いのちの源

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クリスチャンの実話|友情の船は転覆するところでした

2019-12-15 12:55:14 | 賛美の心

 私が子供の頃、祖父は「人は受け入れる心を持ち、ケチケチせず、損失を苦しむことができなければならない。そうしてこそ、互いに仲良くすることができる」と言いました。これらの言葉が何を意味するかを理解していましたが、これらの言葉に従って物事を行えば、多くの苦しみを経験すると考えていたため、それを実践することは難しいものでした。

 母が主を信じるようになると、母は主の次の教訓について教えてくれました:「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』これより大事ないましめは、ほかにない」マルコによる福音書 12:30-31。また、母は、クリスチャンとして教訓を実践しなければならず、主は誠実であるので、主に頼ればそれを完全に行うことができるとも言いました。しかし、経験がなかった私は、これらの教訓は私が目指すべき目標であると考えており、実践してきませんでした。

 2016年に学校を卒業し、生計を立てるために海外で働き始めました。ゼロから始めたため、苦労しました。よき友人のシャオリーと私は会社からそう遠くないところにあるアパートをシェアしました。しかし、家賃はあまりにも高く、金銭的ストレスを軽減するために、私達のアパートをシェアするルームメイトがもう1人必要でした。

 1ヶ月後、シャオリーが、数日後から1人の新しい友人が私達と一緒に住むことになると言いました。そのとき、私は急いで出かけるところだったので、その新しい友人について詳しく尋ねずに「へぇ」とだけ言って、外出しました。

 2日後、その新しい友人ミャオミャオが、私達と一緒に暮らすためにやって来ました。彼女は心根が優しく、あまり雄弁なタイプではなかったので、シャオリーと私が彼女に「これがあなたの部屋、これがキッチンです。カバンはここに置いて、あそこのワードローブを使っていいですよ」と“仕切り”ました。すべてのことが片付いたので、私達は互いにおやすみと言いました。

 翌日、私の生活は一変し、私の気持ちも変わり始めました。正確に言うと、私の霊的いのちも成長し始めました。

 

 デスクその日は土曜日で、私は早く起きて自宅残業しなければなりませんでした。早朝からルームメイト達を起こさないように、前夜のうちに、私のパソコンをバルコニー近くのリビングルームの隅に運んでおいたのです。しかし、ミャオミャオが私のパソコンデスクを占領していました。仕事が終わり、パソコンをデスクに戻したかったのですが、それを彼女に伝えるのはきまりが悪く言えずにいました。デスクを離れるように彼女に伝えるのは失礼だと思ったからです。このため、「これは私のデスクで、私はこれを使いたい」とほのめかすために、私はデスクの上にある物を何度もわざと取りに行きました。しかし、彼女は私の意図を理解しているようには見えませんでした。

 夜になり、ミャオミャオがデスクにだらしなく腰掛けているのを見ると、彼女に爆発しそうになりました。しかし、面目を保つため、怒りを抑えるより他ありませんでした。そして、悲しい気持ちでソファに座り、嫌な気分になりながら、「大人なのに、どうしてあなたはそんなに礼儀がなく、他者を尊重しないの?このデスクを運ぶのがどれほど大変だったか分かる?あなたは好きに使っているけど、少し図々しくない?」と思いました。怒りと不満が私の中で噴出していました。

 不当な扱いを受けていると感じていましたが、主が他人を自分のように愛するようにお教えになっていたことを思い出しました。信者として、私は神様を表現し、神様に栄光をもたらす必要があります。単にデスク1つのことだ。ミャオミャオに愛の気持ちを持って、デスクをあげるべきだ。そう思い込もうと自分を導きましたが、まだやるせなさを感じていました。頭の中では、「デスクを彼女にあげるべきか否か?自分自身のように他人を愛するように主はお教えになっており、私はそれに従うべきだ。でもそうしたら、私はデスクを失うだろう。さらに、私は別のデスクを買い、もう1度ここに運び入れなければならない。これは割が合わない取引だ。さらに、このデスクは特に私には大切なもので、失いたくない。彼女は私の愛と理解を受けるのにふさわしいのか?」と雑多な考えがせめぎ合っていました。私はとても悲しくなり、泣き出しそうになりました。

 自分を落ち着け、泣かないようにするために、Facebookを開き、自分のメッセージをざっと読みました。しかし、怒りの涙はそれでもこみ上げていました。心が苦しんでいたので、私の心を変えてくださるよう、神様に続けました。少しして、家族が私の世話をしてくれたことや、教会の兄弟姉妹が互いに思いやりを持って接している様子が頭に浮かびました。突然、私の祈りが神様に届いたことに気が付くと、心が落ち着き、目が覚めました。そこで、なぜ私はこんなに嫌な気持ちで、不当な扱いを受けていると感じたのかを自省し始めました。それは、このデスクを家に運び入れるためにとても大変な思いをしたのに、今はミャオミャオが使っていることが原因でした。デスク自体は私にとって何も意味もありません。この見知らぬ人は私の犠牲と思いやりに値しないと考えていました。明らかになったのは、私の自分勝手な性情でした。私は他人のために物事を考えたり、他人のことを考えたりすることができません。つまり、私には他人に対する愛も、思いやりも、助けようとする気持ちもないことが明らかになりました。実際、これはたいしたことではないのに、私は自分勝手で意地が悪いため、自分の利益だけを考え、思いやりや配慮がなく、ましてや、他人のことなど気にしてもいないため、このような痛みの中で暮らしていたのです。私が嫌な気持ちになったのは、デスクを失ったからではなく、自分の自分勝手な性情のために愛を持たずに暮らしていたためでした。

 

 クリスチャンの人間関係主の愛と御救い、無私の御献身と御犠牲を思い出しました。私達人間をお救いになるために、主は受肉し、天から地上へと降臨し、痛みと屈辱に苦しまれました。最後には、私達のために十字架に磔になったのです。これがあったため、私達は今日まで生きていられるのです。しかし、ちっぽけな創造物である私は、常に自分が欲しいものをすべて自分勝手に追い求め、他人を満足させたり、受け入れたりすることは一度もありませんでした。その時、私は自分の肉を裏切り、母や祖父の教えを無にすることはできないと決心しました。さらに重要なことは、主の御言葉は真理であり、道であり、いのちです。主の信者である私は、主の御言葉を実践し、神様が私達に求められた人間らしさを全うし、自分自身のように他人を愛さなければなりません。

 私がまだフランスに着いたばかりの頃のことを思い出しました。私は寂しく、惨めな気分でした。愛情深い手を貸してくれたのは教会の兄弟姉妹で、徐々に、私はこの環境への適応していきました。そして、「ミャオミャオはこの新しい場所にまだ来たばかりで、彼女も他人からの思いやりと助けを必要としている。今回、私が少しばかりの愛情と助けを与えるならば、彼女はこの家族の中で温かい気持ちになるだろう。なんと素晴らしいことではないか!」と考えました。そう考えると、心の中の痛みは消失しました。そして、デスクを彼女に与えることにしました。

 驚いたことに、私が変わると、環境も変わったのです。

 翌日、午前10時頃、長い間連絡を取り合っていなかった友人が私に電話をしてきて、私にデスクをくれると言いました。驚いて、「私達にデスクが足りないって、どうして分かったの?」と聞くと、彼女は「知らなかったわ」と答えました。

 その瞬間、私は感動の涙がこぼれました。神様はすべてをお見通しだったのです。神様は私のそばにいて、起こったことをすべてご覧になっていました。神様は私が必要なものをご存知で、さらには、私の霊的ないのちで私に必要なものも熟知されていました。その時、私はデスクとミャオミャオというルームメイトを得ただけではなく、神様の愛を経験し、他人を愛することも学びました。

 友人が私にくれたデスクは私が前に持っていたものよりも上等なものでした。それを家に運び入れると、ミャオミャオにそれをあげました。そして、彼女もそれを気に入りました。この新しいデスクとルームメイト・ミャオミャオの笑顔を見て、私の心は喜びに満ち溢れました。

 自分自身の利益を脇に置いて、主の御言葉を実践し、他人にもっと思いやりを持って助け、無私の精神を発揮するならば、他人と仲良くでき、人生が素晴らしいものになることを経験しました。