何処に行くにも車と人だらけ。
何処も彼処も渋滞。
暦通りだったので、後半初日の昨日は人里離れた所に行こうと、少し山奥に向かった。
狙い通り、人も車も殆どいない。
暫く走っていると、道路横に牛舎が見えた。
横目で見ると数頭の牛が見えた。
牧場はなく、牛舎のみがあった。
恐らく肉牛だろう。
其の時、付図、牛の事を考えた。
「あの牛たちは生まれ落ちたら、あの牛舎で育ち、外の景色を見る事なく、頃合いになると屠殺されて食肉になるのか.....」
食肉になる為に生まれた牛たち。
人と比較は出来ないが、何だかやり切れぬ思いだった。
吾々の人生も千差万別である。
出産と同時に馬鹿な親に捨てられたり、殺害されたりする場合もある。
此れから世に出て、世の中で貢献する事も出来たであろう命を断たれてしまう。
家畜以下の扱いを受けて、此れから始まるであろう人生を奪われる。
此れも同じくやり切れない。
運転中にそんな事を考えながらハンドルを握っていた。
抜ける様な雲一つない青い空とは裏腹に、吾の心は曇天の様だった。
自然の摂理、連鎖。
物事が発生する因と縁と結果。
善因善果、悪因悪果とよく耳にするが、何が善で、何が悪なのか。
或る一つの事象が、人によっては善き事だったり、悪しき事だったりする。
こうだと断言する事は出来ない。
当ブログでも幾度となく云っているが、大規模自然災害に遭われた方々は、皆が悪因による悪果だったのか?
被災者の中には善人と呼ばれる人や、ヤクザな碌でもない輩もいたであろう。
だが等しく被災している。
宗教家は此れをどう説明するのであろうか。
被災する日から遡って、被災された数万の方々が送ってこられた実生活を漏れ無く検証でも出来ると云うのか?
出来る訳がない。
此れを悪因悪果だなどと一括りにされては、丁寧に人生を歩んで来られた方々は報われない。
宗教の教義を見ると、複雑で多岐に渡る。
よくもまあ、此処迄系統立てたものだと感心する。
何かを信じて仰ぎ見る事に、複雑な教義は要らない。
朝は、今日も命が在って目覚める事が出来た事に感謝し、夕は一日無事に過ごせた事に感謝する。
此れだけで十分と云うか基本であり、此れだけで良いと思う。
一歩家を出ると、心が乱される事ばかりである。
流され、揉まれ、翻弄される事ばかりだが、無事に一日を終えれば結果オーライである。
と、頭では解ってはいるが、吾はカネが無いだの、彼奴がどうのこうの、境遇がどうのこうのと不満ばかりで悪態を吐いてばかりである。
人は結局、自分自身を依り処としていく方が間違いは無い。
だが、吾の様な欠陥だらけの己自身を依り処と出来るだろうかと自分ながらに思う。
其れでも、祖母は生前、
「どんなに心優しい他人だとしても絶対に信じて依り頼るな。困っても他人は何もしてくれない。どんな自分であっても、最後の砦は己を信じるしかない」
と一貫して吾に言い聞かせていた。
吾に関して云えば、祖母の此の言葉通りだった。
だから吾は他人に対しては深入りしない事と決めていた。
一度、祖母の言葉を利かずに、情に絆されて見事に裏切られた事が在った。
善人を絵に描いたよう様な人だったので信じ込んでしまったのである。
吾自身も他人を助ける事が出来ないからだ。
だから吾は安請け合いはしない様に気を付けている。
「人が信用出来ないとは。お前は寂しい奴だ」
と云われた事が在ったが、構わない。
他人とは、一定の距離感で接する方がしくじりが少ない。
牛の命の儚さから話が飛んで、人との関わりの話に脱線してしまった。
牛も人間も、所詮は孤独な生き物である事は間違いない。
此の世は、常でなく移ろい行く。
今日は良くとも、明日はどうなるのか解らない。
朝、目が覚めたと同時に過去は上書きされる。
現在、過去、未来と人は云うが、吾は過去も未来も存在しないと認識している。
在るのは今、此の時、瞬間のみであると信ずる。
未来と過去が在るとするならば、今此の瞬間で過去も未来も変わる。