2020年10月31日(土)
JR九州博多駅から福岡市営地下鉄線を走り、姪浜駅で地上に出る。
姪浜駅からはJR九州筑肥線。やがて、行く手右側に玄界灘が見えてくる。
奴国から出発した電車は、玄界灘を望みながら伊都国を通過していく。
虹の松原の松林が見えてきたら、もうすぐに松蘆国。
魏志倭人伝に記されている、邪馬台国までの道の逆を行き、佐賀県唐津市にある唐津駅に着く。
駅から近代図書館の方に出て、図書館の手前から右折。
ハローワーク唐津入口の信号をまっすぐ渡り、桜並木を進む。
15分ほど歩くと「日本稲作発祥の地」菜畑遺跡・松蘆館に着く。
菜畑遺跡は[草創期][早期][前期][中期][後期]【晩期】と区分される縄文時代の晩期を代表する遺跡である。
昭和55年から56年にかけての調査で、約2600年前、縄文時代晩期の土器とともに炭化米、石包丁、鍬、水田などが発見された。
当時、新聞に大きく報道された。
確か、「縄文時代に稲作が」みたいな報道だったように思う。
「弥生時代の始まりが早くなったのではないの」と思ったことがある。
縄文時代終わりと弥生時代を始まりを定義する学説はいろいろあって、そう単純なことではないようだ。
「松蘆館」は高床倉庫をイメージして建てられ、菜畑遺跡で出土した縄文時代晩期、弥生時代早期の資料が展示されている。
出土品を元に当時の様子を想像して再現されている。水田があるのが、これまで見てきた縄文時代を想像し再現したものとは違う。
炭化米。
パネルでは、出土品を元に当時の生活の様子を知ることもできる。
畑作では、アワ、オオムギ、アズキ、ゴボウ、ナスビ、メロン、キュウリなど、現在の農家で栽培されているもののほとんどの品種が作られていた。
狩猟や漁労、農具や食事・食器などのパネルもあった。菜畑遺跡への稲作の伝搬を説明したパネルもあった。
豚の下あごは豊作を祈る儀式で使われていたと思われている。
屋外は遺跡公園「出あいふれあいの広場」として整備されている。
竪穴式住居。
発見された最古の水田跡は、小規模(10~20㎡)のもので、海水の入り込まない谷間地の中央部に幅1.5~2.0mの水路を掘り、この両側に土盛りの畦によって区画されていた。
縄文時代晩期から弥生時代前期にかけての水田跡が何層か発見されているようなので、水田の移り変わりの説明があればもっと良かったのにと思う。
松蘆館を後に、唐津城へと向かう。
ハローワーク唐津入口の信号を左折し、すぐに目に入ったお店「だし遊膳 新」で昼食。
佐賀の海の幸、山の幸を刺身、天婦羅、牛のたたきなどでいただいた。美味しかった。
途中、青木繁の作品が多く展示されている河村美術館に寄り道。。
美術館からすぐに唐津城に着く。階段を上るとふじ棚が迎えるが花が奇麗なのは5月の連休の頃。天守閣へ。
天守閣の展望台より海を眺める。稲はこの海の彼方から運ばれてきたのだろう。そう思って眺める海は格別だ。
唐津の観光名所「虹の松原」も見える。
旧唐津銀行の建物などを眺めながら20分弱歩くと曳山像のある唐津駅前に着く。
唐津神社や曳山展示場には寄らなかった。
ウォーキングでは春は田植え、秋は稲刈りの田んぼを眺めながら歩くことも多い。
今秋も稲刈りの前や終わった田んぼを眺めながら歩いている。
お米を食べる生活を送ってきて今がある。
日本稲作発祥の地を訪ね、稲作の伝搬、2600年前の炭化米、復元された水田、渡ってきたであろう海を眺めた。
感慨深いものがある。
帰りは、唐津駅から佐賀駅へと唐津線に乗る。山あいをのんびりとローカル線の旅。
佐賀駅から長崎本線で鳥栖へと向かう、途中、弥生時代の大規模集落を再現した吉野ヶ里公園への最寄り駅、吉野ヶ里公園駅を通過し、帰路へ。
九州の縄文遺跡を学んだのは5つ目である。
【縄文を学ぶ-1】で鹿児島県の「掃除山古墳」が、1万2800年前、草創期の代表的遺跡であることを学んだ。
【縄文を学ぶ-2】で鹿児島県の「橋牟礼川遺跡」では、縄文土器と弥生土器のどちらの土器が古いか?まだわかっていなかった大正時代、開聞岳の噴火でできた地層によって縄文土器が弥生土器より古いことが分かったことを学んだ。
【縄文を学ぶ-3】で鹿児島県の「上野原遺跡」が、早期の代表的な遺跡で、約9,500年前に「ムラ」がつくられていたことを学んだ。
【縄文を学ぶ-13】で熊本県の「曽畑貝塚」では、約5500年前、前期に使われていた土器に「曽畑式土器」の名がつけられていて、曽畑式土器が奄美から沖縄まで広く発見されていることを学んだ。
そして【縄文を学ぶ-14】で佐賀県の「菜畑遺跡」が、約2600年前、晩期の代表的遺跡で日本稲作発祥地であることを学んだ。
九州でもまだまだ縄文時代を学べそうだ。
JR九州博多駅から福岡市営地下鉄線を走り、姪浜駅で地上に出る。
姪浜駅からはJR九州筑肥線。やがて、行く手右側に玄界灘が見えてくる。
奴国から出発した電車は、玄界灘を望みながら伊都国を通過していく。
虹の松原の松林が見えてきたら、もうすぐに松蘆国。
魏志倭人伝に記されている、邪馬台国までの道の逆を行き、佐賀県唐津市にある唐津駅に着く。
駅から近代図書館の方に出て、図書館の手前から右折。
ハローワーク唐津入口の信号をまっすぐ渡り、桜並木を進む。
15分ほど歩くと「日本稲作発祥の地」菜畑遺跡・松蘆館に着く。
菜畑遺跡は[草創期][早期][前期][中期][後期]【晩期】と区分される縄文時代の晩期を代表する遺跡である。
昭和55年から56年にかけての調査で、約2600年前、縄文時代晩期の土器とともに炭化米、石包丁、鍬、水田などが発見された。
当時、新聞に大きく報道された。
確か、「縄文時代に稲作が」みたいな報道だったように思う。
「弥生時代の始まりが早くなったのではないの」と思ったことがある。
縄文時代終わりと弥生時代を始まりを定義する学説はいろいろあって、そう単純なことではないようだ。
「松蘆館」は高床倉庫をイメージして建てられ、菜畑遺跡で出土した縄文時代晩期、弥生時代早期の資料が展示されている。
出土品を元に当時の様子を想像して再現されている。水田があるのが、これまで見てきた縄文時代を想像し再現したものとは違う。
炭化米。
パネルでは、出土品を元に当時の生活の様子を知ることもできる。
畑作では、アワ、オオムギ、アズキ、ゴボウ、ナスビ、メロン、キュウリなど、現在の農家で栽培されているもののほとんどの品種が作られていた。
狩猟や漁労、農具や食事・食器などのパネルもあった。菜畑遺跡への稲作の伝搬を説明したパネルもあった。
豚の下あごは豊作を祈る儀式で使われていたと思われている。
屋外は遺跡公園「出あいふれあいの広場」として整備されている。
竪穴式住居。
発見された最古の水田跡は、小規模(10~20㎡)のもので、海水の入り込まない谷間地の中央部に幅1.5~2.0mの水路を掘り、この両側に土盛りの畦によって区画されていた。
縄文時代晩期から弥生時代前期にかけての水田跡が何層か発見されているようなので、水田の移り変わりの説明があればもっと良かったのにと思う。
松蘆館を後に、唐津城へと向かう。
ハローワーク唐津入口の信号を左折し、すぐに目に入ったお店「だし遊膳 新」で昼食。
佐賀の海の幸、山の幸を刺身、天婦羅、牛のたたきなどでいただいた。美味しかった。
途中、青木繁の作品が多く展示されている河村美術館に寄り道。。
美術館からすぐに唐津城に着く。階段を上るとふじ棚が迎えるが花が奇麗なのは5月の連休の頃。天守閣へ。
天守閣の展望台より海を眺める。稲はこの海の彼方から運ばれてきたのだろう。そう思って眺める海は格別だ。
唐津の観光名所「虹の松原」も見える。
旧唐津銀行の建物などを眺めながら20分弱歩くと曳山像のある唐津駅前に着く。
唐津神社や曳山展示場には寄らなかった。
ウォーキングでは春は田植え、秋は稲刈りの田んぼを眺めながら歩くことも多い。
今秋も稲刈りの前や終わった田んぼを眺めながら歩いている。
お米を食べる生活を送ってきて今がある。
日本稲作発祥の地を訪ね、稲作の伝搬、2600年前の炭化米、復元された水田、渡ってきたであろう海を眺めた。
感慨深いものがある。
帰りは、唐津駅から佐賀駅へと唐津線に乗る。山あいをのんびりとローカル線の旅。
佐賀駅から長崎本線で鳥栖へと向かう、途中、弥生時代の大規模集落を再現した吉野ヶ里公園への最寄り駅、吉野ヶ里公園駅を通過し、帰路へ。
九州の縄文遺跡を学んだのは5つ目である。
【縄文を学ぶ-1】で鹿児島県の「掃除山古墳」が、1万2800年前、草創期の代表的遺跡であることを学んだ。
【縄文を学ぶ-2】で鹿児島県の「橋牟礼川遺跡」では、縄文土器と弥生土器のどちらの土器が古いか?まだわかっていなかった大正時代、開聞岳の噴火でできた地層によって縄文土器が弥生土器より古いことが分かったことを学んだ。
【縄文を学ぶ-3】で鹿児島県の「上野原遺跡」が、早期の代表的な遺跡で、約9,500年前に「ムラ」がつくられていたことを学んだ。
【縄文を学ぶ-13】で熊本県の「曽畑貝塚」では、約5500年前、前期に使われていた土器に「曽畑式土器」の名がつけられていて、曽畑式土器が奄美から沖縄まで広く発見されていることを学んだ。
そして【縄文を学ぶ-14】で佐賀県の「菜畑遺跡」が、約2600年前、晩期の代表的遺跡で日本稲作発祥地であることを学んだ。
九州でもまだまだ縄文時代を学べそうだ。