タイトルのようなことは、個人的な日記や備忘録以外の、およそ「公表」を意識して書かれるすべての文章、とくに社会的なテーマの文章(報道記事だけでなくルポ等も含む)について適用される、常識のようなものだと思っていたのだが、そうでもないようだ。
先ごろ、『週刊朝日』という週刊誌が、大阪の橋下市長を批判する連載記事を掲載したが、その一回目の記事で橋下市長からの批判と朝日新聞の取材拒否を通告されて連載を中止するという「事件」があった。
週刊誌の記事に対して政治家が抗議したり、訴訟を起こすことは珍しいことではないが、今回特異だったのは、その記事の「中身」、批判のやり方だ。
新聞社系の週刊誌、いや出版社系の週刊誌でさえあまり見かけないような激しい言葉でもって、橋下氏の「生まれ」や「血筋」自体が橋下氏の性格や政策に影響を与えているかのようなロジックで展開されている。
今回の「事件」について一つだけ言うならば、まるで自身の「血筋」が問題であるかのような記事を書かれたにもかかわらず、ツイッター等での反批判と朝日新聞の取材拒否(質問拒否)程度に(いまのところ)とどめた橋下氏は、大方の見方に反して、今回はむしろ抑制していると言える。その理由も彼の支持層を考えればおおよそ見当がつくし、妥当な判断だと思う。
今回のこの「事件」については、双方の「ねらい」と「誤算」を通して考えると興味深い分析ができると思うが、それは今回の本題ではないのと、時事というよりも普遍的な内容を含んでいるので別にまた書こうと思う。
今回、特異だったのは内容もさることながら、その文章の激烈さと、それがマスコミの記事だったという点にある。
一般的に、面白いことや、自分が面白いと思ったことについて読者に伝えようとするときには、その書き手の文章自体が笑っていてはいけないと言われる。
自分がどんなに面白いことを書いているつもりであっても、書き手自身が「面白い」という言葉を使ったり、その文章がふざけていてはいけない。
漫才師が、いかにも「ここ、面白いでしょ?」なんて態度に出してはいけないのだ。くだらないネタやジョークをやる側は、あくまでクソ真面目なぐらいでなければならない。
昔、海外で活動する「スタンドアップコメディアン」(話芸を中心とするピンの漫才師のようなもの)が注目されたことがあって、テレビが盛んに取り上げていたことがあった。その中に、「はいはいここで笑って」と言わんばかりにネタの途中で客席を見回す人がいた…が、結局すぐに消えてしまった。
人間は、あからさまに感情を強制されることが苦手なのだ。
同じように、悲しいことを書く際に、書き手自身が悲しがっていてはいけないし、書き手がどんなに「この事を知った人は怒るべきだ」と思っていたとしても、本当に読み手を怒らせたいのならば、書き手自身が怒りをぶちまけるような文章を書いてはいけない。
その漫才のどこが面白いか、あるいはその文章のどこが面白いか、悲しいか、怒るべきかを決めるのはあくまでも受け手であって、漫才師や文章の書き手ではない。
簡単に言うなら、面白いことを書くときには、いかにして「面白い」という言葉を使わずに文章を書くかを考え、悲しい事件について書くときにはいかに「悲しい」という言葉を使わずに書くかを考え、みんなが知ったら怒るであろう出来事についてみんなの怒りを呼び起こしたければ、文章のなかで「みんな怒るべき」という言葉を使うべきではない。
書き手があまりに熱くなりすぎ、のめりこみすぎて態度も文体も感情的になると、その文章の主張に対して、最初から「その通りだ!」と思っている人、つまりその主張の支持者とか同調者とかつまるところは書き手の信者層に対してはアピールできるだろうが、一方その問題に対してどうでもいいと思っている無関心層の好意的な関心を呼び起こすことはない。
むしろ今回の該当連載記事のように、どん引きされることになる。まして、その主張に対して反対の立場をとっている層からは一顧だにされることは無いだろう。(文章一つで読み手がもともと持っている主張を変えさせることができるなどとは私は最初から思っていない。)
今回の「連載記事」に対しても、ひょっとすると橋下氏のことがもともと大嫌いで、彼の主張や存在に対して、「いい家の生まれでもない青二才が生意気な」と思っている層は、ひそかに「よくぞ書いた!」と喝采を送り、大いに溜飲を下げたのかもしれない。
しかし、大阪の状況などどうでもいいと思っている無関心層は、せいぜい「どっちもどっち」か、書き手の感情むき出しの表現に眉をひそめるだろう。まして、橋下氏の支持層がこのような記事を「一つの意見」として評価することはないだろう。
唯一、収穫があったとするなら、普段「人権」などという言葉に全く関心が無いか、むしろ敵視しているような橋下氏の支持層が、「人権」を尊重する態度を見せたことだったかもしれない。
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先ごろ、『週刊朝日』という週刊誌が、大阪の橋下市長を批判する連載記事を掲載したが、その一回目の記事で橋下市長からの批判と朝日新聞の取材拒否を通告されて連載を中止するという「事件」があった。
週刊誌の記事に対して政治家が抗議したり、訴訟を起こすことは珍しいことではないが、今回特異だったのは、その記事の「中身」、批判のやり方だ。
新聞社系の週刊誌、いや出版社系の週刊誌でさえあまり見かけないような激しい言葉でもって、橋下氏の「生まれ」や「血筋」自体が橋下氏の性格や政策に影響を与えているかのようなロジックで展開されている。
今回の「事件」について一つだけ言うならば、まるで自身の「血筋」が問題であるかのような記事を書かれたにもかかわらず、ツイッター等での反批判と朝日新聞の取材拒否(質問拒否)程度に(いまのところ)とどめた橋下氏は、大方の見方に反して、今回はむしろ抑制していると言える。その理由も彼の支持層を考えればおおよそ見当がつくし、妥当な判断だと思う。
今回のこの「事件」については、双方の「ねらい」と「誤算」を通して考えると興味深い分析ができると思うが、それは今回の本題ではないのと、時事というよりも普遍的な内容を含んでいるので別にまた書こうと思う。
今回、特異だったのは内容もさることながら、その文章の激烈さと、それがマスコミの記事だったという点にある。
一般的に、面白いことや、自分が面白いと思ったことについて読者に伝えようとするときには、その書き手の文章自体が笑っていてはいけないと言われる。
自分がどんなに面白いことを書いているつもりであっても、書き手自身が「面白い」という言葉を使ったり、その文章がふざけていてはいけない。
漫才師が、いかにも「ここ、面白いでしょ?」なんて態度に出してはいけないのだ。くだらないネタやジョークをやる側は、あくまでクソ真面目なぐらいでなければならない。
昔、海外で活動する「スタンドアップコメディアン」(話芸を中心とするピンの漫才師のようなもの)が注目されたことがあって、テレビが盛んに取り上げていたことがあった。その中に、「はいはいここで笑って」と言わんばかりにネタの途中で客席を見回す人がいた…が、結局すぐに消えてしまった。
人間は、あからさまに感情を強制されることが苦手なのだ。
同じように、悲しいことを書く際に、書き手自身が悲しがっていてはいけないし、書き手がどんなに「この事を知った人は怒るべきだ」と思っていたとしても、本当に読み手を怒らせたいのならば、書き手自身が怒りをぶちまけるような文章を書いてはいけない。
その漫才のどこが面白いか、あるいはその文章のどこが面白いか、悲しいか、怒るべきかを決めるのはあくまでも受け手であって、漫才師や文章の書き手ではない。
簡単に言うなら、面白いことを書くときには、いかにして「面白い」という言葉を使わずに文章を書くかを考え、悲しい事件について書くときにはいかに「悲しい」という言葉を使わずに書くかを考え、みんなが知ったら怒るであろう出来事についてみんなの怒りを呼び起こしたければ、文章のなかで「みんな怒るべき」という言葉を使うべきではない。
書き手があまりに熱くなりすぎ、のめりこみすぎて態度も文体も感情的になると、その文章の主張に対して、最初から「その通りだ!」と思っている人、つまりその主張の支持者とか同調者とかつまるところは書き手の信者層に対してはアピールできるだろうが、一方その問題に対してどうでもいいと思っている無関心層の好意的な関心を呼び起こすことはない。
むしろ今回の該当連載記事のように、どん引きされることになる。まして、その主張に対して反対の立場をとっている層からは一顧だにされることは無いだろう。(文章一つで読み手がもともと持っている主張を変えさせることができるなどとは私は最初から思っていない。)
今回の「連載記事」に対しても、ひょっとすると橋下氏のことがもともと大嫌いで、彼の主張や存在に対して、「いい家の生まれでもない青二才が生意気な」と思っている層は、ひそかに「よくぞ書いた!」と喝采を送り、大いに溜飲を下げたのかもしれない。
しかし、大阪の状況などどうでもいいと思っている無関心層は、せいぜい「どっちもどっち」か、書き手の感情むき出しの表現に眉をひそめるだろう。まして、橋下氏の支持層がこのような記事を「一つの意見」として評価することはないだろう。
唯一、収穫があったとするなら、普段「人権」などという言葉に全く関心が無いか、むしろ敵視しているような橋下氏の支持層が、「人権」を尊重する態度を見せたことだったかもしれない。
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