いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

65条のキリストが二回目降臨することに関する最も良い聖句

2020-04-19 12:31:46 | 賛美の心

  聖書には主イエス・キリストの二回目の降臨について預言する聖句がたくさんあります。以下の聖句はイエスの再来の兆候、時間、方法及びキリストが再臨したらどんな働きをなさるかなどの面からまとめました。あなたがキリストの再臨する預言をよりよく理解し、そして、この中から新しい光を得て、一日も早くイエス・キリストの再臨を迎えられるように助けていきたいです。

 

一、主イエスの再来の兆候

アモス書 4:6-8

『わたしはまた、あなたがたのすべての町であなたがたの歯を清くし、あなたがたのすべての所でパンを乏しくした。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。

 

アモス書 8:11

主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、ヤーウェの言葉を聞くことのききんである。

 

マタイによる福音書 24:12

また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。

 

マタイによる福音書 24:6-8

また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。

 

マタイによる福音書 24:32-33

いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

 

ルカによる福音書 21:29-32

それから一つの譬を話された、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。」

 

マタイによる福音書 24:29

しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。

 

ヨエル書 2:29-31

その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。

 

ヨハネの黙示録 6:12

小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり

 

マタイによる福音書 24:14

そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

 

マタイによる福音書 24:4-5

そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。」

 

マタイによる福音書 24:23-25

そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。見よ、あなたがたに前もって言っておく。

 

マタイによる福音書 24:48-49

もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら

 

ヨハネの第二の手紙 1:7

なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。

 

ヨハネの第一の手紙 4:3

イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。

 

二、主イエスがいつ戻って来られるのか

ルカによる福音書 12:40

あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。

 

マルコによる福音書 13:32-33

その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。

 

マタイによる福音書 25:13

だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。

 

マタイによる福音書 25:6

夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした。

 

三、主イエス・キリストの戻る方法

ヨハネの黙示録 3:3

だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。

 

ヨハネの黙示録 16:15

見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。

 

ルカによる福音書 17:24-25

いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。

 

マタイによる福音書 24:30

そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

 

マタイによる福音書 26:64

イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。

 

マルコによる福音書 13:26

そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

 

ヨハネの黙示録 1:7

見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。

 


四、主イエスが再臨したらどんな働きをなさるか

イザヤ書 2:2-4

終りの日に次のことが起る。ヤーウェの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、『さあ、われわれはヤーウェの山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう』と。律法はシオンから出、ヤーウェの言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。

 

ヨハネによる福音書 16:12-13

わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

 

ヨハネによる福音書 12:47-48

たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。

 

ペテロの第一の手紙 4:17

さばきが神の家から始められる時がきた。

 

詩篇 75:2

定まった時が来れば、わたしは公平をもってさばく。

 

ヨハネによる福音書 5:22

父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。

 

ヨハネによる福音書 5:27

そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。

 

詩篇 67:4

もろもろの国民を楽しませ、また喜び歌わせてください。あなたは公平をもってもろもろの民をさばき、地の上なるもろもろの国民を導かれるからです。

 

イザヤ書 26:9

わが魂は夜あなたを慕い、わがうちなる霊は、せつにあなたを求める。あなたのさばきが地に行われるとき、世に住む者は正義を学ぶからである。

 

ヨハネの黙示録 14:7

大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。

 

ヨハネの黙示録 20:12

また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。

 

ヨハネの黙示録 11:18

諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました。

 

五、キリストの二回目の降臨を待つ

マタイによる福音書 25:6

夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。

 

マタイによる福音書 25:13

だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。

 

ヨハネによる福音書 10:27

わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。

 

ヨハネの黙示録 2:29

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。

 

ヨハネの黙示録 3:20

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。


人の子は安息日の主である

2020-04-17 01:03:27 | 賛美の心

 1.そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。(マタイによる福音書12:1)

   2.「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。」(マタイによる福音書12:6-8)

   まず、「そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。」という聖句を検討する

 この聖句を選んだのは何故か。この聖句と神の性質には、どのような関連があるだろうか。この聖句で最初に気付くのは、これが安息日であるにもかかわらず、主イエスは外出し、弟子達を率いて麦畑を歩いていることである。さらに「法外」なこととして、「穂を摘んで食べはじめた」のである。律法時代において、ヤーウェ神の律法では、安息日に何気なく外出したり、何らかの活動に参加したりすることはできなかった。安息日にしてはならないことが沢山あったのである。主イエスのこうした行動は、長く律法の下で生活していた者にとっては不可解であり、非難に値するものでさえあった。ここでは人々の困惑や、イエスの行動について人々がどのように語ったかについては検討せず、まず主イエスがとりわけ安息日にこうした行動を取ったのは何故か、またそうした行動により、律法に従って生活していた人々に伝えたかったことは何かについて検討する。ここで議論したい神の性質とこの聖句の関連性が、ここにある。

   主イエスが来た時、イエスは実践的行動により人々と対話した。神は律法の時代を離れ、新たな業を開始し、その新たな業では、安息日を守る必要がなかった。神が安息日の制限から解放された時、それは神の新たな業の前兆でしかなく、神の真に偉大な業は、引き続きその後に行われた。主イエスが業を始めた時、イエスは律法時代の制約を既に過去のものとし、律法時代の規制と原則を破っていた。イエスには、律法に関連する部分が全く見られなかった。イエスは律法を完全に捨て去り、それを守ることはなく、律法を守ることを人間に要求しなかった。そうしたわけで、ここでは主イエスが安息日に麦畑を歩いていた、すなわち休まずに外出して活動していたのである。こうしたイエスの行動により人々の考え方に対して衝撃が与えられ、イエスはもはや律法に従っていないこと、神は安息日の制限を破棄し、新たな印象と新たな業の実行方法とともに人間の前に現れたことが伝えられた。こうしたイエスの行動により、神は律法や安息日から解放されることから始まる、新たな業を人々に伝えた。神が新たな業を行った時、神は過去に固執せず、神は律法時代の規則を懸念することがなかった。また、神は従前の時代の業に影響されることもなく、安息日に通常通り活動し、弟子たちは空腹となった時、麦の穂を摘んで食べることができた。こうしたことは、神にとって至って普通であると考えられた。神は、行うことを望んでいた業や、伝えるべき沢山の言葉に対して、新たな始まりを迎えることができた。神は、新たな始まりを迎えた後には、従前の業について述べることも、それを継続することもない。神の業には原則がある。神が新たな業を始めることを望んだ時は、神が人間を新たな業へと移行させることを望み、神の業が一層高度な段階に達している時である。人々が旧来の言い習わしや規則に従って行動を続けたり、そうした事柄を守り続けたりした場合、神はそれを祝福することも讃えることもないであろう。なぜなら、神は既に新たな業を行っており、業の新たな段階へと移行しているからである。神が新たな業を開始したとき、神の性質や神の中にある物事、神の存在に関する様々な側面を人々が理解できるように、神は人間に対して全く新しい側面から、全く新たな印象とともに、全く新しい方法で現れる。これが、神の新たな業の目的のひとつである。神は従来の常套的方法に留まることがなく、神が業を行い、言葉を伝える時、神は人間が想像するほど制約的ではない。神においては、全てが自由であり、開放されており、阻害的な要因や束縛は全く存在しない。神が人間に授ける物事は、すべて自由であり、開放されている。神は生きている神であり、実際に存在する存在である。神は操り人形でも粘土像でもなく、人間が祭る偶像とは全く異なる存在である。神は生きており、活気に満ち、神の言葉や業により人間に授けるのは、命と光、自由と開放である。なぜなら、神は真理、命、そして道を持っており、神は神の業において、いかなる物事にも制約されないからである。人間が何を言おうと、神の新たな業を人間がどう見るか、どう評価するかを問わず、神は何ら不安に感じることなく、業を行う。神は、神の業や言葉に対する人間の考えや批判、さらに強い反感や反抗を懸念することはない。人間的な理由や想像、知識、倫理により、神の業の評価や定義をしたり、神の業に対する信頼性を傷つけたり、混乱させたり、妨害を行うことができる者は、誰も居ない。神の業に制約的部分は一切なく、また業が人間や物事による阻害を受けることはなく、また神と敵対する勢力により混乱させられることもない。神の新たな業において、神は永遠に勝利を続ける王であり、敵対する勢力や、異端の者、人間による詭弁は、すべて神の足台の下で踏みにじられる。神が、業のどの段階を新たに行っているかを問わず、その段階は神の大いなる業が完了するまで、必ず人間界において展開され、拡張され、さらに全宇宙において妨害されることなく必ず実行されなければならない。これが神の全能と知恵、そして権威と力である。したがって主イエスは安息日に隠し立てすることなく外出して活動することが可能であった。なぜなら、主の心には規則が皆無であり、また人間から出た知識も教義も皆無だからである。イエスにあったのは新たな業と新たな方法であり、またイエスの業は、人間を自由にし、解放し、人間が光のなかに存在できるようにし、生きることができるようにする道であった。そして、偶像や偽の神を崇拝する者は、サタンの呪縛を受け、様々な規則や禁忌の制約を受けながら日々を過ごす。今日は何かが禁止されているが、明日はまた別の何かが禁止され、こうした者の生活に自由はない。こうした者は手かせ、足かせをされ、喜びについて何ら語ることがない、囚人さながらである。「禁制」とは何であろうか。それは、制約、束縛、そして邪悪である。ある者が偶像を崇拝するということは、とりもなおさず偽の神を崇拝し、悪霊を崇拝することである。そうした崇拝には制約が伴う。あれとこれを食べてはいけない、今日は外出できない、明日はコンロを点けてはならない、その翌日は転居してはならない、婚礼や葬儀、さらにお産まで、特定の日を選ぶ必要がある。こうした状況を何というか。こうした状況を「禁制」という。禁制は人間による呪縛であり、サタンの手かせ、足かせであり、邪悪な霊がそれを支配し、人間の心身を束縛する。こうした禁制が、神に存在するであろうか。神の聖なる存在について述べる場合、神には禁制が皆無であることを、まず考える必要がある。神の言葉と業には原則があるが、禁制はない。なぜなら、神こそが真理であり、道であり、いのちだからである。

   次に、「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。」(マタイによる福音書12:6-8)という聖句について検討する。ここでいう「宮」とは、何であろうか。「宮」とは、簡単に言えば高い大きな建物を指し、律法の時代は、宮とは司祭が神を礼拝する場であった。主イエスが「宮よりも大いなる者がここにいる。」と言った時、「者」とは誰をさしていたであろうか。ここで「者」とは、明らかに肉体を持つ主イエスを指す。なぜなら、神殿よりも偉大なものは主イエスのみだったからである。この聖句は人々に何を伝えているだろうか。この聖句では、神殿の外に出るよう、人々に伝えている。なぜなら、神は既に神殿の外に出ており、神は神殿では何も行っていなかったので、人々は神の足取りに続き、神の新たな業における段階に従うべきだったからである。主イエスがこうした言葉を伝えた背景には、律法のもとにおいては、神殿が神そのものよりも偉大なものであると人々が考えるようになっていたということがある。すなわち、人々は神ではなく、神殿を礼拝したので、主イエスは人々に対して偶像を崇拝せず、神は至高の存在であるので、神を崇拝するよう警告したのだ。そうしたわけで、主は「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」と述べたのである。主イエスから見て、律法のもとでは、人々はもはやヤーウェを礼拝しておらず、単にいけにえを捧げる手続に従っていただけであったことは明瞭であり、したがって主イエスはその手続を偶像崇拝であると判断された。これらの偶像崇拝者は、神殿を神よりも偉大で崇高なものと考えていた。こうした者の心には神殿しかなく、神は存在しなかったので、神殿を失った場合、こうした者はすみかを失った。神殿無くしては、こうした者は礼拝を行うために訪れる場所がなく、いけにえを捧げることができなかった。ここでいう、こうした者のすみかとは、ヤーウェ神の礼拝という名目で活動を行っていた場所であり、こうした者は神殿に滞在して自分たちの私事を行うことができた。ここでいう、こうした者が「いけにえを捧げる」とは、神殿で礼拝を行うという口実のもとに、自分の個人的な恥ずべき取引を行う、ということであった。当時の人々が、神殿は神よりも偉大であると考えていたのは、このためであった。こうした者は、神殿を隠れ蓑として利用し、いけにえを人々と神を欺くための口実として利用していたので、主イエスは人々に警告したのだった。こうした言葉を現在に当てはめた場合、こうした言葉は当時と同様に正当であり、適切である。現在の人々は律法時代の人々とは異なる業を経験してはいるが、人々の本質は同じである。現在における業に関しても、「神殿は神よりも偉大である」という考えと同様の物事を人々は依然として行っている。たとえば、人々は自分の任務を遂行することを職務と考えており、神を証しすること、大きな赤い龍と戦うことを、人権保護や民主主義、自由のための政治活動であると考えている。また人々は自分の技能を活用する任務を職務とするが、神を畏れ、悪を忌み嫌うことは、単に守らなければならない宗教的教義として扱うなどしている。こうした人間の表出は「神殿は神よりも偉大である」という表出と本質的に同じではなかろうか。2000年前は、人々は自分の職務を物理的な神殿で行っていたのに対し、現在においては、人々は自分の職務を無形の神殿で行っているというだけのことである。規則を重視する人々は、規則を神よりも偉大であると考え、地位を好む人々は、地位を神よりも偉大であると考え、職務を好む人々は、職務を神よりも偉大であると考えるなど、全ての表出の結果として言えるのは、「人々は、口では神を最も偉大であるとして褒めたたえるが、人々の目には、あらゆる物事が神よりも偉大であるように映る」ということである。その理由は、人々が、自分が神に付き従う道で自分自身の才能を示し、あるいは自分自身の業務ないし職務を遂行する機会を見出すとすぐに、人々は神から離れ、自分が好む職務に没頭してしまうからである。神がこうした人々に託した物事や、神の旨については、捨て去られて久しい。こうした状況のなかで、これらの人々と、2000年前に神殿で自分の個人的な取り引きを行っていた人々と何か違うであろうか。

   次に、この聖句の最後の文「人の子は安息日の主である。」を検討する。この文には実際的な側面が存在するであろうか。この文の実際的な側面を理解できるだろうか。神の言葉は、それぞれすべて神の心から発せられたものであるが、それでは神がこう述べた理由は何であろうか。どのように解釈しているだろうか。現在では、この文の意味を理解できるかも知れないが、当時この文を理解できる者は少なかった。なぜなら、人間は律法の時代から移行したばかりだったからである。この時代の人々にとって、安息日を終えるのは極めて困難であり、ましてや真の安息日とは何であるかを理解することが極めて困難であったのは言うまでもない。

   この「人の子は安息日の主である。」という文は、神に関するあらゆる物事が非物質的であると言っており、神はあなたがたの必要な物事をすべて授けることができるにもかかわらず、あなたがたの物質的な必要性がすべて満たされた後、はたしてこうした物事による満足感を、真理の追究に置き換えることは可能であろうか。それは明らかに不可能である。ここまで研究してきた神の性質、神の中にある物事や神の存在に関する知識は、すべて真理である。それらの事柄は、有形の物体の高額な価格で計測することが不可能なものであり、またその価値を金銭で数量化することも不可能である。なぜなら、それらの事柄は物質的なものではなく、各人の心の必要性を満たすものだからである。すべての人々にとって、こうした無形の真理の価値は、あなたが気に入っている、いかなる有形物の価値よりも高いものであるはずだろう。この命題については、暫く考察する必要がある。わたしが述べたことの要点は、神の中にある物事や神の存在、そして神に関する全ては、あらゆる者にとって最も重要な物事であり、それはいかなる有形物によっても置き換えることができない、ということである。ひとつ例を挙げる。空腹な時は、食べ物が必要である。この食べ物は比較的良いものである場合と、そうでない場合があるが、空腹を満たすことさえできれば、空腹の不快感は解消されてなくなる。落ち着いていられるようになり、身体も安らぐ。人間の空腹感は食べ物で解消するが、神に付き従ってきて、神を全く理解していなかったとしたら、その心の空虚感は、どのようにしたら満たすことができるであろうか。その空虚感を食べ物で満たすことができるであろうか。また、神に付き従っていて、神の旨を理解していなかったとしたら、そうした心の飢えは何を使えば満たすことができるだろうか。神による救いの経験過程において、自分自身の性質の変化を追求してゆくなかで、神の旨を理解していなかったり、真理とは何かを知らなかったり、神の性質を知らなかったりした場合、極めて不安にならないであろうか。心の飢えと渇きを強く感じないだろうか。そうした感覚により心の平静を阻害されないだろうか。それでは、どのようにすれば、こうした心の飢えを解消することができるだろうか。この飢えを解消方法は存在するだろうか。ある者はショッピングに出掛け、ある者は悩みを打ち明けられる友達を見つけ、ある者は眠り、ある者は神の言葉を読み、仕事に一層打ち込んで本分を尽くすために更に努力する。こうした物事で実際の問題を解決できるだろうか。こうした行動については、誰もが完全に理解している。無力感を覚えた時、真理や神の旨について知ることができるように神の啓示を得ることを渇望している時、一番必要なものは何であろうか。必要なものは、食事でも優しい言葉でもない。さらに言えば、必要とされるのは、一時的な慰めでも肉の欲を満たすことでもなく、神に、自分がすべきことは何か、それをどうすべきか、そして真理とは何かを、明瞭に直接伝えてもらうことである。たとえ少しであったとしても、こうした事柄を理解したら、良い食事を食べた時よりも心の満足感を感じないであろうか。心が満たされた時、心と人間全体が真の平安を得るのではないだろうか。この例と分析から、わたしが「人の子は安息日の主である。」という聖句を取り上げた理由が理解できたであろうか。この聖句は、神から与えられるもの、神の中にある物事、神の存在、そして神に関するあらゆる物事は、自分が嘗て最も大切だと想っていた物や人物を含めた他の何よりも偉大である、ということである。つまり、たとえば誰かが神の言葉を得られなかったり、神の旨を理解できなかったりしたとすれば、その者は平安を得ることができない。今後の経験のなかで、わたしがあなたがたにこの聖句を考察して欲しいと望んだかを理解するであろう。これは非常に重要なことである。神の業はすべて真理であり、いのちである。人間にとって真理とは、人間の生活に不可欠なものであり、真理なしで生活することは決して出来ない。真理が最も偉大なものであると言うことも出来るであろう。真理は、見ることも触ることも出来ないが、あなたがたにとってその重要性を無視することは出来ない。心の平安をもたらすことができるのは、真理だけである。


ヨブの証によって、後の世代に警告と啓きが与えられる

2020-04-16 00:49:31 | 賛美の心

  神がある人を完全に自身のものとする過程を理解すると、神がをサタンに渡したことの目的と意味も理解するようになる。ヨブの苦しみが理解できずに悩むことがなくなり、新たな意味を見出すのである。自分達も同じ誘惑に遭わなければならないのだろうかと心配することはなくなり、神からの試みを拒絶しなくなるのである。ヨブの信仰、従順、サタンに勝利したことの証しは、人々にとって大きな助けとなり、励ましとなる。ヨブを通して、自分自身の救いの望みを見出し、信仰と神への畏れによってサタンを打ち負かし勝利することが可能であることを見出すからである。神の主権と采配に従い、全てを失っても神には背かない決意と信仰があるならば、サタンを辱めてサタンに打ち勝つことができると知るのである。また、たとえ命を失っても、証しに固く立つ決意と忍耐力だけがあれば、サタンを怯えさせて退散させることができるのも知るのである。ヨブの証しは後の世代への警告である。つまり、後の世代がもし、サタンを打ち負かすことができなければ、サタンの非難と妨害から逃れることはできず、サタンの虐待と攻撃から抜け出すこともできないという警告である。ヨブの証しは後の世代に啓きを与えた。それにより、人々は、完全で正しくさえあれば、神を畏れ悪を避けることができることを教えている。つまり、神を畏れ悪を避けるならば、力強く生き生きとした神への証しを持つことができる。そして力強く生き生きとした神への証しを持つことができれば、サタンに支配されることはなく、神の導きと守りの中に生きることができる、そうして初めて真に救われるのだということを教えているのである。救いを求める者はだれでも、ヨブの人格とヨブの人生における追い求め方を見習うべきである。ヨブがその人生全てをどう生きたか、試練の中でどう振る舞ったか、神を畏れ悪を避ける道を追求する者たち全てにとって、それは大切な宝である。

ヨブの証が神に慰めをもたらす

   もしわたしが今ヨブを愛すべき人間だと言ったなら、あなたはその意味を理解することはできず、わたしの言葉の背後にある感情も理解できないかもしれない。だがもしヨブと全く同じ試練かそれに似た試練をあなたが経験し、逆境に直面し、神があなたのためだけに用意した試練を通り、その試練のただ中にあってあなたのすべてを捧げ、屈辱と困難に耐え、サタンに勝利して神の証しとなることがあれば、その時にはわたしの言う意味がよく分かるはずである。あなたはヨブよりもはるかに劣っており、ヨブが愛すべき人物で、見習うべき人物だと感じるだろう。その時になれば、ヨブが語ったこの言葉が今の時代に生きる堕落した人間にとってどれほど重要であり、ヨブの成したことが今日の人間にとってどれほど達成が困難であるかが分かるだろう。ヨブと同じことを達成することの難しさを感じることが出来たならば、神がどれほど心配するか、そしてそのような人々を獲得するために神がどれほどの代価を払ったか、人間のために神がしたこと、費やしたものの尊さを理解するだろう。ここまでの話を聞いて、ヨブに対する正しい理解と評価が得られたであろうか。あなたにはヨブは真に完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であると映るだろうか。ほとんどの人が、もちろんそのように映っていると言うことを信じている。ヨブの行動やヨブが示したことは、人間にとってもサタンにとっても否定できない事柄だからである。ヨブがサタンに勝利したことをそのような事柄は力強く証明しているのである。ヨブによるこの証しは、神に受け入れられた最初の証しである。それ故、ヨブがサタンの誘惑に勝利して神に証しを立てた時、神はヨブに希望を見出し、神の心はヨブによって慰められた。天地創造の時からこのヨブの時代までを通じて、神が慰めを真に感じ、人間によって慰められるとはどのようなことかを知ったのは、このヨブによる経験が初めてである。この時神は、自身に対して真の証しを立てるものを初めて見ると同時に、獲得したのである。

   ヨブの証しとヨブのいくつかの側面に関する学びを通して、大半の人々が自身の進むべき道に対して計画が立てられると信じている。それと同時に、心にある不安や恐れが少しずつ消え、心身ともに穏やかになり、心安らかになっていくことと信じている。

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サタンがヨブを初めて誘惑する(ヨブの家畜が盗まれ、ヨブの子供たちに災いが降りかかる)

2020-04-15 00:31:36 | 賛美の心

a.神が語った言葉

   (ヨブ記1:8)ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

   (ヨブ記1:12)ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンはヤーウェの前から出て行った。

b.サタンの返答

   (ヨブ記1:9-11)サタンはヤーウェに答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

   ヨブの信仰を完全なものとするため、神はサタンがヨブを誘惑することを許す

 

   ヨブ記1:8は、聖書の中でのヤーウェ神とサタンのやりとりが記録されている最初の箇所である。そこで神は何と言っただろうか。聖書は次のように言っている。「ヤーウェはサタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』。」。これが、神がサタンに語ったヨブの評価である。ヨブは完全で正しい人、神を畏れ悪を避ける人だと神は言った。このやりとりの前、神は、ヨブを試みるためにサタンを用いることを決意し、ヨブをサタンの手に渡すことを決意した。ある意味では、神がヨブをサタンに渡したことで、神のヨブに対する見方と評価が正しく、何も間違えていなかったことが証明される。それにより、ヨブの証しを通してサタンが辱められる。そしてまたそれは、ヨブの神に対する信仰と神への畏れを完全なものとする。それゆえ神は、サタンが神の前に現れた時、曖昧な表現は使わず、単刀直入にこう聞いた。「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。この神の質問には次のような意味がある。神はサタンがあらゆるところを巡っているのを知っており、神のしもべであるヨブをしばしば偵察していることも知っていた。サタンはしばしばヨブを誘惑し、攻撃し、何とかヨブを崩壊させようとした。ヨブの神への信仰と神に対する畏れは堅固なものではないと証明しようとしたのである。サタンはヨブを虐げる機会をうかがって、ヨブに神を捨てさせ、神の手からヨブを奪おうと考えた。しかし神はヨブの心を見、ヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避けることを知った。サタンに対する質問を通して、神はヨブが完全で正しい人であり、神を畏れ悪を避け、神を捨ててサタンに従うことは決してないことを伝えたのである。ヨブに対する神の賞賛の言葉を聞いたサタンは、屈辱から怒りを感じ、その怒りは大きくなり、何としてもヨブを奪いたいと思った。サタンは完全で正しく、神を畏れ悪を避けることのできる人間などいないと信じていたからである。そしてまたサタンは人間の完全さと正しさを嫌っていたので、神を畏れ悪を避ける人を憎んでもいた。ヨブ記1:9-11には以下のように書かれている。「サタンはヤーウェに答えて言った、『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』。」神はサタンの悪意に満ちた性質をよく知っており、ヨブを虐げようと企んでいたことも良く知っていた。そのため神は、サタンに改めてヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人間であることを伝えることで、サタンが神と調和してその真の姿をヨブの前に現し、ヨブを試すようにすることを望んだのである。つまり、神はあえてヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であると強調し、そうすることで、ヨブの完全で正しく、神を畏れ悪を避ける生き方を憎み、深く怒るサタンを用いてヨブを試したのである。ヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける事実を通して、結果的にサタンが恥じ入り、完全に辱められ、打ち倒されるためである。そうすることで、サタンはヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であることを疑ったり非難したりすることはなくなるだろう。そのような訳で、神の試練とサタンの誘惑は避けることは困難だったのである。神の試練とサタンの誘惑に耐えることのできる者はヨブ以外にいなかった。このやりとりの後、サタンはヨブを誘惑する許可を得、サタンの最初の攻撃が始まった。この時はヨブの財産に対して攻撃が行なわれた。次の聖句に書かれたヨブの財産に関する非難の言葉からそのことが分かる。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。…あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです」。この言葉に対して、神はサタンがヨブの全財産を取り上げることを許している。これこそが神がサタンと語った目的であった。しかしその時、神はサタンにひとつのことを要求した。「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」(ヨブ記1:12)これが、ヨブへの誘惑をサタンに許可し、ヨブをサタンの手に渡した際に神が出した条件だった。そしてこれが、神によって定められたサタンへの制限だった。つまり神は、ヨブに危害をくわえてはならないと命令したのである。なぜなら、神はヨブが完全で正しいことを知っており、ヨブが神の前で完全で正しい人でいられることを疑っておらず、試練に耐えられると信じていたからである。それゆえ、神はサタンにヨブを誘惑することを許すと同時に、制限を与えたのである。サタンはヨブの全財産を取り上げることを許されたが、ヨブに指1本触れることはなかったのである。これは何を意味するだろうか。それは、神はその時ヨブを完全にサタンに渡したわけではないということである。サタンはヨブを試みるためにどのような手段も使うことができたが、ヨブ自身に危害を加えることはできず、髪の毛に触れることすらできなかった。それは、人間の全ては神によって制御されており、人間が生きるか死ぬかは神によって決められることで、サタンにそれを決める権利はなかったからである。神がサタンにヨブを試す許可を与えた後、サタンは即座にヨブへの誘惑を開始した。サタンはあらゆる方法でヨブを試み、間もなくヨブは神に与えられたたくさんの羊や牛などの財産を失った。このようにして、神の試練がヨブに注がれた。

   聖書を読めば、どうしてヨブに試練が降りかかったかが理解できるが、試みに会っているヨブ自身は、はたして何が起こっていたか理解していただろうか。人間に過ぎないヨブが、自分に降りかかった試練の背景にあるものを知るはずもない。しかし、神を畏れ、完全で正しいヨブには、神からの試練だと認識することができた。霊的領域で起きていたことや、試みの背後にある神の意図はヨブには分からなかったが、何が起ころうとも、完全で正しくあり続け、神を畏れ悪を避けて生きるべきだということをヨブは知っていた。このような出来事の中でのヨブの態度と反応を、神ははっきりと見ていた。神は何を見ていたのだろうか。神は、神を畏れるヨブの心を見ていた。というのは、ヨブの心は初めの時から試練を受けた時までずっと、神に対して開かれており、神に委ねられており、自身の完全さと正しさを手放すことはなく、神を畏れ悪を避ける生き方を変えなかった。神にとってこれ以上嬉しいことはなかったのである。次に、ヨブの試練がどのようなものであったか、そしてそれらの試練にヨブがどう対処したのかを検討する。それでは聖句を読む。

c.ヨブの反応

   (ヨブ記1:20-21)このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。

   ヨブが自分の所有するものを全て返したのは神に対する畏れに起因するものである

   「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」という神の言葉の後、サタンはその場を去り、間もなく、ヨブは突然の激しい攻撃を受けた。まず、ヨブの牛とロバが略奪され、しもべ達が殺された。次に、ヨブの羊としもべ達が焼き殺された。そしてらくだとしもべ達が殺され、ついには彼の息子、娘たちの命も奪われた。この一連の攻撃が、最初の試練でヨブに降りかかった試練である。神の命令により、これらの攻撃の最中、サタンはヨブの財産と子ども達だけを攻撃し、ヨブ自身を傷つけることはなかった。だがヨブは、多くの富を持つ裕福な人間から、無一文の人間へと変わってしまったのである。このような突然の激しい試練と財産の喪失に耐えられるものはいないが、そのような中でヨブは並外れた側面を見せた。聖書は次のように言っている。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。ヨブが自分の子ども達と全財産を失ったと知った時にまず見せた態度はこのようなものであった。まず驚くこともうろたえることもなく、ましてや怒りや憎しみを現すことなどなかった。つまり、ヨブは自分に起こった災難が偶然でもなく、人間によるものでもなく、ましてや報いや罰などではないと初めから分かっていたのである。それはヤーウェからの試練であり、ヤーウェが自分の財産と子ども達を取り上げることを望んだのだと知っていたのである。ヨブの心はいたって穏やかで、思考もはっきりしていた。ヨブの完全で正しい人間性ゆえに、降りかかった災難を理性的に、自然に判断し決断することができ、並外れた冷静さで対応することができたのである。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した。」「上着を裂き」というのはヨブが衣服を身につけておらず、何も持っていなかったことを意味する。「頭をそり」というのは、生まれたばかりの赤児として神のもとへ戻ったことを意味する。「地に伏して拝した」というのは、ヨブがこの世に裸でうまれ、今日も何も持たず、赤児のままで神のもとに戻ったことを意味する。降りかかった全ての出来事をヨブのように受け止めることができる被造物は存在しない。ヨブのヤーウェに対する信仰は、単に信じるという領域を越えていた。それは神への畏れであり、従順である。ヨブは神が与えることに感謝したのみならず、取られることにも感謝したのである。さらにヨブは、自分の命も含めて、全財産を自らすすんで神に返すことができたのである。

   ヨブの神への畏れと従順は人類の模範となるものであり、彼の完全さ正しさは人間が持つべき人間性の頂点である。彼は神を見ることはなかったが、神は存在すると認識しており、ゆえに神を畏れた。そして神への畏れのゆえに、彼は神に従うことができた。彼は神が自分の持てるもの全てを自由に取り上げることを許し、そしてそのことを不満に思うこともなく、神の前にひれ伏し、たとえその瞬間に神が自分の肉体を取り上げることがあろうとも、不満など言わずに喜んで受け入れると言ったのである。彼の行動全てが彼の完全で正しい人間性によるものだった。つまり、彼の純粋さ、正直さ、優しさの結果、神の存在に対する経験と確信は揺らぐことがなかったのである。そしてこのようなものが基礎となって、神による導きと彼が万物において目にしてきた神の行いに沿って、自分にすべきことを課し、神の前での考え方や振る舞い、行いや行動の原則を標準化したのである。時間とともに、ヨブの経験は、神に対する現実的で実質的な畏れをヨブの中に生じさせ、悪を避けるようにさせた。これがヨブの誠実さの根源となっているものである。ヨブは正直で、汚れのない、優しい人間性を持っており、実際に神を畏れ、神に従い、悪を避けるという経験をしており、それと同時に「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ」という認識を持っていた。これらの理由だけで、サタンのあれだけひどい攻撃を受けながらも固く立ち、神の証人となることができた。またこれらの理由だけで、神の試練を受けた時にも神を失望させず、神に満足する答えを返すことができたのである。ヨブの最初の試みに対しての行動は非常にまっすぐなものだったが、後の世代の人々は一生努力を重ねてもヨブのようなまっすぐさを会得したり、あるいは彼のような行動がとれるまでになれたりするかは定かではない。今日、ヨブのまっすぐな行動を見て、そのヨブの行動と神を信じ従っていると自称している人々の「死までの完全な従順と忠誠」の叫びと決意とを比べると、あなた方は恥じ入るだろうか、あるいは恥じ入らないだろうか。

   ヨブと彼の家族の苦しみを聖書で読んで、みなさんの反応はどのようなものだろうか。戸惑いを感じるだろうか。驚いているだろうか。ヨブが受けた試練は「恐ろしい」と言えるものだろうか。つまり、聖書に書かれているヨブの試練を読むだけでも恐ろしく、実際にそれがどのように恐ろしいものだったかを説明するまでもない。であれば、ヨブに起こったことは「演習」ではなく、「銃」と「銃弾」を伴う「実戦」であることがわかる。では誰の手によってこの試練は起こされたのだろうか。もちろんサタンによってである。サタンによって直接行なわれたのである。しかし、神がその権限を持っていた。神はサタンに、どのようにヨブを試みるかを指示しただろうか。神はそのようなことは伝えていない。神はサタンにひとつの条件を与えただけで、その後ヨブに試練が臨んだ。ヨブに試練が臨んだ時、サタンの邪悪さと醜さ、サタンの人間に対する悪意と嫌悪、神に対する敵意が人々に伝わった。それにより、ヨブの試練がどれほど壮絶なものであったかが言葉では表現できないことが分かる。この瞬間に、サタンの人を虐げる悪意に満ちた性質と醜い顔とがはっきりと現れたと言える。サタンは神の許可により得た機会を用いて、残虐にも激しくヨブを痛めつけ、その程度は今日の人々には耐えられないほど想像を絶するものであった。ヨブはサタンの試みに遭ったけれども証しに堅く立ち続けたというより、むしろ、神がヨブに与えた試練の中で、ヨブ自身がサタンと戦うことで、自身の完全さと義を守り、神を畏れ悪を避ける道を守ったという方が良いだろう。この戦いで、ヨブは多くの羊と牛、全ての財産、息子・娘達も失った。しかし彼は完全さと義、神に対する畏れを捨てることはなかった。つまり、このサタンとの戦いで、ヨブは完全さ、正しさ、そして神への畏れを失うより、財産と子供を失う方を選んだのである。人間であるということはどういうことなのか、その根源を手放さないことを選んだ。聖句にはヨブが財産を失った全過程が簡潔に記されており、その事に対するヨブの対応や態度も記されている。記述が簡潔な故に、試練にあったヨブがあたかもゆったりと構えていたかのような印象を与えるが、もしその時に起こったことを再現し、悪意に満ちたサタンの性質も再現したならば、聖句に書かれているように簡単ではない。実際には書かれているよりはるかに過酷だったのだ。人間と神に認められているもの全てに対するサタンの扱いは、それほどまでに破壊的で憎しみに満ちているのである。もし神が、ヨブ自身に害を加えてはならないとサタンに伝えなかったならば、サタンは平気でヨブを殺していただろう。サタンは誰も神を崇拝することを望まず、神の目に義なる者や完全で正しい者が神を畏れ続け、悪を避け続けることを望まない。人々が神を畏れ悪を避けることは、サタンを避けて見捨てるということである。それであるから、サタンは神からの許可を利用して、怒りと憎しみを情け容赦なくヨブにぶつけたのである。ヨブの心と体が、内側も外側も、どれほど苦しんだかが分かるであろう。その時の様子がどんなであったかは今日のわたしたちが知ることはできず、聖句を通して、試練に遭ったヨブの当時の感情を僅かに知ることができるのみである。

   ヨブの揺るぎない高潔さはサタンを恥じ入らせ、慌てて退散させた

   ヨブが試練に遭っていた時、神は何をしていただろうか。神はその様子を観察し、試練の結果がどうなるかを待っていた。観察し、待っている間、神はどう感じただろうか。勿論、悲しみに打ちひしがれた。しかし、あまりの悲しみに、サタンがヨブを試みることを許可したことに対して、神は後悔しただろうか。神は後悔しなかった。ヨブが完全で義人であり、神を畏れ悪を避ける人であると神は堅く信じていた。神はサタンによってヨブが神の前に義なる人間であることを証明させる機会を与え、サタンの邪悪さと卑劣さを暴露させただけである。それはヨブにとって、義人であり、神を畏れ、悪を避ける自身を世界の人々とサタンさらには神に従う人々にまでも証しする機会となった。そしてこの試練の結果は、ヨブに対する神の評価が正しく、何も間違っていないことを証明しただろうか。ヨブは果たしてサタンに打ち勝っただろうか。ヨブがサタンに打ち勝ったことを証明する典型的な言葉が書かれている。ヨブは言った。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。」これがヨブの神に対する従順であった。そしてヨブはまた言った。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな。」ヨブのこれらの言葉は、神は人の心の奥深くを見ていること、人の考えを見ていることを証明するもので、ヨブに対する神の評価に誤りはなく、確かにヨブは正しいひとであったことを証明する。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。これらの言葉はヨブの神への証である。サタンを脅かしたのはヨブが普通に使っていたこのような言葉で、それがサタンを辱め、慌てて退散させることになった。さらにはサタンに足かせをつけ、骨抜きにした。それだけでなく、ヨブの言葉はヤーウェ神の偉大さと業の力を実感させ、その心が神に支配されている者がどれほど並外れた能力を持つことができるかをサタンに思い知らせた。そして更には、ヨブという取るに足りない普通の人間が、神を畏れ悪を避けることに対する驚くべき力をサタンに対して見せつけたのである。こうしてサタンは最初の戦いに敗れたのである。「痛い思いをして理解した」にも関わらず、サタンはヨブを諦めようとせず、その邪悪な性質も変わらなかった。ヨブを攻撃しようと、サタンは再び神の前に来た。


どのように男女関係の誘惑に勝利したか(第一部)

2020-04-14 23:48:56 | 賛美の心

   ある晩、ジンルは片付けをしていた。

   「プルルル・・・」電話が鳴った。電話に出ると、聞こえてきたのは、何となく聞き覚えのあるような声だった。「やあ、僕だ、ワン・ウェイだよ。帰って来てるのかい。」

   「ワン・ウェイ?」ジンルは驚いた。「何年も会っていないのに、なぜ突然電話してきたのだろう。」

   「ええ・・・帰ってるわ。何か?」ジンルは答えた。

   「久しぶりだな。ドライブしないか。今そっちに向かってて、もうすぐ着くんだ。外で待ってて。」そうワン・ウェイは言った。

   電話を切ったジンルの心臓は高鳴り、学生時代に引き戻された……

   ジンルは美しいだけでなく、成績も優秀で、ワン・ウェイ以外にも何人もの男子生徒が彼女のことを追いかけた。色々な手を使ってジンルの気を引き、近づこうとした。メッセージを送ったり、手紙を書いたり、贈り物をしたりした。だがジンルは従順で繊細な娘で、勉強に影響が出たり両親の期待を裏切ったりするようなことに心を動かされることは望まなかった。ワン・ウェイのしつこい誘いにもいつも無関心な態度をとっていた。だがワン・ウェイは冷たくされても諦めなかった。数年後、ワン・ウェイは相変わらずジンルを追いかけていた。ワン・ウェイの自分に対する変わらない態度に、ジンルの気持ちはほんの少しだけ動いた。その後、ワン・ウェイの周囲には一日中数人の女子がいるようになった。ジンルの静かな気持ちがざわつき始めた。ジンルは、その学期が終わるまで、ワン・ウェイを試そうと思った。彼についてまわる女子に心を奪われることなく自分を追いかけ続けるのであれば、ワン・ウェイの誘いに答えようと考えた……

   ブッブー。車の合図でジンルは我に返った。ワン・ウェイは外で待っていた。

   ジンルは車に乗り込み、久しぶりに、そして突然、ワン・ウェイと再会した。二人は黙ったままだった。

   特に当てもなくドライブしたが、何となくぎこちない空気が流れていた。

   かなり経ってからワン・ウェイが口を開いた。「で・・・元気にしてたのかい?」

   「ええ、元気よ。とっても。」ジンルは静かに答えた。

   「今までいったいどこにいたんだい?ちっとも見つからなかったよ。地球から消えちゃったのかと思ったよ。たまたま友達のケータイできみの番号を見つけて、それで電話したんだ。じゃなければもう一度会えるのかどうかも分からなかったよ。」運転しながら時折ジンルの方を見てワン・ウェイが言った。

   「隠れてた訳じゃないわ。忙しかったの、仕事が。友達と連絡取る時間もなかったのよ。」ジンルは落ち着いた口調で言った。車を道の脇に寄せると、ワン・ウェイは心の中の思いを話し始めた。その低い声は悲しみと後悔に溢れていた。「学生のころはいつもきみを追いかけていた。5年間も。でもきみはいつも僕に冷たかった。いったいどうその時期を過ごしたのか自分でも分からない。きみが学校を卒業してから、僕は士官学校に行った。でもきみのことばかり考えていた。卒業してから、僕はきみを探し回った。でも見つけられなかった。結局僕は、家族からのプレッシャーに負けて結婚した。それでも僕の心にはいつもきみがいたんだ。今でも、これからもずっとそうだ。偶然きみの電話番号を見つけた時には、後悔しかなかった。きみを待たずに結婚してしまったことを。もっと早くきみに再会できなかったことを……」

   ワン・ウェイの心の底からの告白に、ジンルは強い悲しみを感じた。昔から美しい顔立ちだが、成熟した立派な大人の顔になったワン・ウェイを見たジンルは、自分の心がワン・ウェイに惹かれることに自分でも驚いた……

   「君のことを追いかけ続け、冷たくあしらわれてきて、僕は暗闇の中にいた。そしてもう一年、君からの応答を待つことにした。だが結局・・・君は君のまま、僕は僕のままだ。なぜなんだ。なぜいつも僕を無視したんだ。僕のことをどう思ってたんだい?教えてくれないか。」傷ついたワン・ウェイは言った。

   ワン・ウェイの言葉を聞いて、ジンルもまた心が痛み、後悔した。「当時自分に思いやりがなかったためにワン・ウェイを傷つけたこと、そして自分が無関心だったためにワン・ウェイと共に過ごす機会を逃したことを。」ワン・ウェイを見ながら、何年もの間自分を思い続けてきたことにジンルはため息を漏らした。自分はもう若くはなく、未だに付き合っている人もいない。友人はみな結婚し、自分だけひとりでいることを思った。自分も誰かに愛され、強い絆で結ばれたい、そう思った。ワン・ウェイと一緒になることを思った時すらあったのだ。ワン・ウェイが自分を追いかけ続けていたことを思い出し、当時はそれを理解できなかったことを思った。そのワン・ウェイが今でも自分を忘れずにいる。ジンルはそんなワン・ウェイの気持ちに答えて一緒になりたいとさえ感じた。だが彼女の理性は、「ワン・ウェイは結婚しているのよ。クリスチャンとして、証しにならなければ。衝動にかられて自分の感情をそのまま伝えてはいけないわ。神様の要求に沿った行動を取らなければ、神様の御心には沿えないわ。」ジンルはそうは思ったものの、心の奥深くで、彼女の理性は方向を失い、苦しかった。

   ジンルは混乱した気持ちを整理し、何ともないように言った。「あのときは次の学期が終わるまであなたを試したかったのよ。もしそれであなたの気持ちが変わらなかったら、付き合ってもいいと思ったの。でもそれから両親の自分に対する期待を考えたわ……こうなることが運命だったのよ。」

   感情を抑えてそう言ったものの、ジンルの心は苦しかった。もし当時に戻れるなら、迷わずワン・ウェイと付き合う、そう思った。そうなっていればこんなことにはならなかったのに。だが今、必死に自分の気持ちを抑えようとするジンルの頬を、涙が伝い、ワン・ウェイに涙を見られないと窓の方を向いた。だがワン・ウェイはジンルの涙を察し、急いでティッシュを取ると、ジンルの涙を拭こうとした。

   ジンルは心の中で神を呼び求め、誘惑に陥らないように、クリスチャンの証しから外れることのないようにと助けを求めた。ティッシュを受け取り、ジンルは言った。「大丈夫よ。」すると、涙を拭いたジンルの手をワン・ウェイが握って自分の肩に引き寄せた。混乱したジンルは、ワン・ウェイの肩に慰められたかった。恍惚としたジンルが、ワン・ウェイの肩にもたれようとしたその瞬間、神の教えと警告がジンルの心に響いた。「悪を行うすべての人々(姦淫する者、あるいは汚れたお金を扱う者、男女の境界が不明瞭な者、わたしの経営を邪魔したり損なったりする者、霊が塞がれている者、あるいは悪霊に憑かれている者など―わたしの選びの民を除くすべての者たち)について言えば、誰ひとり放免されることも、赦されることもなく、全員がハデスに投げ込まれ、永遠に滅びるだろう。」(『キリストの初めの言葉』より)ジンルがそれは神からの裁きと非難であると感じた途端、彼女は我に返った。ジンルは神が聖なるお方であり、神の性質は義であり背くことができないもので、汚れた肉体関係といい加減な男女関係に関わる者は神が最も嫌われることを知っていた。もし自分が男性と過った関係に陥るなら、永遠に汚れ、罪に定められ、神に嫌われ、呪われることを知っており、クリスチャンとしての証しも神の救いも失うと知っていた。一歩でもワン・ウェイの方に傾けば、自分は完全にダメになると分かっていた。そんな状況の中、ジンルはそれまで感じたことのない恐怖と不安を感じた。ジンルは神の性質に背くことは出来ないと思うと同時に、ワン・ウェイの結婚生活を尊重しなければならないと感じた。もはやワン・ウェイは自分を追いかけていた学生ではなく、妻子ある一人の男性なのだ。ここでジンルが一歩誤れば、ワン・ウェイの家庭が崩壊し、自分は女性として恥ずべき人間になってしまう。神の言葉はジンルの中に、神を畏れる心を呼び起こした。持てる力を振り絞り、ジンルは冷たく言った。「もう手遅れよ。家に帰りたいわ。」

   「君はなぜこんなにいつまでも僕を拒否するんだい?君を慰めることもできないのかい?」不満そうにワン・ウェイが言った。

   「誤解よ。あなたを拒んでいる訳じゃないわ。敬意を表わしているのよ。あなたには家庭があるんだもの。家族をかんがえなきゃ。」ジンルは落ち着いてそう言った。

   「じゃあ僕が離婚したら?そうしたらチャンスはあるかな。口先だけで言ってるんじゃない。」ワン・ウェイはそう言ってジンルに迫った。

   その言葉を聞いたジンルの心は再び揺れ、どのような言葉を返せばよいか分からなかった。心の中でただこう祈った。「ああ神様!どうか私の心を守り、あなたのご性質に背くことから私をお守りください。」そう祈ったジンルの心に次の言葉が思い浮かんだ。「彼らの言葉はあなたの心を養い、あなたを虜にする。そうすることであなたが迷い、知らず知らずのうちに引き込まれ、進んで彼らに尽くすようになり、あなたは彼らのはけ口となり、しもべとなるようにする。あなたは不平ひとつ言わず、彼らの思うままになる―彼らにだまされているのだ。」(「あなた方はみな人格が卑しすぎる」より)神の言葉によってジンルはもう一度気づかされ、自分の心が揺れているのは邪悪な欲に陥りそうだからだと気づいた。これはサタンの狡猾な策略による誘惑であり、それによって罪の中を生きるようにさせ、クリスチャンとしての証しを失わせ、堕落の一途を辿って腐敗させようとしているのだ。だから自分がしっかりと見分け、サタンの巧みな策略を知らなければならない、そうジンルは理解できた。ワン・ウェイは既に結婚している。「それは事実だ」一時の甘い言葉に理性を失い、騙されてはならない、そうジンルは理解できた。もし道を誤って間違ったことを言えば、サタンに騙されてサタンに仕えることになり、恥ずべき女となってしまう。そうなれば、ワン・ウェイの家庭は崩壊し、ワン・ウェイの妻子はこの先ずっと苦痛を抱えていくことになり、ジンル自身も神の前に修復不可能な汚れを残すことになる──とんでもない結果になるのだ。

   その事に気づいたジンルは気持ちをしっかりと持ち直し、静かに答えた。「おかしなこと言わないで。たとえ離婚しても、私たちは友達でしかないわ。冗談でしょ。さあ家まで送ってくれない?」ジンルの決意が固いことを見取ったワン・ウェイは、それ以上何も言わなかった。

   ジンルの家の前に着いてジンルが車を降りようとした時、ワン・ウェイは再びジンルの手を取ろうとした。だがジンルは急いで車を降りて入り口の方へ向かった。家の中に入ったジンルはベッドに倒れ込んだ。今日起きたことを振り返って、なかなか心を静めることができなかった。色んな感情がこみ上げてきた。神の守りがなかったならば、恐らくワン・ウェイの告白と思いやり、慰めに引きずられずにはいなかっただろう。そして醜く不道徳なことをして相手の家庭を崩壊させただろう。そして更に深刻なことは、恐らく感情的誘惑に負けて神の性質に背き、クリスチャンとしての証しを失い、赦されない罪を一生後悔することになっただろう。神の言葉がどれほど大切かを、ジンルは痛感した。それによって神に守られただけでなく、誘惑の中にあっても冷静に、そして自分の言動に敏感でいることができ、正常な人間性を生きることができた。この経験は、ジンルに安らぎと喜びを与えた。ジンルは神に感謝と讃美を献げずにはいられなかった。サタンの誘惑に勝利して堅く立ってクリスチャンとして証しとなることが出来たのは、神の守りがあったからだ。ジンルは神の前に出て感謝の祈りを捧げ、眠りについた。