特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

野田・関宿の昭和30→40年代展で路線バスを考察してみた

2021年04月14日 02時25分47秒 | 日記

本年1月から3月まで野田市の郷土博物館で「写真でたどる野田・関宿の昭和30→40年代」という興味深い写真展が開催されました。
 わたくしはこれに齢70を越え髪はすっかり白くなり腰のひん曲がった母を白毛ソダシの鞍上吉田隼人騎手よろしく腰をペチペチ叩きながら無理やり連れて行きました。老人が見てなにかぽつぽつと語ることに郷土の古い姿を捉えることができるのではないかと期待してのことですが個人的にもいろいろと母に手をひかれて歩いた幼時の野田の思い出をはせるものがあったのでお話ししたいと思います。しかしまあ年寄りという生き物は実に動きのノロイ生き物でしてこれじゃあ路線バスもノンステップにしてやんなきゃならないよなあと呆れた次第でございました。わたくしは母のような小汚いババア化しないようハトムギサプリとアスコルビン酸すなわちビタミンCの原末をぐびぐび飲みほし、DHAとEPAを摂るべく3日に一度はサバ缶を白飯にぶっかけて食すのを習慣にしてアンチエイジングに取り組んでるところですがみなさまもどうぞご自愛くださいませ。

 


さて、これは郷土博物館のHPにもWEB公開されていた野田市駅ゆきの急行バス。ワイパーが窓上から吊るされてるタイプで川崎製のいすゞBA741か。方向指示器はアポロの腕木。手動式の方向幕は軸の狂いで右側にいくほどよたれております。今日では見る影のない仲町のバス停が人が腰を下ろしてバスを待てる贅沢な拵えになっていて路線バスの黄金時代まっ盛りの一コマと申せましょう。当時の機械式カメラの速度にしてはブレがないのでバスは完全に停止しています。居並ぶ人々すべてがバスの乗降扉に不安気な視線を集中させているので車掌と乗客とでなにか一悶着あったようです。バス停の頭ある行先欄に着目すれば興味深い当時のバス路線の姿が見えてくるというものですがちょっとこの原版の解像度では解読は難しいです。2行目に諏訪橋、3行目に野田市駅が辛うじて読み取れます。

 

 


 東武の急行バスは当時大変繁盛していたようであちこちに走っていましたが昭和28年桐生、野田~東京線開通がその嚆矢で野田線には30年代に入ってから境・岩井といった茨城方面ゆきも加わりましたが昭和42年3月20日に下妻~東京線の一部を残して廃止されています。桜の名所清水公園を経由するので東京の人でも覚えてる人がいてわたくしが今住んでる足立区には「花見なんかになるとおやじと一緒によく乗ったもんだ」と懐かしそうに話してくれた人がいます。
昭和39年夏、我孫子駅弥生軒の元住み込み従業員にして「僕は馬鹿だから線路の上を歩くんだな」で知られる伝説の放浪画家、山下清氏もまた興風会館にて催された作品展からの帰途、線路の上を歩かず世話役の式場博士とともにこのバスに揺られて野田を後にしました。会期中には市民相手のサイン会がありましたがそのさ中、健脚自慢の画伯は後年芦屋雁之助が演じたままのランニングシャツ姿で街の一角へ逃走して騒ぎを起こしています。亡くなってちょうど10年後に劇場公開された氏の映画には野田市のキッコーマン本社や市立小学校の校舎が映っています。ちなみにここに挙げたマンスリー東武当該号の表紙には清水公園の桜の写真が使われています。


関宿江戸町のバス。モノコックですが後窓のぶよっとしたピラーが廃されてるので先のバスより時代が下ったのが感じられます。帝国か富士のボディで中扉の日野のRBかREの後ろ姿に見えますがどうでしょうか。立客は見えませんが着座してる客の姿がそこそこあり立っている車掌さんもいます。なおカーブ先の長澤商店は建物と看板がまだ現地に残っています。このバスはこの先、関宿を横断して境町へ向かうわけですが当時ならば幸手か杉戸か春日部かはてさてどこからやって来たのか今はもう乗ることのできない往時のバス路線を偲ばせるものです。


東宝珠花のバス。近くの火の見櫓から撮ったものらしく見張りをする高さだけに随分遠くまで見えます。
手前の平屋の壁にいびきで有名な池松耳鼻咽喉科、ナショナルともう一枚どこかの看板がかかっています。この平屋の前は広くなっていて幼き日の関根金次郎が将棋の腕を磨いたという日枝神社のバス折返場で人の集まりやすいところなので看板があるのです。
 お尻のエンジンルーバーがにぎやかで塗装が縞模様ではなくツートンカラーに改まっているこのバスは千葉ナンバーなので野田営業所のバスです。よく見ると右ウインカーを出していて宝珠花と木間ケ瀬を結ぶ右の道へ入ろうとしているのでこれは木間ケ瀬小学校や船形を経由して野田へ行っていた野田市駅~日枝神社線のバスであろうと思われます。わたくしの記憶ではバスがここに来ると車掌さんが降りてきて白いブラウスひらひらさせながらピッピッピッと笛を吹いてバック誘導するのです。


当時キッコーマン本社の真ん前にあった郵便局の写真ですがそのお隣、旭屋呉服店に今日失われた「郵便局前」というバス停が立っています。てっぺんに東武鉄道の社紋が丸くあって、下には東武バス、郵便局前、玉屋時計店などと標記されてますがこれほど堅牢そうなバス停は初めて見ました。

以下、郷土博物館で900円で購入したパンフに載っていたもののうちのいくつかを、そのまんまもってくるとそれはそれでいろいろとあるので、フリーのカラー化サイトに通してみたものをご覧いただきたいと思います。

 

平井屋という今もある洋品店の前を清水公園・関宿方面から野田の本町通りへ向けて一枚折戸のツーマンバスが通過しています。この方向から来るバスは野田市駅行きしかありません。小学生の頃、境町まで一人でバスに乗って行って帰ってくるとき
この「平 井 屋」という看板が見えると「ふぅ、やっと野田に帰って来たわい」と思ったものです。

 

先の仲町のバス停とは反対進行側に立っている小学校前というバス停です。対向車線に仲町あるいは市役所前から来たバスがブレブレで映り込んでいます。なお急行バスはこのバス停には停まりません。オリジナルではルーペを使うとバス停の行先文字をいくつか読み取れて、柏駅前、松戸駅、北越谷駅の文字が見えます。子供ののぞき込み具合からもしかするとこのバス停は古い型、例えば先の郵便局前のような型からこの新しい型のものへ更新されたばかりなのでそれで珍しがってるのではないかという気も致します。


目吹大橋開通の写真。東武の貸切仕様塗装が施された日野BD30系。当時では最新型でしょう。なお後続車両はみんな一般路線仕様。フロントに「岩井町」という札が垂れ下がっていて岩井町長の御一行が乗っているようです。目吹大橋開通時の写真はモノクロのものばかりで曇天下だったと思ってましたがこうして色を付けると意外と良い天気だったのだなと気づかされます。

 

 

 


ところで連れてきた母もやはり女、バスやらなんやら乗り物にはまったく興味を示しませんでしたが、この乗り物公園開園式という写真だけはじーっと見つめておりてっきり乗り物公園に興味があるのかと思いきや「新村さんの隣にいる人はずいぶん色が白いねえ、この傘随分高そうだな」とぶつぶつ言いながらこの写真を久しく見てました。
 新村市長は後年国政にも進出して恐らく歴代市長中最もカリスマのあった市長かと思いますが昭和47年7月1日東武鉄道本社に乗り込み東武バス目吹線の再開と岩井線および関宿線の増発を要請しています。


あまり母のことを悪しざまにするとこの地母神の象徴、土偶のミミーに怒られるかもしれません。好きな男の子のタイプが「竪穴住居を上手に作れる人」だそうです。
知らんがなっ!

 

次回は埼玉県にあったあるバス停についてお話ししたいと思います。



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