「筋を通す」という言葉も昔からよく使われていましたね
私も子育ての時に親としても意見がブレないように一本筋を通そうとしていました
その時にはその筋が正解か間違いかは分からなかったけど、自分としての筋です
こっちでこんな事言ってるのに、あっちでは違う事言うとか、こんな事で叱っているのに自分がやってしまうとか、こんな事は許すのにこんな事は駄目だというとか、いろいろありますが…
一番に子供が惑わないようにと心がけていました
それは間違った答えだったかも知れないけど、そうしていました
中にはもうそろそろ許しても良い事だったとしても頑なになった事もあります
門限とかでもそうです (^^;)
そこには子供の安全とかもだけど「守らないといけない」という事
見守るもそうだけど、最初の約束を守るという事もです、他にもですが (^^;)
そのうちに私自身もその本質をどんどん考える事になって
本質さえとらえていればそれに付随する事はどって事ないように思えてきました
子供との関わりや繋がりでも自分の中では食育だとか体を育てる事が精神も育てられて母子との絆にもなると思えば、後は子供を信じるだけだと思えるようになったり…。
その自分の筋を考えるのに食育の事を考えたりして、その概念を考えるようになったからだと思います
その「筋を通す」の筋が、哲学であり、宗教であり、光柱でもあるのかなと思います
筋を通していくほど付随するものがいらなくなり手放し、でも吸収もしていき太くなり、自分のものになって行くので人に要らぬ影響を与えなくなり、透明の光柱になって行く
余談で、アカン話やけど、ある意味昔の反社の世界の義理人情の世界なんかはメチャ筋取ってたかもしれませんね…あの世界の中だけですけど。
まあ自分の中だけでも自分の筋が通れば自分の哲学も積みあがって行くんでしょう
それには本質に向かい、付随したものが無くなって行くプロセスも必要だけど… (^.^)
自由意志をもって筋を通していく
それが自由意識となり感染して広がって行くのかなって思います
良い感染ですね !(^^)!
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