昔、子供の頃、両親の世界というより私は母親の世界が全てで正しいものだと思っていた
それはもちろん無意識によその事は知らないし、それが幸せだと思って疑いもしなかった
それに不幸では無かった、けど、世界は狭かったんでしょう
嫌な事があっても自分の我がままだと思っていたし
「あんたが~~だからだ!」と言われればそうなんだと自分に言い聞かせていた
一般的な話で、子供の頃に親に何かしたい事や欲しいものをせがむ時に、「みんなも持ってる」とか、「誰誰ちゃんとこも買ってもらったって!」「みんなのお母さんは良いって言ってたで」とか、子供達もオーバーに訴えていた時
なんて話の時に「よそはよそ!うちはうち!」なんてお母さんに言われたりして
私もそんな事で、私のお母さんがいう事に従わないといけないと無意識に自分に擦り込んでいたりして不満を溜めていたかもしれない (^_^;)
その私の母親は、母自体が自己肯定感低い人だったんでしょう(大人になってから母を理解したからですが)
母もまた祖母にそういう風に育てられていたみたいですから
そうすると、自分の事を認めたり理解しないで人の事ばかり言うんですよね
あの人はどうのこうの、だから可哀想だとか、この人はこうだからこうなるねん…とか
そう言われるとそうなんだと思い込んで育っていました
そうしているうちに自分より親や人の言う事が正しいんだと思うようにも無意識のうちになって行っていました
もちろん自分の中に好きな物とか、事って言うのは持っていましたが、言うと間違っていると思い込んでたので声に出せない性格になっていました
なので、学生の時も大人になってからでも先に人に言われる事の方が脳に入ってくる事が早かったんです
人の噂話でもそうです、人が人の事をいう事もそうでした
それを信じてしまい、自分の意見はどんどん自分で消していくし、言ったとしても否定されるなら言わない方が良いと思ったり、考えなくなったりしました
そうすると、他の人に言われた事が先入観として留まってしまい判断を間違う事が多くなったり、先入観から人と接する事が難しくなったりしました
元々が人見知りだったし、人の中身が分からなかったら怖かったし、
緊張したり、おどおどしたリ、顔が強張ったり、変に可哀想だと思い込んだり
周りの噂話に翻弄されていた時代もありました
人があの人はこうだよって言うと、そうなんだと確認もしないで悪い事を信じて話ずらくなってしまったり
あそこの店は全然美味しくないよって言われれば行きたくなくなったり
ここでこうやるとこんな事になるよって言われれば絶対やらない方が良いわと思い込んだり
自分でやってみるとか、調べてみるとかをしないで、そのまま人に伝えたりもしてしまっていました
ある時からは自分を好きになろうとか、自分を信じようとしてからは人と自分は違うんだと思うようになり
自分で試してみようって思うようになったりした
自分の事に向き合い、自分の事を知り、自分の意見が言えるようになってからはそんな人見知りも先入観も無くなりました
人に自分の意見の方が正しいと言える人の方が信じられないというか、もっと客観的に人の話を聞くようになりました
自分も尊重するようになると人の事も尊重したりも出来るように
ましてや人の個性はそれぞれだという事が結婚後にいろいろ知る事になったからだと思います
障害者と健常者にしても、男女にしても自分の身近に出逢う事で自分の意思で判断できるようになったし、
親の時代というか、母の世界はそういうところも狭かったので、私は凄く先入観と偏見すらもあったように思います
まあそうなるには長い年月がかかりましたが、25才から40才も越えたぐらいまでが脳のアップデートが激しかったです
そんな先入観でしか見れなかった自分の未熟さが悔しかった時期もありましたし
人付き合いが損したような気にもなったり
それでも後に気づいた事の方が嬉しかったので、先入観だけは無い様にしようと余計に客観性を磨く方に力が入りました
自分の視点を持とうとするようになったことは成長かなと
それに、先入観を持たないで自分の意見を持とうと思うと、人の意見も聞けるようになった事に繫がったりして
自分にはその昔の擦り込みも必要な過程だったんだとプラスに変換できました
先入観は必要なしです (^_^)
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