たくぞうのブログ

趣味の文学、映画、音楽などについて書きます。

梅の花

2022-03-24 17:23:58 | 日記

梅一輪 一輪ほどの 暖かさ

先週、公園に行くと梅の花が咲いていた。満開ではないかもしれない。

上記の句は芭蕉の弟子、服部嵐雪の句だ。段々と春らしい気候になってきたが、まだちょっと寒いね。
僕の好きな梅を詠んだ句には、芭蕉の

先ず祝え 梅を心の 冬籠

がある。僕が雪国に住んでいるので、この感情は染みるものがある。

他にも、春の句では、漱石の

永き日や 欠伸うつして 別れ行く

も長閑な春の感じが出ていて、好きだ。

それにしても春になるとやっぱり眠い。


映画『オールド・ジョイ』を観る

2022-03-06 22:19:24 | 映画

ケリーライカートの『オールドジョイ』を観た。
最近、U-NEXTにたくさん出てきたケリーライカート作品。
『リバーオブグラス』も青春の逃亡劇として頗るよかったが、この作品もとても心に残る良作である。

内容は、昔の旧友と会って、二人で田舎をドライブして、キャンプする話。ただそれだけである。
しかし、田舎で久々にあう人との接し方など、ソレがとても実感のこもっている感じに僕には思えた。というのも、僕にもこうした感情がよく働いたことがあったからだ。

夜になり、二人で焚き火を囲みながら、話をする。
なんでもない会話の中に、時々笑いがあり、懐かしい話もする。
少し無理をして、宇宙論の話などをする。超弦宇理論の話などをして、さらに、宇宙は雫のように落ちていくんだというような独自の見解なども話す。
聞いている方がちょっと、失笑するようなそぶりを見せる。

そういう感情の機微ー、昔あった人と、懐かしみながら、なんとなく気まずい感じを抱きながら、お互いを非難することもなく、しかし距離をとりすぎるわけでもない。

そうしたテンションが張られた中で、二人の旅は続いていく…。

とにかく、ハイキングのシーンなどは、緑が美しい。温泉に入るシーンも、自分がよく友達とやる感じであって、妙に感情移入してしまう。

この温泉の中で、「悲しみは使い古した喜びである」という題名の表現が出てくる。
与謝蕪村の句に、

我が涙古くはあれど泉かな

というのがあるが、なるほどもう昔の友と会っても、そこで流す涙はあの頃のような新鮮な何事にも感動して驚いていた、そのような涙でもないが、しかしソレは昔から変わらない喜びの感情が今でも働いていることである、と。

と言って、二人は別に感傷的であるわけでもない。涙を流すわけでもない。
それが妙に既視感のあるものであった。

この映画は、僕のように、田舎で生まれ育ち、大学を都会に出て、また帰ってきた人間には、そこで昔の友人と遊んだりした人間にはとてもよく理解できる映画のような気がする。

二人の関係が昔のようであることはない。それは時間が経ち過ぎてしまった。ただそれだけのことであると、お互いがお互いの記憶を探りながら、今を紡ごうと時々外れたことを言い合ったりして、また徒らな時を過ごしている…。

なんとなく、杜甫の詩を思い出した。国破れて山河あり…。
田舎の風景というのは、残酷なほど、二人の心情と対照を成して、変わらずにそこにある。
それで、彼らの感じていることも、よく僕らの感じることでもある。

まぁ、僕もこの映画を理解するほどには歳をとったのかもしれない。

 

 


言葉について

2022-03-03 17:42:27 | 日記

今日、図書館で借りてきた『不滅の哲学 池田晶子』を読んだ。

はじめに、

死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である ー

という池田晶子の書いた言葉の引用があるのだが、なかなかハッとさせらえる文章である。

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自分は小説を書いたり、日々何かしらの文章を書いているが、そのため、言葉というのには人並み以上には敏感かもしれない。
しかしこの言葉というのはいまだよくわからない。

「はじめに言葉ありき」

という聖書の言葉あるが、ここまで大袈裟でなくても、やはり、ロゴスのような原初的な何かが、言葉にはあるような気がする。

イスラーム研究者としても著名な井筒俊彦は、「存在はコトバである」という一節を残しているらしいが、言葉は単に僕が発したり、書いたり、そういう類のものではなく、ましてやコミュニケーションの機能としてのみ働くものでは毛頭ない。そうではなくて、もっと人間の内在的な存在を決定づけるような何かなのだろうか、と私はちょっと思ったりする。

 

僕はできるだけ、文章を書くときは、自分の言葉で語りたい、そう無意識に言い聞かせているような気がする。心掛けている、というのでもないが、やはりできるだけ自分の内側から発せられる言葉を書いていきたいと思うし、それは何か物を書く端くれとしての特権であろうか、とも思う。

 

池田晶子さん、ちょっとこれからも気になる哲学者である。もう少し読まないとな。