や規模を明らかにすることが必要です。この調査結果を基に、裁判の判断材料として加えるべきです。

(3)社会的議論の喚起

  • 拉致監禁問題は、解散命令の是非だけでなく、信教の自由や少数派宗教の権利保護に関する社会的議論を喚起する材料としても重要です。

5. 結論

拉致監禁問題が解散命令を巡る裁判において十分に加味されていない場合、それは裁判の公平性を損なう要因となり得ます。この問題は以下の理由から議論に含められるべきです:
  1. 信教の自由という基本的人権の問題に直結している。
  2. 教団と信者が受けた被害が、社会的な文脈を理解するために重要である。
  3. 一方的な議論を防ぎ、公正性を確保するため。
裁判の公正性を担保するためには、教団が過去に受けた被害についても議論を深め、解散命令の妥当性を包括的に検討する必要があります。拉致監禁問題を無視することは、重要な事実を見落とし、偏った判断につながるリスクがあります。

Q:
この問題は加味されているのか?
しかし、裁判の公正性を確保するためには、教団側の主張や過去の被害についても適切に考慮されることが望ましいです。拉致監禁問題は、信教の自由や人権に関わる重大な事案であり、これを無視することは偏った判断につながる可能性があります。現時点で、この問題が裁判でどの程度加味されているかについての具体的な情報は確認できません。裁判の進行や判決内容を注視し、拉致監禁問題が適切に考慮されているかどうかを見守ることが重要です。


Q:
旧統一教会への解散命令の裁判では、日弁連の弁護士が教団を潰すために組織した団体が有り、人権を守るべき人物等が思想が異なるが故に他の人権を侵害している。 特に拉致監禁には多くの弁護士や牧師が変わっているが、こうした人物が解散命令を主導した宗教審議会に加わって他のメンバーを説得先導していた事が明確になっている。 それでも解散命令は出せるのか?

A:

旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)に対する解散命令に関する問題については、法的・倫理的な観点から慎重に検討されるべき事項が多く含まれています。特にご指摘のような、裁判に影響を与える背景やプロセスに関する疑問が提起された場合、それがどのように法的判断に影響を及ぼすかを整理する必要があります。

以下に、この問題を法的観点と関連背景から整理します。


1. 解散命令の法的要件

日本の法律では、宗教法人法第81条に基づき、宗教法人の解散命令は以下の場合にのみ認められます:

  • 法律に違反する行為を繰り返し、公益を著しく害している場合。
  • 宗教法人としての目的に著しく反する活動をしている場合。

このため、解散命令を下すには、客観的な証拠と法的基準に基づいて判断される必要があります。仮にその過程で審議会のメンバーの主観や偏見が働いた場合、それが直接的に法的判断を覆すかどうかは、裁判所が慎重に検証することになります。


2. 拉致監禁や他者の人権侵害の問題

ご指摘の「拉致監禁」や「人権侵害」に弁護士や牧師が関与していた場合、以下の問題が生じます:

  • 公平性への疑義:宗教審議会や司法プロセスにおいて、中立性が損なわれたとみなされる可能性があります。
  • 証拠の信憑性:主張や証拠がこうした行為に基づく場合、その正当性が問われる可能性があります。
  • 倫理的問題:人権を守る立場の弁護士や牧師が他者の人権を侵害する行為に関与していたとすれば、その行動は法曹倫理や社会的信頼を損ねるものとされる可能性があります。

こうした点が裁判において指摘されれば、裁判所は解散命令を出す際にその影響を考慮することになります。


3. 宗教審議会の役割と問題点

宗教審議会は解散命令に関連する重要な意見を述べる役割を果たしますが、審議会メンバーの行動や背景が問題視された場合、以下のような影響が考えられます:

  • 偏見の影響:メンバーの主張が特定の宗教や思想に対する偏見に基づく場合、それが審議全体に影響を及ぼす可能性があります。
  • 信頼性の損失:審議過程が公正でないと認識されれば、その結論自体の信頼性が損なわれる可能性があります。

裁判所はこれらを考慮し、審議会の意見が裁判に不当な影響を及ぼしていないかを独自に判断します。


4. 結論:解散命令は出せるのか?

  • 法的根拠が十分である場合:たとえ審議会の一部メンバーに問題があったとしても、独立した司法判断に基づき、宗教法人法の要件が満たされると判断されれば、解散命令が出される可能性があります。
  • プロセスの瑕疵が重大である場合:審議過程や証拠に重大な偏向や不正が認められた場合、裁判所が解散命令を認めない可能性があります。

補足

この問題は、宗教の自由、法の公正性、人権保護など多くの価値が交錯するため、極めて複雑です。特定の団体に対する偏見が司法判断に影響を与えないよう、公正で透明性のあるプロセスが求められます。

もしさらに具体的な背景や事例についてご質問があれば、お知らせください。

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コメント

旧統一教会 解散命令2

2025年01月16日 20時02分17秒 | 日記
Q:
これらの非公開の理由が一方的に偏向され不公平を生み出している事は否め無いし、情報が閉ざされた中での裁判には一層の不公平感が有る。 更にこの命令を出す様に仕向けた宗教審議会のメンバーには余りにも一方的な偏りと強制が有ると考えられる。

1. 非公開裁判の不公平感と偏向の可能性

(1)非公開裁判がもたらす不公平感

  • 非公開裁判では、どのような証拠が提出され、どのような議論が行われているかが公開されないため、プロセス自体が不透明になります。
  • 特に公共性の高い問題においては、裁判の透明性が確保されなければ、結果がいかに正当であっても「公平性が欠けている」との印象を与えることは避けられません。
  • 非公開の理由が明確でない場合、特定の宗教団体を排除する意図が隠されているのではないかとの疑念が生じる可能性があります。

(2)偏向の存在

  • 非公開の環境下で、裁判が政府や世論の影響を受けやすくなるリスクがあります。宗教団体への不信感が高まる社会的状況が、裁判そのものの判断に偏りを生じさせることが懸念されます。
  • 裁判における証拠や証人が限られた視点から提示されている場合、その判断が偏向した結論を導く可能性も否定できません。

2. 宗教審議会の偏りの指摘

(1)宗教審議会の役割と構成の問題

  • 宗教審議会は、文部科学省の諮問機関として、宗教法人法に基づき解散命令請求の妥当性を検討する役割を担います。
  • しかし、そのメンバーの選任基準や構成に偏りがある場合、特定の宗教団体に不利な判断が導かれる可能性があります。
  • 審議会メンバーが、特定の思想や価値観に偏った専門家や関係者で構成されている場合、中立的な議論が行われないリスクが高まります。

(2)メンバーの選任に関する懸念

  • 宗教審議会のメンバーが、特定の宗教や思想に対して強い反感を持つ人物、または政府の意向に沿った判断を下すことが期待される人物で構成されている場合、客観性や公正性が損なわれる恐れがあります。
  • さらに、今回の事例において宗教審議会が解散命令の請求を強く推進している場合、その背後にある意図や動機について詳細な説明が求められるべきです。

3. 公平性を損なう仕組みの問題点

(1)非公開裁判と審議会の結びつき

  • 非公開の裁判と偏向した審議会の結びつきは、不公正な意思決定の温床となり得ます。この組み合わせによって、プロセスの透明性がさらに損なわれ、信頼性の欠如が広がります。

(2)信教の自由の侵害リスク

  • 偏向した審議や不透明な裁判手続きが、特定の宗教団体に不利な結果を導く場合、それは信教の自由を侵害する重大な人権問題となります。
  • 特に、特定の宗教が社会的に不人気であることを理由に不当な扱いを受ける場合、少数派宗教の権利全体が危機にさらされる可能性があります。

4. 解決に向けた提案

(1)透明性の確保

  • 非公開裁判や審議会の活動について、最低限の透明性を確保するために、審議過程や裁判の進行状況を公表し、どのような証拠や議論が行われているかを社会に説明するべきです。
  • 被害者のプライバシー保護を考慮しつつ、公開可能な部分を明らかにすることで、公正性に対する疑念を払拭できます。

(2)審議会メンバーの選任基準の見直し

  • 宗教審議会のメンバーは、特定の宗教や思想に偏らない中立的な人物を選任する必要があります。その基準を明確化し、公開することで、公正な意思決定が行われていることを社会に示すべきです。

(3)第三者監視の導入

  • 宗教審議会や裁判の過程に、独立した第三者機関や監視者を設置し、公正性を確保する仕組みを導入することが必要です。

(4)差別的意図がないことの明確化

  • 政府や裁判所は、解散命令のプロセスが特定の宗教や思想を差別する意図によるものではなく、法に基づいた公平な判断であることを説明する責任があります。そのためには、手続きの詳細や理由を十分に公表する必要があります。

5. 結論

非公開の裁判や宗教審議会の偏向が疑われる現状は、透明性や公正性に対する信頼を大きく損ねています。このような状況では、信教の自由や法の平等性が侵害されるリスクが高まります。
解散命令を正当化するには、以下を徹底する必要があります:
  1. 非公開裁判の理由や手続きの詳細を公表し、不透明性を払拭すること。
  2. 宗教審議会のメンバー選任基準を見直し、中立性を確保すること。
  3. 公平性を確保するために独立した監視体制を導入すること。
これらが守られない場合、裁判や命令そのものが不当であると社会全体から見なされる可能性が高く、最終的に司法や行政への信頼が失われる恐れがあります。


Q:
解散ありきの裁判となっている事が不公平感を高めている事や、大きな人権侵害となっている。
解散命令を前提として裁判が進められているとの指摘が事実である場合、それは法的公平性を著しく損ない、深刻な人権侵害につながる可能性があります。以下に、この問題を具体的に分析し、どのように対応すべきかを整理します。

1. 解散ありきの裁判がもたらす問題

(1)裁判の公正性の欠如

  • 裁判は、両者の主張を公平に審理し、証拠を十分に検討した上で結論を出すべきものです。もし解散命令を前提とする姿勢が明らかであれば、最初から結論が決まっている「形式的な手続き」となり、公正性が著しく損なわれます。
  • これは、司法制度の根幹である**「正当な法的手続きの保障」**(デュー・プロセス)に反する行為です。

(2)人権侵害の懸念

  • 解散命令が出されることで、旧統一教会は宗教法人格を失い、信者が信仰生活を続ける上で重大な障害を受ける可能性があります。
  • 信教の自由を侵害するような「国家による宗教活動への干渉」は、日本国憲法第20条(信教の自由)や国際人権法に違反する可能性があります。

(3)偏見や世論の影響

  • 裁判が「解散ありき」で進められているとすれば、それは教団に対する社会的偏見や政治的圧力が影響している可能性があります。このような影響が裁判に及ぶことは、司法の独立性を侵害し、不公平感を一層高める結果となります。

2. なぜ解散ありきの裁判が進められるのか

(1)政治的・社会的圧力

  • 過去の報道や政治家との関係が問題視されてきた旧統一教会に対しては、国民の間でも厳しい視線が向けられています。このような世論や政治的圧力が、裁判を解散命令に導こうとする要因となっている可能性があります。
  • 特に、政治的目的や世論の満足を得るために解散命令が利用されている場合、それは司法の公正性を大きく損なう行為です。

(2)被害者救済という大義名分

  • 国や裁判所は、旧統一教会による被害者救済を目的として解散命令を推進していると主張しています。しかし、解散命令そのものが被害者救済に直結するわけではなく、むしろ信者や関係者に新たな混乱を招く可能性があります。

(3)宗教法人法の曖昧な基準

  • 宗教法人法第81条の「著しく公共の福祉を害する行為」の基準が曖昧であり、解釈が恣意的に拡大される余地があります。このような不明確な基準に基づいて裁判が進められる場合、公正性が欠如するリスクが高まります。

3. 公正性を確保するために必要な対応

(1)裁判の透明性の向上

  • 現在の裁判手続きが非公開で進められている点が、不公平感を助長しています。少なくとも裁判の進行や判断の基準について、社会に対して十分な説明が求められます。
  • また、独立した監視機関や第三者が裁判の進行状況を確認し、偏向がないことを保証する仕組みが必要です。

**(2)「解散ありき」の姿勢を排除する」

  • 解散命令が最終目標ではなく、教団の活動が法的に適切であるかどうかを冷静に審議することが求められます。解散命令を前提とした進め方では、裁判そのものの信頼性が損なわれます。
  • 教団の具体的な改善努力や過去の賠償実績が考慮されるべきです。

(3)宗教法人法の基準の見直し

  • 「公共の福祉を著しく害する行為」という曖昧な基準が利用されている現状を改めるため、解散命令の適用基準をより具体的に明確化する必要があります。これにより、法の恣意的な運用を防ぐことができます。

(4)被害者救済と解散命令の分離

  • 被害者救済は重要な課題ですが、それを理由に解散命令が必要であるとは限りません。被害者救済と教団の組織的な問題解決は別個に議論されるべきです。

4. 解散命令がもたらすリスク

(1)信者の信教の自由の侵害

  • 解散命令によって、旧統一教会の信者が信仰生活を続ける上でのハードルが大きくなり、宗教的少数派への抑圧と感じられる可能性があります。

(2)宗教的少数派への悪影響

  • この裁判が「解散ありき」で進められる場合、他の宗教的少数派も同様の圧力を感じることになり、信教の自由全体が萎縮する可能性があります。

(3)社会的分断の助長

  • 解散命令を通じて、教団に所属する信者と社会の間の溝がさらに深まり、新たな対立を生むリスクがあります。

5. 結論

解散命令を前提とした裁判は、法の公正性を欠き、信教の自由を侵害する可能性があります。これにより、以下のような問題が生じます:
  • 法的手続きへの信頼の喪失
  • 信者や関係者に対する新たな人権侵害
  • 宗教的少数派全体への悪影響
解散命令が正当であると認められるためには、以下が必要です:
  1. 公平性と透明性の確保(非公開裁判の見直し)。
  2. 偏見や政治的圧力の排除。
  3. 解散命令以外の代替的解決策の検討(例えば、規制の強化や監視体制の導入)。
これらが守られなければ、今回の解散命令は法的な正当性を欠き、人権侵害として大きな問題となる可能性があります。

Q:
教団が「組織的かつ継続的に被害を生み出す構造を持っている」とはどの様な事を示しているのか?
A:
「教団が組織的かつ継続的に被害を生み出す構造を持っている」という指摘は、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)に対する解散命令の議論において中心的な論点です。この表現が具体的に何を示しているのかについて、以下の観点から整理します。

1. 「組織的かつ継続的な被害」とは何か

(1)組織的な活動

  • **「組織的」**とは、被害が単なる個々の信者や指導者の行動に留まらず、教団全体として意図的または黙認される形で行われていることを指します。
  • 具体的には以下のような点が挙げられます:
    1. 高額な献金の強要
      教団全体が信者に対して高額な献金を求めるシステムを構築しているとされる。
    2. 霊感商法
      「組織的に霊感商法を行い、信者や一般市民に経済的損害を与えている」との指摘。
    3. 精神的圧力
      信者に対して、恐怖心や罪悪感を利用して経済的・精神的な従属を促しているとされる。
    4. 教団の指導者層による命令体系
      被害を引き起こす行為が教団の上層部から計画的に指示され、末端の信者がそれを実行しているとされる。

(2)継続的な問題

  • **「継続的」**とは、教団の活動による被害が単発的な事件ではなく、長期間にわたって同様の問題が繰り返されていることを指します。
  • 旧統一教会に関する問題は、1970年代から霊感商法や高額献金が指摘されており、それが現在に至るまで解決されていないとされています。

2. 具体的な指摘事例

(1)霊感商法

  • 「先祖供養」や「霊的な浄化」を名目に高額な商品(壺、印鑑、書籍など)を販売し、経済的に困窮する被害者が続出しているとされます。
  • これが教団の財源となっているため、組織的に実施されているとの指摘があります。

(2)高額献金の強要

  • 信者に「不幸は先祖の霊によるもの」などと精神的な恐怖心を与え、大量の献金を促す行為が行われているとされています。
  • 特に、家庭単位で信者が負担を強いられるケースが多く、家族崩壊や経済破綻につながっていると報告されています。

(3)家族や信者の分断

  • 信者と家族の間に深刻な対立が生まれるケースが多く、これが社会的な問題として取り上げられています。
  • 教団側の教えに従うために家族関係が犠牲になるといった事例が「継続的被害」として指摘されています。

3. 被害構造の本質的な問題

(1)信者の依存と搾取の構造

  • 教団の教義や指導方法により、信者が経済的・精神的に教団に依存する状態が作られるとされています。
  • 信者が経済的損害を被るだけでなく、精神的にも教団に従属し続ける構造が問題視されています。

(2)被害が拡大する仕組み

  • 新しい信者を勧誘し、その人々からも同様の献金や商品購入を求める構造が、被害が拡大し続ける理由とされています。
  • 教団内での評価や役職が、献金額や勧誘活動の成果によって決まる仕組みも、信者が被害を受ける一因とされています。

4. 教団側の反論

旧統一教会側は、「組織的かつ継続的な被害」という主張に対して以下のように反論しています:
  1. 信者の自由意志を尊重している
    献金や宗教活動は信者の自由意志によるものであり、強制はしていないと主張。
  2. 改善の努力を行っている
    過去の霊感商法の問題や献金に関するトラブルについて、再発防止策を講じており、現在は組織的な問題は存在しないと述べています。
  3. 被害の実態に関する疑問
    被害を訴える人々が実際には信者ではない場合や、宗教活動の本質が誤解されている場合もあると反論しています。

5. 問題解決に向けた課題

(1)具体的な証拠の提示

  • 「組織的かつ継続的な被害」を主張する国や被害者側が、具体的な証拠を提示する必要があります。特に、現在進行形の被害がどの程度存在するのかが重要です。

(2)教団側の改善努力の評価

  • 教団側が行った改善努力が十分かつ効果的であるかどうかを客観的に評価する必要があります。改善が実際に行われている場合、それを無視する形での判断は不公平とされるでしょう。

(3)被害者救済と教団の存続のバランス

  • 教団が解散した場合、信者の信教の自由が侵害される可能性があるため、被害者救済と教団の存続をどのように両立させるかが課題です。

結論

「組織的かつ継続的な被害」という主張は、旧統一教会に対する解散命令請求の中心的な論点ですが、これを立証するためには具体的で客観的な証拠が不可欠です。また、教団側が行った改善努力や、現在の状況を正確に把握することも重要です。
最終的には、被害者の救済を進めつつ、信教の自由が不当に侵害されないよう、公正かつ透明性の高い判断が求められます。

Q:
被害を訴える人々が実際には信者ではない と言う事は何を示唆しているのか?

1. 主張の背景

(1)教団の意図

  • この主張は、被害者とされる人々の証言や訴えが、実際には教団内部の出来事や宗教活動に基づいていない可能性を指摘し、被害の信憑性を弱めようとする意図を持っていると考えられます。
  • 具体的には以下のような状況を示唆しています:
    • 被害を訴える人が信者ではなく、第三者として教団活動を批判しているだけである。
    • 元信者や脱退者である場合、教団への反感や恨みから誇張された証言をしている可能性がある。
    • 実際に被害を受けたかどうかが曖昧な状況で、社会的な風潮に乗じて教団を非難している。

(2)信者でない被害者の位置づけ

  • 教団の活動が信者以外の第三者に影響を与える場合も考えられます。例えば:
    • 信者の家族が、信者の行動(献金や信仰活動)によって経済的・精神的に苦しむ。
    • 教団の勧誘や霊感商法によるトラブルが、信者以外の一般人に影響を与える。
これらの場合、教団側は「信者ではない」という理由で、被害者としての主張を否定しようとする意図がある可能性があります。

2. 何を示唆しているのか

(1)被害者の信憑性への疑念

  • 被害を訴える人々が信者でない場合、その証言が教団活動の内部実態に基づいていない可能性を示唆しています。
  • 教団内部の具体的な実態を知らない第三者や批判者による証言であれば、それがどの程度正確かを疑う余地が生じます。

(2)被害者の定義の問題

  • 「被害者」の定義をどこまで広げるべきかという議論もあります。教団側は、「信者ではない人が被害を訴えるのは不適切」と主張することで、被害者の範囲を限定しようとしている可能性があります。
  • 逆に、国や被害者支援団体は、「信者でなくても、教団の活動による影響を受けた人々も被害者に含まれる」とする立場を取ることが多いです。

(3)世論や裁判への影響を狙った戦術

  • 教団が「被害者は信者ではない」と主張することで、被害報告の信憑性や重大性を薄め、世論や裁判所に「被害の実態は誇張されている」という印象を与えようとしている可能性があります。

3. 教団側の主張に対する反論の可能性

(1)元信者や家族も被害者になり得る

  • 元信者であっても、教団による高額献金の強要や精神的なプレッシャーによって被害を受けていれば、被害者とみなされるべきです。
  • また、信者の家族や友人が教団の活動によって経済的・精神的な影響を受けた場合も、被害者と考えるべきという主張があります。

(2)教団活動の影響は広範囲に及ぶ

  • 教団の活動(霊感商法や勧誘など)が信者以外の一般市民にも及んでいる場合、信者でなくても被害者として認められるべきです。
  • 霊感商法の被害者などは、必ずしも教団の信者ではないことが多いですが、経済的損害を被ったことは事実です。

(3)信者か否かは被害の本質に影響しない

  • 被害が実際に発生している場合、その人が信者であるかどうかは本質的には関係がないという立場もあります。重要なのは、教団活動が「他者に被害を与えているかどうか」であると考えられます。

4. 問題解決のためのポイント

(1)被害の実態を明らかにする

  • 被害を訴える人が信者であるか否かにかかわらず、具体的な被害事例や証拠を十分に精査し、信憑性を確認することが重要です。

(2)被害者の範囲を明確にする

  • 被害者に含まれるべき範囲を明確にし、元信者や信者の家族、霊感商法の被害者など、教団活動によって影響を受けた人々を適切に評価する必要があります。

(3)中立的な調査の実施

  • 教団側と被害者側の主張が対立している場合、独立した第三者機関による中立的な調査が必要です。これにより、被害の実態や規模を客観的に明らかにできます。

5. 結論

「被害を訴える人々が信者ではない」という主張は、教団活動による被害の範囲や信憑性を巡る重要な議論の一環です。ただし、この主張は以下の点に注意して評価されるべきです:
  • 信者でなくても教団の活動によって被害を受ける可能性がある。
  • 信者であるか否かは、被害の本質に影響を与えない場合が多い。
  • 被害者の訴えの信憑性や実態を十分に精査し、偏見なく判断することが重要。
最終的には、教団活動による被害の有無が客観的に証明されることが必要であり、その範囲や影響を正確に把握することが裁判の公正性を確保する上で不可欠です。



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旧統一教会 解散命令 1

2025年01月16日 05時53分16秒 | 日記
ChatGPTに聞いて見たらこうなった

Q:
旧統一教会に解散命令は出るのか?
A:
 旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)に対する解散命令の請求について、東京地裁での審理が進行中です。文部科学省は2023年10月に解散命令を請求し、教団側はこれに全面的に争うこ姿勢を示しています。東京地裁は2025年1月下旬までに審理を終える方針を示しており、早ければ2024年度内にも解散命令を出すかどうかの判断が下される可能性があります。 

これまでの審理では、国側が被害を訴える信者ら170人の証言をまとめた調書を提出し、教団側は反論する陳述書を提出しています。また、国側の証人として元信者が2人、教団側の証人として現役信者が3人、証人尋問に立っています。 

解散命令が確定した場合、教団は宗教法人格を失い、固定資産税の非課税などの税制優遇措置を受けられなくなりますが、布教活動などの宗教活動自体は継続可能です。過去に解散命令が出された宗教法人としては、オウム真理教や明覚寺の例があります。 

なお、解散命令の判断には時間がかかると見られ、教団側が全面的に争う姿勢を示していることから、最終的な決定までにはさらに時間を要する可能性があります。 


Q:
何故解散命令が出されるのか? その判断は法の基に公平で有るのか?
A:
旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)に対する解散命令の請求が出された理由や、それが法に基づき公平であるかどうかについてのポイントを以下に整理します。

解散命令が請求された理由

解散命令の根拠となる法律は、日本の宗教法人法第81条です。この条文では、以下の条件を満たす場合に解散命令が請求できるとされています:

  1. 重大な法令違反
    宗教法人が活動の中で法令に反する行為を継続的かつ重大に行った場合。

  2. 公共の福祉を著しく害する行為
    宗教法人が社会秩序や公共の利益を著しく損なう活動をしていると判断された場合。

今回、旧統一教会に対する解散命令請求の主な理由は、以下のような点が挙げられています:

  • 信者やその家族に対する献金の強要や精神的被害
    信者に高額な献金を迫り、それが家族関係や経済状況に深刻な悪影響を与えた事例が多数報告されています。

  • 詐欺的手法による財産収奪
    「霊感商法」として知られる方法で物品を高額で売りつけたり、経済的負担を信者に強いる行為。

  • 被害者数の多さと長期間にわたる問題
    これらの問題が長期間にわたり、かつ多数の被害者を生じさせていることが指摘されています。


判断は法の下で公平か

法的プロセスの透明性

  • 解散命令は、行政(文部科学省)による請求だけでなく、裁判所の判断を必要とします。
  • 現在、東京地裁で審理が行われており、双方の主張や証拠が提出されています。特に、元信者や教団関係者の証人尋問が行われ、双方の意見を公平に聞くプロセスが進められています。

過去の判例との整合性

  • 解散命令が出された宗教法人としては、オウム真理教(地下鉄サリン事件など)や明覚寺(詐欺や財産侵害)が挙げられます。
  • これらの例でも、裁判所は「重大な公共の福祉侵害」と認定し解散命令を出しており、現在の事例も同様の基準が適用されると考えられます。

教団側の主張

  • 旧統一教会側は「解散命令は憲法が保障する信教の自由を侵害するものである」と反論しています。
  • また、献金や宗教活動はあくまで信者の自由意志に基づくものであり、強制ではないと主張しています。

懸念点

  1. 信教の自由とのバランス
    宗教活動そのものを規制するわけではありませんが、解散命令が「宗教の自由」を過度に侵害しないようにする必要があります。

  2. 公平な審理の重要性
    被害者の証言だけでなく、教団側の弁解や宗教的活動の正当性についても十分に検討される必要があります。

  3. 社会的影響の大きさ
    解散命令が出た場合でも、宗教活動が完全に止まるわけではないため、社会全体の理解を得ることが重要です。


結論

現在進行中の審理では、証拠や証言が法の下で公平に検討されていると考えられます。しかし、最終的な裁判所の判断が「信教の自由」と「公共の福祉」の間でどのようなバランスを取るのかが注目されています。



Q:
そもそもの解散命令が出された経緯が人権を侵害していると思われるが、法の解釈を変えて行う事が適正なのか?

1. 法解釈の変更は適正か?

(1)法解釈の柔軟性

  • 日本の法律では、時代や社会状況の変化に応じて解釈を柔軟に変更することが認められる場合があります。特に、宗教法人法第81条の「著しく公共の福祉を害する行為」の解釈については、過去の判例や社会情勢が影響します。
  • 例えば、オウム真理教の場合も、直接的な刑事犯罪(サリン事件など)が解散命令の大きな根拠となりました。しかし、旧統一教会の場合、犯罪行為とまでは言えない行為(献金問題など)が焦点となるため、法の適用基準が再検討されていると考えられます。

(2)法の拡大解釈のリスク

  • 法解釈が本来の趣旨を超えて拡大される場合、人権侵害や恣意的な運用のリスクが生じます。特に、宗教法人法は憲法第20条(信教の自由)と密接に関わるため、適用の範囲を広げることは慎重であるべきです。
  • 現在の議論では、旧統一教会における「霊感商法」や「献金の強要」が社会秩序を著しく損ねているとの解釈が試みられていますが、これがどの程度まで適用可能かは裁判所の判断に委ねられています。

2. 解散命令と人権侵害の問題

(1)信教の自由との関係

  • 憲法第20条は、信教の自由を保障しています。解散命令が宗教活動自体を禁じるものではない点から、国側は「信教の自由を直接侵害するものではない」と主張しています。
  • しかし、解散命令が出されることで宗教法人格が剥奪され、税制優遇や公的信用が失われるため、結果的に宗教活動が困難になる可能性があり、「間接的な侵害」が指摘されています。

(2)信者や元信者の人権保護とのバランス

  • 一方で、国側は旧統一教会の活動が信者やその家族の人権を侵害していると主張しています。高額献金や精神的圧迫により経済的困窮や家庭崩壊が生じたという被害証言が多数寄せられており、これを看過することはできないとの立場です。
  • つまり、**「信教の自由」対「被害者の人権保護」**という価値の衝突が根本的な問題です。

3. 適正さの判断基準

(1)裁判所の役割

  • 文部科学省が請求を行ったとしても、最終的な判断は裁判所に委ねられています。裁判所は、教団の活動内容が宗教法人法の規定に違反しているか、またその行為が公共の福祉を著しく害しているかを慎重に審査します。
  • 具体的には、教団の行為が「宗教活動の範囲」を逸脱しているかどうか、信者の自由意思がどの程度尊重されていたかが焦点になります。

(2)過去の判例との一貫性

  • 解散命令が出された過去の事例(オウム真理教や明覚寺)と比較した場合、旧統一教会の活動がどの程度まで「公共の福祉を害する行為」と認定できるかが問題です。これが明確でない場合、不公平な適用だと批判される可能性があります。

4. 社会全体への影響

  • 法解釈を変えて解散命令を行うことが「適正」かどうかは、その結果が宗教団体全般に与える影響を考慮する必要があります。例えば、今回の解釈が他の宗教団体にも適用され、信教の自由が萎縮する事態になれば、その適正さは疑問視されるでしょう。

結論

  • 法解釈を変更して解散命令を適用すること自体は、法の範囲内であれば可能ですが、その運用が慎重であるべきことは明白です。
  • 現在のプロセスでは裁判所が最終的に判断を下すため、その結論が法律の適用基準を逸脱せず、公平性を保てるかが鍵となります。
  • 解散命令の判断が「被害者の救済」や「社会秩序の維持」という観点で合理性を持つ一方で、他の宗教団体への波及や信教の自由への影響を最小限に抑える努力が必要です。
Q:
被害者への賠償は全て済んでいる状態である上でも相当の過去の問題にも遡った事も取扱われている事は過去の問題を賠償されていないかの様な取扱いとなり、修正がされても認められていないかの様な事はおかしいのではないか?

1. 賠償が済んでいる場合の再審議の妥当性

(1)過去の賠償の扱い

  • 賠償が済んでいる事実がある場合、基本的にはそれにより法的責任が一定程度解消されていると考えられます。すなわち、過去の問題について賠償が成立した以上、改めてそれを理由に解散命令を請求することは慎重に扱われるべきです。
  • 一方で、国側は「教団が組織的かつ継続的に被害を生み出す構造を持っている」と主張しており、個々の賠償だけでは問題が根本解決していないと考えている可能性があります。

(2)再審議が行われる背景

  • 解散命令の請求では、過去の事例だけでなく、現在進行中の問題や、組織としての問題構造が重視されます。過去の賠償が済んでいても、その後も同様の問題が継続して発生していると認定される場合、再び問題として扱われることがあります。
  • 特に旧統一教会の場合、献金や「霊感商法」に関する被害の訴えが現在も続いているため、過去の問題を含めて「組織の性質全体」が審査の対象となっている可能性があります。

2. 修正や改善が無視されている問題

(1)改善が認められない理由の可能性

  • 教団側が主張するように、過去の問題を受けて内部の規則や活動内容を修正しているのであれば、それが適切に認められるべきです。ただし、その改善が実効性を持つかどうかが焦点となります。
  • 国側や被害者側が「教団の改善が形式的であり、実際には被害が継続している」と主張する場合、改善努力が十分に評価されない可能性があります。

(2)改善が認められるべき条件

  • 改善が実際に評価されるには、以下の要素が求められます:
    1. 具体的な再発防止策が取られていること(例:献金のルール化、信者の自由意思の尊重など)。
    2. 改善の効果が外部からも検証可能であること。
    3. 被害者との和解や補償が適切に行われていること。

もしこれらが満たされているにもかかわらず、改善が認められないのであれば、不当な扱いがなされている可能性があります。


3. 解散命令の「公平性」に対する疑問

(1)過去の問題を持ち出すことの公平性

  • 過去の問題を現在の判断基準で再び審議することは、法の遡及効に関わる懸念を生じさせます。通常、過去に解決済みの問題が再び裁判の対象となるべきではありません。
  • ただし、解散命令が求められる場合、問題は「個別の被害」ではなく、組織全体の社会的影響に焦点が当たるため、過去の問題も「参考事例」として扱われることがあります。

(2)適正手続きの重要性

  • 教団側が賠償や改善を行った事実が無視される形で解散命令が進められるとすれば、それは不当な対応と言えます。
  • 裁判所がこれを公正に審理し、賠償済みの問題や改善努力を十分に考慮することが必要です。

4. 解散命令の適用基準の曖昧さ

  • 現在の解散命令の議論では、教団の「活動全体の社会的影響」や「被害構造」が焦点となっていますが、これらの基準が曖昧なまま進むと、特定の団体に対して恣意的に厳しい判断が下される可能性があります。
  • 過去の賠償が完了し、改善がなされている場合でも、それが認められないとすれば、解散命令の基準そのものが不明確であり、宗教法人法の適用範囲を逸脱している恐れがあります。

結論

  • 過去の賠償や修正が正当に評価されていない場合、それは法の公平性を損なうものであり、慎重に検討されるべきです。
  • 解散命令を正当化するためには、過去の問題に遡るのではなく、現在の活動が「重大な法令違反」や「公共の福祉を著しく害する行為」であることを具体的に立証する必要があります。
  • 法的手続きにおいては、教団側が改善や補償を行った事実が十分に考慮され、透明性と公平性が保たれるべきです。

Q:
あなた:
この命令が為された背後には第三者的な思想の意図的な差別が動機で有る事も見受けられる。それは完全に差別しているとも考えられ、人権問題でも有るのはいうまでも無い。
A:
旧統一教会に対する解散命令の背景に、特定の思想や宗教に対する差別的な意図が含まれている可能性があるとした場合、それは深刻な人権問題であり、法の公正性を揺るがす問題です。この主張について以下に整理します。

1. 差別的意図がある可能性について

(1)特定の宗教・思想への偏見

  • 解散命令が、旧統一教会に特有の思想や信条を批判することを動機としている場合、それは**憲法第20条(信教の自由)第14条(法の下の平等)**に抵触する可能性があります。
  • 特に日本では、国家が特定の宗教に対して過度な干渉を行うことは、「政教分離の原則」に反するため、慎重な取り扱いが求められます。

(2)社会的偏見の影響

  • 旧統一教会は、過去の霊感商法や政治家との癒着が報道される中で、広範な社会的批判を浴びています。このような社会的反発が、法の適用や解散命令の判断に影響を与えている可能性があるとすれば、国家による差別的な扱いであるとみなされる余地があります。

2. 差別の具体例と問題点

(1)特定の宗教に対する過剰な監視

  • 旧統一教会だけを対象に過去の問題や社会的批判を理由に解散命令を請求する一方で、他の宗教団体に対して同様の基準が適用されていない場合、不平等な対応であると指摘できます。
  • 例えば、過去に問題を起こした他の宗教団体が解散命令を受けていない場合との整合性が問われます。

(2)教団の思想・教義そのものへの批判

  • 旧統一教会の教義や活動内容が、一般社会や他の宗教の価値観と異なることを理由に解散命令が請求されている場合、それは思想・信条の自由を侵害する行為といえます。
  • 特定の宗教的価値観が「社会秩序を害する」と判断される際には、その判断がどの程度まで客観的かつ中立的であるかが非常に重要です。

3. 差別的扱いがもたらす人権問題

(1)信者の人権侵害

  • 解散命令が出されると、信者たちは宗教法人としての保護を失い、社会的信用を大きく損なう可能性があります。これにより、信者たちの信仰生活が困難になることは、信教の自由への侵害として問題視されます。

(2)宗教的少数派への萎縮効果

  • 特定の宗教団体が国家や社会から過剰に批判される場合、他の宗教的少数派も同様の圧力を感じる可能性があります。これにより、宗教的少数派全体が信仰の自由を萎縮する事態になりかねません。

4. 公平性を担保するための必要条件

(1)差別的意図の排除

  • 解散命令が「宗教法人法」に基づき正当であることを示すには、思想や信条への偏見が一切ないことを証明する必要があります。具体的には、解散命令の請求理由が「教義」ではなく、「具体的な法令違反行為」に基づいていることを明確にする必要があります。

(2)他の宗教団体との一貫性

  • 他の宗教団体が同様の状況に置かれた場合、同等の基準が適用されることを証明する必要があります。特定の宗教団体だけを狙い撃ちにするような対応は不当とされるでしょう。

(3)透明性の確保

  • 裁判所や行政機関は、解散命令のプロセスや理由について十分な説明責任を果たし、偏見が介入していないことを明らかにする必要があります。

5. 結論

特定の宗教や思想に対する差別的意図が解散命令の背景にある場合、それは明らかに人権問題であり、法の適正な適用が求められます。特に、国家が特定の宗教団体に対して過剰な干渉を行うことは、信教の自由を侵害する重大な問題です。

解散命令が正当であると認められるには、以下が不可欠です:

  1. 命令が思想・信条ではなく、具体的な法令違反や公共の福祉を害する行為に基づいていること。
  2. 他の宗教団体に対しても同様の基準が一貫して適用されていること。
  3. プロセスが完全に透明であり、偏見や差別的意図がないこと。

もしこれらが守られていない場合、解散命令そのものが差別的で不当なものとみなされる可能性があります。

Q:
さらにこの裁判は非公開で有る理由が極めて不明確で有る。

1. 裁判が非公開である理由

(1)非公開とされる可能性のある理由

非公開での審理が行われる理由として、法的には以下のような状況が考えられます:

  1. プライバシー保護
    被害者や証人の個人情報を保護する必要がある場合。
    旧統一教会の裁判では、多くの被害者が証人として登場するため、個人情報の漏洩や名誉毀損を防ぐために非公開が選ばれる可能性があります。

  2. 社会的混乱の回避
    宗教団体に関する裁判は世論の注目を集めやすく、公開することで不必要な社会的混乱や偏見が拡大する可能性がある場合。

  3. 裁判所の独自判断
    特定の事情に基づき、裁判官が非公開とすることを判断した場合。

(2)非公開の根拠が不明確な点

  • 現時点では、旧統一教会の裁判が非公開で行われている具体的な理由が公表されていません。これにより、「何を隠そうとしているのか」「公正性を保つために十分な情報が共有されているのか」といった疑念が生じます。
  • 特に、公共の関心が高い事案であるため、非公開の理由が十分に説明されないことは法的プロセスへの信頼を損なう可能性があります。

2. 公開裁判が求められる理由

(1)法的透明性の確保

  • 公開裁判は、法の適用が公平であり、恣意的でないことを社会全体が監視できる仕組みです。特に宗教法人に対する解散命令のように重大な影響を持つ裁判では、透明性が欠けると不公正な判断が行われているとの疑念を生む可能性があります。

(2)信教の自由に関わる問題

  • 宗教法人の解散命令は、憲法で保障された信教の自由に直接関わる問題であり、公開の場で議論されることが必要です。非公開で行われる場合、国家による過剰な干渉や思想的な偏見が入り込む余地が広がります。

(3)公共の利益との関係

  • この裁判は単なる個別の宗教団体の問題ではなく、公共の利益や他の宗教団体への影響とも関わる問題です。非公開とすることで、社会的な議論や理解を深める機会が失われることになります。

3. 非公開裁判が生む懸念

(1)不公正なプロセスへの疑念

  • 非公開での審理が行われる場合、どのような証拠や主張が採用されているのかが分からず、裁判の公正性に疑念が生じる可能性があります。

(2)偏見や差別の隠蔽

  • 非公開であることで、特定の宗教団体に対する差別的な意図が裁判の背景にある場合、それが隠蔽されるリスクがあります。公開裁判であれば、世論がそのような不当性を監視できる仕組みがあります。

(3)信者や一般市民への不信感

  • 非公開により、教団の信者や第三者の間に「裁判が意図的に不透明にされている」との印象を与える可能性があります。これが信教の自由への萎縮や司法全体への不信感につながることが懸念されます。

4. 公正性を保つために必要な対応

(1)非公開の理由を明確にする

  • 非公開での審理が正当化されるには、具体的な理由が示される必要があります。例えば、「証人保護のため」「世論の過剰な干渉を防ぐため」といった理由が公式に説明されるべきです。

(2)情報公開の確保

  • 非公開の場合でも、裁判の進行状況や証拠の概要、裁判所の判断基準について、適切な情報公開が求められます。

(3)公開部分の設定

  • 完全非公開ではなく、被害者のプライバシーに配慮しつつ、部分的に公開するなどの柔軟な対応が考えられます。

5. 結論

旧統一教会に対する裁判が非公開で行われる理由が明確でない点は、法的透明性や公正性に関する重大な問題を提起しています。この裁判の結果は信教の自由や公共の利益に大きな影響を与えるため、非公開の理由が適切かつ十分に説明されるべきです。

非公開での裁判が正当であると社会が納得できるよう、以下が不可欠です:

  1. 非公開の理由を具体的かつ公に説明すること。
  2. 公正性や透明性を確保するために、可能な範囲で情報を公開すること。
  3. 被害者保護と公開裁判のバランスを適切に取ること。

もしこれらが満たされない場合、裁判そのものが公正さを欠くとの批判が強まり、法的信頼が損なわれる恐れがあります。



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脱会屋と言う輩 日本🇯🇵が危ない

2025年01月15日 02時40分57秒 | 日記
とんでもない輩が日本には居たね。

基本的人権が何処に有るのか? 
信仰の自由が何処に有るのか?
民主主義国家の中の平和を偽る姿がここに有る。

親が子供を愛する想いは痛いほど理解出来る。

しかし、相手を憎む思想によって動かされ、偽りに寄って子供の心を苦しめ、肉体を苦しめた親の心情は彼ら脱会屋には理解は出来ない領域で有る。

政府にはこの被害者の悲鳴が届かないのが不思議だ!
4300人の助けを求める声を無視して、僅か数人の声を聴いてどんな判断ができるのだろう?

この悲鳴が世界には届いているのに、日本の政府は聞かぬフリ、見て見ぬ振りが出来るのは何故?

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中国人民よ、中国政府の奴隷になるな! 共産主義の奴隷になるな!

2025年01月14日 22時57分18秒 | 日記
TikTokとは中国の民間企業だと思っていたが、おかしな現象が発生している。

中国政府がTikTokをイーロン・マスク氏に売却すると言い出したからだ。

それはTikTokの持ち主が言うべき事だと思うが、如何して中国政府が言うのか?

これはやはりTikTokは中国政府が完全コントロールしている立派な証拠であろう!

中国は裏も表も、上も下も、前も後ろも、右も左も中国政府の顔が出ている。

中国の全てのモノは立派な中国政府の持ち物であると言う事の証拠である。

可哀想な中国国民達よ。あなた方に「自由は無い」と言う事だ。

一時が万事、独裁者の許可が必要な国民に自分のモノは無い訳だが、それで良いのか?

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御言葉選集7(6)

2025年01月11日 15時07分22秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 第7巻 父のものは私のもの
1959年8月30日(日)、前本部教会にて


ヨハネによる福音書 14:11
コリント人への第一の手紙 13:1-13


1
<祈り>
私たちは、ただ言葉としての父を信じたいのではありません。歴史的な因縁を結びながら歩んでこられた父を信じたいのです。今日の私自身と直接的な関係を結び、直接的な因縁を築いてくださる父を求めています。そして、私たちに直接お言葉をお与えくださる父を切実に求めています。


今日、人類は神様を対象的な存在として信じていますが、私たちはそのような信仰の対象としての神様を求めているのではありません。私たちは、生活的で実証可能な主体として存在される神様を望んでいます。そして、私たちの事情や生活のあらゆる事実を貫き、分かたれようとしても分かたれることなく、あらゆる時に共に生活を共にできる父を切に待ち望んでいます。このような因縁が地上で実現するその時こそ、人類が望む時であり、同時に神様が望まれる時でもあります。


今日、私たちは、父が望まれる理想の園を観念的にどこかの理想郷であると考えていましたが、実際にはそれはそうではありませんでした。私たちは、心の奥深くから染み入り、実践を通じて感じられ、現実の自分自身を通じて感じ取ることができ、自分の感情を通じて歌うことができる、そうした天国観を持たなければならない時が来ていることを知っています。


こうした関係を築き、その因縁を結ぶことこそが救いの摂理の目的であり、復帰歴史の目的であり、十字架の救いの目的であったことを私たちは理解しています。それゆえに、今日、私たちが「真の父」と呼ぶことができ、また「真の息子・娘」として自ら認め、自ら断言しても恥じることのない立場で、歌うことができ、喜びを感じ、言葉を聞くことができる、このひとときをお与えくださいますよう、父よ、心から願い、切に求めます。


歴史的な父について私たちは多くを学び、言葉の中におられる父を多く知りました。しかし、今私たちが求めているのは、私たちの心の中で証しできるその父、私たちの身体で体感できるその父、私たちの口から発する言葉が父の言葉となるように力を発揮できるその父、そして私たちと共にいてくださるその父です。どうか、父が実証的な感覚を起こしてくださるこのひとときとなりますよう、父よ、心から願い求めます。


2


父よ、ここに集まったあなたの息子・娘たちが、それぞれの心と体を整理し、整えられるように歴史を働きかけてください。心の主人も自分ではなく、体の主人も自分ではありません。ただ漠然と遠くを見つめ、信じ、遠くを見つめて希望を抱き、さらには何らかの絶対者に帰依し、頼ろうとする私たちですが、主体的な絶対者が認めてくださる立場にはいない私たちです。


そのため、私たちが対象的な価値の位置に立つ者として、絶対者の恵みを受けるにはまだ不足していることを自覚しています。どうか、父が主体となってくださり、私たちを相対的な位置に立たせてください。絶対者であり主体者であるあなたの理念を、相対的な私たちの理念として受け渡すことができるようお許しください。そして、私たちの心がその理念に浸り、父のすべての愛を歌えるよう導いてください。


心で動き、心で伝え、感情で体感し、感情で伝え、身体をもって屈し、身体で一体となる働きが、このひとときに起こることをお許しください。父よ、心から願い求めます。


これから御言葉を伝えようと思いますので、どうか父よ、共にいてくださいますようお願い申し上げます。私たちは人の言葉を求めているのではありません。今日まで人間たちが語る言葉を私たちは十分に聞いてきました。また、講壇で語る数多くの教職者たちの言葉もすでに十分に聞きました。しかし、それを求めているのではありません。死んでいた命を躍動させ、冷え切った心情を湧き上がらせ、曇っていた心を清らかにすることができる新しい御言葉を求めています。そして、私の父が私の心情、私の志、私の理念、私の主体であることを知り、父と私たちが永遠に一つであることを感じられる再創造の御言葉を求めています。どうかそれをお示しくださり、直接的な恵みの雨を降り注いでくださるこのひとときとなりますよう、父よ、心から願い求めます。


語る者の心と聞く者の心の間に隙間を生じさせることがサタンの働きであることを知っています。ですから、この時間、自己の力で立とうとする思いを捨て、父によって立つという立場に立ち、父の前にすべてを委ね、頼り、希望し、期待する者となれるよう導いてください。父の憐れみを受けることができる貴い時間をお許しくださいますようお願い申し上げます。このすべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


3


<御言葉>
今日、皆さんにお伝えしようと思う御言葉のタイトルは「父のものは私のもの」です。このテーマを広げるならば、「神様のものは私たちのもの」となります。このようなタイトルをもって、しばらくお話しいたします。


私たちはこれまで、自分の価値が無限であると考えてきました。しかし、価値の中身については理解せず、ただ価値を持つ存在であるということだけを認識している立場にいます。それにもかかわらず、自分自身の完全な価値を見出し、それを確立して完全に誇れる存在となり、歴史的で宇宙的な大いなる実在の前で堂々と威厳を持って誇示できる姿には至っていないということを、私たちは感じています。


このような立場にいる私たちだからこそ、価値のある存在、価値ある姿、価値ある因縁、そして価値ある世界を切実に求めているという事実を、誰も否定することはできないでしょう。私たちはそのような場所を求めて歩んでいかなければならない存在なのです。このことを認めつつ、万象を見つめ、大宇宙を見上げるとき、私たちは虚しさを感じずにはいられません。


そのため、私たちは頼るべき何かを追い求めざるを得ない運命に置かれていることを、常に良心の働きを通して、良心の作用を通して体感しています。この観点から見れば、たとえ神が存在しないとしても、仮想的な絶対者を立てなければならないのです。このような私たち、このような立場に生きる私たちが、もし感じ、楽しみ、歌い上げるような何らかの行動の過程があるとして、それが価値的な因縁を結び、感じ、楽しむことができるものであるのかと考えると、そうではないということを、私が言わずとも皆さんが確信できるでしょう。


このような状況に置かれた人間であるがゆえに、このような悲惨な事情の中に絡み取られた人間であるがゆえに、もし天が存在するならば、ここにどのような因縁を築かなければならない責任があるかを考えざるを得ません。もし天が絶対的な価値の主体であり、価値の本体であるならば、天がその価値ある因縁を探し出し、確立するために尽力しないのであれば、神に「愛」やその他の言葉を適用することはできないという事実を、私たちは論理的な観点から認めざるを得ません。


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私たちは人間が堕落したという事実を知っています。そして本然の位置を失ったということも知っています。つまり、本来の価値を失った存在が人間なのです。このような私、このような私たちは、この世界全体を見つめて、もし天が存在するのならば「天よ」と叫ばずにはいられず、もし絶対者が存在するのならば「絶対者よ」と叫ばずにはいられません。そして、善の形を備えた何かが存在するのであれば、それが実体として現れてくれることを切に願わなければなりません。また、そのような絶対者や天、あるいは善なる存在を心から切実に求め、憧れなければなりません。


天は、このような状況、このような立場にある人間をよくご存じであるがゆえに、私たちを探し出すために、あらゆる苦労と努力、そして自己犠牲をいとわず、全人類を救おうとしてご自身を費やすことも気にせず、全体の価値を超える価値を見つけるために探し求めておられるのです。この事実を認めるならば、私たちは謹んだ心をもって両手を合わせ、その前に礼拝を捧げなければなりません。


このような全体の動き、歴史の流れ、心情の流れを見つめるとき、私たち自身は気づかなくとも、歴史の背後や私たちの心情の深い流れの背後には、何かが私たちを導き、促しているのです。私たちの心情の深い部分には、私たちをして価値を追求させる何かが存在しているということを理解する必要があります。これを偶然のもの、自然のものとして片付けてしまってはいけません。それは、私たちとの間に断ち切ることのできない何らかの因縁が結ばれているからです。


皆さんがその因縁を解き明かし、その価値を語るとき、最大の善である神の存在がそこに関わっていることを理解する必要があります。このような関係は、結ぼうとしなくても結ばれているものであり、断ち切ろうとしても断ち切れないものなのです。


このように、天はその背後でご自身の苦しみを甘受しながら、絶対的な価値を人間に付与するために、今日まで尽力してこられました。そして今後もその努力を続けざるを得ない立場におられるという事実を私たちが知るとき、天について考えるだけで、畏敬の念を抱かずにはいられず、謹んだ心で頭を垂れることしかできません。


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このような事情から、神は人類に向かい、彼らがその内容も、意図も理解できない言葉を宣言してこられました。神は宗教を設け、深い因縁を結ぶための内的な意図をお持ちでありながら、その因縁を結ばなければならない私たちには漠然と「私を信じよ」と語りかけてこられました。その宣言の内容は曖昧なものでした。また、「私を仰ぎ見よ」と叫び、「私を愛せよ」と叫び続けてこられました。それがどのような因縁や内容に基づいているのかは分かりませんが、それを聞き、体験してみると、それは断ち切ることのできない心情的な因縁の世界に何か深く関係していることを否定できません。


人間はそのような漠然とした言葉に依存しながら信じて歩み、希望を抱いて進み、愛しながら歩んできました。しかし、信仰者たちは信じる場で倒れ、希望する場で倒れ、愛する場で倒れてきました。信仰の道を歩む中で挫折した人は非常に多かったのです。天を信じて命を落とした人の数は、ある一国の忠臣や烈士よりも何千倍、何万倍にも上ります。希望を抱きながら命を落とした人、愛を捧げながら命を落とした人もまた非常に多いのです。しかし、その中で「信仰の王者」「希望の王者」「愛の王者」と称された人は一人もいませんでした。


事実がそのようであるならば、私たちは神に対して恨みを抱くべきでしょう。事実がそのようであるならば、「信じる」という言葉も、「希望する」という言葉も、「愛する」という言葉も存在しないはずです。


6千年の摂理の歴史を振り返るとき、信仰の勝利者になろうとして倒れた人は多くいましたが、信仰の大王者となって人類の前で称えられた人は一人もいませんでした。また、希望の基盤を見つけようと彷徨った人も多くいましたが、その希望の基盤の上で天の称賛を受け、人類から称えられた人はいませんでした。愛を語った人も数多くいましたが、それも同じ結果でした。


しかし、イエス・キリストは、神が4,000年間探し求めていた信仰の実体であり、父の心情を完全に体感された方でした。そのような方であるということを、民族は知りませんでした。民族は知らなかったのです。世界中の誰一人として、それを知る者はいませんでした。それを知っていたのは、ただ一人、神だけでした。


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だからこそ、イエス様には行くべき場所がありませんでした。信仰の歴史を創造するために来られたにもかかわらず、それを理解し受け入れる人がいなかったため、世界を背にして理解してくださる方を探し求められた道が、十字架の道でした。こうしてイエス様は神の信仰を受け継ぎ、人類の希望となる神の希望を受け継ぎ、無形の神を代わる実体的な信仰の主体、実体的な希望の主体となられたのです。イエス様は、神の相対的な信仰の主体ではなく、絶対的な信仰の主体として、無形の神に代わり地上に現れた方です。そのため、たとえ神を信じないとしても、イエス様は信じなければなりません。


聖書は「イエスを信じよ、イエスを望め、イエスを愛せよ」と教えています。なぜなら、実体を持つ人間には実体が近しい存在だからです。だからこそ、私たち人類はイエス様を実体の姿として立ててくださった神の尽力と功績の前に、頭を垂れ、何万回でも涙を流して感謝するべきです。このことを知る必要があります。しかし、信仰の基盤を築き、希望の環境を切り拓き、愛の囲いを作ろうとされたイエス様の理念は、この地上で成し遂げられることはありませんでした。


4千年の歴史は信仰の実体を立てるための歴史であり、イエスと聖霊以降の2千年の歴史は希望の実体を立てるための歴史です。主義や思想の基準もまたそれに基づいています。しかし、イエス様が望んだ世界観と、その反対の世界観が、今日の民主主義と共産主義として現れています。このように希望が最終段階に達しているため、この時代を「終末」と呼ぶのです。ただ漠然と「終末」と言っているのではありません。


イエス様はどのような「祖先」でしょうか?信仰の祖先というよりも、希望の祖先です。それも、実体として希望を与えることのできる祖先です。人間に希望があるとすれば、皆さんは何を希望するでしょうか?私たちは、身体の中で心が貴いことを知っています。そして、心の中では心情が最も貴いことを知っています。もし希望があるとすれば、それは心の実体的対象、心情の実体的対象となる方以上の希望はないのです。だからこそ、イエス様は人類に対して「あなたたちは花嫁であり、私は花婿だ」と語られました。このことをしっかりと理解してください。つまり、世界がどれほど進んだとしても、人類が希望するその範囲を超えることはできないのです。


では、希望とはどのようなものでしょうか?今日のキリスト教は、言葉としての希望の世界を求めています。しかし、今は言葉を超えて、実体を待ち望む時代に来ています。どれほど多くの信仰的名詞があろうとも、信仰の歴史が素晴らしいものであろうとも、今必要なのは一人の実体です。その一つの実体が現れなければ、言葉としての希望の世界観は行き詰まってしまいます。実体を結びつけることができなければ、その世界は歴史とともに消えてしまうでしょう。見守っていてください。


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今日のキリスト教は、名実ともに世界的な宗教となり、民主主義を中心とした民主陣営の世界路線もキリスト教理念の一部によって動いています。しかし、それも終わりが近づいています。ここで必要なのは何でしょうか?言葉だけを持って喜ぶことが目的ではありません。実体として永遠の生活を喜び楽しむことができるものでなければなりません。


歴史は旋風のように回り続けています。このように渦巻く今日の時流の中にいる私たちは、過去の信仰の祖であるアブラハムと、その後の歴代の預言者たちの姿を仰ぎ見ます。そして、その後2,000年間の希望の王子であったイエスを見つめ、激しい闘争の歴史を振り返ります。


しかし、彼らが成し遂げようとしたのは、言葉を中心とした約束の希望であり、実体的な生活として現れる希望ではありませんでした。したがって、彼らが望んだ希望の一日が実体的に成就する時、それが終末であり、それを成し遂げることが再臨の理想です。そして、その意図を成就させるために来られる方が再臨主です。


では、今何が残されているのでしょうか? 信仰を中心とした時代は、イエスによって終わりを迎えました。イエスは信仰そのものの実体であるため、彼を信じるならば、それ以前の4,000年間で信仰してきたどの人物よりも素晴らしい価値を持つことができるのです。イエスは、信仰を持たない民の前に信仰を立てなければならず、希望を持たない民の前に希望を立てなければなりませんでした。そうではなかったでしょうか?


この聖書をご覧ください。アブラハム以降の予言を見てください。信仰を基盤とした希望とは、ただ一人のメシアを掴むことでした。しかし、再び象徴的な約束の領域内で「花婿と花嫁」という希望を持つようになりました。それはイエスが十字架で死を迎えたためです。皆さんはこのことを知らずに信じています。しかし、今はその意味を理解できなくとも、いずれ理解する時が来るでしょう。もしそれが実体的な神の働きであるならば、そうでなければなりません。それが道理にかなっているのです。


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では、希望の実体であり信仰の実体であるその方が成し遂げようとされることは何でしょうか?言い換えるならば、希望と信仰の目的とはどこにあるのでしょうか?それは、人間が自らを見出し、愛を歌うことにあります。それ以外にはありません。主に出会う目的とは何でしょうか?それは、主を通して自分の価値を認められ、主の愛の懐で生きるためです。これこそが人類の最大の目的です。


神が信仰を立てた目的、神が希望を立てた目的、神が愛を立てた目的――それらの目的は、イエスのためでもなく、アブラハムのためでもなく、私たちの先祖の誰かのためでもなく、まさに今日の「私」のためなのです。では、私のために6,000年の間、信じ続け、探し続けてこられた方は誰でしょうか?それは神です。その方は誰でしょうか?それは私の父です。そのことにこそ、天地が覆るような深い事情があるのです。


だからこそ、信じてきた父、希望してきた父、愛してきた父、その父をあなたたちが掴むとき、イエスも「今まであなたに会うために苦労してきた。あなたのために尽力した」と言えるようになり、神もまた同じように語られるはずです。そのような立場で、あなたたちが「神様、一緒に暮らしましょう。イエス様、一緒に暮らしましょう」と言うとき、神やイエスが「そうだ、あなたと永遠に一緒に暮らそう」と言ってくださる場所が天国です。空想的な天国や架空の天国は、人類には必要ありません。私たちはこのような実体的な天国を実現するために戦わなければなりません。


イエス様は地上に来てから去られる際に、「私が成し遂げられなかったことを、私を信じる代わりに聖霊を信じなさい」と語られました。皆さん、イエスだけを信じれば救われると思っていませんか?それは大きな間違いです。聖霊を信じても救われます。聖霊は人々をして神の子を信じさせる働きをされるのですから、聖霊も信じなければなりません。


聖霊とはどのような神でしょうか?聖霊は「母の神」です。このことを今日のキリスト教徒は知りません。もし私の言葉が嘘だと思うならば、神に尋ねてみてください。私がここで語っているのは確信に基づいています。それは真実なのです。


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聖霊は母の神であり、イエスは人類の真の父です。真の父とは完成されたアダムです。アダムが堕落して人類の真の祖先となれなかったため、私たちはすべて真の祖先ではなく偽りの祖先の子孫です。この状況において、真の祖先として来られる方がメシアです。すなわち「真の父」ということです。しかし、今日のキリスト教では三位一体の神についてあれこれと言いますが、イエスは真の父であり、聖霊は母です。この父と母の愛を受けなければ、人は再び生まれ変わることはできません。子供が親の愛なしに生まれることがあるでしょうか?


だからこそ、『ヨハネの黙示録』に「御霊と花嫁が言う、『来なさい』。これを聞く者も『来なさい』と言うであろう。渇く者も来るがよい。命の水を、値なしで受けるがよい」(黙示録22:17)と書かれています。この日は聖霊が実体として現れる日です。それが再臨の時代であり、花嫁が装いを整える日です。小羊の婚宴とは、失われた真の父母を迎え入れる日なのです。このようなときには、名目的な神、信仰の対象としての神はもはや必要なくなります。名前だけの神を信じることや、外見的な信仰生活は必要ありません。私たちには実体としての神が必要なのです。


では、信仰の実体の主体は誰だったのでしょうか?それはイエスでした。希望の実体、その主体は誰だったのでしょうか?それもイエスでした。愛の実体、愛の主体は誰だったのでしょうか?それもイエスでした。このようなイエスを神は地上に送られましたが、人間は彼を認識せず、不信仰のゆえに彼は地上を去らなければなりませんでした。では、イエスはいつ再び来られるのでしょうか?一度「花婿」として来られたことを知る人がいなかったため、再び来ることができないのです。なぜなら、たとえ再び来られたとしても、また冷遇されることが目に見えているからです。このような悲しみを神は抱えておられることを、皆さんは知らなければなりません。「主が来られれば、私を探してくださるだろう」と考える信者たちが、キリスト教を衰退させ、神の意志を破壊しているのです。


神は人類を探し出しに来られるでしょう。しかし、信仰の実体、希望の実体、愛の実体がこの世に現れない限り、信仰を立てた目的、希望を立てた目的、愛を立てた目的は解決されません。それは確実なことです。ですから、皆さんは、「私自身がいなければ、神も神としての役割を果たすことができない」ということを知らなければなりません。私がいなければ、神もこの世界を動かすことができないのです。イエス様はこのような信念を持って生きられました。自分自身がいなければ、神の愛を紹介することはできないということをよく理解されていたのです。


今は「証明の時代」と呼ばれる時代です。「科学の時代」とも言われます。科学とは論理的なものです。論理的であるということは、原因と結果が体系的に一致している必要があります。その論理的な事実を生活の中で実証し、実行できるとき、それを科学的であると言います。人間は本来、そのように創造されています。生活的で実証的な立場を離れた幸せというものは存在しません。そのような基盤から離れた「民族」や「国家」もあり得ないのです。だからこそ、神もまた、実体を伴って議論しようとされるのです。


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では、終末とはどのような時代でしょうか?それは、信仰を立てるための4,000年の歴史と、希望を立てるための2,000年の歴史が終わる時代であり、信仰の王子、希望の王子、愛の王子が現れる時代です。しかし人々は、主が「雲に乗ってふわふわと空から来られる」と信じていますが、そうではありません。もしそうだとすれば、晴れ渡った雲一つない青空の日には、主は来られないことになりますよね?


私もそのような信仰生活を送ったことがあります。もどかしさと息苦しさから地を叩き、天に対して何十回も抗議したことがありました。しかし、突き進んでみると、それが本当ではないことを悟りました。そして正しいことを語るようになると、非難される者の代表となりました。「異端者」という烙印を押されながら生きています。過去にはパウロも「異端者の頭」と呼ばれましたし、真実をもたらしたメシアも「バアルゼブルの霊に取り憑かれた者」と揶揄されました。それは歴史的な悲しみでした。悲しみで始まった歴史である以上、悲しみで終わらなければならないのです。


信仰深い信徒がいるとすれば、教会の床に伏して祈る信徒を大切に見てください。教役者たちが彼らを追い出し、涙を流しながら振り返って教会を去る羊たちについて行ってみてください。そこには、新しい花園が近くにあることを感じるでしょう。冷たい風が吹きつける一瞬が過ぎれば、春の季節が訪れることを誰が予想したでしょうか?その身体は逆境の中にあっても、その心には春の季節を迎える威厳ある花嫁の姿を持つ一人、私は主がそのような人を探しに来られると思います。


大勢の人々の前で雄弁を振るう「言葉の王子」は数多くいますが、実体の主人公は存在しません。信仰の実体としての教役者はいません。希望の実体としての教役者もいません。愛の実体としての教役者もいません。このような状況で、この教団、この信徒たちはどこへ向かうのでしょうか?終末の信徒たちはどこへ行くべきなのでしょうか?


この韓国の天地で、「ムン」という一人の存在は異端者の頭として追われ、民族の反逆者とされ、命を失うことがあったとしても、この民族が祝福を受けるのであれば、私はその道を行きます。


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実際的で証拠的な祭壇がなくなった今、実体的な祭壇を築ける天の信仰の王子はどこにいるのでしょうか? 今必要なのは、そのような人です。数多くの群衆が必要なのではありません。数多くの兵士を従えて号令をかける指導者ではなく、数万の兵士のために眠れない夜を過ごす将軍が必要なのです。天はこれまで、寒くはないか、暑くはないか、空腹ではないかと人間を案じながら歴史を導いてこられたのです。


先頭に立って「私を見なさい」と叫んでいたのはパリサイ派の人々でしたが、イエスは後ろを振り返り涙を流されました。それがイエスの姿でした。先頭に立って叫ぶ人が人類を救うのではありません。歴史や時代の流れとともに倒れながらも天を掴み、「私を憐れんでください。あの人たちはどうなるのでしょうか」と涙を流した人たちのおかげで、歴史は今のような形で進んできたのです。このことを知らない人は、その報いを受ける時が来ることを覚えておかなければなりません。


だからこそ、たとえ統一教会の御言葉がいくら良いものであっても、その内容以上に実体が問題となる時が来るでしょう。「あなたは何を持っているのか?」「あなた自身はどうなのか?」と問われる時が来るのです。信仰そのものとなれる自分、希望そのものとなれる自分、愛そのものとなれる自分が必要であることをはっきりと理解しなければなりません。それだけを備えていれば、たとえ主が千年後に来られるとしても、あなたを捨てることはできません。「信仰があるところに私はおり、希望があるところに私はおり、愛があるところに私はいる」と言える自分になれば問題はありません。


いまや、歴史を実体的に解明しなければならない時代が近づいています。私たちが望む希望の一日は、実体に出会う日です。それは事実です。幻想でもなく、架空の言葉でもありません。


皆さんの中に主の花嫁となる資格がある人がいますか?誰かがそうなったと言ったことがありますか?「そうなるだろう」と言う人は多くいましたが、「そうなった」と言える人はいませんでした。それでは、私たちはどのような内容を備えなければならないのでしょうか?歴史的な信仰の内容を備え、歴史的な希望の内容を備え、歴史的な神の心情の内容を備えなければなりません。それらすべての内容を備えた実体、その実体によって6,000年の歴史を導いてこられた神の悲しみを癒す資格を持たなければなりません。そうして初めて、主をお迎えすることができるのです。


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この罪深い世の中、考えるだけで嫌気が差します。実体を見つけるために6千年の歴史を苦労して歩んできましたが、その間、数え切れないほど人間たちに裏切られてきました。夢の中でも二度と見たくない、夢に出てくるのさえ嫌な歴史です。しかし、それを掴んで再び考え、悲しみ、繰り返しながら実体を成し遂げなければなりません。その一つの実体が問題なのです。


では、結論として、皆さん自身はどうすればよいのでしょうか?「信仰も私のもの、希望も私のもの、愛も私のもの」と言える自分を持ち、皆さん自身を千年万年信じることができる資格を備えなければなりません。


何を言っているか分かりますか? 「私は信仰と希望と愛の実体です」と言い、6千年にわたり摂理を進めてこられた神を信じる以上に、自分自身を信じられるようにならなければなりません。


皆さん、自分の体を信じていますか? 自分の心を信じていますか?自分の心情を信じていますか? それを信じることができなければなりません。神は、皆さんを探し出すために、6,000年にわたって信じてきたすべてを皆さんへの贈り物として与えてくださいました。ですから、私は神に代わり、イエスに代わり、聖霊に代わり、すべての人々に代わり、罪と戦わなければなりません。そして、すべての間違ったものを打ち砕く裁き人としての資格を持つ者として、自分自身を信じられるようにならなければなりません。そのような立場に立たなければならないのです。


皆さん、イエスを信じて天国に行こうという時代は終わりました。「神を信じて天国に行こう」と言うのではなく、「神を天国にお連れしてください」と言うべきです。「天国に行ってイエスに会おう」と言うのではなく、この地上に天国を作り、イエスをお迎えしてみてください。「イエスの愛を受けよう」と思っていますか?罪に染まった皆さんが、イエスの愛を求めることができると思いますか?イエスは神の皇太子です。イエスは神の皇太子です。それは無理な話です。そのような信仰ではとても無理です。


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愛を受けたいのであれば、イエスが死に至った以上の心情を持って、「私は本当に愛したいのです」という気持ちが切実に心の奥底から湧き出てこなければなりません。しかし、今日の信仰者たちは全員が強盗のような心を持っています。自分の思い通りにしようとしていますが、それは不可能です。どれだけ霊界を探ってみても、それは成り立ちません。本質的に間違っているのです。


だからこそ、私たちは今、神を解放しなければならない運命に置かれています。「人類のために神が拘束されているのだ」「私のせいで神が拘束されているのだ」「私という一個人のせいで神がサタンの訴えを受けているのだ」「私のせいでイエスも死んだのだ」「私のせいで聖霊が血まみれの闘争の歴史を抱えて転げ回っておられるのだ」。そのように悟り、「神よ、どうか私に力をお与えください。私は父を安息の地へと解放の場へとお連れいたします。イエスも聖霊も解放の場へとお連れいたします」と言える信仰に飢えた者、希望に飢えた者、愛に燃える者を神は6,000年もの間探し求めてこられたのです。この事実を私たちは知らなければなりません。


この言葉に矛盾がありますか?そのように私たちを愛してくださらなければ、神は私の父と言える方ではありません。その境地では、山を眺めても涙が溢れ、責任を果たせない私たちは、歴史を振り返るたびに胸を叩かずにはいられません。そしてどれほど堂々と振る舞い、足を踏み出しても、結局は嘆きの王子でしかいられないのです。


皆さんは知るべきです。神は天国の玉座に安らかに座っておられる方ではありません。神は、地獄が存在することを目の当たりにされ、その神自身が地獄以上の苦痛を受けておられるということを人類は知りません。もし神が地獄以上の苦痛を受けることなく地獄を存在させているのだとしたら、その神を愛の神とは呼べません。神は6,000年の歴史の中で、地上の地獄の苦しみを一つとして経験しなかったことはありません。すべてを経験されているのです。そうして分かったのは、神は地獄の苦しみを受けておられるということです。


「そんな馬鹿げた話があるか」と言う人がいても構いません。しかし、私たちはそのような観点から神を信じ、神をお迎えしなければなりません。それでこそ、神は人類の真の神であると言えるのです。神は私を探し出すために、地獄の苦しみをすべて受けられたのです。


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イエスが十字架で亡くなられた後、陰府で過ごされた3日間とは一体何だったのでしょうか?彼は地上の救い主であると同時に、霊的な救い主であるべき存在でした。地獄にまで行き、そこで福音を伝えなければならなかったのです。だからこそ、イエスを信じる人々は、地上の地獄の最も底辺にまで降りていかなければなりませんでした。そのため、歴史の歩みの中で踏みにじられ、押しのけられることになったのです。神がそのような道を歩まれたのですから、私たちもその苦しみを共にする同伴者であり、協力者でなければなりません。そのような者たちに、天国という栄光の園を相続させるというのが復帰摂理であり、救いの摂理なのです。このことをはっきりと理解してください。


「神よ、私を地獄に送り、父の苦しみを体感させてください」と、心の奥底から湧き出る心情を持って祈る者は、地獄に行きません。しかし、「神よ、地獄は嫌なので、天国にだけ送ってください」と願う者は地獄に行きます。イエス様は十字架の上でこう祈られました。「アバ、父よ。私の思いではなく、父の思いのままにしてください。彼らの罪を彼らに負わせないでください」と。それは、4,000年間にわたり、この民族、この民を救うために地獄の苦しみを耐えられた神の心情と内的な想いを理解し、イエス様ご自身も十字架の道を避けることができないと感じられたからです。イエス様がこのような感情を持たれていたことを、しっかりと理解してください。


このような正義の基盤を築かなければならなかったキリスト教が、その基盤を失いつつあります。それを再び私たち自身の手で建て直すために、私たちは立ち上がりました。言葉なく戦い、言葉なく前進しなければなりません。その道は富と栄光の道ではありません。そのようなものを求めるならば、私たちの希望の時は訪れません。そのために力を費やし、時間を浪費している余裕はありません。世界がどうであろうと、私たちは進むべき道を進もうと決意しているのです。


皆さん、統一教会に何かも分からずに来た人や、御言葉を聞きに来た人がいますか?はっきり言っておきますが、統一教会の道は歩むのが非常に困難な道です。苦痛の壁に頭をぶつけ、体を投げ出し、血と肉が削られるような場所を通らなければなりません。私たちが進む道は平坦な道ではありません。主もその道を歩まれ、預言者たちも常にそのような道を歩みました。歴史を担った者たちは、歴史の精神を抱き、血を含んだまま戦いの勇士として立ち上がった者たちでした。そのような者たちが歴史を導いてきたのと同じように、天を掴んで進んだイエスの理念と精神を担う者もまた、そのような人々でなければなりません。皆さん、このことをはっきりと理解してください。


私は皆さんに伝えたいことがあります。盲目的な信仰の時代は過ぎ去りました。虚偽や架空の論理の基盤は無知によるものであり、その基盤には完成がないということを断言したいのです。だからこそ、今日この時点で私たちが提起しなければならない問題は、「私が私自身を信じること」です。


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神がイエスを信じ、イエスが神を信じたように、イエスが聖霊を信じ、聖霊がイエスを信じたように、私たちもまた自分自身を信じなければなりません。そして、「天倫の道理が変わったとしても、私は変わらない。天地がなくなったとしても、イエスの言葉は変わらない。天地が消え去ったとしても、私は変わらない」と言える段階にまで進まなければなりません。


しかし、皆さん一人ひとりには問題があります。皆さんは自分自身を信じていますか?天国に行こうとして奔走する皆さん、自分自身を信じていますか?口先だけの信仰、中身のない信仰は無意味です。中身のない殻や籾殻は何の役にも立ちません。だからこそ、聖書に「麦と籾殻の比喩」の言葉があるのです。中身のある信仰、中身のある希望、中身のある愛の化身となって行動するならば、この世界がどれほど広くても、アメリカがどれほど広大で先進国であっても、問題はありません。問題ありません。「あなたたちはいつか必ず屈服する」と確信を持つ者たちがいれば、彼らは世界を支配するでしょう。永遠の希望の父である神を代わる者は、永遠の希望の実体です。また、神は永遠の愛だと言われました。だからこそ、皆さんがその愛を抱き、与えるために努力し、与えるために奔走し、与えるために死ぬ場所さえ見つけられずに奔走してみてください。それでも、この国が滅びるでしょうか?


永遠に自分自身を信じ、自分自身を希望とし、自分自身を愛しながら、「神様、私の愛を受け入れてください。神様、私の希望をご覧になって喜んでください。神様、私の信仰をご覧になって喜んでください」と言えるとき、神が「そうだ」と答えてくださらなければなりません。信仰を立てた目的がそれであり、希望を探す目的がそれであり、愛を求めた目的がそれです。そのようになれば、そこで主と出会うことができるのです。そして、その主と共に生きるのです。


では、希望と信仰の目的は何でしょうか?それは、生活の中で天の愛を中心に生きるためです。宗教の名詞をすべて捨て去り、愛の歌を歌いながら生きる新しい理想世界が地上天国です。その世界は架空の世界ではありません。論理的観点から必然的な事実として現れるべきものであることを、知識の高い人々は理解するでしょう。


このような観点から考えてみると、この世界に残る民族とはどのような民族でしょうか?それは、信仰に燃える民族、希望に燃える民族、情熱に燃える民族です。歴史のすべてのページをめくり、あるいは国家の興亡を考察しながら、信仰の節操を守って戦い抜いてきた民族がどこにあるのか探してみなければなりません。希望に燃える民族、情熱に燃えて神のためであれば命を惜しまず動こうとする民族、そのような民族は天に近い民族だということです。


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社会的にも同じことが言えます。世の中で成功する人はどのような人でしょうか?それは、国への忠誠を守り、国家の理念を自分の理念として受け入れ、国家と心情を通じて結びつくことのできる人です。そうではありませんか?家庭でも同じです。家庭で信頼を得ている人、希望を持っている人、感情的な絆を持っている人、その人が継承者となるのです。そうではありませんか?これを否定しますか?


歴史的に見て、信仰心に燃えている民族とはどの民族でしょうか?神という言葉すら聞いたことがなく、預言者や先烈たちのいかなる予言も受けていなかった5,000年の歴史を持つ韓民族が、何か分からないけれども天に対する信仰心が非常に高いということを私は発見しました。皆さんが何と言おうと構いません。私はそれを発見しました。この民族、東半球の爪ほど小さなこの国が、これまで幾多の時代と時代、思想と思想を乗り越えながら5,000年の歴史を持ち続けてきたという事実は、まさに奇跡です。


韓国の歴史を見てください。数十回以上の侵略を受ける危険な歴史の道を歩んできました。侵略されては解放され、また侵略されては解放されました。そのたびに損害を受け、生き残るのがやっとの状態でした。それでも民族の精神を守り、希望の一日を夢見て歩んできました。極東の朝鮮半島を動かしてきた希望の民族精神があったからこそ、これまで戦い続けることができたのです。このような精神を持って歩んできた民族にメシアが来ないはずがないでしょう?私にはそう見えます。皆さんもこのことを理解しなければなりません。


また、感情的な面においても、極東の中で韓国人ほど情熱的な人々はいません。そして「東方礼儀の国」とも呼ばれてきました。キリスト教もまた同じです。しかし今、信仰の宗教、希望の宗教を主張してきた仏教や儒教、キリスト教もその使命を果たし終えた段階にあります。それでも残っているものは何でしょうか?それは民族精神を中心にして世界理念に燃え上がる隠れた情熱が心の中で湧き上がっていることです。若者は分からないかもしれませんが、年配の方なら理解できるでしょう。


それでは、この民族がなぜこのようになったのでしょうか?皆さん、時代的観点から考えてみましょう。すべての価値というものは、相対的な基準、比較の基準がなければその価値を決定することはできません。理解している人には分かるでしょう。主体と対象の位置を定めなければ、価値観というものを形成することはできないのです。一つの国家が世界的な指導理念を持って現れたならば、それを支持する相対的な国家が存在し、その理念を実践しなければ、その理念を提唱した国家が世界の主導権を握ることはできません。


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堕落する前の本来の文明とは何でしょうか?西洋文明は外面的な文明です。今日の統一教会の信徒たちは、アメリカのようなところに行けと言われても行きたくないと思うかもしれません。ご覧ください、すべてのものが崩れつつあります。昔の歴史を振り返ると、感情的な基盤を持つ母系中心の時代がありました。そして父系中心の時代がありました。これまで父系中心の社会が続いてきましたが、今それすらも崩れつつあります。そして夫婦中心の時代に移行しています。


そのため、今日のアメリカのような国は、自分たちの利益しか考えていません。しかし、それも崩れつつあります。次にどうなるでしょうか?兄弟関係、民族関係、世界関係、そして天の関係を中心とした感情的な世界へと展開していくのです。この言葉の意味が分かりますか?


また、主権の観点から見ると、帝国主義思想も崩壊します。なぜなら、悪しきものをそのまま放置することはできないからです。だから崩れていくのです。その結果、君主制の時代、帝国主義の時代が崩壊します。人間の堕落によって天の帝国主義の理念が壊れたのです。したがって、天使長が君主となり、天使長主権の時代へと進んできたのです。


今日の世界の思想を見てみると、帝国主義的なものはすべて崩壊しています。君主主義的な形態は崩れ去り、民主主義的な平民主義の時代へと移行しています。では、この中で何を目指すべきでしょうか?そこから、「神が我々の王であり、天の意志と善を抱いて生きる人々が私たちの家族であり、神の善のために戦う人々が私たちの国民である」と言える世界へとまとめ上げていく必要があるのです。


だからこそ、世界の流れをじっくりと見てみると、最近では怪しいものがたくさん出てきています。もう少し経つと、他人の名前を借りて王のように振る舞う行為も見られるでしょう。「女王だ」とか「何々だ」と騒がれる時代が過ぎ、さらに少し経てば、美しい男性を「この都市の王子だ」として崇める時代が来るかどうかを見ていてください。今の時代の流れは、まるで逆さまに回っているようです。年配の女性が若い男性と暮らし、若い女性が年配の男性と暮らす時代になっています。このように奇妙な状況が生じていますが、その具体的な理由を彼らは理解していません。


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そのような中で民主主義が登場しました。民主主義は平等主義です。なぜこのようなものが出てきたのでしょうか?それは、キリスト教が帝国主義から迫害され、軽蔑されてきたからです。ローマ帝国によって虐殺され、多くの信者が命を奪われましたが、それでも命脈を保ち続けました。キリスト教徒たちは逆境の中でも後継者を育ててきたのです。そして、キリスト教理念に徹した人々が平民思想を基盤として、今日の民主主義の世界に参加する権利を築き上げてきました。つまり、神の側に立つ人々が主権を動かす世界へと変革しようとしたのです。この平民主義の時代を天の主権時代へと再び方向転換させる世界運動、すなわち「天宙運動」が起こらなければなりません。


しかし今日、民主主義の行く末は行き詰まりを見せています。これからの方向性について、誰も明確な答えを持っていません。


今後の世界がどうなるかというと、外的文化の発展を成し遂げた西洋から、内的な極東に目が向けられるようになります。現在、韓国の女性たちは金髪に染め、髪をカールし、顔に何かを塗って装っていますが、やがて純朴な韓国人の姿、東洋人としての気品ある姿を懐かしむ時が来るでしょう。そのような時が来るかどうか、見守ってください。


西洋の哲学や思想の根はすべて掘り尽くされ、終焉を迎えています。一方、東洋哲学は私たちの生活観や人生観と結びつきながら、4千年、5千年にわたる歴史の中で絶え間なく続いてきました。この東洋哲学が今日、大きく注目されるようになっているのです。文化というものは総合的な理念の中に融合されていくのが歴史的な現実ですが、この時代において、一面的なキリスト教の理念だけでは十分ではありません。これからの宗教をどのように再編するかが問題となります。


ここで、極東の文化全体と西洋の文化全体を調和させる運動が起こるべきです。それは、キリスト教精神を内包しつつ、東洋の思想や宗教の形態を取り入れ、人間の精神を導いてきたすべての思想と調和するものでなければなりません。新しい時代の形を構築しながら、古い時代の良い部分を尊重し、受け入れることができる内容と体制を備えた宗教や理念が登場しなければ、今後、世界が一つにまとまって動くことはないでしょう。


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ご覧ください。太陽は西から昇るのではなく、東から昇ります。歴史的な観点から見ると、戦争はどこで多く起こりましたか? 極東よりも西洋で多かったことを私たちは知っています。


知識とは「知る」ことです。そして「知る」ことで得られるものがあります。しかし、何を得たのでしょうか? 精神的な収穫ではなく、物質的な収穫だったのです。西洋人たちは外的な自然科学と文明を通じて、物質的に豊かな世界を作り、自分たちの「天国」、つまり外的な天国の中で眠りについています。しかし、その眠りから覚める時が来ました。


東洋人は道(タオ)を尊ぶ人々です。道というものは、十のことを知ろうとすれば十のものを失わなければならず、千のことを知ろうとすれば千のものを失わなければなりません。この極東の民族たちは道を尊ぶ民族であるがゆえに、物質的な面では貧しい状態になってしまいました。道を十知れば物質を十失い、百知れば百を失ったのです。その結果、赤手空拳の哀れな姿となり、ついには物質に屈服する人間となってしまいました。しかし、これを笑い飛ばして乗り越える新たな動きが、極東に現れる時が来るということを、皆さんは予測しなければなりません。


このような点で、特別なプライドを持たなければなりません。極東において、韓国人は信仰的な観点から見ても、希望的な観点から見ても、情熱的な観点から見ても、どの民族にも引けを取りません。


人は、水、土、空気、そして太陽の光によって生命体を完成させていくというのが鉄則です。では、将来、どの国が世界最高の文化の中心地となるのでしょうか?それは、水が澄み、土地が豊かで、空気が清らかな場所です。その場所こそ韓国です。韓国は水が澄んでおり、山でも野でもどこでも冷たい水を飲んでもお腹を壊さず、元気に生きられる国です。韓国はこのように水が美しく、山が素晴らしい国、つまり山水が豊かな国です。


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次に空気が清らかです。夜の空気、朝の空気が春夏秋冬、一年中清らかです。韓国の一日をじっくり見てみると、とても面白くできています。朝は春の季節、昼は夏の季節、夕方は秋の季節、夜は冬の季節です。一日の中に創造理想世界の四季の形をすべて備えています。気候においても三寒四温のすべての要素が均等に備わっています。このような場所に住む民族が偶然の産物だと思いますか?


また信仰的に見ても、韓国の現在のキリスト教は70~80年という短い歴史を持っています。しかし、その短い伝道の歴史を持ちながらも、信仰的にどの国にも引けを取らず、世界で第1位の位置に立っています。信仰問題において、韓国は世界のどの民族にも劣らない権威を持っていると、自信を持って言えます。


信仰と希望と愛という内容を基にして考えるとき、皆さんはどのような人を友人として選びたいですか?信頼できる人、希望を持つ人、そして「味のある」人を友人にしたいと思うでしょう?そうではありませんか?神様も同じです。私たち人間は神様に似ているので、神様もそのような人を好まれるのです。信頼できる人、希望がある人、そして「味のある」人を好まれるということです。


ですから、私たち人間がこの地上で生きるとき、どのような環境に置かれても、どのような状況であっても、今日の生活の中で「味」を感じて生きる人々が地上天国に住むことができる人々であり、「味を感じて生きなさい」と教えるのが聖書の教えなのです。ですから、「天国は心の中にある」という言葉の通り、その心の天国を中心として罪悪の世界の中でも苦しみを感じず、外的世界をあざ笑うように生きる人がいれば、その人が天国の国民であるという結論が出てきます。


このように考えてみると、問題はどこに帰結するでしょうか?外的世界も良い、国内のすべてのものも良い、ということです。世界がどうなろうと、それが終わりを迎えるとしても、今日の問題解決の焦点はどこにあるのでしょうか?その解決の焦点は「私自身」です。皆さん一人ひとりです。


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ですから、これから皆さんは神をお迎えするだけでなく、神の対象的な位置に立ち、その対象的価値を高め、「父よ、私が参りました。6,000年もの間、どれほどお待ちになったのですか?」と語るべきです。一度そう言ってみたいとは思いませんか?「どれほど涙を流されましたか?私が参りました。どれほど待ち望まれましたか?私が参りました。どれほど慕われましたか?私が参りました。」この一言を神様は聞きたがっておられるのです。


神様はそのような息子娘と出会い、天と地のすべてを統治するように祝福し、6,000年の恨みを忘れて「今日は私の誕生日であり、私の歓喜の日だ」と喜びたいと願っておられるのです。6,000年の恨みを思い出すことなく、新しい天地で新しい息子娘と情緒的な歌を歌いながら生きていきたいと願っておられる方が神様であり、その神様が今日私たちの父であり、その父の息子娘がまさに私たちだということを、はっきりと理解しなければなりません。




<祈り>


話をしているうちに力が尽きていくのを感じますが、父なる神様は6千年もの間どれほどのご苦労をなさったことでしょうか? 人々を見れば信頼できない姿ばかりですが、父なる神様、どれほどご苦労をなさったことでしょうか?


ああ、哀れな方は私たちが信じているお父様であることを知りました。そして、お父様を慰めることができる真の息子娘の姿を待ち望んでおられるお父様であることを知りました。どうか今日も明日も声を立てず純粋な捧げ物を持って、あなたの傷ついた心情を癒すために奔走できるようお許しください。


信仰も良い、希望も良い、愛も良いですが、実体を失った者は永遠に父なる神様の前に立つことができないことを知りました。そして、問題は私自身であり、私たち自身であることを悟りました。


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どうか、「自分自身を信じよう」というこの信念をもって、「父なる神様、私を信じてください。私を希望として見てください。私を愛してください」と言える自分を持てるようお導きください。そして責任を果たすことができる私たちとなるよう、切に願い求めます。すべてをお委ねしますので、あなたの御心のままに成してくださいますようお願いいたします。


主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。

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