文鮮明先生 御言葉選集 第7巻 父のものは私のもの
1959年8月30日(日)、前本部教会にて
ヨハネによる福音書 14:11
コリント人への第一の手紙 13:1-13
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<祈り>
私たちは、ただ言葉としての父を信じたいのではありません。歴史的な因縁を結びながら歩んでこられた父を信じたいのです。今日の私自身と直接的な関係を結び、直接的な因縁を築いてくださる父を求めています。そして、私たちに直接お言葉をお与えくださる父を切実に求めています。
今日、人類は神様を対象的な存在として信じていますが、私たちはそのような信仰の対象としての神様を求めているのではありません。私たちは、生活的で実証可能な主体として存在される神様を望んでいます。そして、私たちの事情や生活のあらゆる事実を貫き、分かたれようとしても分かたれることなく、あらゆる時に共に生活を共にできる父を切に待ち望んでいます。このような因縁が地上で実現するその時こそ、人類が望む時であり、同時に神様が望まれる時でもあります。
今日、私たちは、父が望まれる理想の園を観念的にどこかの理想郷であると考えていましたが、実際にはそれはそうではありませんでした。私たちは、心の奥深くから染み入り、実践を通じて感じられ、現実の自分自身を通じて感じ取ることができ、自分の感情を通じて歌うことができる、そうした天国観を持たなければならない時が来ていることを知っています。
こうした関係を築き、その因縁を結ぶことこそが救いの摂理の目的であり、復帰歴史の目的であり、十字架の救いの目的であったことを私たちは理解しています。それゆえに、今日、私たちが「真の父」と呼ぶことができ、また「真の息子・娘」として自ら認め、自ら断言しても恥じることのない立場で、歌うことができ、喜びを感じ、言葉を聞くことができる、このひとときをお与えくださいますよう、父よ、心から願い、切に求めます。
歴史的な父について私たちは多くを学び、言葉の中におられる父を多く知りました。しかし、今私たちが求めているのは、私たちの心の中で証しできるその父、私たちの身体で体感できるその父、私たちの口から発する言葉が父の言葉となるように力を発揮できるその父、そして私たちと共にいてくださるその父です。どうか、父が実証的な感覚を起こしてくださるこのひとときとなりますよう、父よ、心から願い求めます。
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父よ、ここに集まったあなたの息子・娘たちが、それぞれの心と体を整理し、整えられるように歴史を働きかけてください。心の主人も自分ではなく、体の主人も自分ではありません。ただ漠然と遠くを見つめ、信じ、遠くを見つめて希望を抱き、さらには何らかの絶対者に帰依し、頼ろうとする私たちですが、主体的な絶対者が認めてくださる立場にはいない私たちです。
そのため、私たちが対象的な価値の位置に立つ者として、絶対者の恵みを受けるにはまだ不足していることを自覚しています。どうか、父が主体となってくださり、私たちを相対的な位置に立たせてください。絶対者であり主体者であるあなたの理念を、相対的な私たちの理念として受け渡すことができるようお許しください。そして、私たちの心がその理念に浸り、父のすべての愛を歌えるよう導いてください。
心で動き、心で伝え、感情で体感し、感情で伝え、身体をもって屈し、身体で一体となる働きが、このひとときに起こることをお許しください。父よ、心から願い求めます。
これから御言葉を伝えようと思いますので、どうか父よ、共にいてくださいますようお願い申し上げます。私たちは人の言葉を求めているのではありません。今日まで人間たちが語る言葉を私たちは十分に聞いてきました。また、講壇で語る数多くの教職者たちの言葉もすでに十分に聞きました。しかし、それを求めているのではありません。死んでいた命を躍動させ、冷え切った心情を湧き上がらせ、曇っていた心を清らかにすることができる新しい御言葉を求めています。そして、私の父が私の心情、私の志、私の理念、私の主体であることを知り、父と私たちが永遠に一つであることを感じられる再創造の御言葉を求めています。どうかそれをお示しくださり、直接的な恵みの雨を降り注いでくださるこのひとときとなりますよう、父よ、心から願い求めます。
語る者の心と聞く者の心の間に隙間を生じさせることがサタンの働きであることを知っています。ですから、この時間、自己の力で立とうとする思いを捨て、父によって立つという立場に立ち、父の前にすべてを委ね、頼り、希望し、期待する者となれるよう導いてください。父の憐れみを受けることができる貴い時間をお許しくださいますようお願い申し上げます。このすべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。
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<御言葉>
今日、皆さんにお伝えしようと思う御言葉のタイトルは「父のものは私のもの」です。このテーマを広げるならば、「神様のものは私たちのもの」となります。このようなタイトルをもって、しばらくお話しいたします。
私たちはこれまで、自分の価値が無限であると考えてきました。しかし、価値の中身については理解せず、ただ価値を持つ存在であるということだけを認識している立場にいます。それにもかかわらず、自分自身の完全な価値を見出し、それを確立して完全に誇れる存在となり、歴史的で宇宙的な大いなる実在の前で堂々と威厳を持って誇示できる姿には至っていないということを、私たちは感じています。
このような立場にいる私たちだからこそ、価値のある存在、価値ある姿、価値ある因縁、そして価値ある世界を切実に求めているという事実を、誰も否定することはできないでしょう。私たちはそのような場所を求めて歩んでいかなければならない存在なのです。このことを認めつつ、万象を見つめ、大宇宙を見上げるとき、私たちは虚しさを感じずにはいられません。
そのため、私たちは頼るべき何かを追い求めざるを得ない運命に置かれていることを、常に良心の働きを通して、良心の作用を通して体感しています。この観点から見れば、たとえ神が存在しないとしても、仮想的な絶対者を立てなければならないのです。このような私たち、このような立場に生きる私たちが、もし感じ、楽しみ、歌い上げるような何らかの行動の過程があるとして、それが価値的な因縁を結び、感じ、楽しむことができるものであるのかと考えると、そうではないということを、私が言わずとも皆さんが確信できるでしょう。
このような状況に置かれた人間であるがゆえに、このような悲惨な事情の中に絡み取られた人間であるがゆえに、もし天が存在するならば、ここにどのような因縁を築かなければならない責任があるかを考えざるを得ません。もし天が絶対的な価値の主体であり、価値の本体であるならば、天がその価値ある因縁を探し出し、確立するために尽力しないのであれば、神に「愛」やその他の言葉を適用することはできないという事実を、私たちは論理的な観点から認めざるを得ません。
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私たちは人間が堕落したという事実を知っています。そして本然の位置を失ったということも知っています。つまり、本来の価値を失った存在が人間なのです。このような私、このような私たちは、この世界全体を見つめて、もし天が存在するのならば「天よ」と叫ばずにはいられず、もし絶対者が存在するのならば「絶対者よ」と叫ばずにはいられません。そして、善の形を備えた何かが存在するのであれば、それが実体として現れてくれることを切に願わなければなりません。また、そのような絶対者や天、あるいは善なる存在を心から切実に求め、憧れなければなりません。
天は、このような状況、このような立場にある人間をよくご存じであるがゆえに、私たちを探し出すために、あらゆる苦労と努力、そして自己犠牲をいとわず、全人類を救おうとしてご自身を費やすことも気にせず、全体の価値を超える価値を見つけるために探し求めておられるのです。この事実を認めるならば、私たちは謹んだ心をもって両手を合わせ、その前に礼拝を捧げなければなりません。
このような全体の動き、歴史の流れ、心情の流れを見つめるとき、私たち自身は気づかなくとも、歴史の背後や私たちの心情の深い流れの背後には、何かが私たちを導き、促しているのです。私たちの心情の深い部分には、私たちをして価値を追求させる何かが存在しているということを理解する必要があります。これを偶然のもの、自然のものとして片付けてしまってはいけません。それは、私たちとの間に断ち切ることのできない何らかの因縁が結ばれているからです。
皆さんがその因縁を解き明かし、その価値を語るとき、最大の善である神の存在がそこに関わっていることを理解する必要があります。このような関係は、結ぼうとしなくても結ばれているものであり、断ち切ろうとしても断ち切れないものなのです。
このように、天はその背後でご自身の苦しみを甘受しながら、絶対的な価値を人間に付与するために、今日まで尽力してこられました。そして今後もその努力を続けざるを得ない立場におられるという事実を私たちが知るとき、天について考えるだけで、畏敬の念を抱かずにはいられず、謹んだ心で頭を垂れることしかできません。
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このような事情から、神は人類に向かい、彼らがその内容も、意図も理解できない言葉を宣言してこられました。神は宗教を設け、深い因縁を結ぶための内的な意図をお持ちでありながら、その因縁を結ばなければならない私たちには漠然と「私を信じよ」と語りかけてこられました。その宣言の内容は曖昧なものでした。また、「私を仰ぎ見よ」と叫び、「私を愛せよ」と叫び続けてこられました。それがどのような因縁や内容に基づいているのかは分かりませんが、それを聞き、体験してみると、それは断ち切ることのできない心情的な因縁の世界に何か深く関係していることを否定できません。
人間はそのような漠然とした言葉に依存しながら信じて歩み、希望を抱いて進み、愛しながら歩んできました。しかし、信仰者たちは信じる場で倒れ、希望する場で倒れ、愛する場で倒れてきました。信仰の道を歩む中で挫折した人は非常に多かったのです。天を信じて命を落とした人の数は、ある一国の忠臣や烈士よりも何千倍、何万倍にも上ります。希望を抱きながら命を落とした人、愛を捧げながら命を落とした人もまた非常に多いのです。しかし、その中で「信仰の王者」「希望の王者」「愛の王者」と称された人は一人もいませんでした。
事実がそのようであるならば、私たちは神に対して恨みを抱くべきでしょう。事実がそのようであるならば、「信じる」という言葉も、「希望する」という言葉も、「愛する」という言葉も存在しないはずです。
6千年の摂理の歴史を振り返るとき、信仰の勝利者になろうとして倒れた人は多くいましたが、信仰の大王者となって人類の前で称えられた人は一人もいませんでした。また、希望の基盤を見つけようと彷徨った人も多くいましたが、その希望の基盤の上で天の称賛を受け、人類から称えられた人はいませんでした。愛を語った人も数多くいましたが、それも同じ結果でした。
しかし、イエス・キリストは、神が4,000年間探し求めていた信仰の実体であり、父の心情を完全に体感された方でした。そのような方であるということを、民族は知りませんでした。民族は知らなかったのです。世界中の誰一人として、それを知る者はいませんでした。それを知っていたのは、ただ一人、神だけでした。
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だからこそ、イエス様には行くべき場所がありませんでした。信仰の歴史を創造するために来られたにもかかわらず、それを理解し受け入れる人がいなかったため、世界を背にして理解してくださる方を探し求められた道が、十字架の道でした。こうしてイエス様は神の信仰を受け継ぎ、人類の希望となる神の希望を受け継ぎ、無形の神を代わる実体的な信仰の主体、実体的な希望の主体となられたのです。イエス様は、神の相対的な信仰の主体ではなく、絶対的な信仰の主体として、無形の神に代わり地上に現れた方です。そのため、たとえ神を信じないとしても、イエス様は信じなければなりません。
聖書は「イエスを信じよ、イエスを望め、イエスを愛せよ」と教えています。なぜなら、実体を持つ人間には実体が近しい存在だからです。だからこそ、私たち人類はイエス様を実体の姿として立ててくださった神の尽力と功績の前に、頭を垂れ、何万回でも涙を流して感謝するべきです。このことを知る必要があります。しかし、信仰の基盤を築き、希望の環境を切り拓き、愛の囲いを作ろうとされたイエス様の理念は、この地上で成し遂げられることはありませんでした。
4千年の歴史は信仰の実体を立てるための歴史であり、イエスと聖霊以降の2千年の歴史は希望の実体を立てるための歴史です。主義や思想の基準もまたそれに基づいています。しかし、イエス様が望んだ世界観と、その反対の世界観が、今日の民主主義と共産主義として現れています。このように希望が最終段階に達しているため、この時代を「終末」と呼ぶのです。ただ漠然と「終末」と言っているのではありません。
イエス様はどのような「祖先」でしょうか?信仰の祖先というよりも、希望の祖先です。それも、実体として希望を与えることのできる祖先です。人間に希望があるとすれば、皆さんは何を希望するでしょうか?私たちは、身体の中で心が貴いことを知っています。そして、心の中では心情が最も貴いことを知っています。もし希望があるとすれば、それは心の実体的対象、心情の実体的対象となる方以上の希望はないのです。だからこそ、イエス様は人類に対して「あなたたちは花嫁であり、私は花婿だ」と語られました。このことをしっかりと理解してください。つまり、世界がどれほど進んだとしても、人類が希望するその範囲を超えることはできないのです。
では、希望とはどのようなものでしょうか?今日のキリスト教は、言葉としての希望の世界を求めています。しかし、今は言葉を超えて、実体を待ち望む時代に来ています。どれほど多くの信仰的名詞があろうとも、信仰の歴史が素晴らしいものであろうとも、今必要なのは一人の実体です。その一つの実体が現れなければ、言葉としての希望の世界観は行き詰まってしまいます。実体を結びつけることができなければ、その世界は歴史とともに消えてしまうでしょう。見守っていてください。
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今日のキリスト教は、名実ともに世界的な宗教となり、民主主義を中心とした民主陣営の世界路線もキリスト教理念の一部によって動いています。しかし、それも終わりが近づいています。ここで必要なのは何でしょうか?言葉だけを持って喜ぶことが目的ではありません。実体として永遠の生活を喜び楽しむことができるものでなければなりません。
歴史は旋風のように回り続けています。このように渦巻く今日の時流の中にいる私たちは、過去の信仰の祖であるアブラハムと、その後の歴代の預言者たちの姿を仰ぎ見ます。そして、その後2,000年間の希望の王子であったイエスを見つめ、激しい闘争の歴史を振り返ります。
しかし、彼らが成し遂げようとしたのは、言葉を中心とした約束の希望であり、実体的な生活として現れる希望ではありませんでした。したがって、彼らが望んだ希望の一日が実体的に成就する時、それが終末であり、それを成し遂げることが再臨の理想です。そして、その意図を成就させるために来られる方が再臨主です。
では、今何が残されているのでしょうか? 信仰を中心とした時代は、イエスによって終わりを迎えました。イエスは信仰そのものの実体であるため、彼を信じるならば、それ以前の4,000年間で信仰してきたどの人物よりも素晴らしい価値を持つことができるのです。イエスは、信仰を持たない民の前に信仰を立てなければならず、希望を持たない民の前に希望を立てなければなりませんでした。そうではなかったでしょうか?
この聖書をご覧ください。アブラハム以降の予言を見てください。信仰を基盤とした希望とは、ただ一人のメシアを掴むことでした。しかし、再び象徴的な約束の領域内で「花婿と花嫁」という希望を持つようになりました。それはイエスが十字架で死を迎えたためです。皆さんはこのことを知らずに信じています。しかし、今はその意味を理解できなくとも、いずれ理解する時が来るでしょう。もしそれが実体的な神の働きであるならば、そうでなければなりません。それが道理にかなっているのです。
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では、希望の実体であり信仰の実体であるその方が成し遂げようとされることは何でしょうか?言い換えるならば、希望と信仰の目的とはどこにあるのでしょうか?それは、人間が自らを見出し、愛を歌うことにあります。それ以外にはありません。主に出会う目的とは何でしょうか?それは、主を通して自分の価値を認められ、主の愛の懐で生きるためです。これこそが人類の最大の目的です。
神が信仰を立てた目的、神が希望を立てた目的、神が愛を立てた目的――それらの目的は、イエスのためでもなく、アブラハムのためでもなく、私たちの先祖の誰かのためでもなく、まさに今日の「私」のためなのです。では、私のために6,000年の間、信じ続け、探し続けてこられた方は誰でしょうか?それは神です。その方は誰でしょうか?それは私の父です。そのことにこそ、天地が覆るような深い事情があるのです。
だからこそ、信じてきた父、希望してきた父、愛してきた父、その父をあなたたちが掴むとき、イエスも「今まであなたに会うために苦労してきた。あなたのために尽力した」と言えるようになり、神もまた同じように語られるはずです。そのような立場で、あなたたちが「神様、一緒に暮らしましょう。イエス様、一緒に暮らしましょう」と言うとき、神やイエスが「そうだ、あなたと永遠に一緒に暮らそう」と言ってくださる場所が天国です。空想的な天国や架空の天国は、人類には必要ありません。私たちはこのような実体的な天国を実現するために戦わなければなりません。
イエス様は地上に来てから去られる際に、「私が成し遂げられなかったことを、私を信じる代わりに聖霊を信じなさい」と語られました。皆さん、イエスだけを信じれば救われると思っていませんか?それは大きな間違いです。聖霊を信じても救われます。聖霊は人々をして神の子を信じさせる働きをされるのですから、聖霊も信じなければなりません。
聖霊とはどのような神でしょうか?聖霊は「母の神」です。このことを今日のキリスト教徒は知りません。もし私の言葉が嘘だと思うならば、神に尋ねてみてください。私がここで語っているのは確信に基づいています。それは真実なのです。
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聖霊は母の神であり、イエスは人類の真の父です。真の父とは完成されたアダムです。アダムが堕落して人類の真の祖先となれなかったため、私たちはすべて真の祖先ではなく偽りの祖先の子孫です。この状況において、真の祖先として来られる方がメシアです。すなわち「真の父」ということです。しかし、今日のキリスト教では三位一体の神についてあれこれと言いますが、イエスは真の父であり、聖霊は母です。この父と母の愛を受けなければ、人は再び生まれ変わることはできません。子供が親の愛なしに生まれることがあるでしょうか?
だからこそ、『ヨハネの黙示録』に「御霊と花嫁が言う、『来なさい』。これを聞く者も『来なさい』と言うであろう。渇く者も来るがよい。命の水を、値なしで受けるがよい」(黙示録22:17)と書かれています。この日は聖霊が実体として現れる日です。それが再臨の時代であり、花嫁が装いを整える日です。小羊の婚宴とは、失われた真の父母を迎え入れる日なのです。このようなときには、名目的な神、信仰の対象としての神はもはや必要なくなります。名前だけの神を信じることや、外見的な信仰生活は必要ありません。私たちには実体としての神が必要なのです。
では、信仰の実体の主体は誰だったのでしょうか?それはイエスでした。希望の実体、その主体は誰だったのでしょうか?それもイエスでした。愛の実体、愛の主体は誰だったのでしょうか?それもイエスでした。このようなイエスを神は地上に送られましたが、人間は彼を認識せず、不信仰のゆえに彼は地上を去らなければなりませんでした。では、イエスはいつ再び来られるのでしょうか?一度「花婿」として来られたことを知る人がいなかったため、再び来ることができないのです。なぜなら、たとえ再び来られたとしても、また冷遇されることが目に見えているからです。このような悲しみを神は抱えておられることを、皆さんは知らなければなりません。「主が来られれば、私を探してくださるだろう」と考える信者たちが、キリスト教を衰退させ、神の意志を破壊しているのです。
神は人類を探し出しに来られるでしょう。しかし、信仰の実体、希望の実体、愛の実体がこの世に現れない限り、信仰を立てた目的、希望を立てた目的、愛を立てた目的は解決されません。それは確実なことです。ですから、皆さんは、「私自身がいなければ、神も神としての役割を果たすことができない」ということを知らなければなりません。私がいなければ、神もこの世界を動かすことができないのです。イエス様はこのような信念を持って生きられました。自分自身がいなければ、神の愛を紹介することはできないということをよく理解されていたのです。
今は「証明の時代」と呼ばれる時代です。「科学の時代」とも言われます。科学とは論理的なものです。論理的であるということは、原因と結果が体系的に一致している必要があります。その論理的な事実を生活の中で実証し、実行できるとき、それを科学的であると言います。人間は本来、そのように創造されています。生活的で実証的な立場を離れた幸せというものは存在しません。そのような基盤から離れた「民族」や「国家」もあり得ないのです。だからこそ、神もまた、実体を伴って議論しようとされるのです。
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では、終末とはどのような時代でしょうか?それは、信仰を立てるための4,000年の歴史と、希望を立てるための2,000年の歴史が終わる時代であり、信仰の王子、希望の王子、愛の王子が現れる時代です。しかし人々は、主が「雲に乗ってふわふわと空から来られる」と信じていますが、そうではありません。もしそうだとすれば、晴れ渡った雲一つない青空の日には、主は来られないことになりますよね?
私もそのような信仰生活を送ったことがあります。もどかしさと息苦しさから地を叩き、天に対して何十回も抗議したことがありました。しかし、突き進んでみると、それが本当ではないことを悟りました。そして正しいことを語るようになると、非難される者の代表となりました。「異端者」という烙印を押されながら生きています。過去にはパウロも「異端者の頭」と呼ばれましたし、真実をもたらしたメシアも「バアルゼブルの霊に取り憑かれた者」と揶揄されました。それは歴史的な悲しみでした。悲しみで始まった歴史である以上、悲しみで終わらなければならないのです。
信仰深い信徒がいるとすれば、教会の床に伏して祈る信徒を大切に見てください。教役者たちが彼らを追い出し、涙を流しながら振り返って教会を去る羊たちについて行ってみてください。そこには、新しい花園が近くにあることを感じるでしょう。冷たい風が吹きつける一瞬が過ぎれば、春の季節が訪れることを誰が予想したでしょうか?その身体は逆境の中にあっても、その心には春の季節を迎える威厳ある花嫁の姿を持つ一人、私は主がそのような人を探しに来られると思います。
大勢の人々の前で雄弁を振るう「言葉の王子」は数多くいますが、実体の主人公は存在しません。信仰の実体としての教役者はいません。希望の実体としての教役者もいません。愛の実体としての教役者もいません。このような状況で、この教団、この信徒たちはどこへ向かうのでしょうか?終末の信徒たちはどこへ行くべきなのでしょうか?
この韓国の天地で、「ムン」という一人の存在は異端者の頭として追われ、民族の反逆者とされ、命を失うことがあったとしても、この民族が祝福を受けるのであれば、私はその道を行きます。
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実際的で証拠的な祭壇がなくなった今、実体的な祭壇を築ける天の信仰の王子はどこにいるのでしょうか? 今必要なのは、そのような人です。数多くの群衆が必要なのではありません。数多くの兵士を従えて号令をかける指導者ではなく、数万の兵士のために眠れない夜を過ごす将軍が必要なのです。天はこれまで、寒くはないか、暑くはないか、空腹ではないかと人間を案じながら歴史を導いてこられたのです。
先頭に立って「私を見なさい」と叫んでいたのはパリサイ派の人々でしたが、イエスは後ろを振り返り涙を流されました。それがイエスの姿でした。先頭に立って叫ぶ人が人類を救うのではありません。歴史や時代の流れとともに倒れながらも天を掴み、「私を憐れんでください。あの人たちはどうなるのでしょうか」と涙を流した人たちのおかげで、歴史は今のような形で進んできたのです。このことを知らない人は、その報いを受ける時が来ることを覚えておかなければなりません。
だからこそ、たとえ統一教会の御言葉がいくら良いものであっても、その内容以上に実体が問題となる時が来るでしょう。「あなたは何を持っているのか?」「あなた自身はどうなのか?」と問われる時が来るのです。信仰そのものとなれる自分、希望そのものとなれる自分、愛そのものとなれる自分が必要であることをはっきりと理解しなければなりません。それだけを備えていれば、たとえ主が千年後に来られるとしても、あなたを捨てることはできません。「信仰があるところに私はおり、希望があるところに私はおり、愛があるところに私はいる」と言える自分になれば問題はありません。
いまや、歴史を実体的に解明しなければならない時代が近づいています。私たちが望む希望の一日は、実体に出会う日です。それは事実です。幻想でもなく、架空の言葉でもありません。
皆さんの中に主の花嫁となる資格がある人がいますか?誰かがそうなったと言ったことがありますか?「そうなるだろう」と言う人は多くいましたが、「そうなった」と言える人はいませんでした。それでは、私たちはどのような内容を備えなければならないのでしょうか?歴史的な信仰の内容を備え、歴史的な希望の内容を備え、歴史的な神の心情の内容を備えなければなりません。それらすべての内容を備えた実体、その実体によって6,000年の歴史を導いてこられた神の悲しみを癒す資格を持たなければなりません。そうして初めて、主をお迎えすることができるのです。
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この罪深い世の中、考えるだけで嫌気が差します。実体を見つけるために6千年の歴史を苦労して歩んできましたが、その間、数え切れないほど人間たちに裏切られてきました。夢の中でも二度と見たくない、夢に出てくるのさえ嫌な歴史です。しかし、それを掴んで再び考え、悲しみ、繰り返しながら実体を成し遂げなければなりません。その一つの実体が問題なのです。
では、結論として、皆さん自身はどうすればよいのでしょうか?「信仰も私のもの、希望も私のもの、愛も私のもの」と言える自分を持ち、皆さん自身を千年万年信じることができる資格を備えなければなりません。
何を言っているか分かりますか? 「私は信仰と希望と愛の実体です」と言い、6千年にわたり摂理を進めてこられた神を信じる以上に、自分自身を信じられるようにならなければなりません。
皆さん、自分の体を信じていますか? 自分の心を信じていますか?自分の心情を信じていますか? それを信じることができなければなりません。神は、皆さんを探し出すために、6,000年にわたって信じてきたすべてを皆さんへの贈り物として与えてくださいました。ですから、私は神に代わり、イエスに代わり、聖霊に代わり、すべての人々に代わり、罪と戦わなければなりません。そして、すべての間違ったものを打ち砕く裁き人としての資格を持つ者として、自分自身を信じられるようにならなければなりません。そのような立場に立たなければならないのです。
皆さん、イエスを信じて天国に行こうという時代は終わりました。「神を信じて天国に行こう」と言うのではなく、「神を天国にお連れしてください」と言うべきです。「天国に行ってイエスに会おう」と言うのではなく、この地上に天国を作り、イエスをお迎えしてみてください。「イエスの愛を受けよう」と思っていますか?罪に染まった皆さんが、イエスの愛を求めることができると思いますか?イエスは神の皇太子です。イエスは神の皇太子です。それは無理な話です。そのような信仰ではとても無理です。
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愛を受けたいのであれば、イエスが死に至った以上の心情を持って、「私は本当に愛したいのです」という気持ちが切実に心の奥底から湧き出てこなければなりません。しかし、今日の信仰者たちは全員が強盗のような心を持っています。自分の思い通りにしようとしていますが、それは不可能です。どれだけ霊界を探ってみても、それは成り立ちません。本質的に間違っているのです。
だからこそ、私たちは今、神を解放しなければならない運命に置かれています。「人類のために神が拘束されているのだ」「私のせいで神が拘束されているのだ」「私という一個人のせいで神がサタンの訴えを受けているのだ」「私のせいでイエスも死んだのだ」「私のせいで聖霊が血まみれの闘争の歴史を抱えて転げ回っておられるのだ」。そのように悟り、「神よ、どうか私に力をお与えください。私は父を安息の地へと解放の場へとお連れいたします。イエスも聖霊も解放の場へとお連れいたします」と言える信仰に飢えた者、希望に飢えた者、愛に燃える者を神は6,000年もの間探し求めてこられたのです。この事実を私たちは知らなければなりません。
この言葉に矛盾がありますか?そのように私たちを愛してくださらなければ、神は私の父と言える方ではありません。その境地では、山を眺めても涙が溢れ、責任を果たせない私たちは、歴史を振り返るたびに胸を叩かずにはいられません。そしてどれほど堂々と振る舞い、足を踏み出しても、結局は嘆きの王子でしかいられないのです。
皆さんは知るべきです。神は天国の玉座に安らかに座っておられる方ではありません。神は、地獄が存在することを目の当たりにされ、その神自身が地獄以上の苦痛を受けておられるということを人類は知りません。もし神が地獄以上の苦痛を受けることなく地獄を存在させているのだとしたら、その神を愛の神とは呼べません。神は6,000年の歴史の中で、地上の地獄の苦しみを一つとして経験しなかったことはありません。すべてを経験されているのです。そうして分かったのは、神は地獄の苦しみを受けておられるということです。
「そんな馬鹿げた話があるか」と言う人がいても構いません。しかし、私たちはそのような観点から神を信じ、神をお迎えしなければなりません。それでこそ、神は人類の真の神であると言えるのです。神は私を探し出すために、地獄の苦しみをすべて受けられたのです。
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イエスが十字架で亡くなられた後、陰府で過ごされた3日間とは一体何だったのでしょうか?彼は地上の救い主であると同時に、霊的な救い主であるべき存在でした。地獄にまで行き、そこで福音を伝えなければならなかったのです。だからこそ、イエスを信じる人々は、地上の地獄の最も底辺にまで降りていかなければなりませんでした。そのため、歴史の歩みの中で踏みにじられ、押しのけられることになったのです。神がそのような道を歩まれたのですから、私たちもその苦しみを共にする同伴者であり、協力者でなければなりません。そのような者たちに、天国という栄光の園を相続させるというのが復帰摂理であり、救いの摂理なのです。このことをはっきりと理解してください。
「神よ、私を地獄に送り、父の苦しみを体感させてください」と、心の奥底から湧き出る心情を持って祈る者は、地獄に行きません。しかし、「神よ、地獄は嫌なので、天国にだけ送ってください」と願う者は地獄に行きます。イエス様は十字架の上でこう祈られました。「アバ、父よ。私の思いではなく、父の思いのままにしてください。彼らの罪を彼らに負わせないでください」と。それは、4,000年間にわたり、この民族、この民を救うために地獄の苦しみを耐えられた神の心情と内的な想いを理解し、イエス様ご自身も十字架の道を避けることができないと感じられたからです。イエス様がこのような感情を持たれていたことを、しっかりと理解してください。
このような正義の基盤を築かなければならなかったキリスト教が、その基盤を失いつつあります。それを再び私たち自身の手で建て直すために、私たちは立ち上がりました。言葉なく戦い、言葉なく前進しなければなりません。その道は富と栄光の道ではありません。そのようなものを求めるならば、私たちの希望の時は訪れません。そのために力を費やし、時間を浪費している余裕はありません。世界がどうであろうと、私たちは進むべき道を進もうと決意しているのです。
皆さん、統一教会に何かも分からずに来た人や、御言葉を聞きに来た人がいますか?はっきり言っておきますが、統一教会の道は歩むのが非常に困難な道です。苦痛の壁に頭をぶつけ、体を投げ出し、血と肉が削られるような場所を通らなければなりません。私たちが進む道は平坦な道ではありません。主もその道を歩まれ、預言者たちも常にそのような道を歩みました。歴史を担った者たちは、歴史の精神を抱き、血を含んだまま戦いの勇士として立ち上がった者たちでした。そのような者たちが歴史を導いてきたのと同じように、天を掴んで進んだイエスの理念と精神を担う者もまた、そのような人々でなければなりません。皆さん、このことをはっきりと理解してください。
私は皆さんに伝えたいことがあります。盲目的な信仰の時代は過ぎ去りました。虚偽や架空の論理の基盤は無知によるものであり、その基盤には完成がないということを断言したいのです。だからこそ、今日この時点で私たちが提起しなければならない問題は、「私が私自身を信じること」です。
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神がイエスを信じ、イエスが神を信じたように、イエスが聖霊を信じ、聖霊がイエスを信じたように、私たちもまた自分自身を信じなければなりません。そして、「天倫の道理が変わったとしても、私は変わらない。天地がなくなったとしても、イエスの言葉は変わらない。天地が消え去ったとしても、私は変わらない」と言える段階にまで進まなければなりません。
しかし、皆さん一人ひとりには問題があります。皆さんは自分自身を信じていますか?天国に行こうとして奔走する皆さん、自分自身を信じていますか?口先だけの信仰、中身のない信仰は無意味です。中身のない殻や籾殻は何の役にも立ちません。だからこそ、聖書に「麦と籾殻の比喩」の言葉があるのです。中身のある信仰、中身のある希望、中身のある愛の化身となって行動するならば、この世界がどれほど広くても、アメリカがどれほど広大で先進国であっても、問題はありません。問題ありません。「あなたたちはいつか必ず屈服する」と確信を持つ者たちがいれば、彼らは世界を支配するでしょう。永遠の希望の父である神を代わる者は、永遠の希望の実体です。また、神は永遠の愛だと言われました。だからこそ、皆さんがその愛を抱き、与えるために努力し、与えるために奔走し、与えるために死ぬ場所さえ見つけられずに奔走してみてください。それでも、この国が滅びるでしょうか?
永遠に自分自身を信じ、自分自身を希望とし、自分自身を愛しながら、「神様、私の愛を受け入れてください。神様、私の希望をご覧になって喜んでください。神様、私の信仰をご覧になって喜んでください」と言えるとき、神が「そうだ」と答えてくださらなければなりません。信仰を立てた目的がそれであり、希望を探す目的がそれであり、愛を求めた目的がそれです。そのようになれば、そこで主と出会うことができるのです。そして、その主と共に生きるのです。
では、希望と信仰の目的は何でしょうか?それは、生活の中で天の愛を中心に生きるためです。宗教の名詞をすべて捨て去り、愛の歌を歌いながら生きる新しい理想世界が地上天国です。その世界は架空の世界ではありません。論理的観点から必然的な事実として現れるべきものであることを、知識の高い人々は理解するでしょう。
このような観点から考えてみると、この世界に残る民族とはどのような民族でしょうか?それは、信仰に燃える民族、希望に燃える民族、情熱に燃える民族です。歴史のすべてのページをめくり、あるいは国家の興亡を考察しながら、信仰の節操を守って戦い抜いてきた民族がどこにあるのか探してみなければなりません。希望に燃える民族、情熱に燃えて神のためであれば命を惜しまず動こうとする民族、そのような民族は天に近い民族だということです。
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社会的にも同じことが言えます。世の中で成功する人はどのような人でしょうか?それは、国への忠誠を守り、国家の理念を自分の理念として受け入れ、国家と心情を通じて結びつくことのできる人です。そうではありませんか?家庭でも同じです。家庭で信頼を得ている人、希望を持っている人、感情的な絆を持っている人、その人が継承者となるのです。そうではありませんか?これを否定しますか?
歴史的に見て、信仰心に燃えている民族とはどの民族でしょうか?神という言葉すら聞いたことがなく、預言者や先烈たちのいかなる予言も受けていなかった5,000年の歴史を持つ韓民族が、何か分からないけれども天に対する信仰心が非常に高いということを私は発見しました。皆さんが何と言おうと構いません。私はそれを発見しました。この民族、東半球の爪ほど小さなこの国が、これまで幾多の時代と時代、思想と思想を乗り越えながら5,000年の歴史を持ち続けてきたという事実は、まさに奇跡です。
韓国の歴史を見てください。数十回以上の侵略を受ける危険な歴史の道を歩んできました。侵略されては解放され、また侵略されては解放されました。そのたびに損害を受け、生き残るのがやっとの状態でした。それでも民族の精神を守り、希望の一日を夢見て歩んできました。極東の朝鮮半島を動かしてきた希望の民族精神があったからこそ、これまで戦い続けることができたのです。このような精神を持って歩んできた民族にメシアが来ないはずがないでしょう?私にはそう見えます。皆さんもこのことを理解しなければなりません。
また、感情的な面においても、極東の中で韓国人ほど情熱的な人々はいません。そして「東方礼儀の国」とも呼ばれてきました。キリスト教もまた同じです。しかし今、信仰の宗教、希望の宗教を主張してきた仏教や儒教、キリスト教もその使命を果たし終えた段階にあります。それでも残っているものは何でしょうか?それは民族精神を中心にして世界理念に燃え上がる隠れた情熱が心の中で湧き上がっていることです。若者は分からないかもしれませんが、年配の方なら理解できるでしょう。
それでは、この民族がなぜこのようになったのでしょうか?皆さん、時代的観点から考えてみましょう。すべての価値というものは、相対的な基準、比較の基準がなければその価値を決定することはできません。理解している人には分かるでしょう。主体と対象の位置を定めなければ、価値観というものを形成することはできないのです。一つの国家が世界的な指導理念を持って現れたならば、それを支持する相対的な国家が存在し、その理念を実践しなければ、その理念を提唱した国家が世界の主導権を握ることはできません。
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堕落する前の本来の文明とは何でしょうか?西洋文明は外面的な文明です。今日の統一教会の信徒たちは、アメリカのようなところに行けと言われても行きたくないと思うかもしれません。ご覧ください、すべてのものが崩れつつあります。昔の歴史を振り返ると、感情的な基盤を持つ母系中心の時代がありました。そして父系中心の時代がありました。これまで父系中心の社会が続いてきましたが、今それすらも崩れつつあります。そして夫婦中心の時代に移行しています。
そのため、今日のアメリカのような国は、自分たちの利益しか考えていません。しかし、それも崩れつつあります。次にどうなるでしょうか?兄弟関係、民族関係、世界関係、そして天の関係を中心とした感情的な世界へと展開していくのです。この言葉の意味が分かりますか?
また、主権の観点から見ると、帝国主義思想も崩壊します。なぜなら、悪しきものをそのまま放置することはできないからです。だから崩れていくのです。その結果、君主制の時代、帝国主義の時代が崩壊します。人間の堕落によって天の帝国主義の理念が壊れたのです。したがって、天使長が君主となり、天使長主権の時代へと進んできたのです。
今日の世界の思想を見てみると、帝国主義的なものはすべて崩壊しています。君主主義的な形態は崩れ去り、民主主義的な平民主義の時代へと移行しています。では、この中で何を目指すべきでしょうか?そこから、「神が我々の王であり、天の意志と善を抱いて生きる人々が私たちの家族であり、神の善のために戦う人々が私たちの国民である」と言える世界へとまとめ上げていく必要があるのです。
だからこそ、世界の流れをじっくりと見てみると、最近では怪しいものがたくさん出てきています。もう少し経つと、他人の名前を借りて王のように振る舞う行為も見られるでしょう。「女王だ」とか「何々だ」と騒がれる時代が過ぎ、さらに少し経てば、美しい男性を「この都市の王子だ」として崇める時代が来るかどうかを見ていてください。今の時代の流れは、まるで逆さまに回っているようです。年配の女性が若い男性と暮らし、若い女性が年配の男性と暮らす時代になっています。このように奇妙な状況が生じていますが、その具体的な理由を彼らは理解していません。
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そのような中で民主主義が登場しました。民主主義は平等主義です。なぜこのようなものが出てきたのでしょうか?それは、キリスト教が帝国主義から迫害され、軽蔑されてきたからです。ローマ帝国によって虐殺され、多くの信者が命を奪われましたが、それでも命脈を保ち続けました。キリスト教徒たちは逆境の中でも後継者を育ててきたのです。そして、キリスト教理念に徹した人々が平民思想を基盤として、今日の民主主義の世界に参加する権利を築き上げてきました。つまり、神の側に立つ人々が主権を動かす世界へと変革しようとしたのです。この平民主義の時代を天の主権時代へと再び方向転換させる世界運動、すなわち「天宙運動」が起こらなければなりません。
しかし今日、民主主義の行く末は行き詰まりを見せています。これからの方向性について、誰も明確な答えを持っていません。
今後の世界がどうなるかというと、外的文化の発展を成し遂げた西洋から、内的な極東に目が向けられるようになります。現在、韓国の女性たちは金髪に染め、髪をカールし、顔に何かを塗って装っていますが、やがて純朴な韓国人の姿、東洋人としての気品ある姿を懐かしむ時が来るでしょう。そのような時が来るかどうか、見守ってください。
西洋の哲学や思想の根はすべて掘り尽くされ、終焉を迎えています。一方、東洋哲学は私たちの生活観や人生観と結びつきながら、4千年、5千年にわたる歴史の中で絶え間なく続いてきました。この東洋哲学が今日、大きく注目されるようになっているのです。文化というものは総合的な理念の中に融合されていくのが歴史的な現実ですが、この時代において、一面的なキリスト教の理念だけでは十分ではありません。これからの宗教をどのように再編するかが問題となります。
ここで、極東の文化全体と西洋の文化全体を調和させる運動が起こるべきです。それは、キリスト教精神を内包しつつ、東洋の思想や宗教の形態を取り入れ、人間の精神を導いてきたすべての思想と調和するものでなければなりません。新しい時代の形を構築しながら、古い時代の良い部分を尊重し、受け入れることができる内容と体制を備えた宗教や理念が登場しなければ、今後、世界が一つにまとまって動くことはないでしょう。
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ご覧ください。太陽は西から昇るのではなく、東から昇ります。歴史的な観点から見ると、戦争はどこで多く起こりましたか? 極東よりも西洋で多かったことを私たちは知っています。
知識とは「知る」ことです。そして「知る」ことで得られるものがあります。しかし、何を得たのでしょうか? 精神的な収穫ではなく、物質的な収穫だったのです。西洋人たちは外的な自然科学と文明を通じて、物質的に豊かな世界を作り、自分たちの「天国」、つまり外的な天国の中で眠りについています。しかし、その眠りから覚める時が来ました。
東洋人は道(タオ)を尊ぶ人々です。道というものは、十のことを知ろうとすれば十のものを失わなければならず、千のことを知ろうとすれば千のものを失わなければなりません。この極東の民族たちは道を尊ぶ民族であるがゆえに、物質的な面では貧しい状態になってしまいました。道を十知れば物質を十失い、百知れば百を失ったのです。その結果、赤手空拳の哀れな姿となり、ついには物質に屈服する人間となってしまいました。しかし、これを笑い飛ばして乗り越える新たな動きが、極東に現れる時が来るということを、皆さんは予測しなければなりません。
このような点で、特別なプライドを持たなければなりません。極東において、韓国人は信仰的な観点から見ても、希望的な観点から見ても、情熱的な観点から見ても、どの民族にも引けを取りません。
人は、水、土、空気、そして太陽の光によって生命体を完成させていくというのが鉄則です。では、将来、どの国が世界最高の文化の中心地となるのでしょうか?それは、水が澄み、土地が豊かで、空気が清らかな場所です。その場所こそ韓国です。韓国は水が澄んでおり、山でも野でもどこでも冷たい水を飲んでもお腹を壊さず、元気に生きられる国です。韓国はこのように水が美しく、山が素晴らしい国、つまり山水が豊かな国です。
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次に空気が清らかです。夜の空気、朝の空気が春夏秋冬、一年中清らかです。韓国の一日をじっくり見てみると、とても面白くできています。朝は春の季節、昼は夏の季節、夕方は秋の季節、夜は冬の季節です。一日の中に創造理想世界の四季の形をすべて備えています。気候においても三寒四温のすべての要素が均等に備わっています。このような場所に住む民族が偶然の産物だと思いますか?
また信仰的に見ても、韓国の現在のキリスト教は70~80年という短い歴史を持っています。しかし、その短い伝道の歴史を持ちながらも、信仰的にどの国にも引けを取らず、世界で第1位の位置に立っています。信仰問題において、韓国は世界のどの民族にも劣らない権威を持っていると、自信を持って言えます。
信仰と希望と愛という内容を基にして考えるとき、皆さんはどのような人を友人として選びたいですか?信頼できる人、希望を持つ人、そして「味のある」人を友人にしたいと思うでしょう?そうではありませんか?神様も同じです。私たち人間は神様に似ているので、神様もそのような人を好まれるのです。信頼できる人、希望がある人、そして「味のある」人を好まれるということです。
ですから、私たち人間がこの地上で生きるとき、どのような環境に置かれても、どのような状況であっても、今日の生活の中で「味」を感じて生きる人々が地上天国に住むことができる人々であり、「味を感じて生きなさい」と教えるのが聖書の教えなのです。ですから、「天国は心の中にある」という言葉の通り、その心の天国を中心として罪悪の世界の中でも苦しみを感じず、外的世界をあざ笑うように生きる人がいれば、その人が天国の国民であるという結論が出てきます。
このように考えてみると、問題はどこに帰結するでしょうか?外的世界も良い、国内のすべてのものも良い、ということです。世界がどうなろうと、それが終わりを迎えるとしても、今日の問題解決の焦点はどこにあるのでしょうか?その解決の焦点は「私自身」です。皆さん一人ひとりです。
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ですから、これから皆さんは神をお迎えするだけでなく、神の対象的な位置に立ち、その対象的価値を高め、「父よ、私が参りました。6,000年もの間、どれほどお待ちになったのですか?」と語るべきです。一度そう言ってみたいとは思いませんか?「どれほど涙を流されましたか?私が参りました。どれほど待ち望まれましたか?私が参りました。どれほど慕われましたか?私が参りました。」この一言を神様は聞きたがっておられるのです。
神様はそのような息子娘と出会い、天と地のすべてを統治するように祝福し、6,000年の恨みを忘れて「今日は私の誕生日であり、私の歓喜の日だ」と喜びたいと願っておられるのです。6,000年の恨みを思い出すことなく、新しい天地で新しい息子娘と情緒的な歌を歌いながら生きていきたいと願っておられる方が神様であり、その神様が今日私たちの父であり、その父の息子娘がまさに私たちだということを、はっきりと理解しなければなりません。
<祈り>
話をしているうちに力が尽きていくのを感じますが、父なる神様は6千年もの間どれほどのご苦労をなさったことでしょうか? 人々を見れば信頼できない姿ばかりですが、父なる神様、どれほどご苦労をなさったことでしょうか?
ああ、哀れな方は私たちが信じているお父様であることを知りました。そして、お父様を慰めることができる真の息子娘の姿を待ち望んでおられるお父様であることを知りました。どうか今日も明日も声を立てず純粋な捧げ物を持って、あなたの傷ついた心情を癒すために奔走できるようお許しください。
信仰も良い、希望も良い、愛も良いですが、実体を失った者は永遠に父なる神様の前に立つことができないことを知りました。そして、問題は私自身であり、私たち自身であることを悟りました。
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どうか、「自分自身を信じよう」というこの信念をもって、「父なる神様、私を信じてください。私を希望として見てください。私を愛してください」と言える自分を持てるようお導きください。そして責任を果たすことができる私たちとなるよう、切に願い求めます。すべてをお委ねしますので、あなたの御心のままに成してくださいますようお願いいたします。
主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
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