梅雨から初夏の頃、尊敬する友人から頂いた一冊の月刊誌「特集 鈴木大拙に学ぶ人間学」
さりげなく、勿体を付けず、刺激や教養、興味をいつもさらりと分け与えてくれる友人…言葉に出来ない感謝でいっぱい
時間を作っては、何度も拝読させて頂いている。
鈴木大拙…今年は生誕150年。お亡くなりになられてからは既に55年…私が幼少の頃だ。実際に鈴木大拙さんにお目にかかりたかった。けれど、今、巡り逢わせて頂けたこと、今、多くを学ばせて頂け、多くを反省させて頂けることに心から感謝。
それから、日本人であるのに、自分自身が漠然としか「禅」についても知らないことは、今さらながら赤裸々な告白だが、恥ずかしい。…が、鈴木大拙さんが残された言葉に助けられながら、少しでも学び生きていかねば、と励まして頂いている私がいる。
「われわれは皆、”生きることの芸術家〝として生まれて来ている。文学や芸術の外に、人間の生活そのものが、詩となる。文学に出る詩だけでなく、われら人間の一挙一動がことごとく詩になり、芸術的に美しいものとなる」
日常を丁寧に大切に生きることが、よりよい人生を送ることになる、と。
…私が特に惹きつけられた言葉は
「感状(賞状)を呉れたり、表彰して呉れたりするのは、それは向こうの人のすることで、自分のやった心持とは何等関係のないことである。いい事をしたといって上から褒められれば、それは上の人が褒めるのであって、自分の方から見れば褒められてもよし褒められぬでもよいことなのである。これを禅の方では、無功用の働きというのである。」
…見返りなどどうでも良い、そんなものを求めず自分のやるべきことに専念しなさい、と仰ってられる大拙先生の言葉に、もの凄く共感した。
著者『禅学入門』の中にある言葉、
「禅には宗派心がない。基督教徒といえども仏教徒と手を携えて、あたかも大魚と小魚とが大海にあって共に睦まじく棲んでいるように禅を行うことができるのである。禅は大海である、空気である、山である、雷と稲妻である。春の花、夏の熱、しかしてそれは冬の雪である。否、それ以上である。すなわち人である。」
95歳と長命でいらした鈴木大拙…90を超えてなお、インドに渡り研究や講義を行い、神奈川の自宅門までは130段もの階段を登り降りする日々、
「一歩一歩上がれば何でもないぞ。一歩一歩努力すれば、いつの間にか高いところでも上がっている」
難しい本は苦手だけれど、難しいことを飄々とした語り口で、上から目線などでは全くなく私達にわかりやすく寄り添って、親しみを持って、書いて下さっている鈴木大拙先生。
…まさに、稲穂は頭を垂らす、とはこのようなお方のこと。
暑かった夏から、実りの秋に。
自然の中で、肩の力を抜くことと、一生懸命に打ち込んで邁進することと。
心身健全に、バランスを取りながら、
時を積み重ねていこう
深まる秋、禅寺、永平寺にも
もう一度、ゆっくり、訪ねてみたい。