人は何の為に仏教を学んでいるのでしょうか。理想を云えば、悟って仏陀と等しく成るためではないでしょうか、できることならと。もし、そうなら、悟りへの道を確りと着実に歩む必要があるのではないでしょうか。またそれは、遠くて険しい道でもありますが、何はともあれ、先ずは仏道の入り口から確認してみましょうか。
釈尊が語り残してくれた説法の原形に最も近いと云われている原始仏典の漢訳に、大蔵経第二巻に収められている『雑阿含経』がありますが、その全五巻千三百六十二経の冒頭を飾る第一経には、次のように説かれています。
『当に色は無常であると観なさい。このように観るのが正観です。正観すれば厭い離れる心が生じます。厭い離れれば貪る喜びが尽きます。貪る喜びが尽きることを心解脱が成ったと云います。』
これは五薀の中の色についての解脱を説いた箇所ですが、とても明快に説かれていて、解脱も簡単にできそうですね。もしそう思ったら、即座に解脱を試みるのもよいでしょう。上手く解脱できなければ、どこかに認識不足のところがあると思って、学び直せばよいのですから。
ところで五薀つまり色と受想行識というのは、私たち人間の身心を構成しているパーツを仮に五つに分類したものと理解しておけばよいのですが、この場合の色というのは身と心に分けた身、つまり人間の物体部を指しています。この物体部である色もまた、原始仏教時代には地水火風という四大にパーツ分けされていましたが、この経文では触れられていません。そこでこの経文では未解説の受想行識からの解脱を、続けて次のように説いています。
『色についてと同じように、受想行識についても無常であると観なさい。このように観るのが正観です。正観すれば厭い離れる心が生じます。厭い離れれば貪る喜びが尽きます。貪る喜びが尽きることを心解脱が成ったと云います。』
ここで受想行識というのは、色が肉体的要素であったのに対し、心的要素を指す名称です。概説すれば、受というのは感官的要素。想というのは表象作用。行というのは得られた表象に基づいて行う是非分別などの能動作用。識というのは意識であり、理性的営みなどが働く段階をも含む名称ということになるでしょう。
この部分も、やはり前段同様にシンプルな説き方ですが、勿論説かれている通りに実践できれば、文句なく心解脱は成るわけですね。そして心解脱が成った者は、経文の最後を締め括る次の経文を、自心に確証するとよいでしょう。
『心解脱の成った者が、もし自証を欲するなら、能く自証することができる。即ち、我が生已に尽き、梵行已に立って、所作已に成し終え、自ら再び此の世に生を受けずと知る、と。』
「我が生已に尽き」というのは、此の世に繋縛された人生は既に終えたという意味ですから、以下は「煩悩に煩わされた迷いの人生を解脱したので、彼の世の仏界、即ち永楽の涅槃の境地に住して、再び迷いの此の世に戻って輪廻することもないのです」という意味になりますね。
このように経文では単純明快に説かれているからといって、よほど機根に恵まれていなければ、仏道初心者がいきなりこの経文を見ただけで、解脱が成就するというものでもないので、幾つもの経文を、何度も何度も繰り返し学び直し、読み直しつつ、実践を繰り返す必要があるのではないかと思います。
釈尊が語り残してくれた説法の原形に最も近いと云われている原始仏典の漢訳に、大蔵経第二巻に収められている『雑阿含経』がありますが、その全五巻千三百六十二経の冒頭を飾る第一経には、次のように説かれています。
『当に色は無常であると観なさい。このように観るのが正観です。正観すれば厭い離れる心が生じます。厭い離れれば貪る喜びが尽きます。貪る喜びが尽きることを心解脱が成ったと云います。』
これは五薀の中の色についての解脱を説いた箇所ですが、とても明快に説かれていて、解脱も簡単にできそうですね。もしそう思ったら、即座に解脱を試みるのもよいでしょう。上手く解脱できなければ、どこかに認識不足のところがあると思って、学び直せばよいのですから。
ところで五薀つまり色と受想行識というのは、私たち人間の身心を構成しているパーツを仮に五つに分類したものと理解しておけばよいのですが、この場合の色というのは身と心に分けた身、つまり人間の物体部を指しています。この物体部である色もまた、原始仏教時代には地水火風という四大にパーツ分けされていましたが、この経文では触れられていません。そこでこの経文では未解説の受想行識からの解脱を、続けて次のように説いています。
『色についてと同じように、受想行識についても無常であると観なさい。このように観るのが正観です。正観すれば厭い離れる心が生じます。厭い離れれば貪る喜びが尽きます。貪る喜びが尽きることを心解脱が成ったと云います。』
ここで受想行識というのは、色が肉体的要素であったのに対し、心的要素を指す名称です。概説すれば、受というのは感官的要素。想というのは表象作用。行というのは得られた表象に基づいて行う是非分別などの能動作用。識というのは意識であり、理性的営みなどが働く段階をも含む名称ということになるでしょう。
この部分も、やはり前段同様にシンプルな説き方ですが、勿論説かれている通りに実践できれば、文句なく心解脱は成るわけですね。そして心解脱が成った者は、経文の最後を締め括る次の経文を、自心に確証するとよいでしょう。
『心解脱の成った者が、もし自証を欲するなら、能く自証することができる。即ち、我が生已に尽き、梵行已に立って、所作已に成し終え、自ら再び此の世に生を受けずと知る、と。』
「我が生已に尽き」というのは、此の世に繋縛された人生は既に終えたという意味ですから、以下は「煩悩に煩わされた迷いの人生を解脱したので、彼の世の仏界、即ち永楽の涅槃の境地に住して、再び迷いの此の世に戻って輪廻することもないのです」という意味になりますね。
このように経文では単純明快に説かれているからといって、よほど機根に恵まれていなければ、仏道初心者がいきなりこの経文を見ただけで、解脱が成就するというものでもないので、幾つもの経文を、何度も何度も繰り返し学び直し、読み直しつつ、実践を繰り返す必要があるのではないかと思います。
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