十連休初日だというのにわたくしの心は今日の天気のように晴れ晴れとしません。
なぜならば明日は4月28日ですね。
38年前の4月28日をもって東武の路線バスから車掌さんの姿が片端から消えてしまったからです。
かたや東武バス初のワンマン路線として有名な豊四季団地循環線。
現在は豊四季“台”団地循環となっていますが、わたくしの時代「台」は付いていませんでした。
高校の同学年にこの団地から通学している者がいて、野田線の豊四季駅からは全く近くないためにどこからともなく苦情が発生するようになったので
豊四季「台」と改名し豊四季駅付近ではないことをアピールするようになった、というようなことを話しているのを聞いたことがあります。
バスのワンマン運転というのは運転のみならず車掌任せだった客あしらいも自分でやってくれ、といういわゆるワンオペになります。
一人当たりの労働負担は膨大となりその導入はさぞ困難であったろうと思われます。
はたして昭和40年12月「たたかう東武」という強烈なスローガンを掲げる東武交通労働組合はワンマン導入交渉で数日間にわたり時限ストライキを決行。
均一運賃路線のみ、ワンマンバス運転士の労働時間は1日平均7時間25分、車掌に行わせていた清算作業は運転士に課さない他、
の条件で妥結しています(『東武労組三十年史』)。
昭和39年、行先に「豊四季団地」と書いてあるバスが接近する住宅東口のバス停。
ツーマンで車掌が扉を開けて身を乗り出してくるのを待つ親子がいます。(『かしわの歴史 柏市史研究』)
豊四季団地には団地開所のわずか1ヶ月後昭和39年5月25日に開通した柏駅東口~豊四季団地線という折り返し路線がすでにありました。
これは同年10月折り返しから現行と同じ駅西口発の循環路線へと変更されています。
このバス停に南下してくるということはバスは柏駅へ向かっており方向幕が柏駅ではなく団地であるということは
すでに循環経路に変更された後に撮影されたものであることが分かります。
労組の了解を取り付けるより以前から東武はこの路線で車掌を乗せたままミラーをあちこちにくっ付けたワンマン車両による試験運行をなしていて、
団地各戸に時刻表を記載したワンマンバス実装を予告するチラシを配ったのだそうです。
いざワンマン開始といっても全便一斉のワンマン化ではなくツーマンも残存してたそうで、ワンマン運転士に「乗車券をくれ」という人、
降車ボタンになじみがなく自身で「次降ります」と叫んで運転士に降車を知らせる人、ワンマンに染まりすぎてツーマンなのに乗車券を買わずに降りようとして
運転士のおっちゃんに捕っ掴まる人、実にさまざまだったようです。
この話は豊四季歴史文化研究会発行の「豊四季の年表」という古書にあるとともに
豊四季台団地のピーコックというスーパーのベンチで休んでいた3人の高齢の女性にお尋ねして知ったものです。
このような記録に残らない大昔のバス路線の姿というのは往々にして女性がよく知ってるんです。
野郎衆は免許とると車に乗り換えるからすぐ忘れて使い物にならないんですな、いわゆるバスオタは別としまして。
しかし昭和の御世初めて乗ったときはファミリー層がよく乗って来たものですがこの団地も高齢化が大分進んでるようです。
かくして斯様なドタバタを伴いながらも昭和41年3月16日から埼玉草加松原団地循環とともに
均一運賃ワンマン車両が今日まで走り続けているのです。
おおよそ団地というものは道の見通しは良いし無誘導折返可能なスペースも得やすいし踏切のような
ワンマン要件にひっかかりそうなものが他よりは少ないわけで
導入リスクが少なかろうと思われます。
神奈川中央交通で成功した整理券方式多区間ワンマンという画期的な運行方法。
傍系の阪東自動車を使って昭和42年船戸木戸~柏駅西口・東我孫子車庫間に多区間整理券方式ワンマンバスを先行実施させていた東武鉄道は、労働組合との交渉妥結を経て昭和46年他の営業所をだしぬいて野田営業所に東武初の整理券方式を導入しました。
野田は昭和22年、鉄道と自動車に分かたれていた2つの組合が市内興風会館において野田醤油労組幹部を賓客に迎えて臨時合併大会を開き「東武交通労働組合」が産声を上げたという地であり、昭和37年~39年頃には野田分会婦人部の熱心な運動により東武鉄道と野田市が専用保育所を開設するなど
組合活動がなかなか熱い土地です。(『東武労組婦人部のあゆみ』)。
それはともかく配置車両は当初から複数あったそうですがそのうちの1台は運行初日の4月29日、
前年に柏駅東口から同西口へ発着地を移して間もない柏~水堰橋線、
柏~野田線に就行しており柏市民の前にその姿を見せています(『昭和46年柏市議会録』)。
そのちょうど10年後、野田から1時間以上もバスに乗って来て錆くさかった西口歩道橋から白と青のまるで海の波のようなバスの群れを
飽くことなく眺めるキチガイ小学生が姿を見せようとは柏市民のどなたも予想できぬことであったでしょう。
東武鉄道社史によると昭和56年4月29日乗合ワンマンバス実施率100%達成とあります。
同社ツーマン運行のラストは栃木営業所の栃木駅~新古河間キロ程30kmという路線だったそうです。
そのちょっと前に群馬県中之条、そのまた1つか2つ前の車掌廃止路線名として以前このブログに和田アキ子みたいな顔した車掌さんの思い出を記した
野田営業所、野田市駅~日枝神社線が出てきます。
こんな風に東武バスワンマン化の足跡を辿ると柏なり野田なり千葉県内の路線がちょいちょい出てくるわけで、『翔んで埼玉』に押されて
肩身の狭い千葉県民としては非常な嬉しさを覚えるわけです。
野田市の隣のそのまた隣、松戸市では大阪に遅れることわずか数年、昭和32年に京成初のワンマンバスが登場しています。
この京成バス50周年記念乗車券にはワンマンではなく『無車掌』バスと書いてあります。
裏面には「全国でもめずらしい無車掌バス」という標題で興味深い文章が記されています。
そこには、「昭和32年4月10日から『松戸・市川』線において22:20~23:00までの4回運行された、
一つだけの扉に料金箱を備え降りるときに料金を入れた、
発車と同時に運転士が放送を始める、航空士のように顎から口にかけてマイクを付け『ハイ、右に曲がります。次は本町通り1丁目、お降りの方はお知らせ願います』
とやれば降りる人は自分の身近にある窓辺にぶら下がっている紐を引く」というようなことが書かれています。
わたくしの生まれて初めての海外旅行は30年ほど前に行った米国加州だったのですが、現地でバスに乗ったら
電材のCVケーブルみたいな樹脂製の怪しい紐が窓際に這わせてあって
、降りる人が一回ツンっとひっぱると直管蛍光灯を仕込んだ車内の「STOP」と書かれた表示灯が点灯するというシステムでした。
「原爆やVT信管を編み出した戦勝国のわりには随分セコイな」と思ったものですが日本にもこのひっぱり紐があったのですね。ワンマンでは運転士も大変ですが、なんでもかんでも車掌まかせで済ませていた運賃計算、両替、降車合図を自分でしなければならなくなった
乗客もまた手間暇が増えて大変です。
昭和時代に電子マネーだのなんたらペイだのあるはずがありません。
ところで今なおワンマンバス運転士の労働時間は1日平均7時間25分なのでしょうか。
さて時空を昭和56年の敗戦国に戻しますと、世間知らずの田舎の子供であったわたくしは「均一運賃」「循環路線」という概念がどうにも理解できませんでした。
わたくしの行動圏内に存したバス路線は多区間運賃制のものばかりで「終点まで運賃変わらないというのでは途中下車の客が損するじゃないか。
循環線を終点まで乗るわけないんだからこれは不当だ」とかいろいろ想像をたくましくしておったわけです。
循環線のスタイルもいろいろあって、wikipedia見ますと完全循環・ラケット型・8の字型とおおむねこの3つがあるようですが、
豊四季団地線は完全循環型になります。
循環するということはどういうことかというと起点そのものが終点であって、
傍から見ている者の「終点はどんなところなんだろう」という好奇心をそそる部分が乏しい。
しかし、循環路線も均一運賃制も知らない子供には大変興味深い存在に見えるのです。
自分のバスへの知見をより広めなければならない、
というませた好奇心から豊四季団地循環線に初めて乗ったのは小5と小6の間の春休みのことでした。
春休みは宿題がないから精神的に冒険をしたくなるのです。
そのときの乗車紀行は次回、元号が令和となりました頃にお話ししたいと思います。
内、平かにならず外、成らなかった忙しい平成時代にこんなブログを御覧いただいたこと改めて厚くお礼申し上げます。
豊四季「台」と改名し(一部引用)
柏市に住んでいますが、豊四季台団地に違和感を感じていました。子供の時は確かに台はなかったと思うのです。
でも、この経緯はどこにも見当たらず、こちらの記事で初めて知ることができました。
ありがとうございました。
ウィキペディアにも何も記載がありませんよね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%9B%E5%AD%A3%E5%8F%B0%E5%9B%A3%E5%9C%B0
http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/blogkashiwakonjaku/p045202.html
私がバスに興味をもつ遥か前ですね。
でも少なくも平成元年までは東武バスは「台」を
付けて呼んではいなかったはずです。
「台」があってもなくてもどこを意味するのか
地元の者なら一目瞭然ですしね。
ありがとうございました。