My Life

いつからか・・・喜びがなくなった。

2世の大学進学と大卒の1世

2020年07月06日 | 日記
 ある元JW2世さんのブログで大学教育によってJW組織の矛盾や偽善を理解することになったプロセスが詳細に述べられていました。JW組織が大学教育を受けさせないようにしていた背景は若いうちにエネルギーと時間を有効に使う宣教に専念させる為が主な理由だとなんとなく思っていましたが、しかし、個人的には大学教育は将来自立するためには必要な教育じゃなかと思っていたので、行ける環境であれば良いのではないかと思っていました。ただ何の目的もなく大学に行くのは無駄だじゃないかとも思っていました。ところが、元2世さんのブログを読んでわかったのは、JW組織が大学教育を受けさせなかったのは、より高等な教育を受けることによってJW組織の矛盾や偽善が明らかになってしまうからではなないかと言う事と、若いうちに社会から隔離するため、さらに社会経験が浅い若者は洗脳されやすいからだと理解しました。そして、信者を確保するために巧妙に仕組まれた組織の策略だと思いました。
 また、私の知る限り大学を卒業して開拓者をしている2世を知りません。逆に大学を出たか、または全時間の仕事で働いて離れた2世を幾人か知っています。
 このように、若者を社会から隔離することは、JW組織にとって必要不可欠な方法だったのでしょうね。
 では、私を含む1世の信者が、大学教育を受けた、又は大学を中退した人が沢山存在しているのは何故か? そのほとんどが、妻が聖書研究を始め、その後、夫も研究に応じて信者になるケースが圧倒的に多くその背景は、見た目にはJW信者や聖書に良い印象を感じたのであまり警戒していなかったのではないかと思います。
 私の場合、子供のころ日曜学校と言われていた教会に定期的に行っていたこともあって聖書は良い本と言うイメージがあり妻の研究に反対はしませんでした。結果的に私自身が聖書をもっと知る必要を感じ、内容にも興味を抱き、夫婦で同じ土台に立って聖書の話をすることは良い事だと感じたからでした。
 今、思い返して見ると聖書研究を始めて間もない頃、図書館に行って聖書に関する一般の文献を何冊か借りてきて調べようとしたところ、妻がこう言いました『あなたねえ、まずJWの本と教理を理解する前に余計な知識をいれると正しく理解する障害にならないかしら?』と言われ、さらに『十分に理解した後に改めて調べたらどうなの?』と言われました。私もそれでもいいかなと納得し本を返しに行きました。でもそれが大きな間違いだったんですね。もしあの時、事前に一般の聖書関連の本を調べていたらJW組織の矛盾や、偽善を知る事ができたかもしれません。
 実際に創造の本を最初に研究を始めたのですが、聖書の言葉と、世の一般の文献が多く引用されていて、引用先の文献もきちっと記載されていたので何の疑いもなく信用してしまいました。元2世さんが大学で学んだように論文に引用されている
文章は必ずその引用先の文献の内容の意図を正確に反映しているかどうか、確認することは重要なことであることが書かれていました。まったくその通りだと思います。社会で出されている論文や文献の引用が誤解を招く誤ったものであったなら作成者の社会的な信用は地に落ちてしまいます。ですから、論文や文献を発表する人は細心の注意を払って作成するはずです。それらを読む研究者達は高度な知識を持つ人たちですからちょっとした誤りにも敏感に気づくことでしょう。しかしJWの文書はそうした専門家の目に留まることはほとんどなく、JW信者または一般の人が読むだけなので引用先まで調べることも皆無だったのでしょう。とりわけ、信者であれば、文書に対する絶対的な信頼があったでしょうし、私自身も研究しながら良く調査されていると感心し引用先まで調べる事を怠っていました。そして夫婦仲も良く日々の生活で大きな支障がなく、平和な日々を過ごしていたし、会社の仕事とJWの活動を両立させて行くのが精一杯であったことも私の調査意欲をなくして行った要因となっていたのかもしれません。
上記の記述は、男性の目線で見たJW2世、1世であって女性の目線から見るとまた違った側面があるかと思います。
 また、元JW2世のブログでは、日本支部で組織に従順に従いそうな優秀な人材確保のために大卒者を集めて無償で司法試験を勉強させていたと言う事実は驚きであり、それに相当の費用を費やしていたのには呆れてしまいました。他にも優秀な人材となる大卒2世を重要な部署に配置していたようです。将来の幹部候補生なのでしょう。そうやって大学教育を否定している組織がベテル内に組織崇拝の中核をなすべく大卒者の人材育成に金をかけている事にもあきれ果ててしまいます。

組織と羊

2020年07月03日 | 日記
下記の聖書の言葉は、今の統治体にピッタリ当てはまると思いませんか?

エゼキエル34:15-19
主権者である主エホバはこう宣言する。「私は自ら自分の羊を養い,横たわらせる。16 いなくなった羊を捜し,はぐれた羊を連れ戻し,けがをした羊に包帯をし,弱い羊を力づける。しかし,肥えた羊強い羊を滅ぼし尽くす。私は彼らに処罰を食らわせる」。17 羊について,主権者である主エホバはこう言う。「私は羊たちを裁こうとしており,雄羊と雄ヤギを裁こうとしている。18 あなたたちは,最良の牧草を食べるだけでは満足できないのか。残りの牧草を足で踏み荒らさなければならないのか。また,澄み切った水を飲んだ後,足踏みして水を濁さなければならないのか。19 私の羊は,あなたたちの足で踏み荒らされた牧草を食べ,あなたたちの足踏みで濁った水を飲まなければならないのか」

自分の羊.....全てのJW

いなくなった羊はぐれた羊けがをした羊弱い羊.....一般のJWたち

肥えた羊強い羊、雄羊と雄ヤギ.....統治体、統治体に任命されたJWたち

 私の羊.....エホバに裁かれないJWたち

これらをあてはめて考察してみると
肥えた羊強い羊は一般のJWたちからの寄付、資産、時間が捧げられその恩恵を十分に受け、あたかも最良の牧草と水を受けていながら、そこから与えられる牧草は踏み荒らされたもので、注ぎだす水は濁っている。つまり信者たちは誤った教理に苦しみ、翻弄され、独善的な取り決めに縛られ、新しい理解に振り回されている。

エホバはそれを良くご存じでやがて裁かれる。つまり統治体、統治体に任命されたJWたち(組織の責任ある立場の人達)の罪は重くエホバに裁かれると思ってしまいました。


ものみの塔 2020年 研究記事14

2020年06月17日 | 日記
ものみの塔
研究記事14
『北からの攻撃』
ヨエル書の理解が変更されました。
本文中にこの様な質問がありました。
質問「2. 聖書の預言を理解しようとする時に,どんなことで間違いが入り込むことがありますか。」

2 聖書研究者たちはやがて,ある教理に関する聖書の教えを理解するよりも,聖書の預言の意味を正確に見分ける方が難しいことに気付きました。なぜ難しいのでしょうか。1つとして,預言は多くの場合,実現の途上にあるか,実現した後でなければ十分に理解できないからです。もう1つの点として,預言を正確に理解するには文脈を考えなければなりません。預言の一面に注目してほかの面を考えないなら,間違って解釈してしまうかもしれません。今回,この点を踏まえてヨエル書の預言が再考されました。その預言を振り返り,これまでの理解をなぜ調整する必要があるかを考えましょう。

この記述から見えるのは、聖書理解は難しく特に預言に関しては、起こった後、または起こる直前くらいにならないとはっきりと分からないと、はっきり言っている。
では、今まではっきりわからないことを公式な見解として発表してきたのだろうか?
と疑問が湧く。

もう一つの理由。文脈をよく考慮しないといけないと言ってます。
では、いままで文脈をきちっと精査してこなかったのだろうか?
と疑問が湧く
何故過去の調査で「北から来る者たち(バッタ)」について考慮しなかったのだろうか?
当然、とても気になる一文ではないだろうか。
なんだか過去の調査がとても浅い適当なものに思えたのは私だけだろうか。

じゃあ
この世代(もう何度も変更されている。)
1914年(もう何度か変更されている。)
輸血、その他
もろもろの理解も今後、
同じような理由で理解を変更していくのだろう。きっとそうなるに違いない。
今回、ここにこの様な文を掲載したのは今後も、理解の変更があったとしても
信者たちに理解の変更を受け入れ易くする意図があることを容易に理解できる。
今回の理解の変更も含めて、今まで理解の変更を「新たな光が増した」と言う
惑わしの言葉を使って信者を誘導する便利な言葉を今後も使っていくのだろう。
組織の間違った解釈を容易に正当化出来てしまうのだから........

こんな、うすっぺらな理解にどうやって信仰を持てるのだろうか?
当たることのない預言(解釈)をいつまで続けるのだろうか?
今回の記事もまた、滑稽な組織の自己満足と思ってしまった。

聖書を解釈すると言う事

2020年04月23日 | 日記
 聖書の理解や見解は、人が読んで調べてその意味を解釈する。そこには絶対に人の解釈、見解、思考と言うものが入ってしまうことにより様々な解釈の仕方が生まれ様々な結論を導き出す。それをJWの組織は真理と呼んでいる。
 しかし、真理とはウィキペディアによると『確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。 』この説明文には「本当」とか「誤りなく」とかかれているが、いったい誰が正誤を保証することになるのか?

 一方、事実であることが証明されなくても論理的な破綻がなければ真理として認知されることもあり得ます。そうであったとしても人間の理解は完全に近づこうと努力していても完全なものではない。実際、JW組織も間違いは認めている。事実、聖書の解釈や理解が誤っていた時にそれを理解の調整として記事を正している。
とは言っても、その内容には、独自解釈によるパリサイ人的なものが存在していると言わざるを得ないです。
その代表的な聖書解釈をいくつか上げます。

1 輸血拒否【この項目は以前に詳しく述べています。】
創世記9:4 ・・・血を伴う肉を食べてはならない
使徒15:20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。
上記の聖書の言葉から、輸血拒否が生まれて来たわけですが、当然、聖書には直接的に輸血をしてはならないと書かれている箇所は無いので聖書の記述を拡大解釈していることになります。しかも、そう解釈しているのはエホバの証人だけとなります。単にある一部の人間の理解によって輸血拒否という考えが生まれ、それが聖霊に導かれて得られたものではなく独善的に作られた規則なのです。

2 乾杯しない
塔07 2/15 30–31 読者からの質問から
 乾杯は現代では、多くの人にとって,何の害もない慣習もしくは社交上の行為と映ることでしょう。 と述べて過去には宗教的な慣行が関係していると言っている。⇒乾杯はしない。

 また、ざくろについては、「異教においても,ざくろは聖なる象徴として使われていたようである」と述べています。それでも,まことの神は大祭司の衣のすそべりに糸で作ったざくろを付けるように取り決め,またソロモンの神殿の銅の柱にはざくろの飾り物がありました。⇒これは問題なし

 また,結婚指輪にもかつては宗教的な意味合いがありました。しかし今日,ほとんどの人はそのことを知らず,結婚指輪をするのは結婚していることのしるしである,とみなされているにすぎない。 ⇒これは問題なし
以上の3つ事から
乾杯、ザクロ、結婚指輪は過去の慣行から宗教色があったと言う同じ背景があると説明しておいて何故か乾杯は天に向けて杯を上げる行為が宗教的と、こじつけて乾杯はしないと結論し、ザクロと結婚指輪は問題なしとしていて理解に苦しみます。
杯の扱い方が世の宗教的な行為とみなされるのであれば、祈りのときに目を閉じてうつむく行為は他の宗教に見られる行為と同じであり祈りをするべきではないと言うことになってしまいます。

3 誕生日祝わない
創世 40:20‐22: 「さて,三日目はファラオの誕生日 
マタイ 14:6‐10: 「ヘロデの誕生日 
神の言葉が誕生日の祝いを好ましいものとしては記していない点に注目して,それを避けています。 
と述べていますが、600ほどの多くの律法を聖書に記しているなかに誕生日を祝ってはならない。と言う項目が無いのはとても不自然です。
また、このようにも述べています。『クリスチャンは誕生日の祝いを避けます。それは,こうした慣行が個人に過度の重きを置くことになるからです。 』

そんなことを言ったら、巡回監督の食事招待、訪問講演者の食事招待することや、講演が終わった後、割り当てを果たした後にお礼に行くことは、個人に重きを置くことにならないのでしょうか? 組織の見解からすればこれららの行為も止めるべきでしょう。

4 預言の年代計算
このように、聖書に書かれている事柄を不完全な人間組織が扱えば組織の数だけ様々な解釈が生まれてくるわけでそれぞれが正しい理解として組織の内部へと浸透していくことになります。
そもそも、66冊の書にまとめてあり正典と呼ばれ、他に外典の書も存在している。これらを編さんしたのは人間です。何が正典、何が外典なのかも神が介入して分けられたわけではない。今ある聖書だけが本当の真理としていいのかどうかも判断できないのである。

果たして、真理はどうやって届けられるのだろうか?
真理は人間が介在しては伝えられないものなのかもしれない。

組織の間違い

2020年03月31日 | 日記
ある友人(Aさん)と話をした。
⒈輸血拒否は正しいか?正しくないか?
2.バビロンの捕囚の始まりは紀元前607年は正しいか?正しくないか?
今、自分には正しくないと言う結論が出ている。

Aさん曰く、組織は今まで間違いを訂正して来た事実がある。統治体は自らも不完全な人間であり間違いをすることを認めてもいる。だから、間違いをする事を認めている組織が今現在も訂正できない間違いがあったとしても必ずいつかは正されると思っている。
上記の2つの事柄が間違いだったとしても今はそれを受け止められる。と言った。
理由を尋ねると、組織が間違える事を前提にしているので、あり得ない事ではない。と言う答えが帰ってきた。エホバは、そうした間違いを行う組織であったとしても必要であればいつでも是正される、それを待てば良い。そこには神に対する信仰が必要だと。
要するに組織の間違いを一つ一つ取り上げて一喜一憂するよりエホバとイエスに対する信仰が重要と言う訳である。
結局、組織に属する事は、不完全さも間違いも含めて受け止める寛容さと、エホバとイエスに対する強い信仰を持ち続けられる人、それがいまのAさんなのだろうと思いました。
Aさんは今までに様々な辛い経験をして来たのを見聞きしたのを知っているのでAさんの言葉には重みが感じられました。
今の自分は、組織とは距離を置き、エホバとの距離を身近に感じていることが出来るかどうかと言うジレンマがあると言う事、組織から離れる事は大切な友人も失うことになる。そうはなりたくないなあ。と心が反応してます。
そうはいっても、自分がJWとして歩んで来た数十年は辛い事が多く、日本支部、巡回監督、長老に対する信頼を失う結果になってしまいました.……集会で益を得るより毒をもられてしまう気分ってわかりますか?疲れてしまったんですね。
簡単に結論は出せません。