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現在闘病中で「病んでいる」ボーカル&ギタリスト、「太郎」の独り言

アブドーラザブッチャーvs武藤敬司 インタビュー

2020年03月20日 | プロレス
ヒールレスラー「アブドーラザブッチャー」としてでは無く
1人の人間として話している姿は初めて見ました。
一度自分のステーキハウスの宣伝を明るくTVでしていたのが唯一。
ブッチャーの自伝は読みましたが、凄く面白かったです。
幼い頃の貧乏、人種差別、家族への愛。そしてお金への執着。

本人の著書でも書かれていましたが
「私は他人に尊敬される生き方をしていない」
ブッチャーに対しての人間的批判も結構聞きます。
カブキ本でブロディーがブッチャーに騙された!とか。
ブッチャーの本で他人の批判はほぼ書かれておらず、逆に尊敬の言葉が多く。
相手はコレまたブロディーですし、どちらがどう?とはファンとして判らないですが
モーテルに一緒に泊まったタイガージェットシンが朝起きたらブッチャーが
お金払わず出て行ってたとか(^^;真面目なシンだから何だかんだうなづけます。
お金に対しての執着は貧乏が嫌でアメリカに渡ったのに
世界恐慌で配給のスープを貰いに並んだインド人のお父さんが
アフリカ系の黒人のお母さんと結婚し、鉄屑拾いしていたお父さんが
あのフォード社に工員として就職出来た時流した涙と
敬虔なクリスチャンのお母さんから深い愛情を貰った事。
その愛するお母さんが原因不明の腹痛長年悩まされた原因は
開腹手術の時にそのまま手術器具がお腹に残っていた事。
母を深く愛するブッチャーはその経験から
「お金が有ればもっと良い医者に観て貰えたのに」という家族愛から
かなりアコギな稼ぎ方をした事。その事でお母さんを深く悲しませた事。
家族への愛情は素晴らしく、稼いだお金はほぼお母さんに送っていると。
そして慰問活動を続けていた事。
大悪党レスラー、アブドーラザブッチャーの歴史が激しく心を打ちました。

インタビューに来た天才・武藤の根本的な合理的な考えと
プロレス界の合理的なビジネスの中を生きてきたブッチャー。
まだ若かった武藤人生の先輩ブッチャーが色々アドバイスする様なインタビューは
かなり心に響きました。

Abdullah The Butcher interviewed by Keiji Muto (Great Muta)


和田京平がYouTube番組で語っていた、社長の武藤を冗談でからかったら
お金に対してムキな返答が返って来たという逸話はホントにウケました。
和田京平のトークは面白すぎて。
ご興味ある方は「ありがとうTV」で検索を。

ブッチャーで一番印象深い試合は
やはり幼心に恐怖を生んだ、初めて観た残忍な流血試合、
猪木、長州(革命前)vsブッチャー、バッドニュースアレンとの試合ですね。
長州のヒタイをボールペンでメッタ刺しして流血させる試合は
今後プロレスを観るか?悩みました。結局観てますが
今では凄いカード、ホーガンvsブッチャーも、ホーガンが流血させられた時点で
怖くてテレビのチャンネルを太陽に吠えろに変えてしまった事。
勿体無い。流血試合は怖いもの観たさで結局大好物になるのですが
少し話がズレますが試合後、チャボゲレロにトロフィーでメッタ刺しされ
大流血で「痛てぇよー!!!」と絶叫していた頃迄、たまにTV見るのが怖くなってた子供でした。
アレ以降は無いですが。
流血試合の怖さと面白さを初めて知ったルーツはやはりブッチャーです。
後で観た、ハーリーレイスvsブッチャーのガチ因縁喧嘩試合の迫力は凄かった。
アレはレイスのバイオレンスさが恐ろしかったですが。

と、本人は多くのレスラー達、同業者が好きなのに
武藤がリックフレアーは?という問いに
ブッチャーがノーコメント!と言うのも印象的でした。
WCWに居た頃の武藤、そして当時〜現代のプロレスが嫌いなブッチャーの警鐘。
30分チョイ有る映像でしたが、オールドプロレスファンなら
興味深い対談に感じます。
(戦前、戦後のプロレスは別として^ ^;)
そして、武藤が言う「興行会社のレスラー」「TV会社のレスラー」
このシステムは時流に乗り切れてない時代遅れの私が今感じている心境を(後日記事UPします)
90年台のアメリカレスリング界の変化の様に感じます。
ブッチャーが生きた時代は「お喋りのプロレス界」では無かった事。
時を経て変わった格闘エンターテイメントの表現の違いを。

お互いにリスペクトし合ってるブッチャーと武藤。
かなり興味深い対談映像でした。



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4 コメント

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Unknown (Home In My Shoes)
2020-03-20 11:11:52
あー、これは凄そうですね。ものすごそそられます。

職場なので今夜の楽しみにしておきますね。

しっかし太郎さん、ええもん見つけてこられますよねぇ。そうか「興行会社のレスラー」「TV会社のレスラー」かぁ・・・。そうかぁ・・・。
返信する
ブッチャーの全盛期は…。 (凸椪)
2020-03-20 18:14:34
アブドラ・ブッチャーを最初にTVで視たのは、僕が中学時代に旧・日本プロレスに来た時でした。在り来りの白い道着を履いて空手技を駆使したファイトで、後年よりは大分スリムで動きもスピーディだったと思います。決してベビーフェイスではなかったけれど、後年のように凶器は使用しておらず、反則技も多くはなく、セミファイナル辺りが出番の定位置だったのを覚えています。
日プロが消滅して、当然のように全日本に上がるようになりましたが、その頃には常連外人となって黒道着を着用し、アラビア風の爪先が尖ったリングシーズも履いて、凶器攻撃も頻発し、フィニッシュはエルボゥドロップが大半でした。だいぶ“恰幅も良くなって”テリー・ファンクやデストロイヤーとの流血抗争を展開していましたが、何故かヒールとしての人気を獲得した最初のレスラーだったと思います。
有名な1979年の『8.26夢のオールスター戦』では、TJ.シンと組んで、馬場・猪木組との試合前に、セレモニーでブッチャーは主催者側からの感謝状の額縁を正拳で叩き割って、自ら腕を流血しながら開始のゴング。
当時、私が勤務していた会社の名古屋出張の折、愛知県体育館で観た全日の興行では、UN選手権の係ったメインで、J・鶴田をエルボゥでピンフォールしてタイトル奪取。その辺りが全盛期で、新日に引き抜かれた頃は、動きも遅くなって猪木の“咬ませ犬”的引き立て役のようなポジッションに落とされていたと思います。その後、全日に復帰してから、Uインターやインディー団体に登場するようになってからは、もはや“存在感”だけでファイトしていた様に感じられました。
日プロのワールドリーグ戦には、アフリカのスーダン代表として出場していましたが、アップされたインタビューから察するに祖国(?)のスーダンには、一度も訪れたことはないんじゃないかと思います。
返信する
Home In My Shoesさん (太郎)
2020-03-21 21:46:34
面白い動画に引っかかってしまいました。
関連動画欄で面白いモノに沢山HITしています。
武藤が言う興行会社のレスラー、TV会社のレスラー、凄く印象的なワードですよね。
WWEはマイクアピールで噛むと大変な事になるそうな‥谷津弁。
返信する
凸樫さん (太郎)
2020-03-21 22:02:46
ブッチャー来日の窓口はLAのミスターモトだそうで。
ウンチの時、大変だけどな、と言われたそうな。和式トイレですね。
日本でのブッチャーの一番古いデーターがワールドリーグ戦の準決勝で猪木と引き分けに持ち込み
馬場優勝に持ち込んだ、と言われた事ですかね。本人は否定してますが。
新日本登場時前、日プロで素足で上がっていた頃の写真は後々の身体よりは細いですよね。
カマタ、ロビンソン、鶴田戦は残念ながらまだプロレス観る前でした。
ウチの父がプロレス八百長派の嫌い派で見せてくれませんでした。
猪木vsアリは職場近くの銀行TVで街頭テレビの様に鈴なりで見たそうですが。
親がブッチャーとかを見ていたから逆にプロレス嫌いという人も居たり。
オールスター戦は色んな関係から新日本サイドのシンが寝なくてはならなかったそうで。
新日本、猪木はブッチャーが欲しいより馬場のモノが欲しかった様に本人は思ったそうです。
当時営業部長をしていた大塚直樹氏は、ブッチャー抜いたら
ハンセン、シン抜かれたのは本当にきつかったそうです。特にハンセン。
個人的に最後のキレキレな動きを見たのは輪島をほぼ一方的に痛めつけた試合でした。
東京プロレスや大日本は自分を必要としてくれる所に上がると。
動画中でもWCWの事が語られてますね。多分、あの電気椅子だと思いますが。
スーダンだったり、トルコだったりと、正体不明を売り出してた所がアメリカらしいですが
ギミックレスラーにならなかったのはやはり超一流レスラーだったという事なんでしょうね。
返信する

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