ロードから帰ってくる道すがらフェンスの外からグランドを見つめている人物に気付いた。
「師匠!」
沢村はいつものように何の戸惑いもなくその人物、クリスのもとに駆け寄る。
「俺の球を受けにわざわざいらしてくださったのですか!不肖、沢村、感激です。ありがとうごぜぇやす!」
いや、もちろん違う。だいたい制服で、グローブも持っていない。ちらりと冷ややかな視線に「い、いえ。分かっております。」と尻すぼむ。見えないしっぽすら垂れていそうだ。
「倉持に御幸が暴れそうになったら押さえてくれと頼まれてな。」
「はぁ?」
戻した視線の先をたどればちょうどマウンドの向こうバックネット裏にさまざまな制服を着た男女に囲まれ、隣に高島、さらにその隣に教頭を従えたキャプテンが立っている。
「暴れる、って笑ってますよ。」
そういえば学校見学とかでしばらく中学生がやってくるので高校生らしいきちんとした対応をするようにと担任が言っていたことを思い出す。選抜出場を決めた野球部の主将で4番、外面やはたらいい御幸は学校側としては格好の広告素材だ。ここぞとばかりに練習には参加できないが宣伝に協力してくれと高島経由で頼まれたのだろう。
男女比2対一で30人ばかりの中学生に囲まれてにこやかに対応しているが、微笑みを浮かべた口元はピクリとも動かない。そのうち女子生徒の誰かからリクエストされたのか握手会が始まる。
「…笑ってるけど、なんか、気持ち悪いっすね。」
「100%愛想笑いだな。」
仲間たちが練習しているのに参加できず広告塔として引っ張り出され、ただ、見るしかない状況は、目の前にニンジンをぶら下げられて手綱をひかれたサラブレッドのようだ。倉持はその手綱を引きちぎらせないようクリスに頼んだのだろう。
高島が気ぜわしげにちらちら御幸を見ている。
中学生のころはそういったものなのだろう。女の子ばかりに握手を求められていたが、彼の前に男子生徒が立った途端、表情が変わった。一瞬、愛想笑いをやめたかと思うと次の瞬間にはいつもの沢村やほかの野球部仲間に向ける意地の悪い、腹黒さをうかがわせる口角だけあげる笑いを浮かべた。そして、少年の手を握るのではなくそっと手に取る。
そして何か、二言三言声をかけたようだ。相手はぱぁと嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ああ、ピッチャーだな。」
本当に野球バカである。クリスの推測は当たっている。らしくもなく複雑な思いで沢村は嬉しそうな御幸を見つめてしまった。
そうか、一年だ。その思いは口に出してしまっていたらしくクリスに聞きとがめられる。
「なにが、だ?」
「あ、いえ。俺が初めてこの学校に来てからそろそろ一年だな、と。」
「そうか。」
聞いておきながら会話はあっさり終わる。
初めて御幸とバッテリーを組んで相棒と言われて一年。長かったような短かったような。いずれにしろとても充実した、ここに来なければ決して体験できない一年だった。
「あん時は自分から“受けてやる”って言ってきたのに最近はこっちがいくら頼んでもしぶしぶっすよ。」
だから今日は師匠が受けてつかぁさい、と言いたいようだ。
「まあ、あのころは御幸もいろいろ大変だったからな。」
少しつらいような悲しいような表情をうかべるので沢村は黙り込む。自分が受けられないのにクリスとバッテリーを組んでいるのを見たらそれこそ御幸がどう感じるか、いくら鈍い沢村でも分る。
少年に何か言われたのか不意に御幸が顔をあげこちらを向いた。
そして。
「う、わっ。」
今まで見たことのない笑顔を浮かべた。あどけない子供のような、それでいて何かに耐えているかのようなそれは、それはきれいな笑顔で。
思わず口元を抑え赤面している沢村にいつも通り冷静にクリスが、どうした、と問いかける。
御幸の笑顔はこの、目の前の人にのみ向けられている。その様子から、自分は初めて見る表情であるにもかかわらずクリスにはあの笑顔は珍しいものではないのだと知る。
「師匠にはあんな顔するんっすね。」
赤い顔のまま問えば、クリスはわずかに首を傾げ、「ああ、俺は御幸に嫌われているからな。」と全く頓珍漢なことを言った。あの笑顔がどうしたら愛想笑いだと思えるのか…。
「ああ、違うか。嫌われているというより恐れられている、が近いな。御幸自身自覚していないようだが。」
ぽかりと口を開け沢村はぶんぶんと首を振る。何を自覚していない!あんたこそ鈍い、鈍すぎる。バッターや投手の感情を読み取るのはあれだけ秀でているのに捕手という人種は同類に対して鈍すぎる。
「沢村、どうやら高島先生が呼んでいる。」
自分の言葉が相手に与えた衝撃にも気付いていないようで、相変わらず淡々とした口調でネット向こうから副部長が手招きしていることを伝える。
並んで歩きながら、「あのころは」と相変わらずの小さな声で話し始めた。
「夏も秋も青道は甲子園に出られず卒業した先輩にはその責任が御幸にあるかのように当たられていたからな。正捕手の御幸がブルペンではなくグラウンドで…一人でいたのもたまたまではない。あいつも投手に投げてもらいたかったのだろう。」
昨年、ノリはレギュラーに定着していなかったし丹波は、御幸を苦手としていた。
「ああ、そういえばお前たちが初めてバッテリーを組み打ち取った東さんも唯一のあの学年では“さん”呼びだったな。」
顎に手を当て不意に立ち止まる。教師に呼ばれたのに歩みは遅く、相変わらずのマイペースだ。いつもはうるさい沢村もクリス相手には「急ぎましょう。」とも言えない。
歩調をあわせ、のんびりと歩く。
「なにが、っすか?」
「御幸は今の三年を先輩、とは言わない。」
「…そうっすね。おれには先輩と呼べっつうのに。」
「東さんも御幸にはなつかれていたからな。いや、唯一あの学年であいつに甘かった、というか…」
それはそうだろう。プロ入りが確定していた二つ上の先輩と敵対するなど、野球に関しては遊び、が通用しない奴らだ。相手が許してくれると確信がなければあの時御幸がバッテリーを組むことを申し出るわけがない。
「もともと哲や純をさん付で呼び始めたのは御幸だからあの呼び方はあいつとの距離をそのまま示している。一番近いのが哲や亮介、それから少し距離のある奴らには、名字に…丹波も名字にさん、だな。」
確かに3年同士でも名前呼びと名字呼びが混在している。レギュラーか否かかでもないし、初めからそうだったから疑問にも思わなかった。
「それで、唯一の先輩付が俺だな。」
クリス先輩…。彼がこの目の前の人を呼ぶときのあの響きが、一番距離があるとどうしたら感じれるのか。沢村はしょっぱい顔をしてしまう。
「それは、むしろ。」
「ん?」
「特別ってことじゃないっすか。」
沢村の言葉に訳が分からない、といった様子では自分が何といっても理解できないだろう。むしろ、嫌われていると思うことはクリスにとってのあのころ、御幸に救いの手を差し伸べなかった、手ひどく扱ったことに対する罰なのだ。御幸はあなたが大好きだと伝え、分ってもらうことは確かに御幸のためにはなるが、クリスは一層、自分を責めることになるだろう。
「捕手ってやつらもたいがい、めんどうくさい。」と投手だって思うのだ。
「クリス先輩。見に来てくださってたんですか。」
語尾にハートマークがつきそうな口調で面倒くさいもう一人の捕手は近づいてきた二人に、あくまでもそのうちの一人に声をかける。クリスはああ、だか、うむ、だか小さな声で答え沢村は「俺もいるんっすけどね」とうるさく主張する。
周りを囲んでいた子供たちはおそらく高島になにか言われた教頭に連れられてその場を去っていた。
「ずいぶんのんびりやってきたわね。」
腕を組んだ高島の静かな声がとても冷たい。
「「…すいません。」」
「ピッチャー志望だって子が沢村君とも握手したがってたんだけどね。」
やっぱり、と顔を見合わせる。
「まあ、いいわ。御幸君はちゃんと仕事をしてくれたし、ご褒美も渡したし、私も仕事に帰るわね。」
鮮やかな笑みを残し、高島は手を振って去っていった。
高島については礼ちゃんと呼ぶのは御幸のみだ。まあ、教師なのだからちゃん付けが明らかに例外なのだが、なついているといわれれば確かにそうだ。呼び方、か。
「…一也、さん。」
思いついて呼びかけてみれば御幸はぎょっとした様子で振り返る。あまつさえ、ファイティングポーズで片足を下げるのはどういったことか。
「な、なに?」
「ほら、別に距離なんかじゃないっしょ。」
クリスも固まっている。そして御幸にクリスさんと呼ばれる自分を想像して…。
「確かに気持ち悪いな。」
ぼそりと呟く。どういう気持ちであれ先輩呼びのほうがしっくりする。
だが、そう思いつつも「優さんならいいかも。」と思ってしまうクリスであった。
沢村から気持ち悪い呼ばれ方をした上、関係ないところで理不尽にもクリスには気持ち悪いと言われ、訳が分からず、御幸は情けない顔で…仲良さげな先輩と後輩をうらやましく見ていた。
「師匠!」
沢村はいつものように何の戸惑いもなくその人物、クリスのもとに駆け寄る。
「俺の球を受けにわざわざいらしてくださったのですか!不肖、沢村、感激です。ありがとうごぜぇやす!」
いや、もちろん違う。だいたい制服で、グローブも持っていない。ちらりと冷ややかな視線に「い、いえ。分かっております。」と尻すぼむ。見えないしっぽすら垂れていそうだ。
「倉持に御幸が暴れそうになったら押さえてくれと頼まれてな。」
「はぁ?」
戻した視線の先をたどればちょうどマウンドの向こうバックネット裏にさまざまな制服を着た男女に囲まれ、隣に高島、さらにその隣に教頭を従えたキャプテンが立っている。
「暴れる、って笑ってますよ。」
そういえば学校見学とかでしばらく中学生がやってくるので高校生らしいきちんとした対応をするようにと担任が言っていたことを思い出す。選抜出場を決めた野球部の主将で4番、外面やはたらいい御幸は学校側としては格好の広告素材だ。ここぞとばかりに練習には参加できないが宣伝に協力してくれと高島経由で頼まれたのだろう。
男女比2対一で30人ばかりの中学生に囲まれてにこやかに対応しているが、微笑みを浮かべた口元はピクリとも動かない。そのうち女子生徒の誰かからリクエストされたのか握手会が始まる。
「…笑ってるけど、なんか、気持ち悪いっすね。」
「100%愛想笑いだな。」
仲間たちが練習しているのに参加できず広告塔として引っ張り出され、ただ、見るしかない状況は、目の前にニンジンをぶら下げられて手綱をひかれたサラブレッドのようだ。倉持はその手綱を引きちぎらせないようクリスに頼んだのだろう。
高島が気ぜわしげにちらちら御幸を見ている。
中学生のころはそういったものなのだろう。女の子ばかりに握手を求められていたが、彼の前に男子生徒が立った途端、表情が変わった。一瞬、愛想笑いをやめたかと思うと次の瞬間にはいつもの沢村やほかの野球部仲間に向ける意地の悪い、腹黒さをうかがわせる口角だけあげる笑いを浮かべた。そして、少年の手を握るのではなくそっと手に取る。
そして何か、二言三言声をかけたようだ。相手はぱぁと嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ああ、ピッチャーだな。」
本当に野球バカである。クリスの推測は当たっている。らしくもなく複雑な思いで沢村は嬉しそうな御幸を見つめてしまった。
そうか、一年だ。その思いは口に出してしまっていたらしくクリスに聞きとがめられる。
「なにが、だ?」
「あ、いえ。俺が初めてこの学校に来てからそろそろ一年だな、と。」
「そうか。」
聞いておきながら会話はあっさり終わる。
初めて御幸とバッテリーを組んで相棒と言われて一年。長かったような短かったような。いずれにしろとても充実した、ここに来なければ決して体験できない一年だった。
「あん時は自分から“受けてやる”って言ってきたのに最近はこっちがいくら頼んでもしぶしぶっすよ。」
だから今日は師匠が受けてつかぁさい、と言いたいようだ。
「まあ、あのころは御幸もいろいろ大変だったからな。」
少しつらいような悲しいような表情をうかべるので沢村は黙り込む。自分が受けられないのにクリスとバッテリーを組んでいるのを見たらそれこそ御幸がどう感じるか、いくら鈍い沢村でも分る。
少年に何か言われたのか不意に御幸が顔をあげこちらを向いた。
そして。
「う、わっ。」
今まで見たことのない笑顔を浮かべた。あどけない子供のような、それでいて何かに耐えているかのようなそれは、それはきれいな笑顔で。
思わず口元を抑え赤面している沢村にいつも通り冷静にクリスが、どうした、と問いかける。
御幸の笑顔はこの、目の前の人にのみ向けられている。その様子から、自分は初めて見る表情であるにもかかわらずクリスにはあの笑顔は珍しいものではないのだと知る。
「師匠にはあんな顔するんっすね。」
赤い顔のまま問えば、クリスはわずかに首を傾げ、「ああ、俺は御幸に嫌われているからな。」と全く頓珍漢なことを言った。あの笑顔がどうしたら愛想笑いだと思えるのか…。
「ああ、違うか。嫌われているというより恐れられている、が近いな。御幸自身自覚していないようだが。」
ぽかりと口を開け沢村はぶんぶんと首を振る。何を自覚していない!あんたこそ鈍い、鈍すぎる。バッターや投手の感情を読み取るのはあれだけ秀でているのに捕手という人種は同類に対して鈍すぎる。
「沢村、どうやら高島先生が呼んでいる。」
自分の言葉が相手に与えた衝撃にも気付いていないようで、相変わらず淡々とした口調でネット向こうから副部長が手招きしていることを伝える。
並んで歩きながら、「あのころは」と相変わらずの小さな声で話し始めた。
「夏も秋も青道は甲子園に出られず卒業した先輩にはその責任が御幸にあるかのように当たられていたからな。正捕手の御幸がブルペンではなくグラウンドで…一人でいたのもたまたまではない。あいつも投手に投げてもらいたかったのだろう。」
昨年、ノリはレギュラーに定着していなかったし丹波は、御幸を苦手としていた。
「ああ、そういえばお前たちが初めてバッテリーを組み打ち取った東さんも唯一のあの学年では“さん”呼びだったな。」
顎に手を当て不意に立ち止まる。教師に呼ばれたのに歩みは遅く、相変わらずのマイペースだ。いつもはうるさい沢村もクリス相手には「急ぎましょう。」とも言えない。
歩調をあわせ、のんびりと歩く。
「なにが、っすか?」
「御幸は今の三年を先輩、とは言わない。」
「…そうっすね。おれには先輩と呼べっつうのに。」
「東さんも御幸にはなつかれていたからな。いや、唯一あの学年であいつに甘かった、というか…」
それはそうだろう。プロ入りが確定していた二つ上の先輩と敵対するなど、野球に関しては遊び、が通用しない奴らだ。相手が許してくれると確信がなければあの時御幸がバッテリーを組むことを申し出るわけがない。
「もともと哲や純をさん付で呼び始めたのは御幸だからあの呼び方はあいつとの距離をそのまま示している。一番近いのが哲や亮介、それから少し距離のある奴らには、名字に…丹波も名字にさん、だな。」
確かに3年同士でも名前呼びと名字呼びが混在している。レギュラーか否かかでもないし、初めからそうだったから疑問にも思わなかった。
「それで、唯一の先輩付が俺だな。」
クリス先輩…。彼がこの目の前の人を呼ぶときのあの響きが、一番距離があるとどうしたら感じれるのか。沢村はしょっぱい顔をしてしまう。
「それは、むしろ。」
「ん?」
「特別ってことじゃないっすか。」
沢村の言葉に訳が分からない、といった様子では自分が何といっても理解できないだろう。むしろ、嫌われていると思うことはクリスにとってのあのころ、御幸に救いの手を差し伸べなかった、手ひどく扱ったことに対する罰なのだ。御幸はあなたが大好きだと伝え、分ってもらうことは確かに御幸のためにはなるが、クリスは一層、自分を責めることになるだろう。
「捕手ってやつらもたいがい、めんどうくさい。」と投手だって思うのだ。
「クリス先輩。見に来てくださってたんですか。」
語尾にハートマークがつきそうな口調で面倒くさいもう一人の捕手は近づいてきた二人に、あくまでもそのうちの一人に声をかける。クリスはああ、だか、うむ、だか小さな声で答え沢村は「俺もいるんっすけどね」とうるさく主張する。
周りを囲んでいた子供たちはおそらく高島になにか言われた教頭に連れられてその場を去っていた。
「ずいぶんのんびりやってきたわね。」
腕を組んだ高島の静かな声がとても冷たい。
「「…すいません。」」
「ピッチャー志望だって子が沢村君とも握手したがってたんだけどね。」
やっぱり、と顔を見合わせる。
「まあ、いいわ。御幸君はちゃんと仕事をしてくれたし、ご褒美も渡したし、私も仕事に帰るわね。」
鮮やかな笑みを残し、高島は手を振って去っていった。
高島については礼ちゃんと呼ぶのは御幸のみだ。まあ、教師なのだからちゃん付けが明らかに例外なのだが、なついているといわれれば確かにそうだ。呼び方、か。
「…一也、さん。」
思いついて呼びかけてみれば御幸はぎょっとした様子で振り返る。あまつさえ、ファイティングポーズで片足を下げるのはどういったことか。
「な、なに?」
「ほら、別に距離なんかじゃないっしょ。」
クリスも固まっている。そして御幸にクリスさんと呼ばれる自分を想像して…。
「確かに気持ち悪いな。」
ぼそりと呟く。どういう気持ちであれ先輩呼びのほうがしっくりする。
だが、そう思いつつも「優さんならいいかも。」と思ってしまうクリスであった。
沢村から気持ち悪い呼ばれ方をした上、関係ないところで理不尽にもクリスには気持ち悪いと言われ、訳が分からず、御幸は情けない顔で…仲良さげな先輩と後輩をうらやましく見ていた。
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