多摩爺の「東京ぶらぶら(その11)」
昭和遺産 三鷹の跨線橋 (三鷹市)
亡くなった父が生まれた年(昭和4年)に建設された・・・ 昭和遺産であり、
撮り鉄たちに人気の撮影スポットであり、近隣に住んでいた文豪・太宰治のお気に入りでもあった、
三鷹の跨線橋(高さ約5メートル、長さ約90メートル)が、
大変残念だが、94年の役目を終えて・・・ もうじき撤去工事が始まるらしい。
撤去されるとなると、人の往来は大丈夫かとなるが、
随分前から地下道(人道、自転車道)が、跨線橋とJR三鷹駅の中間辺りに作られており、
そこんとこの心配は、すでにというか・・・ とうの昔に解決していて、
残された課題は、昭和遺産としての価値と、耐震対策を含めた維持費をどう捻出するかだけらしい。
昭和60年に上京して、都心から多摩地区に越してきたのが平成3年(1991年)だったから、
その後、現役をリタイアするまでの約30年は、毎日JR中央線を利用していたので、
JR三鷹駅から西に向かって約500メートルぐらいのところに、
超レトロで、鉄道好きには堪らない・・・ 古びた跨線橋があることは随分前から知っていた。
文豪の太宰治が三鷹に住んでたころは、近隣に高い建物がなかったことから、
跨線橋に上って見渡せば、おそらく武蔵野の風景が一望できる人気スポットだったらしく、
跨線橋からの眺めは、太宰のお気に入りだったという話しもあるようだ。
私は撮り鉄ではないが、亡くなった父が国鉄の職員だったことから、
幼い頃から鉄道に関しては、親しみを持っており、
昭和遺産でありながら、鉄道遺産でもある跨線橋の写真を、
現役をリタイアしたら・・・ いつか撮りたいなと思っていた。
跨線橋に西に、冠雪をいただいた富士山の写真が撮りたいなと思っていたし、
鮮やかなオレンジ色の夕日を背にした・・・ シルエット富嶽も堪んなく美しいだろう。
そんな淡い期待を持ってたが・・・ リタイアと同時にコロナ禍である。
長いことコロナ禍が続き、外出自粛をしていたことから、
跨線橋の写真を撮りたいと、随分前から考えていたことをすっかり忘れていた。
その跨線橋が、老朽化によって維持することが困難になったため、解体され撤去されるらしい。
JRは三鷹市に無償で譲渡すると打診していたらしいが、
耐震強度が不足しており、譲り受けて維持するには・・・ 数十億の改修費用が必要との試算があり、
その費用の捻出を自治体が負うのは厳しく、やむなく解体撤去に至ったらしい。
解体するといっても・・・ 跨線橋の下には、数分おきに上り下りの電車が行き交うJR中央線や、
三鷹駅が始発着となる、JR総武線、東京メトロ東西線の車両基地があることから、
慎重の上にも慎重を期すため、約2年の歳月をかけて行われるらしが、
なんとなく気が急いて、工事が始まる前の先月末、思い切って写真を撮りに出かけることにした。
跨線橋を上ったり降りたりしながら二往復して、撮影スポットを探したが、
困ったことに、全景をそのまま収めることができる撮影スポットが見つからない。
線路横の道路の幅が短くて距離が取れず、車両基地に止められてる電車が邪魔してたりして、
高さ5メートル、長さ90メートルの跨線橋を、端から端まで収める写真を撮るなら、
JR中央線の上空にドローンを飛ばして、撮影するしかなかった。
とはいえ・・・ ドローンは持ってないし、
あったとしても、JRが撮影を許可してくれることもないだろう。
さて、どうするだが、跨線橋を二往復しながら見つけた撮影スポットは、
北口方面の階段を降りたところで見つけた・・・ アパートの駐車場だった。
車両基地の端っこに止めてあった、JR総武線の黄色いラインが入った電車が邪魔になるし、
全景を収めるために、下がれるところまで下がると、日陰でファインダーが暗くなり、
いささか難儀をしたが・・・ なんとか満足できる、良い写真が撮れたと思う。
太宰のお気に入りであり、地元の方々に愛された三鷹跨線橋の雄姿が見れるのも、
あと数日か、数ヶ月、なんとか残して欲しいと思いもするが、
地震大国のこの国で、耐震強度を持ち出されたら・・・ 残念だが解体は致し方ないのだろう。
いまを生きる人たちからしたら、由来なり、金額換算された価値なりが表示されてなければ、
其処彼処に錆びが出ている、どうでも良い草臥れた鉄の塊である。
とはいえ・・・ 視点を変えて見れば「あれはね・・・ 。」なんて、
在りし日の昭和の遺産を、令和を生きる孫たちに語り、伝えなくちゃならない重要な役目が、
我々の世代に課せられていると思うが・・・ 如何なものだろうか?
時間をかけて解体すると云っても、
時間が経てば・・・ その場所からなくなってしまうのである。
いまさら、なにを言っても詮ないことだが、なんとかならなかったのだろうか?
追伸
20年ぶりぐらいに三鷹駅を降りてビックリ・・・ 驚くほど綺麗に再開発されていて、
駅前ロータリーは広いし、大きな通りに沿って並ぶ商店街にも活気があった。
現役のころの三鷹駅は、快速から特別快速に乗り換えるため、一旦下車するだけの駅で、
駅から外に出ることがなかったが、少し歩いてみると、新たな出会いと発見があるから面白い。
特に・・・ お昼に食べたスープ餃子が、チョー絶品で、
食べログの「餃子100名店」だったので、近いうちに食レポを書いてみようと思う。
太宰治も渡った跨線橋、橋そのものはネットが張られていて、落ちないようになってるが、
階段のネットが膝までしかなく、ネットと手すりの間があいてるので、
幼児が渡るときは、大人が傍に付いてないと危険かもしれない。
跨線橋の上から西を向いて車両基地をパチリ、お昼だったんで陽差しが強すぎて見えなかったが、
太宰治が住んでたころは、空気も澄んでいて武蔵野の風景が広がっていたと思われる。
跨線橋の上から東を向いて、三鷹駅南口方面をパチリ
高いビルに隠れているが、この先は方角的に見て新宿や渋谷辺りだと思うが・・・ どうだろう?
スープ餃子の食レポ楽しみにしています。
残して欲しい建物は多くても、地震大国だから、と仰る残念さ、私もわかりますし、同感です。
太宰のお話で紹介して頂けて、楽しく拝読致しました。( ^_^)
電車好きの方にはたまらない場所かと思います。
10年くらい前に、富士山を隠すように高層マンションが出来てしまいました。
通勤路でもあり、懐かし跨線橋の話をありがとうございます。
古い物を大事にしなきゃと思いますが、耐震強度のことを云われると、さすがに納得せざる得ません。
餃子はかなり前にテレビで見たことがあった店で、店名が分からなかったのですが、
ケータイで「三鷹・餃子」で検索すると直ぐに分かりました。
100名店だけに、なかなかの美味というより、メッチャ美味のお店でした。
三鷹の前後の駅は、けっこうな頻度で降りてましたが、大きな駅なのに三鷹はいつも素通りでした。
落ち着いた雰囲気の良い町に住まわれていたとは、羨ましい限りです。