御真言だって使い方によりますよという話に触れていました。
「困った時の神頼み」とよく言いますが…
御真言って…
恐怖心に掻き立てられた時や、
周りの空気が悪く感じ磁場を清める時、
邪気を祓う時
それだけでは無く
もちろん神様仏様の前で祈る時に唱えますよね
どんな時でも神様や仏様に敬意を払いながら心を近づけながら唱えます
咄嗟の時に御真言を唱え、お力を借りたとしても
その時には無心でないといけません。
100%無心で無意識になる…です。
最近ではスピリチュアルの世界もメジャーの様になって
TVで作法とかが取り上げられたりして
神社仏閣へ行き、神様や仏様に向かう時も
願い事はしないで日ごろの感謝の気持ちで祈りましょうと教えておられます
それもその通りで願い事は単なるエゴでしかありません
我がの心でもある
でもそうなるように宣誓や宣言するのは構わないと思います
その様に努力するという気持ちですから…。
体験から真理へ繫がる方法です
それか、御真言や経典の真理を学び、
その心も学び
日々近づけるように一体になれるように努力する事が一番です
なので、無心と言っても「心」を失くしたり消したりするという意味ではありません
我の心を払い、大我の心にある
身勝手な肉体行動のみの心ではなく心を伴う行動体験
普段・日常から神様や仏様に近づくために一体化になるために
邪心を手放したり解放したりしながら努めておく
そんな自分の邪気や邪念や日常の心の本質を知り、認め
クリアにして行くのが日ごろの体験
そして日ごろの体験で心がクリアになって神社や寺院へ行く
そして御真言を唱えながら一体化になる
邪気や邪念が残っていると
そこの神様や仏様のパワーに弾き飛ばされるかもしれないし、
肉体が耐えれない程、凄いパワーのエネルギーが入って来て後に疲れる場合もある
それか、何の効力も効果も無くただの観光って感じで終わる場合もある
もちろん反対に…そんな神社や寺院だってある…それはただの建物
そこで守っている人間の意識の世界となってしまっている場合もあるからです
見極める力をつけて行く必要もあるでしょう
それにも普段からの心磨きです
真理って言うのは実際に見えません
経典も御真言も…書いてあるもので唱えるものだけど
真理はその唱えた先に、また、学んだ先に在るもの
そんな事を唱える時に認識しながらお祈りする
そうするといずれ真理に導かれたり
一体化となり神秘体験と遭遇するんだと…。
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