御幸は自分の部屋にテレビがあるのに試合の記録を取ったDVDは、音消して食堂で見ていることが多い。自室ではノックもなしにやってきてちょっかいをかけてくる連中が多いので落ち着かないというのもあるようでかえって広いところに一人でいるほうが作業がはかどるらしい。だからあえて、通りすがりのチームメイトも用がなければ食堂の御幸に声をかけることは少ない。
ただし、中にはそうした暗黙の気遣いに全く無頓着な奴らもいる。
風呂上がりに入り口から一人きりの御幸を見かけた降谷はいつものごとく「球を受けてください。」と声をかけようとして第一声はたいがいもう一人の一年生投手だったことを思い出す。いつも彼は、どう呼びかけていたっけ、とタイミングを計りながら降谷に背を向けて試合を見直す御幸を見つめる。
あ、左手の爪…?
丸めた左手で頬杖をついて時折その指先を食んでいるように見える。彼には思い詰めているとき、あるいは集中しているとき爪を噛む癖があるらしい。
少し考え、降谷はいったん部屋に戻ることにした。
目当てのものをもってやってきたときまだ彼はそこにいた。
試合は、まだ6回の裏だ。そのまま見ればあと30分くらいだろう。途中で見るのをやめてはくれないだろうから消灯までに球を受けてもらうのは無理そうだ。そもそも、いったん「終わり。」といった彼を再び引っ張り出すのが自分一人では不可能なことも分っている。
「せんぱい。」
「わぁ?!ふ、るや、いるならいるって言えよ。」
なんだ、それは。いきなり「います。」と声をかけたほうが良かったのか?なんとなく理不尽なことを言われたと、裏に普段の自分に存在感がないと思われていると野生のカンが囁く。だから、不機嫌をあらわに黙り込むと、さすがに自分の発言のほうが間違ってる、無視しているわけではないと分ったようでばつの悪そうな表情を浮かべた。
「で、何?」
「ばい菌は多くの場合手を介して口に入るそうです。」
「…は?」
「先輩のおなかが痛くなったり、風邪をひいて僕の球が受けられなくなったら困ります。」
「…ふ、降谷くん?」
「それに、せんぱいの手だって大切な捕手の手、です。」
あいかわらず、降谷の言葉は御幸の理解を超えている。何とか翻訳してくれる春市もいない。仕方なくとりあえず最後まで聞いてみようと黙っていると降谷は右手を差し出した。
そこに握られているのは、青いマニキュア。
先日、1年B組にちょっとした事件をおこした曰く付きのマニキュア、である。
間違いなく何も考えていない降谷が透明のものがなかったのか単に安かったのか、青道ブルーだと思ったのか手に入れたその青いマニキュアを塗って授業に出てクラスメイトと教師を困惑させたのだ。男性の節くれだった長い、きれいに切りそろえられた形の良い爪に塗られた青のマニキュアは化粧なれた女子高生でもめったに使用しない色なので教室でやたら悪目立ちした。
「降谷君、野球部でそれは必要なことかもだけど、ちょっと派手かな。」
他の教師から注意してほしいといわれた高島に落とすよう促された。そしてその日の午後練前に除光液となんだかブランド品らしいトップコートを譲り受けたのだ。
似あってはいたんだけどね、と春市、談。
結果、それはそれきり使われることなくしまい込まれてしまったのだが、使いたかったのだろう。どこか降谷はご機嫌だ。
いやだというのにもかわいそうDVDの一時停止ボタンを押して御幸はおとなしく降谷の前に両手を差し出す。
貸してみろというとフルフルと首を振る。
「僕がします。」
小さなため息とともにおとなしく差し出された手を受け止める。
いつもは御幸に塗ってもらうのを今日は自分ができる。何か、うれしい。御幸を甘やかしているような気分だ。
「…で、なんでなわけ?」
「この色、気になるそうです。先輩、爪を噛む癖があるみたいだけどこの色つけてたら気になって止められるでしょ。」
このまま爪に色を付けて過ごせというのか。自分が注意されたことを忘れている。
わずかに凹凸のついた爪先はきれいに塗られた樹脂で丸められていく。
広い空間に、とても静かで。
このまま高校時代が続けば、こいつらの成長を見守っていければ、などとアンニュイな気分になってしまう。
降谷の右手は、一本一本確実に御幸の爪に色つけ、左だけでなく右も10本すべてを青く染めた。
「最近言ってこねえけどお前自分の指にも左手で塗れんだろな。」
乾かすためうつむいて息を吹きかけていた顔をあげる。
そして得意げにあるいは見せびらかしたかったのか高島からもらったマニキュアをポケットから取り出した。
「…もってたのか。」
「僕は青を使っちゃダメらしいのでこっちは先輩にあげます。」
使い終わった青のキャップを閉めて同じ色になった左の手のひらに握らせた。
「いや、そういうことじゃねえと思うぞ。」
今度は分りやすく無視して『できるもん。』とばかりに左手で右の爪に透明を落とす。
ところどころはみ出ているが透明なため分らない。
出来ないことばかりだったのにいつの間にかちゃんとチームに必要とされるようになって。もう半年もすれば自分のほうがこの居心地のいい場所からいなくなるのか。
俺がいなくなってもちゃんとやっていけるんだな。
今度は自分の爪に息をかけているためちょうど正面につむじが見える黒い丸い頭に右手を伸ばす。そっとなでると相変わらずうれしいオーラを出して見上げてくる。
さみしさと嬉しさと不安と。
指先の青は、そんな色だと感じ、らしくない、と思う御幸であった。
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