
産まれた時からそんな繰り返しが起こっていて、それも信じ込んでいて…
誰が悪い訳ではない魂の体験の世界だからだと思っています (^.^)
いつまでも魂の体験だと気づかずに、魂の存在にも気づかずに、目の前の出来事に何も気づかずに取り組んでいるだけだと繰り返しのループからは逃れられません
その真実や正解をだんだんと目の前の相手や他者に気づかせてもらうという話でもありました
その、相手や他者に教えてもらうというのも関わりあって体験があって事実の中で感情や心が関わり合っているからこそ何か自分に引っかかる事なんだと…。
私で言うと、親に愛されもして守られたからだろう、それがたとえ束縛や過保護や過干渉だとしても、だからこそ絶対的に正しいと思い込んでいたモノでした
だから幼少期も思春期も…他の相手すらも正しいと思い込んでいたというのが根底にあった
だから自分にも自信が持てなかったし、正しい人に頼る事が正解だと思い込んでもいた
人に合わせる、人の言う事をきくという
昔は親に口ごたえをしたら怒られていましたもんね
極力口ごたえをせずに、頼まれ事などは面倒くさいなという顔したり、ふくれっ面していたんでしょうね
そんな態度も叱られていましたから
いかなる感情も出せない環境であったかもしれません
それが当たり前の世界、虚像だとも気づかず、外の世界も知ろうとせずです
そんな頃は心に引っかかったとしても気づかないか、押さえ込んでいたか、我慢していたようです
死んでやるって思った事も何度もあります
今ほどそんな世界がネットで検索できる事でも無かったので方法も分からず怖い世界だったのでそんな勇気もなく、悶々としていたかな (^^;)
そんな時でも親が正しいと思っていたので疑いもせず何が何だか分からず、反抗も出来ず「なんでや!なんでや!」と思い込む事ばかりでした
結局は自分の我がままだと思ってたし、そんな頃の悩みは些細な事だったんでしょう
自分の中に溜め込む癖となっていましたし、それが正解だと思っていました
まあ物質的には恵まれていたし、さほど物がない時代でもあったし、物が無くても遊べる時代でもありましたし、楽しんでいる事も多かったから心の隙間にまで及ばなかったんでしょう
いつでも友達とかご近所の家に上がり込んでいました
そんな事で始まっている人生でも自分にとっては幸せなんだと思っていました…
もっともっと肉体的にも精神的にも辛い人や苦しい人が多くいましたから
それも母親からの擦り込みのひとつでしたが…「あんな人は可哀想だ」とか「あんな人みたいになったらあかん」とか、それこそ生活的とか身体的とか精神的に病気だとか不自由な人の事を可哀想だとか憐れむとかの気持ちを擦り込んでいました
なんか母親の険しい顔しか覚えていません
唯一大阪お馴染みのお笑い番組が大好きで、一人ごっこ遊びが好きで、自分の世界に入り込んでいたりして、そして暇があると縁側で一日中歌詞本見ながら大きな声で歌っていました
嘘の世界での現実逃避だったのかは分かりませんが、そうやって心の中に色んな世界を溜めたり描いたりしていたんでしょう
そんな幼い頃からそのせいか潔癖症で人見知りにもなって行きましたが…今こうして振り返ると、自分の人生の流れがありありと見えて来るもんですね
幸い友達がいなかったわけじゃないからホント良かったです (^.^)
友達だけはいつの頃も結構必ずいました
その中には仲良しの友達も普通の付き合いの子もいたので、楽しく過ごせていた事もあり、悩む事も無かったです
一度だけいじめられかけた事がありました、背が高かったんで席が後ろだたんですが視力が悪くて黒板の字があまり見えなかったんです
隣りの子に見せてって頼んでたら前の席の女子が「見せたらんとき!」って手を出して来たんです
その時に閃きでしょうか、「あっ!いじめられたらアカン!強くなれ!」ってふと思ったんです
やり返したわけじゃなく、人に頼ったらアカンって思ったんです
人間関係って言うのは、親子の絆からもですが幼い時から始まっていたんですね
その友達とは喧嘩にもならず後にも仲良くしていました
大人になって出遭った時にも懐かしく仲いい友達としての認識です、付き合いは終わりましたが、それで良かったんでしょう (^.^)
こんな些細な事でも映像で今でも残っています
些細な事でも私には重要だったんでしょうね
閃きって自分を助けてくれる、今思うと導きでもあったんでしょうね
そして感情の跡形はなく、ただの事実で終われているという事
それに直ぐに閃きにも気づけていた自分もいたんだ…と、大人になってこうやって思い出し、後に思った事でもあります
こうやって書き出してみると…
母親の世界の擦り込みと、友達との楽しい世界を同時に歩んでいたんですね
昔は「他所はよそ!うちはうち」という事も当たり前に言われていたので、物理的にも精神的にも他の友達のお家と自分の環境を比べる事も無かったんですね
それも幸いな事だったのかも知れませんが家庭という世界が本当の世界だと思い込んでいたんですね
こんな頃の心に引っかかる事は楽しい事で消化していたんでしょうか
その全てが親だったんでしょうが、正しいものへのぶつけ方も知りませんでした
なんせ子供の頃から怖がりで気は優しかったのか争いが苦手でしたし、常に驚いてビックリして大きな体やのに小さくなってた(大きい図体してってよく母親に言われてた)、大小のどんな音にも声にも動きにも敏感に反応していました、怒られるのも怖かった、ひそひそ話てる人とかも、雷も、得体の知れないもの、汚いモノ、動物、何でもかんでも怖かったです
こんな頃の引っかかり事は、「怖い事」「恐れ」「争い」こんな事でした
楽しい中にも押さえ込まれた感情、緊張の連続…今ならHSPとかの様にこんな事でも病名がつくんだろうなと思ったりする事も
こんな事が心の引っかかり事だと思うまではずっと気づかなかったし、あぁ~やっと引っかかってる異物だと思って気づき始めて認識された事でもあると思います
体験の数により無意識に克服されていく事もあるし、
認識して初めて次のフェーズに入る場合もある
そして克服された後に、こうやって思い起こし、全ての本質を理解しだすと大きな本質まで消化されていくので、もう体験として繰り返さなくてもいいようになり次のステージへ進むんでしょう ヽ(^。^)ノ
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