偽史倭人伝 ~ Carnea Historia

march madness の次が April Foolなんて小粋ぢゃないか。

●死刑と裁判員制度

2006年12月26日 08時10分18秒 | ◎ツッコミ思案1
 2009年に行われる裁判員制度に向けて、最高裁が国民と裁判官にアンケート形式で量刑に対する意識調査を行ったそうだ。
「居酒屋で口論となり逆上して相手を刺殺した」という例で
裁判官は懲役10年前後に集中したが一般国民の意見はばらつきがあり「死刑」という答えまであったという。

 国民レベルの“常識”を反映させようというのが裁判員制度の目的なのかもしれないけど“常識”とか“正義”って何だろうとふと疑問に思う。
市井の素朴な意見のはずが実はマスコミの影響で作られた価値観や正義だったりしないだろうか?
 マスコミというものは悪者を見つけると徹底的に叩いてみせるが、その集団リンチ的な雰囲気に流されて短絡的に思考が形成されてはいないだろうか?

 おいらは大学時代、単位の辻褄合わせにたまたま取ったある授業で、“死刑”を含む犯罪者処遇について学んだことがあるんだけど、その時から「死刑廃止論」へと考えが傾いた。
 別にその授業は「死刑廃止論」に偏ったものではなく様々な犯罪者処遇に関する論争の内容や歴史を紹介するものだったのだけど、「廃止論」「存続論」のどちらの側に立とうが、コトの成り立ちを学んで論議を重ねてから自分の立場を決めても遅くはないんぢゃないかと思った。

 きのう4件の死刑が執行されたと報道があったけど、確定した刑は執行されるのが当たり前なんだから騒ぐ方がおかしいなんて意見も多いかもしれない。
 でも、死刑廃止へと進んだ国の過渡期にはそんな様子見的な状況が間にあったりするのだ。

 “判例”もそうだけど、そもそも法律や制度というのは日々、動的に変容していくものだ。だから裁判員を任されるということは、既存の制度に対するジャッジをも託されたといえるのだ。

 だから「死刑廃止論論議」とまでいかなくとも身近に迫った裁判員制度でかかわる量刑判断という意味でも、死刑というものについて市民レベルでもっと論議される必要はあるぢゃねーか…っていう。

 制度もそうだけど犯罪の発生にもまたプロセスがある。マスコミは「あまりに身勝手な犯行」とか「異常な行動」とわかりやすい言葉で煽ったりするけど、あまりその背景について掘り下げたりはしない。
 とりあえずワルモノには石を投げつけてりゃいい…ってなもんである。

 さっき意識調査の結果で「死刑」という答えまであったとう言い方をしたけど、「人を一人でも殺したら死刑になって当然だ」という考えなのだとしたら有る意味純粋な思考だともいえる。
 逆に死刑にしなかった人がもし「死刑廃止論者」でないとしたら、なんで死刑としなかったのだろうか?ってのがむしろ気になる。それってニュースなどで見聞きした「相場」の意識が働いたんぢゃないだろうか?…と。

 だとすると市井の意識や正義感って一体何なんだろうか?…て再び疑問が。


 おいらはさっきも言ったようにどちらかというと「死刑廃止論者」寄りだけど、「死刑存続論者」の人が自分はそんな重大な判断にかかわりたくないという理由だけで死刑という選択をしなかったりしたらそれはそれで歪んでいる気がする。つまり、そういうスタンスでモノゴトを決める人ばっかりになったら後々何かしらほころびが出るだろうってこと。

 数値化された『相場』から客観的にジャッジをするというのであれば、それこそプロの法律家だけに任せておけばいいはずだ。

 刑罰というのは何のためにあるかということも改めて考える必要があると思う。マスコミ、特にテレビの報道を見ていると悲惨な被害者遺族を映し出し、やれ判決が甘いなどと煽ることが多いけど、大事なことは犯罪の抑止だったり、再犯防止、つまり新たな被害を作り出さないということではないんだろうか?

やっぱりここはテレビのパネルディスカッションとか公開模擬裁判とかで、“犯罪者処遇”や“刑罰”の意味というものについての論議を盛り上げて国民を啓発していく必要があるんぢゃないんだろうか?

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