「文鮮明先生御言葉選集 2 - 7. 犠牲となった世界を越えよう 」
1957年 3月 10日, 前本部教会. 御言葉拝読:ロマ書 12:1-12
<祈 祷>
お父様、6千年にわたるお苦労の中で示された神の意志が、今日、私達の生涯全体を計り直す時である事を私達は忘れません。お父様!今、この瞬間、私達の身体と心が完全にあなたに似ていなければならない時である事を知ります。私達が永遠のあなたの腕に包まれ、あなたの意志が達成されるために何千万もの人々を愛されたあなたの気持ちを受け継ぎ、また私達がそのような父の気持ちを持って現れなければならない時である事を認識させて下さい。
この地は、あなたが苦労され、血を流された地であり、また人間にとって困難な十字架の道、世界的なゴルゴダの場所である事を知っています。お父様、今日私達がどのような立場にいるかを自覚させて下さい。イエス様が30年以上にわたり努力された足跡を私達が辿っている事を認めるならば、私達が生活している環境や、何を望み、何を祈るべきかを確実に自覚させて下さい。
今、残された十字架の闘いが私達の目前に迫っているこの時、私達個々としてこのすべての苦痛と怨みを排除できる自覚を持たなければならない事を知っています。天よ、この時、私達を慈悲深く見守って下さい。自分の不足を感じさせ、自己評価が足りない事を自覚させ、自分が不完全である事をため息つかせ、父の前で悲しみの涙を流す事ができるこの時を与えて下さい。お父様!どうかこの国民に哀れみを示して下さい。この国民の恐れを取り除き、この国民の罪を消し去り、この国民の暗闇を払いのけて下さい。
光の谷へと導く事ができる、父の力強い手が速やかに三千万の人々の中に現れるように許して下さい。そして、眠っている全世界の人々を目覚めさせ、歴史の過程を通じて神聖な歴史を支えてきた千千万の聖徒の願いを私達を通じて解決し、残す事ができるようにして下さい。愛するお父様、熱望し、望みます。
お父様、この時、あなたの前で謙虚になりました。私達は自分を中心にし、どんな主張も立てないように許して下さい。ただ幼い子供のような心で、あなたのひざまえに伏し、あなたの慈悲深い手を握りしめ、あなたの愛の腕に包まれる事ができるように許して下さい。そして、そのような神の賜物を尊重し、あなたに崇拝する心を許して下さい。
すべてを捧げ、自己を捧げる事で、自分自身に対するサタンの非難の余地を一切残さないように導いて下さい、お父様。熱望し、願います。お父様、この日は聖なる日であり、あなたの祝福を受ける日です。国民の代表として集まる多くの宗教団体の上に祝福を注いで下さい。孤独な祭壇を担当しているあなたの息子と娘にも一貫した神の賜物を許して下さい。終わりに向かうこの時に、彼ら全員が共通の目的を証言し続ける事ができるように許して下さい。すべてを支配して下さい。主の御名によってお願いいたします。アーメン。
<御言葉>
平和の心を持って一生を過ごす事が本来の人間の生き方でした。しかし、現代の人々の心には平和がありません。また、自由を中心に据え、永遠の理想の中で生きるべき人々の心にも、天国と共に楽しむ事のできる自由や理想はありません。
そのため、現代の世界中のすべての人々は、いつか完全な自由、理想、平和が実現する事を願っています。これはこの地球に住むすべての人々の切望です。このような完全な自由、理想、平和の世界は、本来の人間の望みであり、それは結局、皆さん自身が体と心を中心に置いて実現しなければならないものです。
さらに、皆さんは自身を中心に据え、家庭でそれを実現しなければならず、社会、国家、世界でも実現しなければなりません。ただし、天と地が一体となり、平和の歌を歌い、自由の歌を歌い、理想的な愛を楽しむ事のできるそのような世界を実現しなければなりません。
そのような世界を実現できない場合、人間は真の喜び、真の解放、真の栄光を味わう事はできません。では、なぜ人間はこのように不幸な運命に見舞われたのでしょうか?それは堕落の結果から来ています。したがって、現代の世界中の人類は、このような対立と闘争を乗り越えなければならず、苦痛と涙の山を越えなければならない運命になり、皆さんも今日、同じような困難な生活を送っている事を実際の生活を通じて感じているでしょう。
人間が望む世界と現実は、その距離が遠く、心はその世界を求めつつも、現実から逃れられないため、人々は苦痛の生活を避ける事ができないのです。ある人が論理的で倫理的な法律を制定し、その法律に従って人々が過ちを悔い改め、考える事ができるようにする事によって、人間が望む理想の世界を実現できると主張しても、それは理論的で論理的なものに過ぎず、実際の生活で人間の理想的な幸福の世界を実現する事はできません。多くの先人達の努力がそれを証明しています。
したがって、私達には終わりに向かって進むべき道と、越えなければならない高い山が残されています。それは永遠の平和、自由、理想を実現できる犠牲の道であるのです。
その高い山を越えるためには、心に永遠の自由をもたらし、永遠の天国の希望を代わりに持ち、永遠の天国の平和を代わりにもたらす一つの中心が現れなければなりません。もしもそのような中心的存在が現れなければ、天と地は永遠の平和、自由、理想を決して実現できないでしょう。それでは、この一貫した6千年の歴史の進行はどのように続いていくのでしょうか?
神とサタンと人間を中心に、どの条件が設定されているか、これが犠牲の高い山なのです。6千年の経緯を振り返ると、旧約聖書時代にはすべての創造物を通じて犠牲の高い山を越え、新約聖書時代にはイエス・キリストの実体を通じて犠牲の高い山を越えたのです。
では、今後の新約時代では、どのような基準で犠牲の高い山を越えるのでしょうか?聖徒、つまり皆さん自身を通じてそれが実現されるのです。このように全体的な神の計画が犠牲を中心にして進行すると考えると、旧約時代はすべての創造物を通じて犠牲の高い山を越えなければならず、新約時代はイエス・キリスト、すなわち神の子を中心にして犠牲の高い山を越えなければならない事がわかります。しかし、現在の新約時代では、新郎と新婦の名前を代わりに持つ事ができる皆さん自身を条件として、犠牲の高い山を越えなければなりません。
皆さんがそのような犠牲の高い山を越える前には、この地上で真の平和、自由、理想の世界は実現されない事になります。
では、6,000年にわたる人類の歴史は何でしょうか? それは形は多様で範囲は広いものの、この6,000年の神の計画の歴史は、最終的には完全な自由、完全な理想、完全な平和を楽しむ事のできる真の人間を見つけ出すための神の努力の歴史なのです。皆さんは原理を通じてこれを理解しているでしょう。
本来、人間はエデンの園で神を中心にし、永遠の自由、理想、平和を楽しむべきでしたが、人類の祖先であるアダムとイブが堕落したため、その本来の世界は崩れ去りました。しかし、堕落したアダムとイブの子孫である私達にも、本来の世界を追求する本質があるため、神の望む世界に向かって進んでいます。私達の望みは変わる事なく、達成しなければならない理想です。
それでは、神がその努力の計画の中で見つけ出そうとしている中心的存在は何でしょうか? それは堕落に関係のない、本質的な真のアダムとエバです。
皆さんも原理を通じて知っているように、人類の真の親となるべき神の子女であるアダムとエバは、堕落によって真の親になれなかったため、本来の歴史とは何の関係もない堕落した人類の先祖となってしまいました。私達は、このように堕落したアダムとエバによって堕落の血縁関係を断ち切り、本来の真の親を迎える日を迎えなければなりません。
もしもその日が訪れない場合、つまり、天と地を動かす事のできる中心的存在、そしてその中心的存在を中心に共に動ける存在が現れない場合、天と地が一つの目的を追求しない限り、この地上には真の自由、平和、理想が実現されないでしょう。そうなれば、人間は宇宙的な運命の循環と帰還の歴史から逃れる事はできません。
もしも皆さんが神の愛を受けたいと望むなら、皆さんは6,000年にわたる神の計画が努力の歴史である事を理解し、また、自身もそのような努力の道を歩まなければならない事を理解しなければなりません。
そして、全体の神の計画が犠牲の高い山を越えるための歴史のプロセスであるならば、皆さんも創造物を条件として犠牲を捧げた旧約時代と同様に、創造物を条件として生活の中で犠牲を捧げなければなりません。
その次に、イエス・キリストがこの地に来て、自己犠牲の高い山を越えなければなりません。そして、その後、皆さん自身を条件として、その犠牲の高い山を越えなければなりません。
このような状況から、神は私達に栄光として臨む事はできないのです。また、平和、自由、理想として臨む事もできません。むしろ、私達に犠牲の高い山を越えさせ、私達を探しに来るしかないのです。現代のイエスを信仰する聖徒達は、この事実を知らないかもしれません。
イエス・キリストがこの地に来たとき、イスラエルの民が信じなかったため、イエス・キリストはその時代のどの民よりも低い立場で生活しました。
イエス様は、イスラエルの民が創造物を犠牲として捧げるのではなく、信仰をもって神を信じ、国民全体が神に帰依する事を望まれましたが、イスラエルの民がこのような神の計画を理解せず、イエスを信じなかったため、彼らは神の計画から外れ、その恨みは今日の私達にも及んでいるのです。
神様が私達に訪れるために、どのような位置にいる必要がありますか?まず、すべての創造物を代替する物質的なものを克服しなければなりません。したがって、イエスは福音が貧しい人々に伝えられるだろうと言いました。次に、私達は自分の子供達を愛する事ができなければならず、最終的には自分の身体さえ犠牲として捧げる事ができなければなりません。これが私達が克服しなければならない犠牲の頂点です。
今日のほとんどの信者は、私達がこの犠牲を克服しない限り、天が私達に訪れ、私達との関係を確立するのは知らないでしょう。神様があなたをそのような道に立たせるとき、あなたはその道を自信を持って進む必要があります。
6,000年の歴史は単なる歴史ではなく、宇宙の帰還の歴史であり、個人の帰還の歴史です。したがって、宇宙の歴史に責任を持つ中心として不変の姿を持つ事ができない場合、天に代わって立つ事ができない場合、歴史の頂点を越える事はできず、神意の法に従う立場には立てない事です。昔のアブラハムの例を見て下さい。
アブラハムは、神の言葉に従って、それまで住んでいた愛しい故郷であるカルデアのウルを去らなければならない立場にいました。つまり、肉体を中心とした物質的な苦しみに耐えなければならなかった立場を考える必要があります。
自分の体を掻きむしっても、まったく崩れ果てたヨブは、決して神を非難せず、黙って熟考し、その苦しみを超えて神の側に立ち、病人の心情を理解する事もできました。ヨブがそうであったからこそ、彼は失ったものと子供達を取り戻し、さらに大きな祝福を天から受けたのです。
イエス・キリストも福音を伝える道に出る際、ますます自身のすべての環境を捨てました。つまり、彼が30年以上も生活してきた自分の家庭環境を捨てたのです。その後、彼は神の王子の立場や、人類の永遠の真の親の立場を捨てたのです。
このように、イエス様は自分の体、自分の家庭、自分の民族、自分の希望さえも捨てなければならない十字架の道でさえ絶望せず、最初に神の前に立つ意思、神との約束を実現する唯一の道だけを見つめて、望まない者の足跡でしたが、希望を持ってゴルゴタの道を超えたのです。
アブラハムは、カナンの地を望んで自身のすべてを捨てて出発したため、彼の子孫達は神の祝福を受ける事ができました。同様に、イエス・キリストも自身の愛する両親、親戚、民族、国をすべて捨てました。そのため、一定の期間が経過した後、それらすべてを再び見つける日が訪れる事になり、それがまさに「再臨の日」なのです。
したがって、再臨の日を契機に、再び来られる主がこれらすべてを回復される事を理解する必要があります。
歴史の過程で多くの預言者とイエス・キリスト自身がこのような道を歩まれたので、私達はどうすべきでしょうか?まず第一に、私達は歴史を代表できる神の象徴として立たなければなりません。そして、今日の最終段階で、イエス・キリストのように、国、教会、全土、そして世界のために犠牲の道を歩み、またアブラハムやヨブのように、全歴史を負担し、苦難の道を歩まなければなりません。そうしない限り、私達は犠牲の頂点を越えた勝者にはなれません。
では、最終段階に立つ私達にはどのような贖罪の使命があるのでしょうか?まず、物質的な贖罪の使命があるでしょう。真の霊的な恩寵を受けると、それに比例して物質的な贖罪の使命があります。したがって、神の意志を達成し、神のために立つ場所を見つけるためには、自分が地上で望んでいた物質的な条件をすべて捨てる事が必要です。
もし、あなたがたがこのような立場を取れないのであれば、あなたは絶対に旧約聖書時代と新約聖書時代を経て、契約の時代に進む事はできません。将来、物質的な試練が訪れるでしょう。個人を中心に打たれる時期がやってくるでしょうし、民族や国家を中心に打たれる時期もやってくるでしょう。
したがって、個人的にも、または民族、国家、そして世界的に、このような物質的な困難に直面する日が、必ずやこの地上に現れるでしょう。そのような時に、最も深刻な困難に直面する民族が存在するでしょう。その時、その民族の悲しみはその民族によるものではなく、6,000年の歴史を代表して受ける悲しみであり、苦しみはその民族によるものではなく、神の歴史的な苦しみを代わりに受けるものでしょう。
しかし、そのような極端な苦しみと悲しみの中で、世界を救うものは物質ではなく人間である事に気付くと、その民族は犠牲の頂点を越える事ができるのです。それは物質的な犠牲が救いを成し遂げるのではなく、神の子であるイエス・キリストが救いを成し遂げるからです。したがって、今日、皆さんは物質だけに執着し、それを生命よりも尊重する場合、犠牲の頂点を越える事はできない事を理解する必要があります。
終末に物質的な試練があるでしょうが、その時には天を訴える民族が審判を受け、個人でも審判を受ける事になるでしょう。これが中心となる原則を持つ支配者である神です。したがって、苦しみや物質的な困難に直面しても、あなたは物質に執着する事はできません。そして、イエス・キリストのように物質を超越しなければなりません。そうしなければ、あなたの道は閉ざされる事でしょう。
これまで、皆さんはイエス・キリストを代表して教会の指導者達を信じ、頼りにしてきましたが、これは永遠のものではありません。回心の過程において、再臨まで、皆さんは十字架の教義を中心に信仰してきましたが、今後、世界的な回帰の段階に進む際には、これまでの信仰と頼りにするだけでは足りないという事です。
それでは、その時にどうすればいいでしょうか?その時には、皆さんはイエス・キリストを通して神が認める事ができる自己を見つけ出し、確立しなければなりません。そうしなければ、終末の審判の頂点を越える事はできません。
したがって、イエス・キリストは「終わりの時には、あなたの頭に油を塗り、密室に入り、祈りなさい。」と言われたのです。神を求めて歩む皆さんにとって、物質は敵となりやすいものです。そして、その次には、愛する子供や愛する夫婦が敵になりやすいものです。
そのため、イエス様は「あなたの家族があなたの敵である。」とも言われました。ここに神の悲しい悲しみが結びついており、今日、私達の信者達の悲しみも結びついています。これが終末の聖徒達が全般的に超越しなければならない難関なのです。皆さんはこれを理解する必要があります。
その次に、自分自身さえも拒絶し、超越しなければなりません。イエス様もゲッセマネの園で十字架を目の前にして、「父よ、父には万事能がある。この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私の望みではなく、父のみ事ばが行われますように。」と祈りました。このような過程を経て、イエス様は自分自身を貶め、拒絶する立場を通過したのです。
したがって、皆さんは自分が持っているすべての希望、喜び、信仰、感情など、これまで所有してきたすべてを一度に捧げ、超越しなければなりません。
言い換えれば、旧約聖書時代は物質的な条件を持って犠牲の頂点を超え、新約聖書時代はイエス・キリストへの信仰によって犠牲の頂点を越えましたが、契約の時代では個人が犠牲の頂点を超えなければならないため、あなた自身が6,000年の犠牲の歴史を代わりに果たす事ができる必要があります。
つまり、あなたが父の前に立ちたいのであれば、あなたは所有している物質、愛する子供、妻、そしてあなた自身を含めてすべてを一つの犠牲として差し出さなければなりません。このような道を進む事で、あなたは歴史的な犠牲の頂点を越える事ができ、その後で初めて神との関係を持つ事ができる事を確実に理解しなければなりません。
他人が否定し、反対するかもしれないこの道を進むあなたは落胆してはいけません。また、この道を進む際に、自分の所有物に対する欲望、子供への期待、愛する夫婦、そして自己への執着心を奪われる過程があるかもしれません。その時、あなたはそのような執着心に固執して、世界を超越しようとしてはいけません。物質、子供への愛、そして自己中心的な希望など、人間的なすべての条件を断ち切る時に、あなたは世界的な犠牲の頂点を超える事ができるのです。
なぜそのような道を進まなければならないのかというと、これまでの回帰の歴史は犠牲の歴史であり、また犠牲の歴史は分かつ歴史であり、分かつ歴史は打つ歴史であるからです。ですから、あなたがたが最後の難関を越えなければならないとき、あなたがたが信じ、従ってきたイエス・キリストが皆さんを打たれ、導いていた聖霊が皆さんを打つでしょう。また、あなたがたが希望として信じてきた神も、世界も皆さんを打つでしょう。こうして天が打ち、地が打つ歴史があっても、最後まで残る事ができないならば、皆さんは決して神の前に立つ事はできないでしょう。
この立場から勝利する者だけが地上で至高の王以上のものを代わりにでき、天国に行っても主の栄光を楽しむ事ができる事を、皆さんは理解しなければなりません。
今日、この国は苦しむ立場にある事が分かります。神の計画からすれば、これは個人が合う時であり、国民と国と世界が合う時です。しかし、皆さんは自分が合っていると嘆いたり、天を訴えたりしてはいけません。この国が合っていると嘆いてはいけません。世界が合っている時が来ても、天を訴えてはいけません。
唯一持っているべき心情は、崩れたり死んだりしても、天だけを頼りにしようという心です。このような心を持って、あなたは個人の十字架を越えなければならず、国家の十字架、国の十字架、世界の十字架を越えなければなりません。こうして世界的な十字架の頂点を越えた後、あなたは栄光で来る再臨の主を迎える事ができるのです。その時が人々が希望する再臨以上のものが実現する時期なのです。
このような世界的な犠牲の頂点を越えた後、あなたは神の愛、神の自由、神の平和、神の理想を所有できます。なぜなら、そのような頂点を完全に越えられない人に神の愛、自由、平和、理想を与えると、サタンが中傷し、その愛、自由、平和、理想が破壊されるからです。したがって、神は世界的な犠牲の頂点を越えられない人に神の愛、自由、平和、理想を許容しなかったのです。
ですから、今、意志を持って進む皆さんは、この宇宙的な犠牲の頂点を越えたかどうか、自問自答しなければなりません。
回帰の歴史を振り返ると、アブラハム時代に「十一族」が始まり、レビ族を中心にして12部族として形成されたユダヤ民族も十一族を捧げ、今日の世界のキリスト教徒も十一族を捧げています。しかし、10の中で1は全体の中で特別な存在であるため、今日のあなたが大韓民国およびキリスト教界において、この特別な地位に立てない限り、イスラエルの中心部族であるレビ族と同じ立場から天を見上げる事はできません。
あなたがそのような地位に進む事を望むのであれば、あなたはすべてを捨てる覚悟がなければなりません。また、世界と天国を求めるのであれば、あなたのすべてを捨てる冒険をする必要があります。このような高みがあなたの前に残っています。したがって、私達を導く神もこの高みを越えるために試練を私達に与え、十字架の頂点を越えさせるのです。しかし、あなたはそのような十字架の頂点が審判の条件として現れるとしても、その頂点を克服できる準備がなければなりません。
このような人々は一つにまとまり、ふたりが一緒になり、一つの祭壇を築かなければなりません。レビ族が12部族に分かれたイスラエル民族を導き出し、イエスの後にはイエスを中心にし、レビ族と同様の使命を果たすキリスト教教団が形成され、世界的な祭壇として拡大されたように、今日でもレビ族と同じ使命を果たす世界的な祭司の宗教が存在しなければならないのです。
そのような宗教に参加したい人々は、先述したように犠牲の頂点を越えなければなりません。ユダヤ民族が心を込めて天に犠牲を捧げた事で犠牲の頂点を越える事ができたように、終末に主の前に立つ選ばれた者として存在したいのであれば、心を込めて犠牲を捧げて犠牲の頂点を越えなければなりません。その後、祭司の使命を代わりに果たし、神の恩寵を受け、神の栄光、自由、平和、理想を実現できるようになるのです。
したがって、あなたは特に警戒しなければなりません。神があなたの財産を試すとき、あなたは神に対する忠誠心を変えてはならず、周囲の環境を完全に断つ事ができる人にならなければなりません。これらの原則を理解すれば、神が打たれる前にあなたが最初に自分の財産を捧げられるべきであり、神が断たれる前にあなたが最初に子供や配偶者との愛を捧げられるべきであり、さらにはあなた自身をも捧げられるべきです。そのような人になれるなら、あなたは6,000年の犠牲の頂点を一度に越える事ができるでしょう。
これらの犠牲の頂点を越えた人々がこの地上に多く現れる事を神は切望しており、今日のあなたがどのような立場にいるのか、自己を確認できるようになるべきです。
実際に、あなたがたが物質を神の前に捧げ、そしてあなたがた自身を含めて神に捧げ、供え物の山を越える事ができるのであれば、あなたがたはこの地上でサタンの訴えを受けずに、知恵をもって父の許しを受けて楽園に入る事ができるでしょう。これを心に留め、私達一人一人が与えられた使命を最善の方法で果たすために最善を尽くす事を願っています。共に祈りましょう。
<祈り>
まず最初に、私達が召命を受けて、宇宙全体の秩序の意志の前に立たされ、全体の目的を達成するために生きなければならない事を忘れないように、お願いします。
今日、公共の秩序の道に進んだ私達が供え物の山を越える事ができなく、あなたが私達の周りに存在するものを断ち切られたにもかかわらず、私達は自己に失望し、自己を嘆き、自己を非難した事を忘れないで下さい。
愛する天のお父様、私達が物質的な山と人間的な山を超えるとき、あなたがこれを打たれても、私達がそれを受け入れる事ができるように許して下さい!私達が持っているすべてを収穫されても、私達の命が続く限り、それを感謝しなければならず、私達の周りにある愛を打たれても、命が続く限り、感謝しなければならず、私達の体を打たれても、命が続く限り、感謝できるようにして下さい。私達がこのようになれるように、導いて下さい。
古代の預言者達と過去の祖先達の足跡を私達も学び、進む事ができるように私達を導いて下さい。アブラハムも、ヨブも、イエスもこのような道を歩まれました。今日、私達もこのような道を歩むべきです。お父様、どうか長い時間を要せずに私達を導いて下さい。
必然的に迫っている憎しみの山を越えるための準備を整え、あなたが非難し、打たれても一人で感謝し、越える事のできる善の祭壇を築いて、栄光の主を高めるための天国の忠実な奉仕者として私達を許して下さい、お父様、切に願います。
お父様、今日、この祭壇を担当している私達を慰めて導いて下さい。聖所と聖なる所に囲まれた壁を宇宙的に開ける事のできる真の子供達にして下さい。そのような道で出会い、打たれたとしてもその苦難を乗り越え、永遠にあなたの前に立つ事ができる勇者達に私達を性別にして下さい。
敵が妨げる供え物の山を越え、家庭を導き、家庭の山を越え、国を導き、国の山を越え、さらには世界を導き、世界の山を越えて、天国に達し、永遠にお父様に真の命、真の平和、真の喜び、真の栄光を備えた者達として、自信を持って訴える事のできる子供達に私達を導いて下さい、お父様、切に願います。
すべての御言葉を主の御名でお願いいたします。アーメン。
今、残された十字架の闘いが私達の目前に迫っているこの時、私達個々としてこのすべての苦痛と怨みを排除できる自覚を持たなければならない事を知っています。天よ、この時、私達を慈悲深く見守って下さい。自分の不足を感じさせ、自己評価が足りない事を自覚させ、自分が不完全である事をため息つかせ、父の前で悲しみの涙を流す事ができるこの時を与えて下さい。お父様!どうかこの国民に哀れみを示して下さい。この国民の恐れを取り除き、この国民の罪を消し去り、この国民の暗闇を払いのけて下さい。
光の谷へと導く事ができる、父の力強い手が速やかに三千万の人々の中に現れるように許して下さい。そして、眠っている全世界の人々を目覚めさせ、歴史の過程を通じて神聖な歴史を支えてきた千千万の聖徒の願いを私達を通じて解決し、残す事ができるようにして下さい。愛するお父様、熱望し、望みます。
お父様、この時、あなたの前で謙虚になりました。私達は自分を中心にし、どんな主張も立てないように許して下さい。ただ幼い子供のような心で、あなたのひざまえに伏し、あなたの慈悲深い手を握りしめ、あなたの愛の腕に包まれる事ができるように許して下さい。そして、そのような神の賜物を尊重し、あなたに崇拝する心を許して下さい。
すべてを捧げ、自己を捧げる事で、自分自身に対するサタンの非難の余地を一切残さないように導いて下さい、お父様。熱望し、願います。お父様、この日は聖なる日であり、あなたの祝福を受ける日です。国民の代表として集まる多くの宗教団体の上に祝福を注いで下さい。孤独な祭壇を担当しているあなたの息子と娘にも一貫した神の賜物を許して下さい。終わりに向かうこの時に、彼ら全員が共通の目的を証言し続ける事ができるように許して下さい。すべてを支配して下さい。主の御名によってお願いいたします。アーメン。
<御言葉>
平和の心を持って一生を過ごす事が本来の人間の生き方でした。しかし、現代の人々の心には平和がありません。また、自由を中心に据え、永遠の理想の中で生きるべき人々の心にも、天国と共に楽しむ事のできる自由や理想はありません。
そのため、現代の世界中のすべての人々は、いつか完全な自由、理想、平和が実現する事を願っています。これはこの地球に住むすべての人々の切望です。このような完全な自由、理想、平和の世界は、本来の人間の望みであり、それは結局、皆さん自身が体と心を中心に置いて実現しなければならないものです。
さらに、皆さんは自身を中心に据え、家庭でそれを実現しなければならず、社会、国家、世界でも実現しなければなりません。ただし、天と地が一体となり、平和の歌を歌い、自由の歌を歌い、理想的な愛を楽しむ事のできるそのような世界を実現しなければなりません。
そのような世界を実現できない場合、人間は真の喜び、真の解放、真の栄光を味わう事はできません。では、なぜ人間はこのように不幸な運命に見舞われたのでしょうか?それは堕落の結果から来ています。したがって、現代の世界中の人類は、このような対立と闘争を乗り越えなければならず、苦痛と涙の山を越えなければならない運命になり、皆さんも今日、同じような困難な生活を送っている事を実際の生活を通じて感じているでしょう。
人間が望む世界と現実は、その距離が遠く、心はその世界を求めつつも、現実から逃れられないため、人々は苦痛の生活を避ける事ができないのです。ある人が論理的で倫理的な法律を制定し、その法律に従って人々が過ちを悔い改め、考える事ができるようにする事によって、人間が望む理想の世界を実現できると主張しても、それは理論的で論理的なものに過ぎず、実際の生活で人間の理想的な幸福の世界を実現する事はできません。多くの先人達の努力がそれを証明しています。
したがって、私達には終わりに向かって進むべき道と、越えなければならない高い山が残されています。それは永遠の平和、自由、理想を実現できる犠牲の道であるのです。
その高い山を越えるためには、心に永遠の自由をもたらし、永遠の天国の希望を代わりに持ち、永遠の天国の平和を代わりにもたらす一つの中心が現れなければなりません。もしもそのような中心的存在が現れなければ、天と地は永遠の平和、自由、理想を決して実現できないでしょう。それでは、この一貫した6千年の歴史の進行はどのように続いていくのでしょうか?
神とサタンと人間を中心に、どの条件が設定されているか、これが犠牲の高い山なのです。6千年の経緯を振り返ると、旧約聖書時代にはすべての創造物を通じて犠牲の高い山を越え、新約聖書時代にはイエス・キリストの実体を通じて犠牲の高い山を越えたのです。
では、今後の新約時代では、どのような基準で犠牲の高い山を越えるのでしょうか?聖徒、つまり皆さん自身を通じてそれが実現されるのです。このように全体的な神の計画が犠牲を中心にして進行すると考えると、旧約時代はすべての創造物を通じて犠牲の高い山を越えなければならず、新約時代はイエス・キリスト、すなわち神の子を中心にして犠牲の高い山を越えなければならない事がわかります。しかし、現在の新約時代では、新郎と新婦の名前を代わりに持つ事ができる皆さん自身を条件として、犠牲の高い山を越えなければなりません。
皆さんがそのような犠牲の高い山を越える前には、この地上で真の平和、自由、理想の世界は実現されない事になります。
では、6,000年にわたる人類の歴史は何でしょうか? それは形は多様で範囲は広いものの、この6,000年の神の計画の歴史は、最終的には完全な自由、完全な理想、完全な平和を楽しむ事のできる真の人間を見つけ出すための神の努力の歴史なのです。皆さんは原理を通じてこれを理解しているでしょう。
本来、人間はエデンの園で神を中心にし、永遠の自由、理想、平和を楽しむべきでしたが、人類の祖先であるアダムとイブが堕落したため、その本来の世界は崩れ去りました。しかし、堕落したアダムとイブの子孫である私達にも、本来の世界を追求する本質があるため、神の望む世界に向かって進んでいます。私達の望みは変わる事なく、達成しなければならない理想です。
それでは、神がその努力の計画の中で見つけ出そうとしている中心的存在は何でしょうか? それは堕落に関係のない、本質的な真のアダムとエバです。
皆さんも原理を通じて知っているように、人類の真の親となるべき神の子女であるアダムとエバは、堕落によって真の親になれなかったため、本来の歴史とは何の関係もない堕落した人類の先祖となってしまいました。私達は、このように堕落したアダムとエバによって堕落の血縁関係を断ち切り、本来の真の親を迎える日を迎えなければなりません。
もしもその日が訪れない場合、つまり、天と地を動かす事のできる中心的存在、そしてその中心的存在を中心に共に動ける存在が現れない場合、天と地が一つの目的を追求しない限り、この地上には真の自由、平和、理想が実現されないでしょう。そうなれば、人間は宇宙的な運命の循環と帰還の歴史から逃れる事はできません。
もしも皆さんが神の愛を受けたいと望むなら、皆さんは6,000年にわたる神の計画が努力の歴史である事を理解し、また、自身もそのような努力の道を歩まなければならない事を理解しなければなりません。
そして、全体の神の計画が犠牲の高い山を越えるための歴史のプロセスであるならば、皆さんも創造物を条件として犠牲を捧げた旧約時代と同様に、創造物を条件として生活の中で犠牲を捧げなければなりません。
その次に、イエス・キリストがこの地に来て、自己犠牲の高い山を越えなければなりません。そして、その後、皆さん自身を条件として、その犠牲の高い山を越えなければなりません。
このような状況から、神は私達に栄光として臨む事はできないのです。また、平和、自由、理想として臨む事もできません。むしろ、私達に犠牲の高い山を越えさせ、私達を探しに来るしかないのです。現代のイエスを信仰する聖徒達は、この事実を知らないかもしれません。
イエス・キリストがこの地に来たとき、イスラエルの民が信じなかったため、イエス・キリストはその時代のどの民よりも低い立場で生活しました。
イエス様は、イスラエルの民が創造物を犠牲として捧げるのではなく、信仰をもって神を信じ、国民全体が神に帰依する事を望まれましたが、イスラエルの民がこのような神の計画を理解せず、イエスを信じなかったため、彼らは神の計画から外れ、その恨みは今日の私達にも及んでいるのです。
神様が私達に訪れるために、どのような位置にいる必要がありますか?まず、すべての創造物を代替する物質的なものを克服しなければなりません。したがって、イエスは福音が貧しい人々に伝えられるだろうと言いました。次に、私達は自分の子供達を愛する事ができなければならず、最終的には自分の身体さえ犠牲として捧げる事ができなければなりません。これが私達が克服しなければならない犠牲の頂点です。
今日のほとんどの信者は、私達がこの犠牲を克服しない限り、天が私達に訪れ、私達との関係を確立するのは知らないでしょう。神様があなたをそのような道に立たせるとき、あなたはその道を自信を持って進む必要があります。
6,000年の歴史は単なる歴史ではなく、宇宙の帰還の歴史であり、個人の帰還の歴史です。したがって、宇宙の歴史に責任を持つ中心として不変の姿を持つ事ができない場合、天に代わって立つ事ができない場合、歴史の頂点を越える事はできず、神意の法に従う立場には立てない事です。昔のアブラハムの例を見て下さい。
アブラハムは、神の言葉に従って、それまで住んでいた愛しい故郷であるカルデアのウルを去らなければならない立場にいました。つまり、肉体を中心とした物質的な苦しみに耐えなければならなかった立場を考える必要があります。
自分の体を掻きむしっても、まったく崩れ果てたヨブは、決して神を非難せず、黙って熟考し、その苦しみを超えて神の側に立ち、病人の心情を理解する事もできました。ヨブがそうであったからこそ、彼は失ったものと子供達を取り戻し、さらに大きな祝福を天から受けたのです。
イエス・キリストも福音を伝える道に出る際、ますます自身のすべての環境を捨てました。つまり、彼が30年以上も生活してきた自分の家庭環境を捨てたのです。その後、彼は神の王子の立場や、人類の永遠の真の親の立場を捨てたのです。
このように、イエス様は自分の体、自分の家庭、自分の民族、自分の希望さえも捨てなければならない十字架の道でさえ絶望せず、最初に神の前に立つ意思、神との約束を実現する唯一の道だけを見つめて、望まない者の足跡でしたが、希望を持ってゴルゴタの道を超えたのです。
アブラハムは、カナンの地を望んで自身のすべてを捨てて出発したため、彼の子孫達は神の祝福を受ける事ができました。同様に、イエス・キリストも自身の愛する両親、親戚、民族、国をすべて捨てました。そのため、一定の期間が経過した後、それらすべてを再び見つける日が訪れる事になり、それがまさに「再臨の日」なのです。
したがって、再臨の日を契機に、再び来られる主がこれらすべてを回復される事を理解する必要があります。
歴史の過程で多くの預言者とイエス・キリスト自身がこのような道を歩まれたので、私達はどうすべきでしょうか?まず第一に、私達は歴史を代表できる神の象徴として立たなければなりません。そして、今日の最終段階で、イエス・キリストのように、国、教会、全土、そして世界のために犠牲の道を歩み、またアブラハムやヨブのように、全歴史を負担し、苦難の道を歩まなければなりません。そうしない限り、私達は犠牲の頂点を越えた勝者にはなれません。
では、最終段階に立つ私達にはどのような贖罪の使命があるのでしょうか?まず、物質的な贖罪の使命があるでしょう。真の霊的な恩寵を受けると、それに比例して物質的な贖罪の使命があります。したがって、神の意志を達成し、神のために立つ場所を見つけるためには、自分が地上で望んでいた物質的な条件をすべて捨てる事が必要です。
もし、あなたがたがこのような立場を取れないのであれば、あなたは絶対に旧約聖書時代と新約聖書時代を経て、契約の時代に進む事はできません。将来、物質的な試練が訪れるでしょう。個人を中心に打たれる時期がやってくるでしょうし、民族や国家を中心に打たれる時期もやってくるでしょう。
したがって、個人的にも、または民族、国家、そして世界的に、このような物質的な困難に直面する日が、必ずやこの地上に現れるでしょう。そのような時に、最も深刻な困難に直面する民族が存在するでしょう。その時、その民族の悲しみはその民族によるものではなく、6,000年の歴史を代表して受ける悲しみであり、苦しみはその民族によるものではなく、神の歴史的な苦しみを代わりに受けるものでしょう。
しかし、そのような極端な苦しみと悲しみの中で、世界を救うものは物質ではなく人間である事に気付くと、その民族は犠牲の頂点を越える事ができるのです。それは物質的な犠牲が救いを成し遂げるのではなく、神の子であるイエス・キリストが救いを成し遂げるからです。したがって、今日、皆さんは物質だけに執着し、それを生命よりも尊重する場合、犠牲の頂点を越える事はできない事を理解する必要があります。
終末に物質的な試練があるでしょうが、その時には天を訴える民族が審判を受け、個人でも審判を受ける事になるでしょう。これが中心となる原則を持つ支配者である神です。したがって、苦しみや物質的な困難に直面しても、あなたは物質に執着する事はできません。そして、イエス・キリストのように物質を超越しなければなりません。そうしなければ、あなたの道は閉ざされる事でしょう。
これまで、皆さんはイエス・キリストを代表して教会の指導者達を信じ、頼りにしてきましたが、これは永遠のものではありません。回心の過程において、再臨まで、皆さんは十字架の教義を中心に信仰してきましたが、今後、世界的な回帰の段階に進む際には、これまでの信仰と頼りにするだけでは足りないという事です。
それでは、その時にどうすればいいでしょうか?その時には、皆さんはイエス・キリストを通して神が認める事ができる自己を見つけ出し、確立しなければなりません。そうしなければ、終末の審判の頂点を越える事はできません。
したがって、イエス・キリストは「終わりの時には、あなたの頭に油を塗り、密室に入り、祈りなさい。」と言われたのです。神を求めて歩む皆さんにとって、物質は敵となりやすいものです。そして、その次には、愛する子供や愛する夫婦が敵になりやすいものです。
そのため、イエス様は「あなたの家族があなたの敵である。」とも言われました。ここに神の悲しい悲しみが結びついており、今日、私達の信者達の悲しみも結びついています。これが終末の聖徒達が全般的に超越しなければならない難関なのです。皆さんはこれを理解する必要があります。
その次に、自分自身さえも拒絶し、超越しなければなりません。イエス様もゲッセマネの園で十字架を目の前にして、「父よ、父には万事能がある。この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私の望みではなく、父のみ事ばが行われますように。」と祈りました。このような過程を経て、イエス様は自分自身を貶め、拒絶する立場を通過したのです。
したがって、皆さんは自分が持っているすべての希望、喜び、信仰、感情など、これまで所有してきたすべてを一度に捧げ、超越しなければなりません。
言い換えれば、旧約聖書時代は物質的な条件を持って犠牲の頂点を超え、新約聖書時代はイエス・キリストへの信仰によって犠牲の頂点を越えましたが、契約の時代では個人が犠牲の頂点を超えなければならないため、あなた自身が6,000年の犠牲の歴史を代わりに果たす事ができる必要があります。
つまり、あなたが父の前に立ちたいのであれば、あなたは所有している物質、愛する子供、妻、そしてあなた自身を含めてすべてを一つの犠牲として差し出さなければなりません。このような道を進む事で、あなたは歴史的な犠牲の頂点を越える事ができ、その後で初めて神との関係を持つ事ができる事を確実に理解しなければなりません。
他人が否定し、反対するかもしれないこの道を進むあなたは落胆してはいけません。また、この道を進む際に、自分の所有物に対する欲望、子供への期待、愛する夫婦、そして自己への執着心を奪われる過程があるかもしれません。その時、あなたはそのような執着心に固執して、世界を超越しようとしてはいけません。物質、子供への愛、そして自己中心的な希望など、人間的なすべての条件を断ち切る時に、あなたは世界的な犠牲の頂点を超える事ができるのです。
なぜそのような道を進まなければならないのかというと、これまでの回帰の歴史は犠牲の歴史であり、また犠牲の歴史は分かつ歴史であり、分かつ歴史は打つ歴史であるからです。ですから、あなたがたが最後の難関を越えなければならないとき、あなたがたが信じ、従ってきたイエス・キリストが皆さんを打たれ、導いていた聖霊が皆さんを打つでしょう。また、あなたがたが希望として信じてきた神も、世界も皆さんを打つでしょう。こうして天が打ち、地が打つ歴史があっても、最後まで残る事ができないならば、皆さんは決して神の前に立つ事はできないでしょう。
この立場から勝利する者だけが地上で至高の王以上のものを代わりにでき、天国に行っても主の栄光を楽しむ事ができる事を、皆さんは理解しなければなりません。
今日、この国は苦しむ立場にある事が分かります。神の計画からすれば、これは個人が合う時であり、国民と国と世界が合う時です。しかし、皆さんは自分が合っていると嘆いたり、天を訴えたりしてはいけません。この国が合っていると嘆いてはいけません。世界が合っている時が来ても、天を訴えてはいけません。
唯一持っているべき心情は、崩れたり死んだりしても、天だけを頼りにしようという心です。このような心を持って、あなたは個人の十字架を越えなければならず、国家の十字架、国の十字架、世界の十字架を越えなければなりません。こうして世界的な十字架の頂点を越えた後、あなたは栄光で来る再臨の主を迎える事ができるのです。その時が人々が希望する再臨以上のものが実現する時期なのです。
このような世界的な犠牲の頂点を越えた後、あなたは神の愛、神の自由、神の平和、神の理想を所有できます。なぜなら、そのような頂点を完全に越えられない人に神の愛、自由、平和、理想を与えると、サタンが中傷し、その愛、自由、平和、理想が破壊されるからです。したがって、神は世界的な犠牲の頂点を越えられない人に神の愛、自由、平和、理想を許容しなかったのです。
ですから、今、意志を持って進む皆さんは、この宇宙的な犠牲の頂点を越えたかどうか、自問自答しなければなりません。
回帰の歴史を振り返ると、アブラハム時代に「十一族」が始まり、レビ族を中心にして12部族として形成されたユダヤ民族も十一族を捧げ、今日の世界のキリスト教徒も十一族を捧げています。しかし、10の中で1は全体の中で特別な存在であるため、今日のあなたが大韓民国およびキリスト教界において、この特別な地位に立てない限り、イスラエルの中心部族であるレビ族と同じ立場から天を見上げる事はできません。
あなたがそのような地位に進む事を望むのであれば、あなたはすべてを捨てる覚悟がなければなりません。また、世界と天国を求めるのであれば、あなたのすべてを捨てる冒険をする必要があります。このような高みがあなたの前に残っています。したがって、私達を導く神もこの高みを越えるために試練を私達に与え、十字架の頂点を越えさせるのです。しかし、あなたはそのような十字架の頂点が審判の条件として現れるとしても、その頂点を克服できる準備がなければなりません。
このような人々は一つにまとまり、ふたりが一緒になり、一つの祭壇を築かなければなりません。レビ族が12部族に分かれたイスラエル民族を導き出し、イエスの後にはイエスを中心にし、レビ族と同様の使命を果たすキリスト教教団が形成され、世界的な祭壇として拡大されたように、今日でもレビ族と同じ使命を果たす世界的な祭司の宗教が存在しなければならないのです。
そのような宗教に参加したい人々は、先述したように犠牲の頂点を越えなければなりません。ユダヤ民族が心を込めて天に犠牲を捧げた事で犠牲の頂点を越える事ができたように、終末に主の前に立つ選ばれた者として存在したいのであれば、心を込めて犠牲を捧げて犠牲の頂点を越えなければなりません。その後、祭司の使命を代わりに果たし、神の恩寵を受け、神の栄光、自由、平和、理想を実現できるようになるのです。
したがって、あなたは特に警戒しなければなりません。神があなたの財産を試すとき、あなたは神に対する忠誠心を変えてはならず、周囲の環境を完全に断つ事ができる人にならなければなりません。これらの原則を理解すれば、神が打たれる前にあなたが最初に自分の財産を捧げられるべきであり、神が断たれる前にあなたが最初に子供や配偶者との愛を捧げられるべきであり、さらにはあなた自身をも捧げられるべきです。そのような人になれるなら、あなたは6,000年の犠牲の頂点を一度に越える事ができるでしょう。
これらの犠牲の頂点を越えた人々がこの地上に多く現れる事を神は切望しており、今日のあなたがどのような立場にいるのか、自己を確認できるようになるべきです。
実際に、あなたがたが物質を神の前に捧げ、そしてあなたがた自身を含めて神に捧げ、供え物の山を越える事ができるのであれば、あなたがたはこの地上でサタンの訴えを受けずに、知恵をもって父の許しを受けて楽園に入る事ができるでしょう。これを心に留め、私達一人一人が与えられた使命を最善の方法で果たすために最善を尽くす事を願っています。共に祈りましょう。
<祈り>
まず最初に、私達が召命を受けて、宇宙全体の秩序の意志の前に立たされ、全体の目的を達成するために生きなければならない事を忘れないように、お願いします。
今日、公共の秩序の道に進んだ私達が供え物の山を越える事ができなく、あなたが私達の周りに存在するものを断ち切られたにもかかわらず、私達は自己に失望し、自己を嘆き、自己を非難した事を忘れないで下さい。
愛する天のお父様、私達が物質的な山と人間的な山を超えるとき、あなたがこれを打たれても、私達がそれを受け入れる事ができるように許して下さい!私達が持っているすべてを収穫されても、私達の命が続く限り、それを感謝しなければならず、私達の周りにある愛を打たれても、命が続く限り、感謝しなければならず、私達の体を打たれても、命が続く限り、感謝できるようにして下さい。私達がこのようになれるように、導いて下さい。
古代の預言者達と過去の祖先達の足跡を私達も学び、進む事ができるように私達を導いて下さい。アブラハムも、ヨブも、イエスもこのような道を歩まれました。今日、私達もこのような道を歩むべきです。お父様、どうか長い時間を要せずに私達を導いて下さい。
必然的に迫っている憎しみの山を越えるための準備を整え、あなたが非難し、打たれても一人で感謝し、越える事のできる善の祭壇を築いて、栄光の主を高めるための天国の忠実な奉仕者として私達を許して下さい、お父様、切に願います。
お父様、今日、この祭壇を担当している私達を慰めて導いて下さい。聖所と聖なる所に囲まれた壁を宇宙的に開ける事のできる真の子供達にして下さい。そのような道で出会い、打たれたとしてもその苦難を乗り越え、永遠にあなたの前に立つ事ができる勇者達に私達を性別にして下さい。
敵が妨げる供え物の山を越え、家庭を導き、家庭の山を越え、国を導き、国の山を越え、さらには世界を導き、世界の山を越えて、天国に達し、永遠にお父様に真の命、真の平和、真の喜び、真の栄光を備えた者達として、自信を持って訴える事のできる子供達に私達を導いて下さい、お父様、切に願います。
すべての御言葉を主の御名でお願いいたします。アーメン。
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