幻野通信 デジタル・バージョン

入場無料!山形現代美術館、5/3オープン!!

演出ノート その9

2011年02月23日 00時08分01秒 | Weblog
9、おわりに・・・「わたしは」を越えるものを求めて
 
本番直前のきっかけ練習が終わって、子どもたちに話したのは、
「わたしは・・・なんていうのは捨てること。」だった。美は、
「わたしは・・・」を越えたところにあると思うから。

 具体的にどういうことか。

ミンチン先生役の子が、衣装をつけたとき、大人のものなので、
どうしてもベストの胸周りがゆるゆる状態でかっこ悪かった。
いつも威張っているミンチン先生は、もっと胸を突き出している
イメージがあったので、姿勢を指導してきたが、猫背が癖になって
おり、思うようにできずにいた。さらに大人サイズの衣装のせいで、
全体が紙のように薄っぺらなシルエットになってしまっていた。
衣装担当のみゆきさんと相談して、改善するために、胸に詰め物を
してはと胸っぽく作ろうということになった。だが、本人は嫌がって
「ぜったいしたくないです。」と言って譲らない。結局親にも
電話で頼み、本番ではなんとかなったのだが。ここまでやってきて、
衣装でだいなしなんて、許せない。「わたしはいやだ。」そんな
ところで劇作りをしてきたのではない。「コーヒー?それとも紅茶?」
そういう好みの差ではない。見に来てくださる人が、どう見えるか、
どう感じるか、それが大事なのだ。

 スタッフも、それぞれが「わたしは」を越えたところで仕事を
していたと思う。様々な場面で、様々な意味において・・・。
だいたい「わたしは」のために仕事をしていては仕事にならない。

 舞台は、美意識の結晶だ。音楽も衣装も照明も装置も、個人の
好みで作るものではないと思う。もちろん、好みが優先されて
いい場合もあるだろうが、舞台を壊さないという枠の中で許される
ことだ。全体が客観的に調和した美を作っていること、それが大事
なのだ。それは、「わたしは」を越えたところにあると思う。

 舞台を一貫しているセアラのせりふ・・・
 「・・・どんなにさむくても、ひもじくても、それ以外のものに
はならないと、心に決めていました。」
 このせりふには、作者バーネットの生きる上での美意識がこめ
られていると思う。

 
 観客動員数が100人に満たなかった。「あれほどやったのに。」
と残念だが、2回目、3回目と足を運んでくださる方もいる。
観客として見てくれた子どもたちや地域の人たち(幼稚園児から
80歳台の方まで)の声を聞き、これは、続けなくてはいけない。
単に「わたし」の自己満足ではない。と思った。一人を元気に幸せに
することは、その一人がかかわるさらに大勢の人を元気に幸せにする
可能性を持つ。

かなり大げさに言うなら、世界平和のために演劇をしているのだ。
(僧侶も大満足)

「新庄でも、こんな演劇が見られるのですね。感動しました。
また見たいです。」             (アンケートから)

「『雪の女王』を見た時からはまっちゃいました。セアラは、
弱い人には優しく、意地悪な人にははっきりと立ち向かっていました。
わたしも、セアラのように思いやりのある人になりたいです。」                   (小学1年生)

 「お父さんと、演劇を見に行きました。途中で転んでどろだらけに
なってしまい、家に帰って着替えたので、劇は途中からだったけど
見ました。また来年も見たいです。」     (小学1年生)

 「セアラの神々しい生き方に心が震えました。」         
                      (アンケートから)

 
 一人ではできないけど、みんながいればできる。

 スタッフのみんな、本当にありがとうございました。
 そして、これからもよろしくお願いします。

演出ノート その8

2011年02月21日 20時56分36秒 | Weblog
8、家庭では

 「仕事も家庭もあるし、大変でしょう。」とよく言われる。大変じゃない
とは言えないけど、なんとかなっている。

 公演1週間前。すぐ食べられるレトルト食品を1週間分買い込んだ。
子どもたちには、いよいよ戦闘態勢に入ったことを告げる。「夜は、
両親ともに帰りが遅いから、自分たちで何とかするのですよ。」高校1年と
中学1年の息子たちは、当たり前のように受け入れる。その代わり、
朝は多めにおかずを作り弁当をつめる。掃除や洗濯ものや食器片付けなどは、
普段から息子たちの仕事なので、夕食くらいはなんとかなるものだ。
それに、親が子どもたちのために犠牲になっていると感じるのは、
かなりつらいことらしい。

何年か前のこと。東北幻野の「2001年人形」を最後に、わたしは
数年間退団に近い状態にあった。小学校高学年になっていた長男に
言われた。

「お母さんは、劇に出ないの。」
「何年か前まではやっていたんだよ。」
「どうして、今は出ないの。」
「だって、お前たちがいるし・・・」
「えー、それって、俺たちのせいなの・・・。」
「劇に出てほしいの。」
「うん。」

このときの、息子の悲しい顔。母親が我慢して家にいることより、
母親が生き生きとなにかやってることの方がうれしいらしい。他の
お母さんたちに比べると、ほんとにぐうたらな母親だと、情けなく
感じているが、いつも子どもたちに支えてもらっているので、
家では感謝することはあっても、不必要に叱るとか何か注意
することも少ない。

一番動きやすくなった理由は、親の家から出て、新居を
持ったこと。結婚して以来、実はやっと、自分らしく生きていると
感じているのだ。

演出ノート その7

2011年02月20日 21時16分05秒 | Weblog
7、演出しながら見えてきたもの

 
 脚本を書いたのは8月だったから、約半年間「リトル・プリンセス」の
台本と付き合うことになった。同じせりふを何度も何度も繰り返し
子どもたちと一緒にしゃべったり、演じたりする中で、書いたときには
分かっていなかったことに気づくことがあちこちであった。

 たとえば、ねずみのメルキセデック。始めは、鳴く声だけの存在に
しようと考えていたが、実物(に近いもの)にした。演出しているうちに、
ねずみは、セアラの孤独の深さを物語っていること、飢えて、
さげすまされているもの同士、共感できる存在となっていること、
飢えているにもかかわらず、他者に与えるセアラの慈愛、メルキセデックなど
というたいそうな名前をつける想像力などがこの場面に集約されている
と感じた。だから、「もう死んでしまうかもしれない。」というぎりぎり
まで追い詰められたとき、飢えたねずみをなでているのは、自分をなでて
いるのと同じなのだと言える。書いているときには、ここまで考えて
いなかった。繰り返しやってきたことで見えてきたことだった。
 
 「不幸は人をためすって言うけれど、わたしの不幸は、あなたがどんなに
いい人か教えてくれたのね。」セアラのせりふ。
劇作りの途中、苦しい思いにとらわれることがあった。こんなにスタッフが
苦労しているのに、親たちは無関心。自分たちはいろんなことを犠牲にして
いるのに、と。そう思うにつけ、セアラが言うとおり、自分の小ささを
教えられた。

 数学者の森毅さん(京都大学教授)の言葉になるほどと思う。「努力は
必ず報われる。なんて、間違った道徳観を子どもたちは持っている。
正しくは、努力は報われることもあれば、報われないこともある。
努力は道楽と思ってやれと学生に教えている。」

 考えが甘かったと反省。芝居作りという最高の道楽をさせてもらって
いる、この道楽のおかげで、どれだけの幸福をいただいていることか・・・。

演出ノート その6

2011年02月18日 20時13分34秒 | Weblog
6、装置・衣装・照明・音楽で表現したかったもの

 子どもたちの演技の助けになるように、大道具や小道具は、
なるべく具体的にしようということになったが、たいへんだった。

前提として1900年初頭をイメージしたものであるということ。
人形、パン屋のカウンター、暖炉、誕生日のテーブル、教室の
椅子や机、屋根裏部屋のベッド、最後はねずみまで・・・
「どうすんの?」

 人手がなく、小川君はじめ、スタッフみんなとっても大変
だったと思う。大雪のせいもあったと思う。雪を処理しながら、
生活を維持するだけでも一苦労だったのだから。

 暖炉の上の壁に絵がほしいと思っていたが、そこまで要求する
気にはなれずにいたら、小川君が「ここに絵があるといいです
よね。」と言う。本番前日のことだったので、もごもご返事を
すると、「じゃあ、仕方がないから作りましょう。」えー、
今から?!と思ったけど、やっちゃうからすごい。セアラ、ミンチン
それぞれの部屋にふさわしいと思えるものを選び、場面転換も
しやすいように工夫。ぬくもりの感じられる部屋になった。
本番直前まで、舞台で改良できることを探すってすごい。
 
 道具は、それを使って生活している人の人間性がにじみ出る
から気をつけて配置しなければならない。登場人物にふさわしい
かどうか。色やデザインが舞台に合っているかどうか。照明が
あたると、雰囲気がまたちがうので、照明を当てて客席から
全体のバランスを見て、舞台が壊れてないかチェックする。

 衣装にも人間性が表れる。みゆきさんが、ネットで、
その時代らしい、おしゃれで値段も手ごろな衣装を見つけて
くれた。衣装は、登場人物の役割や性格を語るので、色の持つ
イメージを大事にする。たとえば、セアラは知性と清純を表す青、
ジェシーは中立を表す緑など・・・実際は、その通りのものは
見つけられなかったので、それに近いイメージのものを身に
つけることになったが。
さすが、女の子たち。衣装を見て大喜びだった。やる気もアップ。
 

 照明と音楽は、心理的な側面を補足・表現する手段となっている。
特に今回の場合は、子どもたちの演技が難しかったので、照明と
音楽の力を十分借りることにした。

 たとえば、セアラの誕生日のシーンから、ミンチン先生の
部屋への幕間の音楽。ここでは、当初スタッフから、「父親が
死んだのだから、セアラが泣く場面があったほうが分かりやすい
のではないか。」という意見があった。でも、あえて作らない。
理由は、「世界中のだれよりもパパを愛しているわ。」と言う
セアラが、激しく嘆き悲しむのは当然だから。その代わり、
セアラの慟哭を表す葬送の音楽をボリューム大で入れた。
セアラが喪服に着替える時間を確保するためにも必要だった。
喪服を着たセアラのシーンは、孤独と悲しみを表す青い照明。
当然だけど。

 音楽は、演技の邪魔になるようではだめ。いつの間にか、
気づいたら・・・程度がちょうどいい。でも、幕間は、登場人物の
心情や状況を思い切り音楽で表現して、補足説明的に使った。

冒頭、セアラの長い旅と新しい生活への期待が感じられる音楽。
きらめくダイヤモンド鉱山の音楽。大人の前では令嬢らしく
ふるまうジェシーとラビニアの放課後の教室は秘密めいた音楽。
セアラを叱責する召使たちの声のバックには、時間が過ぎていく
ことの凄惨さを感じさせる音楽・・・というように。

 最後の場面では、二人は何も語らなくてもお互いを理解し
合っている。「理解し合っている音楽を頼む。それから希望も
感じてもらいたい。」と注文をつけて海藤を困らせた。

 海藤は、当時作曲された交響楽などをいくつも準備したが、
結局一つしか使えなかった。こんな調子で、公演の度にソース
が増えていく。

演出ノート その5

2011年02月17日 21時47分22秒 | Weblog
5、本番1ヶ月前!だが、・・・人が集まらない

 いよいよ本番まで1ヶ月。
 元木くんが、すばらしいチラシを作ってくれた。毎回そうだが、
「わたしたちは本気なんです。」という声が聞こえてきそうな
チラシだ。いよいよだと気が引き締まる思いがする。

 学校生徒全員に配ることができたので、話題になった。
制作担当の小川君は、チラシを持って、市内のあちこちの店舗や
施設を回ってくれた。スタッフもそれぞれチラシを持ち帰り、
配ってくれた。親も親戚や習い事の先生などに配って宣伝して回った。

 本番3週間前のスタッフ会議には、思ったように人が集まらなかった。
みんな忙しいようだ。中学生は、部活やら、家庭の事情やらで
練習に来られないというし、せりふは覚えていないしと心配になる。
でも、あまりあせらないことにする。元旦に易で占った通りだった。
「人がちりぢりになって、離れそうになる。しかし、あわてることは
ない。最後は、必ず成功する。誠意を尽くせ。」とあったから・・・。

 本木君がテレビ番組にキッズを出してくれるというので、取材。
キッズの子どもたちの気持ちが盛り上がった。番組を見てお客さんが
増えるといいが・・・。

演出ノート その4

2011年02月17日 00時28分05秒 | Weblog
4、硬い身体と具体的な演技指導
 
 何度も話したけれど、子どもたちの体の硬いことには驚いた。
そのひどさは、演技が制限されるほどだ。今の子どもたちは、
小学1年でさえ、マット運動で前転がスムーズにできないほど
だから、身体が硬いことを前提に考えたほうがよい。腹筋、
背筋が弱いためか、姿勢も悪い。特にセアラは、凛とした雰囲気を
出すのに、猫背では台無しだったのでずいぶん注意した。

 前半の練習では、ゲーム的なものを中心に体を動かしていたが、
あんまり硬いので、ヨガを取り入れてやわらかくなるように
つとめた。東北幻野のメンバーも硬そうなので、演技を制限
しないよう、日ごろから各自鍛えておかなければだめだと思う。
 演技指導はより具体的にした。

 助演出で役の担当を決めて取り組んだのは、本当によかった。
限られた時間で、フルに演技指導できたと思う。わたしの力が
及ばないことでも、助演出が考えて教えてくれたことがたくさん
あり、子どもたちが助けられた。

 子どもたちなので、具体的に演技の注文をすることが多かったし、
そのほうが分かりやすかったと思う。たとえば、「2つ数えてから、
次の動作をする。」とか「ここで手を胸のところまでやって。
震えて・・」とか注文をつける。さらに、なぜ、そういう動作が
必要なのか理由を説明する。わたしたちが実際にして見せる。

やらせて、できたらほめる。台本にメモさせる。といった具合。
大人なら、また、東北幻野の役者なら、ここまで注文しなくても
いいかもしれないが、経験不足の子どもたちに「場面や気持ちを
想像して演技して。」といっても、客観的に動きで見せる演技には
つながりにくいのが実際だった。

 つらかったのは、かなりのエネルギーと時間をかけてやっても、
次の練習にはすっかり忘れて来ることだった。砂漠に水をまいて
いるような感覚になる。それでも、少しずつ蓄積があったのだろう。
スタッフから「前からみると、上手になったね。」といわれて
元気付けられた。

 演じる動きに普遍性がほしい。「人間は、こんな時、こういう
動きをするんだよ。」と確信をもって言いたくて、新潮選書
『ヒトはなぜ拍手をするのか・・・動物行動学から見た人間』を
読んだ。これは、演技指導の参考になった。行動心理学みたいな
ものは、もっと勉強したいと思った。(蛇足だが、今まで不愉快に
感じていた人の行動がおかげで気にならなくなった。「あー、
これは、男性の遺伝子に組み込まれた情報のせいであって、
この人の性格のせいじゃない。」とか思っちゃったりして。)

 それにしても、子どもというのはけなげなものだと思う。
「ここは五つ数える。」とか「ここは2秒数えてから次のせりふ。」
なんて注文したことを確実に本番でやってのけていた。本番前に
急に指示したことも、忘れずにやっていた。涙が出るほど、
子どもたちはすごい!と思った。

演出ノート その3

2011年02月15日 21時54分38秒 | Weblog
3、脚本を書く・・・文才がなくてもなんとかなる!

 物語を脚本にする。
 そんなことめんどくさいから、既成の台本を探してみては・・・
と思うだろう。
しかし、これが結構大変。劇は、それをする場所・上演時間・
役者の人数という制限があるから、キッズに合うものを探す
のが一苦労なのだ。それに、作品を読んで、「これはいい!」
と思うものに出会うことも難しい。

 子どもたちが演じるものなのだから、題材には、学びたい
人間の知恵が核となっていて、演じるに値する価値のあるもの、
子どもたちにとって、心の糧となるものを選びたい。

 というわけで、様々な制限を考慮しながら自分で書いたほう
が早い。しかし、文才のないわたしだ。方法としては、本の
言葉を借り、必要な場面を取捨選択し、その場面をつなぐための
せりふや場面を作り、再構成する。声に出して実際に読みながら、
「これでいけるか?」時間を計りながら自問自答する。まずは、
台本だ。不都合があれば、子どもたちにやってもらいながらその
つど変更するもよし、とする。

鈴木さんや織江くんから、読んでもらって貴重な感想をいただいた。
せりふが長すぎるのではないか。せりふの言い回しが、翻訳の
せいか堅苦しいのではないか。など、なるほどと思いつつも、
一つだけ直すわけにはいかない。一つ直すと全部にかかわると
思うところには目をつぶることにした。大体、骨組みを残して
言葉を全部解体して、始めから再構成するほどの力を自分は
持ち合わせていない。

 脚本は、中学生のゆまちゃんが途中から入ってくれたことで、
役を増やし、書き直すことになった。おかげで、ほしいと
思っていた乞食の少女の場面を増やすことができた。そこで、
ラストの場面も変わり、芝居全体ががらりと変わったことは、
結果的にとてもよかった。

 具体的に言うと、貧しいアンにパンをあげるという行為を、
せりふで語らせていたのを実際にその場面を演じさせ、ラストで
セアラとアンが無言で握手するという、原作にあるとおりの場面を
作ることができた。本を読んだときには気づかなかったが、
セアラとアンは立場は違うが、飢えと孤独という絶望的な状況を
くぐり抜けてきた同士だったのだ。そのたくましい姿は、未来へ
つなげたいメッセージだ。

演出ノート その2

2011年02月14日 22時16分53秒 | Weblog
2、題材選び・・・子どもたちの「やりたい」がモチベーションを支える

 前回の「雪の女王」は、わたしの長年温めてきた「やりたい」がはじまり
だった。今回は、子どもたちに何がやりたいか聞いてそれをスタートにした。
そのほうが、モチベーションが上がると思ったからだ。

聞いてみると、意外にも「小公女」。「ドラマでやってたのを見て・・・
すっごいかわいそうなんですよ。」ドラマの話で盛り上がる小学5年生の
子どもたち。しだみらいがかわいいとかなんとか・・・。

 わたしは「小公子」は読んだことはあったが、「小公女」は読んだことも
なければ、ドラマもアニメも見たことがなかった。(特にドラマはいらいら
することが多く、見ないのだ。だから、シダミライって誰?って感じなのだ。
オクレてる!)

 みゆきさんは、「わたし、セアラは嫌い。というか、こんな子いるわけない
と思う。こんなひどい目にあったら、普通は、いじけて人間的にゆがむと思う。
でも、いつも清く正しくを全うするなんて、うそっぽい。」と言う。これを
聞いてますます物語に興味をもった。              
        
 教育に携わる者として、その究極の目的は「どんな環境の変化にも耐え、
たくましく生きていく人間」の育成だと思う。そのために、教育ができる
役割は何かを常に考えているから、当然だ。セアラの誇り高い精神を支えた
ものは何だったのか。それを解明し、舞台にして伝えたい。(教育活動の
ヒントになるかも!)

 それに、お金持ちの主人公が一転して全財産と地位を失うなんて、現代の
リスクの高い経済状態にぴったりだ。就職難など、長い苦戦を強いられている
今の若い人たちの状況にも通じるものがある。舞台を見た大人も、現代に重ね
合わせてメッセージを受け取れるものになるだろう。
 

 まずは、本を探して読んだ。面白くてやめられない。一気に読んだ。
 本の挿絵や、翻訳もよかったのかもしれない。これならやってみたいと
思った。演劇作りは長い過程を要する。演出である自分が気に入るもので
なければつらい。

 セアラの誇り高い生き方に、魅了された。

 幼いころ非常に貧しかったチャップリンが、母親のハンナに教えられたという
「ぼろをまとっていても、心は紳士でありなさい。」を思い出した。

セアラを支えたもの・・・
まずは父親の深い愛情。死んでしまっても、セアラの心の中で生き、支え続けた。
次に、想像力。想像力については、合理性を追求する現代社会で失われたものと
して、ミヒャエル・エンデが「モモ」「果てしない物語」でその大切さを訴えた。
想像力はセアラの知性であり、知恵と思いやりのある行動を支えた。

それから、豊かさ。セアラが、本当の豊かさを体で知っているからこそ、弱い者
への思いやりを持ちえたのだろう。福祉に貢献する人というのは、ナイチン
ゲールも、ロックフェラーも、ダイアナ妃も、経済的・社会的に豊かな地位にある
人たちが多い。(蛇足だが、世界的な富豪は、社会貢献しないと一流とはみなされ
ないようだ。格差の大きい社会としての長い歴史があるからこその考え方なの
だろう。日本の大企業が世界の一流とみなされるには、これが課題なのだろうと思う。)
これらを脚本の核としようと決めた。

演出ノート その1

2011年02月12日 21時54分35秒 | Weblog
今回の公演を振り返り、演出よりの所感を掲載いたします。ご意見歓迎。


1、はじめに・・・なぜ演出ノートなのか
 
「リトル・プリンセス」の公演を終えた。今回も、すばらしい一人一人の
スタッフの力とチームワークで、また、子どもたちや親たちのがんばりの
おかげで、緊張感のあるいい舞台を作ることができたのではないかと
自画自賛している。
 終わって、ゆっくりしている暇などないのはみんな同じで、それぞれの
職場や家庭でまた奮闘しているのであろう。

 あの場面は、よかった。あのせりふは、真実だ。普遍性があった。
・・・音楽や照明が頭から離れない・・・舞台を終えた余韻からまだ
離れられない。そして、来年、どんな舞台ができるだろう。来年も、
公演はできるのだろうか。そんな不安が胸をよぎる。

 演出をするというと大げさに聞こえるかも知れない。でも、自分にも
できた。というより、こんなことしかできないといったほうが合っている。
道具を作るなんて到底できないし、照明なんてお手上げ。「こんなふうに
して。」とやかましく注文をつけるのが、自分には精一杯なのだ。(教師
の業なのか・・・。)
 とかく、演出というのは分かりにくい仕事と思う。なんとなく、
それも単なる演出者の好みで、演技や装置の良し悪しを判断しているようで、
居心地の悪さを感じてしまう。だいたい演出なんて仕事は、長い演劇史に
おいては比較的新しい分野だそうだ。演出なんてなくても、芝居はできる
のだ。近代になって、人間の心理を描くという意味で舞台作りが複雑に
なったことから、交通整理みたいな感じで必要になってきたそうだ。

 わたしは、演出について本格的に学んだわけではないが、「わたし」を
越えたところで演出したいと思う。演出にはある程度、必然性や普遍性が
必要だ。今回の舞台で、それは具体的にどういうことだったのか。
 質の高い舞台を作るためには、経験豊かなスタッフとやる気が必要。
経験は蓄積が必要だが、これが課題だ。今回動けたスタッフがこれから
ずうっと動けるとは限らない。長く続けるのならば、「今回は、わたしが
やります。」と誰かが必ず動ける環境を作る必要がある。

 平田オリザが「演出ノート」を書いたように、わたしも稚拙ながら
「演出ノート」を書いて、経験の蓄積の足しにしたいと考え、ワープロに
向かっている。

『リトル・プリンセス~小公女セアラ』公演成功

2011年02月10日 22時30分22秒 | Weblog
大雪にもインフルエンザにも負けず、子どもたちとスタッフはがんばりました。
お疲れ様。



公演本番では今までで一番上手に演技出来ました。涙をさそう感動を呼んで。



終了後には新聞社のインタビュー。スターになった気分?



次回(来年)も続けてくれるかな?スタッフは大丈夫かな?


感動をありがとう。