9、おわりに・・・「わたしは」を越えるものを求めて
本番直前のきっかけ練習が終わって、子どもたちに話したのは、
「わたしは・・・なんていうのは捨てること。」だった。美は、
「わたしは・・・」を越えたところにあると思うから。
具体的にどういうことか。
ミンチン先生役の子が、衣装をつけたとき、大人のものなので、
どうしてもベストの胸周りがゆるゆる状態でかっこ悪かった。
いつも威張っているミンチン先生は、もっと胸を突き出している
イメージがあったので、姿勢を指導してきたが、猫背が癖になって
おり、思うようにできずにいた。さらに大人サイズの衣装のせいで、
全体が紙のように薄っぺらなシルエットになってしまっていた。
衣装担当のみゆきさんと相談して、改善するために、胸に詰め物を
してはと胸っぽく作ろうということになった。だが、本人は嫌がって
「ぜったいしたくないです。」と言って譲らない。結局親にも
電話で頼み、本番ではなんとかなったのだが。ここまでやってきて、
衣装でだいなしなんて、許せない。「わたしはいやだ。」そんな
ところで劇作りをしてきたのではない。「コーヒー?それとも紅茶?」
そういう好みの差ではない。見に来てくださる人が、どう見えるか、
どう感じるか、それが大事なのだ。
スタッフも、それぞれが「わたしは」を越えたところで仕事を
していたと思う。様々な場面で、様々な意味において・・・。
だいたい「わたしは」のために仕事をしていては仕事にならない。
舞台は、美意識の結晶だ。音楽も衣装も照明も装置も、個人の
好みで作るものではないと思う。もちろん、好みが優先されて
いい場合もあるだろうが、舞台を壊さないという枠の中で許される
ことだ。全体が客観的に調和した美を作っていること、それが大事
なのだ。それは、「わたしは」を越えたところにあると思う。
舞台を一貫しているセアラのせりふ・・・
「・・・どんなにさむくても、ひもじくても、それ以外のものに
はならないと、心に決めていました。」
このせりふには、作者バーネットの生きる上での美意識がこめ
られていると思う。
観客動員数が100人に満たなかった。「あれほどやったのに。」
と残念だが、2回目、3回目と足を運んでくださる方もいる。
観客として見てくれた子どもたちや地域の人たち(幼稚園児から
80歳台の方まで)の声を聞き、これは、続けなくてはいけない。
単に「わたし」の自己満足ではない。と思った。一人を元気に幸せに
することは、その一人がかかわるさらに大勢の人を元気に幸せにする
可能性を持つ。
かなり大げさに言うなら、世界平和のために演劇をしているのだ。
(僧侶も大満足)
「新庄でも、こんな演劇が見られるのですね。感動しました。
また見たいです。」 (アンケートから)
「『雪の女王』を見た時からはまっちゃいました。セアラは、
弱い人には優しく、意地悪な人にははっきりと立ち向かっていました。
わたしも、セアラのように思いやりのある人になりたいです。」 (小学1年生)
「お父さんと、演劇を見に行きました。途中で転んでどろだらけに
なってしまい、家に帰って着替えたので、劇は途中からだったけど
見ました。また来年も見たいです。」 (小学1年生)
「セアラの神々しい生き方に心が震えました。」
(アンケートから)
一人ではできないけど、みんながいればできる。
スタッフのみんな、本当にありがとうございました。
そして、これからもよろしくお願いします。
本番直前のきっかけ練習が終わって、子どもたちに話したのは、
「わたしは・・・なんていうのは捨てること。」だった。美は、
「わたしは・・・」を越えたところにあると思うから。
具体的にどういうことか。
ミンチン先生役の子が、衣装をつけたとき、大人のものなので、
どうしてもベストの胸周りがゆるゆる状態でかっこ悪かった。
いつも威張っているミンチン先生は、もっと胸を突き出している
イメージがあったので、姿勢を指導してきたが、猫背が癖になって
おり、思うようにできずにいた。さらに大人サイズの衣装のせいで、
全体が紙のように薄っぺらなシルエットになってしまっていた。
衣装担当のみゆきさんと相談して、改善するために、胸に詰め物を
してはと胸っぽく作ろうということになった。だが、本人は嫌がって
「ぜったいしたくないです。」と言って譲らない。結局親にも
電話で頼み、本番ではなんとかなったのだが。ここまでやってきて、
衣装でだいなしなんて、許せない。「わたしはいやだ。」そんな
ところで劇作りをしてきたのではない。「コーヒー?それとも紅茶?」
そういう好みの差ではない。見に来てくださる人が、どう見えるか、
どう感じるか、それが大事なのだ。
スタッフも、それぞれが「わたしは」を越えたところで仕事を
していたと思う。様々な場面で、様々な意味において・・・。
だいたい「わたしは」のために仕事をしていては仕事にならない。
舞台は、美意識の結晶だ。音楽も衣装も照明も装置も、個人の
好みで作るものではないと思う。もちろん、好みが優先されて
いい場合もあるだろうが、舞台を壊さないという枠の中で許される
ことだ。全体が客観的に調和した美を作っていること、それが大事
なのだ。それは、「わたしは」を越えたところにあると思う。
舞台を一貫しているセアラのせりふ・・・
「・・・どんなにさむくても、ひもじくても、それ以外のものに
はならないと、心に決めていました。」
このせりふには、作者バーネットの生きる上での美意識がこめ
られていると思う。
観客動員数が100人に満たなかった。「あれほどやったのに。」
と残念だが、2回目、3回目と足を運んでくださる方もいる。
観客として見てくれた子どもたちや地域の人たち(幼稚園児から
80歳台の方まで)の声を聞き、これは、続けなくてはいけない。
単に「わたし」の自己満足ではない。と思った。一人を元気に幸せに
することは、その一人がかかわるさらに大勢の人を元気に幸せにする
可能性を持つ。
かなり大げさに言うなら、世界平和のために演劇をしているのだ。
(僧侶も大満足)
「新庄でも、こんな演劇が見られるのですね。感動しました。
また見たいです。」 (アンケートから)
「『雪の女王』を見た時からはまっちゃいました。セアラは、
弱い人には優しく、意地悪な人にははっきりと立ち向かっていました。
わたしも、セアラのように思いやりのある人になりたいです。」 (小学1年生)
「お父さんと、演劇を見に行きました。途中で転んでどろだらけに
なってしまい、家に帰って着替えたので、劇は途中からだったけど
見ました。また来年も見たいです。」 (小学1年生)
「セアラの神々しい生き方に心が震えました。」
(アンケートから)
一人ではできないけど、みんながいればできる。
スタッフのみんな、本当にありがとうございました。
そして、これからもよろしくお願いします。