原発には、3つのリスクがある。
1つは、事故時のリスク。
「原発の危険性」として取り上げられる場合は、もっぱら原発事故のリスクを指していることが多い。
2つめは、「使用済み核燃料のリスク」。原子炉から取り出した使用済み核燃料は、安定的に冷えるまで保管(中間貯蔵)した後、さらに毒性が十分に低くなるまで、10万年単位で安全に保管(最終処分)しなければならない。
耐用年数を過ぎた原子炉を安全に解体し、放射性物質を帯びた廃材を隔離保管しなければならない、廃炉に伴うリスクもこれに含まれると言える。
上記の2つは、原子力発電にかかわるリスクとして、何度も指摘されているものである。
そして3つめは、将来における被曝労働訴訟のリスクである。
原発が設置される場所の多くは、産業も乏しい、過疎地の漁村である。そのような地域にとっては、原発の建設によりその傘の中に入る、すなわち原子力村の内部に組み込まれることは、原発以外の方法では考えることのできなかったような報酬を得ることを実現させる、過疎地民にとって夢のような仕組みだった。
原発では、地元から電力会社に採用されたり、原発の中の事務所や福利厚生施設で働くことは、比較的安全で、かつ「割のいい仕事」であった。
被曝労働のようなリスクのある仕事は、いわゆる多次請けの日雇いとして地元以外から集められてくる労働者により支えられている。
現在の1Fでも、高線量下で多くの人が放射線の被曝を前提とする危険な作業に就いている。
今現在は「仕方がない」で許されていたとしても、技術の向上などで将来的に放射線への防御が難しくなくなった時に、日本人がその存在すら忘れていた「被曝労働の被害者たち」が謝罪と補償を求めて立ち上がることは、当然起こりうる。
これは、原発事故の有無とは関係ない。
相手が日本人労働者なら、種々の圧力や取引で黙らせるか、和解に持って行くことは不可能ではないかもしれない。
しかし、「外国人労働者」を被曝労働に従事させていたら、そうはいかない。
日本政府は素直に謝罪や賠償に応じず、「廃炉労働者は強制連行で集めていたわけではない、十分な報酬を出していた」と言い訳するだろう。
政府系のマスコミや「文化人」らも、「カネ目当てで集まったくせに」と罵声を投げつけることだろう。
事態は「あった、なかった」の不毛な押し問答になり、まるで寿命が尽きるのを待つかのような日本政府の態度に怒った「被害者」らは、集団訴訟にとどまらず、日本の非道を国際的に宣伝する手段に訴えることだろう。
この構造は、何かに似ているとは思わないだろうか?
原発の廃炉処理や被曝労働に外国人労働者を使うことは、将来にわたっての訴訟リスクが極めて高いと言える。
これが3番めのリスクである。
数十年後に、我々の子孫が被曝労働の「被害者」から50年100年に渡り延々と謗られることを覚悟の上なら、現行の原子力政策を続ければいい。だが、そんな将来のことに対しては「感受性が低い」老人たちは、おそらく何もしようとしないだろう。
これも「原発と老人は相性が良い」理由である。
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1つは、事故時のリスク。
「原発の危険性」として取り上げられる場合は、もっぱら原発事故のリスクを指していることが多い。
2つめは、「使用済み核燃料のリスク」。原子炉から取り出した使用済み核燃料は、安定的に冷えるまで保管(中間貯蔵)した後、さらに毒性が十分に低くなるまで、10万年単位で安全に保管(最終処分)しなければならない。
耐用年数を過ぎた原子炉を安全に解体し、放射性物質を帯びた廃材を隔離保管しなければならない、廃炉に伴うリスクもこれに含まれると言える。
上記の2つは、原子力発電にかかわるリスクとして、何度も指摘されているものである。
そして3つめは、将来における被曝労働訴訟のリスクである。
原発が設置される場所の多くは、産業も乏しい、過疎地の漁村である。そのような地域にとっては、原発の建設によりその傘の中に入る、すなわち原子力村の内部に組み込まれることは、原発以外の方法では考えることのできなかったような報酬を得ることを実現させる、過疎地民にとって夢のような仕組みだった。
原発では、地元から電力会社に採用されたり、原発の中の事務所や福利厚生施設で働くことは、比較的安全で、かつ「割のいい仕事」であった。
被曝労働のようなリスクのある仕事は、いわゆる多次請けの日雇いとして地元以外から集められてくる労働者により支えられている。
現在の1Fでも、高線量下で多くの人が放射線の被曝を前提とする危険な作業に就いている。
今現在は「仕方がない」で許されていたとしても、技術の向上などで将来的に放射線への防御が難しくなくなった時に、日本人がその存在すら忘れていた「被曝労働の被害者たち」が謝罪と補償を求めて立ち上がることは、当然起こりうる。
これは、原発事故の有無とは関係ない。
相手が日本人労働者なら、種々の圧力や取引で黙らせるか、和解に持って行くことは不可能ではないかもしれない。
しかし、「外国人労働者」を被曝労働に従事させていたら、そうはいかない。
日本政府は素直に謝罪や賠償に応じず、「廃炉労働者は強制連行で集めていたわけではない、十分な報酬を出していた」と言い訳するだろう。
政府系のマスコミや「文化人」らも、「カネ目当てで集まったくせに」と罵声を投げつけることだろう。
事態は「あった、なかった」の不毛な押し問答になり、まるで寿命が尽きるのを待つかのような日本政府の態度に怒った「被害者」らは、集団訴訟にとどまらず、日本の非道を国際的に宣伝する手段に訴えることだろう。
この構造は、何かに似ているとは思わないだろうか?
原発の廃炉処理や被曝労働に外国人労働者を使うことは、将来にわたっての訴訟リスクが極めて高いと言える。
これが3番めのリスクである。
数十年後に、我々の子孫が被曝労働の「被害者」から50年100年に渡り延々と謗られることを覚悟の上なら、現行の原子力政策を続ければいい。だが、そんな将来のことに対しては「感受性が低い」老人たちは、おそらく何もしようとしないだろう。
これも「原発と老人は相性が良い」理由である。
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