11月8日(水)
「縄文時代の遺跡で最も大規模な青森県の三内丸山遺跡へ一度は行ってみたい。」との思いからネットで交通手段やその他の観光地を調べていたら、「第13回縄文の杜あおもりツーデーマーチ2日目三内丸山遺跡コース」というのが目に留まった。これにしよう。早速、ホテルを予約し参加の申し込みをした。
8月1日、ツーデーマーチ2日目に三内丸山遺跡へ行った。遺跡に立って感じて目に浮かんだのは、そこに住んでいる人たちがあっちこっちでザワザワと話をしている姿だった。昨日の出来事だったり、今日のこれからの予定だったり、単なる話だったり、これから皆で協力し合っての作業のことだったり、「ことば」で、今でいうコミュニケーションを図っている姿だ。ある特定の場所を話題にするのに、地名も創りだされただろう。六本柱の大型掘立柱建物も皆で話し合いながら共同作業で作り上げていくのは楽しかっただろう。などなど興味はつきない。
青森から帰って縄文時代の事について少し調べようと書物を探していたら「縄文時代のコトバ」(福田浩・中島敏之著、上毛新聞社出版局、平成19年)という本があった。
その本の中に『ma ま 間(本では「さんずいに」)』という項目がって、掛り間(本では「さんずいに」)=入江や島かげを利用する港をさし、日本海岸から北海道にかけて使われる。そして大間岬などがあげられている。
福岡には「赤間」や「福間」があるなぁ、2つとも海岸は近いのではないか、とその時は思っていた。
10月25日、JR九州ウォーキング教育大前駅コースに参加した。教育大前駅~正助ふるさと村~伊豆本店~唐津街道赤間宿にある「赤馬館」~釣川沿いを久桜公園~赤間駅と歩いた。伊豆本店は酒蔵であるが、その前にコースを外れて「八所宮」へ行った。八所宮の説明には「本宮は天照大神のご両親を始め、遡る事、神代四夫婦八柱の神をお祭りし八所宮という。八所の神は、神武天皇東征の折姿を現し赤馬に乗り皇軍を先導されたと伝えられている。このことからこの地域一帯を『赤馬の庄』と言い、本宮は赤馬の庄の総鎮守の神社として人々の尊敬を集めてきた。」とあった。
赤間の宿は玄界灘に注ぐ釣川の中流域にあり、ゴールの赤間駅までは釣川沿いを歩いた。「赤間」の名は縄文時代のことばの『ま』とは関係ないのか、海岸まではかなり距離はあるし、と思ってその日のウォーキングは終わった。
3週間後、11月14日にはJR九州ウォーキング東郷駅コースに参加した。雨の中、「いせきんぐ宗像」を見学し宗像大社に向かう途中から釣川沿いを傘さして歩く。25日に歩いた釣川の下流にあたる。宗像大社を出たところに「宗像市郷土文化学習交流館海の道むなかた館」があったので見学をすることにした。展示室では古代から現代まで宗像地区と他の内外地域との交流の歴史が紹介されていた。そこには縄文時代の地形図があった。それを見てビックリした。なんと、釣川は赤間宿近くまで玄界灘から続く海で入り江になっていた。(「撮影禁止です。」といわれたので写真はありません。)
そうすると、やはり「赤間」は縄文時代から「あかま」ないし「〇〇ま」と言われたていたのではなかろうか。神武東征の話はもともと「あかま」と云われた地域に後から話が出来たのか、あるいは「〇〇ま」と云われていた地域に神武東征の話から「あかま」と呼ばれるようになったか、それは分からない。しかし、縄文の時代から日本列島共通のことばで「〇〇『ま』」と名づけられていたのは違いないのではなかろうかと思う。赤間宿近くには吉留池ノ浦遺跡、吉留下惣原遺跡、冨地原深田遺跡などの縄文遺跡もある。
青森県三内丸山遺跡から出土した黒曜石には長野県産のものもある。縄文時代は特に船を使って広範囲に交流していた。そのような交流に必要なことから日本列島で共通なことばや地名が出来ていったのではないかと思う。
このような事を考えるのも私のウォーキングの楽しみの一つである。
(「教育大前コース」このあたりは古代から人々が住んでいたのではと思って撮った1枚。釣川の上流方向。)
(「教育大前コース」赤間駅付近の釣川。縄文時代このあたりまで海だった。)
(「東郷駅コース」宗像神社への道。ここは海だった。)
(「東郷駅コース」釣川が玄界灘に注ぐところ。)
「縄文時代の遺跡で最も大規模な青森県の三内丸山遺跡へ一度は行ってみたい。」との思いからネットで交通手段やその他の観光地を調べていたら、「第13回縄文の杜あおもりツーデーマーチ2日目三内丸山遺跡コース」というのが目に留まった。これにしよう。早速、ホテルを予約し参加の申し込みをした。
8月1日、ツーデーマーチ2日目に三内丸山遺跡へ行った。遺跡に立って感じて目に浮かんだのは、そこに住んでいる人たちがあっちこっちでザワザワと話をしている姿だった。昨日の出来事だったり、今日のこれからの予定だったり、単なる話だったり、これから皆で協力し合っての作業のことだったり、「ことば」で、今でいうコミュニケーションを図っている姿だ。ある特定の場所を話題にするのに、地名も創りだされただろう。六本柱の大型掘立柱建物も皆で話し合いながら共同作業で作り上げていくのは楽しかっただろう。などなど興味はつきない。
青森から帰って縄文時代の事について少し調べようと書物を探していたら「縄文時代のコトバ」(福田浩・中島敏之著、上毛新聞社出版局、平成19年)という本があった。
その本の中に『ma ま 間(本では「さんずいに」)』という項目がって、掛り間(本では「さんずいに」)=入江や島かげを利用する港をさし、日本海岸から北海道にかけて使われる。そして大間岬などがあげられている。
福岡には「赤間」や「福間」があるなぁ、2つとも海岸は近いのではないか、とその時は思っていた。
10月25日、JR九州ウォーキング教育大前駅コースに参加した。教育大前駅~正助ふるさと村~伊豆本店~唐津街道赤間宿にある「赤馬館」~釣川沿いを久桜公園~赤間駅と歩いた。伊豆本店は酒蔵であるが、その前にコースを外れて「八所宮」へ行った。八所宮の説明には「本宮は天照大神のご両親を始め、遡る事、神代四夫婦八柱の神をお祭りし八所宮という。八所の神は、神武天皇東征の折姿を現し赤馬に乗り皇軍を先導されたと伝えられている。このことからこの地域一帯を『赤馬の庄』と言い、本宮は赤馬の庄の総鎮守の神社として人々の尊敬を集めてきた。」とあった。
赤間の宿は玄界灘に注ぐ釣川の中流域にあり、ゴールの赤間駅までは釣川沿いを歩いた。「赤間」の名は縄文時代のことばの『ま』とは関係ないのか、海岸まではかなり距離はあるし、と思ってその日のウォーキングは終わった。
3週間後、11月14日にはJR九州ウォーキング東郷駅コースに参加した。雨の中、「いせきんぐ宗像」を見学し宗像大社に向かう途中から釣川沿いを傘さして歩く。25日に歩いた釣川の下流にあたる。宗像大社を出たところに「宗像市郷土文化学習交流館海の道むなかた館」があったので見学をすることにした。展示室では古代から現代まで宗像地区と他の内外地域との交流の歴史が紹介されていた。そこには縄文時代の地形図があった。それを見てビックリした。なんと、釣川は赤間宿近くまで玄界灘から続く海で入り江になっていた。(「撮影禁止です。」といわれたので写真はありません。)
そうすると、やはり「赤間」は縄文時代から「あかま」ないし「〇〇ま」と言われたていたのではなかろうか。神武東征の話はもともと「あかま」と云われた地域に後から話が出来たのか、あるいは「〇〇ま」と云われていた地域に神武東征の話から「あかま」と呼ばれるようになったか、それは分からない。しかし、縄文の時代から日本列島共通のことばで「〇〇『ま』」と名づけられていたのは違いないのではなかろうかと思う。赤間宿近くには吉留池ノ浦遺跡、吉留下惣原遺跡、冨地原深田遺跡などの縄文遺跡もある。
青森県三内丸山遺跡から出土した黒曜石には長野県産のものもある。縄文時代は特に船を使って広範囲に交流していた。そのような交流に必要なことから日本列島で共通なことばや地名が出来ていったのではないかと思う。
このような事を考えるのも私のウォーキングの楽しみの一つである。
(「教育大前コース」このあたりは古代から人々が住んでいたのではと思って撮った1枚。釣川の上流方向。)
(「教育大前コース」赤間駅付近の釣川。縄文時代このあたりまで海だった。)
(「東郷駅コース」宗像神社への道。ここは海だった。)
(「東郷駅コース」釣川が玄界灘に注ぐところ。)