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還暦リタイアジジイの悠々自適な日々

城山とセリバオウレン

■ 2024年03月09日 城山とセリバオウレン

栃木県日光市板橋地区にある城山を訪れました。何気なく見ていたYouTubeで日光、城山、セリバオウレンの映像を見てヤマレコで検索したら、セリバオウレンが咲いていて周回で登れる山ということが分かったので早速出かけてみました。

上板板橋集落センターの駐車場に着くと満車状態、登山から帰ってきた人に声をかけると花はバッチリとのこと、その方の車が出たスペースに駐車して、登山道入口~城山~天狗岩~セリバオウレン群生地~下板橋側登山口~板橋トンネル~上板橋集落センターに至るルートを歩きました。

▼ ルートマップ

上板橋集落センター~城山登山道入り口~城山~天狗岩~セリバオウレン群生地~下板橋側城山登山道入口~板橋トンネル~上板橋集落センターに至る4.9Km

▼ 上板橋集落センター

▼ 上板橋集落センター前の道路を左手に進み、横断歩道の先が登山道入口

▼ 城山登山道入口

▼ 城山登山道入口にある案内板「板橋の史跡と城址歩道マップ」・・・板橋城は標高443.3m、山麓あkらの比高150mの城山山頂にある砦跡と山麓にある東西108m・南北107mの方形の館跡からなる山城。板橋の郷は栗山城と共に代々宇都宮氏一族が住持を務める日光山の遊城坊が治める寺領だった。戦国時代の1500年代半ば、宇都宮氏の対抗勢力となった壬生氏は小田原の北条氏に援助を請い、武蔵領板橋にいた北条氏の家臣板橋将監親棟を当地に派遣。親棟は当地にいた遊城坊を追い払い、山頂に山城を築きこの地に居住。やがてこの地で亡くなり。その供養塔が近くの常安寺跡にある。親棟がこの地に在城してから城の名を板橋城、この地を板橋と呼ぶようになった(案内板より抜粋)。

▼ 登山道の標識に従い、鉄塔手前を右手に進む

▼ 意外ときつい上りが続く

▼ 車を置いた上板橋集落センターとJR日光線の電車

▼ 鳥居

▼ 愛宕神社の石祠

▼ 羽黒神社の石祠

▼ 登山道

▼ 駒乗り番場への分岐・・・今回はパス!

▼ 山頂への最後の登り

▼ 山頂は広々

▼ 山頂からの眺望・・・高原山

▼ 山頂からの眺望・・・日光連山:男体山は雪雲の中

▼ 城山山頂・・・標高443.3m

▼ 板橋城跡の説明板・・・山頂に当たるこの地は、山麓の城主居館跡から比高役150mで石積みによって補強した三段の土塁で築かれた古城址。周囲には防御の足場である削平地や駒乗り馬場と呼ばれる平坦地を付属した戦国期の典型的な山城跡で中腹には水源もある。

永正年間(1504-1520)、日光山の遊城坊(宇都宮氏一族)によって築かれ、天文年間(1532-1555)には、元小田原北条氏の武将で壬生氏の配下となった板橋将監親棟が占拠、後に徳川氏一族の松平一成・成重親子が城主となったが、日光東照宮の創建に伴って廃城となった(説明板より抜粋)。

▼ 天狗岩へ

▼ 下板橋への分岐・・・ここから天狗岩を往復

▼ 天狗岩への下り

▼ 畳岩

▼ 天狗岩

▼ 天狗岩手前の岩・・・割れ目がある岩で、裏面の割れ目がくっきり!

▼ 下板橋分岐まで戻り、下板橋へ

▼ 下板橋へ・・・この先にセリバオウレン群生地がある

▼ セリバオウレン群生地

▼ 下板橋へ

▼ 下板橋側城山登山道入口

▼ 一般道を進む

▼ 板橋トンネル

▼ トンネル先にある「板橋農道竣工記念碑」

▼ 上板橋集落センター手前にある「板橋将監の塔」・・・戦国末の板橋城主、板橋将監親棟の供養塔。板橋氏は武蔵国(東京都)板橋領主の出で小田原北条氏の被官であったが、北条氏と鹿沼城主壬生氏との同盟関係によって、壬生氏を援助するためこの地に来た。板橋将監親棟は板橋城によってこの辺り一帯に勢力をふるったが、天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼすとともにその勢力を失った。親棟は城を去り、城館近くのこの地に常安寺を建て出家して常安入道と称した(説明板より抜粋)。


【参考】

1、YouTube:春を探して日光、城山へ


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コメント一覧

Aちゃん
板橋集落から 登った際に、 山あいに 石切り場の 跡が有りました。駐車場は 有りませんでしたので 車は 送迎してもらいました。
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