多摩爺の「時のつれづれ(卯月の25)」
曖昧な処分が品格を落とす。(アカデミー賞の授賞式で起こったトラブル)
この国で、もしも同じようなことが起こったら、おそらく喧嘩両成敗だったと思う。
今年のアカデミー賞の授賞式で起こったハプニングに、
同賞を主催する映画芸術科学アカデミーは・・・ 当事者に対して処分を発表した。
なお、当事者は既に反省を表明するとともに、
映画芸術科学アカデミーからの退会を届け出たことが明らかになっている。
そのハプニングは、先月末にアメリカ・ロサンゼルス行われた第94回アカデミー賞の授賞式で、
主演男優賞を受賞した俳優の妻のヘアスタイルを、
プレゼンターを務めたコメディアンが、他の映画を引き合いにして揶揄したことに対し、
妻を侮辱されたと思った俳優が激怒し・・・ コメディアンを平手打ちにしたことから始まっている。
俳優の妻は坊主頭だが、かなり前から脱毛症を患っていることを公表しており、
女性にとって髪がないということが、どれだけ辛いことか、
プレゼンターが、それを理解していたのであれば、
女性のヘアスタイルを揶揄(侮辱)することは、明らかに言葉の暴力である。
しかし、アメリカでは・・・ 事の発端となった、言葉の暴力よりも、
それが引き金になって、手を挙げた一方が非難されるのだから、
日本人の感覚からしたら、申し訳ないが理解できない。
日本では・・・ まず、どちらが仕掛けたことなのかを問う。
それが言葉の暴力なら、言い出しっぺはだれなのか、それを問うことから事態の収拾を図る。
しかし、アメリカでは、どちらが仕掛けたかではなくて、
どちらが先に手を出したのか、それを問うことが一般的な考え方らしい。
「ブラック・ライブズ・マター」などの、人種差別に対しては大きな声を上げる国なのに、
言葉による身体への差別的な暴力に対しては・・・ 驚くほど寛容である。
言葉の暴力は、名誉に関わるだけのことであって、心は傷つくが、体は傷つかない。
しかし、手を挙げるような暴力は、心も体も傷ついてしまうからだろうか?
どう考えても、その判断基準が・・・ 理解できない。
日本では「雉(きじ)も鳴かずば撃たれまい。」という諺があるように、
手を挙げることが正しいかどうかは別にして、鳴いた雉(きじ)は撃たれるのである。
このことを、日本人は戒めとして捉えるが、
おそらくアメリカでは・・・ ナンセンス(なぜ撃つんだ?)と捉えるのだろう。
日本人の感覚からしたら、手を挙げることよりも、
もっと重要なのは・・・ 「銃社会をどうするか?」であって、
それに手をつけないことの方が、日本人の感覚としたら、大大大問題だと思うがどうだろう?
そして・・・ 同アカデミーが下した処分が、笑えるほど間が抜けてることが分った。
これからも、アカデミー賞にノミネートされることは認めるが、
授賞式への出席は・・・ 今後10年間許さないというのだから笑ってしまう。
もしも、もしもだが、当該俳優が受賞してしまったら、
いったい、どうなるのだろうか?
オスカー像は宅配で送るので、自宅で待てとでもいうのだろうか?
まったくもって、この処分の意図するところが分らない。
授賞式を含め、同アカデミーの名誉を傷つけられたから、処分すると言うであれば、
今後10年間、ノミネートからも排除するでなければ・・・ 筋が通らないし、
曖昧な処分を下しては、同アカデミーの品格を落とすだけではなかろうか?
取りあえず・・・ 同アカデミーの俳優に対する処分は下ったが、
プレゼンターを務めて、揶揄(侮辱)したコメディアンは・・・ 公には沈黙を続けている。
彼のこういった態度は、日本人の感覚からしたら、
保身のために、風向きと、風力を見極めているとしか思えない。
まっ・・・ コロナで多くの人々が亡くなり、
ウクライナでは罪のない人々が、なん人も殺害されていることを思えば、
この程度のことは、どうでも良いことで・・・ 騒ぐようなことではないのかもしれない。
私もそう思いますが、あの国では思考回路のスイッチが、我が国とは違うところにあるようです。
かく言う、くちこも、くちこのモノサシでそれを測っているわけで・・・
この違いは、どうしようもないのかも。
そうでなければ、このような対応で終わらなかったでしょうし。
国が違えば価値観も違いますから、必然的にモノサシも違うのでしょう。
命に関わることにならなかっただけでも、良しとすべきなのかもしれませんね。