たくぞうのブログ

趣味の文学、映画、音楽などについて書きます。

慌ただしい

2023-03-22 13:52:07 | 映画

3月から4月にかけて、色々と忙しいことが多すぎて、かなり頭おかしくなりそうである。
これは個人的なもの、社会的なものが同時に訪れている。
いくらか世情に機敏な人は、今の社会の大きなうねりに多少の「気の病」に罹ることがあるだろう。
どうも、変化の激しさが、季節の変わり目とも重なって体調がすぐれない。

しかしこれもまた好転するだろうと思う。最近思うのだが、社会的なものと個人的なものは、どこかで繋がっている。その細い糸は、思慮に及ばないものであるが、そういうのを縁と昔の人は言っていたのかも知れない。

不思議なつながりに出会うことが多いということだ。 そして以前から僕の思っていたことがちゃんと実現されていっている、ということも日常的に起こりつつあるのだ。
私は最近そのように世界の不可思議な現象に、その偶然の賜物に驚くばかりである。

私たちは大きな時代の変わり目にいる。いつの時代だったか、足穂の本で読んだと思うのだが、「いつだって時代は過渡期だ」と言う言葉を覚えているが、そう言っても今の時代は、あまりに本気の変化であろう。

私も4月から新しい職場で働くことになります。どうも体調は、頭の奥の方がぼんやりと靄がかかっている気もするが、桜花のうつらとうつらと咲きいくような、そんな心持ちが頭にあるような気がする。

頭山、の落語は案外、こうした日常の季節の変わり目から得たものだったのかもしれませんね。

蠢く、という字にも春の文字がありますが、本当にそんな気配で、地の底から、いろんな生き物なり、わだかまりなり、海なりが、もくもくと湧き上がってくるのがわかりますね。

 


千葉雅也『現代思想入門』を読む

2022-12-10 21:58:37 | 映画

ようやく千葉雅也の『現代思想入門』を買った。前から欲しかった本である。
最近自分の中で、現代思想の波がきている。特にドゥルーズをまた読みかしたいと思っている。学生の頃に少し読んでそのままである。もう少し自分の生活の中から彼の哲学を捉えてみたいと思う。

それから、やはりレヴィナス、スピノザ、というユダヤ系の哲学者も最近また気になったいる。どこかでまたよむだろう。


転職して

2022-08-04 21:39:36 | 映画

ブログを投稿するのをだいぶ怠っていましたが、その間に世界もぼくの生活もだいぶ色々なことがありました。

ぼくは、一ヶ月前ほどに、web系の東京のスタートアップの会社に転職しました。

今は、地元にいながら、リモートで東京の会社で働ける面白い時代ですね。

プログラマーとしてはまだまだ新米ですが、先輩方の教えを吸収して日々成長していきたいですね。

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さて、日本も世界も色々な動きがありますね。

コレからどうなっていくのか心配でもあります。

こう言う時こそ、元気を出すためには、趣味を楽しむのが一番ですね。

また、自分の好きな音楽や文学のことなどやりながら、その都度、ブログにも上げていきたいと思います。

 

ではまた


映画『オールド・ジョイ』を観る

2022-03-06 22:19:24 | 映画

ケリーライカートの『オールドジョイ』を観た。
最近、U-NEXTにたくさん出てきたケリーライカート作品。
『リバーオブグラス』も青春の逃亡劇として頗るよかったが、この作品もとても心に残る良作である。

内容は、昔の旧友と会って、二人で田舎をドライブして、キャンプする話。ただそれだけである。
しかし、田舎で久々にあう人との接し方など、ソレがとても実感のこもっている感じに僕には思えた。というのも、僕にもこうした感情がよく働いたことがあったからだ。

夜になり、二人で焚き火を囲みながら、話をする。
なんでもない会話の中に、時々笑いがあり、懐かしい話もする。
少し無理をして、宇宙論の話などをする。超弦宇理論の話などをして、さらに、宇宙は雫のように落ちていくんだというような独自の見解なども話す。
聞いている方がちょっと、失笑するようなそぶりを見せる。

そういう感情の機微ー、昔あった人と、懐かしみながら、なんとなく気まずい感じを抱きながら、お互いを非難することもなく、しかし距離をとりすぎるわけでもない。

そうしたテンションが張られた中で、二人の旅は続いていく…。

とにかく、ハイキングのシーンなどは、緑が美しい。温泉に入るシーンも、自分がよく友達とやる感じであって、妙に感情移入してしまう。

この温泉の中で、「悲しみは使い古した喜びである」という題名の表現が出てくる。
与謝蕪村の句に、

我が涙古くはあれど泉かな

というのがあるが、なるほどもう昔の友と会っても、そこで流す涙はあの頃のような新鮮な何事にも感動して驚いていた、そのような涙でもないが、しかしソレは昔から変わらない喜びの感情が今でも働いていることである、と。

と言って、二人は別に感傷的であるわけでもない。涙を流すわけでもない。
それが妙に既視感のあるものであった。

この映画は、僕のように、田舎で生まれ育ち、大学を都会に出て、また帰ってきた人間には、そこで昔の友人と遊んだりした人間にはとてもよく理解できる映画のような気がする。

二人の関係が昔のようであることはない。それは時間が経ち過ぎてしまった。ただそれだけのことであると、お互いがお互いの記憶を探りながら、今を紡ごうと時々外れたことを言い合ったりして、また徒らな時を過ごしている…。

なんとなく、杜甫の詩を思い出した。国破れて山河あり…。
田舎の風景というのは、残酷なほど、二人の心情と対照を成して、変わらずにそこにある。
それで、彼らの感じていることも、よく僕らの感じることでもある。

まぁ、僕もこの映画を理解するほどには歳をとったのかもしれない。