My Life

いつからか・・・喜びがなくなった。

人間のJW組織

2020年10月09日 | 日記
組織とは、
 人間が一人で出来る事は限界がある。その限界を飛躍的に拡大できるのが組織と言えます。
 聖書によれば
伝道4:12 そして,だれかが一人だけの人を打ち負かすことができるとしても,二人が一緒になれば,これに立ち向かうことができる。それに,三つよりの綱は素早く断ち切ることはできない。

 一人より二人そして三人と増えればより多くの事が成し遂げられると言う教訓です。
 その様な意味で組織は個人より多くの事を成し遂げる事が出来る。だから組織の存在意義は十分ある。
かつて日本は、軍国主義でした。その教育はお国のために命を捧げる事が正しく、それに賛同しない、または従わない者は非国民と呼ばれ忌避された。
国民は学校で国のために命を捧げる事がどれだけ名誉なことか、敵を殺すための思想をたたきこまれ多くの若者が志願して命を落としていった。それを栄誉ある日本を救う行動と信じていたからでした。
 JW組織もそれと同じではないかと思う。神の王国はすぐそこまで来ている。そして間もなくこの事物の体制は滅び地上に王国が設立されイエスが王となって地上を統治する。こうした思想をたたきこまれ聖書教育と言う名の基に信者を教育し宣教の業に志願するようになって行きました。その業は人々の命がかかっていましす。この命を救う業は神に喜ばれ祝福され永遠の命を得て楽園での生活の里程標でした。そして、この思想教育「聖書の理解」に疑問を持つ者は排斥され背教者と呼ばれる。このルールは組織から離れない為の罰則であり信者たちは罰を恐れ組織の言いなりになる。ようするに軍国主義もJWの組織絶対主義も同じ手法を取っていることになる。
 このように信者(国民)個人の思想や価値観を,物理的,社会的圧力を加えるなどの操作によって必ずしも本人の欲しない方向へ急速かつ大幅に改変させること。共産主義国家などで行われた強制的な思想改造が知られている。感覚遮断や賞罰の操作などの反復による学習の手法を洗脳と呼ぶ。

JW組織は何を成し遂げて来たか?
1.正しい部分、誤った部分があるものの聖書の理解を促進した。
2.大勢の人々を洗脳してきた。
3.誤ったJW独自のルールによって命を落としていった人々がいる。
4.大勢の生活困窮者が生まれた。
5.誤った予言を何度も修正し信者を混乱させてきた。
6.虐待を隠蔽してきた。貴重な寄付を賠償金にあてていた。
7.他にも沢山ある(ネット上の情報をお調べください。)

◎Jw組織は正しく機能しているか?
 統治体の都合の良い様に機能している。結局、ごく一部の人間によって組織全体を統制され、外部からの情報を遮断してきた。統治体の思惑通り機能していると言う点では正しく機能していたのだろうが、情報統制してきた歪のため衰退が始まっている。

◎神に是認されたJW組織か?
 統治体がそう言っているが何の証拠も提出できない。確かめることもできない。自然界には全て法則が存在する。その法則に従わなければ正しい結論を導き出せない。組織が衰退、消滅を繰り返して来たのは組織の法則(人間にはまだ解明できていない。)に従わないからだと思う。JW組織もやがて消滅すると思う。神が組織を是認することはない、組織の法則に従えば神が意図した方向へ導かれるのかもしれない。いいや、組織の法則ではなく神の法則と呼んだほうがいいかもしれない。

良心の危機を読んで

2020年09月26日 | 日記
私はJWの教えを受け入れた。何故受け入れたのか?
それは、
第一に神が存在する事を認識した。
第二に全ての人間には原罪がある。(イエスの贖いの必要性)
第三に神の目的を理解した。(人類の罪を取り去る、神の王国)
第四にJW組織は政治、商業、軍事の影響から離れている。
この四番目の理由で、この宗教組織は非常に健全な組織だと言う印象を受けました。

 しかし、実際に信仰の道に入るという事は単に神を信じるだけではなく、そこには多くの人間関係が構築されていくわけで、様々なトラブルが起こり嫌な経験をすることになる。(実際、私の経験も大勢のJWがネット上でつぶやいていることと変わりはない。)
 今回、読んだ『良心の危機』の筆者レイモンド・フランズ氏の述べているように、人間が神の組織を運営し、ごく少数の個人の考えや意見が組織の見解として外部へと流れていき、何百万人もの人々に組織の見解が浸透していくのである、フランズ氏も組織の中枢に居て大きな影響を及ぼす決定を見聞きしてその責任の重さを痛感し、かつ心を痛めていた事を赤裸々に語っていました。
 私が驚いたのは組織の中枢に居る少数の人間が重要な教理や組織の見解を決定するときに多数決を行っていた事だった。多数決は民主主義の基本であり神権組織の採用すべき方法ではないと思ったからでした。真の神権組織であれば聖書の原則にあてはめて満場一致で採択されるべきだと思う。つまり反対者が一人でもいれば反対する理由を検討し議論して反対者がいなくなり全員が納得するまで決定すべきではないと言う事だ。民主的に物事を採択していたら世の政治となんら変わらないことになる。
この事からしても、JW組織は、ただの人間の組織であり、神の導きなど微塵もないという事が明らかだと確信出来ました。
 また、フランズ氏は組織の採択に疑問を持ちつつ、明らかに間違っていると感じている調査も出来るだけ組織の見解に合わせる努力を続けて良心の痛みに耐えながら執筆委員の責務を果たしていました。やがて、彼はベテルを去り、その後、断絶した友人と1度だけ食卓を共にしたという理由で排斥になってしまいました。彼は上訴しましたが、その決定が覆ることはありませんでした。そしてフランズ氏の友人や知り合い達も組織の教理に個人的な意見を述べただけで排斥になってしまいました。組織に同調できない考えを持つ人たちは一気に排除されていきました。まるで魔女狩りのようです。
 教理面に関しても『1914年』、『この世代』、『輸血拒否』、『羊と山羊』など、これら代表的な教理決定の背後には霊の導きは無く統治体の独断と偏見による多数決という民主的な世の政府となんら変わりのない手法によって採択されてきました。そこには神の導きなど微塵も存在していない事は明らかです。要するに少数の人間たちの独自の聖書解釈によって教理が作られていった訳です。
 もちろん、導き出された数々の教理は時代と共に『新たなる光』と称していかにも霊感を受けた聖書の言葉と同等の意味を持たせて教理の変更を公然と行ってきました。過去の教理の間違いを反省することもなく、忠節心と言う言葉で信者たちを惑わし組織の見解が正しいものであるかのように圧力をかけていたのでした。
組織はものみの塔を通してこんな言葉を掲載しました。
塔96 3/15 15–20ページ
わたしたちにはエホバの組織に忠節を示す義務があります。「忠実で思慮深い奴隷」はその組織の一部であり,この奴隷を通してクリスチャン会衆は霊的に養われています。仮に,ものみの塔協会の出版物に載せられた事柄がその時点でよく理解できない,あるいは同意できないとしたらどうでしょう。わたしたちはどうするでしょうか。憤慨して組織を離れますか。何十年も前のことですが,「ものみの塔」誌が新しい契約を千年期に適用したとき,一部の人たちは組織を離れました。また,「ものみの塔」誌がかつて中立の問題に関して述べた事柄に憤慨した人たちもいます。そうした事柄につまずいた人たちは,もし組織と兄弟たちに対する忠節を保っていたなら,エホバがそれらの事柄を明快に説明してくださるまで待ったはずです。実際,エホバはご予定の時にそうされたのです。ですから,忠節ということには,より明確な理解が忠実で思慮深い奴隷によって公表されるまで辛抱強く待つことも含まれます
 組織の見解が理解できなかったとしても辛抱強く待つと勧めていますが、そうではなく、自ら調査して、納得できるまで調べることではないでしょうか?
待っているだけでは思考が停止してしまうだけです。

さらにこんな言葉も、ものみの塔に掲載されました。
塔13 11/15 p. 20 
エホバの組織から与えられる指示は,奇妙で異例なものに思えるかもしれない。しかし,わたしたちは皆,同意できるかどうかにかかわらず,どんな指示にもすぐに従うべきである。それらの指示に従うことは命を意味するからである
どんな奇妙な指示でもすぐに従うと勧めていますが、これでは命令に従うロボットと同じですね。そうではなくその指示の背後にある意味を理解できるように努力する必要がありますし、組織は信者達に対して指示の意味を理解できるように説明する努力をしなければなりません。

 私自身、過去の記事で分からない事は極力、組織の出版物で調べる事はしていましたが、組織外部の資料を調査することまではしませんでした。ですから、でうしても分からない場合はあきらめてました。当然ですが、組織の資料だけ調べても組織の都合の悪い物は見つけられません。

 ご存じのように、組織は外部の資料に極力接することのないように、組織外の見解が書かれたものは背教的な文書として信者から遠ざけようとしていました。今思えば、私もその指示に乗せられていたんですねえ。

 結局、問題なのは、JW組織の中枢である統治体が少数の正しい意見を飲み込んでしまう事です、先ほども述べましたが、少なくとも、神権組織であれば、そこから出される見解はきちっとした聖書的根拠があり、それを審議する関係者全員が多数決で決めるのではなく、満場一致で決定しなければならないと思います。
 それが出来ないのであれば、神権的な経路に、人間の組織は不必要なのかもしれません。所詮、人間組織には正しく人々を導くことは出来ないのですから、神と人間との関係が良好になれば、おのずと人間関係も円滑に平和になっていくように思います。そもそも聖書にある地上の人間組織(部族や王国)に関する記述は、うまく存続できた組織の例はまったく無く、滅んだり消滅した組織ばかりですよね。
次回、JWの組織の特徴を考えてみたいと思います。

再開します、ものみの塔 研究​記事​29

2020年09月22日 | 日記
自分のペースで時々つぶやく事を再開します。
つぶやきの基本内容はJW組織を痛烈に批判せずに出来るだけやんわりと記述するようにしたいと思っています。可能な限り自分の見解、意見、時には経験をおりまぜて記載します。

さて、9月20日の研究記事でちょっとした矛盾を感じた写真が気になりました。
「私が弱い時,私には力がある」
15節
兄弟は同僚の誕生日を祝わないかとしきりに誘われている。


本来、JWは誕生日を祝わない、それに準ずる行為も行なわないはずなのですが、写真に写っている人たちはJWのはずです。誕生日を祝う行為をしているのではないでしょうか?
JW組織の基準と矛盾していないでしょうか?


休みます。

2020年08月03日 | 日記
 ここ最近、記事のネタをため込ん来たのですが、モチベーションが下がりっぱなしで気力が湧いてきません。ネタの整理をしていたら全てがむなしく思えてきました。記事を書くことによって自分の正体が公にさらされることにも躊躇いがあり、自分が何をしたいのか目的も持てない状態です。考えや気持ちの整理をしたいと思います。
ちょと休眠します。

JW2世とJW1世を考える

2020年07月26日 | 日記
 幾人かの2世のブログに書かれた経験を拝見して、自分はどうだったのかと考えてみて、1世と2世の経験する主な事を個人的な観点で書いてみました。
まず、2世の場合、気が付いたら集会に行き、奉仕に連れて行かれてゆく事が日常生活の一部になっていて、自分が学んでいる宗教が正しいのか、間違っているのか、判断できる年齢になる前にどっぷりとJWの中に浸かった状況で成長して来た。
この様な前提があると思います。

●2世が経験する主な事
1.鞭の問題
私が研究生からバプテスマ後間もない頃、集会中にある子供がトイレに連れて行かれると中で子供の泣き叫ぶ声が聞こえることがあった。おそらく、鞭を受けていたのだろう。子供を持つ姉妹たちの会話の中で「ホースが一番良い」などと話していたこともあった。しつけと称して鞭で子供をたたくことが常態化していた。他人の家庭の事に干渉はするまいと思っていたのでただ見ているしかなかったが、やり過ぎではないかと思っていた。今なら児童虐待になることは間違いないですね。

2.いじめの問題
親から校歌を歌わない、格闘技をしない、クラスで投票しない、誕生日やクリスマス祝わない、七夕しない、節句しない、年賀状出さない、などなど多くの制約を課されて辛い学校生活を強いられていたため、出来ないことがクラスの中でいじめの要因となっていた。

3.親からの強制
集会は休まず行く、休みの日は必ず奉仕へ行くなど子供の意思は尊重されない。

4.バプテスマへの圧力
神権宣教学校へ入る、伝道者になる、バプテスマを受けると言うレールが敷かれているのでいつまでもバプテスマを先延ばししていると圧力をかけてくる。

5.大学進学
宣教活動が大学教育よりも優先され、高校を卒業したら開拓者になるのが当然と言雰囲気がある。高等教育は有害であると教えている。社会的視野が狭められる。

●1世としての自分は
 そもそも、研究を始めたきっかけは、聖書に何が書かれているのかほとんど知らないため、妻が何を信じようとしているのか知る必要があると思ったからでした。どうせ研究をすれば何かボロが見つかって妻を説得してやめればいいと思っていました。

0.研究生のころ
もともと宗教は金『寄付』を集めて信者を食い物にしているイメージが強く、教祖や幹部がが贅沢な暮らしをしてふんぞり返っている。と思っていたので大嫌いでした。
エホバの証人は寄付集めも、教祖も無いと聞かされ他の宗教組織とはちょっと違うと思い研究を始めました。研究を始めてみると『楽園の本』、『創造の本』は全体的によくまとめられて論理的に書かれていると思いました。ただ、ときどき誘導的な質問があったので違和感を感じることもあり、信仰のない時分には答えにくく思った箇所もありました。また、楽園を想定して書かれた挿絵も素直に想像できないなあーと感じていたのを覚えています。とにかく信仰を感じることが出来ず、ずいぶんと長く研究していました。
 今感じていることとして、JW組織が発行する文書は矛盾を感じさせないように本当に良く構成されていますが、外部の資料を引用す時も、本来絶対にやってはいけない引用先の執筆者の意図を無視して、正しく資料の意味が伝わらず協会の都合のいい意味にすり替えられている事実を知って、まさかこんな卑劣な方法で欺いていたとは酷いものだと思っています。

1.バプテスマの討議
バプテスマの討議は2回に分けて行われましたが、2回目の討議でこう言われました。『質問には自分の言葉で述べてください。』
それで私は、質問の後に、関連する聖句を読んでから自分の言葉で答えようと思いつつ、聖句を読み始めたら、いきなり怒り出して、『自分の言葉で述べてください。といいませんでしたか?』
どうやら、聖句は読まなくてよかったみたいなんですね。まあちょとした勘違いだったんですが、びっくりしましたね。
そんな簡単に切れないでほしいなあと思いましたね。未だにその時のことをよく覚えています。

2.会社
サラリーマンは飲み会はけっこうな頻度で行われていたのですが、どうでもいい飲み会には極力断るようにしていたのですが、立場上どうしても参加しなくてはならない、接待、打ち上げ、歓送迎会などに行く機会が数か月に1~2回ありました。
その時、必ず直面するのが乾杯でした。事前に乾杯はしないと伝えてあるものの乾杯するなとは言えませんから乾杯の行為はしないでその場にいるわけです。なんとも言えない気まずさがありましたね。
あと、年賀状、お歳暮、バレンタイン、クリスマスなど会社で話題に上がると、そっとその場を離れたものでした。それと、労働組合の選挙も白紙投票出したりしましたね。

3.音楽への見方
JWになって音楽の交わりを企画した時の事です、賛美の歌をキーボードとギターとボーカルで演奏するために少し編曲してポップス調にしたのですが、ベテルの兄弟から『協会の曲を変えてはならない』と、注意されました、理由は誰かをつまずかせるかもしれない事と協会が提供している楽曲に手を加えてはいけない。と言う理由でした。一つ目の理由は、まあ何となく理解できるのですが、二番目の理由はどうなのかなあーと思いました。音楽は色んなバリエーションがあっていいと思うのですが、どうも頭が堅い人たちだなあーと感じました。

4.服装
1990年代はまだ、白いシャツが主流でカラーシャツは、くだけ過ぎなので着ないという雰囲気が強かったです。カラーシャツやボタンダウンを着ていると注意されました。当時、協会からその様な指示があったのかどうかはわかりません。会衆によってかなり見解が違っていたようです。
姉妹たちの服装も暗い色の地味な服が多かった印象がりあす。

5.巡回監督と奉仕
ある巡回監督と共に奉仕をした時のことです、一緒に奉仕を始めてから終わるまで一言も話さないで終わった事がありました。そのとき思ったのはこの巡回監督は何のために私と奉仕をしたのだろう、これほど話しかけるのが難しいと感じたことはありませんでした。ずーっと不機嫌そうな顔をしていたのがとても印象的でした。
また、ある巡回監督は奉仕の前の集まりをある家の居間で行ったとき参加者は全員床にじかに座って、監督だけが椅子に座り足を組んで、サングラスをかけ上から目線で話を始めた時の顔が何とも偉そうな権威を振りかざしている印象を感じたこともありました。(なんだこの人はと思い、話している内容が全く耳に入ってきませんでしたね。)

6.学校の行事
子供の運動会はたいてい日曜日に行われることが多かったのですが、日曜日は必ず集会のある日なので、集会を休む必要がありました。ある長老は夫婦のどちらか片方が運動会に行けば十分です。と言う事を進められたのですが私たち夫婦は、子供が寂しい思いをしない様にと考え二人で運動会へ行きました。何がなんでも集会を優先する考え方になじめませんでした。

8.その他
親戚の法事、冠婚葬祭、町内会などの宗教的な行事の対応は理解してもらえないケースもあり疲れます。特に近所の葬式や会社の上司や部下の結婚式や葬式はかなり気を使って対応しましたね。
結局、こんな対応を続けていれば世間との人間関係は希薄になり、JWだけの人間関係に強い結びつきが生じて行ったのは当然の事と言えるでしょう。

🔵まとめ
こうして、考えてみると1世は、JW組織と他人を通してある程度、理解力や判断力が成熟している年齢から関わり、2世は親を通して理解力や判断力が未熟な幼少期から関わると言った大きな違いがあると思います。(必ずしも全てがこの二通りに当てはまるわけではなく当然ながら他のケースも色々あることは承知しています。)

 2世がJW組織から離れて行く時期は高校生くらいから20代前半くらいが多いかと思います。この時期に自分の将来を考え始めるだろうし、大学進学、パート、アルバイトや正社員や派遣などで社会へ進出するとJW以外の接触も増えてその影響も受けていくことになる。もちろん、社会的責任も増していく。このような経験を重ねてもJWに留まる2世は自己のアイデンティティをJW組織の中に見いだせていたからだと思う。つまりJW組織の居心地が良いと感じているし、教理に対して絶対的な信頼感を抱いているからだと思います。とはいっても、JW組織の教育によって離れることで生じる忌避や失うかもしれない楽園や永遠の命を失うことの恐怖が抑止力となって組織から離れられない2世もいることでしょう。一方離れて行く2世は組織に対して何か違和感をかんじたり、疑問を感じていた人が、ある事がきっかけで、JW以外からの情報を知り、その情報の信ぴょう性を調べ確信してJWを離れる事を決意する人、またJW組織になじめず自分の居場所を見いだせないと感じて離れて行く人もいたことでしょう。
 また、離れた2世の中にはJWとして生きて来た貴重な時間を無駄にしてしまったと感じる人も多いようです。そしてその中の少数の方たちが自分の経験を手記やブログ、書籍にして残しています。それは本当に貴重な勇気ある行動だと思います。
これからも是非、情報発信を続けて頂きたいと思います。

 私自身のJW1世として経験した様々な出来事は今回取り上げた以上にまだまだあります。ただ、あまり詳細に記載すると私を特定されてしまう可能性があるので、さしさわりのない範囲で記載しています。。
 今まで感じていた違和感や疑問を持ちながらJW組織に留まれたのは開拓者であった亡くなった妻の存在が大きかったと思ってます。彼女は心から宣教を楽しんでいたと思います。そんな明るくて幸せそうな妻を見てるのが好きでした。様々な出来事も二人だからこそ乗り越えることが出来ました。ですからJWとして生きて来た月日は私の良い思い出となっています。
 そのように幸福な生活を過ごしてきたわけですから、度々感じていた違和感や疑問を深く突き止めようとは思わずそれらを封印して来ましたが、組織に対する疑念がある人との会話がきっかけとなり、1914年の年代計算についての根拠をちゃんと調べる必要があると思ったのです。