鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
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「餅、饅頭、芋、餃子」に会う【JR九州福間駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-12】

2016-09-28 | JR九州ウォーキング
2016年9月22日(木)

JR九州ウォーキング福間駅コースに菖蒲の季節以外に参加するのは初めての事だと思う。


(今日のマップ)

博多駅ホームへの階段を上る途中で快速列車のドアが閉まり、次の普通列車で福間駅へ。


(福間駅)

ぎょうざの山八のところでお弁当を買って、道沿いで草花を撮りながら歩く。


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)

宮地嶽神社の参道で熊本から参加されているご夫妻にお会いして、挨拶。熊本地震後、偶然に市内の道でお会いしてお互いの地震の報告は終わっている。

81段の石段を小さい子が手をつきながら上っている。ガンバレ頑張れ。小さい子は階段を上るのが好きだ。何故なんだろうといつも思う。写真は撮ったけど無し。

階段を上りきったところで振り向くと、真っ直ぐな道が海まで続いている。ボランティアの方が、その道を夕日が照らす写真を見せてアピールしていた。10月14日、JR九州ウォーキングで『「感動・絶景」宮地嶽参道の光の道を歩きませんか?』という福間駅コースが設定されているが、多くの人がカメラやスマホを持って参加するだろうから階段の上でいいポジションがとれるだろうか・・・。


(階段の上から)


(宮地嶽神社)


(宮地嶽神社)


(宮地嶽神社)

参拝した後、いつもは菖蒲苑へ向かうけど、今日は奥の宮八社めぐりをすることに。奥の宮八社をひとつひとつまわれば、大願が叶うといわれている。何を願おうか?

一番社・七福神社は、福を運ぶ七福神。
神功皇后が渡韓の折、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希くば開運を垂れ給え」と祈願され船出した、といわれており、その後、神功皇后の功績をたたえ主祭神とし、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神」としてお祀りしてある。それから、宮地嶽三柱大神のご加護のもとで事に当たれば、どのような願いもかなうとして「何事にも打ち勝つ開運の神」として多くの方に信仰されるようになった。


(一番社・七福神社)


(七福神も)

二番社・稲荷神社は、食物とお米の方策を守る神様。
稲荷とは”稲が成る”と書き稲=食物を守る神様といわれている。


(二番社・稲荷神社)

三番社・不動神社は「災いや厄を除く神社」
横穴式石室古墳の中に霊験あらたかなる「お不動様」をお祀りしてある。


(三番社・不動神社)

四番社・万地蔵尊は「子供達の守り神」
万地蔵さまと呼ばれ、子供の願い事は何でも(万・ヨロズ)聞いていただける。


(四番社・万地蔵尊)

五番社・恋の宮は「女性の心身内外をお守りする神様」
女性の体をお守りする・あわしま様と、心をお守りする・ぬれがみ様と、共に女性の心身内外をお守りする神様で「恋の宮」と呼ばれている。


(五番社・恋の宮)


(恋の宮神社横に)

六番社・三宝荒神は「かまど、火除けの神様」
荒々しい火の神様で、火をコントロールする霊力があります。「三宝」とは人々の生活の根幹を成す水・食物を生育させる土・調理する火の、水土火とも言われている。


(六番社・三宝荒神)

七番社・水神社は「水がコンコンと湧き続ける龍神様」
宮地嶽周辺には大河がなく、それは神の恵み”雨”が地下水となり、地下に大きな埋蔵水として流れている。


(七番社・水神社)

八番社・薬師神社は「あらゆる病難から救う神様」
修験者が宮地嶽の山中にて修行を行う際に、病気や怪我が無いようにとお薬師さまをおまつりしたのが始まりとされている。


(八番社・薬師神社)

八社巡りは、八の字に回ればいいようになっている。それは後から気付いた事で、できれば数箇所に案内板があればよかったと思う。八番社を出て、一番社へ向かうところに出た時、どちらへ行こうか迷っている方もいて「向こうからですよ。」と教えた。

八社めぐりを終えて、上ってきた階段を下り参道に。よもぎの「松ヶ枝餅」を食べながら参道から一般道へ出て、津屋崎千軒へと向かう。


(松ヶ枝餅)


(道沿いで)


(道沿いで。海岸近くなので防災放送は欠かせない。)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)

福岡黒田藩は津屋崎を交易港として発展させ、江戸時代から昭和初期ころまでは大規模な塩田による塩づくりも営まれ、大いに栄え、家がひしめいた。それで津屋崎千軒とよばれるようになった。

「筑前津屋崎人形巧房」でモマ笛。
モマはフクロウの事。宮地嶽では、山中で道に迷った正直者がモマの鳴き声に誘われ、ついて行くと「金の玉」を授かったとの言い伝えから、正直に正しく生きれば福(金の玉)が授かるとの事でモマが珍重されてきた。


(筑前津屋崎人形巧房)

「上田製菓」は昔ながらのお饅頭が殆ど1個60円で売ってある。また、江戸時代からの落雁の型などを展示してある。店の奥には、使っていた民具も並べられていた。


(上田製菓)


(上田製菓)


(上田製菓)

「お饅頭」を一個だけ買って、福津市まちおこしセンター「津屋崎千軒なごみ」に寄って、お茶をいただき、お饅頭を食べる。


(上田製菓のお饅頭)

なごみには熊本地震の募金箱が置いてある。皆さんありがとうございます。


(熊本地震の募金箱)

外では、町おこしのボランティアの人たちと思うが、「焼き芋」を売られていたので買ってリュックに入れる。


(焼き芋1個100円)

明治7年創業の「豊村酒造」で、お酒の試飲。原酒300mlを買う。リュックにはお弁当、焼き芋などが入っていて、720mlは重くなる。


(豊村酒造)


(豊村酒造)

「うにの専門上田清商店」には迷いながらも入った。「つやざきのわかめ」も売ってあったので買った。


(うにの専門上田清商店)


(うにの専門上田清商店)

波折神社は7月に津屋崎祇園山笠が催され、津屋崎千軒の町並みを駆けめぐる。縁起に書かれている文がいい。事実はどうあれ、心打つものがある。


(波折神社)


(波折神社)

津屋崎千軒の町並みを通り過ぎると、港に出る。


(津屋崎橋より)

海岸沿いを歩く。
2005年、福間町と津屋崎町が合併し福津市となった。それでであろうが「ふくつの海岸通り」と名づけられている。「津屋崎海岸どおり」でないのに違和感がある。


(津屋崎の海岸)


(津屋崎の海岸)


(津屋崎の海岸。ふくつの海岸の呼称には違和感がある)

福津市福祉会館「潮湯の里夕陽館」に着く。ここのベランダで海を見ながら弁当を食べるのがこのコースの楽しみになっている。途中で買った弁当と焼き芋。梅ヶ枝餅やお饅頭を食べてきたので、お腹いっぱいになる。心地よさもいっぱい。


(夕陽館のベランダより)


(夕陽館のベランダより)


(夕陽館のベランダでお昼)

お風呂にも入って出発。少しだけど砂浜を歩く。


(砂浜を歩く)

鎖国の江戸時代も朝鮮半島の人々との交流は続いた。黒田藩は、津屋崎海岸の沖合に見える相島に、朝鮮王国から幕府に挨拶に来る朝鮮通信使のために接待所を設け、津屋崎の人たちも相島を舞台に交流を持ち、朝鮮半島の文化を吸収していく。


(右側の平べったりした島が相島)

宮地浜の交差点から左に曲がるのがコースだが、右に曲がり宮地浜へ。


(保安林)


(宮地浜より)

引きかえし、宮地嶽神社階段上から見た、宮地浜から神社への真っ直ぐの道を歩く。宮地嶽神社の参道の所までは戻らず、途中から右に曲がって、朝方宮地嶽神社へ向かった道へ出る。


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで。博多弁)

ふたたび、「ぎようざの山八」。お店の前で食べることも出来たが、「焼き餃子」を買って帰ることにした。家でビールとともにゆっくり食べよう。


(ぎようざの山八)

福間駅にゴールし、久留米行普通列車に慌ただしく乗る。


(福間駅)

福間駅は「快速」も止まるが、博多駅から来るときも、帰るときも「普通」列車になった。ビールは家までお預けにして、今日のウォーキングを終える。

「筥崎」で「宇美」に会う。【JR九州箱崎駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-11】

2016-09-19 | JR九州ウォーキング
2016年9月17日(土)


(今日のマップ)

秋編最初の参加。箱崎駅東口から9時過ぎにスタート。筥崎宮をめざす。


(箱崎駅東口)

筥崎宮は12日から18日まで博多の三大祭り放生会(ほうじょうや)が催されている。放生会は「全ての生命あるものを慈しみ、秋の実りに感謝する」秋のお祭り。


(夏も終わり)


(筥崎宮への道で)


(玉取恵比寿神社)


(筥崎宮への道で)

筥崎宮の参道へ出て、左手本殿へ向かわず右手の海岸へ向かう。

準備万端のところ、準備中のところ、まだ何も手つかずのところとある出店を眺めながら歩いていると、スアロキンさん(JR九州ウォーキングで知り合った歩友のニックネーム)と孫ーズに出会う。今日は4人の世話で大変そう。


(出店)


(出店で)


(出店で)


(出店で)


(出店で)


(出店。筥崎宮周辺は生姜の生産地だった)

また、会うこともあるだろうと挨拶だけで先へ進み、お潮井浜へ出る。
筥崎宮では春(三月)と秋(九月)の二度、社日祭があり、この日はお潮井取り(お潮井汲み)と称して、お潮井浜の真砂を頂いて自宅へ持ち帰り、五穀豊穣・除災招福・家内安全等を祈る。



(お潮井浜)


(お潮井浜から博多湾)


(お潮井浜)


(お潮井浜の鳥居)

引き返し本殿へと向かう。
筥崎宮は筥崎八幡宮とも呼ばれる。京都の石清水八幡宮、大分県宇佐市の宇佐神宮とともに日本三大八幡宮の一つで、第十五代の応神天皇を主祭神として、神功皇后、玉依姫命が祀られている。


(三之鳥居)

一之鳥居は慶長14 年(1609)、藩主黒田長政が建立。鳥居の柱は三段に切れ、笠木島木は1 つの石材で造られ、先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じ異色の鳥居。「筥崎鳥居」と呼ばれている。


(一之鳥居後ろから)

楼門には「敵国降伏」の扁額が掲げられている。これは、筥崎宮の始まりが「平安時代の中頃である延喜21年(921)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分宮より遷座したことになっております。」そして、「文永11年(1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山上皇が納められた事跡は有名で、文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時に、亀山上皇の御宸筆を謹写拡大したものが掲げられています。」とホームページで説明してある。


(楼門の扁額)


(本殿の屋根)


(神事が行われていた)


(神事が行われていた)


(神事が行われていた)

楼門の右手には神功皇后が応神天皇を出産した際、胞衣を箱に入れてこの地に納め、印として植えられた「筥松」がある。「筥崎(箱崎)」の名称はこの胞衣を納めた箱に由来する、とされている。


(筥松と楼門)

境内に湧出石というのがあった。「古くは地面から露出した部分で天変地異を占った。
今はこの石を撫でると「運が湧く」という。」石。囲いで過去まれており、ちいさい子は人の助けを借りてようやく手が届く。


(湧出石)


(神殿南側の門)

筥崎宮を出ようと歩きだしたとき、スアロキン&孫ーズの皆さんと再会。一緒に歩くことに。孫ーズの4名はそれぞれ出店で買ったと思われる小さいお菓子がいっぱい入ったビニール袋を持っている。「美味しそうだな。」と一人に声をかけると、一つ二つ取りだして呉れた。他の3人もそれぞれとりだして呉れる。不思議なことにみんな違うお菓子を呉れる。「これ食べた。」と言って他の3人が渡してなさそうなお菓子を呉れる。


(「スアロキン&孫ーズ」の皆さん。手前の人は無関係)


(裏の鳥居)

筥崎宮の裏に出て、お話したり、お菓子を食べたりして歩いたら、直ぐに川が。「川の名前なにかな。」と聞いても、子どもたちは関心なし。欄干にある橋名を見たら「宇美川」とある。「えぇ。」っとビックリ。
日本書紀によると仲哀天皇没後、妃神功皇后は神託によって新羅征討の旅に出る。その時、臨月であったがた石を腰にはさみ新羅に乗り込んだ、事を終え新羅から帰還すると筑紫で皇子を産んだ。後の応神天皇で筥崎宮の主祭神となっている。
その筑紫の地が福岡県粕屋郡宇美町といわれている。土地勘がないのでよくは分からないが「宇美川」はその宇美町から流れてきているのだろうか。これまで応神天皇に関しては「宇美町」と「筥崎宮」を点でしか知らなかった。ちゃんと線で結ばれているんだ。などと感慨にふけながら歩く暇はない。


(橋にあった川の名前)

孫ーズの4名と話しながらも花や飛行機の写真を撮りながら歩く。福岡空港も近いのでひっきりなしに飛行機が飛んでくる。撮った写真を見て「綺麗、上手。」と4人して褒める。そして「カメラマン、花があるよ。」「飛行機が来たよ、カメラマン。」と、いつの間にかカメラマンになってしまった。


(道沿いで)


(道沿いで)


(空港へ降りて行く飛行機)


(道沿いで)


(道沿いで)

ハクハクが近づいてくると、「辛い明太子食べる。」と孫ーズの一人から聞かれたので「食べるよ。」と答える。孫ーズは私よりもJR九州ウォーキングのベテラン。コースもハクハクも知っている。私はハクハクの事は何も知らない。「辛子明太子が食べられるんだ。」と初めて知る。


(ハクハクの手前で)


(ハクハクの手前で)


(ハクハクの手前で)

ハクハクに到着。「博多の食と文化の博物館ハクハク」は辛子明太子のふくやが経営するミュジアムだ。ふくやは辛子明太子を創業したお店だが、特許を取らずに技術を広く開放し、今や福岡の代表的食であるとともにお土産品になった。ハクハクでは辛子明太子のミュジアム、工場見学、辛子明太子作りの体験、お土産品の購入などが出来る。試食コーナーもあって。様々な味を体験できる。孫ーズたちが話してたのはこのコーナーのことだった。


(「かわりみ千兵衛」もお出迎え)


(試食コーナー)


(2階は工場見学)

ハクハク初めての私が中をウロウロしている間に、孫ーズたちは先に出て行ったみたい。後から追いかけるといっても写真撮りながらなので追いつくことは無い。11時30分頃箱崎駅にゴール。


(ハクハク横の公園)


(福北ゆたか線)


(空港へ下りて行く飛行機)


(道沿いで)


(道沿いで)


(ゴール箱崎駅東口)

博多駅に戻ってビールとお寿司の昼食。駅前のお風呂に入り、汗を流し、久しぶりのJR九州ウォーキングを終る。

暑い中、西南戦争の熊本城を歩く。【熊本の話題】

2016-09-07 | 熊本城
2016年9月5日(月)

この夏、熊本は猛暑続きで運動不足になった。
台風が通過したので、少しは涼しくなるかなと、歩いて体を動かそうと出かけた。

熊本市電熊本駅前から一つ目の電停「祗園橋」からスタート。
「祗園橋」は熊本城の南にあたり、細工町を北へ向かって進む。

城下町は路が複雑に作られるのが普通だが、ここ一帯は加藤清正によって呉服町、米屋町、魚屋町、紺屋町など商人の街として碁盤の目の町割りがされている。一つの区画の真ん中にはお寺があり非常時にはお寺に武士が集まり、路地から攻撃できるようになっている。NHK「ブラタモリ」の「熊本城編」でも紹介されたのでご存知の方も多いと思う。


(1.五福小学校前の案内板)


(2.この建物の中に消防車は待機している)


(3.紺屋町にあるお店)


(4.西唐人町にある路地)


(5.路地の中はお寺)


(6.寺は被災して)

熊本市は古い町並みを積極的には残してこなかったが、地元の人たちの熱意で残ってきた建物がここ一帯にある。それらの建物は4月の熊本地震で大きな被害を受けた。再建には莫大な費用がかかるが文化財に指定されてはいないので公的な資金は望み薄である。再建を諦めるところもあるかも知れない。

(7.西唐人町にある古民家)


(8.紺屋町にある古民家)


(9.西唐人町にある古民家)

薩摩街道である唐人町の通りから坪井川に架かっている「明八橋」を渡ると「新町」に出る。「明八橋」は、矢部の「通潤橋」を造った橋本勘五郎が、東京の「日本橋」や「江戸橋」、皇居の「二重橋」を架設したのち、帰郷して手がけた石橋のうちの一つで、明治8年に架けられた。「明八橋」も薩摩街道の橋である。明治10年の西南戦争では、薩摩の兵士がこの橋を渡って熊本城へ進撃した。
平成2年までは、バスもこの橋を通っていたが、西側に新たな道が出来て歩行者専用になっている。バスでこの橋を何度も通ったことがある。昔のバスは重かったし、ぎゅうぎゅう詰めで走ることも多かったのに、よく耐えたものだと思う。
江戸時代、橋の袂には「新三丁目御門」が設けられ、厳しい取り調べが行われていた。

(10.明八橋)


(11.明八橋)

橋を渡って少し歩いたところに「森からし蓮根」のお店がある。からし蓮根は肥後細川の初代藩主忠利が体が弱く滋養強壮の蓮根をたべさせるために工夫されたもので、名字帯刀を許された先祖が藩のお料理番として代々仕え、製造法は口伝されてきた。明治10年、西南戦争後に創業して一般の人も食べられるようになった。正真正銘の「元祖」である。


(12.森からし蓮根)


(13.森からし蓮根)

「新町」の交差点に出ると、熊本市電B系統上熊本線が走っている。写真左手の古い建物は明治7年創業の「長崎次郎書店」である。一時閉まっていたようだが、再開されている。再開と同時に2階は喫茶室として営業している。
この夏は暑くてコーヒーチェーン店で読書することも多かったが、こういうお店でゆっくりと静かに読書してみたいと思う。窓の下には路面電車も走っている。


(14.新町交差点。左の建物は長崎次郎書店。)


(15.長崎次郎書店喫茶室)


(16.長崎次郎書店喫茶室)


(17.長崎次郎書店喫茶室)


(18.長崎次郎書店喫茶室)

電車の線路を渡って少し歩いて、明治6年創業の蕎麦屋「政木屋」でお昼。
「政木屋」と電車軌道の反対側にある諸毒消丸の「吉田松花堂」がある。吉田松花堂の初代はシーボルトに弟子入りし、シーボルトが追放された後、熊本で町医者になり、腹痛に効く薬「諸毒消丸」を創り、今日も販売されている。西南戦争で焼けた後に建てられた塀は無事のようである。


(19.政木屋)


(20.政木屋)


(21.吉田松花堂)

「長崎次郎書店」も「政木屋」も、おそらく西南戦争では焼けてしまったでしょうね。

「政木屋」の角を曲がると、一新地域コミュニテイセンターと一新幼稚園がある。ここには「御客屋・会輔堂」があった。「御客屋」は熊本藩の迎賓館で幕末には勝海舟・坂本龍馬も滞在した。明治4年には学校「会輔堂」となったが、明治5年に明治天皇・西郷隆盛が滞在した。


(22.御客屋・会輔堂があった一新幼稚園)

ここから北へ進むとYMCAの建物があり、右へ曲がると「清爽園」がある。
明治11年、熊本鎮台の侍兵は、明治7年の佐賀の乱、台湾出兵、明治9年の神風連の乱、明治10年の西南戦争という四戦役の戦没者を祭る記念碑をこの地に建立し、明治12年に記念碑周辺の敷地を広げて庭園となった。さらに明治19年には、乃木希典細川藩主の旧花畑屋敷の庭石の払い下げを受けて庭園を完成させた。その後、次第に荒廃したが、昭和4年地元の青年壮年団の奉仕により美観が取り戻され、「清爽園」と命名され今日に至っている。


(23.清爽園。石橋は花畑屋敷から移築した。)


(24.四戦役の戦没者を祭る記念碑)

熊本城は西向きが正面にあたり、ここが正面登城口で、「新一丁目御門跡」が設けられていた。その門の前は藩から種々の通知を掲示する「札の辻」と呼ばれる広場になっていた。
また、「里程元標跡」で、この場所を起点として、豊前・豊後・薩摩・日向街道の里数が測られていた。唐人町からここまで歩いてきた薩摩街道の終点にあたる。薩摩へ向かうときは始点となる。豊前・豊後への街道の始点でもある。


(25.新一丁目御門・札の辻碑)


(26.里程元標跡碑)

江戸時代は、ここ「清爽園」の場所が最も重要な地点であった。

熊本城は文化庁から「特別史跡熊本城址」の指定を受けているが、ここからはその範囲で、公園へ一歩入れば、熊本城へ一歩入ったことになる。
「新一丁目御門」を無事に通過して、「清爽園」の横の法華坂を少し上り左に曲がると二の丸公園のへと続く道がある。里程元標から出発した「豊前街道」であるが、地震の影響で通行止めになっている。この道は高級武家屋敷の間を通る道で、庶民が通るには息苦しい。


(27.二の丸公園への豊前街道)

「豊前街道」は「新一丁目御門」を通過しないもう一本の道があった。里程元標へ戻り、曲がったYMCAの所へ戻って右へ曲がって進む。「西南の役激戦地跡」の碑がある。西南戦争は熊本城の西側で最も激しい戦いがあった。


(28.西南の役激戦地跡の碑)

電車通りを西に進むと右手に「薬研坂」がある。左手、電車の軌道向かい側には肥後象眼の「光助」が見える。里程元標から出発して、この薬研坂を上っていくのがもう一つの「豊前街道」になる。この道は保育園があって通れない。少し外れて藤崎台球場へ上って球場沿いを歩いて行けるが、地震の影響で通行止めになっている。


(29.もう一つの豊前街道、薬研坂)


(30.道は行き止まりで、藤崎台球場へ上る坂は通行禁止)

道を戻って、「西南の役激戦地跡」碑を通り、「熊本市子ども文化会館」の所に出て、藤崎台球場へと上る。ここも熊本城内である。


(31.左の坂を上る)


(32.推定年齢1000年~400年のクスノキ群。西南戦争でも生き延びた。)

藤崎台球場の北側に三の丸広場がある。江戸時代には三の丸という呼称は無かったようで、後に呼ばれるようになったようだ。
「薬研坂」を上ったところに保育園が無かったとして歩いて行けば、この広場のところに出る。この広場に来れば「豊前街道」へ出たことになる。
春、4月、熊本城内ソメイヨシノの桜が満開になった一週間後、公園は「御衣黄」の花が咲き乱れる。


(33.三の丸広場)


(34.三の丸広場に保存してある石垣)

広場の北側にはテニスコートがあって、その奥は「森本儀太夫預り櫓跡」。熊本城の北西地で、加藤清正の重臣森本儀太夫が三階櫓を自ら築き防備にあたったといわれている。火事で焼失し、再建はされなかった。森本儀太夫は熊本城おもてなし武将隊の一員なので若い女性の人たち方が名前を知っているかもしれない。


(35.森本儀太夫預り櫓跡)

こここからはJR九州の在来線、新幹線が見れるが、しばらく待っていたけど新幹線が来ないので、石垣を見るべく下へおりて行ったら、九州新幹線のつばめ車両が通過して行った。


(36.九州新幹線)

熊本城の石垣はほとんど直線で築かれているが、森本櫓の石垣は地形に合わせて築かれているので少し丸みがある。


(37.森本櫓付近石垣)

三の丸広場を下りて、お城沿いに段山の電停の所まで歩いた。写真の上の方が通れなくなっている「豊前街道」になる。
西南戦争ではこのあたり一帯でもっとも熾烈な戦いがあった。
眺めていると、熊本城の戦いは「豊前街道」という当時の幹線道路を巡る戦いであったことが実感できる。


(38.段山方面からの入口)


(39.土手の上が豊前街道。ここも熊本城内)

藤崎台球場の北側の広場に戻り、三の丸駐車場の方へ向かう。熊本市子ども文化会館の所から左の坂を藤崎台球場へ上ったが、ここは右の坂を上ったところ。駐車場は閉鎖されていて石垣が保存されている。


(40.三の丸駐車場)

旧細川刑部邸も立ち入り禁止になっている。
細川刑部邸は東子飼町で下屋敷として使用していたものを平成2年から4ヶ年かけて移築したもので、熊本県の重要文化財指定されている。


(41.旧細川刑部邸の塀)

東へ進むと、右手には「二の丸御門跡」がある。ここの石垣は無残な状態になっている。「新一丁目御門」を通過した「豊前街道」は二の丸の高級武家屋敷の間を通って、この「二の丸御門」に出る。「新一丁目御門」を通過せずに回り道をした「豊前街道」とここで合流する。


(42.二の丸御門跡)

これまで「豊前街道」としてきたが、正確には「豊前街道・豊後街道」である。道は百間石垣のところを通り、新堀橋を渡って、県教育会館のところで京町の方を行く「豊前街道」と坪井の方へ行く「豊後街道」に分かれる。

西南戦争の熊本城の攻防は、豊前街道を薩摩軍本隊が通過するのを阻止する闘いであった。その時政府軍の作戦が豊前街道に接する熊本城籠城だった。

薩摩軍の本隊は戦いに敗れ、ここ百間石垣から京町方面へと向かい北上する事を諦め、後退して行った。
そのことを想いながらこの道を歩くと、感慨深いものがある。


(43.百間石垣。道は豊前街道・豊後街道)


(44.新堀橋を渡って京町方面へ豊前街道・豊後街道。)

百閒石垣のところから右に曲がって二の丸広場の方へ行くことにする。左手には城壁の石垣の間に埋め込むようにして造られている「埋門」がある。熊本城北側の家臣の出入り口であった。


(45.埋門)

今、熊本城の撮影スポットとして人気があるのが、戌亥櫓とその後ろに熊本城天守閣、宇土櫓がそびえる風景だそうだ。


(46.戌亥櫓。右は宇土櫓、左は天守閣)


(47.西南戦争時家族の避難場所碑)


(48.二の丸公園には藩校時習館もあった。)

加藤神社でお決まりの写真を撮る。


(49.加藤神社入口のところから宇土櫓)


(50.加藤神社境内から天守閣)

棒庵坂を下りたところにも石垣が保存展示してある。棒庵坂の名は下津棒庵の屋敷が坂の下、今のKKRホテル熊本あたりにあったことからつけられている。

(51.石垣置き場と棒庵坂)

石垣沿いを歩いて、地震で神殿が崩壊した「熊本大神宮」へ。復旧工事が始まっていた。「熊本大神宮」の道を挟んだところが旧専売公社で、その横が「高橋公園」になる。ここも「特別史跡熊本城」である。
「高橋公園」は、第7代熊本市長高橋守雄の業績を記念して作られ、旧熊本市庁舎の玄関と高橋守雄の銅像がある。また、西南戦争時の政府軍の指揮者熊本鎮代司令長官谷干城の銅像、横井小楠と明治維新の偉人達像がある。


(52.崩れた石垣)


(53.熊本大神宮)


(54.旧熊本市庁舎と高橋守雄像)


(55.谷干城の銅像)


(56.横井小楠と明治維新の偉人達像 後方は熊本大神宮の社殿を崩した石垣
上段、写真左から 坂本龍馬・勝海舟・横井小楠・松平春嶽・細川護久
下段、写真左から 竹崎健次郎・内藤泰吉・嘉悦氏房・徳富一敬・長野濱平・山田武甫)

厩橋を渡って、坪井川沿いを歩く。長塀の倒れたところには白いビニールシートが張られていた。


(57.坪井川沿いの長塀。奥に見えるのは花岡山。薩摩軍はここから熊本城へ大砲を撃った。)

市民会館の所から少しだけ見える飯田丸五階櫓は一本の足で支えられるようになっていたが、鉄骨で支えるように工事がされ、その鉄骨も少しだけ見える。


(58.加藤清正銅像。後方右は天守閣、左は飯田丸五階櫓)

さて、今日の熊本城歩きの最後は花畑公園になる。
花畑公園は細川藩主の花畑屋敷の一部が公園として残ったもので、広大な屋敷の南西の一部である。
この屋敷の庭にあった石橋(絵図では中央少し下)などが、「清爽園」に移され、今も現存している。(写真23)


(59.花畑公園にある花畑屋敷絵図)


(60.花畑公園。絵図の左下にある木がこのクスノキと思われる。)

暑かった。コーヒーチェーン店で涼む。

地図は歩いた道と写真を撮った場所。この地域が熊本の中心地の時代があった。


震災に遭った横井小楠旧居「四時軒」-3【熊本の話題】

2016-09-07 | 横井小楠
2016年9月7日(水)

横井小楠旧居「四時軒」の今です。

横井小楠に関しては
横井小楠ホームページ」で。

過去のブログより
■震災に遭った横井小楠旧居「四時軒」【熊本の話題】(2016.4.22)
■震災に遭った横井小楠旧居「四時軒」-2【熊本の話題】(2016-07-07)
■「四時軒」と坂本龍馬【熊本の話題】(2016.4.24)


(四時軒の表入口より)


(四時軒の裏入口より)


(四時軒)


(四時軒)


(四時軒)


(横井小楠記念館裏)


(四時軒の裏の道。土嚢袋は秋津川堤防の補強)