スポイチ編集長日誌

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大和特攻とマレー沖海戦の類似点

2013年04月07日 | その他
4月7日といえば、ちょっと戦史をかじったことのある人間にとっては戦艦大和沈没の日として思い出されます。
「海上特攻隊」として沖縄に向かった大和以下の艦隊の出撃は、一般的には「無謀で無意味な出撃だった」と辛辣に評価されています。
実際に大和は4月6日に徳山沖を出撃後、翌7日にはアメリカ軍機の猛攻撃を受けて、九州坊ノ岬沖に沈没しました(坊ノ岬沖海戦)。
特攻隊(航空特攻隊)の全戦死者をも上回る戦死者を出した大和の出撃と沈没は、敗戦間近の日本軍の精神主義を端的に示すものとして批判的に語られることが多いです。

ですが、太平洋戦争の開戦直後に、大和と同じように無謀とも言える出撃をして、同じように航空機の攻撃によって沈んだ戦艦がありました。
英国海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」が日本軍機により撃沈された「マレー沖海戦」です。

多数の戦艦が航空機の攻撃によって撃沈された最初の例である真珠湾攻撃は、停泊中の戦艦に対する不意打ちだったため(タラント空襲?あれは相手がイタリア海軍だからノーカン)、洋上で作戦行動中の戦艦を航空機の攻撃だけで沈めるのは極めて難しいと考えられていました。
しかし、マレー沖海戦により「どんな強力な戦艦といえども航空機の攻撃の前には無力である」、という航空機優位の思想が決定づけられることになった、とされています。

このマレー沖海戦と、大和特攻との間には、共通項がいくつもあります。
・直衛の護衛艦が少なかった(大和は巡洋艦1、駆逐艦8。プリンス・オブ・ウェールズは巡洋戦艦1、駆逐艦4)。
・圧倒的に優位な敵の上陸作戦阻止(英海軍はマレー半島、日本海軍は沖縄への掩護)のための無謀な出撃だったが、常々「海軍が国民を守る」と喧伝してきた以上、出撃せざるをえなくなった。言わば面子によっての出撃だった。
・事前に艦隊直上で掩護にあたるはずの戦闘機と合流できなかった。
・雲が低く垂れ込めて戦闘海域の視界が悪く、効果的な対空戦闘が出来なかった(航空機側に有利な状況だった)。それに加えて英国艦隊では対空火器に不調が多発した。

どんな水上艦艇も、航空機の攻撃の前には無力――マレー沖海戦により決定的になったとされ、さらに大和の沈没で印象づけられた定理のようですが、実は第二次世界大戦においては、「航空機による攻撃だけで作戦行動中に沈んだ戦艦」は、プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス、武藏、大和の四隻だけです。
そのいずれもが、「航空機の掩護が全くない」という特殊な状況におけるものでした。
第二次大戦では多くの戦艦が沈みましたが、他の艦の沈没には、むしろ航空機以外の、他の水上艦艇の攻撃によるものが多いのです。
戦艦が航空機に勝てない、とか戦艦が航空機に対して無力、となるのは、上記のように天候などの事情が大きく、水上艦側に十分な備えや航空機の支援があった場合には、逆に攻撃した航空機側が大損害を受ける例もありました。
事実、珊瑚海海戦時には、最初に連合軍の巡洋艦部隊に対して攻撃を試みた陸攻(陸上基地から発進する攻撃機)隊は、艦艇からの対空砲火によって大損害を受け、攻撃も失敗に終わりました。
珊瑚海海戦の緒戦で陸攻隊が大損害を受けたことにより、その後の日本側の航空作戦は五航戦の艦載機だのみとなり、同隊の損耗により米機動部隊への攻撃続行は不可能になりました。この海戦で米空母に止めを刺せなかったことが、続くミッドウェー海戦に影響していきます。

実際に兵器同士の相性というのは、じゃんけんの三すくみのようなものが多く見られ、ある新技術が登場したからといって、既存のものが全くの時代遅れとなって役立たずになるかというと、実はそうでもない、ということです。
沿岸部にてっとり早く砲弾の雨を降らせたり、大量の物資や兵員を運んだりするには、艦体の大きい戦艦は有利な条件を備えていました。また巨大な司令塔とマストを持つ戦艦は、通信担当や司令部が乗り込む艦としても有用でした。真珠湾で戦艦群に大損害を受けた米国でさえ、大戦中に新型戦艦を次々と就役させ、アイオワ級などは湾岸戦争にも参戦しています。
こうしたことは後の「ミサイル万能論(航空機関砲不要論)」の隆盛とその頓挫にも見られます。現代のステルス戦闘機も機関砲を搭載しているわけです。



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