昨日のブログの最後の方で紹介した「義経元服の地・鏡の宿」から500メートルほど離れた先に「平家終焉の地」があります。昨日までは竜王町の紹介でしたが、ここからは野洲(やす)市になります。ちょうど境界線を挟んで、この二つがあります。
参加メンバーが奥へと入っていきます。
上の説明書きに書いてあるように、宗盛父子を処刑した後、義経は、その池で首を洗っています。
「首洗い池」とも「かわず鳴かずの池」とも呼ばれています。
平家終焉の地は、壇ノ浦と思われていますが、本当の意味での平家の終わりは、義経が首を刎ねたとされる平宗盛、清宗父子の胴塚があるここではないでしょうか。
この胴塚は、今は風雨にさらされ小さくなっていますが、かつてはもっと大きなものであったと言われています。
つづいて、野洲市北(地元民は北村と呼んでいる)にある北村季吟句碑を紹介いたします。
北村季吟…江戸時代前期の歌人・俳人・国文学者です。この北村という集落の出身です。
『土佐日記』『伊勢物語拾穂抄』『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわしました。
ちなみに、あの松尾芭蕉を指導した先生になります。意外と知られていませんので、ぜひ覚えておいてほしいと思います。
「花も見つ郭公(ほととぎす)をもまち出でつこの世後の世おもふ事なき」の辞世の一首が有名です。
この先には妓王屋敷跡などがあります。
バスを降りて、みんなで周辺を散策しました。いたる所に色あざやかな「おいで野洲」の幟がありました。
みなさんも、ぜひ野洲においでやす(来てください)!
明日は、祇王寺を紹介したしますのでお楽しみに…
5月にも書きましたが、赤間神宮の事について
書いたのですが、そこには、耳なし芳一の関連や
平家のお墓があります。
赤間神宮があった場所は
もともとお寺だったので『お墓』なわけです。
壇ノ浦から逃げる事ができた
平家の残党が、かの地で最期を迎える。
といった感じなのでしょうかね?
おっしゃるとおりです(笑)
まさに、最後の最期が野洲だったということです。
明日は祇王寺を紹介いたしますので、よろしくお願いいたします。
四国愛媛には、平家谷という
平家にまつわるところがあります
壇ノ浦のことはさすがに知っておりますが、
こちらのことはさっぱり。
まずは自分の近くにも、史跡とかないのかしら、
と、急に思い始めてきました…
(*^.^*)
一つ勉強になりました。
こまめに県や市、行政のHPをチェックしたらどうでしょうか…けっこう
内の、お墓がある寺は、歯長寺(しちょうじ)というのですが、ここが、比叡山の直轄だったそうで、町史には、昔の地名を「ゆずりは」と言って、平家のオチュウド、だと書いてある。
みんな、脚が短くて、大方の人のお鼻は上に向いて居ます。ホント!
明日、楽しみ。
まったくそのとおりです(笑)
教育委員会の方も、そのような解説をしていました。
明日もよろしくお願いいたします。
名前検索してたら出てきたのですが、京大病院の小児科の平家先生が、その方のようです。
下の名も同じで、風貌も、昔より、やや、ふっくらではありましたが・・・当人の筈だ。
隣クラスの優秀な人だったから、廊下で見かけてただけですけど。
いやぁ、世間ってぇ~ですね。
それはスゴイですね~
いつも貴重な情報をありがとうございます!