いのちの源

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霊的世界とは何であろうか

2020-04-13 23:36:33 | 賛美の心

 それでは、霊的世界について話をしよう。霊的世界とは何であろうか。わたしが簡潔に説明する。霊的世界とは、物質世界とは異なる重要な場所である。それでは、わたしがそれを重要であると言う理由は何であろうか。これについて詳細に話をする。霊的世界の存在は、人間の物質世界と不可分の関連性がある。霊的世界は、神による万物の統治のうち人間の生死の周期において重要な役割を担い、この役割がその存在が重要である理由のひとつである。霊的世界は五感で認識できない領域であるため、それが存在するかどうかを正確に判断できる者は存在しない。霊的世界における出来事は人類の存在と密接に関連し、そのため人間の生き方もまた霊的世界から甚大な影響を受ける。これは神による統治に関連するであろうか、というと、関連する。こう述べると、わたしがこの事項について話をする理由を理解できるであろう。霊的世界は神による統治と管理に関連するから、というのが、その理由である。このように、人間が見ることのできない世界における天の命令や律法、統治組織は、物質世界におけるどの国家の法令や組織よりも遙かに優れており、この世界に生きるもののうち、そうした命令や律法、統治組織に背いたり濫用したりしようとする者は、一切居ないであろう。これは神による統治と管理に関連するであろうか。霊的世界には、明確な行政命令と、明確な天の命令、規則がある。様々な段階と領域において、執行官は厳密にその任務と規則を遵守する。なぜなら、執行官は天命に背いた時の報いが何か、神がどのように邪悪を罰し、善良に報いるか、神がどのように万物を統治し、支配するか、そして神がどのようにして天の命令と憲章を実施するかを明確に理解しているからである。これらの事柄は、人間が住む物質世界と異なるであろうか、というと、大いに異なる。霊的世界は、物質世界とは全く異なる世界である。天の命令と規則があるため、霊的世界は、神による統治、支配、そして神の性質と神が持っているものや神であるものに関連する。この話を聞くと、あなたがたはわたしがこの事項について話す必要性が大いにあると感じないであろうか。霊的世界の秘密について知りたいと思わないであろうか。霊的世界の概念は、これまで述べた通りである。霊的世界は、物質世界と共存し、同時に神による支配と統治の対象となっているものの、神による霊的世界の統治は、神による物質世界の統治よりも遙かに厳格なものである。詳細に関しては、まず霊的世界がどのように人間の生死の周期の働きに関与しているかという問題を取り扱う必要がある。なぜなら、この働きは、霊的世界の存在の働きの大きな部分だからである。

 すべての人間を3つの類型に分類する。最初の類型は、信仰の無い人々で、信者以外の者である。これらの者を、信者以外の者という。信者以外の者のうち、大部分は金銭のみを信じ、自分自身の利益のみを追求し、物質主義的であり、物質世界のみを信じ、生死の周期や、神性、幽霊に関する噂は信じない。こうした人々を、信者以外の者と分類し、それを最初の類型とする。2番目の類型は、信仰の無い人々以外で、様々な宗教の信者の人々である。人類のうち、こうした信者を、数種類に大別する。この種の人々は、ユダヤ教徒、カトリック教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒の5種類に分類される。信者には、これらの種類がある。3番目の類型は、神を信仰する人々であり、あなたがたに関連する類型である。この種の信者は、現在神に付き従っている人々である。この種の信者は、神の選民と、奉仕者という2種類に区分される。そうしたわけで、これらの主要な類型は明確に区別されている。これで、あなたがたは、心の中で人間の類型と階層を明確に区別できる。最初の類型は、信者以外の人々である。信者以外の人々がどのような人々かは、既に述べた。信者以外の人々の多くは、蒼天を信じ、風、雨、雷は、すべてこの蒼天により支配されていると信じ、穀物の植え付けや収穫の際にこの蒼天に依存しているものの、神の信仰の話になると、反感を抱く。これは神の信仰であると言えるであろうか。こうした人々は信仰の無い人々に含まれる。神を信仰せず、蒼天のみを信じる人々は、すべて信仰の無い人々である。神を信仰することも、神に付き従うことも無い人々は、すべて信仰の無い人々である。2番目の類型は、5大宗教に属する人々であり、曖昧な神を信仰する人々である。3番目の類型は、終わりの日に受肉した実践の神を信じ、神に現在付き従っている人々である。それでは、わたしが全ての人間をこれらの類型に分類したのは、何故だろうか。(それらの類型の人々には、それぞれ異なる終着点と終末があるからである。)それは側面のひとつである。それは、こうした異なる人種や類型の人々が霊的世界へと還る時、人々はそれぞれ異なる場所へと向かい、生死の周期に関する異なる法則の対象となるからであり、そのことが、わたしが人間をこうした3つの類型に分類した理由である。

 

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神の権威により、第一の日に人類の昼と夜が生まれ、確立した

2020-04-12 22:42:11 | 賛美の心

  それでは、最初の聖句を検討する。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。」(創世記1:3-5)この聖句では、創世における神の最初の行動が描写されており、神の過ごした最初の日と、その日に昼と夜があったことを説明している。しかしこの日は特別であった。神は万物に対して光を造り、さらに光と闇を分けた。この日、神は言葉を述べ始めているが、神の言葉と権威は隣り合わせに存在していた。神の言葉により、神の権威が万物の前に示され、神の力が万物に及んだ。この日以降、神の言葉、神の権威、神の力により万物が創造され、確立され、神の言葉、神の権威、神の力により、それらのものが機能し始めた。神が「光あれ」と言った時、光が生まれた。神は大仕事に取りかかったのではなく、神の言葉により光は創造された。その光は、神が昼と呼ぶ光であり、現在も人間が生活の中で依存する光である。神の命令により、その本質と価値は変わることがなく、消滅することもない。その存在は、神の権威と力を示すものであり、また創造主の存在を示し、その身分と地位を繰り返し確認するものである。その光は無形でも架空でもなく、人間が見ることのできる、実際の光である。その「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、」空虚であった世界に、最初の具体的なものがその時生み出された。その「具体的なもの」は神の言葉により生み出され、神の権威と言葉により、創造された万物のなかで最初のものとして出現した。その後間もなく、神は光と闇が分かれるよう命じた。神の言葉により、全てが変化し、完了した。神は、その光を「昼」と呼び、闇を「夜」と呼んだ。その後、神が創造しようとする世界に最初の夜と最初の朝が造られ、神はそれが第一の日であると言った。この日は創造主による万物創造の初日であり、創造の始めであり、創造主の権威と力が、創造主が創造した世界に示された最初の時であった。

 これらの言葉により、人間は神の権威と、神の言葉の権威、そして神の力を見ることができた。こうした力は、神のみが持つものであり、したがって神のみがそうした権威を持ち、神がそうした権威を持っていたため、神のみがそうした力を持っている。人間や物がこうした権威や力を持つことができるであろうか。何か答えが思い当たるであろうか。神以外に、造られた物あるいはそうでない物で、そのような権威を持つ物はあるだろうか。そうした物の例を、他の書籍や出版物で見たことがあるだろうか。天と地などのすべてを造った人物の記録は残されているだろうか。そうした物は、聖書以外の書籍や記録に登場しない。無論、これらの言葉は、神の壮大な創造に関する権威と力のある唯一の言葉であり、聖書に記録され、神のみが持つ権威と身分について述べた言葉である。こうした権威や力は、神独自の身分を象徴するものであると言えるであろうか。これらの権威や力は神のみが持つものであると言えるか、というと、そう言えることに何の疑念の余地も無い。この権威と力は、創造された物やそれ以外の物のいずれも持つことのできないものである。これは神自身だけが持つ特徴のひとつであろうか。あなた方は、それを目の当たりにしただろうか。これらの言葉により、人間は、神が唯一の権威と力を持っていること、そして至高の身分と地位にあることを、迅速かつ明瞭に理解することができる。あなた方は、以上で伝えた内容に基づいて、あなた方が信じる神が唯一の神自身であると言えるであろうか。

 

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創造主の権威のもとでは、万物が完璧である

2020-04-05 01:46:39 | 賛美の心

 鳥や魚、木や花、神により造られた物は、移動する物と移動しない物を含め、第六の日に造った家畜や昆虫や、野生動物を含め、すべて神にとって良いものであり、また神から見て、神の計画によれば完璧に達しており、神が望む基準を満たしていた。創造主は、自身の計画に従って自身が意図した業を、段階的に実施していった。神が造り出すことを意図していた物が次々と生まれ、そうした物の出現は創造主の権威の反映であり、結晶化であった。また、こうした結晶化のために、あらゆる生物は、創造主の恵みと施しに対する感謝の念を感じずにはいられなかった。神の奇跡の業が現れると、この世の中は神が造った物で少しずつ拡大してゆき、混沌と闇の状態から、明瞭で明るいものへ、また死の静寂から生の無限の活力へと変化していった。大きいものから小さいもの、そして微小なものまで、創造されたあらゆる生物には、創造主の権威と力により造られなかったものは存在せず、それぞれの生物に固有の、生来の必要性と価値がある。あらゆる生物は、その形状や構造の相違に関係なく、創造主の権威に従って存在するよう、創造主により造られている。時として、極めて醜い昆虫を見て「酷い虫だ。こんな醜い虫が神に造られたはずがない。神がこんな醜いものを造るなどあり得ない。」などと言う人がいるが、極めて愚かな考えである。むしろ次のように言うべきである。「この虫は極めて醜いが、神が造った虫なのだから、この虫にしかない目的があるはずだ。」神の考えにおいては、神が創造した生物すべてに、様々な外観と機能と目的を授けられる意向であったので、創造された生物は、決して紋切り形ではない。創造された生物は、外観や内部構造、生活習慣や棲息地に至るまで、それぞれ異なるものである。牛には牛の、ロバにはロバの、鹿には鹿の、象には象の外観がある。最も外観が美しい生物はこれ、最も醜い生物はこれ、などと言えるだろうか。最も役立つ生物はこれ、最も必要性が低い生物はこれ、などと言えるだろうか。一部の人々は、象の外観を好むが、象を使って農地に植え付けを行う者はいない。全ての生物の中で最も外観が印象的なライオンやトラの外観を好む者もいるが、ライオンやトラをペットとして飼育できるだろうか。要するに、万物について、人間は創造主の権威に従順する、すなわち万物の創造主が定めた秩序を優先する必要がある。これが最も賢明な姿勢である。創造主の権威を真に受け容れ、確信するには、創造主の元来の意図を求め、それに従うことによるほかない。神は万物を良しとしているのだから、なぜ人間は万物に欠点を見出す必要があるというのか。

 こうして、創造主の権威による万物は、創造主の支配により新たな交響曲、新しい日の神の業への美しい前奏曲を奏でることとなった。またこの時、創造主は神の経営の業における新たなページを開くことになる。春の芽吹き、夏の成熟、秋の刈り入れ、そして冬の蓄えという創造主が定めた規律に従い、万物は創造主の経営(救いの)計画に従い、新たな日、新たな始まり、そして新たな生活を喜んで受け容れる。そしてやがて万物は無限の繁殖を続け、創造主の権威による支配下で新たな日々を迎える。

 

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アダムへの神の命令

2020-04-04 01:30:19 | 賛美の心

(創世記2:15-17)ヤーウェ神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。ヤーウェ神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

   この箇所からあなたがたは何かを学んだだろうか。この箇所をあなたがたはどのように感じただろうか。なぜ「アダムへの神の命令」を聖書から取り上げるのだろうか。神とアダムが心に描けただろうか。想像してみてほしい…もしあなたがたがこのシーンの中にいたら、神をどのような存在と思うだろうか。あなたがたはどのような感情を抱くだろうか。これは感動の、心温まるシーンである。そこには神と人間しかおらず、その関係の親密さは羨ましいほどだ。神のあふれんばかりの愛は惜しみなく人間に注がれ、人間を包んできた。人間は純粋で、無邪気で、気楽、気ままで、神に見守られて満足して生きている。神は人間を心配してくださり、そして人間は神の護りと祝福の中で生きていた。人間の全ての言動は、神と密接に関係し、神と切り離すことはできない。

 この命令は神が人間を創造以来、最初に与えた命令だったといえる。ではこの命令は何を表しているのだろうか。それは神の意志を表しているが、同時に神の人類に対する懸念も表している。これは神の最初の命令であり、そしてこの時初めて神は、人間のことを心配した。どういうことかといえば、神は人間を創った瞬間から、人間に対して責任を持っていたということである。その責任とはどのようなものだろうか。それは人間を守り、顧みるという責任である。人間が神を信頼し従うことを神は望んだ。そしてそれは神が人間に抱いた最初の期待でもある。神はその期待とともに、次のように言った。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。このシンプルな命令に神の意志が現れている。そして神の人間に対する心配をすでに表していたこともわかる。被造物にあって、アダムだけが神の姿に似せて造られ、アダムだけが神の息を吹き込まれ、神と歩み、神と対話できる存在だった。それゆえに神はそのような命令を人間に与えたのである。神はこのことを命じたとき、非常に分かりやすい形で人間が何をすればよいのか、そして何をしてはいけないのかを伝えた。

   この極めてシンプルな言葉から、神の心をうかがい知ることができる。わたしたちはここからどのような神の心を見て取れるだろうか。神の心に愛はあるだろうか。そこに神の配慮は現れているのだろうか。この聖書箇所に示されている神の愛と配慮は、頭で理解できるだけでなく、実際に感じることができることだ。そうではないか。わたしは今これらのことを述べてきたが、あなたがたはまだ、これが単なる言葉だと思うだろうか。それほど簡単なものではないのではないか。このことに気づいたことが今までにあるだろうか。神がもし直接あなたにこれらのことを語ったら、あなたはどのように感じるだろうか。もしあなたが無慈悲で、心が冷え切っているなら、何も感じないだろうし、神の愛も理解できず、神の心を理解しようともしないだろう。しかしもしあなたに良心があり、人間性があるなら、見方は違ったものになる。もしそのような人間であるならば、温かみを感じ、愛され守られていると感じ、また幸せを感じることができるだろう。違うだろうか。これらのことを感じるならば、あなたは神に対しどのように行動するだろうか。神とのつながりを感じるだろうか。心の底から神を愛し、敬うだろうか。あなたの心は神に近づくだろうか。神の愛が人間にとってどれだけ重要かということが、ここから見て取れるだろう。しかしそれよりさらに重要なのは、人間がその神の愛を深く知り、理解することである。事実、神はこの段階の働きにおいて似たようなことを多く語っていないだろうか。しかし、今日の人々は神の心を理解しているだろうか。今ここでわたしが述べた神の心の意味を掴めただろうか。あなたがたはこれほどはっきりしていて分かりやすく、現実に示されている神の心さえ、認識することができない。ゆえにわたしはあなたがたが神に対する本当の認識と理解を得ていないと言うのである。そうではないだろうか。このセクションでわたしが述べるのは以上である。

 

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人間の人生における6つの節目-結婚:第4の節目

2020-04-01 21:13:38 | 賛美の心

 ある者が成長して成熟すると、自分の両親や自分が生まれ育った環境から離れて行き、自分の両親とは異なる、自分の人生の方向性と人生の目標を追究するようになる。この時、その者は両親を必要としないが、一緒に生活出来る者、すなわちその者の運命が密接な関連性を持つ、配偶者を必要とする。このように、その者が独立してから最初に遭遇する主要な出来事は結婚であり、それが、人間が経験する必要のある第4の節目である。

1.人間には結婚に関して選択の余地が無い

   誰にとっても結婚は人生における重要な出来事であり、人間が様々な役割を本当の意味で担う時であり、次第に様々な使命を遂行し始める時である。人間は、自分が結婚を経験するまで、結婚に関して様々な幻想を抱き、その幻想は全て美しい。女性は、白雪姫に登場する王子のような自分の夫を想像し、男性は自分が白雪姫のような者と結婚することを想像する。こうした空想により、人間には、それぞれに結婚の条件、数件の要求事項、基準事項があることが示される。この邪悪な時世においては、結婚に関して、歪んだ情報に常にさらされ、それにより必要条件がさらに増加し、人間に様々な負担が課せられ、人間の態度が異常になっている。しかし、結婚経験者は、その者が結婚をどう理解しているか、結婚に対してどのような姿勢であるかを問わず、結婚とは個人的選択の問題では無いことを知っている。

 人間は、人生において多数の人々に出会うが、誰が結婚相手となるかを知っている者はいない。誰もが結婚という問題に対する個人的な概念や意見を持っているものの、結婚に関して、最終的に誰が相手となるかを予測出来る者はいない。また、自分の意向はほぼ問題外である。自分が好きな人物と出会い、その後その人物を追いかけることは出来るが、その人物が自分に関心を持っているか、自分の配偶者となり得るかは、自分自身で決められる問題ではない。自分が慕う人物は、必ずしも自分が人生を共に出来る相手ではない。その一方で、全く意外な人物が自分の人生に登場し、自分の運命において最も重要な要素であり、自分の運命が不可分に結びついている人物、すなわち配偶者となる。そうしたわけで、世界には数百万の結婚があるが、それぞれの結婚は他の結婚とは異なるものである。不満な結婚、円満な結婚、東西にまたがる結婚、南北にまたがる結婚、完璧な相性の結婚、同じ階級同士の結婚、幸福で調和した結婚、辛く悲しい結婚、羨望される結婚、誤解され、疑問視される結婚、幸福に満ちた結婚、涙に溢れた絶望的な結婚は、それぞれいくつあるだろうか。こうした様々な結婚の中で、人間は結婚生活への忠誠、一生の約束、愛情、慕情、不可分性などを示し、あるいは放棄、理解の欠如、背信、時には憎悪などを示すこともある。結婚そのものがもたらすのが幸福であるか苦悶であるかを問わず、結婚における各人の使命は創造主により予め定められ、変わる事が無く、したがって皆それを全うする必要がある。また、それぞれの結婚の背景にある運命は変わらない。なぜなら、それは創造主により遙か以前に定められているからである。

2.結婚は2人の配偶者の運命によって誕生である

   結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。表面的には、結婚の目的は人類の存続であるが、実際は、結婚はその個人が使命を全うする過程で経験する儀式に他ならない。結婚において人間が果たす役割は、単に次の世代を養育することだけではない。結婚を継続する過程においてその者が担う様々な役割とその者が果たす様々な使命がある。ある者の出生は、人々、出来事、その者の周囲の物事に影響を与えるので、その者の結婚もまた必然的にそうした物事に影響を与え、さらにそうした物事を色々な意味で変化させる。

   ある者が独立する時、その者は自分自身の人生の旅路に就くが、その旅路は、その者の結婚に関連する人々、出来事、物事へと、その者を段階的に導いてゆく。それと同時に、その者と結婚する他方配偶者もまた、その者と同じ人々、出来事、物事へと次第に導かれてゆく。創造主による統治下において、関係の無い個人2名が関係する運命を共有し、次第に結婚する方向へ進み、奇跡的に家族、すなわち「1本の縄にいる2匹のいなご」となる。したがって、ある者が結婚した場合、その者の人生の旅路は、その者の配偶者に関与して影響を与え、同様にその者の配偶者の人生の旅路はその者の人生の運命に関与して影響を与える。換言すると、人間の運命は相互に関連しており、他人に全く依存せずに自分の人生における使命を全うし、役割を果たすことが出来る者はいない。人間の出生は、極めて幅広い関係の結びつきに影響を与える。また、成育にも複雑な関係の結びつきが含まれる。それらと同様、必然的に結婚もまた、極めて幅広く複雑な網の目のような人間関係の中に存在し、維持されて、その関係に含まれる全ての者の運命に影響する。結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と関連する運命から発生する。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源である。

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