割と有名な「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」って文章があります。
社会の弱者や異端とされる者達が、政権により攻撃・弾圧されていく様を看過していると、いずれ自分自身が弾圧のターゲットにされたときには、周りに助けてくれる人はもう誰も居ませんよ、という寓意が含まれているものだ。
が、こんなものは現代の日本では通用しない。なぜなら、
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
私は社会民主主義ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。
彼らが反原発派を逮捕したとき、私は声をあげなかった、
私は反原発派ではなかったから。
彼らがナマポ民たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
私はナマポ民などではなかったから。
日本では、政権による攻撃は常に左側から一寸刻みに行われる。
そして、彼らが私を攻撃する頃には、もうそんな政権は勝手に戦争に負けるか内紛で死に体になっていることだろう。
何も、問題、無い。
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社会の弱者や異端とされる者達が、政権により攻撃・弾圧されていく様を看過していると、いずれ自分自身が弾圧のターゲットにされたときには、周りに助けてくれる人はもう誰も居ませんよ、という寓意が含まれているものだ。
が、こんなものは現代の日本では通用しない。なぜなら、
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
私は社会民主主義ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。
彼らが反原発派を逮捕したとき、私は声をあげなかった、
私は反原発派ではなかったから。
彼らがナマポ民たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
私はナマポ民などではなかったから。
日本では、政権による攻撃は常に左側から一寸刻みに行われる。
そして、彼らが私を攻撃する頃には、もうそんな政権は勝手に戦争に負けるか内紛で死に体になっていることだろう。
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