特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

京成東武共管 松戸駅~流山~野田愛宕神社線

2016年09月28日 20時08分14秒 | 旅行
 西深井だの梅郷だのどこかで聞いたことのある名前のキャラが出て来るアニメ『ろこどる』の聖地、千葉県流山市。
ろこどる知らない方でもすすめパイレーツはご存知でしょう。
 かつてこの町をドシンと南北に貫くバス路線がありました。わたくしの記憶のなかで最も古いバスの記憶がこの路線の京成RB10。


 これも乗車記がなかなか見つかりませんので長年にわたり非常に寂しい思いをしてきました。
松戸と流山の人は思い出したくない黒歴史にでもなってるのかな?と思うほど触れる人がいないので野田出身のわたしが触れることにしましょう。
 乗車記と言っても幼稚園に入るか入らないかという年の頃まで遡りますが。

 昭和28年から22年間運行されたこの路線が野田でも松戸でもなく流山市民の便宜を念頭において設けられた路線であることは疑念を差し挟む余地がありません。
が、昔の鉄道ピクトリアルやらコミックマーケットで買い漁った某鉄道サークル様の本やら地元の図書館で今も見れる流山広報誌に載っていた初代町長さんのルポ記事を読むと次のような一連の政治的流れの産物らしい、かも知れない、です。

 戦後の市町村合併で流山町は北隣新川村他と合併し江戸川町すなわち現流山市が成立した
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 ところで当時町役場と新川村を結ぶ交通はバス以外に無かった
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 町は流山から旧新川村域まで北伸するよう流山鉄道に申し入れをなした(終点を新駅としたのか東武運河駅としたのか不明)
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 流山鉄道は受諾し北伸の免許申請をなした
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 然るに東武鉄道から「本件は当社の合意を要するものである」との意見具申が町に届いた
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 流鉄・東武・町に京成も加えた協議が数度開かれた
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 鉄道延伸案は放棄され代わりにそれまであった松戸~流山間の京成バスと流山~野田間の東武バスを合一した京成東武共管バス路線を新設する覚書が京成東武間に作成された
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 流山町は覚書を見て、運河から松戸駅まで乗り換えすることなく行き来できることに満足した。


 戦前は流山町から運河止まりだった総武自動車のバス路線が東武買収後のこの時までには野田まで延長されていて、それがいよいよ松戸駅までズボッと行くようになった、というわけです。
放置された流山鉄道がどうしたのか定かではありませんが、昭和35年に流山~野田市中根~関宿~栃木県小山というとんでもない免許申請しててさらに社名を『東日本電鉄』に名義変更する予定をたてた、ところがすぐ取り下げて流山~江戸川台に変更申請して幾星霜、未だ音沙汰がない。(『総武流山電鉄の話』から)



 
 この「流山までしか行かない」という特徴にこの鉄道会社の、否、流山の魅力を生む源泉があるとわたくしは確信しております。さらには東武野田線との隔絶こそが今日の豊かな流山路線バス網の根幹をなし東武京成といった大バス企業撤退の悲劇と無縁のまま発展を続けられる理由であろうとも確信しております。東京都内で燎原の火のごとく広がる車離れ。それはいずれこの流山の地をも襲うでありましょう。そのときこのバスたちがこの町の大変な財産となるでありましょう。わたくしが流山を訪れたとき流山広小路界隈で写真を撮る若い観光客の姿が見受けられ非常な感動を覚えました。ガルパンに茨城交通あり、ラブライブに東海バスあり、ろこどるに流鉄にあり、でいいと思いますね。
 

 
昭和10年頃の流山バス路線と野田町駅から流山に到着した総武鉄道のボンネットバス。 (『流山市 50年の歩み展』流山市立博物館 撮影諾)




 さて、母によると「子連れで電車を乗り換えるのがイヤだったので」わたしを連れて「しばしば松戸の伊勢丹までバスで行って帰ってきた」と申しております。
 伊勢丹松戸店の開業が昭和49年、路線廃止が昭和50年なのでわたしの記憶にあるのはわずか1年ほどの間の見聞です。年齢で言えば4歳か5歳。
 バスを降りて必ず目にとびこんでくる長崎屋の「ココ左」と書かれた案内板とか松戸駅前で初めて見た金髪の外人さんの方が印象強いのですが、後世のためにわずかな記憶でも残さねばなりますまい。

(『京成電鉄五十五年史』に見る松戸駅~野田線)




まずわたし本人の記憶から。
・ワンマン車に乗った記憶無し。車掌さんがいて松戸駅前に着くとまだ歩行者デッキの無い当時横殴りの雨でも傘無しで車外で乗車券回収していた。別の日には詰め所か番小屋のようなものから出てきた別人に回収されたことがある。
・松戸駅到着前の根本の交差点あたりの信号待ちで、ぎっしり客を積んだ京成カラーの松戸競輪場行きとすれ違ったことがある。それを見たわたしが母に「行き先はなんと書いてあるか?」と尋ねたので覚えている。塗装の色味が強めだったようにも覚えてるので京成ではなく新京成だったかもしれない。
・「ノ・ダ・ユ・キでーす」と言う車掌さんもいた。車掌が男性のときもあった。当時バスの車掌なんぞ大人にとっては空気のような存在だったらしいが子供の目には全てが新鮮に映るのである。
・わが親子の利用していた山崎のバス停は東武オレンジ色であり京成白色ではなかった。現今ある松戸~八潮線と異なりバス停ポールが東武・京成の2本立つことはなかった。
・座席は三方シートで母から「終点まで行くんだから」と後部シートにいつも座らされた。
・愛宕神社前交差点でぐるーっと路上転回して松戸へ向かっていった車両があった。
・松戸駅と並ぶ駅近停留所の「運河駅前」で乗り降りする人もいた。


当時すでに大人だった母にも聴取しました。
・本数は「多くはなかったわりによく乗ってきた」。。
・前方方向幕は矢印が書いてあり「松戸駅⇔野田」か「松戸駅⇔愛宕神社」のどちらかであった。
・松戸駅での乗り場は京成だろうと東武だろうと同一箇所から乗った。しかしその乗り場からはどこにあるのかよく知らない『団地』へ向かう別路線も発着していた。
・当時東武社員だった妹から「運河橋工事で運河止まりになる」と聞いた。

ここにいう“運河橋工事”とは路線廃止後の昭和50年秋から始まる橋梁改修工事を指し示していて、折返しではなく仮橋を使って運河を越えて行くようになります。わたしと同世代で運河周辺の出身の方なら必ず記憶に残るであろうほど大規模なものでした。
廃止後は野田市駅~流山駅前間に短縮され後年私が野田市を離れた年まで運行は続きました。京成サイドは松戸駅~江戸川台駅となり今日なお営業中です。

短縮され共管線ではなくなった後の記憶はいろいろと多岐にわたってありますので次回にごそっとお話したいと思います。


昭和48年の松戸駅バスのりば。わたしのおぼろげな記憶では野田行きは手前に写っている「1」から出ていたと思います。
写真のさらに右側には開店したばかりの大きな矢印が書かれた伊勢丹の看板があって「この矢印は何をいわんとしているのだろう?」と思いながらバス待ちしていたような気がします。(『写真アルバム 昭和の松戸』)


流山行きは増便、野田行きは『中止』と報じる広報まつど(昭和50年8月15日号)。



路線開業時はこの江戸川土手を走っていたという。
昭和27年鎌倉に移るまで映画監督・故小津安二郎は野田から大船に行くときに野田愛宕神社から松戸駅までひたすらバスで行ったらしい。監督もこの江戸川を見たのである。

運行開始年の昭和28年9月30日、流山市東深井地先の道路損壊により野田直通を運休し松戸駅~東武初石駅間で折返し運行をしています(『朝日新聞』)。当時は江戸川台駅はまだ存在していません。




同28年12月22日、オート三輪を追い抜こうとしてハンドル操作を誤り車両が江戸川堤上旧県道から転落、13名の怪我人を出しています。(『読売新聞』)

昭和31年にも道路損壊による路線途絶があったようです。
『野田―松戸間運転の東武バスは流山町下花輪付近で徒歩連絡をしていたが、このほど開通したので、十五日からダイヤを改めた△野田発 6:30 7:00 7:30 8:00 8:30 9:00 9:30 10:00 11:00 12:00 13:00 14:00 15:00 16:00 17:00 18:00 18:30 19:00△松戸発も同じ。なおいままで通り京成バスと交互に運転する。』(昭和31年4月15日『朝日新聞』)



昭和38年に現流山街道が出来るまで野田~松戸間の運行路線だった流山本町・流山広小路から万上本みりん前を抜けていく道。この「万上」までに乗客は大概皆降りてしまったらしい。
アスファルト舗装後、乗客がいなくなったのを幸いと、この直線路を松戸へ向け時速100キロで走ったことがあるという。




 
流山本町には京成の運行によって今なお平和台駅・おおたかの森駅へ行くバス停「福祉会館入口」がある。(画像はエアロミディ・ノンステップ車)



ちなみにこちらは同じく流山本町に食い込んで走っていた京成バス、松戸駅~流山広小路線(廃止)の終点跡地。



次回は共同運行廃止後の男性車掌と野田市駅~流山駅前線の記憶をお話しします。


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