鉄卓のブログ「きままに」

「写真」「ウォーキング」「旅」「縄文」をきままに楽しく。
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「亀蛇」に会う【JR九州八代駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-26】

2016-11-29 | JR九州ウォーキング
2016年11月23日(水)


(今日のマップ)

JR九州ウォーキング八代駅コースに参加。

三里木駅から熊本駅乗換えて1時間5分で八代駅に着く。
八代の11月23日は「妙見祭」の日。祭りは人出が多いので二の足を踏む。それで祭りの日に八代に降りたのは初めて。

ホームでは日本製紙工場に壁に書かれた「妙見祭り」の巨大な絵がいつも出迎える。


(日本製紙工場)

妙見祭の「妙見宮祭礼神幸行列」は「長崎諏訪神社おくんち」、「福岡筥崎宮放生会」とともに九州三大祭りといわれ、23日は、獅子、奴、甲冑武者、神輿、笠鉾、亀蛇、飾馬など、長さ約1Kmの行列になる。塩屋八幡宮から本町通り、八代駅前、八代神社(妙見宮)、砥崎の河原、中宮跡まで場所場所で演舞をしながら行列は行く。

2011(平成23)年、重要無形民俗文化財に指定され、今年、博多祇園山笠、戸畑祇園大山笠、唐津くんちの曳山、日田祇園の曳山など全国の「山・鉾・屋台行事」33件とともにユネスコ無形文化遺産登録をめざしている。

ウォーキングの受けつけのある駅前は多くの人出でに賑わっている。飾馬の馬追いがあっていて、しばらく見学。迫力に圧倒される。馬追いの前後には付き人の人たちが飴などを観客席に投げ入れる。私は捕れなかった。


(飾馬:頭に飾り物をつけている)


(飾馬の馬追い)


(飾馬の馬追い)


(飾馬の馬追い)

駅前を後にして、水無川親水公園内を歩き、御霊神社に寄り、妙見宮参道へ。「妙見宮」は明治初めまでの名で、1871(明治4)年、社名は「八代神社」となっている。しかし、今でも妙見宮あるいは妙見さんの名で親しまれている。「妙見祭」も私の耳や目には「妙見さんのおまつり」が馴染んでいる。


(肥薩おれんじ鉄道八代駅)


(水無川)


(水無川親水公園)


(御霊神社)

参道には出店が立ち並び、人出も多い。人をかきわけ、かきわけ進む感じで歩く。妙見宮横の宮地小学校グランドには、笠鉾、亀蛇、木馬籠が展示されている。


(球磨川のあゆも売っていた)


(笠鉾:中央の柱一本で各部材を支えている。)


(笠鉾:旧城下の町から9基の山車が出される。)


(木馬:神と木でできた作り物の中に子供が入って歩く。)

亀蛇(きだ)は「ガメ」の愛称で親しまれている。亀と蛇が合体した想像上の動物で、妙見神が亀蛇に乗って海を渡ってきたという伝説を元にして作られている。妙見祭の人気者だ。亀蛇のストラップを買ったら、売り手の人たちが「シャンシャンシャン」と手拍子をしてくれる。


(亀蛇)


(亀蛇のストラップを買った。)


(手拍子をしてもらえる)

妙見宮は並んでいる人が大勢なので、砥崎の河原へと向かう。河原の階段は、すでに場所取りも終わっていて、人もいっぱい。一番前はたくさんのカメラマンが陣取っている。しばらくは立って演武を待っていたが、獅子と花奴の最初だけ見て次へと進んだ。ここまで何も食べてなかったのでお腹が空いて、疲れてもきた。もう少し我慢していれば亀蛇や馬追いも見れたのだが・・・。


(妙見宮は人でいっぱい)


(妙見宮に入る飾馬)


(砥崎の河原)


(獅子の演舞:獅子舞は八代の商人桜屋勘七が長崎で観た獅子舞に感銘を受けて始めたといわれている。)


(獅子の演舞)


(奴の演舞:殿様のお供で江戸へ行った家来が覚えてきたのが始まりといわれている。)

水無川沿いを妙見中宮跡まで歩く。川沿いは「水無川ホタルの里親水公園」になっていて澄んだ水が流れている。


(水無川)


(水無川)


(中宮跡)

折り返して、「懐良親王墓公園」に寄る。懐良(かねなが・かねよし)親王は後醍醐天皇の皇子。醍醐天皇の南朝と、足利尊氏の北朝の二つに分かれた南北朝時代に、南朝の征西大将軍に任じられ九州に入った。その後、征西大将軍後継の良成親王とともに菊池や八代に征西府を置き北朝と戦う。熊本の北部を治めていた菊池氏、南部を治めていた名和氏は征西大将軍を助け南朝側で戦った。懐良親王は筑後の矢部で亡くなったと伝えられているが、宮内庁よりここが墓所と指定されている。


(懐良親王墓公園)

後醍醐天皇より地頭職に任ぜられ八代を治めていた名和氏が築いたのが山城「古麓城」で、三代の八代城の最初の城になる。二つ目は小西行長が築いた「麦島城」、三つ目は加藤忠広の時代に家臣・加藤正方が築いて、今も城郭が残っている「松江城」になる。

古麓城は妙見宮の近くにあり一帯は門前町と城下町で賑わった。麦島城と松江城は当時の海岸沿いに建てられた。江戸時代になり一国一城令が出た後も、肥後細川藩の八代城(松江城)は取り壊されず、細川家家老の松井家が代々城代を務めた。

妙見宮の横を通り、薩摩街道を歩いて「東片自然公園」へ。777段の石段を上れば八代が一望できるはずだが、上るのは諦めた。14時ごろだがまだお昼を食べていない。石段の下にいた中学生位の男の子に「何回上った。」と聞いたら「2回。」という答えだった。まだ上りそうだった。


(道沿いで)


(道沿いのお宮)


(道沿いで)


(道沿いで)


(みかん畑)


(東片自然公園)


(777段の階段の上り口)

後は、ゴール新八代駅へ向かうのみ。駅近くの「八代よかとこ物産館」に寄って、生姜菓子を買う。ゴールではスタンプ3個押してもらう。


(八代よかとこ物産館で)


(八代よかとこ物産館横にある「松中信彦スポーツミュジアム」)


(新八代駅)


(新八代駅)

先ほど買った生姜菓子を駅に着いて食べた。少しだけ生姜の味がするお菓子と思ったら違った。生姜の苦手な人は食べられないが、生姜好きははまる味だ。少しだけお腹を満たし今日の2つのウォーキングを終える。

「にんじん畑」に会う【JR九州三里木駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-25】

2016-11-27 | JR九州ウォーキング
2016年11月23日(水)


(今日のマップ)

JR九州ウォーキング三里木駅コースに参加。

前日寝る前に、明日は三里木駅何時着の列車で行くか調べる。8時15分着は、超満員になるのではと思い、少し早いけど一つ前の7時53分着で行くことにして目覚ましをかけて寝る。

翌日目覚ましで起きて、支度して駅へ。列車に乗ったら、もう満員。立っている人もいる。子供連れもちらほら。三里木駅ではたくさんの人が降りた。お知り合いも何人か。狭い駅前で受付時間まで待つのは大変だと思ったら、JRさんは心得ていて、8時前でも受付は始めておられた。

私もスムーズに受付を終えて、歩道橋を渡って駅の裏に出てスタート。


(三里木駅)

直ぐに、富士フィルムの熊本工場がある。ここでは、液晶ディスプレイの材料である「フジタック」を製造している。技術的な事はわからないが、最先端の工場だと思う。

熊本の豊富で綺麗な地下水を求めて、ICなど精密な製品を作る工場は多い。熊本地震では、少しの誤差も許されない製品を作っている機械装置は大きな被害を受けた。

その中で、富士フィルム熊本工場は早く復旧した工場だったと記憶している。東北地震を受けて、さまざまな対策を立てていて、それが役に立ったと、そんな新聞記事があったと思う。


(富士フィルムの工場内)


(富士フィルム工場とにんじん畑)

富士フィルムの工場を過ぎて、しばらく歩くと、「山内本店味噌醤油資料館」に着く。マップには8時30分開館とあるが、ここも早くから開けられて、お味噌汁のサービスがある。山内本店の「無添加 まぼろしの味噌」はやさしい味で好きだ。


(道沿いで)


(山内本店で、すみませんこんな写りで。)

山内本店を出て、またしばらく歩いて右へ曲がると「鉄砲小路」に出る。祝日は長い通りに日の丸の旗が立ち並ぶ。


(にんじん畑)


(鉄砲小路)

鉄砲小路の名は、鉄砲小路は、1635(寛永12)年頃、肥後藩の初代藩主細川忠利が、鉄砲集を配置したことが名前の由来となっている。
平成元年に熊本県の「第一回景観賞」を受賞している。


(鉄砲小路)


(鉄砲小路)


(鉄砲小路)


(鉄砲小路)

鉄砲小路を歩いていると蘇古鶴神社に着く。名前の由来は、細川忠利が鷹狩りでこの地を訪れたとき、鶴が二羽(そこつ鶴)舞い降りてきたので、将来にわたり社号を阿蘇の蘇の字を鶴の上にかぶせて「蘇古鶴宮」と申し伝えたとのこと。


(蘇古鶴神社)


(蘇古鶴神社)


(道沿いから)

神社から少し歩いて、「眞弓農園」では「にんじんジュース」のおもてなしをいただく。甘くてうまい。子供は最初に美味しいにんじんを食べさせたら、にんじん好きになると思う。にんじんは甘い。

引きかえし、総合交流ターミナル「さんふれあ」に向かう。さんふれあではスタンプラリーの抽選でにんじんをいただく。


(道沿いで)


(道沿いで)


(にんじん畑)


(さんふれあ横のグランド)


(さんふれあ)


(スタンプラリーの抽選)


(スタンプラリーの賞品)

以前参加した時は、にんじんの袋詰め100円に挑戦したが、今日は、まだ時間が早く準備中だったので、諦めて駅へ向かう。


(発動機展示運転会があっていた)


(富士フィルム工場)

駅でスタンプ3個押してもらって、ホームでまたお会いしたウォーキング仲間の皆さんたちと2つ目へ。


(三里木駅)

紅葉の竈門神社に行った。

2016-11-27 | 
2016年11月26日(土)

 大宰府にある、宝満宮竈門神社(ほうまんぐうかまどじんじゃ)に行きました。
 
 玉依姫命を主 祭神にお祀りする神社で、 「縁結び・方除け・厄除け」の神様ですが、紅葉で有名でこの季節は多くの参拝客が訪れます。

 西鉄太宰府駅の福岡銀行前からコミュニティバス「まほろば号」内山行に乗って100円です。




























たく「紅葉」に会う【JR九州多久駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-24】

2016-11-22 | JR九州ウォーキング
2016年11月20日(日)


(今日のマップ)

JR九州ウォーキング多久駅コースに参加。

佐賀駅で唐津行き乗換え、長崎本線の鍋島、久保田の各駅から唐津線に入り小城駅、東多久駅、中多久駅に停車し多久駅に着く。唐津線で通過するときに何となく気になっていた多久駅。降りるのは初めてだ。


(多久駅)


(多久駅)

多久市は人口2万人弱。佐賀県のほぼ中央部に位置し、四方を山に囲まれた盆地の町で、1953(昭和29)年、北多久町、東多久村、南多久村、多久村、西多久村の五町村の合併により多久市になっている。

車窓からも人口がそれほど多いとは思われぬ市に「多久」の名のつく駅が3つもある。調べると、多久駅と東多久駅は明治時代からの駅で、中多久駅は昭和39年の開業のようだ。

多久駅の住所は北多久町で、東多久駅は東多久町。合併時は北多久町が唯一の「町」で、他は「村」なので合併前より一番大きな地区だったのだろう。それで駅名も多久駅になった。当時の東多久村に出来た駅は東多久駅。合併後に出来たか中多久駅は、駅周辺が住宅街になり、市役所なども近くにあるので「中」がついた駅になったのだろう。調べているうちにそんなことを思った。

スタートし、しばらくは田園風景の中を歩く。


(道沿いで)


(田園風景の中を歩く)


(道沿いで)


(田園風景の中を歩く)

大きな通りに出ると、行と帰りが同じコースになっていた。もう帰りの人たちと会う。孔子園製茶でお茶の振舞いをいただいて、高速道長崎自動車道の下をくぐり、右手に曲って、行だけのコースになる。


(もう帰りの人も)


(高速道路付近の紅葉)


(歩く)


(椋ノ瀬橋から)

曲がって、曲がって、藩校弘道館で明治政府で活躍した大隈重信・副島種臣・江藤新平などの人材を育てた「草場佩川(くさばはいせん)生誕地碑」へ。


(草場佩川生誕地碑)

そこから、また、曲がって、曲がって、曲がったところの多久まんじゅう「秀島天満堂」で黒糖のあん入と甘酒のあんなし饅頭を買ってリュックに入れる。


(秀島天満堂)


(道沿いで)

またまた、曲がって、曲がって、曲がって「西渓公園」に着いた。正面に立派な銅像がある。杵島炭鉱を創設し炭鉱王といわれた「高取伊好」の立像で、公園は高取伊好が建設し号の「西渓」が公園名になっている。四季折々楽しめるようになっているようだ。紅葉祭りで人でも多い。出店もたくさん出ていた。


(西渓公園)


(西渓公園)


(西渓公園)


(西渓公園)


(西渓公園)


(西渓公園)

隣りの多久神社も紅葉に彩られていた。


(多久神社)


(多久神社)


(多久神社)


(多久神社)


(多久神社)


(多久神社)

多久神社を出て歩いていると、歩道に多久市の歴史が紹介されている。


(歩く)


(歴史の紹介)


(歴史の紹介)

原始は、「鬼の鼻山の山麓より産出するサヌカイトと呼ばれる硬質の安山岩を加工して槍先状をした尖頭器を制作した石器工房遺跡がこの一帯には群れをなして存在します。」などが書かれている。三年山遺跡や茶園原遺跡が有名。

古代は、「多久の地名は「和名抄」に小城郡高来郷、「延喜式」には高来駅が記されており「高来」と書いて、「たく」と呼んでいたものと考えられます。」などが書かれている。

中世は、「建久年間(1190-1197)には、鎌倉幕府の御家人多久太郎宗直が武功によって源頼朝より肥前国多久の地を与えられて下向し、下多久の庄に館を築いたと伝えられています。」などが書かれている。

近世は、「(有田焼の開祖李三平は)初め多久領内の唐人古場・高麗谷(皿屋)・大山に窯を築きましたが、良質の土がなく成功しませんでした。」などが書かれている。

もう一つの近世には、東原庠舎の初代教授である「川浪自安」、頼山陽をおどろかせた詩文や人柄で名声を得た「石井鶴山」、「草場佩川」が紹介されている。

近代は、明治時代の刑法の起草者としてしられている「鶴田皓」、明治17年森鷗外らとともにドイツに留学した物理学の先駆者「飯盛挺造」、日本最初の工学博士で電気学会の創設者「志田林三郎」が紹介されている。

近代もう一つには「多久にとって石炭は米麦に次ぐ重要な産業でした。早くから採掘され、寛延元年(1748)以後は記録も現存しています。(中略)土着の経営者高取伊好は初め東松浦地方を開発し、刻苦の末、明治42年杵島炭鉱操業に成功地元大手の名をあげました。」などが書かれている。

「西渓公園」から「多久聖廟」に向かって歩いていると、並んでいる順は書いたのとは逆で、近代から順に歴史を下って読むことになる。

多久聖廟に行く前に物産館に寄った。お昼前だったが中にある「麺工房こうき」でマップのグルメ情報にある「肉味噌うどん」を注文した。出てくるまでかなり退屈したが、出てきたのは「肉・味噌うどん」ではなく、「肉味噌・うどん」だった。肉味噌のみそが徐々にうどんの汁の中に溶けて、味噌味にもなっていく。野菜も入っていて、うどんも軟らかめの九州のうどんで一気に食べて、汗ばんでしまった。


(ひまわりが咲いている)


(ひまわりが咲いている)


(肉味噌うどん)

食べ終わって、直ぐ横の公園内にある「多久聖廟」に向かう。

多久聖廟は、1708(宝永5)年、多久邑を治めていた多久茂文が孔子像を安置し、領民に「敬」の心を培わせるために建てた孔子廟で、昭和8年国指定重要文化財に指定されている。創建以来続いている春秋2回の釈菜は祭官が深衣という中国の儒者の服を着て、中国式に行われている。


(多久聖廟)

同じ公園内にある東原庠舎(とうげんしょうしゃ)も多久茂文茂文が起こした。朱子学の学校で、明治になるまで、漢学や和学、武芸などの文武両道を教えた。平成3年に再建され、学校などのクラブ活動の研修場として利用されている。


(公園内)


(東原庠舎)


(東原庠舎)


(公園内)


(公園内)


(孔子像)

後は、ゴール多久駅に向かって帰る。専称寺を過ぎると、行と帰りが同じコースに出る。朝、曲がってその道に来た地点も曲がらずに真っ直ぐに歩く。


(道沿いで)


(道沿いで)


(専称寺で)


(専称寺で)


(何だろう)


(行きにお茶をいただいた孔子園製茶)


(道沿いで)


(田園風景)

しばらく歩いて、右に曲がったところで足湯に浸っているウォーカーがいて、声をかけれた。福祉の増進やまちづくりの推進、そして青少年の健全育成を図る活動をしている地域共生ステーション「のんびらぁと」が運営している、「ほのぼの横丁」の敷地内道路沿いにある足湯。温泉かどうかは分からないが、ぬるぬるして気持ちよかった。


(足湯)

農産物直売所「たくさんかん」は少しだけ覗いて、多久駅にゴールした。次の佐賀行列車が出るまでには50分ほどの時間がある。


(たくさんかん)

多久駅は立派な駅舎だが、正式には多久市まちづくり交流センター「あいぱれっと」で、駅は業務委託駅のようだ。改札口では物販もされている。

あいぱれっと内の休憩スペースで、秀島天満堂で買った饅頭を食べる。少しだけ後悔。饅頭を買ってすぐの西渓公園で食べようと思ったが、あまりお腹も空いていなかったので、食べずにここまで持って来た。温かいうちに食べた方がより美味しかっただろうと思いながら食べ終わる。食後は読書。どうもビールを飲む雰囲気ではない。


(秀島天満堂のお饅頭)

列車待とうとホームに行ったら、最後も紅葉を入れて撮れた。今日のウォーキングを終える。


(帰りの佐賀行き列車)

カッパの「まるぶん」書店が再開【熊本の話題】

2016-11-19 | 熊本の話題
2016年11月18日(金)

 熊本地震後閉店していたカッパが出迎える書店、熊本市上通りにある「金龍堂まるぶん店」が11月18日に再開されました。
 
 早速、行きました。
 
 文庫本のカバーは昔と変わりません。

 閉店している間は、上通りを歩いてもなんとなく落ち着きませんでしたが、これでようやく上通りを歩いているという実感が湧きます。

 よかった。よかった。









「熊本三セク鉄道応援きっぷ」販売されてます。【熊本の話題】

2016-11-19 | 熊本の話題
2016年11月19日(土)


(熊本三セク鉄道応援きっぷ)


 熊本には「肥薩おれんじ鉄道」「南阿蘇鉄道」「くま川鉄道」と3つの第三セクターの鉄道があります。

 国や地方公共団体を第一セクター、民間企業を第二セクターといい、それぞれが出資した事業体を第三セクターといいます。

 JR各社は、以前は国有鉄道で国鉄と呼ばれていました。その国鉄の赤字路線廃止計画や民営化、新幹線の建設などで赤字路線の存続が課題となり、地方では第三セクターの鉄道会社が発足しました。

 元々が赤字路線なので、経営は厳しいものがありますが、熊本の三セク鉄道は、熊本地震で「南阿蘇鉄道」は大きな被害を受け、全線復旧の時期は決まっていません。「肥薩おれんじ鉄道」「くま川鉄道」は観光客減になっています。

 そこで三社共通で利用できる乗車券の発売が計画され「熊本三セク鉄道応援きっぷ」が販売されています。3,000円です。

 有効期限は2017年9月30日までですが、南阿蘇鉄道は全線復旧後、3ヶ月間有効となっています。

 「肥薩おれんじ鉄道」は熊本県内の駅、八代-袋間のみ有効です。

 11月12日の新水俣駅ウォーキングに参加のため「肥薩おれんじ鉄道」を利用した時、肥薩おれんじ鉄道八代駅できっぷを購入しました。この日は1乗車300円で乗れたので、この切符は利用しませんでした。13日の人吉駅ウォーキングでも「くま川鉄道」で湯前駅まで行って帰るとなると帰宅が遅くなりそうなので利用しませんでした。

 いつ行こうかな。

 各鉄道会社の窓口で販売していますが、通信販売もしています。詳しくは各社のホームページを見てください。

 ◆「肥薩おれんじ鉄道」
 http://www.hs-orange.com/
 ◆「南阿蘇鉄道」
 http://www.mt-torokko.com/
 ◆「くま川鉄道」
 http://www.kumagawa-rail.com/


(「肥薩おれんじ鉄道」新水俣駅に入る列車:2013年4月7日撮影)


(「南阿蘇鉄道」阿蘇白川駅:2011年4月14日撮影)


(「くま川鉄道」湯前駅:2015年7月23日撮影)

「球磨焼酎」に会う【JR九州人吉駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-23】

2016-11-17 | JR九州ウォーキング
2016年11月13日(日)



(今日のマップ)

JR九州ウォーキング人吉駅コースに参加。

熊本駅発7時20分人吉駅行快速に乗る。車両は古い。

今年4月の熊本地震までは、人吉-八代-熊本-阿蘇-大分-別府を往復する「九州横断特急」が運行されていた。地震で豊肥線の肥後大津-阿蘇間が不通となって九州横断特急も運休している。その代りに人吉-熊本間に快速列車が運行されている。熊本から新八代、八代、坂本、一勝地、渡の各駅に止まり、1時間30分程で人吉駅に着く。

快速に乗らない場合は、熊本駅から八代駅までの普通列車に乗り(熊本-八代間には熊本-人吉間の快速以外の快速列車は走っていない。)、八代駅から人吉駅行の普通列車に乗り換える。時間は2時間強かかる。

乗り心地さえ無視すれば、特急料金がいらない快速列車に乗れる今の方が人吉行には便利がいい。熊本駅でほぼ満席になった。八代駅で乗り換えることも無く列車は人吉へと向かう。

肥薩オレンジ鉄道の球磨川鉄橋が見えると、列車は球磨川沿いを上流に向かって走る。朝早い時間はいつも霧の中だが、今日も霧の中を走る。


(球磨川に架かる肥薩おれんじ鉄道の鉄橋。昨日は渡った。)


(球磨川)


(球磨川)


(球磨川)


(坂本駅)


(坂本駅で熊本行の快速と会う。)


(球磨川)


(球磨川)

球磨川は、列車の進む方向から右に見えるが、鎌瀬駅を過ぎると左に変わる。乗客が少ない時は席を移動して写真を撮れるが、今日は満席で移動できない。球磨川の写真を撮るのは諦める。

止まる駅が少ないので、いつもの普通列車で行くときに比べたら、あっという間に人吉駅に着いた。


(人吉駅)

受付を済ませてスタート。しばらく歩いて人吉藩時代、鍛冶職人が集まり最大66軒の刃物や銃、農具の店が集まっていた鍛冶屋町通りへ。現在は石畳を中心に昔ながらの街並みが作られている。茶の蔵の立山商店、みそ・しょうゆ蔵の釜田醸造所を見学。


(天満宮)


(鍛冶屋町案内)


(美容院KOMACHI)


(茶の蔵・立山商店)


(茶の蔵・立山商店中庭)


(茶の蔵・立山商店)


(みそ・しょうゆ蔵・釜田醸造所)


(みそ・しょうゆ蔵・釜田醸造所ではお茶と試食のサービス)


(鍛冶蔵)


(西洋食堂)

球磨川を渡る手前で、若宮神社に寄る。


(若宮神社)


(若宮神社で)

若宮神社から球磨川沿いに出る。


(球磨川対岸から人吉城址)


(球磨川対岸から人吉城址)

水ノ手橋を渡って、人吉城址へ。人吉城址内はコースには入っていないが、紅葉も見られるからだろうか意外と多くのウォーカーが訪れていた。


(水ノ手橋)


(大橋)


(間米蔵跡:礎石は間村の年貢米を納めたと考えられる蔵跡)


(水ノ手門跡:球磨川に面して築かれた人吉城内に入る4ヶ所の門の一つ)


(人吉城址の紅葉)


(人吉城址の紅葉)


(人吉城址の紅葉)

一番高い所、本丸跡へと上る。本丸には天守は建てられず、護摩堂が建てられた。護摩堂跡の礎石群が残っている。木が生い茂り視界はあまり良くない。


(御下門跡:「下の御門」とも呼ばれ、本丸・二の丸・三の丸への唯一の登城口に置かれた門)


(本丸への階段)


(本丸跡)


(本丸からの眺望)

下っていると、昨日も会ったが熊本コースでよくお会いする熊本の女性の方に会った。「一番上まで行ってきましたよ。」といったら、「何年か前に行ったけどね。何も見えないもんね。」と。後でまたお会いしたら、「上まで行ってきたよ。」とお話してくれた。


(二の丸からの眺望)


(下る)


(下る)


(犬童球渓の碑:人吉市出身の詩人、「旅愁」「故郷の廃家」など)


(武者返し:上端にはねだし工法による「武者返し」と呼ばれる突出部がある。)

人吉城跡から道を渡ったところのふるさと歴史の広場では人吉産業祭が開催中で、野菜の野菜の品評会や多くの出店が出ている。まだ、時間も早いしお腹も空いてないので、さっと見て、同じ広場内にある人吉歴史館へ入る。


(人吉産業祭)


(人吉産業祭)

人吉は鎌倉時代初期から明治維新まで約700年間、相良家が統治してきた。一つの地域を変わることなく統治したのはここだけだと思う。この間内部の抗争も絶えなかったようだが、外部からの侵略は防いできた。

人吉の通史を書いたものはあまり目にかかることが無い。人吉歴史館の説明文を写真に撮りたいが、撮影禁止となっている。

歴史館は藩の家老屋敷跡に建っているが、地下室も発見され公開されている。説明もしてもらった。

特別展では「免田式土器がつなぐクマモト」が開催されていた。免田式土器は、熊本県人吉市から少し東に行った球磨郡旧免田町(現あさぎり町)で発見された2000年前の弥生土器で、熊本県を中心に出土しているが、熊本以外にも広がっている。沖縄の県立博物館で見た時はビックリした。


(人吉歴史館)

歴史館を出たところで、ポケットのマップが無くなっているのに気がついた。マップは見ないで歩くことが多いので、まぁいいかと進む。

矢印と係りの人の案内で老神神社(おいがみじんじゃ)へ。霧島神社を勧請したと伝えられるが、創立年代は不明、とある。


(老神神社)


(老神神社)


(老神神社八角形の石灯篭)

次に訪れたのは、球磨焼酎の「繊月酒造」。人吉城は築城の時三日月の紋様の入った奇石が出土したので繊月城とも呼ばれた。

受付で名前を書いて、数人単位で蔵の中を案内してもらえる。撮影は禁止。案内が終わった後は試飲会場へ。7種類ほどの銘柄を飲み比べできる。うっ強い、と感じるものから優しいものまで。

今、売出し中は「川辺」と説明があった。ダムの建設反対で全国的にも話題になった川辺川の伏流水を使っているとのこと。その川辺川は国土交通省の水質調査でランクが一位の「最も良好」に10年連続選出されている。そのような川に建設省はダムを作ろうとしている。

写真に写し損ねているが、私にとっては「峰の露」の名前が懐かしい。小さい頃、親に頼まれ酒屋に使いに行って買っていたのが「峰の露」で、当時は酒屋に瓶を持参して1合とか2合とかの量り売りだった。

「繊月」を発売始めたのは昭和57年で、それまでは「峰の露」が主力商品だったと思う。会社名が「繊月」になったのは平成16年のようだ。

試飲をして、こころよい気持ちになったので、甕繊月、肴用に燻製豆腐やとうふのみそ漬などを買ってしまった。蔵元にとっては試飲大成功。


(繊月酒造)


(繊月酒造冑窯式蒸留器:江戸から明治にかけて使われた)


(繊月酒造試飲)

焼酎の産地名を使用できる基準は国税庁によって決められている。球磨焼酎は『米こうじ及び球磨川の伏流水である熊本県球磨郡又は同県人吉市の地下水(「球磨の地下水」)を原料として発酵させた一次もろみに米及び球磨の地下水を加えて、更に発酵させた二次もろみを熊本県球磨郡又は同県人吉市において単式蒸留機をもって蒸留し、かつ、容器詰めしたものでなければ「球磨」の産地を表示する地理的表示を使用してはならない。』と定められている。球磨焼酎の他、壱岐、琉球、薩摩も使用基準が定められている。

繊月を出て、直ぐに永国寺があったが、先に進む。永国寺はゆうれい寺として知られ、ゆうれいの掛軸がある。また、西南戦争では 西郷隆盛が本陣として滞在している。


(永国寺)

永国寺から少しまわり道をするコースになっていて、「相良路の湯おおが」の前では、女将さんと思われる方から、湧き出てくる温泉水を飲ませていただいた。あまり癖のないやさしい味だった。「美味しいですね。」といったら、ゆずを2個プレゼントしてくれた。


(「相良路の湯おおが」で温泉水)

大きい通りに戻って、人吉橋を渡る。朝から霧で見通しが良くなかったが、この頃には晴れ渡って、暑くなってきた。


(人吉橋から)

着いたのは、本殿や楼門などが国宝に指定されている「青井阿蘇神社」。楼門の写真を撮っていると年配の方から声をかけられた。うれしそうに「孫の七五三です。」私「七五三は自分の子どもの時よりも孫の時が嬉しかですもんね。」年配の方「お金はどんどん出て行きます。」と嬉しそうに話していただいた。そしてポケットから人吉産業祭のパンフレットを出して、「美味しいものがいろいろ出てますよ。」と宣伝された。お話では人吉市の東にある錦町からこられていた。農業をされていて人吉産業祭にも関わりを持っておられたかもしれない。


(青井阿蘇神社)


(青井阿蘇神社)


(青井阿蘇神社:七五三でいっぱい)

青井阿蘇神社から先に進む矢印がハッキリせずに道を迷われていた方が多くいた。JRの係員も配置されていなかった。人出が多いところでは係員を配置していたが良いと思う。

駅前の人吉鉄道ミュジアム「MOZOCAステーション868」へ向かう。少し回り道をしていくコースになっていたが、青井阿蘇神社から駅前に出て行くコースであれば。道もはっきりしていて迷う人もいなかったのではなかろうか。

MOZOCAに着く少し前に、SL人吉号が人吉駅に入った。MOZOCAの展望台から見ている人も多かった。

MOZOCAはどちらかといえば子供向けの施設。ミニトレインなどで遊べる。


(MOZOCA)


(MOZOCAミニトレイン)


(MOZOCAミニトレイン)


(MOZOCAの展望台から人吉駅)


(MOZOCAのレイルバイク:後方は旧人吉機関区石造庫)

人吉駅にゴールして、マップを失くしたので下さい、とお願いしたら、マップはコピーに変わっていた。予想よりも多くの参加者があったようだ。失くしたと思ったマップは家に帰ったらリュックの中から出てきた。

駅前の広場でもいろんな催しがあっていた。ここでも焼酎の試飲があったので、またまたいただいた。紅茶やクッキーなどの無料サービスもいただいた。お饅頭、弁当、煮しめなどの販売もされていた。


(駅前広場からくり時計の下で催し物)


(駅前でも球磨焼酎の試飲)

催しを楽しんだ後、駅の裏へ。ホームから見えるところに大村横穴群がある。高さ30m程の垂直な崖に、今から約1400年前、7世紀初めに造られた古代人の墓群。現在は27基程遺っている。


(大村横穴群)

少し歩いて、JRの人吉鉄道事業部へ。旧人吉機関区の石造庫、今もSLの反転に使われている転車台、SL館がある。石造庫はMOZOCAやホームからも見れる。SL館には当時使われていたさまざまなものが展示してある。石造庫に入庫しているSLの見学は事前に予約がいるようだ。マップに場所が書いてあればゴール後に多くの人が訪れたと思う。数年前の人吉駅ウォーキングに参加した時は、ここもコースに入っていた。


(SL人吉号とMOZOCA)


(SL館)


(SL館)

駅に戻って、人吉駅13時30分発熊本駅行の快速列車に乗るためにすでに多くの人が乗車口に並んでいる。列車がホームに入ってきて、朝来た時とは反対側の窓側に座ったが、列車が進む方向とは逆向きの席にしか座れなかった。前の席に座ったのは、朝来た時にやはり前に坐っていた2人連れの女性の方々だった。その時は私が進行方向に向かっての席だった。見渡すと、朝同じ列車だった人も多いようだ。マップには、今日のコースは距離6km、所要時間約2時間とあるけど、朝は9時前に着いたので、4時間半程人吉にいたことになる。今日の参加者は皆さん人吉をいっぱい楽しまれたようだ。このレポートも長文になったが、まだまだ書き足りない思いがある。


(吉松駅へ出発するいさぶろう・しんぺい号)


(人吉とお別れ)

快速列車は人吉駅から2つ目の渡駅に止まる。そこで子ども2人連れの人が乗ってきた。列車はほぼ満員だったけど私の横の席は空いている。席を譲って、空いている通路側の席に座った。球磨焼酎の試飲を重ねてきたせいか、うつらうつらなって今日のウォーキングを終える。

「不知火海」に会う【JR九州新水俣駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-22】

2016-11-15 | JR九州ウォーキング
2016年11月12日(土)


(今日のマップ)

JR九州ウォーキング新水俣駅コースに参加。

八代駅でJR鹿児島本線から「肥薩おれんじ鉄道」に乗り換える。
2011年3月九州新幹線は全線開業したが、2004年に新八代 - 鹿児島中央間が先行して運行を始めていた。そのとき、鹿児島本線の熊本県の八代駅~鹿児島県の川内駅間がJR九州から鹿児島県、熊本県、それに沿線の自治体が出資した第三セクター「肥薩おれんじ鉄道」に移行した。熊本の肥後、鹿児島の薩摩そして柑橘類生産が盛んな沿線を走ることから鉄道名はつけられている。貨物列車が走る路線なのでJR貨物も出資している。

今日は、距離に関係なく1回の乗車が300円。通常運賃は1250円。ただし、熊本県内の駅間だけに限られている。おそらく、熊本県の事業なのだろう。二つの県にまたがる第三セクターの運営は日頃からいろいろと大変だろうと思う。


(今日は1回乗車300円)


(肥薩おれんじ鉄道)

運転台の横、車両の真ん前で写真を撮っていたら、運転手さんがワイパーで窓を拭いてくれた。
列車は直ぐに八代海沿いを走る。乗客の方が自分の座席から離れて、窓際に立って海を眺め「景色いいですね。」と話しかけてこられた。「夕方はもっといいですよ。」とお話したら、想像されている様子だった。


(車窓の不知火海)


(車窓の不知火海)


(車窓の不知火海)


(車窓の不知火海)


(車窓の不知火海)

佐敷を過ぎると海が見えなくなる。そして新幹線の高架と二度ほど会う。新幹線も曲がりくねって走っているのかなと思うが、新幹線はほぼ直線でおれんじ鉄道の方が曲りくねって走っている。そんなことを考えていると、新幹線と並行になり新水俣駅に着く。おれんじ鉄道の駅はホームだけで、駅舎も無く、駅員さんもいない。


(車窓)


(おれんじ鉄道の観光列車「おれんじ食堂」。線路は複線の所も単線の所もある。)


(新幹線の高架)


(新水俣駅)

新幹線の駅舎内で受付をすませ、ウォーキングのスタート。
坂を下って、「徳富蘇峰記念館」に着く。蘇峰は1863(文久3)年生まれ。明治から昭和にかけてのジャーナリスト、評論家として活躍した。小説「不如帰」で有名な徳富蘆花は弟。


(徳富蘇峰記念館)

蘇峰記念館は旧水俣市立図書館で、蘇峰の父・徳富一敬の雅号『淇水』から淇水文庫と呼ばれていた。昭和58年、新たな市立図書館が設立され移転したのに伴い、装いを新たに記念館として再出発している。生家は別の場所である。大江義塾で使用した教科書や・出欠簿、国民新聞、書などが展示してある。蘇峰や蘆花の出版本も展示されている。



(入口の蘇峰・蘆花兄弟の写真)


(蘇峰の出世作の原稿)

父・徳富一敬は横井小楠の高弟で、明治維新後、熊本の改革に貢献した。蘇峰は、その頃から住んでいた大江村(現在は熊本市)で「大江義塾」を開校した。1882 (明治15) 年、20歳の頃である。

11月3日のJR九州ウォーキングで荒尾市の「宮崎兄弟生家・記念館」を訪れたが、末弟で孫文を支援した「宮崎滔天」は16歳のとき、「大江義塾」の門を叩いた。

「大江義塾」の自由闊達で、自由放任の教育を、滔天は自由民権の理想郷にも思えたが、次第に幻滅を感じるようになる。滔天の長兄で自由民権の運動家宮崎八郎は西南戦争で薩軍に参加し官軍の攻撃で戦死した。父は残った兄弟に「官にはなるな。」と教えた。純粋な運動家を目指した滔天にとって、大江義塾は「名利の欲」の集まりに思えるようになって半年で退塾する。

蘇峰は1886(明治19)年に閉鎖し上京。その後、山形有朋や桂太郎など政府や政党、軍の要人たちと関係を作って行きながら、「国民新聞」を発行し、ジャーナリスト、評論家、思想家としての地位を築いて、日清、日露、第2次大戦の世論形成にも貢献して行く。戦後はA級戦犯容疑者に指名されるが裁判にかけられることはなかった。蘇峰の思想は、その振幅が大きく行動も多岐にわたって、全体像がつかみにくいともいわれている。

大江義塾を去った滔天は、欧米からのアジア開放をめざして、孫文たちの支援を続け、辛亥革命で清朝を倒し、共和制国家をめざす政府を樹立する。蘇峰は、共和制を目指した辛亥革命がわが国に影響を及ぼさないか危惧を表明している。

熊本県の北端・荒尾に生まれた滔天、南端・水俣に生まれた蘇峰、少年期に自由民権運動の中にいた二人はそれぞれの道を歩む。

意識されていたかどうかは分からないが、11月の3日と12日に、二人の記念館を巡るウォーキングは味のある企画であったと思う。

熊本市大江にある「大江義塾」の建物は今も残り、「徳富記念館」が併設されている。そこの庭に蘇峰が敬愛していた新島襄がアメリカから持ってきて、もう何代目かになるカタルパの木がある。そこから分けてもらったカタルパの木がこの蘇峰記念館の庭に植わっている。


(カタルパの木)


(徳富蘇峰像)

蘇峰記念館を後にして、水俣と亀との関係は???と思いながら水俣川沿いを歩くと、「奈良時代この地から時の朝廷にめでたい白亀が献上されました。光仁天皇は大変よろこばれ、肥後の国の税を免除し、元号を「宝亀」と改められたと云う故事があります。」との説明があった。


(水俣川沿い歩道)


(水俣川沿い歩道)


(水俣川沿い歩道)


(水俣川沿い歩道)


(水俣川沿い歩道)


(水俣川沿い歩道)

しはらく歩いて、上りにかかる。2つほど曲がりながら上ると、先に歩いている人が沈んでいく、とんとん峠。


(上り道で)


(上り道で)


(上り道で)


(上り道で)


(上り道で)


(上り道から)


(とんとん峠)

峠を少しだけ下ったら不知火海がぅわーっと目の前に。しばし、見惚れる。


(不知火海)


(不知火海)

福田農場への道を上る。途中、「史跡踏鞴跡」の碑があったが、詳しいことは分からない。


(福田農場へ上る)


(福田農場へ上る)


(福田農場へ上る)


(福田農場へ上る)


(福田農場へ上る)

ようやく「湯の児スペイン村福田農場」に着く。お昼前だったがお腹すいたのでパンを買った。多目的スペース「バテオ」ではフラメンコがあっていたので甘夏ソフトクリームを食べながら観る。ここまで上ってきて汗をかいた体に甘夏の香りが口の中にひろがり冷たさが喉をうるおす、疲れも吹き飛ぶ。パンを食べようと思ったが、ここに来たらやはり「パエリア」を食べなきゃと思い直し、パンは夕食に持って帰った。後ゴールまでが3K程あるのでビールは諦める。


(バテオでフラメンコ)


(パン工房グラシアでパンを買う)


(やはりパエリア)


(この風景を観ながらパエリア)

しばらく写真を撮って廻る。


(スペイン村から)


(バレンシア館)


(セビリア館)


(パテオ館横)


(スペイン村から)

みかん畑の中を下る。


(みかん畑の中を下る)


(みかん畑の中を下る)


(みかん畑の中を下る)

途中、 高速道路の工事中のところも見えた。高速道路が延びてくると、「肥薩おれんじ鉄道」の経営環境もますます厳しくなるだろう。


(高速道路の工事中)

新水俣駅にゴール。


(新幹線が見えてきた)


(新水俣駅)


(新水俣駅裏から)

「肥薩おれんじ鉄道」で帰路。また、前に陣取って写真を撮っていると運転手さんがいろいろと話してくれた。


(肥薩おれんじ鉄道「新水俣駅」)


(帰りの車窓)


(帰りの車窓)


(帰りの車窓)

日奈久温泉駅で300円払って途中下車。山頭火が迎えてくれる。日奈久温泉は山頭火で町興しをしている。「九月は日奈久で山頭火」で九月には盛りだくさんのイベントが行われる。山頭火は「種田山頭火」。尾崎放哉と自由律俳句の代表。「分け入つても分け入つても青い山」「うしろすがたのしぐれてゆくか」「どうしようもない私が歩いている」などの句がある。


(日奈久温泉駅)


(日奈久温泉で)


(日奈久温泉広場)

日奈久温泉の湯に浸かり、あがって、ようやくビール。ほっと一息ついて、ちくわを買って日奈久温泉駅に戻り今日のウォーキングを終える。


(日奈久温泉駅)

「ヤマメ」に会う【JR九州夜明駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-21】

2016-11-11 | JR九州ウォーキング
2016年11月6日(日)


(今日のマップ)

JR九州ウォーキング夜明駅コースに参加。

九州新幹線久留米駅で、久大本線に乗り換える。「特急ゆふ1号」がウォーキング参加者の便利のために夜明駅に臨時停車するというので利用する。福岡県にある筑後大石駅から幾つかのトンネルをくぐって、大分県に入って最初の駅、日田市の夜明駅に到着。思ったほど、利用する人は少なかったようで、降りたのは数人だった。久大本線では久留米市の善導寺駅のコースが今日同じ日の開催だったので、そちらに参加する人が多かったかもしれない。


(久大本線の車窓、耳納連山)


(ゆふ1号)

夜明駅に降りたのは久しぶりたが今日のコースは初めて参加する。駅舎が新しくなっていた。日田彦山線と久大本線が合流する駅で、駅舎横に夜明の鐘が設置されている。これは、昭和30年代まで地元の小学校で始業のチャイムとして使用されていたものを地域振興のシンボルとして夜明振興協議会が設置したもので、日田杉を使用し、大分県特産の椎茸をイメージしたデザインとなっている。鐘は自由に鳴らすことができる。ということで、鐘を鳴らしてスタート。


(夜明駅)


(夜明駅の鐘)


(道沿いで)


(踏切から夜明駅、椎茸デザインの中に夜明けの鐘が入っている)

日田市の夜明・大鶴地区を歩く。昭和30年に当時の夜明村・大鶴村が日田市に併合されている。旧道を里山の風景や道沿いに咲いている草花を撮りながら進む。


(道沿いで)


(日田彦山線の列車)


(大肥川)


(大肥川で)


(田んぼ道)


(大肥川)


(道沿いで)


(稲刈り後の田んぼ)


(道沿いで)


(道沿いで)


(銀杏並木)


(道沿いで)


(道沿いで)

道は、日田彦山線とほぼ並行しているが線路と接近しているのは今山駅付近だけだった。


(今山駅)


(今山駅付近)

その今山駅を過ぎたところから線路を渡り、橋を渡って、ぐるりと回るコースになっていた。寄ったのは農事組合法人「大肥郷ふるさと農業振興会」の加工部「ももは工房」。おこわや饅頭など売ってあったが「野菜あられ」を買った。


(ももは工房)


(川の名前は?)


(稲刈り後の田んぼ)

旧道に戻り、途中、めだかの養殖をしている「日田天領めだか」に寄る。入り口で歩友のKさんご夫妻に会う。3日の大牟田駅コースでも会ったが、その時は久しぶりだった。不思議なもので、歩友の皆さんそれぞれと会うときは同じ方に続けて会うことが多い。今秋の前半はOさんご夫妻と続けてあった。
「日田天領めだか」は、日田市のホームページに、ふるさと納税の返礼品の一つとして掲載されている。


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(道沿いで)


(日田天領めだか)


(日田天領めだか)

里山の風景を楽しみながら歩いて「大鶴ふるさとまつり会場」に向かう。


(製材所・日田は杉の生産地)


(里山風景)


(里山風景)


(道沿いで)


(道沿いで)


(銀杏並木)


(道沿いで)


(道沿いで)


(川の合流地点、右は大分側、左は福岡側から)

会場ではイベントや地元の生産物が売られていたが、早めに次の目的地へ向かう。手に買ったものをぶら下げているウォーカーも多い。


(大鶴ふるさとまつり会場)


(大鶴ふるさとまつり会場)


(橋と鉄橋)


(道沿いで。ここは大分?福岡?)

どこが県境かは分からなかったが、福岡県の「東峰村秋まつり会場」に着く。ここでもイベントや地元の生産物が売られている。一番人気は「牛」のようで焼肉が出来るようになっていた。長い列が出来ていたので諦め、ぶらぶら眺めて、米粉のパン180円、鶏の炭火焼きは250円だったがスタート受付で200円のサービス券をいただいたので50円、やまめ400円を買った。


(東峰村秋まつり会場)


(祭り会場で買った米粉パン)

ビールは見まわしたけど、売ってあるところを見つけられなく、先ずはやまめ。もう、これは初めて。こんな美味しいヤマメは。骨から身は直ぐはなれる。甘味もあって、脂ものって、舌に乗った身は喉へとスーッと入っていく。川魚は塩を食べているような感じがするときもあるが、塩味も絶妙、魚の味を引き出してくれる。なりふり構わずかぶりつく。トレイに脂が落ちる。一気に食べてしまった。川魚がこんなに美味しいなんて、これだけでも、ここまで歩いてきた甲斐があった。


(ヤマメを買った)

不思議なもので、その後すぐにビールの文字が目に入る。さっそく買って、座る場所を探していたら、地元のおじさんから「ビールはどこ。」と聞かれた、「あそこ。」と教えた。次はビールと鶏。地鶏というと硬いイメージがあるが、これは柔らかいとはまた違う歯ごたえでさくっと噛める。脂ののりと旨味がじわーっと歯と舌にくる。もうたまりません。ビールで今食べた感触を洗い流す。そしてサクッ、ジワーッと。ビールで流す。そしてまたサクッ、ジワーッと・・・。ビールをおいしく飲むためにつまみがあるような時が多いが、今日は逆。主役は鶏、ビールは添え物。テーブルの陽が当たるところに坐って食べていたら、同じテーブルに坐っていた老夫婦のお婆さんから「暑いでしょう。も少し中に入ったら。」と勧められたけど、暑いのは吹っ飛ぶ。最近、こんな美味しい鶏を食べる機会は無い。またまた、大満足で、ゴール宝珠山駅へ向かった。


(鶏の炭火焼を買った)

宝珠山駅でひたひこの新しいスタンプを貰い、JRのスタンプも押してもらって、駅横広場の木の下でお祭り会場で買った米粉パンを食べる。米粉パンは何度か食べたことがあるけど、これが米粉パンか、という位の印象しかもっていなかった。今のパンはいろんな味がついていて年寄りにはくどい感じがするが、このパンは「これが米粉で作ったパンだよ、食べてみて。」と主張しているようなシンプルな味がする。もちもち感というのがどんなものかよく分からないが、その感じを知っている人は、もちもち感たっぷり、と表現するのではなかろうか、と思いながら食べた。これなら毎日でも大丈夫と感じる。あのヤマメと鶏を食べた後、木陰の下で、美味しいパンにも出逢えたなぁ。


(宝珠山駅へ)


(宝珠山駅)

食後は、県境の駅の探検。ホームに県境の標識があった。県境にさしかかった列車を撮りたかったけど、電柱があって難しかった。


(ホームの県境標識、向こうの木の下で米粉パン)


(大分県から福岡県に入ろうとする列車)

宝珠山駅もそうだが、日田彦山線には気になる駅名が幾つかある。お隣の大行司駅も気になる駅名。行ってみよう。着いた大行司駅のホームは高台にあった。階段下りてところの駅舎は当然無人駅。以前の駅事務所は喫茶店になっている。駅舎を一回りして、コーヒー飲もうかと扉を開けたら、小さいお店ではあったが満員だった。珈琲は諦めて大きな通りに出たら楠の大木に囲まれた神社が見える。明治以前は大行事社と呼ばれていた高木神社と説明がある。楠木は樹齢500年位のようだ。駅のすぐ横の宝珠山小学校には、新しい校舎が建っていたが、古い校舎もそのまま残されていた。


(大行司駅、左上にホーム)


(駅舎の喫茶店)


(高木神社)


(宝珠山小学校から中腹が駅ホーム)

さて、戻ることにする。宝珠山駅ではゴールした参加者が大勢乗ってきた。列車は歩いてきた風景の中を逆に走り、夜明駅に着く。久留米へ向かう普通列車に乗り換え。善導寺駅では善導寺駅コースに参加しゴールした人たちが乗ってきた。夜明駅で満員状態だったのでほとんどの人は座れなかった。満員のまま久留米駅に着く。


(日田彦山線の車窓、窓ガラスは歴年の跡)


(夜明け駅でふゆふいんの森号がすれ違う)


(夜明け駅、乗ってきた日田彦山線の列車、左の2本の線路が久大本線、向こうが久留米方面)


(久留米行の普通列車)

駅のKIOSKでアイスモナカを買う。JR九州ウォーキングに参加してビールを飲めなかった時は、大体アイスモナカを食べる。久留米駅には地元丸永製菓が作っているアイスモナカが置いてある。今日はじがいもモナカ。
地元の美味しいものを食べて、ビールも飲んで、アイスモナカも食べて、大満足で今日のウォーキングを終える。


(久留米駅で、アイスモナカ)

「鉄道敷跡」から「万田坑」に会う【JR九州大牟田駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-20】

2016-11-08 | JR九州ウォーキング
2016年11月3日(木)


(今日のマップ)

JR九州ウォーキング大牟田駅コースに参加。

久しぶりに鹿児島本線で北上する。以前は、玉名駅から長洲駅間で見える雲仙の姿で今日の天気を予感していたが最近はPM2.5の影響かぼんやりした姿が多い。今日もそんな姿をしている。


(列車から雲仙の山並み)

JR大牟田駅は西鉄大牟田駅と隣り合わせ。


(JR大牟田駅。向こうの列車は西鉄大牟田駅ホームの電車)

9時過ぎにスタートし、三池カルタ・歴史資料館に行く。ポルトガルから入ってきた「カルタ」は16世紀に日本では「天正カルタ」と呼ばれ筑後の三池地方(現大牟田市)で作られるようになった。日本では「貝合わせ」が古くからの遊びとしてあった。それが「カルタ」の四角い紙を使った遊びとして今日の「かるた」のようになってきたのは江戸時代の事のようだ。種々のカルタが展示してある。山頭火の句のカルタもあった。館内は撮影禁止。


(道沿いで)


(三池カルタ・歴史資料館)

昭和40 (1965)年、夏の甲子園で優勝した三池工業高校の横を通り、国指定重要文化財「早鐘眼鏡橋」へと歩く。大きな道から少し入ったところの橋を見た瞬間、立派な石橋だなと感じる。「三池藩が延宝2(1674)年に早鐘池の用水を通すために、大牟田川にかけた石造アーチ型水路橋で、この様式ではわが国で一番古いものです。」と説明板にあった。


(三池工業高校)


(早鐘眼鏡橋)

戻った大きな道には、「宮原坑・鉄道敷」の大きな看板がある。そこから鉄道跡横を歩いて、宮原坑に着く。宮原坑は明治31(1898)年に坑外施設が完成したから昭和6(1931)年の閉坑までの歴史がある。その間、囚人を採炭労働に使役させるため近くに三池集治監が置かれたりした。


(宮原坑・鉄道敷看板)


(鉄道敷跡)


(宮原抗)


(第二竪坑巻揚機室)


(第二竪坑櫓)


(第二竪坑巻揚機室)


(第二竪坑巻揚機室内)


(第二竪坑巻揚機室内)

少しまわり道をして、三池炭鉱専用鉄道敷跡を歩く。三池炭鉱専用鉄道は、明治11(1878)年に大牟田川河口の大牟田港と大浦港の間に開通した馬車鉄道が始まり。三池炭鉱専用鉄道本線は、明治23(1890)年から敷設工事が始まり、明治38(1905)年には三池港までの全線が開通した。
線路跡にはゴムマットを敷いて歩きやすいようにしてあったが、前日の雨で水が溜まったりして歩きにくいところもあった。


(道沿いで)


(三池炭鉱専用鉄道敷跡へ)


(三池炭鉱専用鉄道敷跡)


(三池炭鉱専用鉄道敷跡を歩く)


(旧万田駅ホーム)


(県境?)

鉄道は、その後も支線の整備や路線の複線化、蒸気機関車から電気機関車へと変遷し、一時期は地方鉄道として旅客輸送も行われた。駅のホームも残っている。石炭鉱業の衰退とともに縮小され、平成9(1997)年には、三井化学内を走る一部の路線を残して、炭鉱に関わる路線は廃止されている。
線路跡を歩いて行くと、線路跡歩きの一番の見どころ万田坑が見えてくる。


(万田坑)

宮原坑は福岡県大牟田市だが万田坑は熊本県荒尾市になる。歩いてきた線路跡に県境があるはずだがそのような標識は見当たらなかった。坑道は地中深くにあり、県境など関係なく掘られているだろうし、福岡県大牟田市と熊本県荒尾市は同じ炭鉱町として経済圏も一体化している。
この日、万田坑はフェスタが行われており、大勢の人出で賑わっていた。小学生の子どもたちが描いた絵を見せながら、それぞれの場所で説明してくれた。写真はカット。


(万田坑)


(万田坑)


(万田坑)

ウォーキングで万田坑に最初に行ったのは2010年だった。開放され始めの頃だったと思う。その時は事務所の中も見学できた。万田坑は明治35(1902)年から出炭を開始し、平成9(1997)年に閉山したが、閉山して働いていた人々が去って、そのままの姿が机やロッカー、休憩室にあった。映画などの過去を振り返るシーンで、その当時の場面がモノクロで映し出され、ざわざわとした声が聞こえはじめ、人々が現われ、カラーに変わって、過去の場面に変わっていく。そんなのが目の前で起こりそうだったのを覚えている。
今日は、カメラを向けたらどこも人だかりで、その雰囲気はない。観光地、世界遺産「万田坑」に来た感じがある。

炭鉱に来ると、1963(昭和38)年に起きた、三池の三川坑で発生した炭塵による爆発事故を思い出す。死者458名、CO中毒(一酸化炭素中毒)患者839名を出した。中学生の時だった。文化祭だったと思うがカンパ活動をして、新聞社に届けた記憶がある。その後、三川坑で働いていた方と知り合いになったが、その方は、次に坑内に入る番で待機されていた時に爆発が起きた。「炭を掘って運ぶために待機していたんですよ。それが仲間の死体を運んだんですよ。」と、無念の思いを何度も聞いた。CO中毒でいまなお苦しまれている方もおられると思う。
炭鉱は、経済成長を促進する基盤産業で、今の私たちがある。一方で、何度も何度も死者を出す事故をくり返してきた。囚人労働、中国や朝鮮半島の人々の強制労働もあった。光も影も学べる場になって欲しいと思う。


(再び鉄道敷跡へ)


(裏から万田抗)


(鉄道敷跡を歩く)


(旧妙見駅)


(旧妙見駅)


(鉄道敷跡を歩く)


(鉄道敷跡を歩く)


(旧原万田駅。ここまで鉄道敷跡を歩く)


(説明板)

線路跡歩きを終えて、「四山神社」へと歩く。階段を上る。途中から海達公子(かいたつきみこ)詩碑が並べられている文学散歩道を歩いて、高台にある神社へ着く。有明海が一望できるけど、雲仙は霞んでうっすらとしか見えない。


(鉄道敷跡下を歩く)


(荒尾市の歩道)


(旧西原駅を横切る)


(四山神社)


(文学散歩道)


(四山神社)


(雲仙の山並みはかすかに)


(四山神社裏へ出て大牟田の港方面)


(真ん中に万田抗?)


(旧西原駅)


(四山神社を後にする)

下って、大きな直線道路を歩く歩く。この時、同行者がいたから良かったけど、一人で歩くには単調できついと思う。お昼頃で暑い。ようやく左に曲がるところに。鹿児島本線の線路を渡ってまた左に。「宮崎兄弟の生家・資料館」に着く。宮崎兄弟の八郎、民蔵、彌蔵、滔天はこの地で明治維新の前後に生まれ、長兄八郎は自由民権運動家で西南戦争では薩軍に参加し戦死。弟たちは兄の影響を受け、民蔵は「土地復権論」、彌蔵は西欧列強からのアジア解放アジア主義を唱える。滔天は中国で清朝打倒・共和制樹立で戦う孫文らと行動を共にする。孫文は2度、この地を訪れている。資料館では当時の熱気を感じることが出来る。
滔天は夏目漱石の小説「草枕」の那美のモデル卓(つな)の妹・槌(つち)と結婚した。卓・槌姉妹は熊本県小天の自由民権運動家前田案山子の娘。卓も孫文らの支援する活動をおこなった。滔天の長男龍介は弁護士や社会運動の活動家となる。学生時代に筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻柳原白蓮と恋仲になり、後に結婚する。白蓮は世界連邦運動の活動を従事する。


(踏切で)


(宮崎兄弟生家)


(資料館)

ここには何度か来ているので、早々にゴール荒尾駅へ向かう。13時20分頃着く。お昼ご飯を食べるタイミングを失し、食べていない。駅付近をウロウロするが喫茶店ぐらいしかない。コンビニも無い。お菓子屋さんでお菓子を買って腹の足しにした。


(道沿いで)


(荒尾駅)


(お昼?おやつ?)


(荒尾駅)

逆コースだったら大牟田駅付近では食べるところもあったのにと思う。それでは、線路跡を歩いて万田坑を見た時の感動は味わえないとも思う。まだお腹がいっぱいでない帰りの列車の中で複雑な心境になりながら、福岡県の大牟田駅をスタートし、熊本県の荒尾駅にゴールしたウォーキングを終える。