スポイチ編集長日誌

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なぜ我々は原発を手放せないのか

2014年05月28日 | 社会
福島第一原発事故から3年が経過した。現場では増え続ける汚染水を前にしながらも、廃炉行程の実行と、そのための核燃料の取り出し方法の検討が進められている。

しかし、「溶融落下した核燃料の捜索と取り出し」「廃炉(解体)作業」などは、現在の技術でははっきり言って実現可能性は極めて低く、もはやこれ以上の汚染水の増加と、次の災害時の被害を防ぐためにも、「敷地自体の封印」、つまり石棺化はいずれ不可避のものになると思う。

だが、地元をはじめ多方面からの反発と、そもそも事故の当初から「チェルノブイリとは違う!!」とむきになって言い続けてきたがゆえに、今や誰も石棺などとは言い出せなくなっている。
「とりあえず、とりあえず」と戦力を小出しにして結局は支那との全面戦争に引きずり込まれたり、同様にガダルカナルで一大消耗戦に引きずり込まれた歴史を我々はなぞりつつある。


事故のリスクや使用済み核燃料処理も含めた「効率」や「採算」を考えれば、原子力発電はペイしない、ということはもはや明らかだが、それでも現政権や電力業界、原子力産業には原発をやめるという選択はないようだ。
上記のような「ステークホルダー」をはじめ、彼らのマネー(原発マネー)をたっぷりと注入されたマスコミや「文化人」だけでなく、そこらの一般人でも、原発を手放すことを拒絶し、「脱原発」的な動きを批判し、罵る人は結構多い。

なぜ、彼らは原発を手放せないのだろうか。


1.原発の「護持」「増殖」それ自体が国策
原子力発電と聞くと何かたいそうなことをやっているように聞こえるが、原発とは大雑把に言えば、核燃料の熱でお湯を沸かしているだけで、湯を沸かした蒸気で発電タービンを回すという点では、火力発電(石油火力、ガス火力、石炭火力)となんら変わらない。

「火力発電」と聞くと我々は「石油火力」のことばかり連想しがちだが、石炭火力発電は現在も地味に継続中であり、石油火力に頼る割合を減らしていき、その分を原発の増設によって補ってきたというのがオイルショック以降の我が国の電力政策であった。

原子力政策を立案し実行してきた者達を後押ししたのは、オイルショックのトラウマ、さらに言えばその原点は、太平洋戦争開戦の直接の原因ともなった石油全面禁輸のトラウマによるものであった。いわゆるエネルギー安全保障というものの考え方である。

しかしながら、原子力発電に必要なウラン燃料も輸入に頼っており、さらに国内の物流を担うトラックや航空機、船舶などはすべて化石燃料で動くものであり、原子力ではないのだから、「原子力によるエネルギー安全保障」などは画餅である。

やはり来るべき核武装に備えて、原子力の平和利用という隠れ蓑の下で、原子力産業および原子力技術者を育成・確保しておくという部分に本音があったと見るべきであろう。


2.原発の利権構造、すなわち原子力村内部に入ればおいしい思いができる
これも既に言われていることであり、原発関連分野は国策により庇護を受けており、莫大なマネーが動く。このカネの力で政治行政関連企業のほか、マスコミや「知識人」を動かし、日々宣伝や言論という形で我々の前に繰り返し立ち現れている。

原発は地元にも恩恵をもたらす。それは何も「原発で働く」ことだけを指すのではなく、原発には多くの労働者がやってくるため、彼らのための宿泊施設、タクシー会社、飲食店等など、原発の地元ではそこに関わる多くの人達が原発の恩恵にあずかっている。
過疎の漁村に夢のような予算とハコモノと収入をもたらす。人もカネもやってくる。若者も戻ってくる。原発は(事故さえなければ)大変よくできた仕組みであったと言える。
一方、原発がなくなることは、「地元」にとっては、今の食い扶持を捨てて元の過疎の漁村の貧乏暮らしに戻ることと同じである。
だから、無責任に「原発をなくせ」などと言う者に対しては、「地元」であるほど反発する。そう言う者に対しては「ならば今すぐ原発以外で年収1000万を授けてみせろ」と言いたいところだろう。
こうした構造は、原発をたとえば「基地」等に置き換えても成り立つものである。

このように、「原発に利害関係を持つ」者が、「よくできた仕組み」である原発を手放せないのは、これも当然だろう。


3.「男の象徴」「兵器の代替」としての原発
しかし、上記の2点だけでは、別段とくに原発業界と直接の利害関係も持たないような者が、原発を擁護しその護持にこだわり、さらに「反原発」「脱原発」のような動きに対して過剰なまでに反発し、時には口汚く罵る(いわゆる「エア御用」問題)のか、その理由を説明できない。

その答えは、原子炉自体が男根の象徴であり、武器を持つことを禁止された我が国において、彼らが安心して寄り添うことのできる力強さの象徴だからである。

刀剣や銃などの武器や、戦車やミサイル、艦艇などの兵器は、しばしば心理学的に男性性、攻撃性のメタファーとしても扱われる。

一方、第二次大戦後に軍国主義から一転して平和主義へと転換した我が国には、現在に至るまで根強い武器アレルギーがある。
我が国においては、基本的には兵器や武器は忌避されるべき存在であり、ことさらにそれらを愛好するような者たちには、奇異や嫌悪、軽蔑の目を向けられることが常だった。こうした傾向は、とくに学校教育の場で顕著であった。
武器や兵器に興味を示したり、それらを愛好しているなどとは軽々に言わせない空気が、戦後の長きにわたって存在していた。

そのような、言ってみれば歪んだ社会情勢の中で、おおっぴらには武器や兵器への関心を表明することの出来ないような者達であっても、心おきなく信奉し寄り添える存在が、原子炉すなわち原発であった。
思い出して欲しい。福島第一原発事故の初期の頃、原子炉の正確な図面すら描けなかったマスコミが掲載したMk-1型原子炉の断面図の形は、まさに男根(原子炉)と、2つの睾丸(サプレッションプールの断面)そのものであった。

だから彼らは、もはや男性性の象徴となっている原発を手放せと言われると、過激なまでに反発を示すのである。

これは、銃乱射事件が起きても決して銃の所持禁止には向かわず、逆に銃規制を求める声に対し過剰に反発する「一般的な」アメリカ人の姿と瓜二つである。

もし「自分のモノを切り落とせ」などと言われたら、男は冷静ではいられない。
「脱原発」「反原発」に対する過剰な反発もそれと同じことだ。

どんなに反原発とか脱原発などと言って、デモ隊やら「知識人」やら「漫画家」やらが、「原発をなくせ」と言ったところで、原発は既にそこにあるのだ。政権も企業も行政も原発護持で固まっている。どうせ簡単になくなるものではないのだから、平然と構えていればいいはずではないか。
だがそれは理屈だ。
これは感情の問題だから、彼らは反発せずにはいられないのである。


当時、あの大事故に際して、なおも原発を手放すことを肯定せず、逆に原発廃止を求める声や東電を批判する声に対し、特に利害関係があるわけでもなさそうなのに猛烈に反発し、時に口汚く罵っていた人々の姿から、「何か大きな力に自分からすすんで身を委ねようとする気色の悪さ」を感じとっていた人々が、とくに女性に多かったことを付記しておく。

武器や兵器を扱う者は、それらが持つ男性性と大きな力に呑まれぬよう、心しなければならない。原子炉もまた、それらと同じである。
自分の中の「力強きもの」を求め跪こうとする心理を認め、その危険性と向き合うことなくしてこれらのものを信奉してはならない。



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