平日の病院は、時期的にも混んでおらず御幸は待つこともなく診察室に入ることができた。付き添いの高島も診察室までは入れず廊下のベンチで医者の指示を待っている。
倉持と前園は、いったんは待合にいたのだがそのあまりに薄汚れた格好から退去を命じられ談話室のような場所に移動していた。
珍しい客に入院患者たちがいちいち視線を向けて去って行く。中にはさっきまで秋大の中継を見ていたらしい人もいて「頑張ってたね、おめでとう。誰か具合を悪くした子でもいたの?」と声をかけ飲み物をおごってくれた。詳しく話していいものかわからず言葉を濁して礼を言う。さすがに球場では普通にふるまっていた主将が担ぎ込まれたとは思っていないらしい。
「すまんかった。」
受け取ったペットボトルを膝の間で握りしめ、ぽつりと前園が言う。
「…なにが?」
努めて無愛想に尋ねれば、「わしかて副主将やのに多分気付いとったお前にばかり気ぃ使わせた。」
そんなこといちいち言われるほうが気を遣う、とも言えず、ため息を飲み込んで黙ってキャップを開ける。
「さっきも、御幸が珍しく弱音を吐いてくるからこっちまで取り乱してもうて、なんや、情けない…。」
「ゾノが取り乱してんのは別に珍しくねえから、今更謝ることでもねえだろうが。」
さらっとひどいことを言われ一瞬恨めがましい目で見てしまう。
「俺も、実はちょっとほんとは慌てた。」
御幸の弱音なんて初めて聞いたように思う。アドバイスは素直に聞くだろうが、自分の主張は曲げないし、自分の弱みなどけして見せようとしない男だ。
弱音もはかず、助けなど求めない…。
「いくら監督に御幸を支えてほしいって言われてても御幸自身が伸ばした手をはねつけるんじゃ助けようがねえよな。
だから、今回は弱音でもはいてくれて俺としては、ちょびっとだけどうれしかった、とか言ったら。」
「うん、倉持。気持ち悪い。」
前園が苦虫を噛み潰したような顔で平坦な標準語をしゃべった。なんとなく春の選抜を決め、多少は浮かれているはずの高校球児の会話ではない。
そこへ高島がやってくる。
レントゲンを撮り治療もするから時間がかかりそうだ、自分たちも祝勝会の主役なのだからここは先に帰りなさいと声をかける。
帰りはどうするのかと尋ねればあの見栄っ張りは意地でも自力で歩いて帰るだろう、寮まで抱えて帰られるほうが屈辱だろうと言う。
倉持としては、常々、御幸と高島はどこか似た感性を持っていると感じているのでそれは間違いないだろう。
さらりとタクシー代として万札を差し出すあたりさすが理事長の娘だ。おつりはとっときな、とは言わなかったが。
倉持と前園が二人きりになることはほとんどなく、タクシーの中でそうなってみると自分たちは御幸と言う主将がいて初めてチームなのだと気づく。主将がいてやっと青道野球部の首脳であって、副主将が二人いてもそれはただの倉持と前園、でしかない。
「前に。」
沈黙に耐えかねた倉持が、視線を前に向けたまま、つまり前園など気にしていない、これは独り言なのだというかのように口を開く。
「あいつの投手びいきに単純に疑問に思って『沢田と降谷の二人が川でおぼれてたらどっちを助けるか』ってきいたことがあるんだけど、そん時あいつ、『手を伸ばしたほう。』って言ったんだよな。」
「手を、伸ばす?」
「そう、助けてくれって言ったほう。逃げかもしんねえけどあいつにとって重要なのは、自分がどっちを助けたいかじゃなくてどっちのほうが助けてほしいと思ってるか、なんだよな。
で、次に『じゃあ二人とも手を伸ばしてたらどうすんのか。』って聞くと『近いほう。』らしい。今度もやっぱり自分がどうじゃなくてどっちがより確実に助けられるかってことなんだろうな。」
前園は倉持の目を見ることをためらったりはしない。
「なんや、それって、なんか…やっぱ冷たいんちゃうか。」
「違う。二人とも助けたいと思ってるし、どちらかを選べなんっつたらきっと選べないんだ。だから、自分の感情より相手の考えや気持ちを先に考えちまう。しかも、無意識に。」
渡辺のことだって結局早とちりだったと分かった今では笑い話だが、辞めたくないと彼が先に伝えていれば御幸は躊躇なく辞めないでほしいと答えていただろう。辞めようとしている人を見返りを与えられないのに留めることは自分のわがままだと考えてしまうようなやつなのだ。
「御幸自身はさ、そういう時。」
「どんな?」
「…だから、川でおぼれてるとき。」
「あ、ああ。」
「やっぱり、手を伸ばさないでさ、こっちがおたおたしてるうちにさっさと、向こう岸まで泳ぎ着いてて『ほら、大丈夫だったろ。』とかいうやつなんだよな。」
「あー分かる。そや、そないな奴や、あいつは。」
倉持が笑う。とても穏やかに。
「だから今回、たいしたことじゃねえけど、頼ってくれたような気になって。」
そういうことか、とやっと前園も理解する。
「うれしかった、ていうことか。」
むうと口をとがらせ言い当てられたことでかえって気恥ずかしくなったのか顔を赤くする。
手を伸ばしてくれて、頼ってくれて、うれしい。気付かされると前園もなんだかほっこり暖かい気持ちになる。
「わしなら、手を伸ばそうが伸ばすまいが、助けたかったら助ける。」
ちょっと考えて言う。
「お前ならそうだろうな。」
「けど、わしの場合、目の前でおぼれとる奴に気付かんと行き過ぎると思う。で、後でなんで助けてくれんかったんやと怒られる。」
やっと倉持は前園に視線を合わせる。何かあきれたような視線なのは事実あきれているからだ。
「だから、お前は、あそこにおぼれとる奴がおるって正直に言えばええ。実際に助けられるかどうかはやってみんと分らんがとにかく、わしは、助けようとする。」
妙に力を込めて宣言する。
これは、ケガに気付いた倉持が黙っていたことを遠回しに怒っているのだろう。
自分も考えすぎたのだろうか。あの時点で前園に相談し片岡に伝えていたら、御幸も余計な苦しみを味わわなくて済んだのかもしれない。
…勝ってから倒れろ。なんて冷たいことを言わなくても済んだのかもしれない。
もし、これで御幸が本当にクリスと同じように1年も野球ができなくなっていたら自分はどれほど後悔するだろう。
「そうだな。これからはちゃんと頼りにする。副キャプテン。」
「お、おう!」
「と、あいつも思ってくれれば苦労しねえんだろうがな。」
それからなんとなく気まずくなって二人はまた黙り込む。
黙って車に揺られていると連日の試合の疲れもあって、お互いにもたれかかるようにして眠ってしまった。寮につくと祝勝会の準備で外で待たされていた部員たちに散々冷やかされながらたたき起こされた。せっかくだからもう少し寝させてやろうなどと考える奴はいなかった。
そして、御幸不在の中、倉持が主将代理、前園が副主将として神宮大会を迎える。
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