昨日までは経典の事に触れていました
東大寺の盧舎那仏に会いに行ったので !(^^)!
頭は盧舎那仏でいっぱいに (^.^)
帰ってくると「あ~かな?こ~かな?」って
いろんな事が頭を巡ります
単なる自問自答ですが…
修学旅行や野外活動みたいなもんですから復習もありでしょう (^.^)
行った時には感覚を体感してきて
その後に真理に落とし込む…みたいな (^^;)
それで、経典ってところに気が行ってました。
東大寺の盧舎那仏にも華厳経ってあるんですよ。
大日如来さんでもあって、宇宙の真理でもあって、
お釈迦様の教えでもある
先にも言ったけど内容は知りません。
何でもですが、真理を求め成長を求めていると
きっとたどり着くという事も
この大仏さんが教えてくれました
実際に私も体験をして一つの結果を得てここへ訪れました
その時にその結果がお釈迦様の教えだったという事に驚きました
「全ては一つの中に、一つは全て」という
お釈迦様の教えと答え合わせをする事になったのです
その時の体験がないとその気づきも学びも無かったという事です
でも答えを出したからと言って終わりじゃない
そこからその真理を日常に活かして行かないといけないと気づきました
よく御真言を神社や寺院、仏像様の前で唱えますよね
そして普段にも活用します
この御真言は経典を簡単に略したといっても良い
凄くパワーのある有難い言葉です
その短いマントラに何冊にもなる経典が込められている
その真理を概念だけも理解していないとイメージ出来ませんよね
救ってもらったり依存したりする言葉ではありません
その真理に自分自身も近づくようにならないといけません
そして一体化になるように
恐怖心からその御真言が守ってくれるから…とか
願いが叶うから…とか
だけではない、心が近づき、そのパワーと一体化になり
そのパワーを使わせてもらうという
恐怖心からその御真言を使う時
地場の空気が悪いと浄化するために使う時
願いを込める時
そんな咄嗟に使わせてもらったとしても
後にそれを使う時の自分と向き合わないと
その御真言と一体化にはなれません
自分のエゴだけでその御真言を使うのは
その神様仏様にも
その地場やその時の対象物にも失礼でしょう
ただ自分に合わないだけで勝手に自分の意識を押し付けるのもどうでしょうね
まあ昔で言えば
憑依霊や地縛霊、幽霊やお化けと言われるものにだって
思いや考えや意識が在るんですから
見えている目の前の人間か、見えない霊かの違いです
嫌な場所、嫌な人と思うなら静かに退散すれば良いでしょうね
こんな時にも自分が何に対して恐怖なのか、
どうしてそれが恐怖だと決めつけるのか
それに対する概念を学ばないと
自分の考えがエゴとなってしまう場合があると思います
そこに対して自分の感情や客観的に向き合って初めて
その御真言のパワーと一体化するんじゃないのかなと
神社や寺院で御真言唱える時、お経を読む時にも
無心になり唱えるけれど
心はこちらから近づき、尊敬の念でお祈りする
そしてその前後にどんな意識なのかを勉強する方が良いのではと思います (^.^)
私も自分のマントラで昔に教わった「アイラッキーミカン」
「愛・楽・喜・三つの感で感激感謝感動」
この言葉を唱えます
それと宇宙の波長の「キリクキリリク」
この世の最高の波動「オンケンバヤソワカ」
これも使わせていただきます
その時にも自分が光ってるイメージをしながらただただ光る
そこには自分の意思は要りません無心です
そうやって御真言や経典を日常に活用し、
少しでも自分の心を神様や仏様、宇宙意識と一体化するという事です (^.^)
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