文鮮明先生御言葉選集 2-10「主は私の良き羊飼い」 1957年3月17日(日)
1957年3月17日(日曜日)、全本部教会
マタイによる福音書の25章29節から46節
<祈 祷>
御言葉でで命じられる言葉に従って、生まれ変わった者達が生まれ変わりの光を示すことができるように、また、お父様の意志に従って戦場に進軍しているあなたの真の戦士達の上に、永遠の勝利の盾を高く掲げることを許してください。
厳しい、混沌としたこの土地、罪と死の波が流れているこの土地、真の天国の思いを抱いている者達は、死を覚悟せずにはこの悲惨な土地から去ることはできません。一週間を過ごし、受けた傷を気にせずに、お父様の前に立っています。あわれみ深いお父様!私達にあなたの助けの手を差し伸べ、愛の手で包んでください。
お父様!これらは、あなたが探し求めていた息子と娘達です。どうか、この一時間、あなたの心にあった事情を彼らに語り、また命じてくださいと切に願っています。
これらの些細なもの達は、お父様が命じられた言葉に従って自分のすべてを明らかにし、この一時間でもあなたの前に贖罪の供物として差し出されることを望んでいます。私のお父様、この時間を無駄にしないでください。許し、またこれらを自ら守り、導き、立て、洗礼してください
暗闇のこの世界で天に向かって進むために努力し、亡くなった聖徒達を代わりに、生命の光を放つことができるように、そして罪悪の墓を掘り進むことができるように、私達に許してください、愛するお父様、切に願い求めています。今日は聖なる日で、すべての人々を祝福する日です。
この時、孤独なこの国に、哀れなこの国には進むべき道がないことを自覚しながら、お父様の前にひれ伏す多くの人々がいることを知るとき、お父様、彼らの進むべき道と行動すべき標準を示し、提供しなければならないことを感じます。
私達は、この国にお父様の導きが必要だと感じ、お父様の計画がこの国全体に及ばなければならないと信じています。最終的な使命を、ここに参加している息子達と娘達に委ねていただき、彼らが3,000万人の人々が迷子である中で目を覚まさせ、死の波に巻き込まれている哀れな異教民族まで目を覚まさせていただくことを許していただきたいと願っています。愛するお父様、切に願い求めています。
人間が立てた計画や人間が追求する目標がどれほど偉大であっても、それが天国を動かさない限り、何も実現しないことを知っています。人間の機構や人間の形式は、最後の審判の前で消え去るでしょうが、天国への誠実な心と天国への知識、そして献身だけが、審判の壇の向こうでお父様の愛の中に身を包み、賛美と栄光を受け取る日を許していただきたいと願います。お父様、天国への献身を心に秘め、天国のために忠実である忠実な息子達と娘となり、最後の審判の壇を越えて行けるように、お父様の内面の心に記憶される息子と娘として許していただくことを切に願います。
約束の御言葉と許された恩寵が注がれることを願いながらひれ伏しました。この一年も戦いの闘志を持つ子供達に、内外からの感動的な御業が現れて、その体と心を爆発させ、罪の要素を抑え、善の本質に変えて進むことができるように、愛するお父様、切に願い求めています。
今、私達は散らばった心を集め、傷ついた痕跡をお父様の前にさらけ出し、何もかも差し出す覚悟です。お父様、あわれみの手を伸ばし、勝利の膏を注いで包帯を巻いていただき、切に願い求めます。この一時間をお父様に託しました。悪魔が乗り越えることのないように、神が管理していただけるよう、切にお願いいたします。御名によって祈ります。アーメン。
<御言葉>
私が皆さんと共に考えようとしている言葉の題は『主は私の良き羊飼い』です。このような題名で少しだけお話しいたします。人間は堕落のために持つべき主人を持っていません。また、あらゆるものが主人を失ってしまったのです。今日、人間の信仰と主張の中で、真の主人から生まれたものは何もありません。人間がこのように不完全な状態にあるため、ここから脱却し、完全なものを探そうとし、不安から解放され平安を求めています。
人間は堕落により、生命と愛と希望の主人を失いました。もともと神様は人間を創造された目的は、人間が永遠の生命を中心に、永遠の愛の楽園で永遠の理想を歌って生きることでした。
しかし、人間は堕落により、それを失ってしまったため、神様は再びこれを見つけ出すために長い歴史を経て苦労されています。
また、すべての人間は、心に従わない体を心に従うようにするまで、真の心の所有者になる運命に置かれています。しかし、それは自然に行われるものではありません。死を覚悟し、多くの苦難と闘争の歴史を経なければならないのです。
それでは、このように宇宙的に遮られている運命の道をどのように突破すべきでしょうか?この運命の道は、私達人間がこれまで越えることができず、悲しむしかなかった一つの丘です。人間がこの運命の丘を越える前に、本来の真の主人、すなわち善と愛と理想の主人としての方を見つけることはできません。
そのため、そのような主人である神様は、本来の人間と一緒に楽しむために、一緒に生きるために、堕落した人々を再び引き上げる救いの計画を6,000年もの間に実現させたのです。
神様を中心にした本来の理想の楽園を憧れている私達ですが、私達は不完全であるため、完全な基準に到達するためには戦いの闘志を持つ私達自身であることを認識しなければなりません。また、周囲に立ちはだかっている多くの悪魔や邪悪な人々を見ている必要があります。
そしてさらに、私達は暗闇から引き上げるために、内外で努力している神様の優しい心情を見て、悪の力と闘い勝利することで、この全体の悲しみ、全体の怨みを清算できるような私達にならなければなりません。そうでなければ、私達は帰還の道をたどらず、帰還の道をたどらない限り、最後に真の主人として来られるお父様と向き合うことができなくなります。
神様は、堕落した人間を生命の人間として立てるために、すべての人間が永遠の主役に出会えるその一つの領域まで導く責任を持っています。そのため、神様は弱いし不完全な人間達に、生命の中心であり、また希望と愛の中心であるイエス・キリストを送られたのです。
しかも、神様は私達が迎えるべきその希望の中心を、歴史的な希望の終わりに行って迎えるべきではなく、むしろ私達の日常生活の中に現れて新しい命を吹き込み、神様の希望を達成する存在として立てられました。私達は、希望と生命の中心を私達の生活に据えられた神様の恩寵の前で一つになり、真の主役を迎え、神様の意志を実現しなければなりません。
この宇宙的な主役、宇宙的な生命の中心存在であるイエス・キリスト、つまり私達が進むべき道を導いてくれるイエス・キリストを捉えなければ、私達は希望も見つけられないし、生命や理想も見つけられません。
私達が希望の中心、つまり愛の中心であり生命の中心であるイエス様と一体になるためには、今まで神様が摂理される意志を実現するために戦ってこられたその内的事情や外的事情と通わなければなりません。そうでなければ、真の主役であるイエス様と一体になることはできず、創造主である神様とも一体になることはできません。
すべての人にとって、生命の主役であり、愛の主役であり、また理想の中心になれるイエス・キリストが、私達一人一人を見つけるためにどのような努力の道を歩まれたのか、皆さんは考えるべきです。
イエス・キリストはこの地に可哀想に生まれ、可哀想な生活を送られました。言葉にできない非難を受け、悪の勢力と闘われ、本当の味方を得られずに去られました。さらに、イエス・キリストは去られた後、今日まで何千年もの間、人間に苦しめられているサタンに立ち向かうために戦われているのです。私達が想像できないほどの悲しい心情の中でおられるイエス・キリストであることを皆さんは知るべきです。
この時、羊飼いが羊を分けて立てる言葉は、神様が最後の審判の時にすべての民を分け、良い者は右に、悪い者は左に別けるということを予告しています。そのような審判の日には、どの条件を基準にして右と左に分けるのか?イエス・キリストが生まれてから去られるまでの全生涯を基準にして審判の条件を設定することを理解しなければなりません。
では、イエス・キリストと一体になりたい私達はどうすべきでしょうか? 私達はイエス様の全生涯を見習い、彼と同じ道を歩まなければならず、彼が感じた内的および外的な心情を理解し、彼が考えたことを私達も考えなければなりません。また、彼の希望を私達自身の希望とし、彼の希望を私達自身の希望として受け入れなければなりません。
それができなければ、私達はイエス・キリストと一体になることができず、彼を私達の主役として受け入れることはできません。また、全人類の主役として、歴史的なサタンとの戦いに一人で責任を負って戦われているイエス・キリストを助け、彼に代わって戦い、彼の使命を引き受けられる人がいないなら、人間を救う神の意志は決して達成されないでしょう。その結果、人間は創造主である神を親としても受け入れられないでしょう。堕落した人間は、イエス・キリストを通じてのみ、神を受け入れることができるからです。
さらに、私達自身が堕落の支配下にあることを考えると、イエスが歩まれた全生涯と通過しなければならない歴史的な運命が私達に残っている場合、私達はイエス・キリストを主人として受け入れることができず、神を私達の永遠の父として受け入れることができないことを感じるべきです。
さらに、朗読した聖書には、イエス・キリストが飢え、渇いた、異国人として、裸、病人、刑務所に閉じ込められた状況についての言葉があります。そして、イエス・キリストが再臨し、右の群れに向かって、『私が苦しい時、あなた達は私を助けてくれました。』と言われることを予告しています。
この言葉は、イエス・キリストの存命時に彼に従った弟子達に伝えるための言葉ではなく、最後の審判を受けるキリスト教徒に対して示唆された言葉であることを皆さんは覚えておくべきです。
ここでイエス様が飢えたり、渇いたりしたことは、イエス様が言葉で表現できないほどの悲しい状況を象徴しています。また、イエス様は言葉で言い表せないほどの孤独を感じられたため、旅人としての状況を語られ、不当に苦しんだために刑務所に閉じ込められた状況を語られたのです。
再臨の主イエス様が終末にこれらの状況に直面されることを予告されたイエス様の生涯は、誰も共感することのできない中で、他の人には想像もできないほどの悲しみ、苦しみ、苦痛の道でした。イエス様は生まれてからこのような苦しい生活を送られたことを皆さんが理解するべきです。
このように苦しみを我慢しながら生涯を歩まれたイエス様と直接的な関係を結び、私達自身も彼が共感した悲しさや孤独を感じなければなりません。そうでなければ、私達は天国的な生活の道を歩まれた彼と何の関係もない立場となってしまいます。
地上で、イエス様は約30年にわたり、孤独で孤独で苦しい道を歩まれ、昇天してからも2,000年以上にわたり、孤独な道を歩まれてきました。しかし、イエス様は自分自身のためにこのような道を歩まれたわけではありません。堕落した私達人間のために、すなわち堕落した人間を神の前に立てるために、自発的にその苦しみの道を歩まれたのです。
イエス様は飢えたり、渇いたり、病気にかかったり、旅人となったり、拘束されたりしたことがありました。そして、これらの困難は外的な側面だけでなく、内面的な側面でもイエス様に影響を与えました。イエス様は神の計画を引き継ぎ、それを遂行しなければならなかったイスラエルの民において、神の生命が枯渇し、神の希望が枯渇したことを感じました。
そのため、この使命を果たすために、イエス様は一生懸命になり、旅人としてイスラエル中を巡り、ユダヤ人達を見つけ出しました。本来、ユダヤ人達自身がこのような道を歩むべきでした。しかし、ユダヤ人達がその道を進まなかったため、イエス様は彼らを代わりに捜し、誰も迎え入れない人々の中で、真の神の子娘と真の命と真の愛を探し、築こうとしました。
また、イスラエルの民は自身が苦しんで拘束される立場にあるべきでしたが、イエス様はその代わりとなって苦しみ、拘束された立場にいました。
このような生涯を歩んだ後、亡くなったイエス様は復活し、昇天しましたが、今もなお同じ心情で私達を探し続けており、それを理解すべきです。要するに、イエス様は喜びを享受し、自由に生活するわけではなく、この時代でも内外から強烈な飢えと渇きに苦しむ人々を同情し、真の生命の道を求めてさまよう聖徒達を懸念し、また彼らの代わりに囚われの立場にある者を思いやっており、この地を離れて天国にいるにもかかわらず、一瞬たりとも神と共に喜ぶことができない立場にいるということを理解すべきです。
イエス様は、愛する十二弟子とパンとぶどう酒を分かち合い、『ぶどうの木からこのように新しいものとして、天の父の国で共に飲むまで、もはや飲むことはありません』と言われました。これは、この世界のすべての人々が悲しみが解消されるまで、イエス様も平和を享受できないということを示す言葉です。私達は、自身の罪と愚かさによって、イエス様がより一層孤立し、苦しむことがないようにするために存在するべきではありません。
このような状況を自覚し、身をもってイエス様の苦悩を理解し、イエス様の代わりにサタンと戦い、勝利することで、神の心配事を解消しなければなりません。もし、私達がイエス様の代わりにこの地の人々を気にかける存在にならない場合、終末に再臨するイエス様に対面することはできないでしょう。
イエス様は、その苦悩に満ちた30年以上にわたる生涯と、その後の2000年以上にわたる長い神の計画を経て、悲しみと孤独と苦しみに耐えました。イエス様の情熱的な状況は、単なるイエス様だけに止めておいてはいけません。私達がそれを引き継ぎ、イエス様を守らなければなりません。そうしなければ、私達はイエス様の前で立つことができず、イエス様を主として呼ぶことはできません。それこそが、何よりも重要な仕事であることを理解しなければなりません。
真の主としてこの地に臨まれたイエス様ですが、イエス様は完全に主として受け入れられず、また神の計画を達成するために働かれています。なぜなら、まだ人々が悲しみ、苦しみ、孤独に閉じ込められており、神の計画が完全に達成されていないからです。イエス様は神の計画を完全に実現することによって、すべてを喜びとして判断できる立場にいないのです。
では、どのようにして栄光と喜びの真の主を迎えることができるでしょうか?まず、私達は歴史の過程に積み重ねられた主の悲しみを解消することによって、主を喜ばせることのできる存在にならなければなりません。それをしない限り、イエス様は私達を支配することはできません。そして、イエス様が私達を支配できない場合、神もまた私達を支配することはできないでしょう。
また、私達が完全にイエス様の支配を受けない場合、イエス様と完全な愛の結びつきを築くことはできず、したがってイエス様を真の主として受け入れることはできません。もしもキリストが苦しませ、孤独にし、苦しめ、縛る要因があなた自身に残っているのであれば、キリストが再臨される日、あなたはキリストの前で立つことはできません。
また、歴史を代わってイエス様の悲しみをあなたが担うことができない場合、あなたは歴史的な計画を担当し出てくるイエス様の前に被支配者として立つことはできません。
もしイエス様があなた一人を支配したいという希望があるなら、それは宇宙的な希望であるでしょう。また、イエス様が建てた計画がある場合、それも宇宙的な計画であるでしょう。さらに、イエス様が求める愛と栄光があるとしても、それはイエス様個人のためのものでなく、宇宙的な愛と栄光であるでしょう。
ですから、皆さんは今日、自分自身に悲しみがあるでしょうか?孤独や苦しみがありますか?あるいは、束縛されていることはありますか?宇宙的な主であるイエス様が、皆さんのために悲しみ、孤独、苦しみを受けておられるようなことはあってはなりません。なぜなら私達はイエス様と関係があるため、私達一人一人の小さな悲しみであっても、または苦しみであっても、それは個人にとどまらず、イエス様にまで及ぶものだからです。
私の悲しみが深刻になると、それはすべてのものを支配するイエス様の悲しみとなり、私が孤独を感じるなら、それはすべてのものの主であるイエス様の孤独となり、私が苦しみを感じるなら、それは宇宙を代表するイエス様の苦しみとなります。したがって、皆さんは自分の生活の中で悲しみや苦しみに立ち向かい、それを克服しない限り、宇宙的な主であるイエス様を生活の主として受け入れることはできません。そうなると、皆さんはイエス様が訪れるのではなく、サタンが侵入することになり、それを防ぐ方法がありません。
また、皆さんがイエス様の計画と一致しない場合、イエス様の悲しみが解消されず、サタンとの戦いで勝利を収めて栄光を天に還元できない場合、皆さんはイエス様の全体的な計画が伝えられなくなります。
イエス様は一つの悲しみを感じることで全体の悲しみとして心配し、そのために皆さん一人一人が一部であるが全体の一部であると理解する必要があります。それ故、個別の存在である皆さんが全体の基準を代表して完璧な基準に達しない場合、イエス様の全体の計画も達成されないことになります。言い換えれば、一人が完璧にならない限り、イエス様が設立し進めている全体の計画が実現しないため、また全体の計画が実現しない限り、イエス様は全体を代表する良い羊飼いとして私達を支配することはできないということです。
それによって、神の愛、神の希望、神の命が私達と直接的な関係を持つことができなくなります。イエス様は神の意志の前で希望の実現として、また宇宙的な命の実体、宇宙的な愛の実体として長い歴史の中で存在しています。
今日、私達はこの羊飼いの導きに導かれる羊として、彼が歩むならば私も歩み、彼が決定するならば私も決定し、また彼が喜ぶならば私も喜ぶ立場に立たなければなりません。そうでなければ、イエス様を通じて神の宇宙的な計画が成し遂げられないだけでなく、私を通じても成し遂げられないということです。
だから、皆さんが非常に小さな存在かもしれませんが、宇宙的な善き羊飼いの代わりに立って、彼を尊びながら生きなければならず、皆さんの生活の中で悲しみ、孤独、または苦しみがある場合でも、自分よりも大きな苦しみに立つイエス様の状況を考えて、その困難を乗り越えなければなりません。皆さんがそのような生活を知らない場合、皆さんは善き羊飼いとしてのイエス様の栄光の地位に参加できないことを覚えておかなければなりません。
<祈り>
天のお父様、あなたが永遠の命の主として、全てのものを完全に支配し、それらと一緒に楽しむことができる日が早く、急いでこの地に現れることを切望し、望みます。アーメン。
天のお父様、人間の堕落によって遠ざかってしまったあなたとの距離を縮めるため、永遠の善の支配者、そして永遠の至上の支配者として、イエス・キリストをこの地にお送りいただきましたが、あなたを代わりに真に受け入れなかった人々を許してください。
私達がイエス様を冷淡に扱ったことが、先祖達の欠如から生じたことを知っています。そして今日、私達はまだイエス様の悲しみが残っていることを知ります。どうか、善き羊飼いの使命を受け継ぎ、すべての創造物の前に立って、あなたの願いを実現できる私達になることを許してください。イエス様の願いをかなえることができる私達になることを許してください。あなたの命と愛、イエス様の命と愛を持って現れることができる私達になることを許してください。
もし私達がそうでない場合、キリスト・イエスが善き羊飼いとしてこの世に来られた悲しい状況を永遠に解決できないことを自覚し、私達の心の扉を開いてくださり、善き羊飼いの声を聞けるように導いてください。
悲しい父の状況を知り、孤独な状況を知り、努力される父の状況を知ると、身動きが取れなくなります。父よ、どうか私達が悲しみや孤独、労苦、苦痛をイエス様に託すために祈る、惨めな存在とならないように導いてください。
私達が今、サタンのあらゆる秘密、父の内面の状況、イエス様の内面の思いまで知ることで、父のその状況をお任せし、イエス様の悲しみ、孤独、苦痛、束縛を受け止め、無数のサタンと戦えるよう力を与えてくださいと、お願いいたします。お父様、切に希望し、求めます。
お父様、私達が懸念し、心を込めて努力するイエス様の姿を見ることができるようにし、イエス様が今日も私達の苦しい状況によって十字架にかけられる苦痛を感じているということを私達に気づかせてください。
私達が天に対して悲しみ、天に対して悲しい思いをし、天に対して孤独な立場にいるとき、イエス様がより大きな孤独、より大きな悲しみ、より大きな苦痛を感じることがあることを知らなかったことを認識します。
今、イエス様の苦痛よりも私の苦痛が大きく、イエス様の悲しみよりも私の悲しみが大きいし、イエス様の難しさよりも私の難しさが大きいかもしれませんが、むしろイエス様の悲しみを取り除くために努力でき、イエス様の孤独と苦痛を取り除くために努力し、懸念できる真の娘の姿となりますよう助けてください。そして、善き羊飼いに従い、善き羊飼いの真摯な心を慰めることができる私達の姿となることを許してください。私達が切に望み、求めます。
お父様、ここに集まったあなたの子供達は、今や歴史的な行進に全身全霊で参加しなければならないと理解しました。そして、私達には進むべき運命の道があることを理解し、戦わねばならない責務と使命があることを理解しました。私達が進む道には悲しみ、孤独、または苦しみがあるかもしれませんが、それらを克服できるように許してください。
目に見えないサタンが私達の生活に直接侵入して苦難や恐れを引き起こすかもしれませんが、これに立ち向かって黙々と戦って勝利できるように、イエス・キリストの代理の使命を果たす者達として私達を新たに立ててください。また、イエス・キリストの生涯を引き継ぎ、あなたの御業を達成できるように、私達全員の心と体をあなたの御心に従って差し出し、あなたの喜び、栄光、誇りとなり、あなたの御心に従い、あなたの御命令に従い、あなたの右手に座る子供達として立ててください。お父様、お願いいたします。アーメン。
1957年3月17日(日曜日)、全本部教会
マタイによる福音書の25章29節から46節
<祈 祷>
御言葉でで命じられる言葉に従って、生まれ変わった者達が生まれ変わりの光を示すことができるように、また、お父様の意志に従って戦場に進軍しているあなたの真の戦士達の上に、永遠の勝利の盾を高く掲げることを許してください。
厳しい、混沌としたこの土地、罪と死の波が流れているこの土地、真の天国の思いを抱いている者達は、死を覚悟せずにはこの悲惨な土地から去ることはできません。一週間を過ごし、受けた傷を気にせずに、お父様の前に立っています。あわれみ深いお父様!私達にあなたの助けの手を差し伸べ、愛の手で包んでください。
お父様!これらは、あなたが探し求めていた息子と娘達です。どうか、この一時間、あなたの心にあった事情を彼らに語り、また命じてくださいと切に願っています。
これらの些細なもの達は、お父様が命じられた言葉に従って自分のすべてを明らかにし、この一時間でもあなたの前に贖罪の供物として差し出されることを望んでいます。私のお父様、この時間を無駄にしないでください。許し、またこれらを自ら守り、導き、立て、洗礼してください
暗闇のこの世界で天に向かって進むために努力し、亡くなった聖徒達を代わりに、生命の光を放つことができるように、そして罪悪の墓を掘り進むことができるように、私達に許してください、愛するお父様、切に願い求めています。今日は聖なる日で、すべての人々を祝福する日です。
この時、孤独なこの国に、哀れなこの国には進むべき道がないことを自覚しながら、お父様の前にひれ伏す多くの人々がいることを知るとき、お父様、彼らの進むべき道と行動すべき標準を示し、提供しなければならないことを感じます。
私達は、この国にお父様の導きが必要だと感じ、お父様の計画がこの国全体に及ばなければならないと信じています。最終的な使命を、ここに参加している息子達と娘達に委ねていただき、彼らが3,000万人の人々が迷子である中で目を覚まさせ、死の波に巻き込まれている哀れな異教民族まで目を覚まさせていただくことを許していただきたいと願っています。愛するお父様、切に願い求めています。
人間が立てた計画や人間が追求する目標がどれほど偉大であっても、それが天国を動かさない限り、何も実現しないことを知っています。人間の機構や人間の形式は、最後の審判の前で消え去るでしょうが、天国への誠実な心と天国への知識、そして献身だけが、審判の壇の向こうでお父様の愛の中に身を包み、賛美と栄光を受け取る日を許していただきたいと願います。お父様、天国への献身を心に秘め、天国のために忠実である忠実な息子達と娘となり、最後の審判の壇を越えて行けるように、お父様の内面の心に記憶される息子と娘として許していただくことを切に願います。
約束の御言葉と許された恩寵が注がれることを願いながらひれ伏しました。この一年も戦いの闘志を持つ子供達に、内外からの感動的な御業が現れて、その体と心を爆発させ、罪の要素を抑え、善の本質に変えて進むことができるように、愛するお父様、切に願い求めています。
今、私達は散らばった心を集め、傷ついた痕跡をお父様の前にさらけ出し、何もかも差し出す覚悟です。お父様、あわれみの手を伸ばし、勝利の膏を注いで包帯を巻いていただき、切に願い求めます。この一時間をお父様に託しました。悪魔が乗り越えることのないように、神が管理していただけるよう、切にお願いいたします。御名によって祈ります。アーメン。
<御言葉>
私が皆さんと共に考えようとしている言葉の題は『主は私の良き羊飼い』です。このような題名で少しだけお話しいたします。人間は堕落のために持つべき主人を持っていません。また、あらゆるものが主人を失ってしまったのです。今日、人間の信仰と主張の中で、真の主人から生まれたものは何もありません。人間がこのように不完全な状態にあるため、ここから脱却し、完全なものを探そうとし、不安から解放され平安を求めています。
人間は堕落により、生命と愛と希望の主人を失いました。もともと神様は人間を創造された目的は、人間が永遠の生命を中心に、永遠の愛の楽園で永遠の理想を歌って生きることでした。
しかし、人間は堕落により、それを失ってしまったため、神様は再びこれを見つけ出すために長い歴史を経て苦労されています。
また、すべての人間は、心に従わない体を心に従うようにするまで、真の心の所有者になる運命に置かれています。しかし、それは自然に行われるものではありません。死を覚悟し、多くの苦難と闘争の歴史を経なければならないのです。
それでは、このように宇宙的に遮られている運命の道をどのように突破すべきでしょうか?この運命の道は、私達人間がこれまで越えることができず、悲しむしかなかった一つの丘です。人間がこの運命の丘を越える前に、本来の真の主人、すなわち善と愛と理想の主人としての方を見つけることはできません。
そのため、そのような主人である神様は、本来の人間と一緒に楽しむために、一緒に生きるために、堕落した人々を再び引き上げる救いの計画を6,000年もの間に実現させたのです。
神様を中心にした本来の理想の楽園を憧れている私達ですが、私達は不完全であるため、完全な基準に到達するためには戦いの闘志を持つ私達自身であることを認識しなければなりません。また、周囲に立ちはだかっている多くの悪魔や邪悪な人々を見ている必要があります。
そしてさらに、私達は暗闇から引き上げるために、内外で努力している神様の優しい心情を見て、悪の力と闘い勝利することで、この全体の悲しみ、全体の怨みを清算できるような私達にならなければなりません。そうでなければ、私達は帰還の道をたどらず、帰還の道をたどらない限り、最後に真の主人として来られるお父様と向き合うことができなくなります。
神様は、堕落した人間を生命の人間として立てるために、すべての人間が永遠の主役に出会えるその一つの領域まで導く責任を持っています。そのため、神様は弱いし不完全な人間達に、生命の中心であり、また希望と愛の中心であるイエス・キリストを送られたのです。
しかも、神様は私達が迎えるべきその希望の中心を、歴史的な希望の終わりに行って迎えるべきではなく、むしろ私達の日常生活の中に現れて新しい命を吹き込み、神様の希望を達成する存在として立てられました。私達は、希望と生命の中心を私達の生活に据えられた神様の恩寵の前で一つになり、真の主役を迎え、神様の意志を実現しなければなりません。
この宇宙的な主役、宇宙的な生命の中心存在であるイエス・キリスト、つまり私達が進むべき道を導いてくれるイエス・キリストを捉えなければ、私達は希望も見つけられないし、生命や理想も見つけられません。
私達が希望の中心、つまり愛の中心であり生命の中心であるイエス様と一体になるためには、今まで神様が摂理される意志を実現するために戦ってこられたその内的事情や外的事情と通わなければなりません。そうでなければ、真の主役であるイエス様と一体になることはできず、創造主である神様とも一体になることはできません。
すべての人にとって、生命の主役であり、愛の主役であり、また理想の中心になれるイエス・キリストが、私達一人一人を見つけるためにどのような努力の道を歩まれたのか、皆さんは考えるべきです。
イエス・キリストはこの地に可哀想に生まれ、可哀想な生活を送られました。言葉にできない非難を受け、悪の勢力と闘われ、本当の味方を得られずに去られました。さらに、イエス・キリストは去られた後、今日まで何千年もの間、人間に苦しめられているサタンに立ち向かうために戦われているのです。私達が想像できないほどの悲しい心情の中でおられるイエス・キリストであることを皆さんは知るべきです。
この時、羊飼いが羊を分けて立てる言葉は、神様が最後の審判の時にすべての民を分け、良い者は右に、悪い者は左に別けるということを予告しています。そのような審判の日には、どの条件を基準にして右と左に分けるのか?イエス・キリストが生まれてから去られるまでの全生涯を基準にして審判の条件を設定することを理解しなければなりません。
では、イエス・キリストと一体になりたい私達はどうすべきでしょうか? 私達はイエス様の全生涯を見習い、彼と同じ道を歩まなければならず、彼が感じた内的および外的な心情を理解し、彼が考えたことを私達も考えなければなりません。また、彼の希望を私達自身の希望とし、彼の希望を私達自身の希望として受け入れなければなりません。
それができなければ、私達はイエス・キリストと一体になることができず、彼を私達の主役として受け入れることはできません。また、全人類の主役として、歴史的なサタンとの戦いに一人で責任を負って戦われているイエス・キリストを助け、彼に代わって戦い、彼の使命を引き受けられる人がいないなら、人間を救う神の意志は決して達成されないでしょう。その結果、人間は創造主である神を親としても受け入れられないでしょう。堕落した人間は、イエス・キリストを通じてのみ、神を受け入れることができるからです。
さらに、私達自身が堕落の支配下にあることを考えると、イエスが歩まれた全生涯と通過しなければならない歴史的な運命が私達に残っている場合、私達はイエス・キリストを主人として受け入れることができず、神を私達の永遠の父として受け入れることができないことを感じるべきです。
さらに、朗読した聖書には、イエス・キリストが飢え、渇いた、異国人として、裸、病人、刑務所に閉じ込められた状況についての言葉があります。そして、イエス・キリストが再臨し、右の群れに向かって、『私が苦しい時、あなた達は私を助けてくれました。』と言われることを予告しています。
この言葉は、イエス・キリストの存命時に彼に従った弟子達に伝えるための言葉ではなく、最後の審判を受けるキリスト教徒に対して示唆された言葉であることを皆さんは覚えておくべきです。
ここでイエス様が飢えたり、渇いたりしたことは、イエス様が言葉で表現できないほどの悲しい状況を象徴しています。また、イエス様は言葉で言い表せないほどの孤独を感じられたため、旅人としての状況を語られ、不当に苦しんだために刑務所に閉じ込められた状況を語られたのです。
再臨の主イエス様が終末にこれらの状況に直面されることを予告されたイエス様の生涯は、誰も共感することのできない中で、他の人には想像もできないほどの悲しみ、苦しみ、苦痛の道でした。イエス様は生まれてからこのような苦しい生活を送られたことを皆さんが理解するべきです。
このように苦しみを我慢しながら生涯を歩まれたイエス様と直接的な関係を結び、私達自身も彼が共感した悲しさや孤独を感じなければなりません。そうでなければ、私達は天国的な生活の道を歩まれた彼と何の関係もない立場となってしまいます。
地上で、イエス様は約30年にわたり、孤独で孤独で苦しい道を歩まれ、昇天してからも2,000年以上にわたり、孤独な道を歩まれてきました。しかし、イエス様は自分自身のためにこのような道を歩まれたわけではありません。堕落した私達人間のために、すなわち堕落した人間を神の前に立てるために、自発的にその苦しみの道を歩まれたのです。
イエス様は飢えたり、渇いたり、病気にかかったり、旅人となったり、拘束されたりしたことがありました。そして、これらの困難は外的な側面だけでなく、内面的な側面でもイエス様に影響を与えました。イエス様は神の計画を引き継ぎ、それを遂行しなければならなかったイスラエルの民において、神の生命が枯渇し、神の希望が枯渇したことを感じました。
そのため、この使命を果たすために、イエス様は一生懸命になり、旅人としてイスラエル中を巡り、ユダヤ人達を見つけ出しました。本来、ユダヤ人達自身がこのような道を歩むべきでした。しかし、ユダヤ人達がその道を進まなかったため、イエス様は彼らを代わりに捜し、誰も迎え入れない人々の中で、真の神の子娘と真の命と真の愛を探し、築こうとしました。
また、イスラエルの民は自身が苦しんで拘束される立場にあるべきでしたが、イエス様はその代わりとなって苦しみ、拘束された立場にいました。
このような生涯を歩んだ後、亡くなったイエス様は復活し、昇天しましたが、今もなお同じ心情で私達を探し続けており、それを理解すべきです。要するに、イエス様は喜びを享受し、自由に生活するわけではなく、この時代でも内外から強烈な飢えと渇きに苦しむ人々を同情し、真の生命の道を求めてさまよう聖徒達を懸念し、また彼らの代わりに囚われの立場にある者を思いやっており、この地を離れて天国にいるにもかかわらず、一瞬たりとも神と共に喜ぶことができない立場にいるということを理解すべきです。
イエス様は、愛する十二弟子とパンとぶどう酒を分かち合い、『ぶどうの木からこのように新しいものとして、天の父の国で共に飲むまで、もはや飲むことはありません』と言われました。これは、この世界のすべての人々が悲しみが解消されるまで、イエス様も平和を享受できないということを示す言葉です。私達は、自身の罪と愚かさによって、イエス様がより一層孤立し、苦しむことがないようにするために存在するべきではありません。
このような状況を自覚し、身をもってイエス様の苦悩を理解し、イエス様の代わりにサタンと戦い、勝利することで、神の心配事を解消しなければなりません。もし、私達がイエス様の代わりにこの地の人々を気にかける存在にならない場合、終末に再臨するイエス様に対面することはできないでしょう。
イエス様は、その苦悩に満ちた30年以上にわたる生涯と、その後の2000年以上にわたる長い神の計画を経て、悲しみと孤独と苦しみに耐えました。イエス様の情熱的な状況は、単なるイエス様だけに止めておいてはいけません。私達がそれを引き継ぎ、イエス様を守らなければなりません。そうしなければ、私達はイエス様の前で立つことができず、イエス様を主として呼ぶことはできません。それこそが、何よりも重要な仕事であることを理解しなければなりません。
真の主としてこの地に臨まれたイエス様ですが、イエス様は完全に主として受け入れられず、また神の計画を達成するために働かれています。なぜなら、まだ人々が悲しみ、苦しみ、孤独に閉じ込められており、神の計画が完全に達成されていないからです。イエス様は神の計画を完全に実現することによって、すべてを喜びとして判断できる立場にいないのです。
では、どのようにして栄光と喜びの真の主を迎えることができるでしょうか?まず、私達は歴史の過程に積み重ねられた主の悲しみを解消することによって、主を喜ばせることのできる存在にならなければなりません。それをしない限り、イエス様は私達を支配することはできません。そして、イエス様が私達を支配できない場合、神もまた私達を支配することはできないでしょう。
また、私達が完全にイエス様の支配を受けない場合、イエス様と完全な愛の結びつきを築くことはできず、したがってイエス様を真の主として受け入れることはできません。もしもキリストが苦しませ、孤独にし、苦しめ、縛る要因があなた自身に残っているのであれば、キリストが再臨される日、あなたはキリストの前で立つことはできません。
また、歴史を代わってイエス様の悲しみをあなたが担うことができない場合、あなたは歴史的な計画を担当し出てくるイエス様の前に被支配者として立つことはできません。
もしイエス様があなた一人を支配したいという希望があるなら、それは宇宙的な希望であるでしょう。また、イエス様が建てた計画がある場合、それも宇宙的な計画であるでしょう。さらに、イエス様が求める愛と栄光があるとしても、それはイエス様個人のためのものでなく、宇宙的な愛と栄光であるでしょう。
ですから、皆さんは今日、自分自身に悲しみがあるでしょうか?孤独や苦しみがありますか?あるいは、束縛されていることはありますか?宇宙的な主であるイエス様が、皆さんのために悲しみ、孤独、苦しみを受けておられるようなことはあってはなりません。なぜなら私達はイエス様と関係があるため、私達一人一人の小さな悲しみであっても、または苦しみであっても、それは個人にとどまらず、イエス様にまで及ぶものだからです。
私の悲しみが深刻になると、それはすべてのものを支配するイエス様の悲しみとなり、私が孤独を感じるなら、それはすべてのものの主であるイエス様の孤独となり、私が苦しみを感じるなら、それは宇宙を代表するイエス様の苦しみとなります。したがって、皆さんは自分の生活の中で悲しみや苦しみに立ち向かい、それを克服しない限り、宇宙的な主であるイエス様を生活の主として受け入れることはできません。そうなると、皆さんはイエス様が訪れるのではなく、サタンが侵入することになり、それを防ぐ方法がありません。
また、皆さんがイエス様の計画と一致しない場合、イエス様の悲しみが解消されず、サタンとの戦いで勝利を収めて栄光を天に還元できない場合、皆さんはイエス様の全体的な計画が伝えられなくなります。
イエス様は一つの悲しみを感じることで全体の悲しみとして心配し、そのために皆さん一人一人が一部であるが全体の一部であると理解する必要があります。それ故、個別の存在である皆さんが全体の基準を代表して完璧な基準に達しない場合、イエス様の全体の計画も達成されないことになります。言い換えれば、一人が完璧にならない限り、イエス様が設立し進めている全体の計画が実現しないため、また全体の計画が実現しない限り、イエス様は全体を代表する良い羊飼いとして私達を支配することはできないということです。
それによって、神の愛、神の希望、神の命が私達と直接的な関係を持つことができなくなります。イエス様は神の意志の前で希望の実現として、また宇宙的な命の実体、宇宙的な愛の実体として長い歴史の中で存在しています。
今日、私達はこの羊飼いの導きに導かれる羊として、彼が歩むならば私も歩み、彼が決定するならば私も決定し、また彼が喜ぶならば私も喜ぶ立場に立たなければなりません。そうでなければ、イエス様を通じて神の宇宙的な計画が成し遂げられないだけでなく、私を通じても成し遂げられないということです。
だから、皆さんが非常に小さな存在かもしれませんが、宇宙的な善き羊飼いの代わりに立って、彼を尊びながら生きなければならず、皆さんの生活の中で悲しみ、孤独、または苦しみがある場合でも、自分よりも大きな苦しみに立つイエス様の状況を考えて、その困難を乗り越えなければなりません。皆さんがそのような生活を知らない場合、皆さんは善き羊飼いとしてのイエス様の栄光の地位に参加できないことを覚えておかなければなりません。
<祈り>
天のお父様、あなたが永遠の命の主として、全てのものを完全に支配し、それらと一緒に楽しむことができる日が早く、急いでこの地に現れることを切望し、望みます。アーメン。
天のお父様、人間の堕落によって遠ざかってしまったあなたとの距離を縮めるため、永遠の善の支配者、そして永遠の至上の支配者として、イエス・キリストをこの地にお送りいただきましたが、あなたを代わりに真に受け入れなかった人々を許してください。
私達がイエス様を冷淡に扱ったことが、先祖達の欠如から生じたことを知っています。そして今日、私達はまだイエス様の悲しみが残っていることを知ります。どうか、善き羊飼いの使命を受け継ぎ、すべての創造物の前に立って、あなたの願いを実現できる私達になることを許してください。イエス様の願いをかなえることができる私達になることを許してください。あなたの命と愛、イエス様の命と愛を持って現れることができる私達になることを許してください。
もし私達がそうでない場合、キリスト・イエスが善き羊飼いとしてこの世に来られた悲しい状況を永遠に解決できないことを自覚し、私達の心の扉を開いてくださり、善き羊飼いの声を聞けるように導いてください。
悲しい父の状況を知り、孤独な状況を知り、努力される父の状況を知ると、身動きが取れなくなります。父よ、どうか私達が悲しみや孤独、労苦、苦痛をイエス様に託すために祈る、惨めな存在とならないように導いてください。
私達が今、サタンのあらゆる秘密、父の内面の状況、イエス様の内面の思いまで知ることで、父のその状況をお任せし、イエス様の悲しみ、孤独、苦痛、束縛を受け止め、無数のサタンと戦えるよう力を与えてくださいと、お願いいたします。お父様、切に希望し、求めます。
お父様、私達が懸念し、心を込めて努力するイエス様の姿を見ることができるようにし、イエス様が今日も私達の苦しい状況によって十字架にかけられる苦痛を感じているということを私達に気づかせてください。
私達が天に対して悲しみ、天に対して悲しい思いをし、天に対して孤独な立場にいるとき、イエス様がより大きな孤独、より大きな悲しみ、より大きな苦痛を感じることがあることを知らなかったことを認識します。
今、イエス様の苦痛よりも私の苦痛が大きく、イエス様の悲しみよりも私の悲しみが大きいし、イエス様の難しさよりも私の難しさが大きいかもしれませんが、むしろイエス様の悲しみを取り除くために努力でき、イエス様の孤独と苦痛を取り除くために努力し、懸念できる真の娘の姿となりますよう助けてください。そして、善き羊飼いに従い、善き羊飼いの真摯な心を慰めることができる私達の姿となることを許してください。私達が切に望み、求めます。
お父様、ここに集まったあなたの子供達は、今や歴史的な行進に全身全霊で参加しなければならないと理解しました。そして、私達には進むべき運命の道があることを理解し、戦わねばならない責務と使命があることを理解しました。私達が進む道には悲しみ、孤独、または苦しみがあるかもしれませんが、それらを克服できるように許してください。
目に見えないサタンが私達の生活に直接侵入して苦難や恐れを引き起こすかもしれませんが、これに立ち向かって黙々と戦って勝利できるように、イエス・キリストの代理の使命を果たす者達として私達を新たに立ててください。また、イエス・キリストの生涯を引き継ぎ、あなたの御業を達成できるように、私達全員の心と体をあなたの御心に従って差し出し、あなたの喜び、栄光、誇りとなり、あなたの御心に従い、あなたの御命令に従い、あなたの右手に座る子供達として立ててください。お父様、お願いいたします。アーメン。
文鮮明先生 御言葉選集 2 - 11. 私達は誰のために生きているのか (1957年 4月 7日)
私達は誰のために生きているのか 1957年4月7日(日)
聖書拝読 ヨハネによる福音書14章1節から20節
私達は誰のために生きているのか 1957年4月7日(日)
聖書拝読 ヨハネによる福音書14章1節から20節
<御言葉>
私達は他の人々とのつながりなしに生活できません。個体も心と体が関係を築き、お互いに利益をもたらす立場をとる事によって存在します。このような立場は、家庭、国家、社会、国際社会、さらには宇宙全体に向けた『利益をもたらす生活』に発展しています。このような利益をもたらす生活は、宗教的に言えば神に仕える生活です。
自分自身を中心に据え、平面的な利益を追求できる基準を見つけ、さらには立体的な関係を築いて一つの中心を持つ基準を見つける必要があります。その後、家庭、国家、世界、宇宙的にも一つの中心とのつながりを持つ生活を送るべきです。このような利益をもたらす中心的な基準がなければ、私達人間は満足と幸福を得る事はできません。
歴史を担い、宇宙が追求する総合的な価値を持つその中心的な基準を見つけ、自己と生の関係を築かなければなりません。また、愛を中心に据え、力の根本と結びつけ、無限に受け入れ、無限に与え、周囲のすべての状況で証明できる存在にならなければなりません。
人間は長い歴史を通じて、自分を託す事のできる永遠に変わらない何かを探し求めてきました。私達は自分自身をそのものに委ね、永遠に神の愛を体験し、その愛を讃える事を望んでいます。したがって、人間は自分自身を永遠に保証できる中心的な存在を探しており、その中心的な存在は永遠の愛の主役であり、生命の主役であり、希望の主役でもあります。さらに、この主役は利益をもたらす生活の代表的な主役としても存在します。
しかし、このような利益をもたらす主役は心の願望と肉体の欲望を結びつけ、利益をもたらす主役であり、歴史を担い、宇宙的な全体性を負担し、代わりになる主役でなければなりません。もしあなたがこのような主役を見つけ、一体理想を築き、それを尊敬し、共に生きる環境を神的に構築できない場合、最終的には宇宙的な戦いと恐怖から逃れる事ができなくなるでしょう。
人間は堕落によって失ったこの永遠の中心的な基準を見つけ出し、それを追求しなければならず、この回帰の旅で戦いは避けられないものであり、個人から始まり、家庭、国家、世界に広がっています。この地上での平面的な戦いが終わった後、入念な戦いの時代が霊界とも戦う事になります。このとき、すべての人々は真の愛、真の命、真の希望の基準を見つけ、この試練と恐怖の時代を克服しなければなりません。
この愛、生命、希望の主役と永遠に共にいる条件を神の前に提示できない場合、すべての人間は恐れと審判の時を逃れる事はできません。
私達はまもなく、善と悪、右と左を判断しなければならない歴史の終わりを迎えるでしょう。そのとき、私達はどうすべきでしょうか? 私達は善と悪、右と左を判断できる基準となる一つの主役を見つけ、善悪の判断だけでなく、私達のすべての事がそれを中心に行われ、それによって私達の霊魂と肉体が一致しない限り、最終的な審判を免れる事はできないでしょう。
歴史上のすべての人々は、あらゆる価値の基準となるその一つの主役を望んで現れました。今、その望みが私達の目の前に達し、その一つの主役を中心に、歴史の前に全責任を果たした実績を示し、歴史に残るすべての人々の願いを実現し、さらには天の意志すらも達成できる存在であるべきです。
神の帰還の目的と人類の歴史は、一つの個人を中心に交差しています。この交差点は個人から国家、世界、宇宙に広がっています。したがって、あなたはあなた一人一人の生活が宇宙を代表する生活である事を認識する必要があります。
神は6千年間、あなたの内面を代表し、この交差点を越える存在を探しに来ました。しかし、もし神がそのような人を見つけて、あなたの内面を表現できず、そしてあなたの願いをこの一つの存在を通じて実現できない場合、神は常に超越神の立場に留まり、私達人間とは実体的な関係を持つ事ができなくなります。
人間は元々他者を思いやる事から生を始める中心とつながっていたが、堕落により、自己中心的な生き方に変わり、すべてを自己中心に考え、自己中心的につながろうとするようになった。
ですから、今、永遠の自由と平和を追求し続ける私達は、すべてを自分のためだけの事に結びつけようとする堕落を捨て、他者のために先になれる自己にならなければなりません。それによって、すべてが『私と他者の関係』を築き、永遠に進む事ができるようになるでしょう。キリストの神性と人性が実証的なものとして現れるために、すべての存在と他者との相対的な関係を築かなければなりません。
そして、このような関係は個人を超えて家庭、国家、世界、そして宇宙的に展開されなければならず、最終的にはこれらすべての包括的な関係は一つの中心的存在のために成立しなければなりません。このようにして、永遠に変わらぬその一つの存在の前で、私達の愛、生命、真理を捧げ、その価値である愛、生命、真理との関係を築き、それを受け継ぎ、感じる事ができる私達にならなければなりません。
この一つの存在、まさにその主役は、人間関係的な希望と天国的な希望、そして歴史的な生命と目的的な生命、歴史的な愛と目的的な愛を調和させ、結びつけてくださる方です。この方こそが再臨の主となるでしょう。
彼は6千年間、あなた方を探し求めている方であり、あなた方は彼の前に立つために真実的に、生命的に、愛に溢れてその資格を持たねばなりません。そして、この関係を宇宙全体にまで拡張し結びつけなければなりません。イエスは「私は道であり、真理であり、命である。」と言いました。それゆえ、私達一人一人が道であり、真理であり、命であるために、私達は宇宙全体を包み込み、共鳴する事ができるべきです。
個人、家庭、社会、国家、世界など、すべてを包括し、天の前に立つ事のできる方が、まさに '主' であります。彼は無限の希望を持ち、私達が想像できないほどの価値を持って現れるので、私達は不変の存在として宇宙的な目的を代表し、負う覚悟が必要で、最終的にはその方に立ち向かう事ができるようになるでしょう。彼こそが人間の愛、生命、真理の本質であり、私達も同じような愛、生命、真理を代表できなければ、あらゆるものの前に立つ事はできません。
このような立場を取るべきあなたの生活はどのようなものでしょうか?自己中心的に悩む人々がいますか?そのような人々は必ず目覚める日が来るでしょう。世界を足場とし、すべての事のために生きる人として、すべてを捧げ、すべてを捨てても喜びを感じるべきです。
あなたは、神の前に何かを捧げていますか?あなたの身体ですら宇宙に吸収される可能性がある事に気づくべきです。神はあなたが喜びをもって自分を捧げる事を望まれ、すべての創造物もそれを望んでいる事を知るべきです。
そのような存在にならなければ、何千年生きたとしてもすべての生き物と愛の関係を築く事はできません。完全に自己を忘れ、それにもかかわらず宇宙を所有している喜びを持つべきです。部分的であると同時に全体を代表したかのように、部分的なものを所有していると同時に全体的なものを所有したかのように喜ぶべき存在が、天には求められています。人々はこれまでに多くの犠牲を払ってきました。
つまり、この地で平和を実現した事はありません。しかし、あなたが神との関係を築き、彼の愛、生命、真理の価値を理解すれば、あなたは命をかけて戦う事になるでしょう。そして、それが無血革命の時代であり、宇宙的な永遠の平和を楽しむ時であるでしょう。その時を迎えるためには、すべてを捧げる事を知らなければなりません。
空白の場所は必ず埋められるものであるため、私達の一つの存在が自分の体を捧げるなら、その空白の場所には必ず他の何かが埋められるでしょう。今日まで、人類はこの事実を知らなかったのです。イエスも自分の体を捧げる事で、その空白の場所に十字架と救いの基準を設ける事ができました。
私達は他の人々とのつながりなしに生活できません。個体も心と体が関係を築き、お互いに利益をもたらす立場をとる事によって存在します。このような立場は、家庭、国家、社会、国際社会、さらには宇宙全体に向けた『利益をもたらす生活』に発展しています。このような利益をもたらす生活は、宗教的に言えば神に仕える生活です。
自分自身を中心に据え、平面的な利益を追求できる基準を見つけ、さらには立体的な関係を築いて一つの中心を持つ基準を見つける必要があります。その後、家庭、国家、世界、宇宙的にも一つの中心とのつながりを持つ生活を送るべきです。このような利益をもたらす中心的な基準がなければ、私達人間は満足と幸福を得る事はできません。
歴史を担い、宇宙が追求する総合的な価値を持つその中心的な基準を見つけ、自己と生の関係を築かなければなりません。また、愛を中心に据え、力の根本と結びつけ、無限に受け入れ、無限に与え、周囲のすべての状況で証明できる存在にならなければなりません。
人間は長い歴史を通じて、自分を託す事のできる永遠に変わらない何かを探し求めてきました。私達は自分自身をそのものに委ね、永遠に神の愛を体験し、その愛を讃える事を望んでいます。したがって、人間は自分自身を永遠に保証できる中心的な存在を探しており、その中心的な存在は永遠の愛の主役であり、生命の主役であり、希望の主役でもあります。さらに、この主役は利益をもたらす生活の代表的な主役としても存在します。
しかし、このような利益をもたらす主役は心の願望と肉体の欲望を結びつけ、利益をもたらす主役であり、歴史を担い、宇宙的な全体性を負担し、代わりになる主役でなければなりません。もしあなたがこのような主役を見つけ、一体理想を築き、それを尊敬し、共に生きる環境を神的に構築できない場合、最終的には宇宙的な戦いと恐怖から逃れる事ができなくなるでしょう。
人間は堕落によって失ったこの永遠の中心的な基準を見つけ出し、それを追求しなければならず、この回帰の旅で戦いは避けられないものであり、個人から始まり、家庭、国家、世界に広がっています。この地上での平面的な戦いが終わった後、入念な戦いの時代が霊界とも戦う事になります。このとき、すべての人々は真の愛、真の命、真の希望の基準を見つけ、この試練と恐怖の時代を克服しなければなりません。
この愛、生命、希望の主役と永遠に共にいる条件を神の前に提示できない場合、すべての人間は恐れと審判の時を逃れる事はできません。
私達はまもなく、善と悪、右と左を判断しなければならない歴史の終わりを迎えるでしょう。そのとき、私達はどうすべきでしょうか? 私達は善と悪、右と左を判断できる基準となる一つの主役を見つけ、善悪の判断だけでなく、私達のすべての事がそれを中心に行われ、それによって私達の霊魂と肉体が一致しない限り、最終的な審判を免れる事はできないでしょう。
歴史上のすべての人々は、あらゆる価値の基準となるその一つの主役を望んで現れました。今、その望みが私達の目の前に達し、その一つの主役を中心に、歴史の前に全責任を果たした実績を示し、歴史に残るすべての人々の願いを実現し、さらには天の意志すらも達成できる存在であるべきです。
神の帰還の目的と人類の歴史は、一つの個人を中心に交差しています。この交差点は個人から国家、世界、宇宙に広がっています。したがって、あなたはあなた一人一人の生活が宇宙を代表する生活である事を認識する必要があります。
神は6千年間、あなたの内面を代表し、この交差点を越える存在を探しに来ました。しかし、もし神がそのような人を見つけて、あなたの内面を表現できず、そしてあなたの願いをこの一つの存在を通じて実現できない場合、神は常に超越神の立場に留まり、私達人間とは実体的な関係を持つ事ができなくなります。
人間は元々他者を思いやる事から生を始める中心とつながっていたが、堕落により、自己中心的な生き方に変わり、すべてを自己中心に考え、自己中心的につながろうとするようになった。
ですから、今、永遠の自由と平和を追求し続ける私達は、すべてを自分のためだけの事に結びつけようとする堕落を捨て、他者のために先になれる自己にならなければなりません。それによって、すべてが『私と他者の関係』を築き、永遠に進む事ができるようになるでしょう。キリストの神性と人性が実証的なものとして現れるために、すべての存在と他者との相対的な関係を築かなければなりません。
そして、このような関係は個人を超えて家庭、国家、世界、そして宇宙的に展開されなければならず、最終的にはこれらすべての包括的な関係は一つの中心的存在のために成立しなければなりません。このようにして、永遠に変わらぬその一つの存在の前で、私達の愛、生命、真理を捧げ、その価値である愛、生命、真理との関係を築き、それを受け継ぎ、感じる事ができる私達にならなければなりません。
この一つの存在、まさにその主役は、人間関係的な希望と天国的な希望、そして歴史的な生命と目的的な生命、歴史的な愛と目的的な愛を調和させ、結びつけてくださる方です。この方こそが再臨の主となるでしょう。
彼は6千年間、あなた方を探し求めている方であり、あなた方は彼の前に立つために真実的に、生命的に、愛に溢れてその資格を持たねばなりません。そして、この関係を宇宙全体にまで拡張し結びつけなければなりません。イエスは「私は道であり、真理であり、命である。」と言いました。それゆえ、私達一人一人が道であり、真理であり、命であるために、私達は宇宙全体を包み込み、共鳴する事ができるべきです。
個人、家庭、社会、国家、世界など、すべてを包括し、天の前に立つ事のできる方が、まさに '主' であります。彼は無限の希望を持ち、私達が想像できないほどの価値を持って現れるので、私達は不変の存在として宇宙的な目的を代表し、負う覚悟が必要で、最終的にはその方に立ち向かう事ができるようになるでしょう。彼こそが人間の愛、生命、真理の本質であり、私達も同じような愛、生命、真理を代表できなければ、あらゆるものの前に立つ事はできません。
このような立場を取るべきあなたの生活はどのようなものでしょうか?自己中心的に悩む人々がいますか?そのような人々は必ず目覚める日が来るでしょう。世界を足場とし、すべての事のために生きる人として、すべてを捧げ、すべてを捨てても喜びを感じるべきです。
あなたは、神の前に何かを捧げていますか?あなたの身体ですら宇宙に吸収される可能性がある事に気づくべきです。神はあなたが喜びをもって自分を捧げる事を望まれ、すべての創造物もそれを望んでいる事を知るべきです。
そのような存在にならなければ、何千年生きたとしてもすべての生き物と愛の関係を築く事はできません。完全に自己を忘れ、それにもかかわらず宇宙を所有している喜びを持つべきです。部分的であると同時に全体を代表したかのように、部分的なものを所有していると同時に全体的なものを所有したかのように喜ぶべき存在が、天には求められています。人々はこれまでに多くの犠牲を払ってきました。
つまり、この地で平和を実現した事はありません。しかし、あなたが神との関係を築き、彼の愛、生命、真理の価値を理解すれば、あなたは命をかけて戦う事になるでしょう。そして、それが無血革命の時代であり、宇宙的な永遠の平和を楽しむ時であるでしょう。その時を迎えるためには、すべてを捧げる事を知らなければなりません。
空白の場所は必ず埋められるものであるため、私達の一つの存在が自分の体を捧げるなら、その空白の場所には必ず他の何かが埋められるでしょう。今日まで、人類はこの事実を知らなかったのです。イエスも自分の体を捧げる事で、その空白の場所に十字架と救いの基準を設ける事ができました。
文鮮明先生の言葉選集 2 - 12. 神の正しい兵士になろう (1957年4月14日)
1957年4月14日(日)、前本部教会。
聖書拝読:テモテ2:1-13
<祈り>
東西の死の波が襲い、私達一人一人の生命の名前でこの死の波を止めなければならない最終的な責任が私達に残るとき、愛するお父様、私達自身が未熟で足りなく、不完全であることを認めることができるように許してください。
あわれみ深いお父様よ!私達の状況を考えず、むしろお父様のあわれみによって生きている私達の状況を許していただきたいと切に願います。
暗い死の地にとどまる私達、霊の力と恵みなしには、お父様に栄光を返すことはできないことを知っております。お父様、約束された恩寵をこの時許していただき、計画の全体の意志を示し、私達に示してください。
足りない私達、どのようにしてお父様の前に立つことができるでしょうか?どのようにして天に顔を上げることができるでしょうか?私達は何度死んでも十分な存在ですし、罪の枠に閉じ込められ、審判の苦しみを受けるべき人間です。そのため、私達はこの時、お父様のあわれみの愛を求め、お父様の恵みを求め、自分自身を裁きの心でひれ伏し、すべてをお父様に差し出し、間違いがあればすべてを清算していただき、許しを得てください。そして、お父様の心に従って、天に向かって大きな恵みを呼び求める私達に導いてください。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様!ここに集まったあなたの息子達、娘達をあわれんでください。他人でないこの道を見つけ出すために、心に悲しみが染み込んでいた記憶も持っています。心配と不安に取り憑かれた時もあることを知っています。お父様、この日この場所に座り、他人でない場所かもしれませんが、あなただけが認めることのできる恩寵が降りるように許してください。あなただけが私達を支え、慰め、導いていただけるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、この地に住む何千万もの人々がお父様の怒りを感じることができるように許してください。お父様の悲しみとため息を感じることができるようにしてください。そして、困難な状況にある多くの人々をあわれみの恵みで愛してください、父よ、切に願い求めます。
お父様、過去に私達は真理と主張する言葉を多く聞き、自分の行動が正しいと主張する人々も多く見てきました。しかし、それらによって天国が築かれたことは一度もありませんでした。今まで無駄な言葉だけを聞き、無駄な行動だけを見てきた私達をあわれんでください。そして、この夜の会合であなたの歴史が現れるように許してください。困難な私達の体をよみがえらせ、あなたが命じ、望む意志に向かって走る私達になれるように、無限の恩寵が今日、この場に集まった私達に現れるように許してください、父よ、切に願い求めます。
無知無識の人々の中で天国の悲しみを通じて通じる者がいると言うならば、父よ、たとえ彼が何千万回も悲しみと困難に直面しようとも、彼は確かに勝利するでしょう。ここに集まったあなたの息子達、娘達が、心と体であなたの悲しみを感じさせて、地上で心配するあなたの心情を感じさせて、子供の役割を果たすことができるように、どうか許してください。切に願い求めます。
お父様、この一週間、傷ついた体と心のまま、私達はお父様の前に立っています。悪魔によってもたらされた罪の痕跡を消してください。私達の友達はここに集まった家族だけであり、私達の唯一の頼みの綱も私達だけです。地上で友達を持たずに孤独な私達を、この時間においてあなたの愛に包み込み、慰め、導いてください。どうか許し、励まし、隠れていた愛の恵みを豊かに分かち与えてください、愛のお父様、切に願い求めます。
この日は聖なる日ですので、多くの祭壇で民族を代表して祝福をください。あなたの愛を失った多くの教団の子供達の中でも、あなたの愛を取り戻すことのできる子供達がすぐに現れるように許してください、お父様、切に願い求めます。
お父様、この民族は無知で破滅の危機にさらされないようにしてください。自己を爆発させ、悪の拠点を排除し、お父様の慈悲と愛だけを憧れることができる恩寵を、この民族の上に現してください、お父様、切に願い求めます。
私達はこの時間、あなたの前にひれ伏していますが、お父様に差し上げる贈り物はありません。お父様、どうか許してください。生きるための肉の欲望以外には何もありませんが、この時間に悔い改めの心だけを持つことを許してください、お父様、切に願い求めます。集まった全体の心と体が、お父様が分け与えてくださる意志と愛の恵みに捉えられるように許してください、切にお願いいたします。
主の御名によってお祈りします。アーメン。
1957年4月14日(日)、前本部教会。
聖書拝読:テモテ2:1-13
<祈り>
東西の死の波が襲い、私達一人一人の生命の名前でこの死の波を止めなければならない最終的な責任が私達に残るとき、愛するお父様、私達自身が未熟で足りなく、不完全であることを認めることができるように許してください。
あわれみ深いお父様よ!私達の状況を考えず、むしろお父様のあわれみによって生きている私達の状況を許していただきたいと切に願います。
暗い死の地にとどまる私達、霊の力と恵みなしには、お父様に栄光を返すことはできないことを知っております。お父様、約束された恩寵をこの時許していただき、計画の全体の意志を示し、私達に示してください。
足りない私達、どのようにしてお父様の前に立つことができるでしょうか?どのようにして天に顔を上げることができるでしょうか?私達は何度死んでも十分な存在ですし、罪の枠に閉じ込められ、審判の苦しみを受けるべき人間です。そのため、私達はこの時、お父様のあわれみの愛を求め、お父様の恵みを求め、自分自身を裁きの心でひれ伏し、すべてをお父様に差し出し、間違いがあればすべてを清算していただき、許しを得てください。そして、お父様の心に従って、天に向かって大きな恵みを呼び求める私達に導いてください。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様!ここに集まったあなたの息子達、娘達をあわれんでください。他人でないこの道を見つけ出すために、心に悲しみが染み込んでいた記憶も持っています。心配と不安に取り憑かれた時もあることを知っています。お父様、この日この場所に座り、他人でない場所かもしれませんが、あなただけが認めることのできる恩寵が降りるように許してください。あなただけが私達を支え、慰め、導いていただけるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、この地に住む何千万もの人々がお父様の怒りを感じることができるように許してください。お父様の悲しみとため息を感じることができるようにしてください。そして、困難な状況にある多くの人々をあわれみの恵みで愛してください、父よ、切に願い求めます。
お父様、過去に私達は真理と主張する言葉を多く聞き、自分の行動が正しいと主張する人々も多く見てきました。しかし、それらによって天国が築かれたことは一度もありませんでした。今まで無駄な言葉だけを聞き、無駄な行動だけを見てきた私達をあわれんでください。そして、この夜の会合であなたの歴史が現れるように許してください。困難な私達の体をよみがえらせ、あなたが命じ、望む意志に向かって走る私達になれるように、無限の恩寵が今日、この場に集まった私達に現れるように許してください、父よ、切に願い求めます。
無知無識の人々の中で天国の悲しみを通じて通じる者がいると言うならば、父よ、たとえ彼が何千万回も悲しみと困難に直面しようとも、彼は確かに勝利するでしょう。ここに集まったあなたの息子達、娘達が、心と体であなたの悲しみを感じさせて、地上で心配するあなたの心情を感じさせて、子供の役割を果たすことができるように、どうか許してください。切に願い求めます。
お父様、この一週間、傷ついた体と心のまま、私達はお父様の前に立っています。悪魔によってもたらされた罪の痕跡を消してください。私達の友達はここに集まった家族だけであり、私達の唯一の頼みの綱も私達だけです。地上で友達を持たずに孤独な私達を、この時間においてあなたの愛に包み込み、慰め、導いてください。どうか許し、励まし、隠れていた愛の恵みを豊かに分かち与えてください、愛のお父様、切に願い求めます。
この日は聖なる日ですので、多くの祭壇で民族を代表して祝福をください。あなたの愛を失った多くの教団の子供達の中でも、あなたの愛を取り戻すことのできる子供達がすぐに現れるように許してください、お父様、切に願い求めます。
お父様、この民族は無知で破滅の危機にさらされないようにしてください。自己を爆発させ、悪の拠点を排除し、お父様の慈悲と愛だけを憧れることができる恩寵を、この民族の上に現してください、お父様、切に願い求めます。
私達はこの時間、あなたの前にひれ伏していますが、お父様に差し上げる贈り物はありません。お父様、どうか許してください。生きるための肉の欲望以外には何もありませんが、この時間に悔い改めの心だけを持つことを許してください、お父様、切に願い求めます。集まった全体の心と体が、お父様が分け与えてくださる意志と愛の恵みに捉えられるように許してください、切にお願いいたします。
主の御名によってお祈りします。アーメン。
<御言葉>
この短いメッセージのタイトルは「神の軍隊になろう」というものです。今、「神の軍隊になろう」というタイトルでお話しいたします。
神は人類のために、歴史の過程を通じて、私達が考えもしない内的な戦いと外的な戦いを繰り広げてきました。つまり、見えない世界ではサタンと戦い、見える世界では善と悪の人々と戦っておられます。
今、私達が天に向かって神の意志を探りながら、神の内面的な計画を理解する責任を負っているのであれば、私達は神の内外の闘いの歴史を神に代わって受け入れなければならないでしょう。そうでなければ、この包括的な闘いは神が望むように人間を通じて勝利に導かれないことを皆さんは理解すべきです。
私達が神の意志を代わりに戦う天の軍隊になるために、どのようにすべきでしょうか?最初に、神の望みを中心に据えた考え方で一致しなければなりません。
神様は6千年間にわたり、その目的を達成するために何をしているのでしょうか?それは、罪悪の世界で生きている私達を、神の栄光の座にまで上げるためです。神はその計画を実現するために、多くの預言者と聖徒を犠牲にしながら、自ら思い悩み、計画を進めておられることを、皆さんは骨身にしみるほど感じなければなりません。そうしなければ、私達は神の計画を理解できないでしょう。
では、神様が望まれる希望の中心、神様が人間に探していただきたい総合的な計画の中心は何でしょうか?それは、万民を高い位置に置くことです。このために神様は今まで努力し、進展されてきました。
罪悪に陥り、サタンの誘惑にとりこになった弱い人間を救うために、神様はご自身の苦難を忘れ、長い歴史の中で尽力されています。神様の希望は、私達人間が神様の実在として神様の性質を持ち、すべてのものを支配しようとする神様の意志を受け継ぐ真の一人を見つけて立てることです。私達はこのような神様の心情を体験しなければなりません。
神様の意志を受け継ぐ真の一人を見つけて立てることは、神様の望む計画の中心として、すべての人が最終的にこの中心を完成させるために歩んでいくものです。この総合的な計画が私達に残っています。したがって、私達は一生涯にわたって、この神様の意志に感謝し、その意志に対する忠誠心を変わらず持つべきです。
世界でも、誰かが友達の成功のために、または友達を栄光の地位に立てるために、生命をかけて困難を耐え忍び、努力する場合、その友達はその人を一生の恩人と考え、その人に対する感謝の気持ちを忘れないことでしょう。
神様は、私達人間が身の程知らずな存在であるにもかかわらず、人間に栄光の栄光をもたらすために、人間達が自分に代わって内的な闘いをした結果、または知らず知らずのうちに努力をし、苦労をし、歴史の過程を通じて尽力してこられました。このことを、皆さんは心身にしみるほど感じなければなりません。
したがって、神の内面的な戦いが、あなた自身の内面的な戦いと一致し、神の外部的な戦いが、あなた自身の外部的な戦いと一致する中心が、あなたに結びついている必要があります。そうでなければ、神の戦士にはなれないことを覚えておかなければなりません。
私達はこのように宇宙的な戦いをしている神の前で、無礼な行為を繰り返してきました。今日、あなたはあなた自身のためにはどんな犠牲でも払えるはずです。しかし、このような宇宙の存在や人間、または霊的な領域にいる多くの霊的存在のためにどれだけ犠牲を払ったでしょうかを反省すると、私達は自分達の不足を痛感せざるを得ないでしょう。したがって、私達が敵対的な運命を共有しているなら、内面的にも外面的にも、すべての存在とすべての人のために自己を犠牲にできる心情を持つべきです。
神様は、このような無知な人々のために地上で中心的存在としてお遣わしになった方が誰であったかを知るべきです。それはまさしくイエス・キリストでした。
神の内面的な計画を代表し、立ち上がったイエス・キリスト、彼の希望の中心、彼の生涯の中心は、ただ神だけを中心にしたものでした。言い換えれば、イエス・キリストは神様が多くの苦労をし、忍耐をされたその忍耐の心情を見習い、あなたの栄光のためには働かない神様のその公的内容を見習い、また戦いたくない神様の原則的内容を見習い、すべての存在とすべての人の前で神を代わりに愛し、天国の権威を持つことができ、現れることを願ったのです。
それだけでなく、イエス・キリストは自分自身が感じる喜びや自分の持つ希望、自分の受け取る栄光が自身だけのものになることを望まなかったのです。イエス・キリストは自分の希望と栄光がすべての堕落した人々に実現し、現れることを願い、その目標の達成のために30年以上も努力されたことを皆さんは理解すべきです。
したがって、私達は天国の建設のための戦いを担当し、現れたイエス・キリスト、天上の中心に来た新しいイエス・キリストの姿を見習い、イエス・キリストが持つ思想のすべてを私達の思想として受け入れなければなりません。
もし私達がイエス・キリストの愛を見習い、永遠に向かって前進しないのであれば、神が望む希望が私達に結びつかなくなるでしょう。この事実を皆さんは心に留めておかなければなりません。
このような天の戦士としての戦いの道を通って、歴史の終わりに達することが私達の運命の道だと言えるなら、私達はこの運命の道を歩みながら、さまざまな悪条件に直面しなければなりません。また、見えない多くのサタンの陰謀があるでしょうし、地上では多くの人々の反対に直面することになるでしょう。
しかし、これらの戦いの中で、私達が神が許される自律性を備えて責任を果たす選民であるなら、私達は外部的には思想的な統一性を備えるだけでなく、実際の生活の中でも、神が耐え、イエス・キリストが耐えたようにどんな試練にも耐え、克服する人々にならなければなりません。
一時間の喜びで私達の体を包む不安を乗り越え、魂が喜びで満たされる希望を持つべきです。一日の運命としてだけでなく、一時間の運命でも永遠に守っていくべきです。私達は神とイエス・キリストとの不変のつながりと同じ期待を持つことによって、不変の中心を不変の目標として持つべきです。それを実現するには、不変の忍耐心を持つことが重要です。
今、私達の前には困難な試練が残っており、これらの試練は避けられないものになりました。イエス・キリストがこの地に来て、30年以上もの間、自分自身を捧げてこの試練を克服するために、死すら厭わず証言し、立証しようとし、それを成し遂げるために自己犠牲を払ったことを私達は見習わなければなりません。
さらに、神は私達の一つの存在を見つけるために6000年もの長い年月をかけて、多くの苦難に立ち向かい、多くの悲しみを経験し、愛する独生子まで十字架にかけても敵との闘いを止めず、計画を遂行し続けられたその神の忍耐を見習わなければなりません。
また、イエス・キリストも、神が内外の苦難に耐えて出ていらっしゃった御旨を受け入れ、無限の困難に対する忍耐の主人公としての資格を備えていたため、十字架に向かう決意をし、その道を切り開いて進むことができたことを理解すべきです。
もし、イエス・キリストが十字架にかかり、その苦難に負けて卑屈で臆病な人になったなら、イエス・キリストの十字架の使命は私達に永遠の命の道を示すことはできなかったことを理解すべきです。
イエス・キリストは、神の全体的な計画を引き受け、4千年の歴史を代表し、天の戦士としての役割を知っており、自分の命を犠牲にし、死を越える難局があっても、すべての苦難を耐え抜ける個性の持ち主でした。
イエス・キリストが苦難に遭ったのは、神が意図的に彼に襲いかかった結果ではありませんでした。イエス・キリストは、神がご自身のために4,000年間努力し、忍耐し続けられたその気持ちを十分に理解していたため、生命を失うことや死の難局が迫っても、それを避けようとしなかったのです。
そうしたイエス・キリストを模篆(もはく)して、天の戦士としての使命を担う私達も、数多くの困難が押し寄せても、それを回避せずに耐え、克服できる人々にならなければなりません。今後、私達には多くの闘いを戦わねばならず、国家的な闘いもあるでしょう。
さらに、天の戦士としての使命もあるでしょう。これらの闘いに立ち向かう態度は、どんな困難な戦いが待ち受けていようとも、その戦いを私達に任せる神の心情を理解し、耐え抜き、克服する忍耐力を持つことです。そうでなければ、私達は歴史の戦いを通じて勝利する神の協力者としての資格を持つことはできません。これを念頭に置かなければなりません。
今日、皆さんはイエス・キリストを信じている自分達を徹底的に分析し、検討し、宇宙に残された困難の責任をイエス・キリストと同じように果たせる人間になっているかを反省しなければなりません。神の御心に従わなかった結果、多くの人々に苦難の使命を負わせることになったイエス・キリストは、自分の時代における宇宙的な苦難を克服するために自己を犠牲にしました。そして、苦難を後続の聖徒達に受け渡すことを防ぐために、自分でその苦難を引き受けたのです。
終末に臨む今、宇宙的な苦難と闘いが進行中であるとしても、歴史を担当し、後代の運命まで担当したイエス・キリストが自己の時代の宇宙的な苦難を苦しい闘いの末に克服したように、皆さん自身も宇宙的な苦難を担当し、すべての条件をクリアし、サタンが非難できるすべての問題を解決するという信念を持って戦わなければならないでしょう。そうできない場合、神の使命を果たす者として、栄光の勝者として、神の前に立つことはできないことを理解すべきです。
そして、私達は宇宙的な戦いに忍耐を持ちながら立ち向かうことができると同時に、自己を捨てることのできる人々であるべきです。今こそ、非常に忍耐が必要な時期です。自己を中心に置いた固執や主張は許されません。もし私達が持つべき主張があるのであれば、それは神の御心を実現するための主張であるべきです。
したがって、私達は天の軍団として立つためには、自己を捨てることを学ぶべきです。イエス・キリストはこの地に降りてきたとき、神から栄光を享受する権利を持っていました。また、人間として感じるあらゆる感情を抱き、栄光を求める感情も持っていました。しかし、神の御心が実現される前には、神が祝福される前には、そしてこの地上のすべての人々が祝福される前に、イエス・キリストは栄光を享受できませんでした。
そのため、私達は、天の軍団として永遠の勝利の土台を築くためには、自己を捨てることを学ぶべきです。イエス・キリストは自己のためではなく、神の前に立ってすべての人を祝福し、すべての人が幸せになる日を迎えるために来られました。彼はそのために自己を犠牲にし、生涯を捧げたのです。
最後の戦いで勝つために、イエス・キリストが自己を犠牲にし、公正のために戦ってきたように、私達も個人的なものを捨て、神が喜ぶ法を確立することで、神に受け入れられる供え物になる必要があります。そうでなければ、イエス・キリストの願いを受け継ぐ勝者として地上に立つ資格を持たないことを理解する必要があります。
神は今日まで内的にサタンと戦い、外的には悪人と戦っていますが、それは無礼な戦いではなく、法に違反する戦いではありません。言い換えれば、神は天理法に背いて戦わないのです。同様に、イエス・キリストも天理法に背いた戦いはしませんでした。
したがって、終末に宇宙的な戦いを戦う際にも、天の法律を知っていることが重要です。この法律を中心に戦える人々となる必要があります。
あなたはおそらく知らないかもしれませんが、サタンも同様に無礼な法律を立てて、天理から逸脱した戦いはできないのです。したがって、回心の条件を設けてサタンと戦う際、人間が神の意志から逸脱すれば、サタンは非難することになります。それはイエス・キリストにも例外はありません。法律から逸脱した場合、サタンが非難するということです。
回心の戦いを通じて進む皆さんにとって、天の法律を確実に理解しなければ、神とイエス・キリストに代わる正兵として勝利の栄光を迎えることはできません。イエス・キリストの没後の2000年のキリスト教の歴史がこれを証明しています。
イエス・キリストと聖霊は、神の内なる計画に従って、天の法の条件を設定し、霊的にサタンと戦っています。しかし、地上の人々の中には、このサタンとの戦いで天の法に従って立ち向かい、神に認められる勇者がいないのです。つまり、この戦いにおいて、天を代表し、イエスを代表して天の法に従って戦う唯一の人物はいないため、イエス・キリストは嘆いているのです。
イエス・キリストが神の内面で何が起こっているのを理解できたのは、神がサタンとの戦いを40年間委ねられたためです。この戦いをイエスと聖霊が他の誰よりも深く理解しているからです。
したがって、イエスが霊的な戦いに取り組んでいる間、肉体的な外部の戦いは地上の聖徒達に委ねられています。したがって、この戦いを担当する私達は、イエスと神がサタンに対して天の法に従って勝利の条件を設定できるように、天の法に従って戦うための勝利の盾を持つ必要があります。
そうでなければ、神と人々はサタンとの戦いで永遠の勝利を収めることができません。また、あなた自身も約6千年間、見えない世界で神の法に立ち向かい、サタンの力に対抗する方法がないことを理解する必要があります。私達がこのサタンを阻止できない場合、地上のサタンとの戦いで最終的に敗北することを理解しなければなりません。
したがって、私達は神がサタンに立ち向かうために用いられ、イエス・キリストと聖霊がサタンに対して戦った天の法の条件を見つけて、それに従ってサタンと戦う基準を持たなければなりません。そうすることで、私達はついにイエス・キリストが耐え続けた気持ちを理解し、イエス・キリストの公的な生涯を体験することができるでしょう。しかし、サタンとの戦いにおいて天の法に従って戦える者にならない限り、まず神は私達を認めないでしょうし、さらにサタンから認められることはありません。
私達人間は、サタンが自身の敗北を認める日を地上にもたらし、この戦いを終結させなければ、6千年にわたる外部と内部の闘争が完全に解決されないことを理解しなければなりません。
私達が天の国を代表して立ち上がるための神の戦士であるならば、そのために必要な武器があります。この武器は暴力を行使する力や権限ではなく、神が人間を彼ら自身と同じ栄光の地位に上げて与える言葉です。ですから、あなたはこの言葉の武器を持ち、その言葉を取り込むべきです。そして、変わらない信仰をもってサタンすら認めることのできる勝利的な個性を持つべきです。これらのことを持っていない場合、私達が宇宙的な戦いを担当する神の戦士になることはできません。
さて、この戦いに立ち向かう皆さんは自己を省みて考えるべきです。それは、皆さん自身が6千年にわたる歴史を代表し、すべての困難を克服する資格があるかどうかです。また、皆さんはあらゆる自己中心性を捨て、神の義の法を立てて、義ではなければ行動しない者としてサタンに立ち向かえるかどうかです。
皆さんは、天を代表して戦って勝利する条件として、天の法的基準を持たねばなりません。これによって、自己を誇示しませんでしたが、見えない世界のサタンが最初に自分の勝利を証明できる神の子供となり、皆さんの対抗者である悪人達が逆に皆さんを神の子供として証明できるようにならなければなりません。それらの人々がなることで、長い戦いの経歴から抜け出し、神の栄光にふさわしい資格を持つことができることを皆さんは理解しなければなりません。
私達は神から召命を受けたとしても、神が私達一つ一つを召命したのではありません。それは宇宙的な人格を持つ者になることを望み、私達を召命したのです。そのような姿を持つ人間を見つけるために、神は6千年にわたって歴史し、統制してきました。
今日、これらの神の計画を理解したならば、皆さんはサタンとの宇宙的な戦いで前線に立つ人格を持たなければなりません。
そのような人格を持った後、皆さんは実生活で家族を天国の家族の位置に立て、さらに国民を意義の前に立て、さらには世界人類と千千万万の聖徒達を代表して出現できる姿として立つべきです。そのような天律の不変の法則を持って、天国建設のために働かなければならない責任が皆さんにはあります。
特に集まった皆さんは、神とイエス・キリストに代わる責任を負っています。この責任は何でしょうか?この世界には数多くの生命が存在し、その中でサタンの束縛から解放されずに苦しんでいる人々がいます。皆さんの責任は、神が望むように、これらの人々をサタンの束縛から解放し、永遠の神の子供にすることです。したがって、皆さんは身体と心を捧げて、これらの苦しむ人々を解放し、神の栄光の場所に昇華させるために戦わなければならない責任を持っていると確信し、一時間ごとに父の前に差し出す子供にならなければなりません。
一方、すべての被造物も、これまでの6千年間の闘いの歴史が終わり、神の栄光を受けた真の子供達が現れるのを待っています。皆さんはこれらの被造物の心情を感じなければなりません。そして、皆さんが神の栄光を達成するとき、その栄光の場所にすべての被造物も参加するべきです。
さらに、皆さんは霊的な世界にいる多くの霊的存在がため息と悲しみの中にいることを感じ、皆さんが勝利の基準を確立することで、彼らも勝利の基準を確立できるようにする恩恵を受ける必要があります。皆さんが永遠の勝利の基準を確立するまで、彼らの責任を担えるべきです。
皆さんは、このような責任を果たす神の子供にならなければなりません。皆さんが責任を負う前に、このような責任を負った方が神であり、この闘いを展開している方がイエス・キリストです。したがって、召命を受けた私達全員が、彼らに似るためにこの仕事に取り組み、神の子供としてこの宇宙的な責任を担い、この闘いで勝利するためにできる限りの努力をしなければならず、天の軍人としてこの宇宙的な責任を遂行できることを自覚しなければなりません。
この責任を果たすために、皆さんは無限の忍耐が必要です。 「たとえイエス・キリストが耐えないとしても、神様が耐えないとしても、私は耐え続けるでしょう」 という覚悟を持つべきです。
神様とイエス様が公正な律法を確立するために戦っているように、私達も一切の体面やプライドを軽視し、ただ天の律法を確立する責任感を持って立つことができる天の兵士としての責任を持つべきです。このような天の兵士が多く現れない場合、サタンを打ち倒すことはできないことを認識しなければなりません。
今日、この使命のために神様から選ばれた人々がすぐそこにいます。したがって、私達はサタンによって苦しむ多くの人々を神様の前に立てるために、耐え忍ぶ道でも死ぬ道でも何の条件にも恐れをなさず、ただ天からの命令に従順に立ち上がる真の兵士であるべきです。私達がこのような天の兵士とならない限り、私達は選ばれし者としての責務を果たすことができず、この地を永遠の勝利の地として回復することはできないでしょう。
私達が天の兵士として勝利することによって、神様は永遠に喜び、イエスと聖霊も永遠に喜び、私達も喜ぶことができる平和の時代がこの地に訪れることを覚えておかなければなりません。
<祈り>
神様、あなたは善悪の司令官であり、唯一無二の私達の最高司令官であることを感じさせてください。6千年間にわたって変わることなく闘い抜いてこられた父様のか達を似せ、またイエス・キリストの情熱の歴史を見習い、あなたの体面を確立できるような私達の聖徒となることを許してください。
本日、戦いの過程に留まっている私達は、自分を中心に置いた神様になってもらうことを望み、自分を中心に置いたイエスと聖霊になるように祈ります。愚かな者としてのままでいないように目を覚まさせてください。
私達は天の戦いを代表し、その戦いで勝利できる天の兵士として現れなければならないことを理解しています。どの民族を中心にする兵士やどの世界を中心にする兵士としてではなく、永遠の天国の理想、変わらない愛、天の御心のために不変の悔い改めを守る天の兵士として許してください、父様、切に願います。
6千年にわたって耐え忍んでこられた父様が私達に命令を下すとき、私達があなたの心を理解できる価値のある人格者にならない限り、あなたが私達に命令を下すことはできないことを、私達はこの瞬間に知るべきです。
2千年間苦労されたイエス・キリストも、真実であり、公義であり、律法に背かない、天を代表できる不変の姿を持たない資格者ではなければ、直接命じられなかったことを、私達は知るべきです。
今、私達に残された宇宙的な願いがあるなら、それは私達が宇宙全体の責任を担う兵士になって、すべての被造物を解放し、人々を幸せにすることを知らせ、神の命令を受けて責任を果たし、その使命感に熱中できるようにしていただき、父様、切に願います。
私達は天の意志をこの地上に建てるために、天の律法を知り、宇宙の戦いの律法を理解し、変わらず中心となって、永遠の神の理想と栄光がすべての被造物に現れるまで、変わらず休むことなく、ただ闘うことしか知らない子供達になるように、お願いします、父様、切に願います。
すべてを超越し、父様の喜びと栄光のためにだけ死の道であろうともためらわずに進む天の兵士として導いていただくため、主の御名によってお祈りします。アーメン。
この短いメッセージのタイトルは「神の軍隊になろう」というものです。今、「神の軍隊になろう」というタイトルでお話しいたします。
神は人類のために、歴史の過程を通じて、私達が考えもしない内的な戦いと外的な戦いを繰り広げてきました。つまり、見えない世界ではサタンと戦い、見える世界では善と悪の人々と戦っておられます。
今、私達が天に向かって神の意志を探りながら、神の内面的な計画を理解する責任を負っているのであれば、私達は神の内外の闘いの歴史を神に代わって受け入れなければならないでしょう。そうでなければ、この包括的な闘いは神が望むように人間を通じて勝利に導かれないことを皆さんは理解すべきです。
私達が神の意志を代わりに戦う天の軍隊になるために、どのようにすべきでしょうか?最初に、神の望みを中心に据えた考え方で一致しなければなりません。
神様は6千年間にわたり、その目的を達成するために何をしているのでしょうか?それは、罪悪の世界で生きている私達を、神の栄光の座にまで上げるためです。神はその計画を実現するために、多くの預言者と聖徒を犠牲にしながら、自ら思い悩み、計画を進めておられることを、皆さんは骨身にしみるほど感じなければなりません。そうしなければ、私達は神の計画を理解できないでしょう。
では、神様が望まれる希望の中心、神様が人間に探していただきたい総合的な計画の中心は何でしょうか?それは、万民を高い位置に置くことです。このために神様は今まで努力し、進展されてきました。
罪悪に陥り、サタンの誘惑にとりこになった弱い人間を救うために、神様はご自身の苦難を忘れ、長い歴史の中で尽力されています。神様の希望は、私達人間が神様の実在として神様の性質を持ち、すべてのものを支配しようとする神様の意志を受け継ぐ真の一人を見つけて立てることです。私達はこのような神様の心情を体験しなければなりません。
神様の意志を受け継ぐ真の一人を見つけて立てることは、神様の望む計画の中心として、すべての人が最終的にこの中心を完成させるために歩んでいくものです。この総合的な計画が私達に残っています。したがって、私達は一生涯にわたって、この神様の意志に感謝し、その意志に対する忠誠心を変わらず持つべきです。
世界でも、誰かが友達の成功のために、または友達を栄光の地位に立てるために、生命をかけて困難を耐え忍び、努力する場合、その友達はその人を一生の恩人と考え、その人に対する感謝の気持ちを忘れないことでしょう。
神様は、私達人間が身の程知らずな存在であるにもかかわらず、人間に栄光の栄光をもたらすために、人間達が自分に代わって内的な闘いをした結果、または知らず知らずのうちに努力をし、苦労をし、歴史の過程を通じて尽力してこられました。このことを、皆さんは心身にしみるほど感じなければなりません。
したがって、神の内面的な戦いが、あなた自身の内面的な戦いと一致し、神の外部的な戦いが、あなた自身の外部的な戦いと一致する中心が、あなたに結びついている必要があります。そうでなければ、神の戦士にはなれないことを覚えておかなければなりません。
私達はこのように宇宙的な戦いをしている神の前で、無礼な行為を繰り返してきました。今日、あなたはあなた自身のためにはどんな犠牲でも払えるはずです。しかし、このような宇宙の存在や人間、または霊的な領域にいる多くの霊的存在のためにどれだけ犠牲を払ったでしょうかを反省すると、私達は自分達の不足を痛感せざるを得ないでしょう。したがって、私達が敵対的な運命を共有しているなら、内面的にも外面的にも、すべての存在とすべての人のために自己を犠牲にできる心情を持つべきです。
神様は、このような無知な人々のために地上で中心的存在としてお遣わしになった方が誰であったかを知るべきです。それはまさしくイエス・キリストでした。
神の内面的な計画を代表し、立ち上がったイエス・キリスト、彼の希望の中心、彼の生涯の中心は、ただ神だけを中心にしたものでした。言い換えれば、イエス・キリストは神様が多くの苦労をし、忍耐をされたその忍耐の心情を見習い、あなたの栄光のためには働かない神様のその公的内容を見習い、また戦いたくない神様の原則的内容を見習い、すべての存在とすべての人の前で神を代わりに愛し、天国の権威を持つことができ、現れることを願ったのです。
それだけでなく、イエス・キリストは自分自身が感じる喜びや自分の持つ希望、自分の受け取る栄光が自身だけのものになることを望まなかったのです。イエス・キリストは自分の希望と栄光がすべての堕落した人々に実現し、現れることを願い、その目標の達成のために30年以上も努力されたことを皆さんは理解すべきです。
したがって、私達は天国の建設のための戦いを担当し、現れたイエス・キリスト、天上の中心に来た新しいイエス・キリストの姿を見習い、イエス・キリストが持つ思想のすべてを私達の思想として受け入れなければなりません。
もし私達がイエス・キリストの愛を見習い、永遠に向かって前進しないのであれば、神が望む希望が私達に結びつかなくなるでしょう。この事実を皆さんは心に留めておかなければなりません。
このような天の戦士としての戦いの道を通って、歴史の終わりに達することが私達の運命の道だと言えるなら、私達はこの運命の道を歩みながら、さまざまな悪条件に直面しなければなりません。また、見えない多くのサタンの陰謀があるでしょうし、地上では多くの人々の反対に直面することになるでしょう。
しかし、これらの戦いの中で、私達が神が許される自律性を備えて責任を果たす選民であるなら、私達は外部的には思想的な統一性を備えるだけでなく、実際の生活の中でも、神が耐え、イエス・キリストが耐えたようにどんな試練にも耐え、克服する人々にならなければなりません。
一時間の喜びで私達の体を包む不安を乗り越え、魂が喜びで満たされる希望を持つべきです。一日の運命としてだけでなく、一時間の運命でも永遠に守っていくべきです。私達は神とイエス・キリストとの不変のつながりと同じ期待を持つことによって、不変の中心を不変の目標として持つべきです。それを実現するには、不変の忍耐心を持つことが重要です。
今、私達の前には困難な試練が残っており、これらの試練は避けられないものになりました。イエス・キリストがこの地に来て、30年以上もの間、自分自身を捧げてこの試練を克服するために、死すら厭わず証言し、立証しようとし、それを成し遂げるために自己犠牲を払ったことを私達は見習わなければなりません。
さらに、神は私達の一つの存在を見つけるために6000年もの長い年月をかけて、多くの苦難に立ち向かい、多くの悲しみを経験し、愛する独生子まで十字架にかけても敵との闘いを止めず、計画を遂行し続けられたその神の忍耐を見習わなければなりません。
また、イエス・キリストも、神が内外の苦難に耐えて出ていらっしゃった御旨を受け入れ、無限の困難に対する忍耐の主人公としての資格を備えていたため、十字架に向かう決意をし、その道を切り開いて進むことができたことを理解すべきです。
もし、イエス・キリストが十字架にかかり、その苦難に負けて卑屈で臆病な人になったなら、イエス・キリストの十字架の使命は私達に永遠の命の道を示すことはできなかったことを理解すべきです。
イエス・キリストは、神の全体的な計画を引き受け、4千年の歴史を代表し、天の戦士としての役割を知っており、自分の命を犠牲にし、死を越える難局があっても、すべての苦難を耐え抜ける個性の持ち主でした。
イエス・キリストが苦難に遭ったのは、神が意図的に彼に襲いかかった結果ではありませんでした。イエス・キリストは、神がご自身のために4,000年間努力し、忍耐し続けられたその気持ちを十分に理解していたため、生命を失うことや死の難局が迫っても、それを避けようとしなかったのです。
そうしたイエス・キリストを模篆(もはく)して、天の戦士としての使命を担う私達も、数多くの困難が押し寄せても、それを回避せずに耐え、克服できる人々にならなければなりません。今後、私達には多くの闘いを戦わねばならず、国家的な闘いもあるでしょう。
さらに、天の戦士としての使命もあるでしょう。これらの闘いに立ち向かう態度は、どんな困難な戦いが待ち受けていようとも、その戦いを私達に任せる神の心情を理解し、耐え抜き、克服する忍耐力を持つことです。そうでなければ、私達は歴史の戦いを通じて勝利する神の協力者としての資格を持つことはできません。これを念頭に置かなければなりません。
今日、皆さんはイエス・キリストを信じている自分達を徹底的に分析し、検討し、宇宙に残された困難の責任をイエス・キリストと同じように果たせる人間になっているかを反省しなければなりません。神の御心に従わなかった結果、多くの人々に苦難の使命を負わせることになったイエス・キリストは、自分の時代における宇宙的な苦難を克服するために自己を犠牲にしました。そして、苦難を後続の聖徒達に受け渡すことを防ぐために、自分でその苦難を引き受けたのです。
終末に臨む今、宇宙的な苦難と闘いが進行中であるとしても、歴史を担当し、後代の運命まで担当したイエス・キリストが自己の時代の宇宙的な苦難を苦しい闘いの末に克服したように、皆さん自身も宇宙的な苦難を担当し、すべての条件をクリアし、サタンが非難できるすべての問題を解決するという信念を持って戦わなければならないでしょう。そうできない場合、神の使命を果たす者として、栄光の勝者として、神の前に立つことはできないことを理解すべきです。
そして、私達は宇宙的な戦いに忍耐を持ちながら立ち向かうことができると同時に、自己を捨てることのできる人々であるべきです。今こそ、非常に忍耐が必要な時期です。自己を中心に置いた固執や主張は許されません。もし私達が持つべき主張があるのであれば、それは神の御心を実現するための主張であるべきです。
したがって、私達は天の軍団として立つためには、自己を捨てることを学ぶべきです。イエス・キリストはこの地に降りてきたとき、神から栄光を享受する権利を持っていました。また、人間として感じるあらゆる感情を抱き、栄光を求める感情も持っていました。しかし、神の御心が実現される前には、神が祝福される前には、そしてこの地上のすべての人々が祝福される前に、イエス・キリストは栄光を享受できませんでした。
そのため、私達は、天の軍団として永遠の勝利の土台を築くためには、自己を捨てることを学ぶべきです。イエス・キリストは自己のためではなく、神の前に立ってすべての人を祝福し、すべての人が幸せになる日を迎えるために来られました。彼はそのために自己を犠牲にし、生涯を捧げたのです。
最後の戦いで勝つために、イエス・キリストが自己を犠牲にし、公正のために戦ってきたように、私達も個人的なものを捨て、神が喜ぶ法を確立することで、神に受け入れられる供え物になる必要があります。そうでなければ、イエス・キリストの願いを受け継ぐ勝者として地上に立つ資格を持たないことを理解する必要があります。
神は今日まで内的にサタンと戦い、外的には悪人と戦っていますが、それは無礼な戦いではなく、法に違反する戦いではありません。言い換えれば、神は天理法に背いて戦わないのです。同様に、イエス・キリストも天理法に背いた戦いはしませんでした。
したがって、終末に宇宙的な戦いを戦う際にも、天の法律を知っていることが重要です。この法律を中心に戦える人々となる必要があります。
あなたはおそらく知らないかもしれませんが、サタンも同様に無礼な法律を立てて、天理から逸脱した戦いはできないのです。したがって、回心の条件を設けてサタンと戦う際、人間が神の意志から逸脱すれば、サタンは非難することになります。それはイエス・キリストにも例外はありません。法律から逸脱した場合、サタンが非難するということです。
回心の戦いを通じて進む皆さんにとって、天の法律を確実に理解しなければ、神とイエス・キリストに代わる正兵として勝利の栄光を迎えることはできません。イエス・キリストの没後の2000年のキリスト教の歴史がこれを証明しています。
イエス・キリストと聖霊は、神の内なる計画に従って、天の法の条件を設定し、霊的にサタンと戦っています。しかし、地上の人々の中には、このサタンとの戦いで天の法に従って立ち向かい、神に認められる勇者がいないのです。つまり、この戦いにおいて、天を代表し、イエスを代表して天の法に従って戦う唯一の人物はいないため、イエス・キリストは嘆いているのです。
イエス・キリストが神の内面で何が起こっているのを理解できたのは、神がサタンとの戦いを40年間委ねられたためです。この戦いをイエスと聖霊が他の誰よりも深く理解しているからです。
したがって、イエスが霊的な戦いに取り組んでいる間、肉体的な外部の戦いは地上の聖徒達に委ねられています。したがって、この戦いを担当する私達は、イエスと神がサタンに対して天の法に従って勝利の条件を設定できるように、天の法に従って戦うための勝利の盾を持つ必要があります。
そうでなければ、神と人々はサタンとの戦いで永遠の勝利を収めることができません。また、あなた自身も約6千年間、見えない世界で神の法に立ち向かい、サタンの力に対抗する方法がないことを理解する必要があります。私達がこのサタンを阻止できない場合、地上のサタンとの戦いで最終的に敗北することを理解しなければなりません。
したがって、私達は神がサタンに立ち向かうために用いられ、イエス・キリストと聖霊がサタンに対して戦った天の法の条件を見つけて、それに従ってサタンと戦う基準を持たなければなりません。そうすることで、私達はついにイエス・キリストが耐え続けた気持ちを理解し、イエス・キリストの公的な生涯を体験することができるでしょう。しかし、サタンとの戦いにおいて天の法に従って戦える者にならない限り、まず神は私達を認めないでしょうし、さらにサタンから認められることはありません。
私達人間は、サタンが自身の敗北を認める日を地上にもたらし、この戦いを終結させなければ、6千年にわたる外部と内部の闘争が完全に解決されないことを理解しなければなりません。
私達が天の国を代表して立ち上がるための神の戦士であるならば、そのために必要な武器があります。この武器は暴力を行使する力や権限ではなく、神が人間を彼ら自身と同じ栄光の地位に上げて与える言葉です。ですから、あなたはこの言葉の武器を持ち、その言葉を取り込むべきです。そして、変わらない信仰をもってサタンすら認めることのできる勝利的な個性を持つべきです。これらのことを持っていない場合、私達が宇宙的な戦いを担当する神の戦士になることはできません。
さて、この戦いに立ち向かう皆さんは自己を省みて考えるべきです。それは、皆さん自身が6千年にわたる歴史を代表し、すべての困難を克服する資格があるかどうかです。また、皆さんはあらゆる自己中心性を捨て、神の義の法を立てて、義ではなければ行動しない者としてサタンに立ち向かえるかどうかです。
皆さんは、天を代表して戦って勝利する条件として、天の法的基準を持たねばなりません。これによって、自己を誇示しませんでしたが、見えない世界のサタンが最初に自分の勝利を証明できる神の子供となり、皆さんの対抗者である悪人達が逆に皆さんを神の子供として証明できるようにならなければなりません。それらの人々がなることで、長い戦いの経歴から抜け出し、神の栄光にふさわしい資格を持つことができることを皆さんは理解しなければなりません。
私達は神から召命を受けたとしても、神が私達一つ一つを召命したのではありません。それは宇宙的な人格を持つ者になることを望み、私達を召命したのです。そのような姿を持つ人間を見つけるために、神は6千年にわたって歴史し、統制してきました。
今日、これらの神の計画を理解したならば、皆さんはサタンとの宇宙的な戦いで前線に立つ人格を持たなければなりません。
そのような人格を持った後、皆さんは実生活で家族を天国の家族の位置に立て、さらに国民を意義の前に立て、さらには世界人類と千千万万の聖徒達を代表して出現できる姿として立つべきです。そのような天律の不変の法則を持って、天国建設のために働かなければならない責任が皆さんにはあります。
特に集まった皆さんは、神とイエス・キリストに代わる責任を負っています。この責任は何でしょうか?この世界には数多くの生命が存在し、その中でサタンの束縛から解放されずに苦しんでいる人々がいます。皆さんの責任は、神が望むように、これらの人々をサタンの束縛から解放し、永遠の神の子供にすることです。したがって、皆さんは身体と心を捧げて、これらの苦しむ人々を解放し、神の栄光の場所に昇華させるために戦わなければならない責任を持っていると確信し、一時間ごとに父の前に差し出す子供にならなければなりません。
一方、すべての被造物も、これまでの6千年間の闘いの歴史が終わり、神の栄光を受けた真の子供達が現れるのを待っています。皆さんはこれらの被造物の心情を感じなければなりません。そして、皆さんが神の栄光を達成するとき、その栄光の場所にすべての被造物も参加するべきです。
さらに、皆さんは霊的な世界にいる多くの霊的存在がため息と悲しみの中にいることを感じ、皆さんが勝利の基準を確立することで、彼らも勝利の基準を確立できるようにする恩恵を受ける必要があります。皆さんが永遠の勝利の基準を確立するまで、彼らの責任を担えるべきです。
皆さんは、このような責任を果たす神の子供にならなければなりません。皆さんが責任を負う前に、このような責任を負った方が神であり、この闘いを展開している方がイエス・キリストです。したがって、召命を受けた私達全員が、彼らに似るためにこの仕事に取り組み、神の子供としてこの宇宙的な責任を担い、この闘いで勝利するためにできる限りの努力をしなければならず、天の軍人としてこの宇宙的な責任を遂行できることを自覚しなければなりません。
この責任を果たすために、皆さんは無限の忍耐が必要です。 「たとえイエス・キリストが耐えないとしても、神様が耐えないとしても、私は耐え続けるでしょう」 という覚悟を持つべきです。
神様とイエス様が公正な律法を確立するために戦っているように、私達も一切の体面やプライドを軽視し、ただ天の律法を確立する責任感を持って立つことができる天の兵士としての責任を持つべきです。このような天の兵士が多く現れない場合、サタンを打ち倒すことはできないことを認識しなければなりません。
今日、この使命のために神様から選ばれた人々がすぐそこにいます。したがって、私達はサタンによって苦しむ多くの人々を神様の前に立てるために、耐え忍ぶ道でも死ぬ道でも何の条件にも恐れをなさず、ただ天からの命令に従順に立ち上がる真の兵士であるべきです。私達がこのような天の兵士とならない限り、私達は選ばれし者としての責務を果たすことができず、この地を永遠の勝利の地として回復することはできないでしょう。
私達が天の兵士として勝利することによって、神様は永遠に喜び、イエスと聖霊も永遠に喜び、私達も喜ぶことができる平和の時代がこの地に訪れることを覚えておかなければなりません。
<祈り>
神様、あなたは善悪の司令官であり、唯一無二の私達の最高司令官であることを感じさせてください。6千年間にわたって変わることなく闘い抜いてこられた父様のか達を似せ、またイエス・キリストの情熱の歴史を見習い、あなたの体面を確立できるような私達の聖徒となることを許してください。
本日、戦いの過程に留まっている私達は、自分を中心に置いた神様になってもらうことを望み、自分を中心に置いたイエスと聖霊になるように祈ります。愚かな者としてのままでいないように目を覚まさせてください。
私達は天の戦いを代表し、その戦いで勝利できる天の兵士として現れなければならないことを理解しています。どの民族を中心にする兵士やどの世界を中心にする兵士としてではなく、永遠の天国の理想、変わらない愛、天の御心のために不変の悔い改めを守る天の兵士として許してください、父様、切に願います。
6千年にわたって耐え忍んでこられた父様が私達に命令を下すとき、私達があなたの心を理解できる価値のある人格者にならない限り、あなたが私達に命令を下すことはできないことを、私達はこの瞬間に知るべきです。
2千年間苦労されたイエス・キリストも、真実であり、公義であり、律法に背かない、天を代表できる不変の姿を持たない資格者ではなければ、直接命じられなかったことを、私達は知るべきです。
今、私達に残された宇宙的な願いがあるなら、それは私達が宇宙全体の責任を担う兵士になって、すべての被造物を解放し、人々を幸せにすることを知らせ、神の命令を受けて責任を果たし、その使命感に熱中できるようにしていただき、父様、切に願います。
私達は天の意志をこの地上に建てるために、天の律法を知り、宇宙の戦いの律法を理解し、変わらず中心となって、永遠の神の理想と栄光がすべての被造物に現れるまで、変わらず休むことなく、ただ闘うことしか知らない子供達になるように、お願いします、父様、切に願います。
すべてを超越し、父様の喜びと栄光のためにだけ死の道であろうともためらわずに進む天の兵士として導いていただくため、主の御名によってお祈りします。アーメン。