…というわけでプチ再開です。
休止と言っておきながら追記したり投稿したりしてたのが潔くないのでとりあえず「再開」ということにしますが次回はまた間があきそうなので「プチ」です。
さて「カイジ」観てきました。はっきり言って映画としてのクォリティは期待はしていなかった。
だってそうだろう、マンガ原作の実写映画化なんてビートルズ曲のカヴァー同様、企画された段階ですでにハイリスク。
B級が約束されたようなものだ。
ただ遠藤を女性の天海祐希が演じるというのでわずかながら奇跡の予感もないではなかった。キャラクターの“性転換”といえば過去に「カバチタレ」での成功例があるからだ。
まぁ「カバチタレ」は性だけでなくいろんなところが「転換」していたので原作の再現を望んでいた人たちは失望したのかもしれないが、秀逸なカヴァーバージョンという意味ではジョー・コッカーの「with a little help from my friends」ばりの存在感を示していた…と個人的には評価している。
だけど残念ながら蜷川組の美青年と元月組トップスターの熱演は空砲となってしまった。
全体の構成のバランスが悪すぎる。
「カイジ」のキモは決められたルールの中で行われるゲームで行われるかけひきにある。
ルールの盲点、或いはイカサマで窮地に陥った主人公があきらめず心理戦を戦い抜きついには立場を逆転する。
ただそれをひたすら繰り返してきたのが「カイジ」というドラマだ。
で、映画はどうだったか?
フィーチャーされたステージは
「限定ジャンケン」
「地底労働」
「鉄骨渡り」
「Eカード」。
「限定ジャンケン」ではかろうじてかけひきの緊張感は織り込めてはいた。短い時間に詰め込むという映画化の制約を考慮すれば及第点といえる。
原作の地底では「チンチロリン」というもうひとつの関門があるのだけれど、個人的にはこのサイコロを使ったシンプルで歴史ある遊戯のほうが、なぜ人はいとも簡単にギャンブルに魅了され墜ちていくのか?という本質を非ギャンブラーな観衆にもアピールしやすいような気がした。
逆に鉄骨渡りがいらねー気がした。そもそもなんであんな超高層ビルなんだっていう(笑)。2棟とも兵藤の持ち物だとしてもあれぢゃあっという間に通報されるだろ(笑)。ヘタすりゃ航空法にも触れそうだ。
SFXチームがムダに腕自慢したかったのか、はたまた映画ならではのスケールアップ感を出しました…とでも言いたかったのか、いずれにせよ本末転倒な企画意図があったに違いない。
人間は10メートルもあれば充分に死ぬ。むしろそのほうがリアルで怖さもある。そう、怖さといえばあの落下シーンはなんだ。
これこそSFXの茶番。グリーンバックの前で手足をばたつかせる俳優にCG合成された背景。
キョービ新奇さもないそんな陳腐な画面よりもゆっくりと人影が地面に飲み込まれ少し間を置いた後にドスンと鈍い音がするくらいのほうがよっぽどリアリティが感じられると思うのだが。
超高層ビルでも、せめて昼間にすれば少しは緊張感を補えたかもしれないが、実はSFXの力量不足で昼間はムリだったのかもね(笑)。
ここで
「原作だって設定は夜だったぢゃねーか、それに金持ちの見物人のことを考えたらやっぱ設定は夜でしょー」
という原作ファンのツッコミが入るかもしれない。
でもまさにそこがポイントなのだ。マンガというのはどちらかというと舞台芸術に近いノリかある。しょぼいセットや抽象芸術のようなセット、いや全くなくっても観衆のほうが歩み寄って世界観を共有しようとしてくれる。
そうした方法論の中では福本伸行のようなヘタクソな絵は効果的にすらある。
でもひと度、実写映像になってしまえば受け手の想像力に頼れる余地は激減する。だからマンガの“翻訳”にはもっと気を使うべきなのだ。
原作のオープン前のホテルはどよんと暗く立地すら不明でどこか廃屋のアジトのような場末感さえ漂わせる。
とりあえず「あんな堂々とやってたら通報されるだろ」ってのは言いっこなしねと前置きしたところで、夜景の美しいランドスケープでは原作の持つ閉塞感がすっかり失われてしまっている。(大都会の中の小さな存在というメタファー…ってか?)
バランスを失いそうになる登場人物たちの振る舞いはコントチックにすら映ってしまう。せめて会話も困難なくらいの風音でもしててくれたら。(この作品は全体的にサウンドが軽視されていた気がする)
ついでに言えば昼間でも集合できるのが真の金持ちというもの。ディナーではなくランチだったらなおさら狂気ぢゃないか。まぁ夕方から夕闇へという時間設定でもいい。
佐原のキャラも曖昧すぎる。原作のようなそこそこキレもののギャンブラー気質だが理性と甘さを捨てきれないというキャラ設定なら「正気じゃない」とゴネつつ一番最後に橋渡り参加に同意するというあの場面も生きてくるけど、映画の地下労働で病気にむしばまれ薬代にも困り追いつめられたという設定だったらむしろ失うものは何もなく取り乱すことなく無言で参加しそうなものだが。
松山の友情出演がこの橋渡りの展開をさらに冗長なものにしてしまっている。腐女子ファンにとってはそれでもよ満足だったのだろうが。
それにしても冗長な展開のあとの唐突な「気圧差突風」という失速感は原作を読んでない人たちにも違和感なく受け容れられただろうか?
さらにいえばさっき駆け引きが「カイジ」のキモだと言ったけど、それがここではソックリ省かれている。原作ではここの電流鉄骨渡りはその前の「落とし落とされ」のある「予選」とセットだった。それを切り離してしまったのが失敗だった。
だったら映画では「予選」と「決勝」ミックスさせて「落とし落とされのルール」をねじこめばよかった。
そしてEカード。耳針装置はエグすぎて映画ではムリだったとしても何か緊張感のある代償が欲しかった。たとえば仲間を人質にするとか。
こうした映画の観客のアタマの中ではインフレーションが起こりがちだ。もはやどんな金額も緊張感をもたらさない。福本伸行はそこらへんを熟知しているからこそあの原作なのだ。
ところで焼印時に何か埋め込むことは可能かもしれないけどそんな用途の薄い高機能なのを全員に…ってのはムリがあるだろ。
あと遠藤にタネ銭を借りるとこ。
あんな程度の浅知恵を聞いて組織を敵に回し、つまりすべてを捨ててまでカイジにのるわけがない。
カイジ以上に利根川の「蛇っぷり」は理解してるはずだ。
利根川へのライバル意識が理性をも凌駕したとでもいうのか。でもそういう描写もほとんどない。
少なくともカイジの作戦にのった後の心の声は冷静だった。
その前に殺人ゲームの見物客たちを観て「悪趣味すぎる」というセリフがあったけど佐原以上にキャラ設定がブレてる(笑)。
エンディングは峰不二子とルパンかっつーの(笑)
全体的にツナギ目だらけのキタナイな仕上がりだっなぁ…ってのが感想。
ジャンケンから地下強制労働へのいきさつは後から回想する設定になってたけど、フツーに順を追って展開してくれてたほうがツギハギ感は消せただろう。
のりしろと本体より大きくなっちゃいました…みたいな。
どれも脚本の段階で気づくような失敗ばかり。
脚本後もしくじってるけどね。さっきのCGの件しかり。「ザワザワ」(笑)。アニメを観たときも笑ったけど映画でもそのままとは…。不必要だったCGの金をサウンドデザインにまわして何か気の利いたファンに語り継がれるようなのを作って欲しかったね。
まぁ“あえてのゴリ押し”でダサかっこよさをアピールするってのもありだとは思うけど、それだと原作のファンしか相手にしてくれないだろ。
実際、試写中「そこ、笑うとこぢゃねーし」ってヶ所で笑いがもれていた。どっちを向いてるのかわかない作品だ。
実はボロクソに言ったけど「惜しいなぁ」という感想もあったのだ。
原作のほうは麻雀マンガのように純粋に架空世界でのかけひきを見せるもの、つまり人間の猜疑心であったり社会の階層構造などもゲームを構成するファクターにすぎず、決して社会に対してメッセージなんて送ってるわけぢゃないんだけど、映画をのほうはといえば終盤で兵藤のセリフを聞いていたら、ひょっとしてこの映画はメッセージを送ろうとしてんぢゃねーの?ってあがきが見えた気がした。(ただの便乗かもしれないけど)
実際にはきめセリフの多くは原作をなぞっているだけなんだけど、構成次第では現代の「蟹工船」になりうるんぢゃねーか?
そんなことをふと思った。
もしそれができたら痛快だったのに。
だってさっきも言ったように福本伸行ってヒトにはそんな意図はないだろうし、むしろ格差社会は負け犬の甘えと思っているか、そういうことに興味すらないかどちらかなだろうから。
じゃなかったらこんな安易な映画化を許してのこのこと友情出演するはずもない。パチスロやパチンコにもなってるしね。
とりあえずお金が入るからいいってことだろう。
水木しげるもウエンツの鬼太郎は気に入らないけどお金が入るからいいって言ってたな。このヒトって現代社会は妖怪も棲めないほど荒廃したと嘆いていたけど所詮マンガ家の発言なんて哲学はないってことね。松本零士しかり。
最後に主題歌。YUIはけっこー好きだけどこれはムリヤリねじこんでるなぁ(笑)。それも2曲も。深夜の海外ドラマのムリヤリタイアップを観たあとのようなとほほ感が…。
エンディングロール観てたらYUIのA&Rというクレジットが。活動を再開したと思ったらタイアップ感丸出し。
結局みんな金金金…だ。
そんなことを思わせてしまうという意味では成功?(笑)
でも興業がコケたらかっこ悪…。
試写を観る前にテレビでPRしている藤原竜也を見たときおいらの前提としては原作のカイジがあったから
「コイツ話ヘタだなぁ、全然、魅力伝えてねーよ」と思ったんだけど映画見たらある意味納得る
本人も試写見てアタマかかえちまったんだろう…きっと(笑)
テコ入れでワザとらしい出口調査スタイルのCMやるのかなぁ…
でもなんて言わせる?
「鉄骨渡りがドキドキしました」…とか?
…ウソですら1つくらいしか思いつかない…そんな映画。
追記:
早速コメントを頂いたようですが無言のようです。
「…」というのが「ざわ…ざわ…」の雰囲気を踏襲したパロディだとしたらなかなかのもんですが、もうひとつ何か欲しいですね。映画と同じでツメが甘い(笑)。
おそらくは否定のつもりなんでしょうね。
まぁ実は試写会場では拍手も起こってたしね(笑)どんな層がせめてくるかは大体予想がつくんでそれに備えてってことでこの追記。
その昔、神田たけ志の「ザ・ライブ」という麻雀マンガがあった。オザワという名の主人公はオーケストラのコンダクターのように卓上を操り、最後には場を平たくするという筋なんだけど、オザワというのはもちろん世界の小澤征爾をもじったキャラなんだけど、このマンガの連載中の読者のコーナーに「なんでもオザワっていうバイオリニストが本当にいるらしいですね」というバカ丸出しのお便りが載ったことがあった。別に小澤征爾ことなんて知らなくっていい?でもそうなると牌譜とスコアをかけてたりする遊びもにも気づかないことになり作者のほうもなんだかなぁってことになっちまう。
こーいう読者は自分の無知は棚に上げ、マージャン漫画ってけっこー深いよななんて思ってたりする。萩尾望都のBLマンガを読んだだけでアイルランド文学に通じた気になってるヤツとか、人生の深みはすべてマンガの中にあると勘違いしているような人々のうねりがこの国の文化を劣化させているに違いないんだ。
そりゃ桜井章一の人生訓がもてはやされるなんて可笑しなことにもなるわけだ。そーいえば前出の神田たけ志は「ショーイチ」なんてのも描いてたっけ。
ここにきてお上がアニメやマンガを推すのは文化的な側面を評価したからではなく単に金になることがわかったからだ。なんかこの考え方って朝青龍のガッツポーズについて「ファンが喜ぶならそれでいいぢゃん」って発想とも通じるな。
野球がBaseballに勝った(←これ自体は誤解だが)なんて浮かれてたけど、柔道はJudoに成り下がった。相撲もきっとSumoになっちゃうんだろうな。まぁあまり日本人には向いてない競技のようだからそれもいいのかもね(笑)
芥川賞もAkutagawa-Showになって、この国の文字文化はケータイ小説とライトノベルとマンガとブログと川柳だけになっちまうかも…。
休止と言っておきながら追記したり投稿したりしてたのが潔くないのでとりあえず「再開」ということにしますが次回はまた間があきそうなので「プチ」です。
さて「カイジ」観てきました。はっきり言って映画としてのクォリティは期待はしていなかった。
だってそうだろう、マンガ原作の実写映画化なんてビートルズ曲のカヴァー同様、企画された段階ですでにハイリスク。
B級が約束されたようなものだ。
ただ遠藤を女性の天海祐希が演じるというのでわずかながら奇跡の予感もないではなかった。キャラクターの“性転換”といえば過去に「カバチタレ」での成功例があるからだ。
まぁ「カバチタレ」は性だけでなくいろんなところが「転換」していたので原作の再現を望んでいた人たちは失望したのかもしれないが、秀逸なカヴァーバージョンという意味ではジョー・コッカーの「with a little help from my friends」ばりの存在感を示していた…と個人的には評価している。
だけど残念ながら蜷川組の美青年と元月組トップスターの熱演は空砲となってしまった。
全体の構成のバランスが悪すぎる。
「カイジ」のキモは決められたルールの中で行われるゲームで行われるかけひきにある。
ルールの盲点、或いはイカサマで窮地に陥った主人公があきらめず心理戦を戦い抜きついには立場を逆転する。
ただそれをひたすら繰り返してきたのが「カイジ」というドラマだ。
で、映画はどうだったか?
フィーチャーされたステージは
「限定ジャンケン」
「地底労働」
「鉄骨渡り」
「Eカード」。
「限定ジャンケン」ではかろうじてかけひきの緊張感は織り込めてはいた。短い時間に詰め込むという映画化の制約を考慮すれば及第点といえる。
原作の地底では「チンチロリン」というもうひとつの関門があるのだけれど、個人的にはこのサイコロを使ったシンプルで歴史ある遊戯のほうが、なぜ人はいとも簡単にギャンブルに魅了され墜ちていくのか?という本質を非ギャンブラーな観衆にもアピールしやすいような気がした。
逆に鉄骨渡りがいらねー気がした。そもそもなんであんな超高層ビルなんだっていう(笑)。2棟とも兵藤の持ち物だとしてもあれぢゃあっという間に通報されるだろ(笑)。ヘタすりゃ航空法にも触れそうだ。
SFXチームがムダに腕自慢したかったのか、はたまた映画ならではのスケールアップ感を出しました…とでも言いたかったのか、いずれにせよ本末転倒な企画意図があったに違いない。
人間は10メートルもあれば充分に死ぬ。むしろそのほうがリアルで怖さもある。そう、怖さといえばあの落下シーンはなんだ。
これこそSFXの茶番。グリーンバックの前で手足をばたつかせる俳優にCG合成された背景。
キョービ新奇さもないそんな陳腐な画面よりもゆっくりと人影が地面に飲み込まれ少し間を置いた後にドスンと鈍い音がするくらいのほうがよっぽどリアリティが感じられると思うのだが。
超高層ビルでも、せめて昼間にすれば少しは緊張感を補えたかもしれないが、実はSFXの力量不足で昼間はムリだったのかもね(笑)。
ここで
「原作だって設定は夜だったぢゃねーか、それに金持ちの見物人のことを考えたらやっぱ設定は夜でしょー」
という原作ファンのツッコミが入るかもしれない。
でもまさにそこがポイントなのだ。マンガというのはどちらかというと舞台芸術に近いノリかある。しょぼいセットや抽象芸術のようなセット、いや全くなくっても観衆のほうが歩み寄って世界観を共有しようとしてくれる。
そうした方法論の中では福本伸行のようなヘタクソな絵は効果的にすらある。
でもひと度、実写映像になってしまえば受け手の想像力に頼れる余地は激減する。だからマンガの“翻訳”にはもっと気を使うべきなのだ。
原作のオープン前のホテルはどよんと暗く立地すら不明でどこか廃屋のアジトのような場末感さえ漂わせる。
とりあえず「あんな堂々とやってたら通報されるだろ」ってのは言いっこなしねと前置きしたところで、夜景の美しいランドスケープでは原作の持つ閉塞感がすっかり失われてしまっている。(大都会の中の小さな存在というメタファー…ってか?)
バランスを失いそうになる登場人物たちの振る舞いはコントチックにすら映ってしまう。せめて会話も困難なくらいの風音でもしててくれたら。(この作品は全体的にサウンドが軽視されていた気がする)
ついでに言えば昼間でも集合できるのが真の金持ちというもの。ディナーではなくランチだったらなおさら狂気ぢゃないか。まぁ夕方から夕闇へという時間設定でもいい。
佐原のキャラも曖昧すぎる。原作のようなそこそこキレもののギャンブラー気質だが理性と甘さを捨てきれないというキャラ設定なら「正気じゃない」とゴネつつ一番最後に橋渡り参加に同意するというあの場面も生きてくるけど、映画の地下労働で病気にむしばまれ薬代にも困り追いつめられたという設定だったらむしろ失うものは何もなく取り乱すことなく無言で参加しそうなものだが。
松山の友情出演がこの橋渡りの展開をさらに冗長なものにしてしまっている。腐女子ファンにとってはそれでもよ満足だったのだろうが。
それにしても冗長な展開のあとの唐突な「気圧差突風」という失速感は原作を読んでない人たちにも違和感なく受け容れられただろうか?
さらにいえばさっき駆け引きが「カイジ」のキモだと言ったけど、それがここではソックリ省かれている。原作ではここの電流鉄骨渡りはその前の「落とし落とされ」のある「予選」とセットだった。それを切り離してしまったのが失敗だった。
だったら映画では「予選」と「決勝」ミックスさせて「落とし落とされのルール」をねじこめばよかった。
そしてEカード。耳針装置はエグすぎて映画ではムリだったとしても何か緊張感のある代償が欲しかった。たとえば仲間を人質にするとか。
こうした映画の観客のアタマの中ではインフレーションが起こりがちだ。もはやどんな金額も緊張感をもたらさない。福本伸行はそこらへんを熟知しているからこそあの原作なのだ。
ところで焼印時に何か埋め込むことは可能かもしれないけどそんな用途の薄い高機能なのを全員に…ってのはムリがあるだろ。
あと遠藤にタネ銭を借りるとこ。
あんな程度の浅知恵を聞いて組織を敵に回し、つまりすべてを捨ててまでカイジにのるわけがない。
カイジ以上に利根川の「蛇っぷり」は理解してるはずだ。
利根川へのライバル意識が理性をも凌駕したとでもいうのか。でもそういう描写もほとんどない。
少なくともカイジの作戦にのった後の心の声は冷静だった。
その前に殺人ゲームの見物客たちを観て「悪趣味すぎる」というセリフがあったけど佐原以上にキャラ設定がブレてる(笑)。
エンディングは峰不二子とルパンかっつーの(笑)
全体的にツナギ目だらけのキタナイな仕上がりだっなぁ…ってのが感想。
ジャンケンから地下強制労働へのいきさつは後から回想する設定になってたけど、フツーに順を追って展開してくれてたほうがツギハギ感は消せただろう。
のりしろと本体より大きくなっちゃいました…みたいな。
どれも脚本の段階で気づくような失敗ばかり。
脚本後もしくじってるけどね。さっきのCGの件しかり。「ザワザワ」(笑)。アニメを観たときも笑ったけど映画でもそのままとは…。不必要だったCGの金をサウンドデザインにまわして何か気の利いたファンに語り継がれるようなのを作って欲しかったね。
まぁ“あえてのゴリ押し”でダサかっこよさをアピールするってのもありだとは思うけど、それだと原作のファンしか相手にしてくれないだろ。
実際、試写中「そこ、笑うとこぢゃねーし」ってヶ所で笑いがもれていた。どっちを向いてるのかわかない作品だ。
実はボロクソに言ったけど「惜しいなぁ」という感想もあったのだ。
原作のほうは麻雀マンガのように純粋に架空世界でのかけひきを見せるもの、つまり人間の猜疑心であったり社会の階層構造などもゲームを構成するファクターにすぎず、決して社会に対してメッセージなんて送ってるわけぢゃないんだけど、映画をのほうはといえば終盤で兵藤のセリフを聞いていたら、ひょっとしてこの映画はメッセージを送ろうとしてんぢゃねーの?ってあがきが見えた気がした。(ただの便乗かもしれないけど)
実際にはきめセリフの多くは原作をなぞっているだけなんだけど、構成次第では現代の「蟹工船」になりうるんぢゃねーか?
そんなことをふと思った。
もしそれができたら痛快だったのに。
だってさっきも言ったように福本伸行ってヒトにはそんな意図はないだろうし、むしろ格差社会は負け犬の甘えと思っているか、そういうことに興味すらないかどちらかなだろうから。
じゃなかったらこんな安易な映画化を許してのこのこと友情出演するはずもない。パチスロやパチンコにもなってるしね。
とりあえずお金が入るからいいってことだろう。
水木しげるもウエンツの鬼太郎は気に入らないけどお金が入るからいいって言ってたな。このヒトって現代社会は妖怪も棲めないほど荒廃したと嘆いていたけど所詮マンガ家の発言なんて哲学はないってことね。松本零士しかり。
最後に主題歌。YUIはけっこー好きだけどこれはムリヤリねじこんでるなぁ(笑)。それも2曲も。深夜の海外ドラマのムリヤリタイアップを観たあとのようなとほほ感が…。
エンディングロール観てたらYUIのA&Rというクレジットが。活動を再開したと思ったらタイアップ感丸出し。
結局みんな金金金…だ。
そんなことを思わせてしまうという意味では成功?(笑)
でも興業がコケたらかっこ悪…。
試写を観る前にテレビでPRしている藤原竜也を見たときおいらの前提としては原作のカイジがあったから
「コイツ話ヘタだなぁ、全然、魅力伝えてねーよ」と思ったんだけど映画見たらある意味納得る
本人も試写見てアタマかかえちまったんだろう…きっと(笑)
テコ入れでワザとらしい出口調査スタイルのCMやるのかなぁ…
でもなんて言わせる?
「鉄骨渡りがドキドキしました」…とか?
…ウソですら1つくらいしか思いつかない…そんな映画。
追記:
早速コメントを頂いたようですが無言のようです。
「…」というのが「ざわ…ざわ…」の雰囲気を踏襲したパロディだとしたらなかなかのもんですが、もうひとつ何か欲しいですね。映画と同じでツメが甘い(笑)。
おそらくは否定のつもりなんでしょうね。
まぁ実は試写会場では拍手も起こってたしね(笑)どんな層がせめてくるかは大体予想がつくんでそれに備えてってことでこの追記。
その昔、神田たけ志の「ザ・ライブ」という麻雀マンガがあった。オザワという名の主人公はオーケストラのコンダクターのように卓上を操り、最後には場を平たくするという筋なんだけど、オザワというのはもちろん世界の小澤征爾をもじったキャラなんだけど、このマンガの連載中の読者のコーナーに「なんでもオザワっていうバイオリニストが本当にいるらしいですね」というバカ丸出しのお便りが載ったことがあった。別に小澤征爾ことなんて知らなくっていい?でもそうなると牌譜とスコアをかけてたりする遊びもにも気づかないことになり作者のほうもなんだかなぁってことになっちまう。
こーいう読者は自分の無知は棚に上げ、マージャン漫画ってけっこー深いよななんて思ってたりする。萩尾望都のBLマンガを読んだだけでアイルランド文学に通じた気になってるヤツとか、人生の深みはすべてマンガの中にあると勘違いしているような人々のうねりがこの国の文化を劣化させているに違いないんだ。
そりゃ桜井章一の人生訓がもてはやされるなんて可笑しなことにもなるわけだ。そーいえば前出の神田たけ志は「ショーイチ」なんてのも描いてたっけ。
ここにきてお上がアニメやマンガを推すのは文化的な側面を評価したからではなく単に金になることがわかったからだ。なんかこの考え方って朝青龍のガッツポーズについて「ファンが喜ぶならそれでいいぢゃん」って発想とも通じるな。
野球がBaseballに勝った(←これ自体は誤解だが)なんて浮かれてたけど、柔道はJudoに成り下がった。相撲もきっとSumoになっちゃうんだろうな。まぁあまり日本人には向いてない競技のようだからそれもいいのかもね(笑)
芥川賞もAkutagawa-Showになって、この国の文字文化はケータイ小説とライトノベルとマンガとブログと川柳だけになっちまうかも…。