まだガキんちょだったころ、おいらたちハナタレ仲間の間では漫画家といえば石森章太郎だった。そして、おいらも例に漏れず、熱狂的な石森ファンだった。
『サイボーグ009』の第一巻が当時としても安価な220円なのに300ページもあったということをいまも覚えている。009といえば最近、釈由美子の声でアニメ化したという『009ノ1』の単行本なんかは引き出しの奥に隠してたっけ(笑)。
そんなおいらもある時期から松本零士に乗り換えた。SFっていいよなぁなんてわかったような口を聞いてたくせに、永井豪のファンだと言おうものならハレンチ呼ばわりされる、そんな視野の狭い保守的で偏ったすっとこどっこいなコミュティの中では松本ファンであるというのもけっこう異端な存在だった。
「白い部分が多すぎて見づらい」だとか、「メカってのはデカいメーターばっかり描いてりゃいいってもんぢゃねーよ」とか「女の顔がみんな同じぢゃねーか」とか冷やかされながらも松本作品に傾倒していった。
当時、創刊されたマンガ少年(漫画少年ではない)に連載されてた『ミライザーバン』だの、月刊誌という枠に無理矢理押し込めたせいかけっこーショボかった『宇宙戦艦ヤマト』だのまでも片っ端からおさえていた。
『恐竜荘物語』や『セクサロイド』『インセクト』なんていう青年誌系のエロチックなものに胸をときめかせたり(笑)。
今では“2次元萌え”なんていうヤツの気が知れねーなんて思ってるけど、思えば、当時のおいらはイラスト集で紹介されていたハヤカワ文庫の装画のおねーちゃんの絵なんかにはちょっとドキドキして見てたかもなー(笑)
ちょうど漫画文庫というものが出はじめたころで『四次元世界』なんてーのもあったっけ。どんな内容だったかしすっかり忘れた(笑)
『パニックワールド』ではその物語もさることながらページぶち抜きの大胆なコマ割りに圧倒され、さらにはそこに描かれた太陽光を表現した放射状の線は果たして定規で引いたのかスクリーントーンか?などとマニアックな興味を抱いたりもした。
流されやすかった少年時代おいらが我が道を進んだという数少ない出来事だった(笑)
まぁ、そんなこんなで月日は過ぎて、今では松本作品はおろか、漫画本自体がすっかり部屋から消えてしまったが、たまーにバンダナ巻いた松本氏がコメンテーターやら審査員としてテレビに出てたりするの目にすると「おっ、わが青春のアイドル、まだ生きてやがったか」などと微笑ましく見ておったものだ。
ところが最近見かけた著作権保護期間延長に関する記事でおっさんの名前を発見。彼はいつの間にか漫画家協会の理事になっておった。嫌な予感はしたが読んで見ると保護期間50年から70年への延長に諸手をあげて大賛成…みたいな、…というよりむしろ早いところそうしろと声高に叫んでいるではないか。
それに加えて耳に入ってきたのが、槇原某という薬物系ゲイ・シンガーとのもめ事。
別にそのゲイシンガーのことは好きでもなんでもないし、J-POPの鼻ピ野郎もいけ好かないので、少年時代のアイドルの肩を持ちたいところだが、どうも松本氏の言動のほうが胡散臭くみえる。
もっと言ってしまえば著作権延長の件と考え合わせると、このオッサンとうとう「著作権ゴロ」に成り下がったか…ってのが正直な印象。
「著作権ゴロ」(ロゴではない)。これは最近の悪徳一流企業のやり口だ。著作権の虫干しという言い方をしてた人がいたけど、過去に取得した特許などを引っ張り出してきては、なにか因縁つけられそうなもの調べて訴訟を起こしてみるというのだ。
カシオがソーテックを訴えた「マルチウインド訴訟」や松下が一太郎を訴えた「ヘルプアイコン訴訟」なんかは記憶に新しい。(新しくもないか?)
カシオなんかのはOSのインターフェイスに対するいちゃもんなのにマイクロソフトやアップルを訴えずにハードベンダーのほうを訴えたってところに弱いモノいじめの意図を感じる。
まぁ、勝てそうなところを狙ってるんだろうけど裁判制度ってのは本来は真実を追究したり権利を守ったりするもので、ゴネ得を得ようなんてするのはヤクザのすることだ(あとアメリカ人も(笑))。
この戦いの結果はといえば、カシオの出願はアップル製品より後だったのでそもそも効力ナシという笑えないオチだった。
ある事象に関して、賛成と反対の論客がそれぞれ意見を載せるみたいなコーナーって新聞各紙にあるみたいだけど、著作権延長の問題に関しては朝日も読売も毎日も取り上げてた。
それらに目を通して言えることは延長賛成派の根拠は国際基準だからだとか平等にとか政治的な根拠が中心で文化的な側面からメリットを示せてるのがない。まるで長ければ長いほどいいと言っているようにも見える。
アメリカの場合、その立場と目的は簡単明瞭だ。外貨を稼ぐミッキーマウスとハリウッドソフトの延命、これに尽きると言っても過言ではあるまい。ミッキーマウスのアニバーサリーが近づくたんびに法案が出される。
ミッキーマウス法などと揶揄されたのを聞いたことある人もいるだろう。
ディズニーといえばプルートも米国人によって発見された冥王星を記念して作られたキャラだっていうけど、「冥王星降格」んときのアメリカのゴネようを考えたら米国人の価値観がグローバル・スタンダードであるはずはないってわかるよね。(でも自民党は米国=世界基準と思ってるらしい…)
白人どもの考えることなんて所詮そんなもんだ。
フランスがイラク戦争に反対したときも、欧州かぶれのアホどもは“さすが文化的なフランス人”だなんてスタンディングオベーションしてたけど、やつらがそーしたのは利権であって、別に平和を愛してるからぢゃねーのにな。
だってヤツらってば核武装はしっかりして、移民は差別しまくって、それでいてサッカー選手は旧植民地から買ってきて、つい最近まで道ばたでウンコしてたような国だぜ。
だからうかつに一方向だけ見て「世界基準」とか言うもんぢゃねーぜ、しろがねーぜ。
科学者さんだのアーチストさんだのっていう一部の天才さんたちは浮き世離れしてるっていうか、自分の専門以外の一般常識にとんと疎いみたいだから、ボクたち凡才のフツー人たちが支えてあげないといけないね(笑)
天才ってのはほっとくと原爆が爆発してるのやクローン人間を見てみた~いなんて言いだしちゃうからね。彼らはいつでも自分の思いつきにワクワクしてるらしいけど、コトが起こった後のことを考えるチカラは欠けちゃったりしてるんだよね。
だから簡単に大資本や政治に利用されちゃったりするんだ。
松本せんせーもさ、メリットとデメリットをちゃんと並べて考えなおしてみるといいよ。期間延長による著作権の復活で“アンタッチャブル”な存在になってしまって、そのまま消えていくかもしれない文学作品のこととかね。それとこの法律の生まれた政治的な背景とか意図とかも。
ゲイ歌手との作品の問題部分の比較を見てみたけどこんなんでダメって言われたら表現の幅がどんどんせばまっちゃうよ。だってどちらも、そこだけをとって“画期的にうまいこと言ってる名フレーズ”ってほどでもないんぢゃない?
プロ野球評論家が使い古した「練習は裏切らない」に毛の生えたようなもんにしか見えない。
漫画全体のテーマだとか、講演会で話してるものだなんていうけどさ、…っていうことは作品全体を読んでる人やファンにとってはインパクトのあるコトバってことなんだろうけど、だったら、そんな2剤式の接着剤の硬化剤のほうだけパクったって意味ないでしょ。国民全員があんたの漫画読んでるみたいな幻想抱いてるんだとしたらそれこそ銀河系級の妄想狂だ。
これはまさに“勘違い界のレアル・マドリード”やぁ~(笑)
それより「銀河鉄道」ってネーミングのほうがよっぽどインパクトのあるコトバぢゃねーかっていう。
そうそう、保護期間が50年から70年なったら「銀河鉄道」も使えなくなるんぢゃねーのか…って突っ込んでやろうと思って調べたら50年のままでも充分にダメぢゃん(笑)。
宮沢賢治の没年が1933年で『銀河鉄道999』の初出が1977年。
それなのに自分が死んでも『銀河鉄道999』は70年保護しよう…ってか?よほどデキの悪いマゴでもいるんだろうか?
70年だか50年だか知んないけど、そもそも作者本人が死んでんのに遺族がそれで儲けようなんてどうなんだかね。
え?金儲けだけじゃなくって記念館立ててみたり、下世話な企画で作品が汚されないように、作品イメージの保護とかコンセプトの伝承とかそーいう文化的な努力もするんだって?
でもほんとうに作者が意図したかどうかもわからないような遺志の継承とかなんとかいいながら、結局はパチンコ屋とかに売っちゃうのがオチぢゃない?(笑)…あ、銀河鉄道もパチンコになってやがる。やっぱり金かよ。
なんだよパチンコなんかに魂売ったヤツに若者の夢とか子供の未来とか語って欲しくねーよ。それこそ宮沢賢治が泣くぞ。
こんなんぢゃ、もう夢もファンタジーも台無し…(パチンコ台は増えるけどね…)
『銀河鉄道の夜』と『銀河鉄道999』とを並べられても人々がいままでパクリだのなんだのって違和感を感じなかったとしたら、それは「銀河鉄道」というコトバがあまりに定番的な語句になってしまったからだろう。
ひとつには『銀河鉄道の夜』という作品が文学史というか日本史にその名を残す高みに位置しているから。人が死んでから年数を経るとただの故人から仏へとのぼりつめるみたいな。夜空に輝く星が誰のモノでもない…みたいな。つまりその時点で法律はともかくとして、人々の感覚の上ではパブリックドメインになったってことぢゃないのかな。
お星さまといえば『星の王子さま』の版権が切れて、各社で新訳が出されることになったときに初版の訳者の遺族が「星の王子さま」というタイトルは使わせないとファイティングポーズを見せたらしいけどそれもバカげてると思うよ。
「Le Petit Prince」ってのは日本では「星の王子さま」ってコトバとともにお星様になったんだからさ。文句言うんだったら先に圓楽師匠や『星の王子ニューヨークへ行く』のほうだよね(笑)
むしろ辞書とかにのるような“常識”として認知されたんだって誇りに思ってほしいな。
有る意味ではパクった(?)ほうの松本氏も「銀河鉄道」というコトバの定番化に一役買っているといえるかもしれない。『銀河鉄道999』のヒットによって一般名詞と同じ扱いなんだな…と人々が錯覚を起こしてしまったという。人の土地を地主の人の良さにつけこみ不法占拠したまま時効が成立してしまった…みたいな(笑)。
でもこれは文化が育っていく1つの形態なのだ。時には新語とか流行語もこんな風にして生まれるし黒人音楽のブルースはパクりパクられ発展してきた。
パクりというよりは黒人音楽は元々いわゆる“オープンソース”な世界だったのだ。
ブルースのコード進行について誰かが著作権を主張してたら今日のミュージックシーンはなかったかもしれないのだ。
シーナ&ザ・ロケッツの『レモンティ』がヤードバーズの『Train kept a rollin』のパクりだなんて鬼の首でもとったように勝ち誇ってるガキはブルースをわかってねーよ。あれはブルースマンの流儀なんだよ。単純にダセーよという意見だったらまだしも(笑)
いまではみんなが「著作権?守られて当たり前ぢゃん」「自分のアイディアなのに使えなくなった?特許とってなかったから仕方ないぢゃん」とか当たり前のように思ってるけど、実際には文化や文明の発展にはオープンソースな側面が少なからずあったのさ。
なんでも守ればいいってもんぢゃない。たとえばさっき出てた一太郎のヘルプアイコンの訴訟なんて危ういものを含んでいる。例えば塗りつぶしのバケツアイコンをアドビしか使えないとか、道路標識に使われているようなピクトグラムをどこかの企業が大量に登録して独り占めしちゃったりしたらインターフェイスの発展が止まってしまう。
最近、アニメやオタク文化は日本の輸出品だなどと持てはやされたりダフトパンクのPVに使われたりとか松本零士も調子にのっちゃってるんぢゃねーの?っていうかオッサン、「銀河鉄道」だけぢゃなくって「西遊記」とか「戦艦大和」とか、過去の資産にのりまくりぢゃねーか…っていう。
そもそもマンガ家なんていろんなつながりで持ちつもたれつ生きていくような仕事でしょ。それこそ編集者が企画考えたり、ひどいときにはネームやストーリーづくりまでも編集者がやってる例なんてのもあるとか。
まぁ、どっかのマンガ雑誌みたいに終わりかけたマンガを無理矢理お決まりのトーナメント大会みたいな対決形式にさせて作者の望まないカタチで延命させられるなんて、おせっかいなアシストもあるけど(苦笑)
松本氏はひところメディアに露出される際によく『宇宙戦艦ヤマト』の原作者なんて紹介されて否定も補足説明もせずにいけしゃあしゃあと胸張って喋っていたけど、今になって考えると『宇宙戦艦ヤマト』でのあのおっさんの位置って単なるキャラクター&メカデザインぢゃねーかっていう…。
丁度、角川アニメ『幻魔大戦』の大友克洋みたいなものだ。
いや大友克洋ほどの作品に対する影響力があったかどうかも疑わしい。
メカはかろうじて松本キャラの雰囲気を保っているけど、古代進をはじめとする主要キャラのほとんどは、どちらかというとスポ根チックな汗くさいハイテンションな風貌。
「冒険王」で松本氏が連載していたような低血圧なうらなりインポキャラのままだったらあれだけ人気が出たかどうかは疑わしい。
いまのSFアニメブームにもつながるヤマトの肝ともいえるSF設定といえば「ワープ航法」と「波動砲」だけど、それらを考案したのはもちろんのこと設定したのも松本氏ではないし、逆にその後の松本作品にはヤマト・プロジェクトからの影響が垣間見られる。
例えば件の『銀河鉄道999』なんて、その最たるものぢゃねーのか…っていう。機関車という前時代的な乗り物がそのままのデザインで宇宙空間に飛び立っていくなんてヤマトそのものの発想だ。
それまでの松本作品はSFといっても、壮大なスペースオペラ的なものはなかった。「旅」という発想もこれまたヤマトからいただき…だ。
元々の船が空を飛ぶという発想もそのまま「ハーロック」に流用されている。
戦艦を飛ばすという当時としては奇想天外な発想は元々は後に松本氏と法廷で争うことになるヤク中プロデューサーから出たもの。松本氏に声がかかったのもコミカライズというカタチでアニメ放映と並行して雑誌でも連載して盛り上げていこうといういわばタイアップ企画だった。手塚治虫やさいとうたかおなどにも打診していたらしい。
そして宮川泰の作曲や編曲もこの作品の大きな魅力のひとつだ。
『電車男』のスペシャルでも使われていた彼のスコアは今も尚、楽曲として素晴らしい。
結局のところ、美術デザイナーなすぎなかった松本氏は、この壮大な“共同作業”の産物であるSFカルトアニメ『戦艦ヤマト』にかかわったということで自分が貢献した何十倍、いや何百倍もの恩恵を受けている。
松本氏はこのヤマトに関しても、ヤク中のプロデューサー(笑)に裁判をふっかけたけど、この人相の悪いプロデューサーが著作者かどうかという議論はともかくとして、松本氏が「ヤマト」を独り占めしようとしたってのはどう考えても横暴。
いや、このヤク中プロデューサー氏は音楽プロデューサーとしての経歴もあり、宮川氏にもいろいろとうるさく注文をつけたらしいからヤマト成功の手柄はほとんどこのおっさんのモノぢゃねーかって気がする。
話がどっちらかってきたけど、つまりは松本氏は「ヤマト」といい「銀河鉄道」といい、ブルースミュージックのようなオープンソースな恩恵を受けまくった結果として、今日があるというのに、世の中に恩返しをするような姿勢が全く見られないことは残念だ。
“恩返し”ってのは、別に自分がパクった数と同じだけ、パクりを見逃せってことぢゃない。今持っている地位や影響力を社会や文化の発展のために使えってことだ。
“前例”というのはコワイものなのだ。法律の世界では判例として大きな影響力をもつし、松本氏が著作権ゴロのような振る舞いを続ければ、まわりまわって他の分野にも波及しないとも限らない。
そうなると、未来はそれこそSFに出てくるようながんじがらめな暗黒で閉じた社会になってしまうかもしれない。
ところで999をスリーナインというのは英語として正しくない。正しくはトリプルナインだ。
『サイボーグ009』の第一巻が当時としても安価な220円なのに300ページもあったということをいまも覚えている。009といえば最近、釈由美子の声でアニメ化したという『009ノ1』の単行本なんかは引き出しの奥に隠してたっけ(笑)。
そんなおいらもある時期から松本零士に乗り換えた。SFっていいよなぁなんてわかったような口を聞いてたくせに、永井豪のファンだと言おうものならハレンチ呼ばわりされる、そんな視野の狭い保守的で偏ったすっとこどっこいなコミュティの中では松本ファンであるというのもけっこう異端な存在だった。
「白い部分が多すぎて見づらい」だとか、「メカってのはデカいメーターばっかり描いてりゃいいってもんぢゃねーよ」とか「女の顔がみんな同じぢゃねーか」とか冷やかされながらも松本作品に傾倒していった。
当時、創刊されたマンガ少年(漫画少年ではない)に連載されてた『ミライザーバン』だの、月刊誌という枠に無理矢理押し込めたせいかけっこーショボかった『宇宙戦艦ヤマト』だのまでも片っ端からおさえていた。
『恐竜荘物語』や『セクサロイド』『インセクト』なんていう青年誌系のエロチックなものに胸をときめかせたり(笑)。
今では“2次元萌え”なんていうヤツの気が知れねーなんて思ってるけど、思えば、当時のおいらはイラスト集で紹介されていたハヤカワ文庫の装画のおねーちゃんの絵なんかにはちょっとドキドキして見てたかもなー(笑)
ちょうど漫画文庫というものが出はじめたころで『四次元世界』なんてーのもあったっけ。どんな内容だったかしすっかり忘れた(笑)
『パニックワールド』ではその物語もさることながらページぶち抜きの大胆なコマ割りに圧倒され、さらにはそこに描かれた太陽光を表現した放射状の線は果たして定規で引いたのかスクリーントーンか?などとマニアックな興味を抱いたりもした。
流されやすかった少年時代おいらが我が道を進んだという数少ない出来事だった(笑)
まぁ、そんなこんなで月日は過ぎて、今では松本作品はおろか、漫画本自体がすっかり部屋から消えてしまったが、たまーにバンダナ巻いた松本氏がコメンテーターやら審査員としてテレビに出てたりするの目にすると「おっ、わが青春のアイドル、まだ生きてやがったか」などと微笑ましく見ておったものだ。
ところが最近見かけた著作権保護期間延長に関する記事でおっさんの名前を発見。彼はいつの間にか漫画家協会の理事になっておった。嫌な予感はしたが読んで見ると保護期間50年から70年への延長に諸手をあげて大賛成…みたいな、…というよりむしろ早いところそうしろと声高に叫んでいるではないか。
それに加えて耳に入ってきたのが、槇原某という薬物系ゲイ・シンガーとのもめ事。
別にそのゲイシンガーのことは好きでもなんでもないし、J-POPの鼻ピ野郎もいけ好かないので、少年時代のアイドルの肩を持ちたいところだが、どうも松本氏の言動のほうが胡散臭くみえる。
もっと言ってしまえば著作権延長の件と考え合わせると、このオッサンとうとう「著作権ゴロ」に成り下がったか…ってのが正直な印象。
「著作権ゴロ」(ロゴではない)。これは最近の悪徳一流企業のやり口だ。著作権の虫干しという言い方をしてた人がいたけど、過去に取得した特許などを引っ張り出してきては、なにか因縁つけられそうなもの調べて訴訟を起こしてみるというのだ。
カシオがソーテックを訴えた「マルチウインド訴訟」や松下が一太郎を訴えた「ヘルプアイコン訴訟」なんかは記憶に新しい。(新しくもないか?)
カシオなんかのはOSのインターフェイスに対するいちゃもんなのにマイクロソフトやアップルを訴えずにハードベンダーのほうを訴えたってところに弱いモノいじめの意図を感じる。
まぁ、勝てそうなところを狙ってるんだろうけど裁判制度ってのは本来は真実を追究したり権利を守ったりするもので、ゴネ得を得ようなんてするのはヤクザのすることだ(あとアメリカ人も(笑))。
この戦いの結果はといえば、カシオの出願はアップル製品より後だったのでそもそも効力ナシという笑えないオチだった。
ある事象に関して、賛成と反対の論客がそれぞれ意見を載せるみたいなコーナーって新聞各紙にあるみたいだけど、著作権延長の問題に関しては朝日も読売も毎日も取り上げてた。
それらに目を通して言えることは延長賛成派の根拠は国際基準だからだとか平等にとか政治的な根拠が中心で文化的な側面からメリットを示せてるのがない。まるで長ければ長いほどいいと言っているようにも見える。
アメリカの場合、その立場と目的は簡単明瞭だ。外貨を稼ぐミッキーマウスとハリウッドソフトの延命、これに尽きると言っても過言ではあるまい。ミッキーマウスのアニバーサリーが近づくたんびに法案が出される。
ミッキーマウス法などと揶揄されたのを聞いたことある人もいるだろう。
ディズニーといえばプルートも米国人によって発見された冥王星を記念して作られたキャラだっていうけど、「冥王星降格」んときのアメリカのゴネようを考えたら米国人の価値観がグローバル・スタンダードであるはずはないってわかるよね。(でも自民党は米国=世界基準と思ってるらしい…)
白人どもの考えることなんて所詮そんなもんだ。
フランスがイラク戦争に反対したときも、欧州かぶれのアホどもは“さすが文化的なフランス人”だなんてスタンディングオベーションしてたけど、やつらがそーしたのは利権であって、別に平和を愛してるからぢゃねーのにな。
だってヤツらってば核武装はしっかりして、移民は差別しまくって、それでいてサッカー選手は旧植民地から買ってきて、つい最近まで道ばたでウンコしてたような国だぜ。
だからうかつに一方向だけ見て「世界基準」とか言うもんぢゃねーぜ、しろがねーぜ。
科学者さんだのアーチストさんだのっていう一部の天才さんたちは浮き世離れしてるっていうか、自分の専門以外の一般常識にとんと疎いみたいだから、ボクたち凡才のフツー人たちが支えてあげないといけないね(笑)
天才ってのはほっとくと原爆が爆発してるのやクローン人間を見てみた~いなんて言いだしちゃうからね。彼らはいつでも自分の思いつきにワクワクしてるらしいけど、コトが起こった後のことを考えるチカラは欠けちゃったりしてるんだよね。
だから簡単に大資本や政治に利用されちゃったりするんだ。
松本せんせーもさ、メリットとデメリットをちゃんと並べて考えなおしてみるといいよ。期間延長による著作権の復活で“アンタッチャブル”な存在になってしまって、そのまま消えていくかもしれない文学作品のこととかね。それとこの法律の生まれた政治的な背景とか意図とかも。
ゲイ歌手との作品の問題部分の比較を見てみたけどこんなんでダメって言われたら表現の幅がどんどんせばまっちゃうよ。だってどちらも、そこだけをとって“画期的にうまいこと言ってる名フレーズ”ってほどでもないんぢゃない?
プロ野球評論家が使い古した「練習は裏切らない」に毛の生えたようなもんにしか見えない。
漫画全体のテーマだとか、講演会で話してるものだなんていうけどさ、…っていうことは作品全体を読んでる人やファンにとってはインパクトのあるコトバってことなんだろうけど、だったら、そんな2剤式の接着剤の硬化剤のほうだけパクったって意味ないでしょ。国民全員があんたの漫画読んでるみたいな幻想抱いてるんだとしたらそれこそ銀河系級の妄想狂だ。
これはまさに“勘違い界のレアル・マドリード”やぁ~(笑)
それより「銀河鉄道」ってネーミングのほうがよっぽどインパクトのあるコトバぢゃねーかっていう。
そうそう、保護期間が50年から70年なったら「銀河鉄道」も使えなくなるんぢゃねーのか…って突っ込んでやろうと思って調べたら50年のままでも充分にダメぢゃん(笑)。
宮沢賢治の没年が1933年で『銀河鉄道999』の初出が1977年。
それなのに自分が死んでも『銀河鉄道999』は70年保護しよう…ってか?よほどデキの悪いマゴでもいるんだろうか?
70年だか50年だか知んないけど、そもそも作者本人が死んでんのに遺族がそれで儲けようなんてどうなんだかね。
え?金儲けだけじゃなくって記念館立ててみたり、下世話な企画で作品が汚されないように、作品イメージの保護とかコンセプトの伝承とかそーいう文化的な努力もするんだって?
でもほんとうに作者が意図したかどうかもわからないような遺志の継承とかなんとかいいながら、結局はパチンコ屋とかに売っちゃうのがオチぢゃない?(笑)…あ、銀河鉄道もパチンコになってやがる。やっぱり金かよ。
なんだよパチンコなんかに魂売ったヤツに若者の夢とか子供の未来とか語って欲しくねーよ。それこそ宮沢賢治が泣くぞ。
こんなんぢゃ、もう夢もファンタジーも台無し…(パチンコ台は増えるけどね…)
『銀河鉄道の夜』と『銀河鉄道999』とを並べられても人々がいままでパクリだのなんだのって違和感を感じなかったとしたら、それは「銀河鉄道」というコトバがあまりに定番的な語句になってしまったからだろう。
ひとつには『銀河鉄道の夜』という作品が文学史というか日本史にその名を残す高みに位置しているから。人が死んでから年数を経るとただの故人から仏へとのぼりつめるみたいな。夜空に輝く星が誰のモノでもない…みたいな。つまりその時点で法律はともかくとして、人々の感覚の上ではパブリックドメインになったってことぢゃないのかな。
お星さまといえば『星の王子さま』の版権が切れて、各社で新訳が出されることになったときに初版の訳者の遺族が「星の王子さま」というタイトルは使わせないとファイティングポーズを見せたらしいけどそれもバカげてると思うよ。
「Le Petit Prince」ってのは日本では「星の王子さま」ってコトバとともにお星様になったんだからさ。文句言うんだったら先に圓楽師匠や『星の王子ニューヨークへ行く』のほうだよね(笑)
むしろ辞書とかにのるような“常識”として認知されたんだって誇りに思ってほしいな。
有る意味ではパクった(?)ほうの松本氏も「銀河鉄道」というコトバの定番化に一役買っているといえるかもしれない。『銀河鉄道999』のヒットによって一般名詞と同じ扱いなんだな…と人々が錯覚を起こしてしまったという。人の土地を地主の人の良さにつけこみ不法占拠したまま時効が成立してしまった…みたいな(笑)。
でもこれは文化が育っていく1つの形態なのだ。時には新語とか流行語もこんな風にして生まれるし黒人音楽のブルースはパクりパクられ発展してきた。
パクりというよりは黒人音楽は元々いわゆる“オープンソース”な世界だったのだ。
ブルースのコード進行について誰かが著作権を主張してたら今日のミュージックシーンはなかったかもしれないのだ。
シーナ&ザ・ロケッツの『レモンティ』がヤードバーズの『Train kept a rollin』のパクりだなんて鬼の首でもとったように勝ち誇ってるガキはブルースをわかってねーよ。あれはブルースマンの流儀なんだよ。単純にダセーよという意見だったらまだしも(笑)
いまではみんなが「著作権?守られて当たり前ぢゃん」「自分のアイディアなのに使えなくなった?特許とってなかったから仕方ないぢゃん」とか当たり前のように思ってるけど、実際には文化や文明の発展にはオープンソースな側面が少なからずあったのさ。
なんでも守ればいいってもんぢゃない。たとえばさっき出てた一太郎のヘルプアイコンの訴訟なんて危ういものを含んでいる。例えば塗りつぶしのバケツアイコンをアドビしか使えないとか、道路標識に使われているようなピクトグラムをどこかの企業が大量に登録して独り占めしちゃったりしたらインターフェイスの発展が止まってしまう。
最近、アニメやオタク文化は日本の輸出品だなどと持てはやされたりダフトパンクのPVに使われたりとか松本零士も調子にのっちゃってるんぢゃねーの?っていうかオッサン、「銀河鉄道」だけぢゃなくって「西遊記」とか「戦艦大和」とか、過去の資産にのりまくりぢゃねーか…っていう。
そもそもマンガ家なんていろんなつながりで持ちつもたれつ生きていくような仕事でしょ。それこそ編集者が企画考えたり、ひどいときにはネームやストーリーづくりまでも編集者がやってる例なんてのもあるとか。
まぁ、どっかのマンガ雑誌みたいに終わりかけたマンガを無理矢理お決まりのトーナメント大会みたいな対決形式にさせて作者の望まないカタチで延命させられるなんて、おせっかいなアシストもあるけど(苦笑)
松本氏はひところメディアに露出される際によく『宇宙戦艦ヤマト』の原作者なんて紹介されて否定も補足説明もせずにいけしゃあしゃあと胸張って喋っていたけど、今になって考えると『宇宙戦艦ヤマト』でのあのおっさんの位置って単なるキャラクター&メカデザインぢゃねーかっていう…。
丁度、角川アニメ『幻魔大戦』の大友克洋みたいなものだ。
いや大友克洋ほどの作品に対する影響力があったかどうかも疑わしい。
メカはかろうじて松本キャラの雰囲気を保っているけど、古代進をはじめとする主要キャラのほとんどは、どちらかというとスポ根チックな汗くさいハイテンションな風貌。
「冒険王」で松本氏が連載していたような低血圧なうらなりインポキャラのままだったらあれだけ人気が出たかどうかは疑わしい。
いまのSFアニメブームにもつながるヤマトの肝ともいえるSF設定といえば「ワープ航法」と「波動砲」だけど、それらを考案したのはもちろんのこと設定したのも松本氏ではないし、逆にその後の松本作品にはヤマト・プロジェクトからの影響が垣間見られる。
例えば件の『銀河鉄道999』なんて、その最たるものぢゃねーのか…っていう。機関車という前時代的な乗り物がそのままのデザインで宇宙空間に飛び立っていくなんてヤマトそのものの発想だ。
それまでの松本作品はSFといっても、壮大なスペースオペラ的なものはなかった。「旅」という発想もこれまたヤマトからいただき…だ。
元々の船が空を飛ぶという発想もそのまま「ハーロック」に流用されている。
戦艦を飛ばすという当時としては奇想天外な発想は元々は後に松本氏と法廷で争うことになるヤク中プロデューサーから出たもの。松本氏に声がかかったのもコミカライズというカタチでアニメ放映と並行して雑誌でも連載して盛り上げていこうといういわばタイアップ企画だった。手塚治虫やさいとうたかおなどにも打診していたらしい。
そして宮川泰の作曲や編曲もこの作品の大きな魅力のひとつだ。
『電車男』のスペシャルでも使われていた彼のスコアは今も尚、楽曲として素晴らしい。
結局のところ、美術デザイナーなすぎなかった松本氏は、この壮大な“共同作業”の産物であるSFカルトアニメ『戦艦ヤマト』にかかわったということで自分が貢献した何十倍、いや何百倍もの恩恵を受けている。
松本氏はこのヤマトに関しても、ヤク中のプロデューサー(笑)に裁判をふっかけたけど、この人相の悪いプロデューサーが著作者かどうかという議論はともかくとして、松本氏が「ヤマト」を独り占めしようとしたってのはどう考えても横暴。
いや、このヤク中プロデューサー氏は音楽プロデューサーとしての経歴もあり、宮川氏にもいろいろとうるさく注文をつけたらしいからヤマト成功の手柄はほとんどこのおっさんのモノぢゃねーかって気がする。
話がどっちらかってきたけど、つまりは松本氏は「ヤマト」といい「銀河鉄道」といい、ブルースミュージックのようなオープンソースな恩恵を受けまくった結果として、今日があるというのに、世の中に恩返しをするような姿勢が全く見られないことは残念だ。
“恩返し”ってのは、別に自分がパクった数と同じだけ、パクりを見逃せってことぢゃない。今持っている地位や影響力を社会や文化の発展のために使えってことだ。
“前例”というのはコワイものなのだ。法律の世界では判例として大きな影響力をもつし、松本氏が著作権ゴロのような振る舞いを続ければ、まわりまわって他の分野にも波及しないとも限らない。
そうなると、未来はそれこそSFに出てくるようながんじがらめな暗黒で閉じた社会になってしまうかもしれない。
ところで999をスリーナインというのは英語として正しくない。正しくはトリプルナインだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます