いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

キリスト教にはどうしてそんなに沢山の宗派があるのでしょうか

2020-02-24 14:04:32 | 賛美の心

 主イエス様が働きをするために自ら地上に来られた時、主を信じた人々は皆、主の御名に服しました。使徒たちはあちこちで福音を伝道し、主イエス様の救いを受け入れて主の御名に服した兄弟姉妹全員を集め、キリストのうちで1つにしました。信者はその当時、イエス・キリストにのみ従っていました。それはこの聖句にも記されています、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。」(エペソ人への手紙 4:5-6)。従って、使徒たちの生きた時代には異なる宗派は現れませんでした。

 終わりの日が到来しました。主の信者たちは皆、同じ神を信仰し、同じ聖書を読み、誰もが主の教えについて語ります。しかし、主の信者たちの間で、2000以上の異なる宗派が誕生しています。さらに、そのぞれぞれが、「我々の宗派が世界で最も正統である」、という教義を固執しています。従い、各宗派が「最上の存在」になり、派閥を組み、それぞれの考えを貫こうとするといった状況が出来上がっているように思えます。これは敬虔な主の信者の多くを困惑させています:「主イエス様の御名に服する者たちは皆、主が十字架の上でなさった救いの御業を尊敬し、バプテスマ、パンをさくこと、謙遜な姿勢、辛抱強さ、寛容な心、そして愛を実践し、主が開いてくださる道を歩んでいます。ならば、どうしてそんなに多くの宗派が誕生するのでしょうか?原因は一体何なのでしょう?

 この疑問について、私は一度、教会で多くの説教師や牧師たち、ならびに神学の博士号を持つ学者たちにも尋ねたことがありました。しかし、その説明ができる人は誰1人としていませんでした。その後、長年に渡って宣教をしている私の友人の1人が私にある啓蒙書を渡してくれて、私はその中に答えを見つけたのです、「人々は長年の間聖書を研究し、まことに多くの解釈を編み出し、多くの労力を費やしている。彼らはまた、聖書について数多くの異なった意見をもち、それについて果てしなく議論しており、現在では二千以上の教派が形成されている。」(「聖書について(1)」より)。この言葉を熟考し、私はこう理解しました:「私たち堕落した人間は傲慢な本質をしているために、賜物と知識に頼って仕事をしてしまいます。人によっては聖書に記録された事実から様々な神学理論を学び、自分の考えと想像にまかせながら聖書の文脈を考慮せずに宣教してしまっていることがあります。人はそれぞれが異なる形で聖書を理解してしまったため、異なる意見が生まれています。その後、彼らは独自の世界を築き上げるための団体を組織して、それぞれのやり方で指揮を取り、信者たちを自分たちのもとに導き、その指導者たちによる説教の内容に従って神を信仰させ、神に従わせているのです。このようにして、指導者たちは知らぬうちに神を名目的な存在と変えてしまい、それが原因で異なる宗派が形成されているのです。」

 例えば、聖書には、五旬節の日に聖霊が降臨された時、主の弟子たちは異言を語り、様々な賜物を授かったと記してあります。これ故に、私たちの中には聖霊の賜物を重要視して、人は五旬節の日に聖霊が人に下った時のように、バプテスマを受けるとたんに間違いなく異言を語ると信じている人たちがあります。さらに、聖書にはこの記述があります、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙 10:9-10). この節によると、信仰によって義とされるという説を最も重要視する人たちがいます。彼らの意見は、私たちは心で神を信じ、口で告白する限り、救われて天国に入ることができるというものです。他の例を挙げてみましょう:聖書の中で、主イエス様がニコデモと新しく生まれることについて話していた時、主はこう仰りました、「あなたがたは新しく生れなければならないと⋯」(ヨハネによる福音書 3:7)。これを基に、主を信仰するには新しく生まれて、罪を告白し、悔い改めることが必要とされていると信じている人たちもいます。各宗派はそれぞれの神学理論と教義で人々を導いています。結果として、異なる理解が異なる宗派を生み出し、『ペンテコスタル』、『信仰による義教会』、『ボーン・アゲイン団体』、『新生派』等が存在しています。更に、多くの人々は自分たちの理解が最上のものであり、神に関する知識も遥かに一番純粋であると思い込んでいます。同じ宗派の中でもお互いの理解を受け入れられないため、攻撃、口論、そして排斥が起り、宗派は更に分裂していきます。

 実は、こういった各宗派の意見は全て彼らの想像と観念に他ならず、聖書の文脈を無視した知識に過ぎないのです。それらは個々の宗派の中でのみ通用するものであり、キリスト教全体を完全に納得させることはできません。これこそが、聖書、神、組織体、または信仰が1つしか存在しない理由なのですが、宗派の数は何千にも及んでいるようです。

 兄弟姉妹の多くが、「この状況はこのまま続くのでしょうか?」と言って困惑しています。全ての兄弟姉妹が同じ神を信仰する今、私たちはどうすれば心を1つにして神の前に立ち返ることができるのでしょうか?これについて、私はたくさんの同労者と祈り、主の御啓示を求め、聖書を一緒に研究しました。そして、私たちは聖書に記されたこの御言葉を見つけたのです、「それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。」(エペソ人への手紙 1:10)。私たちは主イエス様のこの御言葉も読みました、「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。」(ヨハネによる福音書 10:16)。「終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき」(イザヤ書 2:2)。私の友人がくれた書籍にもこのようにはっきりと説明されています:「世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神(創造主)と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。」(「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)。この御言葉より、堕落した人類はこの問題を解決できないことが分かります。なぜなら、宗教界の会長や指導者たちは皆、人間であり、創造物だからです。神は創造主であります。各宗派の各分派に属する人々は神の権威に服するのです。私たちは世の終わりに、「すべて国はこれに流れてき」という状況が見られるということも分かります。神御自身のみがこの働きを実行することがおできになり、それができる能力を持つ者は誰一人として存在しません。従い、神が来臨される時に初めて、神の真の信者たちは全宗派から立ち返り、神の御名に服すようになるのです。誰もが1つの真の神を讃え、その時に存在する羊飼いは御一方のみとなるでしょう。


本当のキリスト教とは何か

2020-02-23 13:38:45 | 賛美の心

 本当のキリストとは何かを理解したいなら、まず私たちはキリスト教の起源を知るべきです。キリスト教と言えば、私たちは主イエスの働きを思い出します。二千年前、神様は人類の必要性によって自ら受肉されて人の子となって、イエスという名で、恵みの時代を開き、人々に天国の福音を伝えていました。主イエスが復活して昇天された後、主イエスに従っていた弟子たちが福音を広く伝え、主イエスに従う人がますます多くなり、徐々に教会が設立されました。主イエスは受肉された神様であり、キリストであるので、あらゆる主イエスに従っている人が設立された教会はキリスト教と呼ばれ、つまり、キリスト教は神様が受肉され現れて働いた後に生まれ、キリストを信じる人々によって設立されたのです。これはキリスト教の起源です。

 本当の教会はキリストによって支配され、聖霊によって支配され、つまり、真理によって支配され、キリストに従うクリスチャンは皆キリストを大いなるものとして崇拝し、人に従わず、人を崇拝せず、彼らが読んできたのは神様の新しい言葉、経験してきたのは神様の新しい働き、歩んできたのは神様を畏れ、悪を避ける道であり、このような教会は聖霊の働きがあり、これこそ本当のキリスト教なのです。恵みの時代のように、主イエスが古い時代を終わらせ、新しい時代をもたらし、ペテロ、ナタナエル、ヨハネ及び他の弟子たちは神様の足跡に付き従い、神様の供給と養い、聖霊の働きを得られ、彼らは神様ご自身の導きと養いがあり、本当の教会の中で集会する人です。それらの神様の足跡に付き従わないパリサイ人は、聖書の古い聖句に固執し、自己満足し、神様からの新しい働きに抵抗し、聖霊の働きがなく、彼らの集まりは宗教団体に属し、キリストに従うキリスト教とは言えません。

 キリスト教とは何かについて、理解できたでしょうか。皆さんはこのように思い出すかもしれません。今全能神教会がますます繁栄になり、さまざまな教派や分派の多くの人々が全能神の元へと戻りました。それでは、全能神教会はキリスト教に属するのでしょうか。

全能神教会はキリスト教に属するのか
 実は、私たちは全能神教会はキリスト教に属するかどうかを理解したいなら、まず私たちは全能神が主イエスの再来かどうかを確定すべきです。二千年前、主イエスはまた来ると約束され、今は既に終わりの日であり、さまざまな災害が頻繁に発生し、世界中の国は混乱状態であり、主イエスの再来の預言は既に実現され、主が戻られたはずです。主イエスはこう預言されました。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書24:27)「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカによる福音書12:40)「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。」(ヨハネの黙示録22:12−13)主イエスはまたこう言われました。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。」(ヨハネによる福音書10:16)「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。……」(ヨハネによる福音書16:12−13)主イエスは「人の子が来る」「人の子も現れる」と言及し、これは皆神様が終わりの日に受肉されることを指しています。受肉された神様だけが人の子と呼ばれ、ここから分かったのは、終わりの日に主イエスが再来される時に、また受肉の方法で来られ、キリストの身分で人々に現れ、そして新しい言葉を語り、新しい働きをなさるのです。しかも全能神の現れと働きは主イエスの預言の実現です。全能神は主イエスの贖いの働きを基礎にし、一段階の神様の家から始まる裁きをなさり、人と清め救うすべての真理を語り、神様の三段階の働きの目的と意味、受肉の奥義、終わりの日の裁きの働き、人類の結末と終着点など、これらの神様の経営の働きに関する真理をすべて明らかにされます。全人類の堕落した本質、堕落した根源、及び人々の思いや考えの中での自分も認識できない堕落した性質をすべて明らかにされ、人々を心から納得させます。同時に、全能神の言葉は人々にサタンの影響から抜け出して、救われて清められる道を指し示し、信仰における実践して進入すべきのすべての真理を人々に教え、例えば、どのように正直な人になるか。どのように神様を愛し、従順するか。どのように神様を畏れ悪を避けるか。どのように神様に仕えるか。どのように正常な人間性を生きるかなど。これらの真理は主イエスが言われた、私たちが恵みの時代で霊的背丈が小さいため、堪えられない真理を、終わりの日に全能神がすべて私たちに教えてくださいます。しかも、全世界のあらゆる宗教、あらゆる教派の人々は全能神の語られた言葉を考察することを通して、全能神が主イエスの再来だと確定し、皆続々と元々の教会から出て新しい働きに従い、彼らは霊的な渇きの状態から抜け出し、聖霊の働きを得られ、いのちの生ける水の注ぎと供給を得られ、これは全能神が受肉された神様であり、終わりの日のキリストであり、主イエスの再来なのです。なぜなら、キリストだけが人に真理、道、いのちを与えられるのです。キリストを信じるのは皆キリスト教に属し、主イエスと全能神は神様の二回の受肉の間に取った異なる名前で、実は一人の神様なのです。そのため、全能神教会は当たり前にキリスト教に属します。

 全能神教会はキリスト教と同じく天地万物を創造された唯一の真の神様を信じています。異なるのは、神様が違う時代での働きによって生まれた教会です。キリスト教は恵みの時代でのキリスト教会であり、信じてきたのは主イエス、初めのキリスト、守ってきたのは神様が恵みの時代での贖いの働き、実践してきたのは当時主イエスが人々に対する要求です。全能神教会は神の国の時代でのキリスト教会であり、受け入れているのは主イエスの再来ーー全能神の終わりの日の裁きの働き、読んでいるのは神様の終わりの日の最新の言葉です。したがって、終わりの日に、主イエスを信じる人は固執しているのは時代遅れのキリスト教であり、終わりの日のキリストを信じる全能神教会こそより現実的なキリスト教であり、子羊の足跡に付き従っているのです。


苦しみと困難の中、目覚める

2020-02-22 00:57:23 | 賛美の心

十七歳のクリスチャンの迫害の実体験

(山東省)

 私は全能神教会のクリスチャンです。八歳の時、両親に倣って、終わりの日の全能神の働きを受け入れたため、他の同い年の子供と比べて幸運でした。まだ幼かったのですが、とても嬉々として神を信じ、御言葉を読みました。御言葉を読み、教会の年長の信者と交わり続けることで、数年後には真理がある程度までわかるようになりました。特に、兄弟姉妹が皆真理を追い求め、正直者を目指し、誰もが互いに仲良くしているのを見たとき、私はそれほど幸せで楽しい時はないと感じました。後に、ある説教で、「中国本土では、神を信じ、真理を追い求め、神に従えば、命が本当に危うくなります。これは決して誇張ではありません」と聞きました(『いのちに入ることに関する交わりと説教(3)』の「問答集」より)そのときはどういうことかわかりませんでしたが、兄弟姉妹の交わりを通して、神の信者が警察につかまったこと、中国は無神論の国であるため信仰の自由がないことを知りました。しかし、そのときはこうした話を信じず、自分は子供だから警察に逮捕されても何もされないだろうと思いました。自分が警察の手による逮捕と残虐行為を経験した日、その考えが変わりました。おじのように尊敬していた警察が実際には悪魔の群れであることがやっとはっきりとわかったのです。

 2009年3月5日の夕方、私は十七歳のとき、年長の兄弟と福音を宣教して自宅に帰る途中、道が急にパトカーにふさがれました。五人の警官がすぐに車から飛び出し、警告もせず、盗賊のように私たちの電動スクーターを掴み、私たちを地面に押しやり、強要的に手錠をかけました。私は事の突然さに愕然としました。神の信者が逮捕された話は兄弟姉妹からよく聞かされていましたが、その日まさか自分がそうなるとは想像もしていませんでした。パニックに襲われ、心臓が胸から飛び出してくるかと思うほど高鳴りました。心の中で絶えず神に呼びかけました。「全能神様!私は警察に捕らえられ、とても怖いです。自分が何をすべきかも、彼らが私に何をするつもりなのかもわからないので、私の心を守ってくださるようにお願いします」祈ると心がずっと落ち着きました。自分のような子供は警察に何もされないと思ったので、あまり緊張しませんでした。しかし状況は思ったほど単純ではありませんでした。私たちは持っていた神への信仰についての本が警察に見つかると、それらを証拠に警察署に連行されたのです。

 中国北部の早春でしたが、気候はまだ非常に寒く、夜は零下三、四度に下がりました。警察署長は私たちからコートや靴、ベルトまで奪い取り、後ろ手にしっかり手錠をかけました。それはとても苦痛でした。署長に指示された数人の警官に私たちは床に押さえつけられ、顔と頭を革ひもでひどく打たれました。私はたちまち頭が割れて爆発しそうに感じるほど痛くなり、思わず涙がこぼれました。私はそのとき憤慨しました。「文明人らしく捜査」というスローガンが壁にはっきりと書かれていたのに、彼らは私たちを野蛮な追いはぎや殺人犯のように扱っていたからです。全く文明人のやり方ではありません。怒りながら、私は「僕たちが何の罪を犯した?どうして逮捕して殴ったりするんだ?」と尋ねました。この悪しき警察の一人はが私を打ち続けながら、残忍に言いました。「小僧、そんな口の利き方はするな。俺たちは全能神の信者をつかまえに来たんだ!若くて何でもできるお前がなぜそれだ?指導者は誰ですか?この本はどこで手に入れた?答えろ!答えないとぶっ殺すぞ」 そのとき、私は兄弟が歯を食いしばって一言も話そうとしていないと気づいたので、誓いを立てました。「僕もユダにはならない!たとえ殴りり殺されてもしゃべるもんか!僕の命は神様の手の中で、サタンと悪魔は僕に対して何の力もない」署長は私たちが二人共口をつぐんでいるのを見て腹を立て、私たちを指差して怒鳴りました。「いいだろう。強がるのか?しゃべらないか?いたぶってやれ!強がるとどうなるか思い知らせてくれる!」急に襲いかかってきたこの悪しき警察に、私たちはあごをつかまれ、顔をひどく拳で殴られ、私はそれで目から火が出て、顔が刺すように痛みました。私は幼い頃から両親に甘やかされて大事に育てられており、このような暴力を一度も受けたことがありませんでした。屈辱のあまり涙をこらえられず、思いました。「この警察は本当に残酷で、道理がない!学校の先生は、困ったことがあったら警察に相談することっていつも言っていた。警察が『人民に仕え』、『善良な市民を暴力から守る英雄』だと言っていたけど、今僕たちはただ全能神を信じて人生の正しい道を歩んだからと言う理由で、警察に意味もなくつかまって、容赦なく殴られている。これのどこが『人民の警察』なんだ?ただの悪魔の群れじゃないか!説教でこういう話があるわけだ。『赤い大きな竜は悪霊だと言う人もいれば、悪人の集団であると言う人もいますが、赤い大きな竜の本性と本質は何ですか?悪魔の本性と本質。彼らは神に抵抗し、攻撃する悪魔の群れです!サタンの物理的な現れ、肉となったサタン、悪魔の化身です。こサタンと悪魔に他なりません』(『いのちに入ることに関する交わりと説教(3)』の「救いを受ける上で、赤い大きな竜を捨てることの真の意義」)。今までは警察が一般市民のために働く『善人』だと信じて、警察の嘘に惑わされ、それが誤った通念だとは気づかなかったけど、今は警察が本当は神に抵抗する悪魔の群れだっとやっとわかった!」私は彼らを心底憎まずにいられませんでした。私たちがまだ話していなかったため、署長は「もっといたぶってやれ!」と叫び、その手下が二人飛び掛ってきました。彼らに私たちは足を伸ばした状態で床に座らせられると、革靴で足をひどく蹴られ、足を思い切り踏みつけられました。私は足が折れるかと思うほど痛み、悲鳴が止まりませんでしたが、悲鳴を上げるほど暴行は激しくなりました。やむなく痛みに耐えながら、心の中で全能神に呼びかけました。「神様、この悪魔たちはあまりにも残酷です!私はこれにとても耐えられません。あなたを裏切らないように、どうか私に信仰を与え、守ってください。」 そのとき、神の御言葉の次の一節が私の心の中に思い浮かんだのです「あなたの周りの環境にあるすべてのものは、わたしの許しによってそこにあり、わたしがそのすべてを定めることを、あなたは知るべきである。わたしがあなたに与えた環境の中で、明確に見極め、わたしの心を満足させなさい。恐れてはならない。万軍の全能神が必ずあなたと共にいるのだ。神はあなたのしんがりとなり、神はあなたの盾である。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十六章」より)御言葉は私にとって大きな信仰と強さの源でした。自分が経験している事態が神の御座からの了承を得て起こっていること、今こそしっかり立ち、神を証しすることが求められている時であることがわかりました。若いとはいえ、神を強い支えとしていたため、何も怖くありませんでした。しっかり立ち、神を証しし、絶対に怯えず、サタンに屈しないと決意しました。神の御言葉による手引きと導きを通して、苦しみに耐えてしっかり立ち、神を証しする自信と決意を抱いたのです。

 その夜の午後七時過ぎ、署長は再び私に尋問しに来ました。私を凍えさせようという意図で、非常に冷たいコンクリートの床に座るように指示しました。私があまりの寒さで両足がしびれ、全身が震え上がっていたところで、署長は手下に私を持ち上げて壁に寄りかからせるように命じてから、容赦なく私の手とあごを電気棒で感電させました。私は電気ショックのせいで手が水疱だらけになり、歯がすべて痛みでしびれました(今も物を噛むと歯が痛みます)。  しかしそれでもこの悪魔は怒りが収まらず、次は私の股間に電動棒を当てました。この責め苦に私は言い知れぬ痛みを受けましたが、署長は頭を後ろにそらして笑いました。その時点で、私は人間性が完全に欠けているこの悪魔を骨の髄まで憎みました。しかし、この悪しき警察にどのような質問や拷問を受けても歯を食いしばり、一言も話そうとしませんでした。それは朝の二時か三時まで続き、その頃には全身が麻痺しており、どこにも感覚がありませんでした。最終的に、彼らは私を傷めつけて疲れると、私を小さな部屋に引きずり戻し、共に逮捕された兄弟に手錠でつなげました。私たちは凍った床に座るように命じられ、眠らないように二人の警官に見張られました。一人でも目を閉じると、二人とも殴られ、蹴られました。その夜の遅い時間に、私は用を足そうとしましたが、この悪しき警察に怒鳴られました。「このクソガキ、こっちが知りたいことを言うまで、どこにも行くんじゃないぞ!小便はそのまましな!」結局我慢ができなくなり、ズボンのまま放尿する羽目になりました。凍てつくような天候の中で、パッドを入れたズボンに尿が染み込んだため、震えが止まらないほどの寒さでした。

 この悪魔たちによるそのような残酷な拷問を受けた末、私は全身が耐え難く痛み、「明日はどんな拷問をしてくるつもりなんだ?耐えられるのか?」とどうしようもなく弱く否定的な気持ちになりました。しかしそのとき兄弟が、私が否定的になって苦しみに耐えられなくなることを心配し、ささやいてくれました。「、今日この悪魔たちにこうして拷問されてどう感じている?全能神を信じて本分を果たしたことを後悔しているのか?」私は言いました。「していません。ただこの悪魔たちに殴られて屈辱なんです。自分はまだ子供だから何もされないと思ってました。まさか本当に殺そうとするなんて」兄弟は真摯に交わってくれました。「僕たちは神様への信仰の道を歩み、神様のお導きのおかげで人生の正しい道を歩んでいるが、サタンは僕たちが神様に従って完全に救われることを望まない。信仰では何があってもしっかり立つんだ。絶対サタンに屈してはいけない。神様の心を傷つけたらだめだ」兄弟のこの言葉はとても励みになりました。私は慰めを感じ、次の御言葉を思い起こさずにはいられませんでした。「勝利者とは何か。キリストの良き兵士たちならば、勇敢であってわたしを信頼し、霊的に強くなければならない。戦士になるために戦い、決死の覚悟でサタンと戦わなければならない。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第十二章」より)その瞬間、私は神の御心がわかり、心の中で強さがみなぎりました。もはや屈辱も惨めさも感じず、勇敢にこの試練と向き合おうと思いました。「悪魔サタンにどう拷問されても、神に頼ってサタンに打ち勝とう。全能神の信者は皆が神の精鋭兵士であり、最後まで壊れない戦士であることをサタンに見せてやるんだ。」

 翌朝、あの悪しき警察は私を尋問室に連れ戻し、あの悪魔署長は再び私に自白を強要しようと、私の鼻をまっすぐ指しながら机の上を叩き、罵りました。「夕べのうちに考え直してみたか、小僧?全能神をいつから信じていた?何人に布教した?質問に答えろ!さもないともっと痛い目に遭うぞ!」私は「もうサタンを恐れてはいけない。大人になって勇気を出さないと!」と思いました。そのため「何も知らない!」と毅然と言ったのです。悪しき局長は烈火のごとく怒り、「小僧、死にたいのか?しまいにぶっ殺すからな!それでも意地を張ってろ!」と叫びました。そう叫びながら飛び掛ってきた署長に、私は残忍に髪をつかまれ、頭を壁に打ちつけられました。すぐに耳鳴りがし、そのあまりの激痛に泣き叫ばずにはいられず、涙が止まりませんでした。挙句の果てに、その悪魔たちは何の収穫もなさそうだと気づくと、やむなく私を小部屋に送り返しました。その後、兄弟を尋問に連れ出しました。まもなくして、私は兄弟が痛みで悲鳴を上げるのを聞き、彼らに酷いことをされたことを知りました。 凶暴なオオカミに囲まれた小羊のように小部屋でちぢこまり、悲嘆と無力感にさいなまれ、顔に涙を流しながら神に祈り、兄弟を拷問で自白させようとするこの悪魔たちから兄弟を守ってくださるようにお願いしました。私たちは三日三晩このように尋問され、一口の食べ物も一滴の水も与えられませんでした。私は寒くて空腹で目がくらみ、頭が腫れてものすごく痛みました。彼らは私たちを殺してしまうことを恐れ、結局は拷問を止めざるをえませんでした。

 中共政府の残忍で非人道的な拷問の末、私は説教で聞いたことを本当に体験したのです。「赤い大きな竜の監獄では、あなたが男であろうと女であろうと、彼らは思うがままにあなたをいたぶりかねません。彼らは悪党と獣です。気まぐれに電気棒で人々をいたぶり、あなたが最も恐れることを何でもします。赤い大きな竜の支配下では、人は人でなくなり、動物以下にさえなります。赤い大きな竜はまさにこれほど残酷で非人道的です。獣であり、悪魔であり、完全に理知を欠いています。理知がないため、道理で説得できる相手ではありません」(『いのちに入ることに関する交わりと説教(3)』の「救いを受ける上で、赤い大きな竜を捨てることの真の意義」)。そのとき、私は神の敵としての中共政府の反動的な本質をようやくはっきりと見ました。中共はまさしく、平気で人殺しをする悪魔サタンの現れです。道徳意識も良心もなく、未成年である私さえ見逃しません。神を信じて人生の正しい道を歩んでいる私なら尚更それだけの理由で殺す気でいます。道理も倫理も人間性もない残酷な怪物にすぎません。自分がまだ若いから警察も大目に見てくれるだろうという誤った希望は抱かなくなりました。私が願ったのは、ただ全能神が私を守り、サタンと悪魔の残酷な拷問に打ち勝てるように導いてくださり、自分がすべての苦しみに耐えて、神のために力強い証しを立てることができることだけでした。

 3月9日の午後、悪しき警察は何も聞き出せないだろうと見て、私たちの手をつかみ、偽造された自白書に署名させ、「国法を侵し、社会の治安を乱し、国家権力を転覆させた」罪状を着せると、拘留所に送りました。私たちはそこに着くとすぐに頭を全部剃られ、服を脱がされ、ほとんどリボンのように切り刻まれたものを返されました。ベルトがなくなったので、ズボンをビニール袋で縛って止める羽目になりました。凍てつくような天候の中でも、警察は他の囚人に、私たちの頭に洗面器一杯の冷水を何度もかけて洗うように命じました。私はあまりの冷たさに頭からつま先まで震え、血が静脈の中で固まったように感じ、その後は立つこともできませんでした。  その刑務所の囚人たちは強姦犯、泥棒、強盗、殺人者ばかりで、誰もが見るからに悪意をかもし出しており、私はこんな人たちと共にその地獄のような所に閉じ込められるのかと思うとゾッとしました。夜には、固いコンクリートの台の上で三十人以上が就寝を共にし、毛布の悪臭がひどくてほとんど眠れませんでした。あの悪しき警察に出された食事は小さな蒸しパンとわずかなトウモロコシの粥だけで、とても満腹になる量ではなく、日中は過酷且つ過剰な肉体労働をさせられました。その日の作業量をこなせないと、罰として一晩中監房の見張り番に立たされ、そのときは四時間立っていなければならず、二時間しか眠れませんでした。私はあまりの疲労で立ったまま眠ったこともありました。また、あの悪しき警察の指示で監房の囚人長は私を苦しめる方法を考え、ノルマを超える量の仕事をさせたり、一晩中宿直をさせたりしました。 私は今にも倒れそうに感じました。あの悪魔たちに何度も苦しめられいたぶられたため、自分が野良犬よりも自由がないように感じており、食事も豚や犬よりひどいものでした。こうしたことを思うと、家と両親がものすごく恋しくなり、拘留所は人が住む所ではないと感じました。あと一瞬もそこにいたくなかったのです。ただこの嫌な場所をすぐに出ることしか望みませんでしたこの上ない惨めさと弱さの中、ただ神に真剣に祈ることしかできませんでしたが、このとき全能神の御言葉が私を啓き、導きを与えてくれました。「落胆してはならない。弱ってはならない。わたしはあなたに明らかにする。神の国への道は平坦ではない。何事もそう簡単ではないのだ。あなたはたやすく祝福を得たいのであろうか。今日、だれもが苦しい試練に直面しなければならない。そうでなければ、あなた方のわたしに対する愛の心がさらに強いものとなることはなく、わたしに真実の愛を抱くこともないであろう。…わたしからの苦しみにあずかる者は、必ずわたしの甘美さにもあずかるだろう。これがわたしの約束であり、あなた方に対するわたしからの祝福である。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第四十一章」より)神の御言葉は慰めと励ましの大きな源でした。御言葉のおかげで私は、自分が受けていた苦しみと困難が神からの祝福であることがわかりました。神はこの困難な状況を用いて、私を精錬し、完全にし、神の約束に相応しいほど神を愛し忠実である者にしようとなさったのです。自分が子供の頃から甘やかされており、苦しみはおろか些細な侮辱にも耐えることができなかったことを省みて、私は真理といのちを手に入れたければ、苦しみに耐える決心が必要であり、強固な信仰が必要であると悟りました。この苦しみを経験しなければ、私の中の堕落が清められることは決してありえません。私の苦しみは確かに神からの祝福だったのですから、私は信仰を持ち、神に歩調を合わせ、自分の中で神に真理をもって働いて頂くべきなのです。神の御心がわかると、神への祈りが自然に私の中から出てきました。「神様!私にはもう弱く否定的な気持ちはありません。しっかり立ち、毅然としてあなたに頼り、最後までサタンと戦い、あなたを愛し、ご満足頂こうと努めます。私に信仰と剛勇を与えてくださることをお願いします」拘置所で虐待と屈辱を受けた数日間、全能神への信仰を得てからのどんなときよりも多く神に祈って頼り、神との関係がそれまでで最も近くなりました。その間、私の心は一瞬でも神を離れなかったのです。どんなに苦しんでも、まったく苦しくなく、すべてが神の私への気遣いと加護であるとはっきり悟りしました。

一ヵ月後のある朝、看守が突然私と兄弟を呼びました。呼び出しを聞いたとき、私は自分たちが解放されて、もうあの地獄で苦しむことはないと思い、胸を躍らせました。現実は全くの期待外れでした。警察署長は意地悪い笑顔で私たちを迎え、判決状を持って言いました。「お前たち二人は全能神を信じた罪で、一年間の労働再教育に処す。話をしなくても同じ判決を下せるのだよ。この国は共産党の天下だ。訴訟を起こしても無駄だ!」署長が私たちの不幸を喜んでいるのを見て、私は憤りました。中共政府は法律も倫理も守らず、私のような未成年を残酷に拷問するばかりか、犯罪を犯してもいないのに判決を下していたのです!兄弟と私はその日、省の労働収容所に連行されました。 健康診断中、医師が兄弟の体に高血圧、心臓病といった問題があることを知りました。労働収容所の看守たちは彼に施設で死なれて責任を問われることを恐れたため、収容を拒否しました。警察は彼を連れ戻すしかなく、そのため私はそこに一人で残されました。私はそのとき泣き出しました。激しく泣いたのです。家と両親が恋しく、共に交われる兄弟もいない中で、この先どうして一年も過ごせるのかと思いました。あの悪魔たちに苦しめられ、虐待された先月は、その責め苦に耐えられず否定的で弱い気持ちになるといつも兄弟に神の御言葉について交わり、励まし、慰めてもらったため、神の御心がわかることで強さを得られました。また、彼の決意を見て、共にあの悪魔と戦って打ち勝つ信仰と強さも与えられました。しかし労働収容所ではその戦いを一人で戦わなくてはなりませんでした。「本当にしっかり立てるのだろうか?」…考えれば考えるほど、惨めに感じ、否定性と孤独、つらさと屈辱が心に根づきました。惨めさで絶望の淵に追い込まれたとき、しきりに神に呼びかけました。「神様!私の背丈は小さすぎます。こんな途方もない試練にどうして耐えられるでしょうか?この一年もの労働再教育をどう切り抜けるべきなのですか?神様!私を導き、助け、信仰と強さを与えてくださることをお願いします…」無言で泣き、涙が顔を流れました。祈っていると、私はヨセフが十七歳の時にエジプトに売られた経験を突然思い出しました。彼はエジプトで一人ぼっちで、屈辱と苦しみを受けましたが、決して真の神を放棄せず、サタンに屈しませんでした。私はそのとき刑務所で悪魔たちに苦しめられていましたが、それは神のお許しで起こっていたのであり、私が真に神に頼り、サタンに屈することを拒む限り、神は私がサタンを打ち負かして悪魔の巣を出るように導いてくださいます。そのとき、私は再び神の御言葉を思い出しました。「あなたは、若いからといって、自分を過小評価してはならない。あなたはわたしに自身を捧げるべきである。わたしは人々の外見や年齢は気に掛けない。わたしが心に留めるのは、彼らが心からわたしを愛するかどうか、他のすべてを無視して、わたしの道に従い真理を実践するかどうかである。明日がどうなるか、また将来がどのようになるかを心配するな。あなたが日々わたしに依り頼んで生きる限り、わたしは必ずあなたを導く。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十八章」より) 御言葉は夏の太陽のように私の心を温めてくれました。おかげで私は、神が誰もひいきなさらず、自分がたとえ若くても、神に真実の愛の心を抱き、神の御言葉で生きることができる限り、常に神の導きを受けるということがわかりました。逮捕の時から、神はいつも共にいてくださったおかげで、自分があらゆる困難を乗り越え、しっかり立つことができたことを思い起こしました。神の臨在と導きがなければ、どうしてあの悪魔たちのひどい暴行と残忍な責め苦に耐えられたでしょうか。神に頼ることでこのような大きな困難を乗り越えたのです。では一年の労働再教育を受けることになるとなぜ信仰がないのでしょうか。神だけを頼ればいいのではないでしょうか。神が共におられ、いつも導きを与えてくださるのに、なぜ孤独を感じたり、恐れたりするのでしょうか?こうした状況は、私が独り歩きと、いのちにおける成長を実践する機会だったのです。私はもはや自分を子供と見て、神を仰がずに他の人に頼ってばかりいるわけにはいきません。大人になり、神に頼って自分の道を歩むべきであり、自分は神にもたれつつその道を確実に辿ることができると信じるべきなのです。神に頼って神を愛する決意を持つ人をサタンは絶対に打ち負かせません。この時こそ、私が大人の勇気を持ち、自分の行動を通して神に栄光を得させる時でした。神の御心がわかると、自分を支えてくれる強大な力があるように感じ、獄中生活と向き合う決心を心の奥で抱きました。

 労働収容所の看守たちは私が全能神を信じていることを知ると、意図的に私を苦しめるようになりました。私は朝の五時から夜の十一時まで、五十キロを超える重包装袋を三階から一階まで運ぶという重い肉体労働を課せられ、ノルマをこなさないと夜遅くまで残業させられました。それまで肉体労働をしたことがなく、拘置所の食事の量が不十分だったためいつも疲れていました。最初は袋をまったく持ち上げられませんでしたが、その後、神に真剣に頼ることで、徐々に持ち上げられるようになりました。重労働により、毎日言語に絶するほど疲れ果て、足腰が痛みました。看守たちに指示された他の囚人に暴行され、体中に傷や打撲ができることも少なくありませんでした。ある時、私が水汲みから送れて戻ってきたため、看守は囚人長に私を痛めつけるように指示しました。そのとき、私の鼓膜は穴が開いて破れ、炎症を起こし、耳がほとんど聞こえなくなりました。このようないじめと虐待に憤然と歯を食いしばって耐えましたが、抵抗するすべがありませんでした。惨めで無念でしたが、その気持ちのはけ口がありませんでした。ただ神の御前に来て、祈りの中で神に惨めさを打ち明けることしかできませんでした。あの暗い刑務所で、神に近づき、何事においても神に頼り、神を仰ぐことを学んだのです。神に祈って心の底の思いを打ち明けることが、人生で最も喜べたことでした。悲しみと弱さを感じるたびに一番好んで歌った賛美歌は「ああ神よ。私はあなたの義と聖の麗しさを見ました。私は真理を追求することを志します。私は意を決してあなたを愛します。あなたが私の霊の眼を開き、あなたの霊が私の心に触れますように。私は自分の心の全てをあなたの前に曝け出します。そうして私の全存在があなたの前に捧げられますように。また、あなたが私を思いのままに試すことができますように。今私は自分の将来性を考えることも、死に縛られることもありません。私は、あなたを愛する心で、いのちの道を求めることを望みます。あらゆる物事があなたの掌中にあり、また私の運命もあなたの手の中にあります。それどころか、私の一生はあなたの御手によって支配されています。今、私はあなたを愛することを追い求め、私があなたを愛することを、あなたがお許しになるかどうかを問わず、また、サタンがいかにして邪魔しようと、私は意を決してあなたを愛します。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「私は神を愛すると決心する」より編集)繰り返し歌うと涙が溢れ、心に大きな慰めと励ましがありました。全能神が何度も私を助け、支えてくださったため、私は自分への神の真の愛を実感することができました。憐れみ深い母親のように、神は私のそばに立ち、いつも私を慰め、支え、信仰と強さを与え、あの忘れられない一年間を切り抜けられるように導いてくださいました。

 獄中生活の闇を経験して、私はいのちがはるかに成長し、真理の認識も多く得ました。もはや素朴で無邪気な子供ではありませんでした。全能神の御言葉により、悪しき警察の拷問と責め苦に何度も打ち勝つように導かれ、何度も弱さと否定性を脱し、奮起し、しっかり立つことができたのです。御言葉のおかげで、いかに神の心を思いやり、お慰めするか、いかに神に頼ってしっかり立つか、いかに神の愛に報いるべく証しを立てるかがわかりました。また、サタンと悪魔たちの残虐性と悪意、神の敵としての彼らの悪しき反動的な本質をはっきりと目にし、「人民を愛する人民警察」という誤った通念について分別を得ることができました。以来、サタンの嘘に二度と惑わされたことはありません。あの時の迫害と苦しみは、私を潰すに至らなかったばかりか、信仰の道を歩むための土台となりました。私は全能神に感謝いたします。神の導きでこの困難な岩だらけの道を通り抜け、この若さで残酷な責め苦に耐えることを学べたからです。そのおかげで私は神の全能と主権を目にし、これが神の私への特別な救いだとわかりました。悪魔が支配する悪しき世界では、神だけが人を救うことができ、神だけが私たちの支えとなり、私たちが神を必要とするときはいつも助けてくださり、神だけが人を本当に愛していると深く感じました。あの時の迫害と困難は、私にとっていのちを成長させる貴重な宝となり、私が完全な救いを得る上で非常に有益でした。その間ずっと苦しみはしましたが、その苦しみはとてつもなく尊く有意義だったのです。神の御言葉に述べられいるとおりです。「もしあなたが、喜んでこの流れの中に留まり、この裁きとこの大いなる救いを楽しみ、人間世界のどこにも見いだせない、この祝福のすべてと、この愛を享受したいなら、従順にこの流れの中に留まり、完全になれるように征服の働きを受け入れなさい。今、あなたは裁きのために苦痛と鍛錬を体験しているが、この苦痛は価値があり意味あることなのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(4)」より)


神への信仰は平和と祝福を求めるためだけであるべきではない

2020-02-21 00:01:24 | 賛美の心

関連する神の言葉

 今日、実際の神を信じるので、正しい軌道に乗らなければならない。神を信じる者としてただ祝福を求めるのではなく、神を愛し、神を知ることを求めるべきである。祝福,神への信仰,悔い改める神の導きや示しと自身の追求を通して、神の言葉を飲食し、神への真の認識において成長し、心からの真の神への愛を持つことができるようになる。すなわち、あなたの神への愛は本物で、誰もあなたの神への愛を壊したり、立ちはだかったりすることはできない。それならあなたは神への信仰の正しい軌道に乗っているということである。それはあなたが神に属していることを証明する。あなたの心は神によって所有され、他の誰にも所有されることはあり得ないからである。あなたの経験、あなたが支払った代価、そして神の働きのおかげで、あなたは神に対する自発的な愛を育むことができる。それからあなたはサタンの支配から解放され、神の言葉の光の中に生きる。あなたが暗闇の影響から自由になったときにのみ、あなたは神を得たと言うことができる。あなたが神を信じるにあたり、これを目標としなければならない。これはあなたがた一人一人に課せられた義務である。

「あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである」より

 

 神を体験することは、恵みを楽しむというよりも、むしろあなたの神への愛のために苦しむことである。あなたは神の恵みを享受しているのであるから、神の刑罰も享受すべきである――あなたは、これらのこと全てを体験しなければならない。あなたは神があなたの内に与える啓示を体験できることもあれば、あなたへの神の取り扱いと裁きを体験できることもある。そのようにして、あなたは全ての側面を体験する。神は、あなたに裁きの業を行い、また刑罰の業も行った。神の言葉は、あなたを取り扱ったが、それはまた、あなたに啓示と明察も与えた。あなたが逃げたいと思う時、神の手は依然としてあなたを捉えている。こうした業は、全部人間に関する全てのことが神の意のままであることをあなたが知るようになるためである。あなたは神を信じることとは、苦難を受けること、または神のために多くの事を行うこと、あるいは自分の肉の平穏のため、自分にとって全てのことがうまくいき、全てが快適であることのためだと思うかも知れない――しかし、神を信じるためには、こうした目的はいずれも人間が持っていてはならないものである。あなたがそのように信じているのであれば、それは誤った見方であり、あなたは決して完全にされることはない。神の行い、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の驚異とはかり知れない性質は、全て人々が理解すべきことである。そうした理解により、個人的な要望、及び自分個人の希望、心中の観念を取り除きなさい。これらのことを排除してはじめて、あなたは神の要求する条件を満たすことができる。このことを通してのみ、あなたはいのちを得、神を満足させることができるのである。神を信じることとは、この値なき人々の群れを通して神の行いと栄光が表出されるために、神を満足させ、神が求める性質を実際に生き抜くためのものである。これが、神を信じるための正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは、神を信じるための正しい観点を持ち、神の言葉を得ることを求めなければならない。あなたは、神の言葉を食べ飲みし、真理を実際に生き抜き、とりわけ神の実際の行い、遍く全宇宙において為される神の素晴らしい業、また、神が肉の内に為す実際の業を見る必要がある。実際の体験を通して、人々は神がどのように自分の業を彼らの上に行うのか、また、彼らに対する神の意志は何であるかを理解することができる。これらの全てはあなたの堕落したサタンによる性質を排除するためである。あなたの中にある汚れと不義を払拭し、誤った意図を取り除けば、あなたは神への真の信仰を育むことができる。真の信仰を持つことによってのみ、あなたは神を真に愛することができる。あなたは、神への信仰を基礎としてのみ、ほんとうに神を愛することができる。神を信じずに神を愛することができるだろうか。あなたは神を信じているのだから、それについては考えが混乱することはないはずである。ある人々は、神への信仰が自分に祝福をもたらすことを見るとすぐに活力に満ちる。しかし、精錬で苦しまなければならないと知るとすぐに全ての精力を失う。これが神を信じることだろうか。結局、神への信仰とは神の前での完全無欠の服従である。あなたは神を信じているが、まだ神に要求している。また、捨てきれない多くの宗教的観念がある。諦めきれない個人的な利益がある。そして、依然として肉の祝福を求め、神があなたの肉を助け出し、あなたの魂を救うことをねがう――これらは全て誤った観点を持つ人々が表すことである。宗教的信念を持つ人々は、神を信仰してはいるものの、性質を変えることや、神に関する認識を追い求めず、自分の肉の利益のみを追求している。あなたがたのうち多くの者は、宗教的信念の域に属する信仰を持っている。それは神への真の信仰ではない。神を信じるためには、人々は、神のために苦しむ心と、自分自身を捧げる意志を持っていなければならない。この二つの条件を満たさない限り、それは神への信仰とはみなされず、彼らは性質における変化を達成することはできないであろう。心から真理を求め、神に関する認識を求め、いのちを追い求める人々だけが、神を真に信仰している者である。

「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より

 明確にするために言うと以下のように言える。すなわちそれは、あなたが神に従うこと、神を愛すること、さらに、神の被造物によって為されるべき本分を遂行することに資するような神への信仰である。これが、神を信じることの目的である。あなたは、神の美しさ、神がいかに尊敬に値するか、造ったものの中で、神がいかに救いの働きを行いそして彼らを完全にしているかについての認識を達成しなければならない。これが、あなたが神への信仰において所有しなければならない最低限である。神への信仰は主として、肉における生活から神を愛する生活への転換、自然のままの生活から神という存在の内部での生活への転換である。そしてそれは、サタンの領域下から出て神の配慮と保護の下で生きることであり、肉への従順ではなく神への従順を達成できることであり、神があなたの心のすべてを獲得しあなたを完全にすることを可能にすることであり、さらにあなた自身を堕落したサタンのような性質から自由にすることである。神への信仰は主として、神の力と栄光があなたの中で明らかに示されるためである。その結果、あなたは、神の旨を遂行し、神の計画を成し遂げることができ、さらに、サタンの前で神への証しとなることができるようになる。神への信仰は、しるしや不思議を見るためであってはいけないし、あなたの個人的な肉のためであってもいけない。それは、神を知ること、神に従うことができること、そしてペテロのように、死を賭してまで神に従うことを追求する行為でなければならない。これが、信仰を達成するために必要な主なものである。

「すべてが神の言葉によって達成される」より

肉の祝福を求めるために、神へ祈る
 

 神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けよう、どうして災いを避けようということだけを考えている。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいて、そのため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのだ。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちの命の一部であると理解することもない。そうした人々は、神に付き従うのに、ただ一つの目当て、祝福を受けるということしか考えていない。そこで、その目的に関わりあること以外には関心がない。そうした人たちにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならないのだ。その目的を果たすことに関わりのないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たす。若さを捨て、家族や職を捨て、家から離れて何年も懸命に働く。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものを変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を実現するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力が、そのような献身を続けさせるのだろう。これは良心だろうか。偉大で高潔な人格なのだろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意なのだろうか。これは報いを求めずに神を証しする信心なのだろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心なのだろうか。それとも、個人的で法外な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神なのだろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき不思議に思える。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解したこともない人々が、それほどまでに神に捧げられる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで発見していなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということだ。これは恵みの与え手と受け手との関係だ。簡単に言うと、これは、雇い主と従業員の関係のようなものだ。雇い人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、慈善と慈悲とがあるだけだ。理解はなく、諦めと欺きだけだ。親しみはなく、越えがたい溝があるだけだ。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろう。どれほどの人が、こうした関係がいかに絶望的なものになっているかを、ほんとうに理解できるのだろう。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずだ。

 人間の神に対する信仰の最も悲しい点は、神が働きをしている最中に自分なりの経営をしていて、神の経営そのものには無関心なことだ。人間の最大の欠点は、神に服従することを求め礼拝していると同時に、自分なりの理想の終着点を建て上げ、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。

「神の経営の中でだけ人は救われる」より

 わたしが癒やさずにいられないほどにわたしを信じる人が何人いるだろうか。何人の人たちが、わたしの力で彼らの体から汚れた霊を追い出さずにはいられないほど、わたしを信じるだろうか。そして何人の人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じ、何人の人たちが、無事にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためだけにわたしを信じるだろうか。何人の人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいるだろうか。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人が本来持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人はわたしに癒してくれるように頼んだが、わたしは彼を認めることもせず嫌悪を感じたとき、人はわたしから離れ、魔術師や魔術などの方法を求めた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、彼らはすべて形跡も残さず消えた。だから、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう。

「あなたは信仰について何を知っているか」より

肉の祝福を求めるために、神へ祈る

 あなたが求めていることは、神を信じた後に平和を得ることが出来るようになることである。つまり、自分の子が病気にかからないこと、自分の夫が好ましい職に就くこと、自分の息子が良い妻と出会うこと、自分の娘が人並みの夫を見つけること、自分の牛や馬が十分に土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。あなたは、そうした物事を求める。あなたの追求は、単に快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、家族の作物が洪水に遭わないこと、災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、快適な住処で生活することを求めている。常に肉の欲を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは、何も見返りを求めずに、真の道を与えるが、あなたは求めない。あなたは、神を信じる者のひとりであろうか。わたしは、真の人生をあなたに与えるが、あなたは求めない。あなたは豚や犬とは違わないのではないか。豚は、人生や、清められることを追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真の道を与えたが、あなたは未だにそれを得ていない。あなたは、手ぶらである。あなたは、人生において、そうした豚の生活を続けることを望んでいるのであろうか。そうした人々が生きていることの意味は、何であろうか。あなたの生活は、恥辱的であり、下劣であり、あなたは不浄と放蕩の中で暮らし、何も目指す目標が無い。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるであろうか。あなたは、このような経験を続けるならば、得る物は無いのではなかろうか。真の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた自身の追求により決まる。

「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

 もしあなたが、平和な家庭生活や物質的祝福を伴う神の恵みのみを享受するのであれば、あなたは神を得ていないのであって、神への信心は成り立っていない。神は肉における恵みの働きを既に一段階行っており、人に物質的な恵みを既に与えている──しかし人は、恵みと愛と慈悲だけでは完全になれない。人は経験により神の導きの一部分に出会い、神の愛と慈悲を知るが、ある一定の期間経験すると、人は神の恵みと神の愛や慈悲では完全になれず、人の内にある邪悪さを明らかにすることもできず、またその邪悪な性質を取り除くことも、その愛と信仰を完全にすることもできないことを理解するのである。神の恵みの働きは一時の働きであった。神の恵みの享受に依存することで神を知ることはできないのである。

「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より

 人が初めて神を信じてから、受け取った物は何だろうか。あなたは神について何を知っただろうか。神を信じて、あなたはどれほど変わっただろうか。今、あなたがたは皆、神を信ずることは、ただ単に魂の救いや、肉の幸福のためでもなく、神の愛を通してあなたがたの人生が豊かになることなどでもないと分かっている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的快楽のために神を愛するなら、たとえ最後にあなたの神に対する愛が頂点に達し、あなたが何も求めないにしても、このあなたが求める「愛」は依然として汚れた愛であり、神には喜ばれない。自分たちのつまらない人生を豊かにするために神を愛したり、心にぽっかりあいた穴を埋めたりするために神を愛する人たちは楽な生き方を求める人たちで、神を本当に愛することを求める人たちではない。このような愛は人の意志に反し、感情的快楽を追求しており、神はこの種の愛を必要とはしない。では、あなたの愛とはどのようなものだろうか。あなたは何のために神を愛するのか。今あなたはどのくらい神に対して真の愛を持っているのか。あなたがたのほとんどが持っている愛については先に述べた通りだ。この種の愛は現状維持のままでしかない。それは永久的不変性を得ることも、人に定着することもあり得ない。この種の愛は花が咲いた後も実がならず、しぼんでしまう花のようである。すなわち、そのように神を一旦愛した後、誰もその道を導いてくれないと、あなたは倒れてしまうだろう。もし神を愛する時代に神を愛するだけで、その後のあなたのいのちの性質に何の変化も起こさないなら、あなたは引き続き暗闇の力に覆われ、逃れることもできず、サタンに操られ騙されることから解放されることはあり得ないだろう。そのような人は完全に神に得られることはできない。最終的には、彼らの霊、魂、体は依然としてサタンに属していることになる。これに議論の余地はない。完全に神に得られることができない人たちはすべて彼らの本来の場所に戻る。つまり、サタンの所に戻り、神からの次の段階の懲罰を受けるため、火と硫黄との燃える池に落ちるだろう。神に得られる人たちとは、サタンに逆らい、サタンの支配下から逃れる人たちのことである。そのような人たちは正式に神の国の民の中に数えられる。神の国の民はこのようになるのである。あなたはこの種の人になりたいだろうか。あなたは神に得られたいだろうか。サタンの支配下から逃れ、神の元に進んで戻りたいだろうか。あなたは今サタンに属しているだろうか、それとも神の国の民の中に数えられているだろうか。そのようなことは全て明白であるべきで、これ以上説明の必要はない。

「信者はどんな見解を持つべきか」より

 もし、あなたが求める全てが、神により完全なものとされ、最終的に祝福されることのみであるならば、あなたの神への信仰に対する見方は純粋ではない。あなたは、どのようにすれば神の業を実生活において見ることができるか、ということを追求しているべきである。神があなたにその意志を明らかにした時、どのように神を満足させるか、神の驚異と知恵をどのように証しするのかを求め、また、自分に対する神の訓練と取り扱いをどのように実際に示すかを追及しているべきである。これらのすべては、今あなたが解明しようとしているべき事である。神があなたを完全にした後、あなたは神の栄光にあずかることができるということだけのために神を愛するのであれば、それはまだ不充分であり、神の要求を満たさない。あなたは、神の行動を証しし、神の要求を満たし、神が人々の上に為した業を実践的に体験することができる必要がある。それが苦痛であれ、涙であれ、あるいは悲しみであれ、あなたはその全てを実践で体験しなければならない。それらは全て、あなたが神の証し人となることが出来るためである。厳密に言うと、あなたは現在、何による支配下において苦難を経験し、完全になることを求めているのであろうか。それは神のために証しするためであろうか。それは、肉の祝福、あるいは自分の将来性のためであろうか。あなたの意図、動機、自分が目指す目標は、全て正される必要がある。それらを自分自身の意志で導くことはできない。もしある人が、祝福を受け、権力を掌握するために、完全にされることを求める一方、別の人が、神を満足させ、真に神の業の証し人となるために完全にされることを求めるのであれば、あなたは、この二つの追求の仕方のどちらを選ぶであろうか。前者を選ぶのであれば、あなたはまだ神の基準から遠くかけ離れている。わたしは以前、わたしの行動を全宇宙に明らかに知らしめ、また、わたしがこの宇宙で王として統治するであろうと語った。その一方、あなたがたに託されているのは、神の業を証ししに行くことであり、あなたがたが王となって全宇宙に君臨することではない。全宇宙は神の業で満たされよ。あらゆる者にその業を見せ、それを認めさせよ。このことは、神自身に関連して語られたことであり、人間がすべき事は、神の証しをすることである。今、あなたは、どれほど神を知っているであろうか。あなたは、神についてどれほど証しできるだろうか。神が人間を完全にする目的は何であろうか。あなたは、神の意志を理解した後、いかにして神の意志への配慮を示すべきであろうか。もしあなたに、完全にされる意欲があり、あなたが実際に生きるものを通して、神の業のために証しする意欲があり、このことがあなたの原動力になるのであれば、難しすぎることは何も無い。今人々が必要としているのは、確信である。あなたにこの原動力があれば、どんな否定的態度でも、消極性でも、怠惰、肉の観念、人生哲学、反抗的性質でも、感情でも、その他なんであれ、捨て去るのは容易である。

「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より


ヨブ記感想-発病や苦難もまた神の恵みです

2020-02-20 23:34:55 | 賛美の心

 御恵みの話しになると、私たちは普段それを神の祝福と愛に結びつけます。しかしながら、私たちの日常生活は全てが常に順調なわけではありません。病気や苦難に見舞われることがよくあります。そのような時、私たちは反抗的で、抵抗的で、不満げな態度を見せてこう考えます:「主イエス様は私たちに御恵みを与えてくださるのではないのか?私たちは神を信仰しているのに、どうしてこのような病気や苦難に苦しむはめになるんだ?」私たちはこれらを一掃しようと熱心に神に祈りを捧げ、これらを取り除いてくださるよう懇願することがあります。事が改善しないと、私たちは悲観的になって絶望し、弱気で退行的になります。しかし、実際は、発病や苦難もまた神の御恵みなのです。

 聖書に出て来る沢山の登場人物の中でも、ヨブのストーリーには感心させられます。ヨブは神を恐れ悪を避けた義なる男でした。彼は神の祝福を多く授かりました。彼には膨大な所有物があっただけでなく、立派な子供たちもいました。しかし、彼が年老いた時、神はサタンがヨブを攻撃することをお許しになられたのです。サタンはヨブの所有物全てと子供たちを奪い、その後、ヨブの体に対しても容赦なしに足の裏から頭のてっぺんまでを腫物で覆い尽くしてしまったのです。殆どの人は理解出来ないかもしれませんが、これは神はヨブに御恵みを与えるのを止めてしまったということなのでしょうか?

 神はこう仰られました:「人間に対する神の不変の施しと支えの働きの間、神は自身の心全体と要求を人間に示し、自身の業、性質、そして神であることの全てを示す。神に付き従う中で、人間に必要な身丈にまでさせ、神の幾つもの真理を得ることができるようにすることがその目的である。その真理とは、神により人間に与えられた武器であり、それによりサタンと戦うことができる。これらのものが備わったならば、人は神の試みに直面しなければならない。神は人間を試すための多くの手段や道を持っているが、どれも神の敵であるサタンの「協力」が必要となる。つまり、サタンと戦うための武器を人に与えた後、神は人をサタンの手に渡し、サタンが人の身丈を「試す」ことを許可する。人間がサタンの編隊から脱出できるならば、サタンの包囲網から抜け出して生きていられるならば、試験に合格したということである。だがもしサタンの編隊を離れることに失敗し、サタンに服従してしまうのであれば、試験に合格しなかったということである。神が人間を試す時、それがどのような側面をみるのであれ、神の基準はサタンの攻撃に対して人間がしっかりと証しに立っていられるかどうか、そして、サタンに誘惑されている間に神に背き、サタンに降伏して服従してしまうかどうかである。人間が救われるかどうかは、サタンに勝利してサタンを打ち倒せるかにかかっており、自由を獲得できるかどうかはその人間が神に与えられた武器を自ら取り上げてサタンの束縛から自らを解き放ち、サタンが完全に希望を失ってそれ以上攻撃しなくなるかどうかにかかっている。サタンが希望を失い、ある人を手放すのは、サタンは二度とその人を神から奪おうとはしない、二度と非難したり、妨害したり、気まぐれに苦しめたり攻撃したりしないという意味である。サタンをそのような状況に追い込むことができる人だけが、真に神のものとされるのである。神が人を自身のものとする過程はこのようなものである。」

 この神の御言葉から、サタンがヨブに苦難を与えることを神がお許しになられた真の理由が分かります。神が人間をサタンの支配から救う過程こそ、神が先ず人間に真理を伝え、そして人間がその真理を使ってサタンの誘惑に打ち勝つことができるか否かを見るために試す方法なのです。私たちが真理を武器として使ってサタンの起こす様々な誘惑に打ち勝つことができれば、私たちが本当に神に得られたこと、そしてサタンが完全に辱められ負かされたことを証明します。対照的に、私たちが神への信仰と従順を使ってサタンに打ち勝つことができなければ、サタンは決して納得しないでしょう。聖書の中の記録から、ヨブが試練を受ける前、ヤーウェ神はヨブのことを「完全で義人であり、神を畏れ悪を避ける人である」として褒めていたことが分かります。しかし、サタンは彼を非難してこう言いました:「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」(ヨブ記 1:9-11)。 「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」(ヨブ記 2:4-5). しかし、ヨブがサタンの誘惑を受ける中で神の証言をした時、サタンには何も言うことがありませんでした。

 神はこうとも仰りました:「神はサタンによってヨブが神の前に義なる人間であることを証明させる機会を与え、サタンの邪悪さと卑劣さを暴露させただけである。それはヨブにとって、義人であり、神を畏れ、悪を避ける自身を世界の人々とサタンさらには神に従う人々にまでも証しする機会となった。」これより、神は義なる性質をお持ちで、完璧な行動をとられることが分かります。ヨブがサタンに誘惑される前、神はヨブの義なる行いを見て、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」(ヨブ記 1:8)と仰りましたが、サタンは納得していませんでした。これを理由に、神はヨブに自分自身の義なる性質をサタンと世間に証言する機会を与えるため、そして神のヨブに対する評価が正確であり、かつ紛れもないものであることを証明するために、サタンがヨブに襲い掛かることを許可されたのです。これと同様に、私たちに降りかかる苦難と試練も私たちが神の証言をする機会なのです。試練の中で神の証を立てられる人々のみが神の更なる祝福を受けられるのです。ヨブは所有物と子供たちを失いましたが、それでも神の文句を言ったり、神を誤解したりしませんでした。もしろ、彼は神の御計画に従い、神の聖なる御名前を讃え、サタンを完全に辱めたのです。ヨブが神の証を立てた後、神はヨブに更なる所有物と立派な子供達をお与えになりました。しかし、神の視点からは、ヨブに与えたものはこれだけでなく、更に大切なものがありました。

 表面的には、ヨブが所有物の全てと子供達を失い、体中に腫物を患うという苦難を受けたことは身も世もあらぬ事態のように見えました。しかしながら、神の御心は、ヨブが神に対して不平を言うのではなく、そしてどのような環境に置かれても、神から祝福を受けていようが、何かを取り上げられようが、それに関係なく神に完全に従うことができるよう、この試練を通じてヨブの信仰を固めることであったのです。この苦難の中で、彼の心は神に近づき、彼は神の善良な御旨をより深く理解し、それにもっと気を配れるようになりました。また、誰もが知っての通り、ヨブはこの試練を乗り超えた後、より素晴らしい祝福を受けました、すなわち、ヤーウェ神がつむじ風の中から彼に答え、自ら神の背中を拝見する機会を与えてくださったのでした。実際、神はとても聖なる御方であるため、堕落した私たち人類は神の御顔を見るに全く値しません。ヨブは創造主の御声を自らの耳で聞くことができたのです。これは創造物にとっては最高の名誉であり、彼の持つ神に関する知識も深まりました。更に重要なこととして、ヨブはサタンから受けた様々な誘惑の中で、神への真の信仰と従順に頼って神の証を立てた後、サタンからの非難や妨害、攻撃や害から完全に抜け出し、心から神を崇拝する自由な人間になったのです。

 従って、主から授かる物質的な祝福に限らず、病気や苦難さえも神の御恵みであることが明確に分かります。これ故に、どのような逆境や苦難に遭遇しても、私たちは心を正しい場所に置き、むやみに逃げたり不平を言ってはならないのです。私たちは神に服従し、真理を求めてさえいれば、間違いなく神を知るという側面においてより深い体験をし、人生におけるより大切な恩恵と霊的成長を手にすることができるでしょう。これらは全て、発病や苦難を被った後に得られる貴重な宝であり、私たちは間違いなく神の祝福をもっと受けることができるでしょう。

 寄稿家:シァンフェイ(中国)