昨夜から降り出した雨は時間を追うごとに雨量を増し、閉め切った窓越しに雨音が響いた。倶楽部のLINEグループでも「欠席」通知が数件ほど届いているようだが、どうやら「雨天決行」に変更なし。カッパと着替えを車に詰め込み目的地の三崎公園パーキングへと向かった。
雨天とはいえ参加者は普段の3分の2ほど、思った以上に皆さん「やる気満々‼」のご様子だ。素晴らしい!
松尾芭蕉も雨の中を歩いたと記されている旧街道(古道)を辿る。「芭蕉の思いは象潟に…」と、そんな想いに浸りワクワクと楽しみ歩けたのは良かった。
戊辰戦争での激戦地となった三崎山、大師堂の脇奥に建てられた戊辰戦争慰霊塔に拝礼した。この三崎山での戦闘の様子は「方寸 1号」の「羽後庄内 三番隊陣中日誌」(P98)に詳しい。この場所で戦闘が始まったのが慶応4年7月13日、苦戦したようだが官軍勢を撤退させている。そして同15日夜は、大雨だったと記されている。やはり雨…。
最後まで雨に祟られたWalkingだったが、私的には刺激的なひと時を過ごすことができた。感謝。

奥の細道 三崎峠 三崎山旧街道
《三崎山「奥の細道」》「松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅で、今に残る三崎の古道を門人曽良と越えたのは、元禄2年6月16日(1689年・陽暦8月1日)であった。かねて心にかけていた象潟を訪ねるため、前日酒田を出立したものの激しい雨に遭い、やむなく吹浦に一泊し、当日も雨であったが、芭蕉は象潟への期待から雨にも負けず、むかし
有耶無耶の関があったというこの難所を超えて行ったのである。タブの木など生い茂る昼なお暗いこの細道を、病弱の身ながら一歩一歩踏みしめて行った様子が今も眼前に浮かぶようである。象潟の景勝にふれる目的を果たした芭蕉が再び酒田に帰るために此処を通ったのは二日後の18日であった。この日は快晴で、東には鳥海山がその美しい姿を見せ、西からは快い海風が吹く日であったという。芭蕉らは行きとは違って足どりも軽くこの峠路を通り過ぎていったのではなかろうか。 平成7年2月遊佐町・山形県奥の細道観光資源保存会」
(案内看板より)

大師堂(三崎神社) 戊辰戦争慰霊塔
《大師堂(三崎神社)》「慈覚大師(円仁)が草庵を結んだ所。大師は三崎山に道路を通す傍ら、仏教の教えを説いていました。大師がこの地を離れる際、大師を慕う人々のために自分の像を刻み、これを身代わりとしてこのお堂に納めたという伝説があります。現在の建物は江戸時代に建てられたものと言われています」
(ウオーキング倶楽部リーフレットより)
《戊辰戦争慰霊塔》「幕末、三崎山は戊辰戦争の激戦地となり双方多数の戦死者が出ましたが、その遺体は誰からも拾われることもなく白骨化していきました。50年近くたった大正4年にようやく供養・埋葬されました」
(同リーフレットより)

大師崎と羽後三崎灯台を背景に